親父がこっちの気持ちを気にした場合も、こっちの気持ちを無視することになるのである。親父がこっちの気持ち気にする場合は、人生のなかで、一度しかなかったのだけど、それでも、やっぱり、ダメなのである。きちがい親父と言うのは、きちがいだから、いつも、相手の気持ちについて勘違いをしているのである。しかも、親父の親父たるゆえんは、その「勘違い」を訂正できないということなのである。これが、また、でこぼこなんだよ。トラブルのもとなんだよ。どれだけ言っても、けっきょく、「こっちの気持ち」をガン無視したことをするのである。本人(親父)が、「こっち気持ち」を考えたつもりになっても、「こっちの気持ち」をガン無視することになるのである。頭がおかしいから、相手の気持ちを考える部分がまったくなくて、相手の気持ちを考えるということの「まねごと」をすると、やっぱり、相手の気持ちを、無視することしか考えられないのである。これが、こまるんだよ。言って修正できない。説明して、「こういう気持だから、こういうふうにさせてくれ」と言っても、ダメなのである。かならず、自分が思いついたことを、おしつけてくる。だから、それが問題なんだと言ったって、わからないのである。「それが問題なんだ」ということを親父にどれだけ説明しても、親父は、わからないままなのである。おなじ行動原理で、行動してしまうのである。
ともかく、親父と触れ合ってしまうと、こころをぐちゃぐちゃにされてしまうのである。このしくみがある。言霊主義者は、「言えば、言ったことが現実化する」と言うけど、俺がどれだけ「親父がまともになる」と言ったって、親父はまともになんかならないんだよ。その言霊主義者だって、言霊理論を否定されれば、腹がたつのである。腹がたっているときに、楽しいと言ったって楽しくならないのである。言霊理論を否定されたぐらいで、腹をたてるやつが、きちがい親父のきちがい行為にたえられるわけがないだろ。それ、腹のたちかたが、一〇〇〇兆倍ぐらいちがう。ありえないほど、ちがう。もちろん、親父の行為のほうが、強烈なんだよ。自分が信じている理論を否定されたときに感じる「立腹の度合い」と、きちがい親父の行為によって、こっちが感じる「立腹の度合い」は一〇〇〇兆倍ぐらい、ちがう。実際にやられていることがちがうのである。ともかく、言霊主義者は、『きちがい的な親』について簡単に考えすぎだ。実際に、自分が、子どもの立場で「やられたら」わかると思うよう。やられない限り、わからないんだよな。これも、どれだけ、説明しても、言霊主義者にはわからないと思う。実際に、体験したことじゃないと、言霊主義者は、わからない。想像力の射程が、短すぎる。
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ともかく、きちがい親父といっしょにいると、こころをぐちゃぐちゃにされてしまうのである。かならず、普通の人との間には、おこらないトラブルが、発生してしまうのである。おかあさんの葬式のときだって、そうだ。おかあさんの葬式関連のいろいろなことでも、そうだ。そりゃ、おかあさんの葬式関連のことなら、親父といっしょに行動するしかないときがある。「人生のなかで、一度しかなかった」と書いたけど、一度というのは、おかあさんの葬式関連のことで、行動しているときに起こったことだ。けど、きちがい親父が、幼児のころの俺を虐待していたということについて謝罪したあとも、けっきょくは、おなじなのである。行動がかわらない。頭の「つくり」がかわらない。そりゃ、幼児のときのように虐待するわけじゃない。こっちのほうが、からだが大きくなったからな。これ、みんな無視することだけど、自分より体がでかいかどうかが、きちがい親父の行動に影響をあたえているのである。だから、きちがい兄貴の身長が、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らし始めたころには、きちがい親父よりも、ずっと高くなっていたのだ。だから、親父は、きちがい兄貴に注意できなくなってしまったのだ。けど、きちがい親父の中身というのが、かわらないのである。そして、長男が、あんな音で鳴らしているのに、「注意しない」という方向にドライブがかかってしまって、意地でも注意しない状態になってしまったのである。これも、俺にとっては「親父らしいことだ」と思えることだけど、ほかの人は、疑問をもってしまうところなんだよ。「子供を虐待していたような親なのだから、長男がうるさくしたら、ガンガンに怒って注意するだろ」と思ってしまう。普通の人は、そう思ってしまう。ところが、ちがうんだよ。だから、ほかの人には理解不能なことになる。そうなると、「そんなのは、へんだ」と感じるのだ。だから、「そんなのは、へんだから、エイリさんが嘘を言っている」と思ってしまうのだ。こういうところでも、親父のへんな性格と、世間の人の推論のあいだに挟まれて、いらない疑いをかけられてしまうのである。
言っておくけど、親父の頭の構造は兄貴の頭の構造とおなじだ。そして、兄貴は、親父にさんざんやられてきたので、「今度は自分の番だ」という気持があったのである。それが、きちがいヘビメタのやり方にあらわれてしまったのである。いままで、さんざんやられてきたので、ヘビメタは絶対に自分が思った通りにやる」と決めてしまったのである。そうしたら、きちがい親父のように、相手が言った通りには、絶対に動かないと心に決めたような状態になってしまったのである。それがあらわれたのが、「ヘビメタ」だったんだ。きちがい兄貴にとって、ヘビメタのことで譲るのは、絶対にいやことだったんだよ。意地になっていたところだったんだよ。たとえば、「ヘビメタをがまんしろ」「ヘビメタを鳴らすな」と言われても、きちがい的な意地で鳴らし続けたのである。そして、「こういうことをやってはまずい」と思う気持がまったくなかったのである。これ、非常識な音をずっと出すということだから、ほんとうは、悪いことをしているのに、悪いことをしているつもりが、ほんとーーーーーーに、まったーーーーーーく、ないのである。「遠慮して音をさげなければならない」と思う気持が、ないのである。自分が悪いことをしているつもりというのが、ほんとうに、ないのである。これも、言いがたいんだよな。普通の人だったら、あんなでかい音で鳴らしたら、一秒で、「でかい音で鳴らしている」ということがわかるものなのである。ずっと鳴らしていたら、相手が、音のでかさについて文句を言ってきたということが発生したとする。その場合、実際にでかい音で鳴らしている」ということが、どれだけ、腹をたてても、普通の人にはわかるものなんだよ。ところが、きちがい兄貴は、きちがいで、普通の人じゃないから、「実際にでかい音で鳴らしている」ということが、どこまでも、どこまでも、わからないのだ。知っていることだけど、知らないふりをしているということじゃないのだ。普通の人は聴覚が正常なら、どれだけ強がっても、どれだけ自分の気持ちを大切にしたくても……でかい音で鳴らしたいという気持を大切にしたくても……でかい音で鳴らしていたら、でかい音で鳴らしているということがわかる。「鳴らしてはいけないようなでかい音で鳴らしている」という、意識は消えない。ところが、きちがい兄貴は、無意識的に、そういう意識を完全に封じ込めているのである。自分がでかい音で鳴らしたいので、でかい音ではなくなってしまうのである。意識においてはそうなのである。