きちがい兄貴は、あたりまえのように、鳴らしていたし、きちがい親父は、あたりまえのように、くるっていたのである。頭がおかしいことをして、絶対に、認めない。
ほんとうに、こっちが言っていることがわかってないんだよなぁ。
普通の人だったら、絶対に、そんなことにならないのに、つねに、こっちがこまるようなことをする。それも、きちがい的な意地でするわけで、修正することができない。
殺さなければ、そういう行為や、そういう態度がかわらない。
きちがい親父の場合は、きちがい親父が、その都度、思いつくきちがい的な行為をしていたのだけど、きちがい兄貴は、ヘビメタ、一本だ。ヘビメタしか、きちがい行為をしていないけど、きちがい行為のやり方が、きちがい親父とまったくおなじなのである。
まーーーったく、おなじ。
いま、生きていて、この時間になる、鳴っている感じしかしない。そして、「やりようがあったか」というと、やりようがなかった。俺は、最大限の努力をした。鳴っているなかで、最大限の努力をした。なにもやっていないわけじゃないのである。けど、それをこえて、きちがい兄貴が、きちがい校をしまくった。きちがいだから、まったくわかってない。普通だったら、一秒で伝わることが、まったく、つたわらない。これ、きちがい兄貴ときちがい親父で、おなじなんだ。まーーーったく、おなじ。
部屋中、くっさにおいで充満させて「におわないよぉ!!におわないよぉ!!におわないよぉ!!」と怒鳴るなんて、いかにもきちがい親父がやりそうなことなんだな。その結果、ネズミがきたって、こっちがこまっているということがわからない。
「俺が、つかまえるからいい」「俺が、つかまえるからいい」と怒鳴って、絶叫して、絶対に、ネズミ対策工事をさせようとしない。方向がおかしい。きちがい的な方向に、つっぱしってしまうのである。
それを止めることが、できないのである。
殺さなければ止められないのである。そういうことを、突き付けて、生きているのである。そういうことを、家族に突き付けて生きているのだけど、本人は、ほんとーーーに、しらんぷりなんだよ。
これ、知らないふりをしているのではなくて、絶叫したときに、はねのけている。絶叫して、はねのけると、言われなかったことになってしまう。
まるでなかったことのようにあつかわれるというよりも、実際に、親父の頭のなかでは、なくなってしまうのである。あれは、そういう態度なんだよ。
だから、何回繰り返しても、おなじ反応が返ってくる。
この、「何回繰り返しても、おなじ反応が繰り返される」というのが、兄貴の場合でも、おなじなのである!!
親父の頭の中になにも残らない構造と、兄貴の頭の中になにも残らない構造がおなじなのである。
これ、絶叫バージョンと、寡黙バージョンがあるのだけど、兄貴は、寡黙バージョンだけだ。けど、頭の中でおこっていることがおなじなのである。はねのけたら、頭の中には、なにも残らないのである。兄貴の反応と、親父の反応が、おなじなのである。
自分にとって、不都合なことを言われたときの、親父の反応と兄貴の反応がおなじなのである。
弟が自分(兄)のヘビメタに関して「文句を言ってきた」ということが発生したとたんに、怒り狂って、自分が実際にやってることが、頭のなかから消えてしまうのである。やってないことになってしまうのである。きちがい的な意地でやっているのに、きちがい的な意地でやっているということが、マックスになって、消えてしまうのである。台風の目のごとく、本人にはわからないことになってしまうのである。自分が、こだわってこだわっこだわってやっていることが、どっかに行ってしまうのである。
頭の中に、一切合切残らないのである。言われたら、発狂して、はねのけておしまいなのである。何万回、何十万回、繰り返してもおなじなのである。
だから、ぜんぜん悪いと思っていないのだ。
兄貴は、ヘビメタを鳴らしていた最中、ヘビメタを鳴らしていた期間中、ずっとずっとずっと、何十万回言われても、一回も何も言われなかった気分でくらしているんだよ。これが、ほかの人にはわからない。
そして、実際、ほかの人は、こういう家族と一緒に住んでいるわけではないから、こういう家族がやることを、経験していないのである。
