これ、まったく理解していない人がいる。
ぼくは「人に親切にするな」とか「掃除をするな」とか「感謝をするな」とかと言っているわけではないのだ。
どうして、そういうことになってしまうのだろうか?
たぶん、これも、間違った集合的一括思考が災いしているのではないかと思う。
ぼくが主に言いたいのは、「間違った前提がある助言をするべきではない」ということなのである。人に親切にすると幸福になる」……。人に親切にしたときは、幸福な気持ちになることがある。
たしかに、そうだ。しかし、人に親切にしたことで、不幸な人が継続的に、幸福になるわけではないのである。小さな親切でもいいということになっているけど、「人に親切にしましょう」と言うときに出てくる親切行為は、案外、限られているのである。
そして、本人が勝手に、「親切にしてあげよう」と思っているだけなのである。
ようするに、人に親切にするのだから、相手がいる。相手が、親切にされたと思わなければ、親切にしたことにならないのである。これに関しては『還元』が必要だ。これ、さんざん書いたからいいか。
ともかく、有難迷惑になることがあるし、「人に親切にしよう」と思っている人を利用してやろうと思っている人もいるわけ。まあ、ここら辺のことについては、すでに書いたから、ここでは省略する。
「人に親切にするなと言っている」わけではなくて、「人に親切にすると幸福になる」というようなライフハックを口にしないほうがいいということを言っているわけ。
それは、実際には不幸な出来事の数を増やすことになるからやめたほうがいいということを言っているわけ。普通に、親切にしたいときに、親切にすればいいわけ。
『自分が幸福になるために、親切にしよう』ということになると、いろいろな問題が発生することになる。
まあ、書いたからいいか。
それよりも、どうして、ぼくが書いたことを読んで、エイリは「人に親切にするな」と言っていると思ってしまう人がいるのかということが、気になる。
感謝にしても、「感謝をするな」と言っているわけではないのだ。自然に、感謝をしたいときは、感謝をすればいいのである。
どうして、エイリは「感謝をするな」と言っていると解釈するやつがいるのか、疑問だ。ちゃんと読んでいるのかと、疑いたくなる。
「条件に関係なく、感謝をすれば、すべての問題が解決するようなことを言うべきではない」ということは、言っている。
掃除に関しても、「掃除をするな」と言っているわけではないのだ。「条件に関係なく、掃除をすれば、すべての問題が解決するようなことを言うべきではない」ということは、言っている。
いろいろと、勝手に誤解をするやつがいて、こまる。こまるんだよーー。
すべての問題と書いておいたけど、主要な問題は、悪い条件が生み出す問題なのである。個々人によって、その時々によって、悪い条件がちがう。ものすごく特殊な「悪い条件」をかかえている人もいる。
その「ものすごく特殊な悪い条件」が生み出す出来事によって、その人がずっと、長期的に苦しんでいるとする。
その場合、その人は、自分が幸福ではないと思うだろう。あるいは、その人は、自分が不幸だと思うだろう。その場合、悪い条件によって、問題が作り出されているのだから、悪い条件に対処しなければならない。
ところが、「掃除をすれば運があがって、幸福になる」と言った場合は、あたかも、その人が……特殊な悪い条件を抱えているその人が……掃除をすると、その人を苦しめている条件がなくなり、悪い出来事が発生しなくなり、幸福になるということを言っているということになる。
掃除幸福論者にすれば、もちろん、掃除をすれば、運があがって幸福になるのだから、悪い条件が生み出す問題は、解決するはずなのである。
しかし、悪い条件がかわらないと、悪い条件から発生する悪い出来事が減らないのである。なくならないのである。悪い条件が、悪い出来事をを生み出しているので、悪い条件がなくならないと、悪い出来事がなくならない。
次から次へと、その悪い条件によって、悪い出来事が生み出される。掃除をすることは、その悪い条件をかえないのである。掃除幸福論者の頭のなかでは、掃除をすることで、悪い条件がわかるということになっているのである。
