たとえば、「努力をすれば(部長になることに)成功する」とする。一〇〇人の部長候補のがいるとする。部長の席はひとつだとする。
つまり、努力をしても九九人は、部長になることに成功しない。失敗する。そのような場合、「努力をすれば(部長になることに)成功する」ということが、どのようなことを引き起こすのかということだ。
九九人は失敗することが決まっているのである。
そして、九九人の敗者は、「努力がたりなかった人」という烙印がおされるのである。
たとえば、「努力をすれば(部長になることに)成功する」とする。一〇〇人の部長候補のがいるとする。部長の席は一〇〇席だとする。ようするに、一〇〇人の部長候補のうち、一〇〇人が部長になれる。
その場合、じつは、努力をしなくても部長になることに成功するということになる。
「努力をすれば(部長になることに)成功する」という共通意識は、努力競争への原動力にはならない。
けど、だれも、失敗しない。
ほんとうは、努力しなくても、一〇〇人中一〇〇人が部長になれる。この場合は、努力の程度は、それほど問題にならない。本人が、自己申告制で「自分は努力をした」と言えば、それですむ。
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これは、まったく思考実験なのだけど……たとえば、おなじ条件で、一〇〇人中一〇〇人が、成功するために!努力したとする。おなじ条件ということは、能力もおなじだということだ。
こんなことは、ありえないのだけど、思考実験だからそうだとする。
努力をする環境もおなじだとする。
努力をする気持ちの度合いが、成功するかどうかを決めるということになる……のかもしれない。けど、部長になれるかどうかというように、席の数が問題だ。
たとえば、一〇〇人中一人が成功するのであれば、やはり、九九人は成功しないのである。
まあ、こうなると、成功するの定義が問題になるだろう。
現実世界では、「成功する」ということの定義も、また、自己申告制なので、なんとでもいえる「余地」がしょうじる。
こういう、余地があるから、「努力をすれば成功する」という文言が、なんとなく、正しいそうな文言に聞こえるのだ。あるいは、聞こえてしまう人が多いということになる。
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たとえば、一〇〇人中一〇〇人が、成功することを求めて、各自において、最大限の努力をするとする。その場合、成功するための圧力が高くなるのである。
成功するための圧力が高い「社会」は、いい社会なのかどうかという問題がある。
また、各自の人生において、最大限の努力をするということが、しあわせを保証するのかどうかということが問題になる。
努力をすれば、成功するとする。その場合の成功というのが、一意に決まる成功だとする。そして、一意に決まる成功の定義にあてはまる人はひとりだとする。ようするに、ひとつしか成功者の席がない社会というものについて考えるわけである。
社会全体の人が、成功するために、最大限の努力をすることは、成功への圧力を高める。そして、社会の構成人数から一を引いた分だけの人が、失敗することが最初から約束されている。
その場合、成功するために努力をしてきた人たちは、しあわせなのだろうかという問題がある。
成功は、しあわせを保証しない。成功としあわせになることは、ちがう。
しかし、最大限の『努力への圧力』がしょうじる社会は、むしろ、人がしあわせになることを、さまたげるのではないだろうかと思うのである。わたしが、そう思う。