きちがい親父の「やってやる、やってやる」攻撃というのは、恩を着せるためではない。親父の場合は、「自分はできるんだぞ」ということを、認めてほしいだけなんだよ。これが、強烈で、「恩着せおばさん」の比じゃない。発狂して、絶対に自分の意地を通してしまう。だから、幼児時代からそうなんだよ。俺が幼児のときから、親父はそういう人間なの。でっ、これがいろいろなところに、影を残しているんだよ。それから、心理的な機制があるわけだから、一回や二回じゃないのだ。そりゃ、きちがい親父のなかで「やってやりたくなったら」絶対にやってやらなければ気がすまない状態になる。ほんとうに、きちがいなんだよ。こういうタイプの、いざこざが、たえない。きちがいが発狂して、きちがいの意地を通す。やられてしまったほうの気持ちというのは、ぐちゃぐちゃだ。これ、殺人事件に発達してもおかしくないテンションなんだよ。子どものからだがじゅうぶんに大きかったら、殺人事件に発達する。きちがい親父の場合、きちがいだから、そういうところですべて、でこぼこなのである。頭がおかしいことを、頭がおかしいレベルの意地でやってしまう。
いちいち、うまくいかないのである。普通だったら、「やらなくていいです」と言えば、それで済むところが、殺人事件に発達するところまで進んでしまう。幼児だと、断りきるとができないので、やられちゃうのである。
子どもが、プラモデルをつくっているとする。そうすると、「自分のほうがうまい」「自分のほうがうまいというところを見せてやる」と親父が思ってしまう。そうすると、「やってやる・やってやる」攻撃が始まる。頭がおかしいから、「やってやると言っているだろ」と何十回も発狂して言う。真っ赤な顔をして、どなりちらす。これ、やらせてあげなかったら、なぐられてしまうような状態なのだ。これ、「やらせろやらせろ」と言って、聞かないんだよ。相手がどう思っているのかということ、まったく問題にならない。これが、工作の宿題で発揮されるとこまるのだ。板に、くぎを打って、糸をかけて、糸で絵をかくというような工作の宿題があった。それで、庭で、ぼくがその宿題をやっていたのだけど、きちがい親父に見つかってしまう。そうしたら、「自分のほうがうまい」「自分のほうがうまいというところを見せてやる」と親父が、強迫的に思って、脅迫をしてくる。「やってやる・やってやる」攻撃をするのだ。やらせてあげないと、殺されるので、しかたがなく、やらせてあげタリス。そうすると、これがまた、「親に宿題をやってもらった」とか言うやつが出てくる。こういうトラブルばかりなんだよ。ちなみに、プラモデルのときは、きちがい親父かうまく、接着剤で、部品をつけらなくて、ひどい状態になってしまったのだ。これ、無理やりとられて、こわされたような状態なんだよ。こころが、めちゃくちゃになるんだよ。けど、きちがい親父は、そういうことがまったくわからなくて、「どうだ、すごいだろ」「うまいだろ」と思っている。これ、「プラモデルの設計図とちがうだろ」ということを、言うと、「ならこうしてやる」と、またへんなふうにされてしまう。まるでわかっていない。けっきょく、つくっている途中のプラモデルをとられて、こわされてしまうのだ。接着剤の部分失敗したら、きたなくなってしまうんだよ。修正液はもってなかった。だいたい、修正液があっても、自分が失敗したわけじゃないのに、修正液で修正しなければならなくなる。で、もちろん、最初から、自分できれいにやったほうが、きれいなんだよ。修正液で修正しても、ちょっと、きたない部分ができてしまう。きちがい親父が、竹を植えたときも、おかあさんが、「竹なんか植えないで」とと必死に鳴っ訴えかけているのに、やってしまう。そうしたら、「うまく、植えられただろ」「ほめてほめて」と言ったりする。相手が、必死になってとめていたというのが、わからない。相手がいやがることをしたのに、相手がほめてくれると思っているのだ。親父が小さいときに、親父の両親が死んで、よその家で、虐待されて育つと、こういうところでおかしくなるのだ。けど、これまた、世間の人が、そういうことをまったく理解しないのだ。「だいの大人がそんなことをするわけがない」「それがほんとうなら、精神病院に連れて行ったほうがいい」……。