親父の考え方というのは、うちにあるものは、うちにあるのだから、買う必要がないという考え方なのだ。
その場合、たとえば、「ハンダゴテ」というものがあるすると、うちに「ハンダゴテ」があれば、どんなハンダゴテだって「買う必要はない」と思ってしまうのだ。
そして、どれだけ、電子工作では、うちにあるハンダゴテは使えないということを(こっち側が)説明しても、親父は、「ハンダゴテならハンダゴテだ」という考えにこだわって、認めないのである。
親父が「ハンダゴテならハンダゴテだ」という考えにこだわるのは、理由がある。「うちにあるハンダゴテは、電子工作には使えないハンダゴテだ」ということを認めてしまうと、「電子工作用の(新しい)ハンダゴテを買う必要があるということ」を認めてしまうことになる。
これが、死んでもいやなのである。
死んだって、認めたくないことなのである。だから、理解できる知能は関係なく、「使える!!使える!!使える!!使える!!使える!!使える!!」と絶叫して、絶対に使えないということを認めない状態になる。
これ、ほかの人には、まったくわかっていないだろうけど、「いのちがかかっている」ことなんだよ。
「まけて」……ハンダゴテを買ってやったら、死んでしまうほど、腹がたつんだよ。
相手の言っていることを認めて、「たしかに、このはんだごては使えない。新しいハンダゴテを買ってやろう」ということにはならないの……。ならないのーー。
ちなみに、こういうときの、親父の態度というのは、兄貴の態度とおなじなのである。
兄貴は兄貴で、自分が思った通りの音で「がんがん」ヘビメタを鳴らしたいと思っているわけ。だから、どれだけでかい音で鳴らしても、「普通の音で鳴らしている」と思いたいわけだ。
もし、「でかい音で鳴らしている」ということを認めてしまったら、しずかにしなければならなくなる。音をさげなければならなくなる。それが、死んでも、いやなのだ。
だから、絶対に認めてやらないモードになる。
基本的には、聴覚が正常なら、絶対に、でかい音で鳴らしているということがわかるはずなんだよ。けど、自分が、思いっきり鳴らしたい」という気持があると、「でかい音で鳴らしているというとを認めるのは、いやだ」ということになる。
だから、実際に、ものすごくでかい音で鳴らしているのだけど、自分の音だけは……聴覚に関係なく……「普通の音だ」ということになってしまうのである。
これが、催眠術のように働いてしまうのだ。
きちがい兄貴が、きちがいヘビメタを、音にこだわって鳴らしているとき、たしかに、兄貴は自立して動いている状態だから、ほんとうは、「わかるはず」なのだ。でかい音で鳴らしているということが、わかるはずなのだ。
けど、いのちにかけて認めないのである。そして、いのちにかけて認めないという部分が、無意識的な部分なので、意識のほうは、あずかり知らないことなのである。
だから、きちがい兄貴の態度は、特殊なものになってしまう。実際に、きちがい兄貴は、ヘビメタ騒音程度の、別の音が鳴れば「うるさい」「うるさい」と思うのである。
けど、自分が「思いっきり鳴らしたい」というドライブがかかっている「ヘビメタ関連の音」だと、無意識的に、「普通の音だ」と感じてしまうのである。
だから、つねに、「まるだしで」でかい音で鳴らしているのに、つねに、「すっとぼけて」でかい音で鳴らしていないという意識になる。
その意識のまま、暮らしている。
実際に、殺されることがないので、そのまま生きているのである。そうなると、絶対にゆずらない状態で、「よその家ではありえないような音で」連続的に鳴らしているのに、本人は、まったく「でかい音で鳴らしていない」という意識的な意識が成り立つことになる。
無意識的な意識のほうで、「でかい音で鳴らしている」ということを認識でないようにしてしまっているのだ。
実際に、耳が正常なら、「ありえないほど」ででかい音で鳴らしているのに、それがわからない状態なのだ。だから、きちがい兄貴は、弟である俺に迷惑をかけているつもりがないということになる。
やっているあいだ、ずっと、迷惑をかけているつもりがないのだ。