じつは、無職やひきこもりに偏見をもっている人は、偏見の内容に従って、無職である人やひきこもりである人に対して、悪口を言っていることになる。
ところが、悪口を言っている本人は、別に悪口を言っているとは思わないのである。こういうことが、起こりえる。
じゃあ、まあ、無職ほうから、話をはじめよう。
無職である人のなかにも、いい人と悪い人がいる。条件が悪いので、悪い出来事が発生し続けて、無職にならざるを得ない人がいる。
この人たちは、悪い人ではないのである。
ただ、いろいろな不幸が重なって、仕事ができない状態になっているので、無職であるだけなのである。
ところが、無職に対して偏見がある人は、偏見の内容に従って、その人の人格を判断して、その人はこういう人であると決めつけてしまうのだ。
その「この人はこういう人である」という内容と、現実のその人の内容が、食い違う場合がある。ステレオタイプで、決めつけるわけだから、ステレオタイプで決めつけたことになる。
ようするに、無職であれば、一〇〇%の人が、悪い人になるのである。
たとえば、Aさんは無職に対して偏見があるとする。
そうすると、一〇〇%の無職の人が、その偏見の内容の通りの人だとAさんは見なしていることになる。
ところが、無職というのは、ただ単に、無職であるということを示しているだけなのである。Aさんがもっている偏見の内容を、すべての無職の人がもっているわけではないのである。
ところが、Aさんは、どの無職の人を見ても、「こういう人である」と決めつけてしまう。
おなじことが、ひきこもりにも成り立つ。ひきこもりに対して偏見がある人は、偏見の内容に従って、その人の人格を判断して、その人はこういう人であると決めつけてしまうのだ。
ところが、ひきこもりというカテゴリーに属している人?のなかには、どうしようもない理由でひきこもりになった人もいるのだ。
ようするに、ひきこもりというのは、単なる属性の問題であり、「偏見の内容」のような「性質」もっているということを保証するものではない。
ところが、すべてのひきこもりが、「偏見の内容」のような「性質」をもっていると偏見がある人は、決めつけてしまうのである。
たとえば、Bさんはひきこもりに対して、偏見があるとする。そうすると、一〇〇%のひきこもりの人が、その偏見の内容の通りの人だとBさんは見なしていることになる。
ところが、ひきこもりというのは、ただ単に、ひきこもりであるということを示しているだけなのである。Bさんがもっている偏見の内容を、すべてのひきこもりの人がもっているわけではないのである。
ところが、Bさんは、どのひきこもりの人を見ても、「こういう人である」と決めつけてしまう。
くそおろかなことをしているのは、AさんやBさんだ。
ちょっとは、自分の偏見について考えたほうがいい。
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たとえば、ぼくに対して「おまえだって、言霊主義者に偏見を持ってるじゃないか」と思う人がいるかもしれない。
しかし、それはちがう。
まず、ぼくにとって、言霊主義者というのは「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」と考える人なのである。
だから、言霊主義者であれば一〇〇%の人が、「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」と考える人だということになる。
これで、間違いがないのである。そして、「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という理論は間違っているのである。
なので、間違っていると言っているだけだ。偏見ではなくて、言葉の定義の問題だ。「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」と考える人のことを言霊主義者と言っているのだから、一〇〇%の関係が成り立って、あたりまえなのである。