たとえばの話だけど、名前だけ店長に、「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」というようなことを言うやつらというのは、どういうやつらかということなんだよ。
こいつらが、無視をしているのは、名前だけ店長が、じゅうぶんに「やってきた」ということなんだよ。
名前だけ店長は、むりをして、一五年間、働いてきた。
ところが、「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」というようなことを言うやつらは、それを無視している。一五年間、働いてきたということを無視し、一五年間働いたからこそ、たまっている疲労を無視してしまうのだ。
「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」というようなことを言うやつをAさんだとする。Aさんは、名前だけ店長の状態を無視しているのである。
ようするに、Aさんからすれば、名前だけ店長は、働けるのに「もう、むりだ」と言っているやつなのだ。
ところが、Aさんが歳をとると、「もう、むりだから、引退しよう」などと言いだす。
いやーー。「あまえるな」と言いたくなる。
「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」とAさんに言いたくなる。
Aさんのようなやつは、いっぱい、いる。
他人の身に起こったことは、過小評価したり、無視して、自分の身に起こったことだけ、重視するというやつらが、いっぱーーーい、いる。
そして、こいつらは、みんな、「無視をした」ということがわかっていないのだ。どこまで、自己中。どこまで、都合よくできているのか。一〇〇〇人に九九九人が、こういうレベルの人間なのだ。
Aさんのような人間には、名前だけ店長がやってきたことが見えないのだ。名前だけ店長の疲労が見えない。「俺だってつかれている」とひとこと言えば、名前だけ店長の疲労と自分の疲労が同等だということになってしまう。
名前だけ店長の疲労が見えないので、名前だけ店長が、あまえたことを言っているように見えるのだ。
名前だけ店長の疲労が見えないので、Aさんは、名前だけ店長が、「ちょっと疲れただけで、さぼろうとしている」と判断してしまう。この「名前だけ店長が、ちょっと疲れただけで、さぼろうとしている」という判断が、明言される場合と、明言されない場合がある。
しかし、明言されない場合も、「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」という発言の背後には、この考え方が、かくれている。
「名前だけ店長の疲労なんてたいしたことがない」と、Aさんは判断しているのだ。また、「名前だけ店長がさぼろうとしている」と、Aさんは思っているのだ。
だから、「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」と言って、名前だけ店長を働かせようとする。たいした疲労じゃないのに「できない」と言ってさぼろうとしていると、Aさんは、こころのなかで思っている。
何度も言うけど、Aさんにとっては、名前だけ店長の疲労なんてたいしたことはないのだ。ちょっとやる気を出せは、できるのに、「できない」とあまえたことを言っているだけなんだと、Aさんは、名前だけ店長を見て、思っているのである。
しかし、自分のことになると、自分の疲労は自分にとって明確なので。「もう、むりだ」とAさんは、自然に考えることができるのである。
自分の場合は、「事実、ある疲労」で、他人の場合は、「事実、ない疲労」なのだ。
Aさんの目から見ると、名前だけ店長の疲労は、見えないので、Aさんは、常識思考をして、名前だけ店長がさぼろうとしている」と思ってしまうのだ。
名前だけ店長は、「さぼろうとしている」と思われたことが、いやなのだ。「さぼっていると思っている」ということが、明言されていない場合にも、「さぼろうとしている」と思っているということは、うすうす、わかる。
「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」という発言の背後にある考え方は「(対象者が)さぼろうとしている」という考え方だ。
日ごろの体感というのがものを言うのだ。
自分の体感だ。自分が日常生活の中で感じることが重要なのである。自分の体感は、いやおうなく、感じてしまう。この体の感覚をもとにして「できる」とか「できない」ということを考えているのだ。
自分が自然に感じる、自分の体感をもとにして……「このまま続けるのはむりだ」とか「まだまだ、いけるだろう」とかということを考えているのだ。
自分のことであれば、「もう、むりだな」とわかることがある。
「ずっと、はりつめてがんばってきたけど、もう、むりだ」と感じる瞬間が、(人には)あるわけだ。この瞬間が増えて、増えて、「ほんとうに、もう、むりだ」と思ったから「もう、むりだ」と(人は)言うのだ。
名前だけ店長の場合も、名前だけ店長は、名前だけ店長の体感をもとに、その言葉を言ったわけだ。
けど、Aさんには、名前だけ店長の「体感」なんてないのである。だから、名前だけ店長の体感を、Aさんは無視できるのである。
Aさんが高齢者になって「もう、むりだ」と感じた場合は、自分の体感なので、Aさんには、わかるのである。
ただ単に、自己中で、他人のことがわからないので、Aさんは、「名前だけ店長がさぼろうとしている」と判断してしまうのだ。
* * *
名前だけ店長の場合は、残業というわかりやすいことなのだ。しかも、働いている。
仕事で、つかれている。これも、理解しやすいことだ。
ところが、きちがい家族による、よその家ではありえない騒音となると、理解度がさがるのである。きちがい家族による騒音なんて問題をかかえている人は少ない。残業よりもはるかにわかりにくいものになる。
残業ですら、無理解ぶりを発揮するやつらが、きちがい家族による「ありえない騒音」のことなんて、ちゃんと理解できるわけがない。
そうなると、「そんなのは関係がない」と言いやすくなるのである。こいつらの理解度は、非常に低い。自分のことでなければ、深刻さがわからないのである。
自分のことでなければ、どれだけ影響をうけるか、ぜんぜんわからないのである。
だから、「そんなのは関係がない」「影響なんてない」と(人は)考えてしまうのだ。
影響がないなら、ほんとうは、影響がないのに、「エイリさんが、騒音のせいにしている」と(人は)思う。ほんとうは、影響がないのに「エイリさんが、さぼろうとして、騒音のせいにしている」と(人は)思ってしまうのだ。
* * *
人がどう思うかなんて、関係がない?
