ちょっと、思ったままを書く。
基本、結びつかないと思うのだ。結びつくわけがない。
「いいことを考えれば、いいことが起こり、悪いことを考えると、悪いことが起こる」とか「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」とか「ポジティブなことを考えれば、ポジティブなことが起こり、ネガティブなことを考えるとネガティブなことが起こる」とかという、一見、害がなさそうな考え方が、まずいことを引き起こしてしまう。
一見、よさそうなことを、他人に言うことが……特に「こまっている他人」に言うことは、よくないことを引き起こすのである。
精神世界の人たちは、気にも留めないと思うけど、のび太とジャイアンの話は重要だ。精神世界の人たちが、のび太の側に立たず、ジャイアンの側に立ってしまうということは、問題だ。
しかし、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考えている人たちは、のび太がなぐられたのは、のび太がなぐられると思ったから、起こったのだ」と考えてしまう。
「のび太が、ジャイアンになぐられるというネガティブなことを考えたから、実際に、ジャイアンになぐられるというネガティブなことが起こったのだ」と考えてしまう。
「道徳」や「人の道」や「真理」について、深く考えている人たちが、なぐられたのび太をせめて、ジャイアンをせめないということは、問題だ。
なぐられたのび太に説教をして、どうしようもない理由で、のび太をなぐったジャイアンに説教をしないというのは、問題だ。
まあ、のび太とジャイアンの話は、架空の話だから、実際には、のび太に説教することもできないし、ジャイアンに説教をすることもできない。
しかし、現実世界でも、こういうことはある。
たとえば、いじめられたほうに、ほんとうに、落ち度がなかったとしても、「ネガティブなことを考えたから」いじめられたのだと考える精神世界の人たちは多い。
実際には、ネガティブなことを考えなかったのに、いじめられた人もいると思う。
まあ、実際に、いじめられたほうに原因がある場合もある。
しかし、その場合でも、いじめたほうが、悪いのである。これは、ケンカじゃない。いじめだ。
ともかく、ネガティブなことを考えなかった場合にも、ネガティブなことを考えたということに、されてしまうのである。精神世界の人が、そう思ってしまう。
精神世界の人たちのなかでは、ネガティブなことをされたのだから、ネガティブなことを思ったのだということになっているのだ。
精神世界の人たちは、後出しが多い。
実際には、結果を見て、こうなんだと思ってしまう。その場合、精神世界の人たちのなかでは、確信になる。精神世界の人たちのなかでは「事実」になってしまう。
たとえば、のび太がジャイアンになぐられるということが発生するまえに、のび太が、ジャイアンになぐられるというネガティブなことを考えなかったとする。考えなかった。
ところが、実際に、ジャイアンがなぐったとする。なぐった理由は、ジャイアンがむしゃくしゃしていたからなのである。ジャイアンが八つ当たりで、人をなぐった。
普通に考えれば、ジャイアンが悪いことをしたということになる。
ほとんどの道徳に敏感な人たちが、ジャイアンのほうをせめずに、のび太のほうをせめるのは、おかしくはないか?
精神世界の人たちは、道徳に敏感な人たちだ。
道徳とか、倫理とか、人の道について考えている人たちだ。
その人たちのほとんどが、ジャイアンではなくて、のび太に説教をしてしまうのだ。
そうすると、この人たちにとって、道徳とはなんなのかということが、じつは、問題になる。
しかも、精神世界の人と言ったけど、普通の人のなかにも、似たようなことを考えている人は多い。
特に精神世界にふれていなくても、幼児的万能感はだれにでもあるので、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というようなことを、信じやすい状態なのだ。
ジャイアンをせめずに、のび太をせめる人たちの多くが、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを信じている人たちなのだ。
「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方が、ジャイアンではなくて、のび太に説教をするという行動を、誘発しているのではないか?
