2025年12月24日水曜日

●条件がちがえば、おこることもちがうのである■社会※2025/12/24 12:25

だれも他の個体になれない。

だれも、ほかの人ではない。

そして、自分の体と他人の体は、わけられているので、他人の体が感じていることを、自分の体が感じることができない。

他人の体が感じていることを、自分の体に置き換えて、他人の体がどう感じているのかということについて、本人が「考える」だけなのである。

これは、他人のくるしみに対して、鈍感だということを意味する。他人がくるしくても、自分はくるしくない。これが、まず、成り立っている。

他人がくるしくても、自分はくるしくないという感覚は、「自己責任論」の基礎になっている。

しかし、自己責任論者が「これ」を自覚することはない。「すべては、自己責任だ」と考えておしまいなのである。

もちろん、他人の身に起こったことは、その他人の自己責任なのである。そして、自己責任論者は、この考え方が正しいと思っている。

しかし、悪い条件をもっている人は、その悪い条件によって、不可避的に、不利なことがしょうじるのである。これは、自己責任とは言えない。

また、他人のいたみがわからない他者と暮らしている場合、他人の行動によって、「自己」が傷つくことがあるのである。他人のいたみがわからないというのは、精神的なことではない。

実際に、他人の体と自分の体がちがうので、いたみがわからないのである。

普通、「他人のいたみがわからないということ」は、想像力のなさについて語られることなのである。そして、他人のいたみがわからない個体と、他人のいたみがわかる個体だと、たいていの場合、その文脈においては、他人のいたみがわかる個人のほうが優れているということになっている。

そういう文脈が頭のなかに、成り立ってしまう。

しかし、これまで述べてきたように、実際に、他人の体と、自分の体が、わけられているので、他人のいたみは、わからないことなのである。他人のいたみは、想像するようなことでしかないのである。

想像力に関しては、個体によって、これまた、差がある。

この差は、普通は、あんまりうまらない。わかるように、努力をしてもわからないままなのである。ようするに、他人のいたみ対する想像力がない人は、生涯そのままなのである。

他人のいたみに対する想像力がある人は、生涯、他人のいたみに敏感である場合が多い。しかし、敏感さも、本人の体調によってかわる。そして、ある他人のいたみに対しては敏感だけど、別のある他人のいたみに対しては、鈍感である場合もある。比較的敏感な人も、敏感さの中に、かたよりがあるがある。

しかし、全体的に(他人のいたみに)敏感な性格と、全体的に(他人のいたみに)鈍感な性格というのは、あるように思える。

話としては、あたかも、他人のいたみに敏感な人のほうが優れているように、語られる場合があるけど、実際には、他人のいたみに敏感な人は、そんな人であって、他人のいたみに鈍感な人のほうが、得をしている。

つまり、「他人たいして思いやりがある」という文脈で、他人のいたみに敏感な人のほうが優れているように語られる場合があるのだけど、実際には、ちがう。

他人のいたみに敏感な人は、うまく社会に適応できないことがある。他人のいたみに鈍感な人たちが社会をつくっていて、他人のいたみに鈍感な人たちが、社会人として標準的な人たちだからだ。

ようするに、鈍感な人たちが、「話の中で考える」……都合のいい……他人のいたみに敏感な人の「イメージ」があるのだけど、実際には、そういうことを言っている人たち自体が、他人のいたみに鈍感な人たちなのである。

エンパスは、社会に適応できなくなってしまう傾向が強い。 

*     *     *

個体として体がわかれているという厳然たる事実であって、体がわかれているからこそしょうじる(感覚的な)部分と、想像力で補う(思考的な)部分は、わけて考えなければならないのである。

そして、個体として、からだがわかれているのが事実なので、体がわかれている事実が持つ意味のほうが、想像力の有無や想像力の強度が持つ意味よりも、強い影響をあたえ。

この根本的な影響からは、逃れることはできない。

しかし、個体として、からだがわかれているのが事実は、自己責任論の中で見過ごされがちなのである。

*     *     *
一括思考の問題がある。「すべては思考」と言ってもいいのだけど、ここでは、「一括思考」と言うことにしておこう。

たとえば、「努力をすれば成功する」ということが正しいとする。そうなると、成功しなかった人は、努力しなかった人だということになる。

成功しなかった人のなかには、たしかに、努力をぜんぜんしなかったので成功しなかった人もいるのだけど、努力をしたにもかかわらず、成功しなかった人もいるのだ。一括思考のなかでは、どっちも、区別ができないのである。

努力をしたにもかかわらず、成功しなかったというのは、「努力すれば成功する」という考え方に立てば、存在しない人なのである。

しかし、存在する。

「努力すれば成功する」という考え方が間違っているので、その問題が発生する。「努力をすれば成功する」ということを、信じている人のなかでは、努力したにもかかわらず、成功しなかった人というのは、いないことになってるのである。

しかし、それでは、なんとなく、矛盾を感じるのだろう。程度の問題を持ち出すのである。努力したのかもしれないけど、努力がじゅうぶんではなかったということになるのである。

