親父がからむと、いちいち、うまくいかないんだよ。
「どうして、そういうことを言うのかなぁ」ということを言って、ゆずらない。こまるんだよ。
そういうこと、ばかりなんだよ。親父は頭がおかしいから、へんな基準で、動いている。そして、一度スイッチが入ると、絶対の意地でやってしまう。
こっちがかかわっていることでも、おかまいなしだ。きちがい兄貴も、ヘビメタを思いっきり鳴らしたいというスイッチが入ってしまったんだよ。自分が鳴らしたいだけ、自由に鳴らす……ようにしようというスイッチが入ってしまった。
そうしたら、聞かない。
きちがい的な意地でそれをやり続ける。殺さなければ、やめさせることができないのだ。その場で、問答無用で、殺さなければ、相手の行動をとめることができない。相手というのは、この場合、きちがい兄貴ときちがい親父だ。
これ、スイッチが入ってしまったら、殺さなければとめることができない。
そういうことを、相手に突き付けてくる。
この場合の相手というのは、俺だ。主に俺のことだけど、その他の人のことも含んでいる。相手というのは、親父にとって、相手のことだ。
そして、相手というのは、兄貴にとって、相手のことだ。とめようとする相手のことなんて、これっちぼっちも考えないのである。自分の気持ちだけで、つっぱしってしまうのである。
そして、特集な頭の構造により、相手の気持ちは考えてもいいということになっているし、特殊な頭の構造により、ほんとうに、どれだけ本人が考えようとしても、考えられないのである。
本人が相手の気持ちを考えているときは、相手の気持ち考えていないときなのである。
ともかく、きちがい兄貴やきちがい親父が、相手の気持ちを考えることができるかというと、できないのである。
考えるとすると、特殊な構造をもった頭で考えることになるのだけど、それは、特殊な構造をもった頭で考えることになるので、普通の意味で相手の気持ちを考えるということができないのである。
たとえば、だれかが親父や兄貴を説得して、「相手の気持ちを考えるようにしたほうがいい」と言ったとする。けど、考えるとなると、親父は親父の頭を使って考えるわけだし、兄貴は兄貴の頭を使って考えるわけだから、けっきょく、相手の気持ちを考えることができないのである。
けど、考えることができなくても、「相手の気持ちを考えるように言われて」本人が、考えたつもりになってしまうことがある。
あるけど、そのときも含めて、じつは考えていないのである。ものすごく、自分勝手な方法で、考えているわけだけど……相手の気持ちを考えているのだけど……それは、けっきょく、相手の気持ちを考えていないことになってしまうのである。
本人が、「考えるつもりになって」考えた場合の相手の気持ちと、普通の人が……あるいは、説得している人が、思い浮かべるそのような状態とは、ぜんぜんちがうのである。親父の頭の中にある「相手の気持ち」というのは、「相手の気持ち」ではないのである。
かすりもしない。兄貴の場合も同様だ。かすりもしない。
だから、普通の人は、……あるいは説得している人が……考える「人間のイメージ」とはちがうのだ。根本から、頭の構造がちがう。
だから、本人(親父や兄貴)が、どれだけ「考えよう」と思って考えられないのである。特に、スイッチが入って、自分の気持ちでいっぱいのときは、考えられないのである。
けど、普段でもそういうところはある。特にスイッチが入っていない場面でも、そういうところは、ある。親父や兄貴には、ある。
けど、いっしょに暮らしている人でなければ、特に、こまらないのであ。
その都度、ぶつかることはあるかもしれないけど、いっしょに暮らしているのと、いっしょに暮らしていないのとでは、雲泥の差がある。
だから、一般の人は、きちがい兄貴の頭の構造や、きちがい親父の頭の構造を無視して、俺に!アドバイスをしてしまうのである。
ところが、どれだけアドバイス通りにしても、うまくいかないのである。「言えば言ったことが現実化する」「思えば、思ったことが現実化する」と言うけど、言っても、言ったことが現実化しないし、思っても思ったことが現実化しないのだ。
親父や兄貴に関することは、言っても現実化しないし、思っても現実化しない。ところが、そういう精神世界の人は「言い方の問題だ」「思い方の問題だ」と問題をすり替えしまうのである。
あるいは、一般の人は、ぼくの説得力のほうに問題があると、問題をすり替えてしまうのである。だから、特殊な構造をもっている頭について考えると次のようなことが言える。
特殊な家族と一緒に住んでいる人は、一般人に、不可避的に誤解をされる。一般人は、一般人で、自分が誤解をしたとは思わないということがしょうじる。