ほんとうに、不利なんだよなぁ。自分だって、実際にやられてみなければわからなかったと思うけど、ほんとうに、できなくなる。けど、やられていない人は、「できなくなる」ということが、わからない。そして、その人たちが……みんな……ほんとうに、みんな……「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」「自分だって苦労した」と言う。この人たちは、あっている。たしかに、嘘は言っていない。けど、ほんとうの、騒音生活を経験したわけではない。この人たちが経験した騒音と、ぼくが経験した騒音はちがう。ほんとうに、自分が……この世で一番きらいな音を……あの音量で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も聞かされる生活というのを、したことがないのだ。まあ、ともかく、「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」「自分だって苦労した」というのは、ほんとうのことなのだけど、きちがい家族による、きちがい的な騒音が鳴っている生活をしたことがないというのも、ほんとうのことなのだ。「どういうふうに、できなくなるのか」ということが、経験していないから、わからない。この人たちのなかには「自分だった平気だ」「自分だったら、鳴ってたってできる」という気持ちがある。そういう気持ちがあるというのも、たぶん、事実なのだ。ようするに、自動的に過小評価するのである。「できない」ということを、自動的に認めないようになっているのである。だから、実際には経験していないから、わからないだけなのに、えらそうなことを、言うようになるのである。実際にやられたら、自分だってできなくなるのに、自分はできるつもりで、えらそうなことを言うのである。もちろん、えらそうなことを言っているつもりはない。「あたりまえ」のことを言っているつもりなのだ。当たり前のことだから、これも、否定されると、腹が立つのだ。「そんなの鳴ってたってできる」「そんなの、なってたって、やらなきゃだめだろ」という態度になるのだ。これも、自動的にそういう態度になる。
*     *     *
あと、ちょっと、行き過ぎた一般化についてちょっと言っておきたい。たとえば、ぼくは、一〇〇%詐欺ということについて、ずっと述べているのだけど、言霊主義者側の言い分、常識サイドの言い分として「おまえだって、一〇〇%詐欺をしているじゃないか」というのがあるかもしれない。というのは、たとえば、「実際に、俺(エイリ)とおなじことを経験したら、できなくなる」というのは、一〇〇%詐欺構文とおなじじゃないかという言い分だ。ようするに、主語が大きいのである。「人間というのは、あの騒音相当の騒音を毎日、経験したら、睡眠障害になる(とぼくは思う)」ということをぼくが言ったとする。ならない人もいるかもしれない。けど、ぼくは、そうなると思っている。「……とぼくは思う」ということを付け足すかどうかの問題だ。けど、ちょっとちがう側面もあるのだ。それは、実際には、だれも、ぼくと同じような騒音生活を経験しないだろうということだ。そして、たとえば、言霊主義者におけるような、「魔法感覚」は、幼児期を経験したことがある人なら、ほとんどみんな、経験したことなのである。これは、幼児的万能感といわれている万能感で、幼児期に人類が(ほとんど)みんな、もっている万能感なのだ。なので、多数派になる。幼児的万能感がある人たちが多数派なのだ。手短に言うと、ぼくにも、幼児的万能感はある。だから、「最後の神頼み」みたいな気持ちはわかる。だから、きちがい家族が鳴らすきちがい騒音がもたらす生活は、ほとんどの人が経験したことがないことだけど、幼児的万能感に支配された幼児期は、ほとんどの人が経験したことがある幼児期なのである。ヘビメタ騒音期間と幼児期は、ちがうのである。少数の例外というものをぬかせば、ヘビメタ騒音期間の生活は、ぼくしか経験したことがない生活で、幼児期の生活は、幼児期をこえて生き残った人は、経験したことがある生活なのである。だから、そこがちがう。そうなると、ぼくの立場からすると、「みんなもそうなる」と思うとしか言いようがないことになるんだよね。そして、みんなは、経験しないのである。たぶん、人生のなかで、経験しないのである。ヘビメタ騒音が始まったのが、小学六年生のときだ。当時、兄貴が高校一年生で、ヘビメタ騒音道具を買って、きちがい的な意地で、きちがい的なでかさの音で、騒音を鳴らし始めた。こういうことが、人生の中で起こらなければ、ぼくの人生はちがったものになっていたはずなのである。しかし、実際に起こってしまったので、「怒らなかった場合の生活」は、架空の生活になってしまうのである。あるいは、架空の生活になってしまったのである。
これも、何回も言うけど、実験して調べるわけにはいかないのである。どのくらいの人が、実際に、自分がこの世できらいな音を、あの音のでかさで、聞かされて、生活したら、睡眠障害になるかということは、絶対に調べることができないのである。どうしてかというと、そういう実験は、倫理規定に反するからだ。だから、ぼくが、言っているだけだということになる。
* * *
ちなみに、言霊主義者は、ぼくの経験の範囲で言うと……みんな……ほんとうにみんな……ヘビメタ騒音の効果を認めなかったのである。「の」が重複することになるけど、「ヘビメタ騒音」の「負の効果」を認めなかった。どうしたって、睡眠障害になるのに、睡眠障害になるということを認めないのだ。どうしたって、あれだけ長い間、きちがい騒音を浴びせられると、夜、眠るべき時間に眠れなくなるのに、そうなるということを、言霊主義者が(みんな)認めなかったのである。もちろん、ぼくの経験の範囲で言えばということだ。どこかに、「ヘビメタ騒音」の「負の効果」を認める言霊主義者もいるかも知れない。けど、その人が言霊主義者であれば、そんな負の効果よりも、言霊の力のほうが「うえだ」ということを言うはずだ。ようするに、そんなのは、言霊的な解決方法で、解決できる問題だということになるはずだ。だって、「言えば、言ったことが現実化する」ということになっているので、「眠れる」といえば、眠れるし、「騒音の影響を受けない」と言えば、受けない(ようになる)からだ。
ともかく、ここで言いたいのは、じつは「認めないということ」をさきにしているのは、言霊主義者だということだ。ヘビメタ騒音でそうなる……ということを、認めないのである。いうかどうかは別にして、言霊主義者は、「影響はない」と思っているのだ。ぼくが「影響がある」と言っているのだから、ぼくが言っていることを認めていない。そして、かりに「影響があるということ」を認めたにしろ、「そんなのは、簡単に言霊で解決できる問題だ」という意識を(言霊主義者は)もっているのである。
けど、言霊主義者は、ぼくの言っていることを否定しているつもりがないわけ。そんな気持ちはないわけ。だから、「言霊理論について、批判されたら、エイリが先に批判してきた」と思うわけ。 そうすると「なんだ、こいつは」と思ってしまうわけ。でっ、ここまで、きちがい兄貴と、言霊主義者のこの反応は、セットなんだよ。もう、決まっているんだよ。きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的なことをしたときに、決まっている。だって、よその家じゃ、だれもそんなことをしないわけだから、よその人は、経験して(その影響)を知っているわけではないということになる。経験的に影響がわからないので、過小評価したり、無視したりするのだ。これは、ぼくが言っていることを……否定しているということになる。だって、ぼくは、ヘビメタ騒音は影響があるということを言っているわけだから……。
常識的な人はたちは、さきに、「ぼくが言っていること」を否定しているのである。「そんなのは、お兄さんに、言えばいい」「お兄さんにちゃんと言えば、わかってくれるよ」というようなことを言う人も、ぼくが、きちがい兄貴について述べたことを否定しているのである。
きちがい兄貴が、よその人がわからないようなことを、うちでだけするから、俺が人から、誤解をされて、ひどい目にあう。
