「できるように努力すれば、できる状態になることに成功する」と言い換えてしまうと、「努力をすれば、できるようになる」ということになる。
「できると言えばできる」とほとんどおなじ効力があるのだ。「できると言う」か「努力をするか」のちがいしかない。
たとえば、「時間内にこの作業を完了するように努力すれば、時間内にこの作業を完了することに成功する」という文と「時間内にこの作業を完了すると言えば、時間内にこの作業を完了することができる」という文の内容は、たいしてちがいがないものになる。
細かいところを無視すれば、結果的には、ほとんどおなじことを言っているということになる。
けっきょく、「時間内にこの作業を完了するように努力すれば、時間内にこの作業を完了することに成功する」と言っても、「時間内にこの作業を完了すると言えば、時間内にこの作業を完了することができる」と言っても、時間内にこの作業を完了させることを……強制することができる。
努力論における「努力」が、言霊理論における「言霊」のような役割をしているのである。そして、「努力をすれば成功する」も、また、「Xをすれば、Yする」型の一〇〇%構文の文なのだ。
「Xをすれば、Yする」という文と「すべてのXにおいて、Xをすれば、かならず、Yする」という文は、意味的に等価だ。この場合は、一個のXでも、Xをしたのに、Yにならないのであれば、「Xをすれば、Yする」という命題は、偽だということになる。
ようするに、命題として考えた場合、「努力をすれば成功する」という命題は偽だということになる。
ところが、多くの「普通の人たち」は、このことに気がつかずに、この文を使ってしまっている。
一個でも、「Yしない場合」があるのであれば、「Xをすれば、Yする」とは言えないということになる。「 Xをすれば、Yしない」場合があるのであれば、「Xをすれば、Yする」とは言えない。
ようするに、「努力をすれば成功する」という文は、最初から間違っているのである。
そして、「努力をすれば成功する」のだから、「努力をする」と「努力をしない」の二値しかない。どれだけ小さな努力をしても、努力をしたことになる。小さな努力をしたのに、成功しなかった時点で、「努力をすれば成功する」という文が間違いだということがわかる。
判明してしまう。
問題なのは、「何回でも努力をすればいい」ということになってしまうことだ。そして、さらに問題なのは、「できるできると言って何回でも努力をすればいい」ということになってしまうことだ。
「できると言えばできる」と「努力すればできる」というのは、カルト的な意味で、たいしたちがいがないのだ。
だから、くっつきやすい。「できる言うこと」や「努力すること」にカルト的な意味を付け加えているのだ。「できると言うことは、できるようになることを約束するわけではない。ところが、約束すると思ってる。カルト。カルト。
「努力するということは、できるようになることを約束するわけではない。
ところが、約束すると思っている。カルト。カルト。妄想的な土台がある。
問題なのは、「できると言えば、できる」という言い方の背後には、言霊主義があり、「努力すればできる」という言い方の背後には、努力論があるということなのである。
どちらも、カルト的な思考なのである。
ところが、「あたりまえのこと」としてあつかわれている。言霊主義者が多く、努力論者も多いので、たいして、問題がある考え方だとは思われないのだ。言霊主義者は、「言えば、言ったことが現実化する(これは正しい)」と言い、努力論者は「努力をすれば成功する(これは正しい)」と言うのである。
しかし、これは、妄想的な考え方だ。背後に妄想があるのである。