けっきょく、俺が楽しく感じれば、楽しく感じるのだけど、楽しく感じないから、こまっている。
まあ、いろいろと、ありすぎたね。前から言っているけど、実際に起こったことが、感情に影響を与える。
実際に起こったこととは関係なしに「楽しい」と言えば、楽しく感じるなんてことはない。そりゃ、中立的な状態で「楽しい」と言ったら、楽しく感じたと言う人もいるけど、それは、中立的な状態で「楽しい」と言っただけだ。
別に、くるしくてくるしくて、したがないときに、「楽しい」と言ったわけではない。「楽しい」と言うと、楽しい気分になるような気がするというのは、すでに、楽しいとき……実際に楽しいとき!!……「楽しい」と言ったという経験がものを言うのだ。
これは、言葉と感情の連合が、ある程度、頭のなかに成り立っているから、「楽しいことを想起して」あるいは、「楽しい状態を想起して」……自分は楽しくなったのではないかと感じているだけだ。
ようするに、最初に経験がないとだめなのである。
ところが、「楽しいと言えば楽しく感じる」と言っている人は、経験を無視してしまうのである。経験なしに「楽しい」と言っても、「楽しく感じるはずだ」と間違って、思い込んでいるのである。
言霊思考の影響があるのであれば、経験なしに「楽しい」と言っても、言霊の力で、楽しく感じるはずだと考えてしまうのである。「楽しい」という言葉に宿っている言霊の力によって、楽しいと感じるのだと考えてしまうのである。
だから、どんな状態でも「楽しい」と言えば、「楽しい」という言葉に宿っている言霊の力によって、楽しいと感じるはずだと考えてしまうのである。
しかし、「どんな状態でも、楽しいと言えば、楽しく感じるか」と言えば、そんなことはない。
だいたい、そういうことを主張している言霊主義者だって、怒っているとき「楽しい」と言っても、楽しく感じないのだ。
実生活のなかで、実際に不愉快なことを経験したときは、どれだけ「楽しい」と言っても楽しく感じないのだ。そして、たとえば、疲労困憊が続き、うつ病的な状態になっているときは、「楽しい」とどれだけ言っても、楽しく感じないのだ。
朝起きた直後など、頭が回転していないときは、「楽しい」と言ったって、そんなこととは関係なしに、頭が回転していないので、「楽しい」気分にはなれないのだ。
特に、寝不足が一〇〇日以上続いている状態で、朝、無理やり起きたときに「楽しい」と言っても、楽しくならない。言霊主義者は「俺だって、苦労した」とか「俺だって、つらいことはあった」と言うけど、そのとき、「楽しい楽しい」と言わなかったのか?という疑問がわく。
ちょっとでも、「つらい」と感じたら、即座に「楽しい」と言えば、「楽しい」という言葉に宿っている言霊の力で、楽しくなるのではないのか?と言いたくなる。
実際に、ある言霊主義者が「自分でひどい苦労をした」ということを言ったのだけど、「ひどい苦労」を経験する前に「楽しい」と言えば、それで済むわけなんだよ。
どうして、ちょっと「つらい」と感じたときに「楽しい」と言わなかったのか。楽しいと言えば、それ以降は、楽しくなるわけだから、「ひどい苦労」なんて、経験しないはずなのである。
あるいは、言霊理論が真実なのであれば……つまり正しいのであれば……「自分はこれ以降、一切合切、苦労しない」と言ってしまえば、「自分はこれ以降、一切合切苦労しない」という言葉に宿っている、言霊の力によって、苦労なんてしない状態になるのである。
一切合切、苦労を経験しないで済む状態になるのである。どうして、その方法で、苦労しないようにしなかったのか?と訊きたくなる。ひょっとして、そういう言霊的な解決方法を思いつかなかったのか?
