ちょっと、気楽に話したいと思う。基本、ラフな話になってしまう。
ようするに、厳密な話ではない。
だから、そういう前提で読んでほしい。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは標準的な体力がある人だとする。Bさんは、ものすごく、体力がない人だとする。
この体力というのは、体力測定で測れるような体力ではなくて、生活するための体力だ。
とりあえず、体力ではなくて、体力エネルギーと言っておこう。
Bさんは、病気になって、自力でトイレに行くのも、やっとだという状態だとする。Aさんは、普通に働いている。
で、Bさんの体力エネルギーというのは、一だとする。Bさんがつかれているときの体力エネルギーは、〇・一だとする。
Aさんの体力エネルギーは一〇〇だとする。そして、Aさんが「つかれた」と感じるときの体力エネルギーが九〇だとする。Aさんは、つかれていても、ちょっとやる気を出せば、たいていのことができる状態であり、当然、Aさんがつかれているときも、自力でトイレに行くことぐらいは、簡単にできることだ。
だから、そもそも、基準がちがうのである。
けど、両方とも、「つかれた」という言葉で、自分の状態を表現しているとする。
その場合、Bさんがつかれている状態というのは、Aさんが経験したことがないつかれている状態なのだ。Aさんがつかれているとき、Aさんの体力エネルギーは九〇ある。Bさんは、通常の状態で、体力エネルギーが一で、Bさんがつかれているときは、体力エネルギーが〇・一ぐらいになってしまう。
Aさんが「(自分は)つかれている」と表現しているときの体力エネルギーが九〇で、Bさんが「(自分は)つかれている」と表現しているときの体力エネルギーは〇・一だ。
九〇〇倍の差がある。
AさんとBさんは別の個体なので、AさんにBさんの『つかれ方』が伝わるわけではない。その場合、Aさんには、Bさんのつかれは、わからないということになる。
わからないということが、前提として成り立つ。
しかし、「つかれている」という表現で状態がわかるという前提で、AさんとBさんが生きているとする。その場合、Aさんが「つかれている状態」として想像できるのは、自分がつかれている状態のときの状態なので、体力エネルギー九〇の状態なのだ。
だから、Aさんは……Bさんが「つかれている」と言ったときも、だいたい九〇ぐらいの状態なのだろうと仮定して考えてしまう。
しかし、実際には、九〇〇倍の差がある。
ぜんぜんちがう「つかれ」について、語っているということになる。
ライフハック的な言い方は、条件を無視したものなのである。「言えば言ったことが、現実化する」……条件なんて関係がない。「思えば、思ったことが、現実化する」……条件なんて関係がない。「努力すれば、成功する」……条件なんて関係がない。「感謝をすれば、運があがるので、幸福になる」……条件なんて関係がない。「掃除をすれば、運があがるので、幸福になる」……条件なんて関係がない。
ほかにも、条件を無視した言い方は、いろいろとある。「すべては、受け止め方の問題なので、受け止め方をかえればいい」……条件なんて関係がない。「すべては、自己責任だ」……条件なんて関係がない。
ライフハックの言い方というのは、基本的に、条件を無視した言い方になるのである。しかし、条件はある。
たとえば、「できると言えばできる」ということについて考えてみよう。
「できると言えばできる」のだから、どんなことだって、どんな状態だって、できると言えば、できるのだ。
「できると言えばできる」という言い方は、最初から、「条件」を無視した言い方なのである。「努力をすれば成功する」という言い方も、最初から「条件」を無視した言い方なのである。「できると言えばできる」という言い方にも「努力をすれば成功する」という言い方にも「体力エネルギーのちがい」という条件はまったく出てこない。
だから、これらの文について、Aさんが正しいと思っている場合は、「体力エネルギーなんて関係なく、できると言えばできる」と思っていることになり、「体力エネルギーなんて関係なく、努力をすれば成功する」と思っているということになる。
まあ、「努力をすれば成功する」という言い方については、そのうち、機会があったら、考えるとする。いまは、「できると言えばできる」という考え方だけについて、考えるとする。
Aさんが考える「人間がつかれている状態というのは、体力エネルギー九〇の状態」だ。だから、つかれているにしろ、じゅうぶんに動ける状態だ。余力があるのである。
その場合、Aさんは、そういうじゅうぶんに動ける状態のつかれしか経験したことがないので、Bさんのつかれも、そのようなものだろうと思ってしまう。
Bさんが「つかれて動けない」と言えば、そのようなつかれた状態を想像して、Bさんに対して「そんなのはあまえだ」と言うのである。
実際に、Aさんが、Bさんに「そんなのはあまえだ」と言ったとする。
つかれていたって、「できると言えばできる」のである。Aさんのなかではそうなのである。
Aさんは、「Bさんがつかれたと言った」ということを理解できる。しかし、Bさんのつかれについては、理解しているようで理解していない。
あくまでも、自分が体力エネルギー九〇のときに感じるつかれについて考えているわけだ。だから、Bさんが「できない」と言えば、Aさんは「そんなのはあまえだ」「できると言えばできる」と思ってしまう。実際に体力エネルギー九〇のときは、できると言わなくても、できるのである。
Aさんは、じつは、Bさんが感じているつかれについて考えることができないのである。経験していないので、経験から、考えることができない。しかし、自分が、Bさんが感じているつかれについて正確に理解していないということについて、無頓着なのである。
だから、ほかの人が経験したことがないような「つかれ」を感じている人は、不利な立場に追い込まれることになるのである。Bさんのまわりの人が、みんなAさんみたいな人だったら、「そんなのはあまえだ」「できると言えばできる」と言われることになる。
特殊な環境で、不可避的な条件によって、どうしても、つかれる状態というのがある。それが、たまりにたまってしまうということもある。ほかの人が、このつかれを感じないのであれば……つまり、ほかの人がこのつかれを経験したことがない人なのであれば……どれだけ言ったって、ほかの人の理解なんて得られないのである。
だから、きちがい家族によって、疲労がつみかさなるような状態で暮らしていると、ほかの人から、むなくそ悪いことを言われるということになる。