精神病院に連れていけるわけがないだろ。たよれるのは、当時、大人であるおかあさんだけだけど、竹を植えることさえ、やめさせることができなかったんだぞ。そして、世間の連中はまるでわかっていないけど、おカネの問題だってあるのだ。電球ひとつのことで、発狂してしまうのだ。親父が発狂してしまう。これは、どういうことかというと、おかあさんが、お勝手の電球をかえてしまったんだよ。お勝手の電球が切れたので、手元が暗くなる。それはこまるので、おかあさんが、自分で、電球をかえてしまった。普通なら、それでおしまいだ。ところが、親父がきちがいなので、問題が発生するのである。親父としては、おカネを使われたということが、頭にくることなんだよ。でっ、会社の工場で、もう捨てるつもりの電球があるから、それをもってきてやるというようなことを主張する。これ、全部が全部、訳あり品なのだ。だから、親父が実際に持ってきた電球というのは、なんか、表面に黒い油がついているきったない電球なんだよ。ところが、親父は、それを、自分の手柄のように思っているんだよな。おカネを使って、電球を買わなければならなかったところを、自分が会社から(いらない電球)をもらってきてやったのだから、すごいことなのだ。お手柄なのだ。そういう、発想なんだよ。これも、わからないだろ。世間の人はわからないだろ。親父にとって、自分が(いらない電球を)持ってきてやれるのに、電球を買われたということが、発狂的に腹がたつことなんだよ。すべてのことで、こういうことが成り立っているの……。だれが、精神科のお金払うんだよ!! ハンダゴテ事件のことも説明したけど、ハンダゴテのことも、電球とおなじなんだよ。ちなみに、子どもの靴に関しても、電球とおなじなんだよ。適切な処置というのができないんだよ。使い古して、どうしようもなくなったら、買ってやろうなんて気持ちはないわけ。だから、おかあさんが、親父に言わないで、子どもの靴を買ってやったということが、親父にばれたら、ものすごいことになる。発狂!発狂!発狂!発狂!発狂!発狂!発狂!なんだよ。自分の心臓を黙って売られたというぐらいに、ショックなことなんだよ。親父にとっては、自分が知らないうちに、自分の金(カネ)で、子どものを靴を買われたということが、ショックなんだよ。「そんなの、まだ使える」「なんだ!なんだ!なんだ!なんだ!なんだ!」と発狂してとまらない状態になる。体中、真っ赤になる。いちいち、こういう細かいことで、発狂する。すべてが、トラブルにつながっているんだよ。すべてが、トラブルにつながる、可能性を、もっている。そりゃ、親父がこういう構えなのだから、いたるところで、トラブルが発生するのである。きちがい親父が金をもっていて、きちがい親父のほうが強いときは、もう、やりたいほうだいなんだよ。子どものからだが大きくなると、ちがってくる。ちがってくるけど、親父の中身はかわらないの……。だから、からだが大きくなった兄貴が、ヘビメタをやりだすと、文句を言えなくなってしまう。これ、そういうところもあるんだよ。言いがたいところがある。全部、普通の人が理解できない部分なんだよ。親父において、竹のときの態度と、兄貴において、ヘビメタのときの態度が、おなじなんだよ。親父と兄貴でおなじなの……。親父の竹事件は、兄貴のヘビメタ事件とおなじなの。親父の電球事件は、兄貴のヘビメタ事件とおなじなの。親父のハンダゴテ事件は、兄貴のヘビメタ事件とおなじなの。
それから、親父の場合、「やってやる攻撃」のほかに「やってやらない攻撃」がある。梃子でも動かないぞというような意地を発揮するところがあるのである。たとえば、俺が親父に「兄貴に注意してくれ」と言ったとする。そうすると、梃子でも動かないぞというとになるのである。そういうスイッチが張ってしまう。「ぜったいにやってやらない」というところで、踏ん張るのである。そういうところで、いちいち、でこぼこなんだよ。竹がぴょーんと通り道のところに、のびてきたとする。そうすると邪魔なんだよ。特に雨がふったあとは、竹がぬれているので、自転車をひいて、そこの通り道を通ろうとすると、背中がぬれるわけ。だから、不便を感じるわけ。で、勝手に、親父が植えた竹を切ってしまうと、また、電球事件みたいなことになったり、子どもの靴事件みたいなことになるから、切れないんだよ。おかあさんが勝手に切れないの。だから、「竹がのびてきてじゃまだから、切って」とおかあさんが親父に言ったとする。そうすると、「やってやらない攻撃」がはじまるのだ。やってやらないほうに、スイッチが入って、梃子でも動かないぞということになる。すべてが、こんな調子なんだよ。細かいことで、すべてがこの調子なんだよ。