この人たちの「のび太に対する態度」というのは、「不幸なことが起こった人に対する態度」とおなじなのである。
「なにか不幸なことが起こったなら、その人が不幸なことを思ったから、不幸なことが起こった」考えてしまうのだ。
この人たちのなかでは、決定事項なのである。
実際に不幸なことが起こった人が、実際にその不幸なことが起こるまえに、その不幸なことが起こると思ったかどうかということは、問題ではないのである。
この人たちによって「思った」と決めつけられてしまうからだ。
この人たち……多くの「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方を受け入れた人たちは、「だれか不幸な人がいたら、そのだれか不幸な人は、不幸なことが起こるまえに、その不幸なことを思った」と、勝手に決めつけてしまう。
思わなかった場合だってある。
しかし、思わなかった場合はないと……その不幸な人の状態なんてまったく、知らないのに、決めつけてしまうのである。
この人たちの、こういう態度自体が、決めつけられた人にとっては、不愉快である場合がある。たいていの場合は、こういう決めつけは、不愉快な決めつけなのである。
やられたほうにしてみれば、不愉快になる確率のほうが高い。
「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と信じている人たちが、意識的には「人がいやがることはしないようにしよう」と思っていても、実際の場面では、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考えに従って、相手がいやがることをするのである。
しかし、相手がいやがることをしたという主観的な認識がない状態なのである。
かりに、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを相手が否定して、自分の場合は、こういう原因があると、原因について説明したとしても……一度、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを受け入れて、「その不幸な人は、その不幸なことを思った」と思う人たちは、「その不幸な人は、その不幸なことを思った」と決めつけたままである場合が多い。
その不幸な人が説明した原因は無視して、その不幸な人が思ったから、その不幸なことが現実化したという自分の意見を……高確率で、かえない。
そのまま、「その不幸な人は、その不幸なことを思った」と考えている場合が多い。
つまり、たいていの場合、相手が否定しても、認めないのである。
どれだけ、普段は「人のいやがることはやめましょう」などと言ってたって、実際には、こういうことが発生してしまう。
* * *
『ぬけぬけシステム』と言うべきものが成り立っている。自分が一倍速で感じていることに対す価値基準と他人が一倍速で感じてきたことに対する価値基準がまったくちがうのだけど、本人が、まったくそれに気がつかないという構造がある。
* * *
たとえば、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と言っている人に、今回書いたようなことを言うと、おこってしまう確率が高い。
「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということに、こだわる!!人が、たくさんいる。
その場合、おこったのだから、ネガティブなことが起こったということなのだろう。
たとえば、Bさんがいるとする。Bさんは「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と思っていたとする。
エイリが、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こると思うことに関する問題点を指摘したとする。
そのとき、Bさんは『自分が正しいと思っていることを批判されて不愉快だ』と感じたとする。
この場合も、Bさんの考えに従えば……『自分が正しいと思っていることを批判される』と思っていたから「自分が正しいと思っていることを批判される」ということが起こったということになる。
Bさんが暗いことを考えていたので、暗いことが起こったのだ。「暗いこと」というのは、ここでは「自分が正しいと思っていることを批判される」ということだ。
「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考え方は正しいのに、エイリというやつが批判した」とBさんは高確率で思って、腹を立てるのではないか。
自分のことになると、「そんなことをされたら、腹が立つにきまっている」と思う確率が高い。
しかも、自分(Bさん)は、事前に……「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考えを批判されると考えていなかったので、Bさんにとっては、Bさんが事前に、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考えを批判される」と思っていなかったことは、あきらかなことだ。
しかし、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という理論に従えば……Bさんが、事前に「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考え方を批判される」ということを考えていたということになる。
はたして、Bさんは、自分は「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考え方を批判されると思っていた」と思うことができるのだろうか。
思っていなかったというのが事実なのに……エイリに批判される前は、そんなことは一切合切考え方こともなかったのに、考えていたということになってしまう。
これを、Bさんは受け入れることができるのか?