それなら、努力をしたのだから、成功していなければならないのだよ。

けど、努力論者は、自分が言っていることに矛盾を感じない。

「努力がたりなかったから成功しなかったのだ」という鑑賞地域をつくることによって、矛盾を解決したつもりになっているのだ。

しかし、この矛盾は、どこまでも、矛盾して成り立つ。ぜんぜん解決していない。

けど、たいていの努力論者は、解決したつもりになってしまうのだ。

気分だけでものを言うような人たちだから、しかたがない。ちゃんと理論的に物事を考えらない人たちなので、しかたがない。

*     *     * 

一括思考は、自己責任論でも成り立っていて、「すべては自己責任だ」ということになっている。もちろん、最初は、自分自身を対象とした自己責任論なのだけど、すぐに、他人を対象とした自己責任論になってしまう。

他人の身に起きたことは、すべて、その他人の責任なのだ。しかし、実際には、生まれながらに、条件がちがう。他者の行動を(だれかその人が)完全に支配制御できるわけではないので、他者の行動によって影響を受ける場合があるのである。

しかし、自己責任論者は、それを認めない。すべては、自己責任なので、他者の行動によって発生したことも、(その人)の責任だということになってしまう。一括思考が成り立っているので、個別性は、どこまでも、無視されてしまうのである。

ほんとうは、個別性がある。個々の具体的な事件や個々の具体的な出来事には、個々の具体的な条件が成り立っているのである。そして、個々の具体的な出来事には、それに至るまでの個々の具体的なプロセスがあるのである。

これを、すべて無視して、「すべては自己責任だ」と(だれかがだれかに)言う場合は、問題がしょうじる。それは、個別性を無視してているから、発生する問題だ。

ケースバイケースなのである。

ところが、自己責任論者は一括思考をして、他人の身の上に生じたことは、すべてその他人の責任だと決めつけてしまう。個別具体的な事件についても、やられたほうの自己責任だということになってしまうのである。

努力論も、自己責任論も、個別性を無視してしまうのである。つまり、条件を無視してしまう。しかし、実際の世界では、条件がちがえば、おこることもちがうのである。

2025年12月19日金曜日

●自分はこまらないわけだから、ずっとやり続けてしまうのである■騒音※2025/12/19 14:17

 それにしても、ネズミの糞が増えているのに、「俺が(ネズミシートで)つかまえるからいい」と言って、動かなくなってしまう。絶対に、ネズミ対策工事をさせないようにする。これで、こっちが、どれだけこまることになるか、ぜんぜんわかっていない。ネズミの糞が増えていると言っているだろ。親父に言ったのに、発狂モードで真っ赤な顔をして、無視だ。そういうところで、スイッチが入ってしまうと、ずっとゆずらないんだよ。でっ、これが肝心なことなんだけど、それで、相手がどれだけこまっても、相手がこまっているということがわからない。ネズミシートで捕まえたとしても、ネズミが家の中に入ってきてから、捕まえるわけだから、ネズミの糞が増えるんだよ。そんなことは、説明しなくてもわかることなんだよ。けど、何回も説明した。けど、わからないのである。自分の中で、ネズミ対策工事をさせないということになったら、もう、絶対の意地で、すべてのことを否定して、絶対にネズミ対策工事をさせないようにするのである。もともと、親父が、魚を一日に二三時間、テーブルの上に出すことにこだわって、ネズミが入ってくるようになったのである。普通の人なら、やらないことをやったのである。そして、これも、何回も何回も、「魚を出しっぱなしにすると、くさいからやめろ」ぼくが親父に言ったのである。言わなかったことじゃないのである。けど、鼻が正常なら、絶対にわかることを否定して、ゆずらないのである。自分が「魚を一日に二三時間、テーブルの上に出すことにしたら、どんなことがあっても、なにを言われても、魚を出しっぱなしにするのである。

