2025年11月2日日曜日

●最大限の『努力への圧力』がしょうじる社会■社会※2025/11/02 13:05

 たとえば、「努力をすれば(部長になることに)成功する」とする。一〇〇人の部長候補のがいるとする。部長の席はひとつだとする。つまり、努力をしても九九人は、部長になることに成功しない。失敗する。そのような場合、「努力をすれば(部長になることに)成功する」ということが、どのようなことを引き起こすのかということだ。九九人は失敗することが決まっているのである。そして、九九人の敗者は、「努力がたりなかった人」という烙印がおされるのである。たとえば、「努力をすれば(部長になることに)成功する」とする。一〇〇人の部長候補のがいるとする。部長の席は一〇〇席だとする。ようするに、一〇〇人の部長候補のうち、一〇〇人が部長になれる。その場合、じつは、努力をしなくても部長になることに成功するということになる。「努力をすれば(部長になることに)成功する」という共通意識は、努力競争への原動力にはならない。けど、だれも、失敗しない。ほんとうは、努力しなくても、一〇〇人中一〇〇人が部長になれる。この場合は、努力の程度は、それほど問題にならない。本人が、自己申告制で「自分は努力をした」と言えば、それですむ。

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これは、まったく思考実験なのだけど……たとえば、おなじ条件で、一〇〇人中一〇〇人が、成功するために!努力したとする。おなじ条件ということは、能力もおなじだということだ。こんなことは、ありえないのだけど、思考実験だからそうだとする。努力をする環境もおなじだとする。努力をする気持ちの度合いが、成功するかどうかを決めるということになる……のかもしれない。けど、部長になれるかどうかというように、席の数が問題だ。たとえば、一〇〇人中一人が成功するのであれば、やはり、九九人は成功しないのである。まあ、こうなると、成功するの定義が問題になるだろう。現実世界では、成功するということの定義も、また、自己申告制なので、なんとでもいえる「余地」が生じる。こういう、余地があるから、「努力をすれば成功する」という文言が、なんとなく、正しいそうな文言に聞こえるのだ。あるいは、聞こえてしまう人が多いということになる。

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たとえば、一〇〇人中一〇〇人が、成功することを求めて、各自において、最大限の努力をするとする。その場合、成功するための圧力が高くなるのである。成功するための圧力が高い「社会」は、いい社会なのかどうかという問題がある。また、各自の人生において、最大限の努力をするということが、しあわせを保証するのかどうかということが問題になる。

努力をすれば、成功するとする。その場合の成功というのが、一意に決まる成功だとする。そして、一意に決まる成功の定義にあてはまる人はひとりだとする。ようするに、ひとつしか成功者の席がない社会というものについて考えるわけである。社会全体の人が、成功するために、最大限の努力をすることは、成功への圧力を高める。そして、社会の構成人数から一を引いた分だけの人が、失敗することが最初から約束されている。その場合、成功するために努力をしてきた人たちは、しあわせなのだろうかという問題がある。

成功は、しあわせを保証しない。成功としあわせになることは、ちがう。しかし、最大限の『努力への圧力』がしょうじる社会は、むしろ、ひとがしあわせになることを、さまたげるのではないだろうかと思うのである。ぼくが思う。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。