まず、努力に関係なく、成功しやすい環境と、成功しにくい環境があるのである。成功しやすい環境だと、あまり努力をしなくても、成功するのである。
成功しにくい環境だと、相当に努力をしても成功しない場合がある。
努力という「変数」も、射程距離が短い場合には、影響する。
しかし、それは、射程距離が短い場合に限られる。ようするに、射程距離が短いというのは、日常生活の中で、可能な範囲にあるということだ。求めている成功が、日常の範囲内にあるということだ。
しかし、ここでも、たとえば、「努力をする」ということがどういうことなのか、ということを、一意に決められないという問題がある。そして、「成功する」ということも、一意には決められない。
なので、けっきょく、言葉の遊びにすぎないということを、頭のなかに銘記しておくべきなのである。努力という「変数」と書いたけど、ほんとうは、努力という言葉には、変数としての機能がない。
もし、努力の度合いを数学の変数のように考えると、失敗するのである。
ようするに、知らず知らずに間違った結論に至ってしまうのである。
「変数」としてあつかった場合も、言葉の遊びに過ぎない。
実際には、そのような法則性はない。だって、そうだろ。そもそも、変数にならないものを変数としてあつかっているのだから、法則性について語れるはずがないのだ。
それでも、わざわざ、「努力という変数」という言い方をしたのは、環境の条件のほうが、努力の度合いよりも、重要だということを言いたかったからなのだ。
環境の度合いの上に、普通の人が「努力の度合い」として考えることができるものが、「のっかって」いるとする。そういうイメージをもってくれるとありがたい。
たとえば、なんかのテストがあるとする。そのテスト対策をするかどうかということを考えたとする。そのテスト対策をすることを努力することだと、とらえたとする。
そして、一〇〇点をとった場合……「成功した」と言い、九九点以下の点数をとった場合……「失敗した(成功しなかった)」と言うとする。
その場合、そのテストに向けて「努力した」人がいたとする。とりあえず、Aさんだとする。そして、そのテストに向けて「努力しなかった」人がいたとする。とりあえず、Bさんだとする。
Aさんは、テストで一〇〇点をとったとする。Bさんはテストで六〇点をとったとする。その場合、「Aさんは、努力をしたから成功した」と表現することに、人々は抵抗を感じないのである。そして「Bさんは、努力をしなかったから成功しなかった」と表現することに、人々は抵抗を感じないのである。
こういう例を出されると「努力をすれば成功する」という文は正しいと思ってしまうのである。
しかし、たとえば、Aさんは、そのテストに向けて「努力」できる環境で努力したということがぬけているのである。そして、Aさんには、もともと、そのテストに向けて、努力をすれば……つまり、勉強をすれば、一〇〇点をとれるだけの才能があったという条件も、無視されているのである。
これは、Aさんの資質だ。
Aさんの能力だ。
Aさん脳みそでできる範囲のことだったから、テストに向けて努力(勉強)すれば、一〇〇点をとれたのだ。もともと、Aさんの脳みそでできる範囲ことでなければ、Aさんが努力(勉強)をしても一〇〇点をとなかったかもしれないのである。
そして、Aさんが、そのテストに向けて、努力をしなくても、一〇〇点をとれた可能性があるということが、問題になる。
「努力をすれば成功する」という文の中には、Aさんの能力に関する記述が、まったく、ない。
しかし、だれにでもあてはまることになっているから、Aさんにも、あてはまるということになっている。
この設定に関しても明言されることはない。
そして、Aさんがテストで一〇〇点をとった場合でも……Aさんが努力をしなくても、一〇〇点をとれた可能性を否定することができないのである。
これについても、一切合切、明言されることはないのである。
つまり、一切合切、言及されていないので、あたかも「ない」こととして、あつかわれているのだけど、ほんとうは、「そうである」場合がある。
ようするに、そういう場合は「ない」のではなくて、そういう場合も「ある」のだ。
「努力をすれば成功する」という文の中には出てこないことが、思考に、さまざまな影響を与えているのである。
例から法則性へと、思考が飛躍するとき、「努力をすれば成功する」という文の中には出てこないことが、思考に影響を与えている。