『「キーワード」と「人間」に関する抽象化』 にも書いたけど、ほんとうに、わかっていないのである。毎日、ボロボロにされているやつが「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるなんて、本気で言えるとは思えないね。ともかく、きちがい兄貴がやったことが、度外れなんだよ。異常なことなんだよ。普通の家では起こりえないことなんだよ。だから、普通の人は経験していない。だから、実際に、そういう騒音が鳴る日常が、どういう日常なのか、まったくわかっていない。けど、みんな言うんだよ……。「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」とね。そのときは、意識はしていないけど、同質化、同量化、同レベル化している。空想世界で「人間」を考えたときとおなじだ。「自分は、ものをあげたとき、しあわせになった」……。「だから、人間は、ものをあげるとしあわせになる」と思ってしまう。条件がちがう人のことは考えない。こっちが、おカネがなくてプレゼントをかえない人だっている」と言えば「おカネなんて書けなくても、心のこもったプレゼントをすればいいのだ」ということを言う。そして、ネットやオールドメディアに、おカネがない人が、心のこもったプレゼントをして、ラブラブでハッピーエンドになった話があれば……「おカネなんて関係がない」「心がこもったプレゼントならいいのだ」と確信してしまう。そうやって、「おカネがない条件」について考えしまう。けど、おカネがない人と表現される人のあいだにも、格差がある。条件の差がある、ありありなんだよ。「おカネがない」ということについても、ステレオタイプの集合的な一括思考をしてしまう。空想世界で、集合的な一括思考をしてしまう。そうすると、個別の条件が無視されてしまうのだ。おカネがない……と、ひとくちに表現されている人にだって、ものすごい差があるんだよ。だいたい、きちがい家族の騒音に悩まされているという条件は、出てこない。きちがい家族の騒音に悩まされ続けて、七年たったとき、バイトをするにしても、きちがい家族の騒音に悩まされずに、七年たった人とは、ちがう条件でバイトをしなければならなくなるんだよ。バイトだって、限られてくるんだよ。ヘビメタ騒音が七年間鳴っていたいうことで、学歴がなければ、できるバイトだってちがってくる。たとえば、Aさんは、おカネはないけど、七年間、家族のきちがい騒音にたたられ続ける生活をしていなかったとする。Bさんは、おカネがなく、七年間、家族のきちがい騒音にたたられ続ける生活をしていたとする。その場合、「おカネがない」という条件は、AさんもBさんもおなじだということになる。けど、実質的な内容はちがうのである。「バイトをしてカネを稼げばいい」と言ったって、条件がちがってくるのである。心のこもったプレゼントだって、あげる本人が、心のこもったプレゼントだと思っていたって、もらったほうが、心のこもったプレゼントをもらったと思うかどうかはわからない。「プレゼントをあげれば、しあわせになる」と考えているときは、あげたあと、いい反応が返ってくることを期待している。けど、個々の場面ではちがったことが起こる可能性がある。あげるほうは「心のこもったプレンと」だと思っていても、もらったほうが、いやな気持ちになる場合だってある。いやな気持ちになったということが、態度に出て、あげるほうが、その態度を認識した場合は、「しあわせな気分」になるわけではない。現実の出来事というのは、さまざまな条件のなかで、特定の誰か(C)が、特定の誰か(D)にプレゼントあげるということになるのだから、当然、特定の誰か(C)と、特定の誰か(D)の関係は、重要な意味をもつ。けど、こういう部分も、「プレゼント」という抽象化があり、「あげる」という抽象化があり、「もらう」という抽象化があると、無視されてしまうのである。それまでの、あげるほうともらうほうの関係を無視してしまう。現実的なことを考えるなら、現実的な個人が、現実的な個人に、プレゼントをあげるわけだから、それまでの関係というのは、重要な意味をもつ。「プレゼントあげるとしあわせになる」「プレゼントをもらうとしあわせになる」と考えているときは……どうして、そういう個別性を無視してしまうのか。空想世界で、切り捨てられた、個別性が、現実世界では、猛威を振るうのである。どうしてかというと、個々人が、現実をつくっているからである。その人とその人あいだ……たとえば、CさんとDさんの現実をつくっているのである。個別の関係性を無視して、「プレゼントあげるとしあわせになる」「プレゼントをもらうとしあわせになる」と考えるときは、両方ともしあわせになるのだから、よい行為でしかないということになる。ところが、現実の場面では、ちがうことが起こる可能性がある。個々人の抱える、個々の条件というものを、無視して、考えるから、現実的な人間が抱える、トラブルが目に入らないのである。はっきり言えば、プレゼントをもらったことで、不幸になることだってあるんだよ。プレゼントをあげたことで、不幸な気持ちになることだってあるんだよ。けど、「幸福になる」と決めつけてしまう。あるいは、「幸福な気持ちになる」と決めつけてしまう。ある人がいたとする。Eさんだとする。Eさんは、ある場面で、ある相手から、プレゼントをもらったとき、不愉快な気持ちになたっことがあるとする。Fさんがいたとする。Fさんは「プレゼントをもらえば、しあわせになる」ということを信じていたとする。Eさんが、Fさんに「プレゼントをもらっても、しあわせになるとは限らない」ということを言ったとする。そうすると、Fさんは、自分が信じていることを否定されたので、不愉快になる可能性がある。不愉快になる確率は非常に高い。
空想世界の思考実験をするのであれば、毎日をプレゼントデーにすれば、すべての人が、毎日、しあわせになるはずなのである。ところが、実際には、そうならない。そりゃ、うまくいく人もいるけど、うまくいかない人もいる。そうすると、相手の条件を無視して、「うまくいかない人は、ネガティブなことを考えたからうまくいかないのだ」という決めつけをするのである。Fさんのような人は、そういう決めつけをする。あるいは、相手の条件を無視して、「うまくいかない人は、ネガティブなことを考えたからうまくいかないのだ」という決めつけをするのである。Fさんのような人は、そういう決めつけをする。相手の条件を無視して、勝手なことを言う。相手の条件を無視して、勝手な決めつけをする。
こんなのは、他人を対象とした自己責任論とおなじだ。条件が悪いから、ひどい目にあった人にむかって、「そんなのは、おまえの自己責任なんだよ」と言う人になってしまうわけ。よく吟味して、相手の自己責任なのかどうかを考えるのではなくて、最初から、「相手の自己責任だ」と言うことが決まっているのである。こんなの、ない。