きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的な騒音を出す。きちがい的な感覚でやっているので、でかい音だということを認めない。
この、ほんとうなら、きちがい兄貴にだってわかることを、認めないというのが、そもそも、腹がたつことなのである。はじめのうちは、聴覚が正常なので、「でかい音で鳴らしている」ということは、絶対に認めなければならないことなのである。本人が、聞きたくない音を、「あの音のでかさで」聞かされたら、本人は、一秒で腹をたててしまうのである。そういう音のでかさで鳴らしている。ところが、きちがい感覚で、「自分は普通の音で鳴らしている」と思い込んでしまう。そう思い込んで「絶対の意地」で「どでかい音で鳴らす」のだ。だから、認知のゆがみが最初からあるのである。その認知のゆがみは、きちがい兄貴にとってだけ、都合がいい……認知のゆがみなのである。
そして、こういう家族がいない人は、こういう家族に、こういうことを、やられることがないのである。感覚器を書き換えて、自分がやりたいことを(無認識のまま)押し通してしまう人というのは、そんなにいるわけではないのだ。そして、それが「騒音」という分野で発揮されることも、めずらしいことなのだ。きちがい兄貴が、感覚器を書き換えて、自分がやりたいことを(無認識のまま)やり通してしまうような性格をしていたとしても、きちがい兄貴が、「でかい音で鳴らすこと」に興味がなければ、それで、その性格の問題は、きちがいヘビメタ騒音問題には発展しなかったのである。ようするに、もともと、そういう性格だったにしろ、きちがい兄貴が、ヘビメタという音楽分野に興味を持って、その音を、本人の耳が悪くなるほどでかい音で鳴らそうと思わなければ、問題にはならなかったのである。ぼくは、きちがいヘビメタにやられて「勉強することができない」状態にならなかったのである。
けど、こういうことは、理解されにくいのである。どうしてなら、ほかの人の身の上には、発生しないことだからだ。ごく少数の人の身の上には発生したのだろうけど、たいていの人の身の上には発生しない問題なのだ。だから、普通の人は、まず、ぼくの状況について、まちがった認識をもちやすい状態なのである。そして、それは、「ひとごと」なので、なんとだって言える状態なのだ。自分だって、おなじ状況なら「勉強することができなくなる」としても、実際に、おなじ状況にならないので「勉強することができなくなる」ということは、自分の身の上には発生せず、ひとごとの問題として「聞くだけ」になる。話に聞くだけの問題なのである。そして、騒音は、たいていの人が、経験したことがあるので、エイリが経験しているきちがい兄貴とやらの騒音も、自分が経験した騒音と大差がないと、思ってしまうのである。だから、基本的に、「勉強することができなくなる」ということは、認めないのである。そして、言霊主義者は、「できないと言うから、できなくなる」というきちがい的な理論を信仰しているので、「できなくなると言うから、できなくなる」ということを、ぼくに言ってくることになる。これは、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ほかの家では鳴らせないようなでかい音で(自分が好きな)音楽を鳴らさなければ、発生しなかったことなのである。言霊主義者は「ヘビメタ騒音」で「勉強することができなくなった」ということを認めていない。「できない」と言ったから「できなくなった」と考えているのだ。これ自体が、ぼくに対する冒とくなのである。けど、言霊主義者は、そんなことは考えない。言霊理論は正しいと思っているので、「できなくなると言うから、できなくなる」という自分の考えに自信を持っているのである。つまり、エイリの場合も、エイリが「できない」と言うから「できなくなったのだ」と考えているのだ。ほんとうに、冒とく。勘違いの、きちがい発言。この発言は、ぼくにとっては、猛烈に腹がたつ発言なのだ。もう、そこで対立が発生している。言霊主義者が「門理ができないというから、できなくなったのだ」という考えを、ひるがえすということはない。ぼくが、どれだけ、言霊理論の矛盾について説明しても、たいていの言霊主義者は、認めない。ぼくの経験の範囲で言うと、ほんとうに一〇〇%の言霊主義者が、認めなかった。