ここでは何回も書いているけど、言ったことが現実化するなら、別に、こまっている本人が言わなくてもいいんだぞ。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、家族の騒音で睡眠時間が短くなって、元気がない状態でくらしている。Bさんは、言霊主義者で、「言ったことが現実化する」と強く思っている。
なので、BさんがAさんに「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言ったとする。この場合、Bさんが、Aさんに、そのように言うことを、すすめているのである。
けど、「言ったことが現実化するなら」……別に、Bさんが言ったっていいわけだ。ようするに、「三秒以内に、Aさんが元気になる」とBさんが言ってもいいわけだ。
Bさんが言っても、言ったことが現実化するので、Aさんが、三秒以内に、元気になるということになる。そうだろ。それ以外ないよな。
ところが、言霊主義者であるBさんは、言霊の力で、Aさんを元気にしてあげるつもりはないのである。
これは、実際には言霊の力を信じていないから、そうなるのである。
時間制限をつけないで言うのは、時間制限をつけると、「嘘」であることがばれてしまうので、時間制限をつけないのである。
人生のなかで、「いつか」Aさんが元気になれば、「みろ、言った通りだろ」とBさんが言えるようになる。「いつか」Aさんが元気になることは、ある。
リターン可能期間以内に、きちがい家族の騒音がなくなって、普通に暮らせるようになるかもしないのだ。けど、それが、言霊の力でそうなったのかというと、ちがうのである。
けど、「いつか」であれ、元気になったら、「言った通りになった」とBさんは思うのである。
だから、時間制限をつけなければ、「そうなる確率」はあがるのである。
けど、Aさんは、いまこまっているのである。
いますぐ、問題を解決したいのである。いますぐ、問題を解決できるなら、今すぐ問題を解決したほうが、ずっといいのである。「いつか」ではなくて、「三秒以内」のほうがよいのである。
言霊主義者が、無視をしているのは相手の状態なのである。相手の状態を考えるということが、不得意なのだ。それは、幼児的万能感と自己中心性のなせるわざだ。
ともかく、言霊主義者にとっては、「言えば、言ったことが現実化する」というのは、信念として正しいので、言霊主義者のなかでは「元気だと言えば元気になる」ということは、正しいことなのである。
「言えば、言ったことが現実化する」のだからBさんが「Aさんは、三秒以内に、元気になる」と言えば、Aさんは、三秒以内に元気になるのである。
実際には、Bさんは、Aさんの実情を無視して、むりなことしか言っていないのに、Bさんは、Aさんに助言をしてやったと思うのである。「言い解決方法を教えてあげた」と思うのである。
そして、Aさんが「元気だ」と言っても、元気にならなかった」と言った場合は、Aさんの言い方に問題があるとBさんは、言うのである。
言い方の問題ではないのである。
言い方の問題なのであれば、Bさんがその場で「Aさんは、三秒以内に、元気になる」と言ってあげればよいのである。その場合、Bさんは、自分の言い方が悪いということに気がつくことになるだろう。
そういうことも、なんとなくわかっているので、Bさんは、AさんにAさんが言うように助言をするというやり方しか選択しないのである。
言霊主義者というのは、相手に対して言うときは、相手が言って解決するべきだということを言うのである。
しかし、「言えば、言ったことが現実化する」ということが、正しいのであれば、だれが言っても、現実化するのである。
Aさんのかわりに、Bさんが「Aさんは元気になる」と言えば、Aさんは元気になるのである。ところで、Aさんは、「よし、つかれはてるぞ」と思って、「つかれる」と言ったわけではないのだ。
家族の騒音で睡眠不足になって、つかれはてているのだ。
原因は、Aさんがつかれていないときに「つかれた」と言ったことではないのだ。Aさんがつかれていないときに、「つかれた」と言ったから、言霊の力によって、Aさんがつかれたわけではないのだ。
ちゃんと、別の理由があるのだ。
