まったくわかってない人たちがいるようだけど、ぼくが言っていることは、めぐまれている人たちが、めぐまれていない人たちのところまで、さがってくればいいということではない。ほんとう、どうやって、そういう誤解をするのかまるでわからない。きっと、こころがよごれまくっているのだろうな。人間はついつい自分を基準にして考えてしまうからなぁ。逆だ。逆。ぎゃくなんだよ。めぐまれない人たちが、めぐまれている人たちのところまであがっていかなければならない。で、いままで、こういうことは夢物語だったんだけど、現実化する。
たとえて言うなら、針がはえた椅子に座らされて、けつに針が刺さっている人たちが、ふかふかな椅子に座れるようになる。格差があるにしても、クッションが2センチか、クッションが10センチかの差ぐらいしかない社会になる。これ、生まれながらの格差というのは、回収されなければならない。特に、親の格差というのは、たいへんな影響をあたえるから、そのつど回収されなければならない。基本的に、貧しい家に生まれたということは、親のおカネがないということなのだけど、あるいは、親の収入が少ないということなのだけど、おカネの問題とは別に、親の性格の格差がある。親が普通の人は、親がサイコパスであるような人の現実がわからないのだ。だから、「そんなのは、関係がない」「過去のことであれば関係がない」ということを言う。それは、はっきり言えば、自分がふかふかな椅子に座っているから言えることだ。一〇〇本の針がはえている椅子に座って、血が流れているなら、そんなことは言えない。「過去は関係がない」と言っている人たちは、人間がいきなり大人になるわけではないのに、子供時代のことを無視している。たとえば、二〇歳で大人になるとすると、一九歳までのことは、二〇歳の現在に影響をあたえているのである。たとえば、一八歳で大人になるとすると、一七歳までのことが、「今の現実」に影響をあたえているのである。その積み重ねは、でかいのである。これ、なんで、大人になったとたんに、大人になるまでのことは、関係がないということになるのか、わからない。いきなり、大人の状態でうまれてきたわけではない。からだだって、いきなり大きくなったわけではない。能力にしたって、いきなり獲得したわけではないのだ。環境の差はでかい。それは、言葉を覚えるということですら、影響がある。生まれたばかりの赤ちゃんは、母国語をしゃべれない。母国語をしゃべるようになるには、さまざまな刺激をうけると同時に、脳みそが発達しなければならないのである。その場合、さまざまな刺激をうける環境とさまざまな刺激をうけない環境では、差がしょうじる。これは、努力とかそういう問題ではない。こういうことも含めて、努力の問題にしてしまうのがおかしい。これは、まだ、受けない考え方だと思うけど、アドラーが言っているようなことは、悪魔が支配する社会に親和的なのである。ようするに、悪魔側の道徳について、アドラーは言及している。悪魔に心を乗っ取られた人の、自分勝手な考え方についてアドラーはのべている。悪魔が支配する社会をより強固に成り立たせたい人が、過去を無視して、あるいは環境を無視して、きれいごとを言う。そのきれいごとは、悪魔のきれいごとなのである。悪魔の支配に親和的な人が考えた、うわっつらの道徳なのである。これは、善ではなくて、悪だ。ぜんぜんちがう。道徳的な外観とはちがい、その本質は、悪なのだ。これが、悪魔の支配に親和的な人にはわからない。逆に、過去を重視し、環境を重視している人が言っていることが、悪いことのように思えるのだ。それは、悪魔に心を支配されてしまったから、そう感じるだけだ。悪魔は、過去を無視し、環境を無視するように、働きかけている。この「過去」とか「環境」というのは、他人の「過去」であり、他人の「環境」なのだ。他人における過去の影響や他人における環境の影響を、無視したり過小評価することで、全体的な構造をより強固にしているのだ。「全体的な構造」というのは、たとえるなら、ふかふかな椅子と針がはえた椅子が順番に並べられているような部屋のことだ。悪魔の支配に親和的な人は、第一段階のふかふかな椅子から、第一〇段階の一〇〇本の針がはえている椅子が並んでいる状態を維持したいのだ。こういう人たちは、格差を無視する。無視。無視。無視。あったってない。格差において低位に位置するものがかかえるハンディを、なんだろうが無視する。そして、ふかふかな椅子に座っているからこそ言える、道徳について述べる。これは、悪いことだ。いいことじゃない。道徳的じゃない。非・道徳的なことだ。どうして、そんなことをして、良心がいたまないのか不思議だ。最初から良心とよべる良心がないのだろう。あるいは、悪魔のささやきに負けて、良心がマヒしているのだろう。