「けど、じゃあ、だったら、言霊主義者に話を合わせてあげればいいじゃない」と思う人がいるかもしれない。
ヘビメタ騒音が、ぼくの人生のなかで、なかったら、それでいいのだけど、ヘビメタ騒音が、ぼくの人生のなかで、あったので、それではだめなのだ。
言霊主義者は、幼児的万能感に支配されているので、「できると言えばできる」「眠れると言えば眠れる」「元気だと言えば元気になる」「つかれたというからつかれる」「つかれないと言えばつかれない」「楽しいと言えば楽しくなる」と言ってくる。
これが……きついことなのだ。
言霊主義者は、きちがい家族にやられることなく、普通に暮らしているから、そういう精神状態を維持できるだけなのだ。
しかも、「自分だって困難を経験した」「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」と言えば、困難、苦労、騒音という言葉で表現されているものが、均一化、同一化されてしまう。
これは、仮の話なのだけど、ぼくとおなじ騒音か、あるいは、ぼくの経験した騒音と同レベルの騒音を経験したということになってしまう。
自分だって経験した……。
自分だって困難、苦労、騒音を経験したという前提で……「楽しいと言えば、どれだけつらいときも、楽しくなる」と言う。「元気だと言えば、どれだけ、つかれていても、元気になる」と言う。
「元気になると言ったって元気になるとは限らない」「楽しくなると言ったって、楽しくなるとは限らない」ということは、最低でも言わなければならなくなる。
むりなことを言ってくるから、「むりなことを言ってくるな」と言い返さなければならなくなるのである。
ヘビメタ騒音にやられて、くるしかったので、「話を合わせてあげる」余裕はない。