ほんとうに、くるしかった。毎日、一生、続くんだろうなぁ。あれがどういうことなのか、一倍速で体験して知っているのは、ぼくだけだ。別に「こだわっている」わけではなくて「状態」として「なっている」。たとえば、痛いときは、痛いわけだろ。痛さにこだわろうと思って、痛さにこだわっているわけではない。状態として、そうなっている。きちがい家族のきちがい騒音によって、引き起こされた不眠は、その日の音がなくなれば、終わるわけではないのである。そして、ただたん眠れないだけではなくて、ほんとうにくるしいのである。「俺だって苦労した」と言っている人だって、別に、きちがい家族によるきちがい騒音を毎日毎日、何時間も何時間も経験して、適切な時間に、眠れなくなったわけではない。悪いけど、きちがい兄貴のきちがい騒音が鳴っていなかったら、ぼくは、普通に眠ることができたのである。実際、きちがいヘビメタ騒音がはじまるまえは、普通に、夜になった眠る生活をしていたのである。「できていた」ことなんだよ。俺に対して「あまえている」と言ったやつらのことは、ゆるさない。おまえらよりずっと過酷な状態を経験してきたんだよ。不可避的にそうなるということがわかってないだけだろ。不可避的にそうなるということがわかってない人は、経験がない人だから、「俺だってその暗い経験した」とは言えない。だいたい、ぼくとおなじような経験をした人は、ぼくが言っていることを理解してくれる。「そんなのはいいわけだ」とか「そんなのはあまえだ」なんて言わない。どういうことを経験したかわかっているから、言わない。経験したことがないから、「そんなのはいいわけだ」とか「そんなのはあまえだ」と言うんだよ。
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とりあえず、「こだわる」という表現をしたけど、「こだわる」という表現は、この場合、誤解をして「こだわっている」と思っている人のことを考えて、「こだわる」という表現を使った。この場合、だれかが、このことにこだわっていると、決めつける人がいるのである。だれかの意見ではないのである。たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんから見ると、Bさんが家族の騒音にこだわっているように見えるのである。こだわっているのではなくて、こまっているのである。
もちろん、本人がこだわりたくてこだわっている場合もある。その場合は、ちがう場合だ。場合がちがう。
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たとえば、CさんとDさんがいたとする。Cさんが痛くて痛くて「いたい いたい」と言ったとする。それをDさんが聞いて、「Cさんは痛さにこだわっている」とDさんが考えたとする。けど、Cさんは、痛いから痛いと言っているだけで、なにも、こだわっているわけじゃないということを言いたかったわけ。