別の理由というのは、言霊以外の理由ということだ。この理由を、原理的に、言霊主義者は、無視してしまうのである。そして、勝手に「つかれた」と言うから、つかれるのだときつめつけてしまう。
「つかれた」と言うから、つかれるのだから、「元気だ」と言えば、元気になるのである。……こまった、考え方だ。
ともかく、「言えば、言ったことが現実化する」という文のなかには、主体に関する制限がないのである。主体に関する制限がないと言っても、主格に関する制限がないと言っても、おなじだ。ちょっと意味はことなるけど、「主語」に関する制限もないのである。
発話する主体が、どういう主語を選ぶかについては、まったく制限がないのである。発話する主体に関する制限もないし、時間に関する制限もない。
ようするに、だれが言ってもかまわないし、制限時間をつけていってもかまわないということだ。
だから、理論通りなら、Bさんが「三秒以内に、Aさんは元気になる」とBさんが言えば、それで、Aさんは元気になることになるのである。正しければ……。正しくないので、元気にならないことのほうが多い。
時間的な近接の問題がある。時間的に近接していると、言霊主義者が「言えば、言霊の力で、言ったことが現実化する」と誤解をしてしまうのだ。なにとなにが時間的に近接しているのかというと、「言ったという出来事」が起こった時間と、「言った通りになったという出来事」が起こった時間が近接しているということだ。
「言えば、言ったことが現実化する」という言葉のなかには、「言霊の力で」という文字列が含まれていない。「言えば、言ったことが」ほかの力によって現実化する場合があるのだ。
これを、言霊主義者は「言霊の力で現実化した」と思ってしまうのだ。
だから、時間的に近接している場合は、言霊主義者が誤解をしてしまうのである。
「言ったという出来事」と「結果の出来事」が時間的に近接している場合は、「言えば、言ったことが現実化した」ということになってしまうのである。「言えば」の「ば」の扱いが問題になるのだけど、それは、むかし書いたからここでは、省略する。
時間的に接近していれば「言えば、言ったことが現実化する」と、言霊主義者が認識してしまうのだ。その場合、言霊の力で現実化したわけではないのだけど、いちおう、文としては意味が通るということになってしまう。
時間的に接近しているだけなのだけど、両者の間に因果関係があると思ってしまうのだ。両者というのは、言ったという出来事と文字列の意味内容をしめす結果になったという出来事のことだ。文字列というのは、そこで発せられた言葉のことだ。
ともかく、言霊主義者は、こまっている相手のかわりに、自分が「言うことで」問題を解決しようとはしないのだ。かわりに、相手が言うことで問題を解決することができるということを言う。
そうすると、相手の言い方が悪かったから、言霊の力が発動しなかっただけだというような言い訳をすることができるからだ。「言霊の力はある」し「言霊理論は正しい」けど、相手の言い方が悪かったから、言った通りにならなかったのだということを言える余地ができる。
自分が、言ってしまった場合は、自分の言い方が悪いということを認めることになるのである。自分の言い方が悪かったから、現実化しなかったということになってしまう。言霊主義者としては、それはさけなければならないことなのだ。
「自分は言霊の力を使える」という前提でものを言っているからだ。「自分は言霊の力を使える」という前提で「言えば、言ったことが現実化する」と言っているからだ。
けど、言えば言ったことが現実化するのだから、言い方がどれだけへたくそでも、言えば、言った内容が現実化するのである。
もう、書いたことだから、詳細に説明するようなことはしない。
しかし、もう、その時点で、だめなのだ。「言い方が悪いのだ」と言った時点で、言霊主義者は、気がつかずに、敗退している。ほんとうは、矛盾しているのだけど、言霊主義者は矛盾に気がつかない。
ともかく、言霊主義者は、「相手にやらせて」相手の言い方が悪かったから、現実化しなかったのだということを言うのである。
時間的に接近しているので「相手」が言霊の力で、問題を解決できたと「誤解をする」場合は、言霊主義者にとってはハッピーなことだから、それでよいのである。