「人のせいにしない」というのは、かたちをかえた「自己責任論」なのだ。
これも、サラリーマン向けのしあわせになる本みたいな本のなかで、よく言われることだ。こういう言い方がはやると、じつは、条件が悪い人が、もっともっと、追い込まれることになる。
「人のせいにしない」というのも、一括思考だ。
どんなことであれ、人のせいにしないということだから、個別性を考えていないのだ。
この……条件の無視と、個別性の無視というのは、かならず、問題をはらんでいる。
条件が悪い人というのは、ほんとうに、人のせい(他人のせい)で、悪いことが発生する場合がある。きちがい的な家族が、きちがい的な行動をした場合、ほんとうに、被害を受けている人が「きちがい的な家族のせいだ」と言うことができなくってしまうのである。
個別性を考えないので……ほんとうに「他人」に責任がある場合も、その人(他人のせいだと言っている人)のせいだということになってしまうのである。
なんだろうが「あの人に責任がある」と言ってしまうと、それは、「人のせいにしていることになってしまうのである。
そして、「人のせい」という言葉は、「ほんとうは、人のせいではないのに人のせいにしている」というニュアンスをもっているのである。
ただ単に、他人に責任があるということを言っているわけではなくて、かならず、的が外れたことで他人をせめているということになってしまうのだ。つまり、本人に責任があるにもかかわらず、その本人が、「他人のせいにしている」という意味あいがしょうじる。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。
Aさんが「Bさんのせいだ」と言うと、Aさんが「Bさんのせいにしている」ということになり、Aさんが、ほんらい、Bさんの責任ではないことについて、Bさんをせめているということになってしまうのだ。自動的にそうなってしまう。
普通の人たちのこの言葉に対する解釈は、Bさんのせいではないのに、Aさんが、Bさんのせいにしているということになってしまう。
Aさんが「Bさんのせいだ」と言った場合、ほんとうは、Aさんのせいなのに、AさんがBさんのせいにしていると(普通の人は)思ってしまうのだ。
「だれだのせいだ」と言う人のことを「本人」だとしておく。本人が「だれだれのせいだ」と言ったとき、「だれだれ」に該当する人のことを「対象者」だとしておく。
そして、本人が「対象者のせいだ」という言葉を放ったということを、知った人のことを「普通の人」だとしておく。
ほんとうは、本人に責任があるのに、責任のある本人が、他人である対象者のせいにしていると(普通の人は)解釈してしまうのだ。
ところが、普通の人は、本人のせいだと決めつけているのだけど、とくに、本人のせいだと決めつけたという気持ちがないのだ。自覚があんまりない。
あるいは、自覚がまったくない。
本人のせいなのかどうか知らないけど……人のせい(対象者のせい)にするのは、よくないと自動的に判断しているにすぎない。
本人のせいかどうかというのは、普通の人にとって、わからないことなのである。
その場合、ほんとうに、本人のせいである場合はいいけど、ほんとうに、対象者のせいである場合は、本人が傷つくのである。不快な思いをするのである。
自分勝手な人がいるので、自分勝手な人が、ほんとうに、ひどい迷惑行為を、がめつく、やる場合がある。その場合も、自分勝手な人にやられた人が、「自分勝手な人(対象者)のせい」で迷惑したということを言えば、普通の人は、ほんとうは、自分勝手な人のせいではないのに、自分勝手な人にやられた人が、自分勝手な人のせいにしていると思ってしまうのだ。
一括思考は、個別性を重視ないので、「ともかく、こういうことを言っている人は」「人のせいにしている」ということになってしまう。
けど、それは、間違いだ。
個別に考えなければならないのである。
責任の所在に関しては、個別に考えなければならないのである。
それを、一括思考で「責任の所在について」考えずに、ほんとうは、「本人に責任がある」と、他人であり、第三者である「普通の人」が考えてしまう。
ともかく「だれだのせいだ」と言った人に責任があり、「だれだのせいだ」と言った人が、ほかの人(対象者)のせいにしているだけだと決めつけてしまうのである。
こんなの、ない。
個別性を重視しない考え方というのは、現実の条件を無視してしまうので、現実世界で「だれだれ」が、ほんとうにやったことを軽視してしまうのだ。
