たとえば、おカネもちが、全人口の一〇%いて、おカネもちではない人が全人口の九〇%といる社会を考えてみよう。
おカネもちではない人は、おカネもちになりたいとする。
そうすると、おカネもちになるためのライフハックに関する本が売られるようになる。おカネもちではない人にとって、おカネもちになることは、たいへんに関心があることなのである。
けど、おカネもちになれるはずのライフハックを、いくら実践しても、おカネもちになれないとする。
ライフハックの情報が、ほんとうは、おカネもちになれる効果がない方法なので、おカネもちになれないのだ。
おカネもちがおカネもちなのは、他に原因がある。
ところが、その原因については、無視されているのである。どのライフハックでも、ほんとうの原因に関しては、無視しているのである。
なので、ほんとうの原因に作用しない、ライフハックは、効果がないものなのである。
しかし、ライフハックの文言が、どれだけ社会にはびこっても、全人口の九〇%がおカネもちではないとする。その場合、そのライフハックの文言は、無意味だということになる。
しかし、無意味なのに、説得力をもっているものなのである。多くの人にとって、説得力をもっているもなのである。
どうして説得力をもってしまうかというと、いろいろなところに、理論的な誤謬があるからなのだ。
まあ、「トリック」と言ってもいい。いろいろなトリックを使って、人をだましているので、だまされた人には説得力があるものにうつるということだ。
ぼくが言いたいのは……こういうことが、「しあわせになる方法」でも、おこなわれているのではないかということだ。