たとえば、CさんとDさんがいたとする。Cさんは投資詐欺師で、Dさんは2000万の退職金をもらって退職した定年退職者だ。Cさんが、ニコニコしていたとする。Dさんは、友人の誘いで、Cさんにあったとする。Cさんが、いつもニコニコしてさわやかな人なので、Dさんは、800万円、Cさんがいう金融商品に投資をした。最初のうちは、分配金のようなものが、振り込まれていたのだけど、6カ月目に、振り込まれなくなった。不審に思ったDさんが、連絡をとろうとしたけど、Cさんには連絡をとれなかった。Dさんは警察に被害届を出したけど、警察官は「取り戻すのは非常にむずかしいと思う」と言った。実際に、Cさんのおカネは、かえってくることがなかった……とする。この場合、Cさんはニコニコしていたのである。たしかに、Cさんは「ニコニコしたので、いいことがあった」わけだ。Dさんは、ニコニコしている人は、信頼できると思って投資をしたのだけど、けっきょく、だまされることになった。ニコニコ理論では、ニコニコしている人がいい人だという前提が(なんとなく)成り立っている。しかし、ニコニコしている人が、悪い人だったら、どうか? まあ、悪い人とは言わなくても、悪い意図があってニコニコしていた人だったとしたら、どうなのかという問題がある。Dさんは、いつもニコニコしているCさんを信じて、投資をした。これは、「つくり笑顔でも」「ニコニコしていれば、人に言い印象をあたえることができる確率があがる」ということを支持しているようにも見える。しかし、いつも、かならず、人に言いしんょうをあたえられるかどうかはわからないのである。あくまでも、「おこっているひと」よりも「つくり笑顔でも、ニコニコしていた」ほうが、信用を得やすい傾向にあるのではないかということが言えるだけだ。これも、たぶん調べれば、たしかにそういう傾向があるということがわかると思う。しかし、そこで問題になるのは、「意図」なのである。ニコニコしている側の「意図」だ。どういう「意図」でニコニコしているのかということが、問題になる。けど、ニコニコ教の人は、「ニコニコしているといいことがある」と思ってニコニコしていること以外のことを考えない。人をだますつもりで、ニコニコしている人のことを、無視してしまうのである。現実世界では、悪意があって、ニコニコしている人もいるということを、無視してはいけない。どうしてかというと、「ニコニコしていると、いいことがある」という話自体が、現実世界の話だからだ。現実世界で起こることについて、話をしているからだ。
Dさんは、投資詐欺にひっかかったあと、以前とおなじように、ニコニコしている人を信用するだろうか。ここでは、Dさんは、以前のようには、ニコニコしている人を信用しないようになったということにしておく。その場合、Dさんはニコニコしている人に警戒心を抱くようになる。だから、ニコニコしている人が、つねに、一〇〇%、人から行為を持たられるという前提は成り立たなくなる。ニコニコしている人は、ほかの人に安心感を与えるから、そのあとの交流がスムーズになるということが、語られたはずだ。交流がスムーズになるといいことが起こりやすいのである。ニコニコ理論にしたがえば、一〇〇%の確率でいいことが起こることになのである。一〇〇%の確率でいいことが起こるということの土台として、人(というものは)ニコニコしている人に好感をもつという前提が成り立っていた。けど、いつもその前提が成り立っているとは、限らない。
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投資詐欺師のCさんは、人はニコニコしている人を信頼しやすいという傾向を利用したわけだ。これはあくまでも、傾向だ。100%、つねに、成り立っているわけではないのである。実際、Dさんは、投資詐欺に引っかかったあと、ニコニコしている人を信頼できなくなっている。ようするに、確率の問題だということだ。ところが、「人は、ニコニコしている人を信頼する」と言ってしまった場合には、「人は、ニコニコしている人を100%の確率で信頼する」ということになってしまう。「人は、ニコニコしている人を信頼する」という文は、「人は、ニコニコしている人を100%の確率で信頼する」という文と意味的に等価になってしまうのである。「人は、ニコニコしている人を信頼する」のだから、「ニコニコしている人を信頼しない人」はいないことになっているのである。ニコニコしている人を信頼しない人は、この世に存在しないという前提が、成り立ってしまう。