たいていの言霊主義者は、「言えば、言ったことが現実化する」と考えているわけだけど、本人が言わなければならないのか、他人が言ってもいいのかという問題についてあんまり深く考えない。
これも、間違いのバッファーになっている。ようするに、間違いの余地をつくりだすものになっている。
「言い方の問題」というのは、「言い方が悪いから、現実化しなかった」という問題だということにしておく。
たとえば、言霊主義者がぼく(エイリ)に対して「言えば言ったことが現実化するから、しずかになると言えばしずかになる」と言ったとする。
そして、ぼく(エイリ)が「しずかになる」と言ったとする。ところが、「しずかにならなかったとする。その場合、言霊主義者は「あなた(エイリ)の言い方が悪いから、しずかにならなかったのだ」と決めつけてしまう。
ところが、「言えば、言ったことが現実化する」のだから、だれが言っても、現実化するはずなのである。その言霊主義者が「しずかになる」と言えば、しずかになるのだ。
その言霊主義者が「エイリのお兄さんは、ヘビメタを聴くのをやめる」と言えば、エイリの兄は、ヘビメタを聴くのをやめるのである。
ところが、言霊主義者というのは、自分が言って、他人の問題を解決してやるということをしない。相手が言わなければならないのだ。
そうしないと、「言い方が悪いから現実化しなかった」という「逃げ道」がふさがれることになる。
これも、言霊主義者・本人は気がつかないのだ。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが「Bさんは、事故にあう」と言ったとする。Aさんが「Bさんは、事故にあう」と言ったあと、Bさんが事故にあったとする。
その場合、Aさんは、「言霊理論は正しい」と思うわけだ。
この場合、Aさんの発言のなかで、Bさんが対象になっているのだ。
Aさんが、今度は「すべての人間がしあわせになる」と言ったとする。そうしたら、すべての人間がしあわせになるはずなのだ。
しかし、こういうでかいことになると、言霊の効果がなくなり、ただのお祈りになってしまう。お祈りの効果が絶大だとしても、言霊の効果よりは、小さいはずなのである。
言霊理論が正しいなら、言っただけで、ほんとうに、すべての人間がしあわせになるからだ。
これは、お祈りではない。
言霊の力によって、すべての人間がしあわせになるのである。お祈りではない。
Aさんの発言のなかで、Bさんもすべての人間も、対象であるわけ。
だから、Bさん本人が「自分は事故にあう」と言わなくてもいいということになっている。
言霊理論が正しいと考えている人のなかでは、「Bさん自身が、事故にあう」と言わなくても、「自分(Aさん)が」言えばそうなると思っているわけ。
だから、エイリの兄に関しても、「エイリの兄は、ヘビメタを聴くのをやめる」と言えば、エイリの兄は、ヘビメタを聴くのをやめるのである。
エイリが言わなければ、意味がないということは、こういう場合は、成り立たない。
ようするに、Aさんのなかで、「これは、言えば、そうなりそうだ」と思っていることと「これは言っても、そうなりそうもない」と思っていることが、区別されているのである。
しかし、言霊主義者自身は、この区別に気がついていないのだ。
言い方が悪いから、現実化しなかった」という言い訳?をするために、相手が言わなければならないことになっているのである。
自分(言霊主義者)が「いまから、エイリのお兄さんは、ヘビメタを聴かなくなる」と言ったのに、エイリのお兄さんが、ずっとヘビメタを聴いている場合は、言霊理論が成り立っていないということになる。
そして、自分(言霊主義者)は、言霊をうまく使えないということに直面することになる。そういうことは、いやなので、相手が言わなければならないことになっているのである。
相手というのは、この場合、エイリだ。
エイリが、エイリのことについて、言霊を使わなければならないのである。
つまり、エイリがエイリのことについて、言わなければならないのである。
エイリがエイリのことについて言って、言った通りにならない場合は、エイリの言い方が悪いから、言った通りにならなかったのだと(自分・言霊主義者)は言うことができるということになる。
この場合、自分というのは、言霊主義者のことだ。
