ようするに、親切にするという場合の、親切というのは、親切にしてやるほうの個人にとって、そんなには負担がないことなのである。そして、この負担に関して、ちゃんと、「見積もり」を出しているのである。頭のなかで、見積もりをしている。だから、「人に親切にするとしあわせになる」と言う場合の、「親切」というのも、見積もりの範囲内の親切になる。見積もりの範囲外の親切をしてしまうと、不幸になる確率があがる。どうしてかというと、継続的に「それ」をすることになると、負担がかかるからだ。「人に親切にするとしあわせになる」と言う場合の、「親切」というものは、ちゃんと、その場限りで、負担にならないものに限られているのである。そして、「自分は親切な人だ」とか「自分はいいことをした」とか思えるような親切なのだ。こういう親切は、大きな問題をかえるような親切ではない。ようするに、人間が問題を抱えている場合、その問題が大きければ大きいほど「人に親切にするとしあわせになる」と言う人たちからは、親切にされないということになる。大きな問題を解決するような「親切」をされる確率は小さい。悪い条件によって、大きな問題を抱えている個人は、大きな問題を解決するような「親切」をされることはなく、「自己責任だ」という言葉を投げかけられるようになるのである。
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もうひとつだけ言っておこう。高齢者の女性が、荷物を持って歩いているとする。この人の荷物を持ってあげることは、親切な行為だと分類される。しかし、高齢者の女性と言っても、人それぞれだ。別に「荷物をほかの人にもってもらいたい」と思っている人ばかりだとは限らない。けど、「人に親切にすると、しあわせになる」と言っている人は、筋骨隆々な人の「荷物を持ってあげよう」とは思わないのである。だから、親切にしてあげようと思っている側に、最初から、選別意識がある。こまっているように見える」必要があるのだ。
ぼくが気にすることは、実はもう一つある。かりに、ぼくが、高齢者の荷物を持ってあげることを、高齢者に提案したとする。そうしたら、高齢者が、承諾したとする。その結果、ぼくが、荷物を持ってあげて、その場面は、それで終了したとする。そのあと、別の場面で、その高齢者が荷物を持って歩いていたとする。そうしたら、ぼくではない人が、高齢者の荷物を持ってあげることを、高齢者に提案したとする。その高齢者は、ぼくのときは、安全だったので、その記憶をもとに、その人(ぼくではない人)にも頼んだとする。そうしたら、その人(ぼくではない人)が荷物を持ち去ったとする。その場合、ぼくには、悪気がないけど、最初のケースで安全だったから、次のケースでも安全だろうという見積もりを(高齢者)に与えたことになる。これは、投資系詐欺とおなじ構造になってしまう。投資系詐欺の場合、最初は、ちゃんとおカネが支払われるのである。おカネというのは、正規の配当という意味だ。けど、詐欺の場合は、これは、最初に安心感を与えるために、(もともと、カネを出した人)のカネをかえしているだけにすぎない。あるいは、別の人のカネを、その人に「正規配当」と偽って、配っているだけだ。だから、利益にはなっていないのである。こういう場合、一回目が大乗だったから、二回目も大丈夫だとは、限らない。
実際に、高齢者の荷物を持ち逃げしてしまう人がいるのだから、高齢者は、荷物を持ち逃げされたくない場合は、「ことわる」必要が出てくる。で、まあ、これを、親切にするつもりで、荷物を持ってあげましょうかと提案した人が、どうとらえるかの問題もある。
荷物を持ってあげるということですら、いろいろな場合が考えられる。いま説明したケースだと、どっちも、「知らない人」の荷物を持ってあげるケースなのである。「自分のおばあちゃん」の荷物を持ってあげる場合は、またちがう意味合いが出てくる。
「人に親切にすると、しあわせになる」と言っている人は、いつも、うまくいくことだけを考えて、そう言っている。人に親切にしてあげようと思ったから、提案したということが、トラブルにつながることは、考えていない。ともかく、「人に親切にすると、しあわせになる」と言っている人は、想定している範囲が狭いのである。「人に親切にすると、しあわせになる」と言っている人たちの、「親切行為」というものが、案外、狭い範囲の「親切行為」に限られているということは、認識しておかなければならない。
言い方としては、 「人に親切にすると、しあわせになる」という文は、「XをすればYになる」という一〇〇%構文の文になる。ところが、「親切にする」というのが、問題なのだ。X(人に親切にするということ)の範囲は、理論的には無限だ。ところが、実際の場面では、無意識的に「親切行為」が選ばれている。親切にする側の、「親切行為」は、実際には、狭い範囲の親切行為なのだけど、「XをすればYになる」という一〇〇%構文の文になるので、親切行為の範囲が無限大になる。こういうところにも、理論?と現実のズレがある。
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人に親切にするということの範囲は、無限だと書いたけど、疑問を持つ人もいるだろう。たとえば、人に不親切にするということを考えると、人に親切にするということの範囲は無限ではないのではないかと思うかもしれない。 人に親切にするということの範囲」も無限だし、「人に不親切にするということの範囲」も無限なのである。