2026年3月31日火曜日

●そのとき、「楽しい楽しい」と言わなかったのか?という疑問がわく■言霊※■2026/03/31 21:00

けっきょく、俺が楽しく感じれば、楽しく感じるのだけど、楽しく感じないから、こまっている。

まあ、いろいろと、ありすぎたね。前から言っているけど、実際に起こったことが、感情に影響を与える。

実際に起こったこととは関係なしに「楽しい」と言えば、楽しく感じるなんてことはない。そりゃ、中立的な状態で「楽しい」と言ったら、楽しく感じたと言う人もいるけど、それは、中立的な状態で「楽しい」と言っただけだ。

別に、くるしくてくるしくて、したがないときに、「楽しい」と言ったわけではない。「楽しい」と言うと、楽しい気分になるような気がするというのは、すでに、楽しいとき……実際に楽しいとき!!……「楽しい」と言ったという経験がものを言うのだ。

これは、言葉と感情の連合が、ある程度、頭のなかに成り立っているから、「楽しいことを想起して」あるいは、「楽しい状態を想起して」……自分は楽しくなったのではないかと感じているだけだ。

ようするに、最初に経験がないとだめなのである。

ところが、「楽しいと言えば楽しく感じる」と言っている人は、経験を無視してしまうのである。経験なしに「楽しい」と言っても、「楽しく感じるはずだ」と間違って、思い込んでいるのである。

言霊思考の影響があるのであれば、経験なしに「楽しい」と言っても、言霊の力で、楽しく感じるはずだと考えてしまうのである。「楽しい」という言葉に宿っている言霊の力によって、楽しいと感じるのだと考えてしまうのである。

だから、どんな状態でも「楽しい」と言えば、「楽しい」という言葉に宿っている言霊の力によって、楽しいと感じるはずだと考えてしまうのである。

しかし、「どんな状態でも、楽しいと言えば、楽しく感じるか」と言えば、そんなことはない。

だいたい、そういうことを主張している言霊主義者だって、怒っているとき「楽しい」と言っても、楽しく感じないのだ。

実生活のなかで、実際に不愉快なことを経験したときは、どれだけ「楽しい」と言っても楽しく感じないのだ。そして、たとえば、疲労困憊が続き、うつ病的な状態になっているときは、「楽しい」とどれだけ言っても、楽しく感じないのだ。

朝起きた直後など、頭が回転していないときは、「楽しい」と言ったって、そんなこととは関係なしに、頭が回転していないので、「楽しい」気分にはなれないのだ。

特に、寝不足が一〇〇日以上続いている状態で、朝、無理やり起きたときに「楽しい」と言っても、楽しくならない。言霊主義者は「俺だって、苦労した」とか「俺だって、つらいことはあった」と言うけど、そのとき、「楽しい楽しい」と言わなかったのか?という疑問がわく。

ちょっとでも、「つらい」と感じたら、即座に「楽しい」と言えば、「楽しい」という言葉に宿っている言霊の力で、楽しくなるのではないのか?と言いたくなる。

実際に、ある言霊主義者が「自分でひどい苦労をした」ということを言ったのだけど、「ひどい苦労」を経験する前に「楽しい」と言えば、それで済むわけなんだよ。

どうして、ちょっと「つらい」と感じたときに「楽しい」と言わなかったのか。楽しいと言えば、それ以降は、楽しくなるわけだから、「ひどい苦労」なんて、経験しないはずなのである。

あるいは、言霊理論が真実なのであれば……つまり正しいのであれば……「自分はこれ以降、一切合切、苦労しない」と言ってしまえば、「自分はこれ以降、一切合切苦労しない」という言葉に宿っている、言霊の力によって、苦労なんてしない状態になるのである。

一切合切、苦労を経験しないで済む状態になるのである。どうして、その方法で、苦労しないようにしなかったのか?と訊きたくなる。ひょっとして、そういう言霊的な解決方法を思いつかなかったのか?

人には、あたかも「楽しい楽しいと言えば、どんな状態でも楽しくなる」というようなことを言っているけど、本人は、そういうことをしてない状態なのである。

本人が、日常生活の中で、つらい体験をしたら、つらいと思って、「楽しい」と思わないのである。つらい体験をした直後に「楽しい楽しい」と言えばいいじゃないか。

そうしたら、つらい体験は「楽しい体験」にかわるのである。自分が、日常的にはやっていないことを、よその人には、求めるのである。……言霊主義者は……。

それ以前に「これ以降、つらいことは発生しない」と、ひとこと言えば、それで、つらいことは発生しないことになるのである……言霊理論が正しいのであれば……。 

ぼくの観察の範囲で言えば、言霊主義者は、言霊理論を否定されたときは、普通に「怒った状態」になる。即座に、「楽しい楽しい」と言って、楽しくなってくれよ。「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるのだろ。

それから、「受け止め方をかえればいい」と言っている言霊主義者は、言霊理論を否定されたときは、「言霊理論を否定してくれてありがとう」と受け止め方をかえればいいのである。

それから、「すべてに感謝すれば幸福になる」と言っている言霊主義者は、言霊理論を否定されたときは、「言霊理論を否定してくれてありがとう」と受け止め方をかえればいいのである。

なんで、自分が信じている理論を否定されたときは、それらの「きれいごと」「お題目」を実践しないのか?

