「できると言えばできる」という文と「努力すればできる」という文は、おなじような機能を持つことになるのである。
「できると言えば、できる」のだから、「できる」と言えばできるのである。「できる」と言ったあとに、「できない」状態なのであれば、それは、言霊理論が間違っているからなのである。
「言い方が悪い」というようなことは、一切合切、関係がないのである。
言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化される」という言霊理論が間違っているから、「できる」と言ったあとも、できない状態なのだ。「できる」と言ったあと、「できる状態」になることは、ある。
あるけど、いつも、一〇〇%、できるようになるかというとそうではないのだ。
そして、肝心なことなのだけど、言霊の力によって、「できる状態」になったのではないのだ。
たとえば、なわとびの二重廻しが、できない人が、「できる」と言ったあと、なわとびの二重廻しができるようになったとする。もし、「できる」と言ったことが関係しているのなら、それは、言葉の力だ。自己暗示はある。
それから、すでにできる体力的な条件がそろっていて、「できる」と言わなくても、その日には、できるようになっていたかもしれない。
ようするに、「時間」が必要だったのかもしれないのだ。
やるまえに、『ひょっとして、自分はできるんじゃないかな』と思ってやってみたら、できたということはある。
けど、赤ちゃんにはできない。「自分」が赤ちゃんのとき、二重廻しができるかというと、できない。
ようするに、身体的な成長をまたなければならない。体が成長するということも、「言霊」の力によって、体が成長したわけではない。
「できる」と言ったあと、できるようになったとしても、それが、言霊の力によって、できるようになったのだと考えるのは、すでに、言霊理論におかされているから、そう感じて、そう考えるだけなのだ。
「できる」と言わなくても、そのトライのとき、できたかもしれない。だいたい、できると言わなくても、やってみたら、できたことがあるはずだ。
それなら、「できる」と言わなかったときに、できるようになったことについては、どう説明するのだ?
言霊理論が正しいなら、親が、「この赤ちゃんは、三秒以内に二重廻しができるようになる」と言えば、言霊の力によって、「この赤ちゃん」は、三秒以内に二重廻しができるようになる。
もし、できるようにならないのであれば、言霊理論が間違っているということだ。
「この赤ちゃん」が成長して、一〇歳ぐらいになったとき、二重廻しができるようになったとする。その場合、言霊主義者は「この子が赤ちゃんとき、二重廻しができるようになる」と言ったから、言霊の力によって、二重廻しができるようになったと考えるのだ。
しかし、赤ちゃんのときはできなかった。成長をまたなければならなかった。
どうしてだ?
言霊の力で二重廻しができるようになったわけではないからだ。
身体的な成長が必要だった。そして、身体的な成長には、時間が必要だった。練習をすれば、できるようになるときはある。別に「できる」と言わなくても、できるようになるときは、できるようになる。
身体的な成長や、そのときの気分などが影響する。そのときの気分というのは、重要だ。
「できるようにしなければならない」とへんなところに力が入っていると、できることも、できなくなってしまう場合がある。気分は重要なんだよ。
そして、いちおうは、やってみたいという気分になっているわけだ。気分は、重要なんだよ。
トライしようと思っていないのであれば、そもそも、何回目かのトライで、できるようになるということがない。
しかし、「できる」と言わなかったのに、一回目のトライで、できることだってある。
その場合も、身体的な成長と気持ちが関係している。「できる」と言わなくても、一回目のトライできることはあるのだから、「できると言えば、できる」という一〇〇%構文の文は、間違っている。
命題として考えた場合、「できると言えば、できる」という命題は『偽』なのである。
さらに、言霊の力によってできるという考え方は、間違っている。
できると言ったあと、できる状態になることはあるけど、言霊の力によって、できる状態になったわけではないのだ。