2026年10月1日木曜日

●「鳴り終わったら関係がない」■騒音※2026/10/01 23:01

このさき、どうするかな? まあ、ヘビメタ騒音のことはだれにも理解されないと思う。実際に、経験したのは、ぼくだけだからな。しかし、きつい。鳴っている感じしかない。すべてに、影響があった。いまも、影響の「なれのはて」で暮らしている。これ、どういうことなのか、わかっていないやつが多すぎる。「鳴り終わったら関係がない」……。ほんとうに、ぶんなぐってやりたい。ほんとうに、ぶんなぐってやりたい。

きちがい兄貴が、きちがいだから、俺が舐められるようになる。俺の、実力がガンガンさがる。生活がきつくなる。だれも理解しない。なんてたって、ほかのやつらにとってみれば、関係のないことだからな。けど、たとえば、ぼくに遅刻されるとこまる人にとっては、ぼくの遅刻は、関係があることになる。まあ、勉強でもちょっとおなじだ。仕事でもちょっとはおなじだ。 けど、そういう人たちの、「経験の範囲」には「きちがい家族による騒音生活」が入っていないのである。これがでかい。ぜんぜん、経験したことがないのである。ほかの人たちは、ぜんぜん経験したことがないのである。ほかの人たちは、「騒音」は経験したことがあるけど、「きちがい家族による騒音」は経験したことがないのである。きちがい兄貴の感覚は、きちがい親父の感覚とおなじで、常人のそれではない。ここが、ちがう。だから、ぜんぜんちがう。ところが、「騒音」なら騒音なのだ。家族」なら家族なのだ。この常識が、めちゃくちゃに大きな影響をあたえる。けっきょく、俺が、「実際にやられていること」と「普通の人が考えること」のあいだにはさまれることになる。普通の人が、ヘビメタ騒音の話を聞いて考えることと、実際のヘビメタ騒音がぜんぜんちがうのである。実際の「ヘビメタ騒音生活」がぜんぜんちがうのである。けど、ぜんぜんちがうということが、ほかの人にはわからないし、ぜんぜんちがうということは、ほかの人には意味がないことなのでる。だから、普通の人は、誤解をした状態で、ずっとすごすことになる。誤解が修正されるということがないのである。そして、実際にぼくが、無職であるならば、無職であるということの影響が、どんどん、「つもっていく」のである。誤解が修正されないまま、さらに、誤解が「積もっていく」状態になる。これも、ほかの人にとってみれば、どうでもいことなのである。考えもしないことなのである。だから、無職に偏見がある人は、ヘビメタ騒音の話を聞いた後も、無職に偏見があるので、無職であるぼくを軽蔑してくるということが発生する。これは、ぼくにとって、「関係がないこと」ではないのである。ぼくにとって、「関係がないこと」ではない……ということも、じつは、無視する言い方がはやっている。「関係がないわけないだろ」と言いたくなる。スピリチュアリズムの考え方も、努力論の考え方も、自己責任論の考え方もすべて、特殊な家族にやられた人を、おいつめる考え方なのである。普通の人が、迫害者になるのである。、無職に対する偏見も、ひきこもりに対する偏見も、特殊な家族にやられた人を、おいつめる偏見なのである。普通の人が、普通に、迫害者になるんだよなぁ。隠れた犯人は、きちがい兄貴だ。ほかの人たちは、隠れた犯人に一切合切、気をとめない。きちがい兄貴がやったことと、ぼくが無職である(あった)ということの関係性を認めない。これだって、ほんとうは、『ひどい話』なのだけど、関係のない人たちにとっては、『ひどい話』ではないのである。断固、絶対に、『ひどい話』ではないのである。必然性を否定すると、そう見えるのである。だから、「そんなのはあまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と、迫害するようになるのである。こんなの……。きちがい兄貴が、ブラックホールなんだよ。きちがい兄貴が、隠れて?頑固にきちがい行為をすると、そのきちがい行為の異教がぼくに及ぶ。長期間続けば、どうしても、影響が障害となっあらわれるしかし、障害なんて、まったく理解されないのである。常人によって、まったく理解さないのである。

