他人を対象にした自己責任論が世にはびこっていると、加害者まで、「そんなのは、被害者の自己責任だ」と考えるようになってしまうのである。
たとえば、第一者・加害者、第二者・被害者、第三者・関係のない他人だとする。
その場合、社会において「すべては自己責任だ」という考え方が正しいということになっていると、第三者である「関係のない他人」は、みんな、被害者の責任だと考えるようになるのである。
だって、そうだろ。「自分」の「身の上に起こったこと」は「すべて、なんだろうが」「自分(その人)」の責任なのだからだ。
問題なのは、「自分」という言葉で表現されているものが、自分自身のことなのか、他者自身のことなかというところなのである。
自己責任論というのは、最初から、こういうところに、誤解が生まれる余地があるのである。
言霊主義者の話をしたけど、言霊主義者は、自分が体験したこと関しては、言霊思考抜きで考える傾向がある。
自分が蚊に刺されて、かゆくなったときは、蚊に刺されたからかゆくなったと「言霊思考抜きで」考えてしまうのである。
たとえば、言霊主義者が、夏の竹やぶに入って作業をしなければならない場合、言霊主義者だって、「蚊に刺されたからかゆくなった」と考えるのである。そして、かゆいから、「かゆい」と言ったとする。
その場合は、「蚊に刺されてかゆくなったから、かゆいと言っただけなんだ」とプロセス全体を理解しているのである。出来事の順番は、(一)「蚊に刺される」→(二)「かゆくなる」→(三)「かゆいと言う」という順番になる。そして、この順番に、言霊主義者自身が、疑問を感じないのである。
ところが、ひとごとになると、他人が蚊に刺されたことは関係がないことなので、そのプロセスが、頭に浮かんでこないのである。他人が「かゆい」と言った場合、……言霊主義者は「かゆいと言うからかゆくなるんだ」と決めつけてしまうのである。
相手が、「蚊に刺されたから、蚊に刺されたあと、かゆくなったんだ」と言ったって、言霊主義者は「かゆいと言うからかゆくなるんだ」と言って認めないのである。この場合の出来事の順番は、(一)「かゆいと言う」→(二)「かゆくなる」という順番なのである。
そして、蚊に刺されたあとに、物理的な反応の結果として、かゆくなったということを無視して、蚊に刺されるまえに、「かゆい」と言ったから、言霊の力によって「かゆくなったのだ」と理解してしまう。
こういう、意見の切り替え……思考回路の切り替えを、普段、意識することなくやっているのである。
言霊主義者は、普段、意識することなく、他人の身の上に起こったことと、自分の身の上に起こったことについて、ちがう反応をしているのである。
そのちがう反応というのは、思考回路自体がちがうということから、しょうじることなのである。他人の身に起こった場合の思考回路と、自分の身に起こった場合の思考回路が、ちがうのである。
これは、言霊主義者によくみられることだけど、普通の人間も、言霊主義者ほどではないしろ、おなじことをやっている。普通の人においても、自分の身に起こったことに関する判断と他人の身に起こったことに関する判断は、相当にちがうと言わなければならない。
自分が体験したことではないので、プロセス進行中の順番を軽視してしまうのである。プロセス進行中の順番というのは、「出来事の順番」のことだ。
自分が体験したことだと、出来事の順番を間違えることはないのだけど、他人のことだと、出来事の順番を間違てしまうのである。
そして、自分が体験したことではないので、『実感がない』のである。
自分が体系しているときは、時系列的な『実感』が、たしかに成り立っているのである。重篤な記憶障碍者でもない限り、ちゃんと、自分の『実感』は思考のなかに残っているのである。
他人の実感は、自分の実感ではないので、他人の実感をそのまま自分の実感として認識し記憶しているわけではない。他人の実感は、自分の思考のなかに、まったくないのだ。
他人が話している内容を理解して、他人の『実感』について想像しているだけなのである。
しかし、この想像は、人によって、だいぶ、『精密さ』がちがうのである。単純な人だと、相手が「蚊に刺されてかゆくなった」と言っても、「かゆいと言うからかゆくなるんだ」と反応してしまうのである。
「かゆくなった」と相手が言っていること以外は、あんまり理解しないのである。「かゆくなった」と言っているから「かゆいと言うからかゆくなる」と思ったことを自動的に返しているだけのような感じになる。
フォーカスされる部分が「(相手が)かゆいと言った」というこということだけなのだ。この場合、他人の話を聴いた人は、ほかの部分にはフォーカスしないのである。
どうしてかというと、自分には関係がない他人の経験なので、他人の経験を構成する要素には、たいして、注意を払わないからだ。
他人の経験を構成する要素というのは、経験を構成する出来事の順番や、出来事が発生してしまう条件によって、構成されている。つまり、経験を構成する出来事の順番や、出来事が発生してしまう条件には、相手が仮に明言したとしても、たいして、注意が向けられないのである。
まあ、言霊主義者ほどひどくはないにしても、普通の人も、そういう傾向が強い。そりゃ、自分が経験したことは、細部までよくわかるけど、他人が経験したことは、他人が言ったことのうち(自分の注意が向くこと)しか、認識しない。
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ともかく、人間は、他人の身にしょうじた出来事について、軽く考えてしまうような生き物なのである。もともと、そのような性格があるので、「すべては自己責任」という言葉は他人を対象とした自己責任論になりやすいのである。
ほんらい、自己責任論というのは、自分を対象とした自己責任論なのだ。
もともとは、自己責任論というのは、アンガーコントロール論なのだ。「すべては自己責任だ」と考えることによって、怒りがわかなくなるという理論なのだ。
アンガーコントロール論としての自己責任論の対象は、もちろん、自分自身だ。他人のことではないのである。
ところが、「すべては自己責任だという考え方は正しい」と思った人は、他人の身の上に発生したことは、すべて他人の責任だと考えるようになってしまうのである。
どうしてかというと、自分の経験したプロセスには実感があるけど、他人の経験したプロセスには、まったく実感がないからだ。
ごく自然な思考の移行なのである。この移行をもたらすものは、もともと他人の経験は自分の経験ではなく、自分にとって実感がわかないという人間の性質によるものなのである。他人の身の上にしょうじたことは、自分の身の上にしょうじたことではなく、実際の出来事を経験したわけではないので、話に聞いたことのうち、自分の印象にのこることしか、考えないのである。
他人の行動に関係なく、他人の身の上にしょうじたことは、すべてその他人の責任であるという考え方が、世にはびこっていると、よくないことが発生する。人間というのは、他人の身の上に起こったことに関しては、ものすごく荒い理解しかしないので、相手の条件を無視してしまうのである。あるいは、軽視してしまうのである。なので、もともと、他人の身に起こったことは、他人の責任だと思いやすい傾向があるのである。