言霊主義者も言霊主義者で、ぜんぜんわかっていない。そして、きちがい兄貴ほど頑固じゃないけど、言霊主義者だって頑固なのだ。
そして、言霊主義者は、精神世界の人である確率が高いけど、精神世界の人は、「ヒトゴトであれば」……「人はかわからないから自分を変えるしかない」とか「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということを言う。
けど、案外、頑固なのである。
ぼくが知る範囲では、精神世界の人は、「エイリは、かわらないから、自分をかえるしかない」と言霊に関する考え方をかえようとは、しなかった。
エイリの主張に合わせて「言霊理論は間違っている」と思うようにするということは、しなかった。
エイリが、言霊理論を否定したあとも「言霊は絶対」「理屈じゃねぇーんだよ」「アバウトでいいんだ」「だいたいあっていればあっているんだよ」と意地を張って認めなかったのである。
自分自身が「自分が言ったこと」を実行できているかというと、できていないのである。
「すべては受け止め方の問題だ。だから、受け止め方をかえればいいのだ」と考えて「言霊理論が間違っている」ということを正しいと受け止めなおすということをしてくれなかったのだ。
「なんだとおぉ」「俺が元気だ元気だと言ったら元気になった」「言霊(理論)は正しい」「心理学の実験でも証明されている」と言って、言霊理論が正しいということにこだわりまくって、言霊理論に関する受け止め方をかえてはくれなかった。
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運用の問題ということを、ぼくは、言った。これは、ルールの優先順位が気分次第で変わってしまうことや、ルールの優先順位が高いほうが、ルールの優先順位が低いほうより優先するので、優先時トンがい低いルールは、なかったことになってしまうということだ。
「人がいやがることはやめましょう」と言ったって、「真実を知らない人たちを導くことはいいことだ」と思っていれば、「人がいやがる勧誘をする」のだ。「人がいやがることはしないようにする」というルールよりも、「真実を知らない人たちを導くこと」のほうが重要だと(自我が)判断したので、そうしているのである。
一つ一つのこと(教え)に納得していたとしても、実際の運用の場面では、そんなことはまったく気にしないで、教えを破るのである。教えを破っているということについても、気がつかない。そりゃ、 「真実を知らない人たちを導くこと」のほうが「人がいやがることをしない」ということよりも、重要だからだ。
「真実を知らない人たちを導く」ときは、相手がいやがっても、しつこく勧誘してもよいのである。いや、むしろ、「相手が嫌がっている」ということを無視して、頑固に勧誘するべきなのである。そうなると、「人がいやがることをしない」ということは、どこかに行ってしまう。
ルールとルールの上下関係について述べたけど、実際には、ルールと「正しいと思うこと」の間にも、上下関係が成り立っている。ルールだって、正しいルールだと思っているから、従おうと思うわけだろ。
けど、「言霊は絶対だ」「言ったことが(言霊の力によって)現実化する」ということを信じている人たちは、それが、正しいことだと思っている。
「言ったことが(言霊の力によって)現実化する」というのは、ルールではないけど、「正しい」と思っている人にとっては、「正しいこと」になる。正しいことを否定されたときも、(相手をかえるのではなくて、自分をかえる)というルールに従うことができるのかということが、問われているのである。その場合、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればいい」というルールよりも、 「正しいと思うこと」のほうが優先するということなのである。そして、これも、自我を構成するルールの一部なのである。
たいていの精神世界の人は……「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールを優先して、「自分が間違っていたのだと」と思わないのである。
何度も言うけど、これは、 「自分が正しい」と思うことのほうが、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールよりも優先されているということだ。
自我は、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールよりも、「自分が正しいと思うことは、正しいことだ」という信念?のほうを、優先しているのである。
そして、何度も言うけど、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールよりも、「自分が正しいと思うことは、正しいことだ」という信念?のほうを、優先するということも、自我を構成するルールのひとつなのだ。