もし、自己責任論が「いいもの」であるのならば、自己責任論がはやれば、はやったぶんだけ、世界がよくなるはずなのである。
ところが、自己責任論がはやったら、世界が悪くなってしまった。
自己責任論をふりまわす人は、自己責任論が正しいと思って、うたがわない。
「自分は、自己責任論で生きるよ」と豪語するのだ。
ところが、その本人が、じつは、自己責任論では生きていない人間なのである。しかし、その人は、それに気がつかない。
ようするに「ぬけ」があるのだ。
自分が「普通に」ほかの人に責任があると思ってることに関しては、普通に「ほかの人のせいだ」と思う人なのである。
しかし、自己認識は「自己責任論で生きている人」なのである。
言霊主義者が、あたりまえだと思うことに関しては、言霊理論について考えないのとおなじで、自己責任論者も、あたりまえだと思うことに関しては「自己責任だ」と考えないのだ。
そして、「自己責任だと思わなかった」という意識がない状態で生きている。
言霊主義者が、夏の暑い日、自分の買ってきたアイスを、机の上に置いたままにしたら、アイスがとけてしまったということを経験したとする。夏は暑いから、(アイスは)とけてあたりまえなのである。自分が「アイスがとける」と言ったから「アイスがとけたのだ」とは思わないのだ。
自分が……「このアイスはとけない」と言わなかったことについて、注意をはらわない。
「このアイスはとけない」と言えば、アイスがとけないまま、残り続けるとは、言霊主義者でも思わないのだ。言霊なんてまったく関係なく、「暑い日に、アイスを机の上に置いておいたら、そりゃ、とけるだろ」と思っているのだ。
言霊の力でアイスがとけたとは思わないのだ。固体になっていたアイス成分が、熱によって液体になったと考えるのだ。それであたりまえだから、言霊の力なんて、まったく、考えもしないのだ。
あたりまえだと、言霊の力なんて無視してしまうのだ。
言霊なんて、一切合切関係なく、アイスがとけたのである。
そして、言霊主義者自身も、言霊なんて、一切合切関係なく、アイスがとけたと思っているのである。「アイスはとける」と言ったから、言霊の力によって、アイスがとけたとは思わないのだ。
それと、おなじように、自己責任論者も、「普通に」「相手のせいだ」と思えることに関しては、相手の責任を追及するのである。自分が立腹したら、相手の発言が、自分を立腹させたと思うのである。
「自分が立腹したのは、自己責任だ」とは思わないのである。
「ぬけぬけ」なのである。「ぬけぬけ」なのである。
いったい、この自己責任論になんの意味があるのか?
アンガーコントロール論としては意味はない。
自己責任論というのは、ただ単に、他人の責任を追及するためにあるのである。
他人の責任というのは、この場合、他人の身に起きたことは、すべてその他人の責任であるという意味での、他人の責任だ。
なお、アイスというのは、アイスキャンディー(氷系のアイス)を考えて書いた。