いやーー。「俺が、さぼろうとして、言い訳をしている」と思っているのは、こいつらなんだよ。
きちがい家族が、頭がおかしいから、自分の欲望にしたがって、よその家では絶対に一分だって鳴らせないようなでかい音で、ヘビメタを鳴らす。
そして、ぼくは、ヘビメタの音が大嫌いなのだ。
ものすごく、苦手なのだ。
あんなのが、至近距離でガンガン鳴っていたら、解ける問題も、解けなくなってしまう。
鳴ってなければ……長時間さらされていなければ、普通に眠れるのに、どうしても眠れなくなってしまう。ようするに、勉強においても、睡眠においても、影響をうける。
けど、きちがい家族にやられていない人間が『そんなのは、関係がない』『影響なんてうけない』と信じ込んでいるのだ。
そして、それを前提に「俺がさぼろうとしている」と言うのだ。「あまえたことを言っている」と言うのだ。「言い訳をしている」と言うのだ。屈辱だろ。なんで、これが屈辱じゃないんだ。
しかも、そういう屈辱的なことを言ったやつが、おなじくちで、「人がどう思うかなんて気にしなければいい」と言うのだ。こんなのない。
* * *
ヘビメタ騒音の影響を認めないということは、ヘビメタ騒音の影響で、「できなくなる」ということを認めないということだから、問題が発生する。
こいつらが、こともあろうに、俺のことをバカにしてくるのだ。こいつらだって、自分が苦手な音でおなじことを体験すれば、眠れなくなる。
毎日、続けば、毎日、影響をうける。
不可避的に、長期的な影響が出る。その影響の結果、睡眠障害になり、生活体力障害になり、通勤できなくなる。
けど、ヘビメタ騒音の影響を認めないわけだから、通勤できなくなるということも認めないということになる。
「そんなのは、あまえだ」と言ってくるようになる。「できないなんてことはない」と言ってくるようになる。ただ単に、自分が、きちがい家族といっしょに暮らしていないから、きちがい家族が『やる』騒音にさらされていないだけなのに、それがわかっていないのだ。
自分だって、苦手な音に、さらされ続ければ、通勤できない体(からだ)になる。
通勤できない体(からだ)になり、友達づきあいが減っていけば、ひきこもりということになる。
障害を障害と認めれば、社会的な引きこもりにはならないのだけど、そういう線引きだってあいまいだ。
きちがいヘビメタ騒音の影響を認めなければ、勝手に、引きこもりになったと認識するのだ。彼ら……頭が悪いやつらが、俺のことを、勝手に引きこもりになった人間だと認識する。
そうすると、彼らは頭が特別に悪いので、俺のことを見下してくるのだ。
かくして、きちがいにやられて、バカにバカにされるという状態ができあがる。
頭が悪いから想像力がなく、ヘビメタ騒音の影響を無視してしまうのである。経験がないから、ヘビメタ騒音の影響を無視してしまうのである。
経験がないからわからないというのは、まあ、あたりまえのことだけど、経験がないということを、想像力でおぎなうことができないのだ。
自己中でバカだから、『影響はない』と思ってしまう。ところが、影響はある。
* * *
きちがい兄貴がかわかった人なんだよ。だから、きちがい兄貴のような家族が(家の中に)いる人がすくない。そして、きちがい兄貴のような家族が、囲碁ではなくて、ヘビメタに興味をもってまう家族の人というのは、もっと少ない。レア中のレアなのである。だから、あるていど想像力がある人でないと、「自分だったらどうなるか」ということが、想像でない。あるいは、「自分のきらいな音が、それだけ長く、それだけでかい音で鳴っていたらどうなるか」ということを想像できない。想像力がないから、まったく想像できないのだ。
そして、たとえば、言霊思想のようなものをもっていると、「言えば言ったことが現実化するのだから、できると言えばできる」と考えてしまう。言霊主義者の理論的な誤謬については、ここでずっと語ってきた。けど、ここで語ってきたことを、言霊主義者に理論的に説明しても、たいていの言霊主義者は、わからないのだ。はねのけてしまう。「難しいことはまちがっている。簡単なことが正しい」と言ってくる。ようするに、うけつけない。はねのける。このはねのけた状態というのは、きちがい兄貴が「しずかにしてくれ」と言われて、はねのける状態と、ちょっと似ているのだ。
ともかく、世間の人は、それだけ長い間、きちがい家族に「自分の苦手な音」を爆音で聞かされたという体験がない。なので、わからない。実際にどうなるのかということについては、わからないのだ。だから、そこで、想像力がたいせつになる。たいていの人は、ぼくが経験したレベルの騒音については、あんまり、うまく想像することができないのだ。だから、想像できない人は、『ヘビメタ騒音の影響』を軽く見ることになる。「そんなの、関係、ない」「ヘビメタ騒音なんて、関係がない」と言ってくる。
きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的にでかい音を鳴らして、生活をするということと、世間の人がそんなの、関係、ない」「ヘビメタ騒音なんて、関係がない」と言って、俺を軽蔑してくるのが、セットなんだよ。これ、セットなんだよ。
どうしてかというと、世間の人には「ヘビメタ騒音の影響」が見えないから。「そんなのは、関係がない」と考えるから……。しかし、不可避的に関係がある。