* * *
ところで、Bさんが、あるブラック企業でアルバイトをしたとする。ブラック企業では、不愉快なことが、起こりまくりだったとする。
そのブラック企業で、アルバイトをし始めてから六か月たったとき、ものすごく不愉快なことが起こったとする。
こういう場合は、「もっといやなことが起こるかもしれないと思っていたから、もっといやなことが起こった」と考える確率が、わりと、高いのだ。
これは、考えていたことだ。すでに、小さないやなことや中ぐらいのいやなことが発生したあと、「もっと、いやなことが起こるかもしれない」と思ったのだ。
「そう思う」だけの根拠があるのだ。
環境が改善されなければ、かなりの高確率で、「もっといやなことが起こるだろう」と予想できた。自分が「予想できたことが起こった場合」は、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考え方正しい」と思うのである。
「ネガティブなことが起こる」と自分が考えていたと思っていない場合も、「ネガティブなことが起こる」と自分が考えていたと思った場合も、どっちも、睡眠中ではなくて起きているときに、意識的に判断していることなのである。
現実的な条件というのは、生まれたときから、現前しているのである。
たとえば、どういう親のものとに生まれるかということは、その人が選んだことではないのに、重要な条件になる。その条件が、その人のいろいろなことを決定してしまう。
ようするに、条件のただなかに、産み落とされるのである。
その場合、もちろん、「いい親のもとに生まれると考えたから、いい親のもとに生まれた」というようなことは、言えない。
言語をおぼえるまえに、言語で、考えることができないのだから、言語で考えたことを思うことはできない。
同様に「悪い親のもとに生まれれる」と考えたから悪い親のもとに生まれたわけではないのだ。
ところが、「思ったことが現実化する」ということになっていると、もちろん、うまれるまえに、言語的な意味で、「悪い親の元に生まれる」と考えたから、実際に、悪い親のもとに生まれたということになってしまうのである。
この考え方は、完全に間違っている。
たとえば、生後一か月で、親と一緒にいるとする。
その状態というのは、実際に発生した出来事によって決まっているのだ。
どういう部屋にいるか、どういううちにいるか、どういう親と一緒に住んでいるのかということが、まず、最初にある。「思い」のまえにあるのだ。
「思い」のあとに「思い」に従って、現実が発生したわけではないのだ。
* * *
もちろん、思霊主義者を含み、精神世界の人は、「うまれるまえに、親を選んだのだ」というようなことを言う。「学びのために、悪い親を選ぶ場合もある」というようなことを言う。
「魂が学習するために、適切な親を選んでいる」というようなことを言う。これ、妄想だから。こういう妄想を、事実であるように言うな。
* * *
ちょっと、ちがう話をしよう。ぼくは、新型コロナウィルスが実在したということについて疑問をもっている。しかし、ほかの人に合わせるとしよう。
たとえば、「三秒以内に、すべてのコロナウィルスが消滅する」と思えば、それだけで、三秒以内に、すべてのコロナウィルスが消滅するのである。
思ったのに消滅しないということはない。
ところが、多くの思霊主義者は、ワクチンに頼ったのである。人の一生については、決めつけたことばかり、言うのに、ちょっと、話が大きくなると、「常識的に考えてそんなことはない」と思ってしまうのではないか?
ちがうか?
こまっている人には、こまっているのは、おまえがネガティブなことを考えたから、こまっているのだということを言うわけ。
きちがい的な親の元に生まれた人には、お前がきちがい的な親の元に生まれることを選んだと断言するわけ。決めつけてくるわけ。
ところが、大きなことに関しては「思ったって現実化するわけではない」と思ってしまうのである。
ちがうか?
まあ、思霊主義者で、「三秒以内に、すべての新型コロナウィルスが消滅すると思えば、それだけで、新型が消滅する」と思っている思霊主義者もいるかもしれない。
なら、思ってみろ。
三秒ジャストを含まず、三秒よりあとには結果が出ている。思うだけでかえられるなら、かえられたはずなのである。別に新型コロナウィルスに限ったことではない。
「これ以降、すべての病原体は消滅する」と言えば、その瞬間からすべての病原体が消滅するのである。
だから、この方法で、すべての病原体を排除すればよいのである。そうなれば、狭い意味で病気になる人はいなくなる。
しかし、病原体とは関係がない症状がある。そういう症状は、この言葉を思っても、消えない。
けど、「これ以降、人間はすべて、健康な状態で生きられる」と思えば、それで、健康な状態で生きられるようになるのである。
どうして、決めつけをしないのか?
思ったって、そうならないと思っているから、自信をもって決めつけることができないのである。
しかし、不幸な他人に関しては、「不幸なのは、あなたが不幸になると思ったから実際に不幸になったのだ」と決めつけてしまう。
どれだけ、かたよっているかわかるかな?
