「Xをすると、いいことが起こる」という言葉につい考えてみよう。
実際には、「Xをすると、いいことが起こる場合」がある。実際には「Xをすると、悪いことが起こる場合」がある。
そして、実際には「Xをすると、いいことも起こらず、悪いことも起こらない」場合がある。とりあえず、 「いいことも起こらず、悪いことも起こらない」ということを「非良・非悪」と呼ぶことにする。
Xをすると、いいことが起こるという場合、じつは、Xをしたあといいことが起こるということだ。
実際には、Xという行為は、その後に起こる「いいこと」や「悪いこと」に影響を与えない。与えないのだ。
しかし、行為者が「Xをしたから、いいことが起こった」とか「Xをしたから、悪いことが起こった」と感じてしまう。
ようするに、そのような間違った認識が発生してしまう。
Xを事前にすることは、あとに起こることに、まったく影響を与えないのだから、間違った認識だ。
しかし、この認識が、間違っているということについて、「本人」が認識できないとする。
ようするに、その人が「いいことが起こった」と思った場合は、「いいことが起こった」ということになる。その人が「悪いことが起こった」と思った場合には「悪いことが起こった」ということになる。
無視されがちなのだけど、これは、重要なことだ。
「いいことが起こった」「悪いことが起こった」「いいことも悪いことも起こらなかった」というのは、恣意的な判断なのである。
そして、本人以外、だれも決めることができないのだ。
神様視点で「いいこと」や「悪いこと」を決めることもできない。
だれもが、神様ではないからだ。
たとえば、「掃除をするといいことが起こる」と一般化・法則化した人がいたとする。この場合、100%構文の文なので、「すべての掃除をするということにおいて、掃除をすると、100%の確率でかならずいいことが起こる」という意味になる。
そういう意味にしかならないのだ。
ところが、実際に表現されていることは、自分の場合は「掃除をしたら、いいことが起こった」ということなのである。
言っている人の意味をくみ取れば、「掃除をするといいことが起こる場合がある」ということを言っているのだ。
実際には、掃除をすると、掃除をしたあと、時間的に接近している状態で、いいことが起こる場合もあるし、悪いことが起こる場合もあるし、いいことも悪いことも起こらない場合があるということを意味している。
もちろん、時間的に接近している状態ということの時間的な会社をひろげなるなら、いいことが起こったあとに、悪いことが起こる場合があり、悪いことが起こったあとにいいことが起こる場合もある。
この時間の取り方も、じつは恣意的なものなのだ。
だから、その人が「なにかいいことが起こった」と感じることができることが起こった場合と、その人が「なにか悪いことが起こった」と感じることができることが起こった場合、その人が、「なにかいいことが起こった」とか「なにか悪いことが起こった」と思っただけなのだ。
ようするに、なにかの出来事が起こったとして、それを、いいことだと判断したのは、その人だということだ。
これが、けっこうやっかいなことなのである。
掃除をしたあと、外に出たら、交通事故にあったとする。その人が「掃除をするといいことが起こる」ということを信じている場合、はたして、「掃除をすると悪いことが起こる」と考えることができるかどうかということもじつは、問題なのだ。
ほんとうは、掃除をしたということと、事故にあったということは、関係がないことだ。
しかし、結びつけて考える人は、一般化して法則化してしまう。
これは、間違った法則化なのだけど、本人は、間違った法則化だとは思わない。
だって、本人にとっては、そうなのだから。
かりに、掃除をしたあと、夫からプレゼントをもらったとする。この場合「掃除をするといいことが起こる」と法則化してしまう人がいる。
それなら、おなじように、掃除をしたあと、交通事故にあったら、「掃除をすると悪いことが起こる」と法則化してしまうかというと、そういうこともあるけど、事前に「掃除をするといいことが起こる」と法則化して考えたことがある人は、たぶん、なかなか「掃除をすると悪いことが起こる」と考えないと思う。
一度「よい方向」で一般化・法則化した人は、悪い方向で一般化・法則化しにくいのではないかと思う。
もっとも、なになにをしたあと、悪いことが起こったので、「なになにをすると、悪いことが起こる」と一般化・法則化してしまう人もいるにはいる。いるにはいるのだけど、少ないと思う。
一度、よい方向で一般化・法則化した人は、掃除をしたということが、事故にあったということと関係がないこととして処理される傾向が強いのではないかと思うのである。
掃除をしたあと、事故にあった場合、「掃除をしたから、事故にあった」と思うかどうかなのだ。
「掃除をしたあと、事故にあった」だけなのだけど、それを法則化して考えるかどうかというのは、その人が、無意識的に……しかし……恣意的に決めていることなのだ。
その人の判断でしかない。
人によっては「なになにをすると悪いことが起こる」と法則化して考える場合もあるのだ。個人の体験がものを言う。
しかし、この場合も、本人のなかで法則化しないで、無視するか、本人のなかで法則化してしまうのかということは、恣意的に決まるのである。
それまでの個人の体験と、それまでの個人の判断・考え方で、決まってしまうところがある。これは、個人的な判断なのである。
いっぽう、その最中に、悪いことが起こる場合がある。
たとえば、掃除をしていたら、手をけがしてしまったとする。その場合、「掃除をすると悪いことが起こる」と一般化・法則化してしまう場合がある。
しかし、よい場合も、悪い場合も、一般化・法則化は間違いでしかない。
掃除をしても、手にけがをしない場合もある。
しかし、掃除という行為は、なにもしていない状態よりも、手をけがをする確率は高くなる。
あるいは、掃除をしていたら、むせたということがあったとする。
ほこりを吸い込んでむせたのだ。その場合、ほこりを吸い込んでむせるということは、一般的に?悪いこととして認識されやすい。
なので、ある人が、「掃除をすると、悪いことが起こる」と一般化してもおかしくはない。
ようするに、恣意的なことなのだけど、一度「本人」のなかで一般化されると、それと反対の一般化をしにくくなるという傾向が(人間には)あるのではないかということだ。