言霊主義者は別に、悪い人じゃないのだけど、なかが悪くなるようにできているのだ。どうしてかというと、ほかの人たちにはしょうじない、きちがい的な騒音がしょうじたからだ。
あの騒音生活は、ほかの人たちにはない。
ほかの人たちに、騒音体験があったとしても、あの騒音生活は体験していない。だから、話がズレてしまう。基本的に、言霊主義者は、ぼくに、むりなことを言ってくる。
しかし、言霊主義者は「むりなこと」を言ったつもりがないのだ。
どうしてかというと、家族が原因であるような、しつこい、騒音を経験したことがないからだ。騒音は経験したことがあるけど、きちがい家族による騒音は経験したことがないのだ。
ようするに、実際に経験したことがないので、「できなくなる」ということが、わかってない。わかっていないから、できるつもりでいるのだ。
もちろん、ヘビメタ騒音がなければ、俺にだってできることが多い。
けど、ちがうのだ。
騒音のなかで勉強することも、きちがい兄貴のやり方で、きちがい兄貴の感覚で鳴らすのではなければ、できたのだ。幼稚園の騒音、工事の騒音ならできた。
けど、手を伸ばせば、とどきそうな距離にあるスピーカーから、ずっと長い時間鳴っている状態の騒音は経験したことがなかったのだ。あの騒音のレベルは、普通の騒音のレベルをこえているのである。
そして、そういう、常識はずれな騒音を、ゆるしてしまうような環境が、うちにはあった。この環境も、ほかのうちには、ないものなのである。
言霊主義者だって、おなじことを、経験すれば、「できなくなる」のだ。けど、言霊主義者は「できなくなる」ということがわかっていない。自分ならできるつもりなのだ。だから、「むりなことをいっている」つもりがない。
言霊主義者が、言霊を信じてしまうのは、幼児的万能感が強いからだ。幼児的万能感が抜けきっていないのである。
だから、「矛盾」にも気がつかない。
自分が一〇円玉を落としたとき、普通に一〇円玉が落ちたと思ってしまう。「一〇円玉が落ちる」と言わなかったのに、一〇円玉が落ちるということが現実化したということに、気がつかない。あたりまえだと思ってしまう。
じつは、「言えば、言ったことが現実化する」という考え方が正しいなら、これは、あたりまえではない。
言霊主義者は、たとえば、自分が「明日は雨になる」と言ったあと、雨になったら、言霊理論は、正しいと思ってしまうのだ。
しかし、言霊の力によって、雨になったわけではないのである。
自分が「明日は雨になる」と言った。だから、「明日は雨になる」という言葉に宿っている言霊の力が「雨を降らせた」と思ってしまう。けど、言霊の力によって、雨になったのではないのだ。
たしかに、「明日は雨になる」という言葉を発したあとに、雨になった。これは、言ったあとに、現実化した?にすぎない。言ったからではなくて、言ったあとなのだ。
もうひとつの例をあげておこう。たとえば、自分が「元気だ元気だ」と言ったら、「元気になった」とする。言霊主義者は、だから言霊理論は正しいと思うわけだけど、これも、じつは、ちがう。
これは、人間のしくみで、元気になったような気がしただけだ。言葉は、人間に影響をあたえるのだ。
けど、これも、言葉の力であって、言霊の力ではない。
人間の「体のしくみ」によって、暗示をうけただけだ。「気合を入れる」というようなことを言うけど、気合を入れるには、まず、言葉の意味を理解していなければならないのである。言葉による暗示はある。
しかし、それは、何回も言うけど、言霊の力ではない。そして、注意しなければならないのは、ストレス対抗期間内のことだということだ。人間のしくみに依存することであって、なおかつ、ストレス対抗期間内のことだと、「そういう気分になる」ことがあるということだ。
「元気になったような気がする」わけだ。
けど、ほんとうに、体がつかれているときは、どれだけ「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。
言霊の力で元気になっているわけではなくて、暗示の力で、元気になったような感じがしているだけだからだ。ストレス対抗期間内だと、体がむりをして、言っていることに対応しようとする力がある。これも、体のしくみによるものだ。
だから、この手の例で語られることは、ストレス対応期間内に、体のしくみをとおして現実化できるものでなければならないのである。
そして、自己申告制なのである。
「元気が出たような気がする」と自分が思ったということや「楽しくなったような気がする」と自分が思ったということにかぎられるのである。しばらくのあいだ「眠気がふっとんだような気がした」だけなのだ。ずっと、一生涯、眠らないなんてことはできない。
言霊の力で眠れなくても平気な体を手に入れたわけではないのだ。「自分は眠らない」と言えば、一生、言霊の力で、眠らずに生きることができるかというと、できないのだ。
一時的に、「眠気がふっとんだような気がする」だけだ。
これは、ストレス対抗期間内の出来事なのだ。人間のからだに備わったしくみによって、現実化されているだけだ。
だから、人間のからだに備わったしくみをこえて、「言葉の力」が機能するということはないのだ。「人間からだ」に備わったしくみによって、「眠気がふっとんだような気がする」だけなのだけど、言霊主義者は、これを「言霊の力だ」と誤認してしまうのである。
もし、言霊の力で「眠気がふっとんだような気がする」ということが現実化したのであれば、言霊の力によって、「一生涯、眠らなくてもすむ体」を手に入れることだってできるはずなのだ。ところが、「眠気がふっとんだような気がする」を手に入れることはできるけど、「一生涯、眠らなくてもすむ体」を手に入れることはできない。
言霊主義者が、「眠気がふっとんだような気がする」状態を言霊の力で手に入れたと思い込んでいるだけなのだ。実際には、言葉の力で、「眠気がふっとんだような気がする」状態を手に入れただけだ。そして、それは、「体のしくみ」によって成り立っているのである。「体のしくみ」が対応できないことは、どれだけ言っても、できないのだ。「体のしくみ」が対応できないことに関しては「言ったことが現実化する」わけではないのだ。言霊の力によって言ったことが現実するわけではないので、言ったって、言った通りにはならない。
ところが、言霊主義者は、「言い方が悪かったから、うまくいかなかっただけだ」と思ってしまうのである。誤解の上に、誤解を重ねている。