特殊な条件を背負っている人は、特殊な条件によって、特殊なハンディがしょじてしまうのである。その特殊なハンディというのは、ほかの人にはないハンディなのである。
だから、ほかの人は、経験したことがないハンディなのである。
けど、ほかの人だって、そりゃ、苦労をしている。言霊主義者は、苦労するはずがないのだけど、なぜか、言霊主義者も、みんな、「自分だって苦労した」と言う。おかしな話なのだけど、本人は、気がつかない。
「言えば言ったことが現実化する」なら、なんの悩みもないはずだ。
言えば解決してしまうからだ。最初に「これ以降、一切合切、苦労しない」と言ってしまえば、一切合切、苦労しないのである。言えば、言ったことが現実化するのだから、そうなる。
なんでも、思った通りだ。
自分が思ったことを言えば、それで、自分が思ったことが現実化する。言ったことが現実化するのだから、そうなるのだろう。
ところが、言霊主義者が「俺だって苦労した」「私だって苦労した」と言いやがる。なんなんだ? こいつら?
ともかく、、特殊な条件によって、特殊なハンディがしょうじてしまった人のことは、普通の人は理解できないのである。どうしてかというと、特殊な条件がないからだ。特殊な条件が、そのハンディをしょうじさせるのである。
だから、これは、一般的な「苦労」とはちがうことなのである。一般人が感じる苦労と、特殊なハンディが生じてしまった人が感じる苦労はちがうのである。
けど、「苦労」という抽象的な言葉を使うと、その苦労という抽象的な言葉には、必然的に「特殊な苦労」も入ってしまうのである。なので、一般人が、普通に「自分だって苦労した」と言った場合の苦労という言葉には、特殊な苦労も入ってしまっている。
しかし、これまた、一般人が、その言葉を発しているときに、そのことを理解しているかというと、理解していないのである。
さらに、「自分だって苦労した」と言った人が、落ち着いているときに、「自分だって苦労した」と言った人に、ぼくが説明しているようなことを、説明すれば、「自分だって苦労した」と言った人が納得してくれるかというと、そうではないことのほうが多いのだ。
ようするに、興奮しているときは、さけて、落ち着いているときに言ってもむだだということだ。
自分の経験の範囲で言うと、「自分だって苦労した」と言った人は、みんな、納得してくれなかったのである。
みんな、「自分だって苦労した」と言って、苦労を抽象化したままだ。これは、特殊なハンディがしょうじている人の特殊な苦労も、自分は経験したことがあると言っているのとおなじだ。
ところが、実際には、経験していないのである。
だから、特殊な苦労の特殊性がわからないし、特殊な苦労が、なにをもたらすかわからないのである。きちがい家族にたたられて、きちがい家族の行為が原因で、慢性疲労症候群のような疲労を経験している人は、限られているのである。
普通の人にはそんなことがしょうじないのである。
きちがい家族の行為が原因で難治性の睡眠障害になった人もおなじである。きちがい家族の行為が原因で、うつ病になった人もおなじである。普通の人には、きちがい的な家族がないので、きちがい家族にたたられるという苦労が存在しないのである。
しかし、「自分だって苦労した」という言葉には「きちがい家族がもたらす苦労」も「苦労」として入ってしまっているのである。抽象的な「苦労」という言葉の持つ意味が、ちがってしまっているのである。
けど、たいていの人は、そのことに気がつかない。
気がつこうともしない。
「苦労の内容がちがうんだ」と言われれば、「自分だって苦労した」と言って、腹をたててしまうのである。
しかし、実際に、普通の人には、きちがい家族が原因である「慢性疲労症候群のような疲労」も、きちがい家族が原因である「難治性の睡眠障害」もきちがい家族が原因である「うつ病」もしょうじていない。しょうじていないから「説教」ができるのである。
「慢性疲労症候群のような疲労」「難治性の睡眠障害」「うつ病」もしょうじていないから、普通に朝、起きて、通勤して働くことができるのである。そりゃ、普通に朝、起きて、通勤して働くことは、つらいことになる場合がある。たいていの場合はつらいことになるだろう。
まあ、言霊主義者は、言っただけで、そのつらい状態を消し去ることができるし、思霊主義者は、思っただけで、そのつらい状態を消し去ることができる。
「すべては思いようだ」と考えている人は、「すべては思いよう」なのでつらいと思わなければ、それで、つらくない状態に移行できる。いいじゃないか。はっはっは。グッドグッド……。君たち、グッドだねーー。
だったら、言霊主義者、思霊主義者、「すべては思いよう」だと思っている人は、苦労なんてしてない。言えば、即座に解決できるし、思えば即座に解決できるからだ。「思えば即座胃に解決できる」ということに、含まれてしまうのだけど、思いようやかえれば、即座に解決できる。苦労する間もなく、解決できるね。
どうして、この人たちが「自分だって苦労した」と言っているのだろうね?
