基本的には、悪い例からの抽象化という流れがある。抽象化すると、今度は、すべての例において、抽象化したイメージ成り立ってしまうのである。たとえば、自業自得と思えるような例を挙げて、「すべては自己責任だ」と抽象化してしまう。そうすると、ほんとうは、その人には、責任がない場合も「その人の自己責任だ」と判断するようになってしまうのである。例(1)からはじめて、抽象化されたそれ(すべて)に進み、抽象化された(すべて)から、別の例(2)について考えるということになるのである。そうすると、ほんとうは、あてはまらない人まで、あてはまるように処理されてしまう。
たとえば、AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんが、ほんとうに自業自得であるようなBさんのケースを聞いて「すべては自己責任だ」と思ってしまう。ここには、飛躍がある。Bさんは、「自己責任」の対象になるかもしれないけど、Cさんは、自己責任の対象にならないかもしれないのだ。けど、Aさんは、一度抽象化しているので、「すべての例において、自己責任だ」と思ってしまう。そうすると、ほんとうは、Cさんには落ち度がない場合も、Cさんの責任だということになってしまうのである。Aさんにとっては、Cさんのケースも「自己責任だ」ということになってしまう。
Aさんは、抽象化によって、こまっている人がいたら、その人の自己責任だと思うようにしつけられてしまうのである。「すべては自己責任だ」という考えたを受け入れることによって、そういう状態になってしまう。「なんであれ」「自己責任」なのだから、無差別なのだ。個々の具体例について、考える前に、こまっている人の自己責任だと切り捨ててしまうのだ。切り捨ててしまう主体は、「すべては自己責任だ」という考えたを受け入れ人だ。一度、自己責任論を受け入れてしまうと、次からは、すべての人に対して、どんな場合でも、自己責任なのだと切り捨てる態度が発生するのである。
自己責任論は、このような人を量産してしまう。自己責任論を「はやらせた」側の根本的な目的は、これだ。一見正しそうな考え方が、無差別攻撃をする洗脳戦士を量産してしまうのである。その分だけ、社会が悪くなるのである。自己責任論を信じている人たちが、増えると、その分だけ、社会が悪くなるのである。多くの人たちにとって、済みにくい社会になるのである。自己責任論を信じている人たちは、じつは、自分自身の身に起きたことは、起きた理由をリアルタイムで知っているために、自己責任だとは思わない傾向が強い。自己責任論論者が、「たしかに、自分の自己責任だ」と思えることは、「特別に意識に上がったもの」だけなのだ。ようするに、「自己責任だ」と思いやすいことだけ、自己責任だと思っている状態で生活しているのだ。そもそも、意識に上がらないことは、自己責任がしょうじていても、自己責任だと思わなくて済むのである。そして、意識に上がることでも、自分が一倍速で経験したことだと、自分が一倍速で経験したことだから、認知もメタ認知も成り立っているのだ。認知もメタ認知も成り立っていることに関しては、時間の流れに応じた自分の側の気持ちというのがあるから、「これはこういう理由だから、自己責任ではない」という考え方が支配的になるのである。あるいは、そもそも、「自己責任だ」とか「自己責任ではない」とかということを考えずに、処理してしまう傾向がある。ようするに、当たり前のように「他人の責任」を追及するのである。このとき、たいていの場合は……「自分の自己責任論」と「自分がやっていること」の矛盾に、気がつくことがない。