粗大ごみの処理をしなければならないのだけど、ネズミが家の中に入っていた期間が長いので、いたるところに、ネズミの糞が落ちているのである。でっ、そのネズミの糞を、ダニに刺されながら、片づけたのが俺なのである。ところが、俺に……そういう、いやな思いをさせているということは、一向に思い至らないのだ。これも、言われないから知らなかったのではなくて、何十回言われても、わからないままなのである。そして、ここでも、「ネズミがきたのは、親父が魚をだしっぱなしにして、部屋ににおいを充満させたからだ」ということを、(俺が親父に)言うと……言われた親父は、「出してないよぉ!!出してないよぉ!!出してないよぉ!!」とわめいて、出したということを認めないのだ。こんなのない。その場だけ、言い逃れをすれば、それで、本人は住んでしまうのである。しかも、これ、悪意があってやっていることではないのである。自然に……ごく自然にそうなってしまうのである。親父の反応パターンが、このように決まっているのである。自分が認めてしまったら、まずいことになる場合は、絶対の意地で、どんなうそをついても、認めないのである。バレバレの嘘をついても、認めないのである。相手が知っていることで、何回も、もめたことなのに、「嘘」を真っ向から言って譲らないのである。これも、「相手をこまらせるために、嘘を言ってやろうと思って」やっていることではないのである。常に、そういう、反応をして、暮らしているのである。だから、一緒に住んでいるこっちは、ものすごく嫌な思いをすることになるのである。ところが、親父のほうは、まったく何もやったつもりがない状態で暮らしているのである。何十年間も毎日そういう状態なのである。どうしてかというと、意図して、やっていることではないからだ。「嘘をつこう」と思って嘘をついているのではなくて、その都度、ごく自然に嘘をつくということになっているのである。そして、「嘘をついた」という自覚は、嘘をついているときも、嘘をついたあとも、ないのである。それで、本人は、「へいき」なのだ。こんなの、ない。「お父さんだって、ちゃんと言えばわかってくれるよ」というような発言をする人がいるのだけど、これだって、どれだけ現実離れした発言か、本人はわからないのである。親父と一緒に住んでいるわけではないので、わからないのである。家族として……ここ重要なのだけど……家族として、一日でも親父と一緒に住んだことがあれば、わかることなのだけど、家族として、一日も、親父と一緒に住んだことがないので、わからないのである。何度も言うけど、そういう気楽な発言をしている人は、わかっていないということがわかっていない。これも、説明すれば、相手がわかってくれるのかというと、あんまりわかってくれないときのほうが多い。「話自体がへんな話」なので、ぼくが嘘を言っていないのに「そんなこと、あるかな」などと疑問を呈したことを相手が言う場合が多かった。そういうところで、相手が疑問をもったまま会話が終わる場合が、あった。俺が言ったことをちゃんと認めてくれる人よりも、疑問をもったままの人のほうが、はるかに多かった。それが、現実だ。疑問をもっている人は、ぼくが嘘を言っている可能性について考えているわけで、ぼくが本当のことを言ったという認識はないわけ。だから、親父は、ごく自然に頭がおかしい反応をするのだけど、よその人は、それが理解できないから、よその人は、俺が嘘を言っていると思うことが多かったのである。

そして、親父の「脳みその問題」と兄貴の「脳みその問題」は、この点について、おなじなのである。自分が、認めたら「やばいことになる」と思ったことは、どれだけ明らかなことでも、頭がおかしいレベルで、否定して、認めないのである。認めなければ、頑固にやったって、一階もやったことがないことになってしまうのである。本人のなかで、そうなってしまうのである。だから、頑固にやり通して、頑固にやったということ自体を認めないという……摩訶不思議な状態が成り立ってしまうのである。こういう状態で、きちがい兄貴は、「ヨソのうちでは一分だって鳴らせないような音のでかさで」……ヘビメタを毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らし続けたのである。きちがい親父ときちがい兄貴は、おなじ構造の脳みそをもっているので、何百回、何千回、何万回、何十万回……「ヘビメタ騒音でこまる」ということを言われたって、まったく、気にしないのである。俺がこまっているということが、まったくわからないのである。これも、親父の話で言えば、魚のにおいが、くさいということを、認めないレベルで認めないときとおなじなのだ。ちょっとでも、自分にとって、不利なことを言われると、発狂して、認めないモードになってしまうのである。どれだけ明らかなことでも、絶対に、なんだろうが認めないのである。しかも、そうやって、明らかなことを認めなかったということも、認めないのである。あたりまえだ。意図的に認めないようにしようと思って認めないのではなくて、ごく自然に、認めないのである。その場合も、よその人は「そんなのは変な話だ」と思うのである。「ちゃんと言えば、わかってくれるよ」と思うのである。ほんとうは、そのよその人だって、おなじことをやられれば、宿題ができなくなるのに、「騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」と(俺に対してその人が)言いやがるのである。 これだって、ちょっとした対立だ。「そのよその人だって、おなじことをやられれば、宿題ができなくなるのに」と書いたけど、もちろんそんなことは、証明できない。俺がそういう風に思っているだけだ。俺は、実際にやられたできなくなると思うけどね……。

聴覚が正常なら、「でかい音だ」ということは、説明されなくてもわかることなんだよ。けど、「でかい音だ」ということを認めてしまうと、やばいことになるのである。音を下げなければならなくなってしまうのである。音を下げるのは絶対に、いやなんだよ。だから、「でかい音じゃない」ということになる。兄貴のなかで、ごく自然にそうなってしまう。一度そういうスイッチが入ってしまうと、認めない状態でずっとやり続けることになるのである。親父だって、ほんとうにネズミが入ってきて、ネズミに(親父本人が出していた魚を食べられてしまう)ということが発生するまで、魚を出し続けたのである。兄貴の場合、兄貴がでかい音で鳴らし続けても、兄貴がこまるということがなかった。俺がこまっているだけなのである。俺がこまっているから、兄貴に対して、これこれこういうことでこまるということをどれだけ言っても、兄貴のなかでは、即座に否定されることであって、兄貴のなかに入らないのである。これが、奇妙奇天烈な態度で、ほんとうに、わかっていな状態で、その行為をやり続ける。相手が死ぬほど、こまっていたって、自分はこまらないわけだから、ずっとやり続けてしまうのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。