たとえばの話だけど、名前だけ店長が、ニコニコしていなかったわけではないのである。
店長なので、営業中は、ニコニコしていたのである。
そして、名前だけ店長が、掃除をしていなかったわけではないのである。むしろ、店を維持するために、普通の人よりも長い時間、掃除をしていたのである。
そして、ほかのスタッフに、親切にしていたのである。サービス残業をしていたのだから、それだけでも、ほかのスタッフに親切にしていると言える。名前だけ店長が、ほかのスタッフがやるべき作業もしていたからだ。
名前だけ店長は、ニコニコしていなかったわけでもないし、掃除をしていなかったわけでもないし、ほかの人に親切にしていなかったわけではないのだ。
むしろ、それらの作業が、名前だけ店長の「疲労」をつくりだしていた。
これらの作業が、名前だけ店長の不幸をつくっているのである。
この場合は、不幸感と言ってもいい。あるいは、この場合は、不幸な感じがする生活をしていたと言ってもいい。
ようするに、日常の業務がきついということが、名前だけ店長が不幸だと感じる理由だったのである。
そりゃ、長時間労働になるので、家に帰っても、ゆっくり風呂にも入れない。長時間労働を毎日、しているので、毎日、睡眠時間が不足する。睡眠時間をじゅうぶんにとれないということが、重要なことなのである。
ニコニコ(作り笑い)とか掃除とか、他人に対する親切行為が不足していたから、不幸な生活をしているわけではなくて、逆に、ニコニコして、掃除をして、仕事を通して他人に親切にしていたからこそ、切羽詰まった生活が持続していたのである。
そりゃ、そんな生活をしていたら、趣味活動なんてできない。
趣味活動が一定の幸福感をもたらすとするなら、ニコニコ(作り笑い)とか、掃除とか、他人に対する親切行為をやりすぎて、趣味活動をする時間が無くなっていたので、幸福感がまったくない生活をしていたのである。あるいは、まったく幸福ではない生活をしていたのである。
普通の人よりも、各種教祖がすすめることをやりすぎているから、問題がしょうじているのである。
ところが、名前だけ店長が、不幸だからこまっているということを聞けば、ニコニコ教祖は「ニコニコするといいことがあるから、ニコニコすればいい」と言い、掃除教祖は「掃除をすれば、幸福になるから、掃除をすればいい」と言い、「人に親切にすると、運があがって幸福になるから、人に親切にすればいい」と言うのである。
むしろ、くるしめている。
むしろ、名前だけ店長をくるしめている。
ニコニコすることが欠乏しているから、不幸なのではなくて、ニコニコしている生活が不幸感をつくりだしているのである。そりゃ、長時間勤務で、長時間、作り笑いを浮かべていたら、つかれるだろ。
そして、あまりにもいそがしすぎて、異性と付き合う時間もないのだ。そして、勤務時間が長いにもかかわらず、低収入だから、異性と付き合うにしても、不利な立場になってしまうのである。
そういうこと、全体が、不幸感をもたらすのである。
だから、名前だけ店長が、幸福になるには、まず、ここから抜け出す必要がある。
労働時間の問題と労働に見合わない賃金の問題をどうにかする必要があるのである。
それでも、不幸さの度合いが、下がっただけだ。幸福になるのかどうかはわからない。
しかし、まず、自由な時間が必要なのである。
疲労困憊で、仕事以外のことがしにくい状態というのが改善されなければならないのである。
ところが、……何度も繰り返すけど、教祖は、「ニコニコすれば、幸福になる」と言い、掃除教祖は「掃除をすれば、幸福になる」と言い、親切教祖は「人に親切にすれば、幸福になる」と言うのである。
この人たちは、ぎりぎりの生活をしている名前だけ店長に、さらに頑張ることを、期待しているのだ。
こんなのは、ない。
やることが増えてしまうのでは、ないか。ただでも、労働だけで、時間が圧迫され、くるしい生活をしている。時間が圧迫され、くるしい生活をしているから、「幸福ではない」と(名前だけ店長は)感じているのである。
そして、さらに、収入が低いのである。こっちのほうが問題なのである。
ところが、ブラック社長が、名前だけ店長に、続けて労働をすることを押し付けているとき、もし、ニコニコ教祖がその場にいたら、ニコニコ教祖は、ブラック社長の味方になり、「もっもっとニコニコしながら仕事を続ければ、幸福になる」というようなことを言うのである。
掃除教祖がいたら、「もっともっと掃除をして頑張れば、幸福になる」と言うのである。
親切教祖は「もっともっと人に親切にして、頑張って働けば幸福になる」と言うのである。
この人たちは「もっともっともっと」頑張れば幸福になるということを言うけど、つかれている名前だけ店長の体調を心配したりしない。
「Xがたりないから、不幸なのだ」と決めつけ「がんばって、Xをやり続ければ幸福になる」ということを言う。
名前だけ店長の体なんて、まったく気にしていない。
「もう、むりだ」と言っている名前だけ店長が、どれだけつかれているか、まったく、まったく気にしない。
「Xの欠乏を満たすように、ポジティブに(前向きに)頑張ればいいのだ」ということになってしまう。
みんな、名前だけ店長に、親切にしないのである。
