2025年11月2日日曜日

●「努力をすれば成功する」という文の中には出てこないこと■社会※2025/11/02 10:14

まず、努力に関係なく、成功しやすい環境と、成功しにくい環境があるのである。成功しやすい環境だと、あまり努力をしなくても、成功するのである。成功しにくい環境だと、相当に努力をしても成功しない場合がある。努力という「変数」も、射程距離が短い場合には、影響する。しかし、それは、射程距離が短い場合に限られる。ようするに、射程距離が短いというのは、日常生活の中で、可能な範囲にあるということだ。求めている成功が、日常の範囲内にあるということだ。しかし、ここでも、たとえば、「努力をする」ということがどういうことなのか、ということを、一意に決められないという問題がある。そして、「成功する」ということも、一意には決められない。なので、けっきょく、言葉の遊びにすぎないということを、頭のなかに銘記しておくべきなのである。努力という「変数」と書いたけど、ほんとうは、努力という言葉には、変数としての機能がない。もし、努力の度合いを数学の変数のように考えると、失敗するのである。ようするに、知らず知らずに間違った結論に至ってしまうのである。「変数」としてあつかった場合も、言葉の遊びに過ぎない。実際には、そのような法則性はない。だって、そうだろ。そもそも、変数にならないものを変数としてあつかっているのだから、法則性について語れるはずがないのだ。

それでも、わざわざ、「努力という変数」という言い方をしたのは、環境の条件のほうが、努力の度合いよりも、重要だということを言いたかったからなのだ。環境の度合いの上に、普通の人が「努力の度合い」として考えることができるものが、「のっかって」いる。そういうメタ的な意識なのだ。たとえば、なんかのテストがあるとする。そのテスト対策をするかどうかということを考えたとする。そのテスト対策をすることを努力することだと、とらえたとする。そして、一〇〇点をとった場合、成功したと言い、九九点以下の点数をとった場合、失敗した(成功しなかった)と言うとする。 その場合、そのテストに向けて「努力した」人がいたとする。とりあえず、Aさんだとする。そして、そのテストに向けて「努力しなかった」人がいたとする。とりあえず、ビーサンだとする。Aさんは、テストで一〇〇点をとったとする。Bさんはテストで六〇点をとったとする。その場合、「Aさんは、努力をしたから成功した」と表現することに、人々は抵抗を感じないのである。そして「Bさんは、努力をしなかったから成功しなかった」と表現することに、人々は抵抗を感じないのである。こういう例を出されると「努力をすれば成功する」という文は正しいと思ってしまうのである。しかし、たとえば、Aさんは、そのテストに向けて「努力」できる環境で努力したということがぬけているのである。そして、Aさんには、もともと、そのテストに向けて、努力をすれば……つまり、勉強をすれば、一〇〇点をとれるだけの才能があったという条件も、無視されているのである。これは、Aさんの資質だ。Aさんの能力値だ。Aさん脳みそでできる範囲のことだったから、テストに向けて努力(勉強)すれば、一〇〇点をとれたのだ。もともと、Aさんの脳みそでできる範囲ことでなければ、Aさんが努力(勉強)をしても一〇〇点をとなかったかもしれないのである。そして、Aさんが、そのテストに向けて、努力をしなくても、一〇〇点をとれた可能性があるということが、問題になる。「努力をすれば成功する」という文の中には、Aさんの能力に関する記述がまったくない。しかし、だれにでもあてはまることになっているから、Aさんにも、あてはまるということになっている。この設定に関しても明言されることはない。そして、Aさんがテストで一〇〇点をとった場合でも……Aさんが努力をしなくても、一〇〇点をとれた可能性を否定することができないのである。これについても、一切合切、明言されることはないのである。つまり、一切合切、言及されていないので、あたかも「ない」こととして、あつかわれているのだけど、ほんとうは、そうである場合がある。ようするに、そういう場合は「ない」のではなくて、そういう場合も「ある」のだ。「努力をすれば成功する」という文の中には出てこないことが、思考に、さまざまな影響を与えているのである。例から法則性へと、思考が飛躍するとき、「努力をすれば成功する」という文の中には出てこないことが、思考に影響を与えている。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。