●こういうことが頻繁に発生してしまうのが、この世だ■社会※2026/10/01 8:39

根が親切な人が、背負いきれないことを背負い込んでしまったとしよう。根が親切な人というのは、ドライに考えることができず、相手の立場や相手の気持ちがわかる人なので、利用されやすい人なのである。根が親切な人に、ものごとを頼んだほうだって、しかたがない事情があり、(根が親切な人を)かならずしも、利用してやろうと思ったわけではない場合もある。しかし、介護など、継続的に続くことは、大きな負担になりやすいものなのである。ほかにも、一度手伝ってしまうと、手伝うのがあたりまえという感じになって、継続的な負担が生じる場合がある。これも、(根が親切な人を)かならずしも、利用してやろうと思ったわけではない場合もある。「人に親切にすれば、運があがってしあわせになる」と言っている人の理論に従えば、大きな負担があることでも、人に親切にすれば、運があがってしあわせになるはずなのである。あるいは、「人に親切にすれば、しあわせになる」と言っている人の理論に従えば、大きな負担があることでも、人に親切にすれば、しあわせになるはずなのである。継続的に手伝うということは、継続的に親切するということだ。回数が多くなる。ならば、そのぶんだけ、しあわせになるかというとそうではないのである。逆に、回数が多くなればなるほど、不幸になる場合だってある。回数が多くなればなるほど、ストレスがたまる場合だってある。回数が多くなればなるほど、トラブルが発生する回数も多くなる傾向がある。見知らぬ人に、一回だけ、親切にするのとは、ちがうのである。もちろん、「人に親切にすれば、運があがってしあわせになる」というのは、100%構文の文であり、親切にするか、親切にしないのかの二値しかないので、一回でも親切にすれば、親切にしたことになるのである。だから、一回でも親切にすれば、運があがって、100%確率で、しあわせになるということを意味しているのである。ところが、そういうことを、。「人に親切にすれば、運があがってしあわせになる」と言っている人は考えないのである。ここら辺の態度は、ぬけぬけ感覚の言霊主義者とまったくおなじだ。「人に親切にすれば、運があがってしあわせになる」と言っている人や「人に親切にすれば、しあわせになる」と言っている人は、たいして親切ではなく、大きな負担があることは、避ける傾向にある。そして、「自分が気持ちよくなりそうなことだけ」してやる傾向がある。そりゃ、ノンストレスで、負担がかからないことを、相手にしてあげて、「自分は親切な人間だ」といい気持ちになっているだけなのだから、大きな負担があるとわかることは、やらないようにする確率が高い。やらないようにする傾向が強い。これは、根が親切ではないというとを意味しているのである。もともと根が親切な人を根が親切な人と呼ぶことにする。「人に親切にすれば、しあわせになる」と100%構文で他人に言っている人を、100%構文の親切な人と呼ぶことにする。根が親切な人は、根が親切だから、相手の要求を断れず、大きな負担があることを引き受けてしまう傾向が強い。そして、100%構文の親切な人は、たいして親切ではなく、負担が多くなりそうなことは、頑固に断ることができる人なので、負担が大きなことで、つぶれる傾向が弱いのである。100%構文の親切な人は、親切なことをして、つぶれる確率が低いのである。根が親切な人が、根が親切だからこそ(親切心が強いからこそ)不幸になっているとする。たとえば、Aさんは、根が親切な人だとする。Aさんは、負担が大きなことを引き受けてしまったので、つかれはて、憂鬱になったとする。不幸感が増したとする。Bさんは、100%構文の親切な人で、「自分が気持ちよくなることが」事前にわかっていることしか引き受けないので、負担が大きなことは、頑固に断って、引き受けないようにしているとする。親切心で言えば、親切心が弱い人なのである。Aさんがこまっているところを見て、Bさんが、Aさんを助けてやるのかというと、そういうことは、ない。Bさんは、実際に、負担が大きくてこまっているAさんの代わりをする確率が低い。どうしてかというと、負担が大きいからだ。Bさんは、負担が大きいとわかっていることや、将来、負担が大きくなるのではないかと思えることは、避ける傾向があるので、Bさんの代わりに親切にしてやる確率はとてつもなく低い。そして、BさんがAさんを見て、言うことが「すべては自己責任だ(責任追及)」とか、「キャパをこえて引き受けちゃうからダメなんだ(ダメ出し)」とか、「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい(アホな助言)」とか、「明るいことを考えれば、明るいことが起こるので、明るいことを考えればいい(アホな助言)」とか、「できるできると言えば、できるので、できると言えばいい(アホな助言)」というようなことなのだ。Bさんはそうだとする。こうなると、親切心が強い人が、親切心が弱い人に、助言をされるということになる。しかし、助言かたちをとっているけど、実際に親切にしてあげるわけではないのだ。Aさんの負担を、軽減するようなことを、Bさんはしない。しかし、口だけ番長で、口だけは出すのだ。「ああすればいい」「こうすればいい」と言う。けど、Aさんを助けるようなことを、Bさんはしなかったとする。これでは、どっちが親切なのかわからない。