これ、たとえ、きちがい親父が起こらないところがあったとしても、そんなのはわからないわけ。きちがいだからな。きちがいの基準なんてわかるわけがないだろ。そうなると、いたとるころに、地雷があるような状態になってしまうんだよ。だから、それを「すべてがこの調子だ」という言葉で表現しているんだ。けど、「すべて」というのは、すべてではないから、イ・ラショナルだ(非・理論的だ)ということを言うやつらがいるわけ。けど、実際に、きちがい親父が発狂した場合、それは、地雷を踏んだということになる。どれが地雷かわからないのである。比喩的に言えば、空間地雷みたいなものがあるのである。きちがい親父が、きちがい的な理由で、好きなように爆発できる状態なんだよ。俺が子どものころというのは、そうだったんだよ。きちがい親父の「こころの構え」が、いままで述べてきたとおりのものなのだから、条件が当てはまれば、すべて場合において、爆発するということになるんだよ。親父のなかにしか、条件がないんだよ。親父のきちがい脳みそが、条件を決めているわけ。だから、親父以外の人にはわからないんだよ。実際に、きちがい親父が怒り狂ったことに関しては、すべて、いま述べてきたような心理的なしくみが成り立っている。空間において、どこに地雷(機雷)あるのかということに関しては、そのときのきちがい親父以外は、わからないのである。実際にそのタイプのもめ事が起こった場合、すべての場合において、親父の(今まで述べてきたような)心理的なしくみがかかわっているのである。
「すべて」というのは、すべてではないから、イ・ラショナルだ(非・理論的だ)ということを言うやつらが、言いたいことは、すべての場合において起こるわけではないから、気にする必要はないということなんだよ。けっきょく、そこにつながってしまうわけ。「気にする必要がない」というところにつながってしまうわけ。けど、それはむりなんだよ。きちがい親父のようなしくみをもっているやつが、きちがい的な理由で、ぶつかってくれば、気になるんだよ。そうなる頻度が多いので……気になるんだよ。実際にもめ事が起こったあとになってわかることなのだけど、こういう特殊な、もめ事に関しては、すべての場合において、きちがい親父の側の、きちがい的な脳みそのしくみがかかわっていることなんだよ。親父の側の、普通の人にはない、特殊な心理的なしくみが、かかわっていることなんだよ。
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「恩着せおばさん」に関しては、ちょっと、ここでは書いていないことなので、わけがわからないと思うけど、「恩を売る」つもりで「やってやる・やってやる」と言ってくるおばさんのことだ。親切にしてやって、あとで、都合よく支配するつもりでいるわけ。「恩着せおばさん」も「きちがい親父」も「やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる」と言って聞かない。 強度は、きちがい親父のほうがずっと強い。これ、殺さないと。黙らせることができないのである。殺さないと、きちがい親父がやってやると思っていることをやられてしまうのである。きちがい親父を殺さないと、阻止できないのである。そういう、テンションの高さだ。程度だけを問題にするなら、「恩着せおばさん」のほうがずっとやさしい。語調は強くなるけど、言って排除できる。きちがい親父の場合、どれだけ強く言っても、むだ。殺さなければ、やられてしまう。そういうテンションの高さなんだよ。きちがい親父がきちがい親父でなければ、そんなことにはならないんだよ。「やらないで」とひとこと、言えばそれですむんだよ。いちいち、殺人沙汰の問題にならなくてすむ。どんだけ小さいことだって、殺人沙汰の問題になる。