そうなると、条件が悪い人が、悪く言われるということになるのである。
そして、「人のせいにしない」と言っている人も、今まで見てきたよう、「人のせいだ」と言った人のせいにしているのである。
「人のせいだ」と言った人に責任があると決めつけているわけで、「人のせいだ」と言った人のせいにしている。
だから、自分は、中立を保ちながらも……そして、自分は「人のせいにしていない」つもりで、「人のせいだ」と言った人のせいにして、「人のせいだ」と言った人を、道徳的にせめているということになる。
中立ではない。
ちゃんと、「人のせいだ」と言った人のことを攻撃している。勝手に「人のせいだ」と言った人のせいにしている。
個別性を考えて、「人のせいだ」と言った人に、責任がある場合について考えてみよう。
その場合は、「人のせいだ」と言った人をせめる行為は、いちおう、認められる。
しかし、個別性を考えて、「人のせいだ」と言った人に責任がない場合はどうなのだ。個別性を考えた場合、対象者の責任である場合がある。
その場合、「普通の人」は間違ったことを言って、「(だれだれのせいだと言った)本人」をせめていることになる。
「人のせいにしない」と言っている「普通の人」も、「ぬけぬけ」なのだ。
「(自分は)人のせいにしない」と思っている「普通の人」も、普段、自分が一倍速で経験したことに関しては、ちゃんと、「人のせい」にしているのである。
けど、自分が「人のせいにしている」という気持ちが発生しないだけなのである。
どうしてかというと、「ちゃんとした理由がある」と思っているからだ。
「対象者のせいだ」と言っても、自分の場合は、正しいのである。実際に「対象者のせいだから」「対象者のせいだ」と言うことは、正しいと思っているのである。
ちゃんと、自分の現実的なことに関しては、他者(対象者)の責任を問うようなことをしている。
ようするに、「ぬけぬけ」なのである。
自分が「あたりまえだ」と思っていることについては、「他人(対象者)の責任を追及して、あたりまえだ」とごく自然に思っているのである。
「人のせいにしない」ということを実践していないのである。
自分が「あたりまえだ」と思っていることに関しては、自分が他人のことを見ているときは、ちがった視点が成り立っているのである。
視点がちがうので、ぬけぬけになる。
自分が「人のせいにしないようにしよう」と思う場合は、自分のなかに人のせいにしたい気持ちがあるけど、ほんとうに、「人のせいではない(ということを自分が知っている)場合」なのである。
言霊主義者の「雨がふると言ったから、雨になった」ではないのだけど、本人にとって都合がいいことが、選ばれて、本人のなかで、一般化している。
ようするに、自分の意識が集中したときだけ、そのように行動しているのだけど、自分の意識が集中していないときは、普通に「人のせいにしている」と言うことに、自分自身が気がつかない状態で暮らしている。
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「人のせいにしない」という言葉も、現実社会において、立場が悪い人をおさえつけるような役割をはたしている。「人のせいにしなければ、幸福になる」というような感じの本を出している人たちがいる。
その人たちは、一般的な読者よりも、社会的な地位が高いのである。
その人たち(著作者たち)が、普段、「人のせいにしないで」暮らしているかというと、そうではないと思う。たぶん、「ぬけぬけ」だと思う。
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条件が悪い人や立場が悪い人は、不当な扱いを受けがちになる。
その場合、ほんとうに、「相手」が悪い場合がある。
ようするに、条件が悪い人や立場が悪い人の言い分が正しい場合がある。
しかし、「普通の人」が一括思考をしてしまうと、「本人」の言い分が正しい場合も、「普通の人」は「本人」の言い分が正しいとは認めないことが多い。
この人たち……「普通の人」は、「本人」の言い分が正しい場合も、「本人である」条件が悪い人や立場が悪い人が「人のせいにしている」と認識してしまうのである。
このような構造が成り立っている社会というのは、このような構造が成り立っていない社会よりも、悪い社会なのだ。生きにくい社会なのだ。