自分が信じている理論を否定されたときは、「受け止め方をかえればいい」だろ。

自分が信じている理論を否定されたときは、「なんでも感謝感謝だから、否定した相手に感謝すればいだろう。「すべてに感謝すれば幸福になる」のだから、「否定してくれてありがとう」と感謝すれば、幸福になる。

どうして、現実の場面では、腹を立てるんだよ?

だいたい、「今後、一切合切、言霊理論は否定されない」と言えば、今後、一切合切、言霊理論は否定されないようになるのである。だったら、そう言えばいいだろう。

*     *     *

言葉との連合ということを書いた。ようするに、「実際の楽しい感情」と「楽しい」という言葉のあいだに連合ができているので、「楽しい」と言うと、楽しくなったような気がするということだ。

たとえば、宇宙のどこかに、地球に似た惑星があるとする。そして、その惑星に人間らしき生命体(生物)が生きていたとする。そこでは、「ぺぺろっぽ」という言葉が「日本語の悲しい」と言う言葉に対応しているとする。

その場合、日本人である言霊主義者が「ぺぺろっぽ」と言うと、悲しく感じるかどうかいう問題がある。たぶん、感じないだろう。

「ぺぺろっぽ」と言う言葉と、「じっさいの悲しい体験」のあいだに連合ができていないからだ。「ぺぺろっぽ」だと、語感から「楽しく」感じてしまう場合があるので、「ぺぺろっぽ」という言葉の意味を「悲しい」にしておいた。

自分が知らない言葉に関しては、言葉と「実際の感情」のあいだに、連合ができていないので、どれだけその言葉を言っても、その言葉が意味することを、感じることがないのである。生きている中で「こういうときは、楽しい」と言うのだということを、学んできたのである。

「言語」と「そういうプリミティブな感情」の学習(体験)が、だいたいおなじ時期に発生するので、連合が最初からできあがりやすい状態になっているのである。

人間の脳というのは……。「楽しい感情」がわいたときは「楽しい」と言うものだということを、学習したから、そのあとで、「楽しい」と言うと、楽しく感じるような気分になるのだ。

音による例外はあるけど、言葉と感情(体験)の学習がなければ、その言葉に応じる「感情」は発生しないのである。

これは、言霊とは関係がないということを意味しているのである。

実際の感情的な経験と言葉のあいだにある連合が、「その言葉を言うと」……「そういう気持ちになる」という現象を発生させているのではないかと思う。

断言はできないけど、たぶん、そうだ。 

言葉自体に言霊が宿っているわけではないのである。

言葉と感情体験の連合が、言葉を言うときに、感情体験を引き出すことがあるから、そういうことが起こるのである。

ただし、どんな状態でもそうなるかというと、ちがうのである。

ともかく、まったく自分が知らない言葉で、「楽しい」と言う意味の言葉を言っても、ぜんぜん楽しくならないということは理解してくれたかな?

まあ、「おん(音)」がおもしろいから、おもしろく感じるということはある。おもしろいとか、楽しいということに関しては、「おん(音)」が関係していることもある。「おん(音)」音が関係している場合も、言霊とは関係がない。