人には、あたかも「楽しい楽しいと言えば、どんな状態でも楽しくなる」というようなことを言っているけど、本人は、そういうことをしてない状態なのである。
本人が、日常生活の中で、つらい体験をしたら、つらいと思って、「楽しい」と思わないのである。つらい体験をした直後に「楽しい楽しい」と言えばいいじゃないか。
そうしたら、つらい体験は「楽しい体験」にかわるのである。自分が、日常的にはやっていないことを、よその人には、求めるのである。……言霊主義者は……。
それ以前に「これ以降、つらいことは発生しない」と、ひとこと言えば、それで、つらいことは発生しないことになるのである……言霊理論が正しいのであれば……。
ぼくの観察の範囲で言えば、言霊主義者は、言霊理論を否定されたときは、普通に「怒った状態」になる。即座に、「楽しい楽しい」と言って、楽しくなってくれよ。「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるのだろ。
それから、「受け止め方をかえればいい」と言っている言霊主義者は、言霊理論を否定されたときは、「言霊理論を否定してくれてありがとう」と受け止め方をかえればいいのである。
それから、「すべてに感謝すれば幸福になる」と言っている言霊主義者は、言霊理論を否定されたときは、「言霊理論を否定してくれてありがとう」と受け止め方をかえればいいのである。
なんで、自分が信じている理論を否定されたときは、それらの「きれいごと」「お題目」を実践しないのか?
自分が信じている理論を否定されたときは、「受け止め方をかえればいい」だろ。
自分が信じている理論を否定されたときは、「なんでも感謝感謝だから、否定した相手に感謝すればいだろう。「すべてに感謝すれば幸福になる」のだから、「否定してくれてありがとう」と感謝すれば、幸福になる。
どうして、現実の場面では、腹を立てるんだよ?
だいたい、「今後、一切合切、言霊理論は否定されない」と言えば、今後、一切合切、言霊理論は否定されないようになるのである。だったら、そう言えばいいだろう。
* * *
言葉との連合ということを書いた。ようするに、「実際の楽しい感情」と「楽しい」という言葉のあいだに連合ができているので、「楽しい」と言うと、楽しくなったような気がするということだ。
たとえば、宇宙のどこかに、地球に似た惑星があるとする。そして、その惑星に人間らしき生命体(生物)が生きていたとする。そこでは、「ぺぺろっぽ」という言葉が「日本語の悲しい」と言う言葉に対応しているとする。
その場合、日本人である言霊主義者が「ぺぺろっぽ」と言うと、悲しく感じるかどうかいう問題がある。たぶん、感じないだろう。
「ぺぺろっぽ」と言う言葉と、「じっさいの悲しい体験」のあいだに連合ができていないからだ。「ぺぺろっぽ」だと、語感から「楽しく」感じてしまう場合があるので、「ぺぺろっぽ」という言葉の意味を「悲しい」にしておいた。
自分が知らない言葉に関しては、言葉と「実際の感情」のあいだに、連合ができていないので、どれだけその言葉を言っても、その言葉が意味することを、感じることがないのである。生きている中で「こういうときは、楽しい」と言うのだということを、学んできたのである。
「言語」と「そういうプリミティブな感情」の学習(体験)が、だいたいおなじ時期に発生するので、連合が最初からできあがりやすい状態になっているのである。
人間の脳というのは……。「楽しい感情」がわいたときは「楽しい」と言うものだということを、学習したから、そのあとで、「楽しい」と言うと、楽しく感じるような気分になるのだ。
音による例外はあるけど、言葉と感情(体験)の学習がなければ、その言葉に応じる「感情」は発生しないのである。
これは、言霊とは関係がないということを意味しているのである。
実際の感情的な経験と言葉のあいだにある連合が、「その言葉を言うと」……「そういう気持ちになる」という現象を発生させているのではないかと思う。
断言はできないけど、たぶん、そうだ。
言葉自体に言霊が宿っているわけではないのである。
言葉と感情体験の連合が、言葉を言うときに、感情体験を引き出すことがあるから、そういうことが起こるのである。
ただし、どんな状態でもそうなるかというと、ちがうのである。
ともかく、まったく自分が知らない言葉で、「楽しい」と言う意味の言葉を言っても、ぜんぜん楽しくならないということは理解してくれたかな?
まあ、「おん(音)」がおもしろいから、おもしろく感じるということはある。おもしろいとか、楽しいということに関しては、「おん(音)」が関係していることもある。「おん(音)」音が関係している場合も、言霊とは関係がない。
「音」に対する人間の感じ方の問題だ。