ともかく、きちがい家族にたたられた人に対する、きちがい家族にたたられたことがない人たちの、無理解ぶりがひどいのである。これ、どれだけ差があるか、きちがい家族にたたられたことがない人たちが、わかってないだけだ。
* * *
どれだけ、ほかの人から、誤解をされてきたかわからない。みんな、きちがい兄貴の特集性がわからない。みんな、きちがい親父の特殊性がわからない。
きちがい兄貴が気ちがい兄貴でなければ、ほんとうに、俺の「ヘビメタ騒音の問題」なんて、発生しなかった。
「ヘビメタ騒音の問題」について、みんな、勘違いをしているのである。そして、その勘違いというのは、たいていの場合、修正不可能なのだ。みんな、勘違いをしたままなのである。
通勤できている人は……みんな……「ヘビメタ騒音の問題」をかかえなかったから、通勤できているだけなのに、くそを言うな。必然性が理解できていない。必然性がわかってない。あんな生活がずっと続けば、通勤できなくなる。
けど、経験しなかったから、通勤できる状態でいるわけだ。けど、苦労はした。だから、「苦労」という「抽象度が高い言葉を使えば」……ヘビメタ騒音の苦労も含めたまま、「苦労」という言葉を使うことができる。
だから、暗示的な意味では「自分だってヘビメタ騒音の苦労をした」ということになってしまうのである。けど、ほんとうは、きちがい兄貴のような家族が、きちがい的な感覚で、きちがい的な音を鳴らし続けるということが、人生のなかでなかったのである。
なかったから、通勤できるからだを維持しているだけなのだ。
通勤できるからだを維持しているので……実際に通勤できるので、通勤ができないと言っている「俺(エイリ)」にむかって「そんなのは、あまい」と言っているのである。
俺(エイリ)がどれだけ、厳しい生活をしてきたか、まったくわかっていないのである。
自分は、実際に通勤できるので、エイリに説教をする資格があると思って、説教をしているのである。
しかし、ぼくとおなじような苦労をしたかというと、していないのである。ぼくとおなじような苦労を経験したら、ほぼ一〇〇%の人が、通勤できなくなる。
ようするに、説教をする資格をうしなう。
こいつらは、みんな、自分なら平気だという前提で、ものを言っている。ヘビメタ騒音と俺の症状の関係がわかっていない。
こいつらが言っていることは「言えば言ったことが現実化する」というようなカルト理論なのである。理論的にまちがっている。理論的にまちがっていることが土台にあることを、えらそうに言っているだけなのである。
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感情的に認めたくなくても、理論的なまちがいは認めなければならない。
そういうこと……理論的なまちがいを認めるということすら、できないようなやつらなんだよな。言霊言霊って言っているやつらは……。
思霊もおなじ。
そういう思考力しかないやつらに、説教をされるとは、なんたる失態か。
まあ、そういうやつらの思考力が高ければ、きちがいヘビメタ騒音のことも理解できるはずだ。きちがいヘビメタ騒音の『影響のでかさ』を理解できるはずだ。
理論的なまちがいを認めることができないやつらが「言えば、言ったことが現実化される」と言い「できると言えばできる」と言い、「できないと言うからできない」と言い、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言い、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言う。
普段の自分と、言っていることがまったくむすびついていないのだ。
気分だけで、妄想的なことを言っている。
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どれだけ、道徳的なことを言っているように見えても、どれだけ、徳がありそうなことを言っているように見えても、けっきょくは、理論的なまちがいを認めることができない人たちが言っていることなんだよな。
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特殊な条件の人が、普通の条件の人に、めちゃくちゃに言われるのが、デフォルトなのだ。普通の条件の人は、苦労したと言っても、特殊な条件をかかえている人が経験する苦労を経験していない。けど、「自分だって苦労した」と言えば、「そういう苦労」も、経験したことになってしまうのである。暗示だけど、意味的には、経験したことになってしまうのである。けど、自分は「平気だった」「平気だ」という前提で、物事を判断して、物事について意見をのべるのである。