やがては、定年退職して、無職なるために働いている人は、将来、無職になるために、頑張って働いているということになる。
ところが、人には「人間は働くべきだ」と言ってしまう人たちがいる。
あんまり、この言い方は好きではないのだけど、主語がでかい。「人間」という主語は、でかすぎる。
ともかく、将来無職になるために、いまは、頑張って働ている人が、「人間は働くべきだ」というのは、ナンセンスだ。だって、そうだろ。
将来、無職でも、安心して暮らせるように、いまは、頑張ってお金をためている。それなら、資産額の問題なんだよ。
じゅうぶんなお金をためれば、働かなくてもいいと考えているということなんだよ。矛盾したことを言うな。倫理の問題にすり替えるな。
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あとは、「人間は働くべきだ」ではなくて、「健康なら、人間働くべきだ」という言い方にしておいたほうがいいのではないかと思う。
どうしてかというと、こいつらは、ほんとうは、働けないほどの病気になったら、働かなくてもいい』と考えているからだ。
条件をつけて言うのか、条件をつけずに言うのかということは、重要なことだ。
本人が、働けないような病気になったら、病気なのだから、仕方がないと思って、働かない状態になってしまうのだ。
まあ、働かない状態が、短い場合は、無職にならずに済むことはある。
しかし、働くか働かないのかということに関しては、(自分は)病気なら、働かないという選択をすることがあるということを言っているのである。
ところが、人間を主語にした一〇〇%構文の文は、病気であろうが働くべきだということを言っているのである。
なので、ここにも、隠れた矛盾がある。
自分と他人ということを考えた場合、自分は病気になったら、働かない状態になることがあるけど、「人間は働くべきだ」と他人には言ってしまうというのは、問題だ。
だってそうだろ。
「人間は働くべきだ」は、一〇〇%構文の文だから、他人は、病気になっても働くべきだということを言っていることになる。
なんだろうが、どんな条件だろうが、他人は「人間だから、働くべき」なのである。
自分が病気になったら、働かなくてもいいけど、他人は、病気になっても、働くべきだという卑怯な考え方がひそんでいるのである。
条件をつけずに、一〇〇%構文の文で「人間は働くべきだ」と言うことは、卑怯なことなのである。
自分は、じゅうぶんな資産を貯めたら、働かない。
自分は、病気になったら働かない。
そういう条件があるのに、他人には無条件で、「人間は働くべきだ」と言ってしまう。
それで、おかしいとは思わないのだろう。
自分に適応される、文は「健康なら、人間は働くべきだ」であり、また「じゅうぶんな資産がないなら、人間は働くべきだ」であるのに、他人には「人間は働くべきだ」と言ってしまう。他人に言う文には「条件」がついていないのである。
自分のなかの基準としては、「条件」が最初から、ついているのである。
だから、自分に対しては、ほんとうは、最初から「人間は働くべきだ」とは思っていないのである。
おかしいとは、思わないのか。
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「あなたは、働くべきだ」とか「自分は、働くべきだ」という話ではなくて、「あなた」である他人に、「人間は働くべきだ」と言ってしまうのである。
この、きたなさ。この、やり口。
まあ、どんな病気になっても、絶対に死ぬまで働くつもりでいる人はいい。
しかし、ぼくの経験の範囲で言うと、「人間は働くべきだ」と他人に言う人のうち、多くの人は、大きな病気にかかったら、働かないつもりなのである。「自分は」働けないと判断するので、働かないのである。
しかし、ぼくの経験の範囲で言うと、「人間は働くべきだ」と他人に言う人のうち、多くの人は、「自分」から見て「働けるように見える他人」には、「人間は働くべきだ」と言ってしまうのである。