けど、こういうことも、たとえば、「自分のことは自分で解決しなければ意味がない」というようなことを言いだす。
いや、言霊理論が正しいなら、言えば言ったことが、言霊の力によって現実化してしまうのだから、だれが言ってもいいはずなのである。
「自分の課題は、自分で解決しなければならない」とか「相手の課題を解決してあげるのは、相手のためにならない」とかということを、もちだして、相手が、言わなければならないということを(たいていの言霊主義者は)言いだす。
けど、ほんとうは、自分の「文」のなかで、対象になる人のことを、言うことで、自由に動かすことができるはずなのである。つまり、対象になる人のことを、文のなかで言えば、その対象になる人は、文のなかで言った通りに動くはずなのである。
自分という主体が、自分に関係することを、自分で言葉にして言わなければ……言霊の力が発動しないということではないのだ。
言霊理論は、「言えば、言ったことが、(言葉に宿っている)言霊の力によって現実化する」ということだから、だれが、だれを対象とした文をつくりだすのかということについては、最初から、条件なんて成り立っていない。
条件がないのに、勝手に、条件があるようなことを言いだすのである。
相手が言って、相手が言った通りにならなかった場合は……ほんとうは理論的に破綻しているのだけど……相手の言い方が悪かったから、現実しかなかったのだと言い切ってしまう。ほんとうに、そう信じているのだ。言霊主義者は、ほんとうに、そう考えている。
けど、これは、以前の投稿記事で書いたように、間違っている。理論的に破綻している。
どれだけ悪い言い方で言っても、「言えば、言ったことが、(言葉に宿っている)言霊の力によって現実化する」のである。
現実化しない場合あるなら、言霊理論が間違っているということになるのである。
* * *
よくわからないかもしれないから、「お祈りではない」という部分について補足説明をしておく。
お祈りは、願望だ。「かなってほしい」と思って、神にいるのわけだ。まあ、神ではなくても、仏様とか、天とか、宇宙意識とかそういうものに祈ることになる。
いっぽう、言霊というのは、言えば、かならず、かなうものなのである。理論としては、そうなのである。
願望ではなくて、決まっていることなのだ。だから、言霊主義者が「お祈りをする」というのは、ほんとうは、おかしなことだ。
「言えば、言ったことが(言霊によって)現実化する」ということを一〇〇%信じているのであれば、言うだけで、そうなるのだから、お祈りをする必要がないのである。
神様にお祈りをする必要がない。
願望を願望として表現する必要がない。かならず、言っただけで、現実化するものなので、言っただけで完了するのである。願望なんて持ちようがないのである。
しかし、実際には、言霊主義者だって、願望をもち、お祈りをする。
これは、じつは、言霊主義者といえども「言えば、言ったことが(言霊によって)現実化する」という言霊理論を、信じていないということを意味しているのである。
信じていないからこそ、お祈りをするのだ。「世界の人がしあわせにますように」とお祈りをする。言霊理論が正しいなら、お祈りなんてする必要がないのである。
言霊理論を、文字通り、完全に信じているなら、お祈りなんてする必要がないのである。
「世界の人がしあわせになる」と言えば、それで、言霊の力によって「世界の人がしあわせになる」のである。「世界の人がしあわせになる」と現実世界で言ったのに、「世界の人がしあわせにならない」なんてことはないのである。
「世界の人がしあわせになる」と言ってしまったのだから、言霊の力によって、一〇〇%の確率で、「世界の人がしあわせになる」のである。
世界の人がしあわせにならないのであれば、言霊理論が間違っているということになる。
言霊主義者は、言えば、いいのである。神様にお祈りをする必要性がない。
まったく、ない。
言霊主義者なのに、言霊の力を一〇〇%信じることができないから、言霊ではなくて、神に祈らなければならなくなるのである。
願望を表現することになるのである。言霊理論が正しいなら、言えば、言っただけで、言ったことが現実化するので、願望を表現する必要がないのである。
願望を、願望の形で、表現しなければならないということは、言霊主義者が、じつは、言霊理論を信じていないということを意味しているのである。