「人に親切にしましょう」というときに語られる親切の内容は、決まっているのだ。
「ちょっとした親切」「小さな親切」ということになっている。
ようするに、「自分が快感を感じられるような親切」なのである。基本的には、自分にとって、ものすごく負担になるようなことは、最初から、「親切行為」から除外されているのである。
親切にするという場合、問題なのは、相手の要求なのである。
相手の要求がどのようなレベルのものかということを、最初に推し量って、親切にするかどうかを決めているのである。
自分にとってものすごく負担があることは、「人に親切にしましょう」と言っている人も、人にやってあげないのである。
それどこか、ほんとうに親切な人が、自分にとってものすごく負担があることをして、つぶれた場合は、「人に親切にするとしあわせになる」と言っているような人は、その人(親切心でつぶれてしまった人)のことを罵るのである。ぼくの観察の範囲で言うと、そういうことが言える。
そして、バカにして「すべては自己責任だ」と言うのである。ぼくの観察の範囲で言うと、そういうことが言える。
たとえば、AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんが、こまっていたとする。AさんがBさんに助けを求めたとする。ようするに、AさんがBさんに要求をしたということだ。Bさんが人に親切にする人なら、Aさんの要求に応じるということになる。
人に親切にすると、運があがって、自分がしあわせになるからだ。
ようするに、Bさんは、Aさんの要求にこたえてあげることによって、しあわせになれるのである。
あるいは、Bさんは、Aさんの要求にこたえてあげることによって、運があがるのである。
しかし、どの程度の負担が、どの程度の期間、続くのかということが問題になる。たとえば、Aさんにカネがなく、Aさんの介護をBさんがするようになったとする。
Aさんの金銭的な負担を、Bさんが肩代わりをして、なおかつ、BさんがAさんの介護をするというようなことについて考えてみよう。
この場合、たしかに、Bさんは、Aさんに親切にしたということになる。しかし、金銭的な負担が、思ったより大きくて、Bさんの財政事情を圧迫したとしよう。
ようするに、Bさんにも、Aさんの介護費・医療費を負担することがきつかったとする。けど、一度承諾してしまったので、続けたとする。
この場合、Bさんは、けっして、しあわせになっているわけではない。負担で押しつぶされそうになっている。運だって、あがったとは言えない。どうしてかというと、運というのは、現実の写し絵だからだ。
けど、「善行によって、そのうち、運があがることはある」と信じることはできる。
しかし、信じることができるだけだ。
介護が長期間続いて、Bさんの人生に悪い影響が出たとする。
そうした場合、Bさんは、Aさんに親切にしてあげることによって、むしろ、ふしあわせになったということができるのである。
Cさんは、宗教的な人で「人に親切にしましょう」と言っている人だとする。人に親切にすると、自分の気持ちがよくなり、善行が認められ、しあわせになるということを、主張している人だとする。
この人が、Bさんのストリーを聞いた場合、どういうふうに反応するかということが問題になる。
じつは、CさんはBさんに「すべては自己責任」と言い放ち、Bさんが愚かな行為を選択したというようなことを言い始めるのだ。
「自分に負担がありすぎることをするのは、バカなことだ」と言い切るのだ。これは、ぼくの想像の範囲の話で、Cさんの態度と発言をそのように書いただけだ。
けど、現実的には、ほんとうに親切な人は、むくわれない場合がある。