実際に、Bさんは不幸になっているので、しあわせになるには、こうしたらいいというようなことを言われるようになる。しかし、Bさんの場合、親切だから、不幸になっているのだ。その場合……「自分がいい気持ちになれることが、最初からわかっているような親切しかしない、親切心の弱いAさん」が、「不幸なBさん」にむかって「人に親切にすれば、しあわせになる」とか 「人に親切にすれば、運があがって、しあわせになる」というような助言をすることができるようになる。もちろん、Aさんは、自分はしあわせだと思っていて、自分がしあわせなのは、人に親切にしたからだと思っているのだ。「実際に、自分が、高齢女性の荷物を持ってあげたとき、自分は、」「人に親切にすると、しあわせになる。これは正しい」「人に親切にすれば、しあわせになるという命題は真だ」とAさんは思っている。Aさんの考え方に従えば、Bさんが不幸なのは、Bさんが人に親切にしなかったからだということになる。そりゃ、人に親切にすれば、しあわせになるのだから、実際にBさんが不幸なのであれば、それは、Bさんが人に親切にしなかったということを意味している。

こういうことが、発生してしまうのだ。こういうことが頻繁に発生してしまうのが、この世だ。 

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Aさんのような人は、「すべては自己責任だ(責任追及)」とか、「キャパをこえて引き受けちゃうからダメなんだ(ダメ出し)」とか、「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい(アホな助言)」とか、「明るいことを考えれば、明るいことが起こるので、明るいことを考えればいい(アホな助言)」とか、「できるできると言えば、できるので、できると言えばいい(アホな助言)」とBさんに言うことで、Bさんがこまってしまうということを、見逃している。見過ごしている。こういうとも、頻繁に起こる。Aさんのような人は、じつは、人の気持ちを読み取る力が低いのである。相対的なことを言えば、Aさんのような人は、Bさんのような人に比べて、人の立場になって考える力が弱い。

「すべては自己責任だ(責任追及)」とか、「キャパをこえて引き受けちゃうからダメなんだ(ダメ出し)」とか、「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい(アホな助言)」とか、「明るいことを考えれば、明るいことが起こるので、明るいことを考えればいい(アホな助言)」とか、「できるできると言えば、できるので、できると言えばいい(アホな助言)」という言葉のほかに、 「人に親切にすれば、しあわせになる」とか「人に親切にすれば、運があがってしあわせになる」とかいう言葉があり、これらの言葉も、Bさんを傷つける。そりゃ、Bさんだって、自分が(親切な人間だ)というような自己意識をもっているだろう。実際に、親切だから、相手の申し出をことわれずに、継続的で大きな負担になることを引き受けてしまったのだから、Bさんが(自分のことを)親切な人だと考えてもおかしくはない。その親切な自分が、不幸なのは、自分が人に親切にしてこなかったからだという意味になることを言われるのだ。そりゃ、不愉快に感じても不思議ではない。けど、Aさんのような人間は、Bさんが不愉快に感じたということも、無視してしまう傾向が強い。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。