掃除をすることで、悪い条件がかわる場合はある。その悪い条件が、掃除にかかわる条件であった場合は、そうなるかもしれない。
しかし、きちがい家族が、きちがい的な音のでかさで、ずっと騒音を鳴らすというようなことは、掃除をしても、かわらないのである。
きちがい家族が、きちがい的な音のでかさで、ずっと騒音を鳴らすから、不幸である場合は、掃除をしても、きちがい家族に直接働きかけることがなければ、きちがい家族はそのままきちがい行為をし続けてしまうのだから、掃除をしても、きちがい家族がきちがい行為をし続けるということが、かわらないのである。
ようするに、作用しない場所があるのだ。
「掃除をすること」によって、かわる部分と、かわらない部分がある。
不幸な出来事が、掃除をすることによって、かわらない部分なのであれば、不幸な出来事が掃除をすることによって、かわらないわけだから、幸福にならないのである。
不幸感がある場合は、不幸感をもたらしている出来事があるはずだ。掃除をして、気分をかえたら、不幸感をもたらしている出来事がなくなったということもある。
しかし、それは、それこそ、掃除にかかわる特殊なことが不幸感をもたらしていたのである。
すべての不幸な状態をつくりだしている条件が、掃除をすることによってかわるわけではないのである。
「運があがって幸福になる」という言葉を使うと、あたかも、現実的な問題が、掃除をすることによって、魔法のように、なくなるような感じになる。
そういう印象を与える。
実際、不幸ではなくて、幸福になるのだから、継続的な幸福感があるはずだ。
あるいは、少なくても、強烈にくるしい状態ではなくなるはずなのだ。
ところが、掃除に関係がないことが、強烈にくるしい状態を生み出している場合は、掃除をすることで、問題が解決しない。
あたかも、掃除をすることによって、不幸な状態から幸福な状態になるようなことを言うけど、不幸な状態をつくりだしている問題がまったく解決しないのだから、幸福な状態にならないのである。
手短に言うと、掃除幸福論においては、掃除をすることは、言霊理論における、ポジティブなことを言うことのような意味をもっているのである。
あるいは、掃除幸福論においては、掃除をすることは、思霊理論における、ポジティブなことを思うことのような意味をもっているのである。
あるいは、掃除幸福論においては、掃除をすることは、引き寄せ理論における、引き寄せ行為をするような意味をもっているのである。
掃除は、日常的に必要な行為であり、引き寄せ行為は、日常的には不必要な行為なのだ。だから、掃除のほうが、やるメリットがある。掃除をすれば、掃除をしたというメリットがある。
引き寄せ行為をしても、本人の自己満足以外のメリットはない。掃除をすると現実的なメリットがあるということが、重要だ。
しかし、掃除をするということは、単に掃除をすることではないのである。よいことを引き寄せる行為なのである。
ところが、掃除によって、よいことが引き寄せられるということは、決まっていないのである。よいことが引き寄せられるということに関しては、引き寄せ行為とおなじように、自己満足でしかない。
掃除をしたのだから、いいことが引き寄せられるはずだという期待をもつだけで、それ以外の効果はない。
期待をもっていると、時間的に接近した状態で、よいことが起こった場合は、「掃除をしたからよいことが起こった」と思う確率が高い。
期待をしていたのだから、原因について「掃除をしたからだ」と考えるのは、自然なことだ。
しかし、だから、ほんとうに、掃除がその「よいこと」を引き寄せたのかというと、ちがうのである。
前にも書いたように、ため込んでいた掃除をするということができるぐらいの行動エネルギーがたまっているのであれば、ほかのこともできる場合がある。ほかのことができたということが、そもそも、よいことだと感じることなのであれば、よいことが起こったということになる。
その場合は、行動エネルギーがたまっていたので、実際に行動したら、よいことが起こったということなのである。
掃除をすることに、「掃除霊(そうじだま)」が宿っていて、「掃除霊」がいいことを運んできたわけではない。
けど、そのように理解しても、問題はない。
問題は、あたかも、掃除をすることで、すべての問題が解決するようなことを言うことだ。