たとえば、某動画サイトには、ニート系の動画や五〇・八〇問題を扱った動画などがある。ニート系の動画の中で、悪いニートを扱ったとする。「こいつは、どうしょうもないやつだ」と、ほとんどの人が思うようなニートを出しておくのである。まあ、紙芝居系のアニメなんだけどね。そうすると、それを見た人は、例から、抽象的なイメージをもつことになる。そこに出てきた悪いニートのイメージがニートのイメージになるのだ。これは、別に「ニートを差別しろ」という内容の動画ではない。実際に、その動画の中で「ニートを差別しましょう」とは言っていない。しかし、悪いニートのイメージで、ニートが抽象化・一般化されてしまうために、いいニートが、被害を受けるのである。実際には、ニートのなかにもいい人たちがいて、その人たちには、問題がないのである。たとえば、いいニートは、例として出てきた悪いニートとは性格も考え方もちがうのである。しかし、動画を見て、ニートなるものについて、抽象した人は、「ニートなら、性格が悪い」と思ってしまう。例から、抽象化した人は、自分の頭のなかで一〇〇%詐欺を行い、自分の頭のなかで法則性詐欺を行ってしまうのだ。これとおなじことが、「無職」や「ひきこもり」にも成り立っている。悪い例から出発すると、よい人たちが、悪い人たちだと思われる土台ができあがる。しかも、別に「差別しましょう」と呼び掛けているわけではない。しかし、完全差別的なイメージができあがるのである。レッテルと属性の問題があり、その属性をもっている人は、その属性をもっている人だということになる。ようするに、無職の属性をもっている人は、たとえどんな人でも「無職」として認識されることになる。まあ、無職に関しては、いろいろと言いようがあるから、まだ、深刻ではないけど、「ひきこもり」だと、かなり深刻な問題になる。悪い例から出発すると、いい例を含めて、悪いレッテルをはられるのである。そして、差別しているほうは「それであたりまえだ」「そんなやつらいいわけがない」と思っているわけだから、別に、悪いとは思わないのである。たとえば、いい人を、悪い人だと思っても、別に悪いとは思わないということになる。だって、その人のなかでは、「ニートなら性格が悪い」ということになっているわけだから、そうなる。「無職なら性格が悪い」と思って、すべての「無職」に悪いレッテルをはっても、別に、悪いとは思わないのだ。「ひきこもりなら性格が悪い」と思って、すべての「ひきこもり」に悪いレッテルをはっても、別に、悪いとは思わないのだ。「自分は間違っていない」と思っているわけだから、悪いとは思わないわけ。
こういうことが、じつは、「思ったことが現実化する」「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」というような考え方にも、成り立つ。これは、条件が悪い人に対する差別になる。悪いことが起こっている人は、悪いことを考えたから、悪いことが起こっているということになってしまうのだ。不幸な人は、不幸になることを考えたから、実際に不幸になっているということになってしまうのだ。これと、レッテルはりは、ほとんどおなじプロセスなのである。 「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」というような、一見、差別的な考え方を助長するような言葉には見えない言葉にも、差別形成の役割がある。しかも、たとえば、「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」のだから、自分は明るいことを考えようと思うこと自体には、悪いことが含まれていないので、やっかいなのだ。いいこととして、自分の中に取り入れて、いいことに使おうとする。けど、取り入れた瞬間に、不幸な人に対する差別心も取り入れてしまうのだ。これは、見えないことなのだけど、そうなる。