こういう家族に、日常的に、毎日やられたことがないのである。そりゃ、いないのだから、そうなる。そうると、ぼくに対して、誤解をするのである。これも、全自動で誤解をする。これが、不愉快なんだよ。
普通の意味で、「やっていることを認めない」ということとは、ちがうことをやっているんだよ。普通の意味で「やっていることを認めない状態」ではなくて、普通ではない状態で「やっていることを認めない状態」なのだ。普通の人がわかるわけがない。
そして、おそろししいことなのだけど、当の本人が、普通の人よりもわかっていないんだよ。きちがい兄貴は、きちがい騒音問題を発生させている「張本人」なんだよ。その、張本人が、ほかのまったく関係がない人よりも、まったくなにも、わかっていないのである。
だから、「そんな音でヘビメタを鳴らしたら、うるさくて困るだろ」「そんな音でヘビメタを鳴らしたら、(こっちは)勉強が出なくて困るだろ」ということが、最初の日から、15年目の最後の日まで、まったくわかっていない状態で、鳴らすんだよ。頑固に鳴らす。
これ、言わなくたって、「こんな音で鳴らしたら迷惑だな」ということがわかるものなのだ。普通の人間なら「うるさいからやめてくれ」と言われなくても、「こんなでかい音で鳴らしたら、迷惑だな」ということが、わかる。
きちがい兄貴は、きちがいなので、それが、まったくわからない。
弟が「うるさいからやめてくれ」と言ってきたとする。一度でも、言ってきたら、わかるんだよ。言われたら、普通は、わかるんだよ。ところが、何十万回言われても、まーーーーーったく、わからないのだ。
「まったくなにも、やってない人」として暮らしているのだ。きちがい兄貴は、きちがい的にでかい音で鳴らしているのに、「まったく音を鳴らしていない人」として暮らしているのだ。きちがい感覚だとそうなってしまうのだ。
きちがい的な意地で、絶対にゆずらないで鳴らしているのに「まったく鳴らしていない人」として暮らしている。
このきちがい兄貴の感覚が、普通の人にはわからない。そして、きちがい兄貴自身が、普通の人よりも、自分にそういう感覚があるということがわかっていないのだ。ごく普通に、自分がやっていることを無視してしまう。普通の人なら絶対に、わかることがわからなくなってしまう。
かりに、まったく鳴らしてない人がいたとする。ヘビメタ騒音を一日に、一秒も、でかい音で鳴らさなかった兄貴がいるとする。兄貴のなかの自我像(兄貴像)というのは、これなのである。
あまりにも、きちがい的な感覚だから、ほかの人にはまったくわからないのだけど、「まったく鳴らしていない兄貴」として暮らしているんだよ。
けど、じゃあ、「やめてくれ」と言ったら、「やめてくれる」のかといったら、やめてくれないのだ。弟が「やめてくれ」と言ってきたことは、きちがい的な意地で、ガン無視なんだよ。きちがい兄貴の場合、無視しているということさえ、ガン無視なんだよ。
これ、きちがいだからできることなんだよ。
ほかの人にわかるわけがない。そして、ほかの人以上に、本人がわからないのである。ほかの人以上に、本人は、ひとごとで、関係がない人なのである。
これ、ぼくの説明を聞いたほかの人がしめす関心が、単位なしで一〇〇だとする。きちがい兄貴は、ゼロなんだよ。どれだけぼくが、やめてくれと言って、やめてほしい理由を説明しても、きちがい兄貴は、あかの他人よりも、関心をしめさないのだ。
これも、ほかの人には、わからないことなんだろうな。あかの他人よりも、まったく無関係な人として、やりきるのである。
それで、やりきったことに関しては、なにも感じないのである。
だから、ほんとうに、ぼくの人生を台無しにしたつもりがないのだ。普段、毎日、ぼくの勉強を邪魔していたのだけど、普段毎日、ぼくの勉強を邪魔したつもりがないのだ。
そのつもりがない程度というのが、あかの他人の程度よりも、ひどいのである。あかの他人よりも、わかっていないんだよ。
あかの他人は「騒音でこまっているんだな」ということがわかるわけだけど、きちがい兄貴「騒音でこまっているんだな」ということすら、まったくわからないのだ。
きちがい親父の、ヘビメタ騒音に関する関心のなさもおなじだ。これも、ほかの人に言っても、信じてもらえないのだけど、事実だ。