ブラック社長に攻撃され、搾取され、こまりきっている名前だけ店長の味方にならず、名前だけ店長を搾取する気持ちでいっぱいの、ブラック社長の味方になって、ブラック社長にとって、都合がいいことを、(各種教祖は)言うのである。
「Xをすれば、幸福になる」と言うとき、「X」に、意識が集中しているのである。なので、対象者が「幸福ではない」理由は、「X」をしないからだということになってしまう。
ようするに、X以外の条件というのは、最初から無視されているのである。
だから、疲労とか睡眠不足という条件は、最初から無視されているのである。
疲労や睡眠不足といったわかりやすい条件だけではなく、(X以外の)ほかのすべての条件が無視されてしまうのである。
名前だけ店長は一人暮らしだから関係がないけど、たとえば、家族がきちがい行為を頻繁に繰り返せば、どうしたって、一緒に暮らしている人(別の家族)は影響を受ける。
この結果しょうじた「不幸感」というのは、対象者がほかの人に親切にしていないからしょうじる不幸感ではないのである。
ともかく、「Xをすれば、幸福になる」と言うとき、「X」にフォーカスが集まるので、「X以外の条件」は瞬時に、自動的に無視されてしまうのである。
そして、相手(対象者)が「Xをしても、幸福にならなかった」という意味のことを各種教祖に言えば、教祖は、「不足」を問題にするのである。
ようするに、「じゅうぶんでないから、幸福にならない」ということを言い出すのである。
これも、ステレオタイプの反応だ。
その場合、ほんとうは、「Xをしないから、幸福ではない」という理論は、くずれている。崩壊している。
どうしてかといと、「Xをしたのに、幸福にならなかった」からだ。
そして、各種教祖は、このことを認めない。
数量を持ち出すなら、もう、まけているのだ。
ところが、まけているということに気がつかない。自分が間違っていたということに気がつかないのだ。
そして、あくまでも「対象者」のXをする回数やXの量が問題なのだと言い出す。
二値思考から、数量思考になっているのだけど、二値思考である「最初の理論」が破綻していることに気がつかない。
しかし、あいかわらず「Xにフォーカスが集まっている状態」は続くのである。
各種教祖は「ほかのことが原因で」相手が幸福ではない状態で暮らしているとは、考えないのだ。あくまでも、Xに注意が集中している状態が、続く。
「Xをすれば、幸福になる」と言ったとき「Xの欠乏が、幸福ではない人が、幸福ではないことの原因だ」と決めつけてしまうからだ。
対象者が、ほかのことでどれだけくるんでいても、それは、認められないのである。
対象者が、ほかのことでどれだけくるしんでいても、そんなことは、無視してしまう。各種教祖は、ほかのことで(対象者が)くるしんでいるということを、無視してしまう。
こういうことを(各種教祖が)善意でやっているということが、さらに問題なのだ。各種教祖は、不幸な人を救ってやりたくて、「Xをすれば、幸福になる」というようなことを言っているわけだ。
善意でやっていることなのである。
二軍以下は、善意でやっている。もちろん、カネもうけの手段である場合は、善意だけではないのだけど、善意でやっていることだ。
けど、これが問題なのである。洗脳設計者は、こういう状態をつくりだしたかったのである。各種教祖の状態は、そのまま、各種教徒の状態になる。
各種教祖は、おカネ儲けのためにやっているという側面もあるけど、各種教徒が(おカネとは関係なく)対象者に助言しているときは、各種教徒は、善意でやっているのである。
しかし、けっきょく、「Xをしていないから(対象者は)不幸なのだ」という前提が間違っているのである。見当ちがいのことを言っているのである。 あるいは、「Xの量がたりていないから、(対象者)は不幸なのだ」という前提が間違っている。これも、見当ちがいのことを言っているのである。
`Xにフォーカスが集まっているから、Xをしていないことや、Xをする量が不足していることが、「理由」になってしまう。
その対象者が、不幸な理由は、Xをしていないことや、Xをする量が不足しているからだということになってしまう。
ところが、X自体が、対象者を不幸にしている場合がある。
そして、X自体が対象者を不幸にしていない場合も、ほんとうの原因から、Xに気持ちをそらす役割をしてしまうのである。
Xはこの場合、ニセの原因なのだけど、ニセの原因に意識が集中してしまうために、むしろ本当の原因は、無視されてしまうのである。
なので、Xをしていることや、Xをやりすぎていることが、不幸感の原因ではない場合も、ニセの原因を提示されたために、対象者の幸福度がさがるのである。
そりゃ、ほんとうの原因が取り除かれなければ、その本当の原因によって、不幸な状態というのは、「Xをしたあとも」続くわけだから、こまるのである。不幸感が消えないのである。
かえって、やることが増えて、不愉快な状態になるのである。Xをやらなければならい状態になると、Xがリソースをくうので、もっともっともっと、くるしい状態になってしまうのである。
Xをやるということは、そのぶん、体力を失うということになる。そして、同時にできることを除いて、Xをやるということは、そのぶん、時間を失うことになる。
いいことじゃないのである。
そして、ほんとうの原因に対処したわけではないので、たいていの場合、不幸感が増すのである。