* * *
「思う」だけで、問題が解決するなら、それは、いいことだ。
しかし、決めつけてよいのだろうか。
「思えば、思ったことが現実化する」という文は、一〇〇%構文の文だ。なので、「思えば、思ったことが現実化する」と言う人は、じつは、「思えば、すべての思ったことが一〇〇%の確率で現実化する」と言っているということになる。
「思ったこと」と「すべての思ったこと」は、イコールなのである。
イコールではないのなら、どうやって、思ったことのなかに、思わなかったことを含めるのかという問題が発生してしまう。
思ったら、思ったことなんだよ。思わなかったら、思わなかったことなんだよ。
まあ、おなじことを何回も書くのは、どうかと思うので、これ以降の説明は省略する。
* * *
思霊主義者は、どんなことでも、思えば、思ったことが現実化すると言っているわけ。どういう条件でも、思ったら、現実化してしまうのだよ。……そういうことを言っている。
しかし、思ったって現実化しないことはある。
思霊主義者は、じつは、自分で行動して、自分の思いを現実化したときのことと、思霊の力で思ったことが現実化するということの区別をしていない。
これは、重要なことなのだけど、無視されてしまう。言霊主義者とおなじ構造が成り立っている。
思霊ではなくて、潜在意識という言葉を使う場合もあるけど、その話に出てくる潜在意識というのは、思霊に働きかけるものであって、なおかつ、思霊とおなじものなのである。
宇宙意識という言葉を使う場合もある。潜在意識が、宇宙意識に影響を与えるので、宇宙意識が、潜在意識の内容を現実化するというような説明を(一部の思霊主義者が)する場合もある。
潜在意識というのが、エセ科学タームなのである。似非(エセ)なのである。似非(エセ)科学ターム。ニセ科学ターム。
この話だけでも、その人たちは、ちっとも科学的な思考ができる人たちではないということが、あきらかだ。潜在意識についても、過去に書いたことがあるので、ここでは省略する。
* * *
ともかく、思えば、思ったことが現実化するということを言うわけ。ところが、思霊によって、思ったことが現実化するということは、ないのである。思ったあと、思ったことが現実化することはある。
しかし、思ったから、思霊がしょうじて、思霊の力で、そのことが現実化したわけではないのだ。
思霊に関しても、言霊のように、「思ったあと」と「思ったから」の区別ができない人が多い。
この区別があいまいだから、「思ったあと」に「思ったことが現実化する」と「思ったから」「思ったことが現実化した」と思ってしまうのである。これは、間違いだ。
たとえば、ある人が「明日は雨になる」と思ったとする。そして、雨になったとする。この場合、ある人が「明日は雨になる」と思ったことと、実際に雨になったということは関係がないことなのである。
ある人が「思ったから」思霊が発生して、思霊の力によって、雨が降ったわけではない。
この場合の思霊は、念力のようなものなのである。あるいは、「念」のようなものなのである。
この「念」が実際の気象現象に影響を与えたとする考え方なのだ。
しかし、実際はちがう。
また、ある人が「電車が動く」と思ったあと、実際に電車が動いたとする。これも、その人の「動く」という念が、電車を動かしたわけではないのだ。
ともかく、相手がこまっていた場合、現実的な問題でこまっているのだから、「思えば、思ったことが現実化する」と助言してしまうことは、よくないことなのである。
失礼なことなのである。どうして、失礼かというと、相手が自分の状況について説明しても、相手が説明した状況を理解していないからなのである。
条件がある。
相手が条件について説明しても、思霊主義者は相手の条件を無視してしまう。相手の条件なんて関係なく、「思えば、思ったことが現実化する」と言ってしまう。
これは、ほんとうに、失礼なことだ。
* * *
「思うだけで解決する」という前提でものを言う。
そして、相手が、思っても、解決できなかった場合には、「思い方が悪いのだ」ということを言い出すのである。
そして、「こころがけサブルーチン」や「こころがまえサブルーチン」に入っていく。ほんとうに、失礼なやつらだな。
* * *
もともと、欲から出発しているのである。自分の欲望を、楽な方法で満たしたいので、思霊的な考え方が正しいと確信したのである。
ようするに、自分の欲望を、楽な方法でかなえたいので「思えば、思ったことが現実化する」ということを信じたのである。
まあ、自分の欲望……「我欲(がよく)」を満たすために「思えば、思ったことが現実化する……これは正しい」と確信したわけ。
だから、何度も言うけど、自分にとって都合がいい「欲のこころ」から出発しているわけ。
そして、ぬけぬけだから……思霊主義者本人には……わからないのだけど、自分が思っても、ぜんぜん現実化しないこともあるわけ。
ところが、いくつか、自分が思ったら、思ったあとに、思ったことが現実化したと思えることがあると、それで、自分には「思霊の力がある」と確信してしまう。
「自分はできる」と確信してしまう。
そして、相手はこまっているのだから、思霊による解決方法を知らない人だということになる。
だから、教えてあげるのである。
教えてあげるのだから親切なことだと思うわけ。
たとえば、タダで、教えてあげたら、親切なことをしたということになる……と思うわけ。
けど、ぬけぬけだから、思霊の力によって、現実化することはないということに、気がついていないだけなんだよ。自分で自分をだましている状態なんだよ。
問題なのは、我欲の塊なのに、人には「こころがけサブルーチン」や「こころがまえサブルーチン」で、えらそうなことを(他人に)言うことだ。
心がけサブルーチンや心構えサブルーチンには、さらに、「人のためサブルーチン」や「社会のためサブルーチン」や「言い訳をしないサブルーチン」や「人のせいにしないサブルーチン」が含まれている。