「音」に対する人間の感じ方の問題だ。

2026年3月29日日曜日

●通勤ぐらいできるという考え方が、ぬけなかった■騒音※2026/03/29 19:26

ぼくの経験の範囲で言うけど……ほんとうに、みんな、「俺だってつらいことがあった」とか「わたしだって、つらいことを経験した」と言うけど、ちがうんだよね。その人たちは、みんな、普通に通学して、普通に通勤している。まあ、俺は、高校までは、行き切ったので、「普通に通勤している」人にだけフォーカスしよう。当時、俺が無職であることをせめた人というのは、通勤している人なんだよ。その人たちにどれだけ、「ヘビメタ騒音でつき売菌で着なくなった」ということを、言っても、その人たちは、まったく……まったく!!……認めなかった。どれだけヘビメタ騒音を浴びたにしろ、通勤ぐらいできるという考え方が、ぬけなかった。俺と話したあとも「たとえ、どれだけヘビメタ騒音の毎日が続いても、通勤ぐらいできる」という考えたを捨てなかった。その人たちが、「俺だってつらいことがあった」と言うのである。こんなの、ない。「こんなの、ない」と言う気持ちが、これまた、この人たちにはわからない。俺にしてみれば「こんなの、ない」と思うしかないことなんだよ。この人たちは、「俺だってつらいことがあった」という言葉で、つらいことの均質化・同質化・同程度化をしている。実際に、通勤できる体をもっているという時点で、この人たちが、ぼくが経験したこと、あるいは、ぼくが経験したのと同程度のことを、経験していないということを、如実に示している。ぜんぜん、ちがうのだ。この人たちが考える「つらいこ」と、ヘビメタ騒音のつらさが、ぜんぜんちがう。この人たちの想像力がないから、ヘビメタ騒音を「同程度のつらさだ」と決めつけてしまうのだ。同レベルことを毎日経験していたら……毎日数年間、毎日十数年間経験していたら……絶対にそんなことは言えない。もちろん、証明はできない。だから、「そんなのは、おまえが言ってる一〇〇%詐欺じゃないか」と思うかもしれない。しかし、ちがうのだ。ちがう。ぜんぜん、ちがう。この人たちが、普通に通勤できる体を(その時点で)もっているということが、同程度の経験をしていないということを、如実に示している……。如実に示している……と思うとしか、言いようがないのだけど、如実に示している。どのみち、証明はできないので、「そんなのは、おまえが言ってる一〇〇%詐欺じゃないか」と思ってくれても、けっこう。ぜんぜん、ちがう。同程度の経験がないから、「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、通勤ぐらいできる」「ヘビメタ騒音が鳴っていたから、通勤ができないなんていうのは、あまえだ」と言えるだけ。

小六・途中から毎日、中学全部毎日、高校全部毎日……ぼくが、どれだけ、努力して、学校に通っていたのか、この人たちは、無視している。努力なんてものじゃない。もう、必死になって、くらいついていた。毎日、二時間、三時間しか眠れなくて、つらかった。ヘビメタ騒音で勉強ができない時間というのが、ただ単に勉強ができない時間ではないのである。死に至るほど、マイナスの時間なのだ。 

「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつが、理解できることじゃない。ぜんぜんちがう。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつが、経験してきた困難なんて、たいした困難じゃない。はっきりと、そう言える。どれだけちがうか……「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつ本人が、わかっていない。けど、それを言えば「わかってる。わかっている」と言う。「俺だって苦労した」と言う。けど、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という考え方を保持できるような苦労なんだよ。ぜんぜん、ちがう。ぜんぜん、ちがう。口が裂けても「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言えなくなる。経験として、わかっていないということじゃないか。「楽しい楽しい」とどれだけ言っても、楽しくならないということを、経験としてわかっていないだけじゃないか。そんな人が言う、苦労なんて、たいした苦労じゃない。

通勤して、「俺だって苦労した」と言っているやつもおなじ。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつとおなじ。こいつらは、みんな、おなじレベルのやつらだ。まったく、わかっていない。ぜんぜん、わかっていない。「そういうことじゃないんだ」ということを、どれだけ説明しても、理解してくれない。きちがい兄貴のような『壁』を感じる。まあ、この人たちが、きちがい兄貴のように、非常識な行動をするというわけではないけどね。この人たちは、俺の不都合(通勤できなくなったという不都合)に関係がない。この人たちがいたから、俺が(通勤でなくなった)というわけではない。けど、ヘビメタ騒音のことを理解しないという点では、きちがい兄貴とおなじなんだよ。この人たちは、いつも、いつも、ヘビメタ騒音がもたらす負の効果(影響)を過小評価するか、無視する。兄貴とかわらない。どういうことになるか、まったくわかっていない。毎日、つみかさなる場合の効果がぜんぜんわかっていない。経験していないから、わかっていないだけだ。ぜんぜんちがう。ともかく、ぜんぜんちがうということが、わかっていないやつらから、俺がバカにされる。ともかく、ぜんぜんちがうということが、わかっていないやつらが、俺のことを下に見るようになる。これも、ヘビメタ騒音の副作用だ。きちがい家族による、毎日続く、きちがい騒音の、副作用。これも、こいつらの構造が変わらないなら、不可避的なことだ。きちがい的な感覚で、きちがい的な音を、毎日ならされちゃったら、不可避的にそうなる。こいつら(理解してない’人)は、自動的に俺ことを見下すようになる。きちがいヘビメタ騒音で、普通にできていたことができなくなる。最大限の努力をしても、できなくなる。「できると言えばできる」とか、冗談でも、失礼だよ。「失礼な発言をした」ということが、わからないレベルのやつらなんだよ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。