自分が相手をなぐったから、相手がなぐってきたという場合も、もちろんある。
これは、本人の行いに原因がある。しかし、他人が勝手にやることや、自然界に存在する様々な物質の影響をうける。人間は、自分以外の要素から、影響をうける生き物なのである。
そりゃ、そうだろ。外界のなかに生きているのだから、外界の影響をうける。風が吹けば、風が吹いたということの影響をうける。雨がふったら雨がふったということの影響をうける。なにかにぶつかれば、なにかにぶつかったということの影響をうける。蚊に刺されたら、蚊に刺されたということの影響をうける。ダニに刺されたら、ダニにさされたということの影響をうける。
だから、まあ、自分由来の出来事と、他人由来の出来事と、他の生物由来の出来事と、自然物由来の出来事がある。他人由来の出来事と、他の生物由来の出来事と、自然物由来の出来事を外部環境由来の出来事だとすると、自分由来の出来事と、外部環境由来の出来事のふたつにわけられる。
この場合、この二者は、排他的ではないのである。
排他的ではないのに、なぜか、排他的だと思ってしまう人がいるんだよな。
風が吹いたら、「風が吹くと(自分が)思ったから、風が吹いたのだ」と思ってしまう。
自然界において、自然に風が吹くということは、外部環境由来の出来事なのに、自分由来の出来事だと思ってしまうのだ。
すべては、自分由来の出来事だと思ってしまうのだ。
けど、そもそも、自分がこの世に生まれてきたということも、自分由来の出来事ではない。生物として、細胞分裂を繰り返したというのは、自分のことだけど、自分が意識してやったことではない。
抽象的に考えることができるようにならないと、「自分のこころが、外界に影響をあたえる」と考えることができないのだ。
抽象的に考えることができるようになるまでは、「自分のこころが、外界に影響をあたえる」という考え方を、もつことができないのだ。
まあ、「すべては、自分由来の出来事だ」という説はまちがっているんだけどね。
ともかく、自分由来の出来事と外部環境由来の出来事があるのに、外部環境由来も自分由来の出来事だと、誤解してしまう人がいる。
自分の意思的な行動というものは、あるから、意思的な行動をした場合、自分に結果がかえってくることがある。特に、人間を相手にしてやったことには、そういうことが、おこりがちだ。
けど、すべてにおいて、そうなっているわけではないのである。