自己責任論というのは、「すべては自己責任である」ということになっているのだけど、他者の責任ついて言及している場合は、その他者の責任であるということを言っているということになる。「すべては、自分の責任」というわけではないのだ。
たとえば、AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんが自己責任論者だとする。ビーサンが、きちがい的な音でヘビメタを鳴らしている人だとする。Cさんが、Bさんの家族で、きちがい的な音でヘビメタを聞かされている人だとする。
責任の所在は、Cさんにあるのである。
非常識な音のでかさで長時間騒音を鳴らしているわけだから、Cさんに、責任があるのである。行為の責ということを考えると、行為の責任は、Cさんにあるということになるのである。
ところが、Aさんは、Bさんが、Cさんの騒音でくるしんでいるということは、AさんのAさんの自己責任であるとは考えないのである。「すべてが自分の責任であるから」BさんがCさんの騒音でくるしんでいることも自分(Aさん)の責任であるとは考えないのである。
そうではなくて、「すべてが自分の責任であるから」Bさんが(Cさんの騒音で)くるしんでいるのは、Bさんの責任であると考えてしまうのである。Aさんが考えてしまう。
ようするに、『やりがち』の世界だ。
どんな迷惑行為でも、やったやつではなくて、やられたやつの責任だということになってしまう。
ようするに、Aさんは、自動的に、Cさんの責任ではなくて、Bさんの責任を追及するということになってしまうのである。責任は、Cさんにあるのに、あたかも、Bさんに責があると断罪しているような状態になってしまう。
Aさんがそうやって、ほんとうは被害者であるBさんの責任を追及したということは、Aさんの責任なのである。これがわかっているやつが少ない。
ケースバイケースの、責任の所在ということを一切合切、無視しているので、被害を受けたら被害を受けた人の責任だということになってしまうのである。
自己責任論者になってしまった人は、一切合切の状況を考えず、ひたすら、被害者の責任を追及する人になってしまうのである。ほんとうに、被害者のほうが悪い場合もある。被害者に責任の所在がある場合がある。ところが、最初から、どのような経緯でどのようなことが起こったのかを無視して、ともかく、被害を受けたほうの自己責任だと、決めつけてしまうのである。そういう単純思考におちこんでしまうのである。
責任がない人の責任を追及するということは、悪いことなのである。
ところが、その悪いことをした責任を、自己責任論者は、放棄しているのである。これは、基本的に、本人が、責任を感じなければ、責任を感じないということを意味している。
なんのことかわからないかもしれないけど、けっきょく、「すべては自己責任」と言ったって、本人が「自分の責任である」と意識したことにだけ、「自己責任を感じる」ということを意味しているのだ。つまり、「すべて」ではないということを意味している。
「すべては自己責任」と言っているけど、自分が責任を感じたことに関しては、責任があると感じるということにすぎないのである。すべてではないのである。これなら、「すべては自己責任」と言わずに、普通に、自分の責任であることは、自分の責任であると認識する「普通の責任論」とかわりがないではないか。
責任を感じることを、事前に、選んでいるのである。「すべては自己責任」と言っているけど、「すべて」ではなくて、自分に責任があると意識にのぼったことだけにしか、責任を感じないのである。それなら、普通の責任論?となんらかわりがないではないか。
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どんな状況で、どんな出来事が発生したかにかかわらず、やられたほうの自己責任だと決めつけるやつらが、いいことをしているとは、思えない。