不幸なことがあった場合、自分の気持ちが引き起こしたことだと思うような癖がついていると、現実に対処できなくなってしまうのである。
実際に、自分がおろかなことを思いついて、おろかな行為をしたから、結果的に、不幸がおそってきたということ自体は、ある。あるのだけど、すべてがそうではないのだ。
たとえば、物価高になったとする。自分の住んでいる地域にあるスーパーで売っているものが、高くなったとする。ひとつのスーパーだけではなくて、自分が住んでいる地域にあるすべてのスーパーで高くなったとする。
その場合、自分が物価高を引き寄せたわけではない。自分が、物価高になると思ったから、思霊の力で、実際に物価高になったわけではないのだ。
たとえば、自分が住んでいる地域で、地震が起きたとする。その場合、自分のこころが、地震を引き起こしたと考えるのはまちがいだ。
自分のこころの持ち方で、地震が起きないようにすることができるという考えも、まちがいだ。
現実世界に生きているのだから、自分の気持ちとは、関係がないことが発生して、あたりまえなのである。
自分が、相手をぶんなぐったので、相手が自分をぶんなぐってきたということはある。
相手が自分になにも悪いことをしていないのに、勝手に自分が相手をなぐりたくなって、なぐったなら、自分のこころに問題がある。
こういうことを、例に挙げて、「自分の気持ち」と「実際の出来事」は関係があるということを言ったとする。その出来事に関してだけ言えば、たしかに、「自分の気持」と「相手がなぐってきたということ」には関連がある。
ところが、自分の気持ちと物価高は関係がないのだ。
自分の気持ちと地震は関係がないのだ。
そとには、いろいろなものが存在して、物理的な力が働いている。そとには、いろいろな人がいて、そのいろいろな人は(その人たちの意思にしたがって)動いている。人は、自律的に動いている。
なので、「自分のこころ」の動きとは関係なく、相手が、「相手の意思にしたがった行動」をするのである。
さっき、理由がないのに、相手をぶんなぐった人の話をした。
たとえば、Aさんが、妄想的な考えをもっていて、自分の妄想にしたがって、Bさんをなぐったとする。Bさんは、Aさんに、なにか悪いことをしたわけではないとする。
これは、神様的な視点で考えて、BさんはAさんに、なにもしていないということだ。Bさんが、単に、「自分はAさんに、なにも悪いことをしていない」と考えているだけではなくて、神様視点で、BさんはAさんになにも悪いことをしていないということだ。
Aさんが、妄想的な思考をして、Bさんに怒りを感じたとする。
これは、Bさんのせいじゃないのだ。
Bさんは、事実、Aさんになにもしなかったけど、Bさんが、Aさんをなぐったのだ。
精神世界の考え方にしたがうと、Bさんがなぐられたのは、Bさんの「気持の問題」だということになってしまうのである。
たとえば、「思ったことが現実化する」という考えにしたがうと、Bさんの気持ちが、「AさんがBさんをなぐるという現実を発生させた」ということになってしまうのだ。
Bさんは、「Aさんが、自分(Bさん)をなぐる」と思っていなかったのだけど、精神世界の人たちは、Bさんは、「Aさんが、自分(Bさん)をなぐる」と思っていたのだということにしてしまう。精神世界の人たちは、そう考えてしまう。
精神世界の人たちは「Bさんは、Aさんが自分(Bさん)をなぐると思っていた」と決めつけてしまう。
「実際に、AさんがBさんをなぐったのだから、BさんはAさんになぐられると思っていたはずだ」と……精神世界の人たちは、考えてしまうのだ。
結果から、原因への流れがあるのである。
こういう結果……「AさんがBさんをなぐる」といった結果になったのだから、Bさんは「Aさんが自分(Bさん)をなぐる」と思っていたのだ……と精神世界の人は決めつけてしまう。
「Bさんの気持ち」と「AさんがBさんをなぐったこと」には関係があると(精神世界の人は)考えてしまう。けど、まちがいなのだ。
Bさんの「こころの持ちよう」が問題なのではなくて、Aの「妄想」が問題なのだ。
ちなみに、ビジネス世界には、相手の問題と自分の問題を切り分けて考えればいいという考え方がある。この考え方で言われていることは、Aさんにおける「妄想的な思考」の問題は、Bさんにおける「気持の問題」ではないということだ。これだけはあっている。
けど、BさんがAさんに実際になぐられたことは、Bさんには関係があることなのだ。
相手の問題と自分の問題を切り分けて考えれば、なぐられたという問題が、Bさんにとって関係がない問題になるかというと、関係がない問題にはならない。
こっちも、まちがいだ。
いろいろなところに、誤謬がある。
誤謬のタネがひそんでいる。