2023年7月11日火曜日

自分だって普段は、「いたい」と感じたあとに、「いたい」と言っているのである

 言霊信者だって、普段は、いたいと感じたあとに、いたいと言っているのである。いたいと言ってから、いたいと感じるわけではないのである。

ところが、ひとごとになると「いたいと言うから、いたい」などと、わけがわからないことを言いだす。

時間的な出来事の順番を、無視してしまうのである。

ひとごとだと、無視してしまう。

いま、かりに、AさんとBさんがいて、Aさんが言霊主義者で、Bさんがいたいと言ったところを見たとする。そして、そのあと、いたいと言った理由を聞いたとする。

その場合、Aさんを中心にして考えると、Bさんがさきに、「いたい」と言って、いたくなった理由をそのあと、述べたということになる。その場合、Aさんの経験では、「いたい」とBさんが言ったという出来事のほうがさきなのである。

自分のことなら……Aさんのことなら、いたいと感じたあとに、いたいと言うので、時間的な出来事の順番は、Aさんを中心にしてみた場合の、時間的な出来事の順番と一致する。

言霊主義者は認めないかもしれないけど、自分だって普段は、「いたい」と感じたあとに、「いたい」と言っているのである。いたくないときに、いたいと言って、「いたい」と言ったあと、「いたい」と感じたという経験は、きわめて、少ないはずだ。

「いたい」と感じるようなモーションにすでに入っていて「このままだと、いたくなる」と感じることは、わずかだけどある。

けど、その場合は、たぶん言葉には出さず、わずかな時間に、「このままだ、落ちる」とか「このままだと、衝突する」とかと思っただけだ。すでに、いたくなるモーションに入っている。その場合は、「いたくなるだろう」と言うかもしれない。

けど、自分の経験を思い出せばわかるけど、いたくなる前に「いたい」と、突然、言って、「いたい」と言ったあと、「いたくなった」ということはない。

言霊主義者だって、ころんで、膝小僧を、道路の表面にぶつけてから「いたい」と言っているはずだ。ころぶまえに、「いたい」と言って、そのあと、膝小僧を、道路の表面にぶつけて、「いたい」と感じたわけではない。

けど、自分を中心にして考えると、他人の経験に関しては、時間的な順番について、あんまりうまく認識でない人が多いので、「いたいと言うから、いたくなる」と言ってしまうのである。その場合、他人がいたくなった理由は、(自分には)ほんとうに関係がないのである。ここらへんも、自己中心的な性格があらわれている。 

ともかく、「いたい」と言ったあと、「いたい」と感じることが現実化したのではないのである。「いたい」と感じたあと、「いたい」と言っている。こういう、基本的なことを無視するな。

*     *     *

言霊主義者だって、そんなことはわかっているけど、「いたい」と言うと、よけいにいたく感じるから、「いたくない」と言って、「いたさ」をやわらげようとしているのではないか……と思う人もいるだろう。

けど、これは、本人の場合だ。

他人のことに関しては、「いたいと言うから、いたくなる」と本気で思っている。 だいたい、「いたくない」と言えば、言霊のすごい力によって、たちどころに、いたくなくなるはずなのである。言霊にはそういうパワーが宿っているはずなのである。

どうして、「やわらげようとする」必要があるのか?

「やわらげようとする」ほど、いたく感じているんじゃないか。

ようするに、いたく感じたあと、「いたい」と言うと、よけいにいたくなると考えて、いたいとは言わないようにしようと思ったわけだ。「いたい」と言いたくなるような原因は、いたいと言わないようにしようと思う前に発生しているのである。

「いたい」と言わなくても、「いたい」と感じている。何度も言うけど、突然「いたい」と言ったあと、ころぶという……いたく感じる原因が発生しわけじゃないのである。これは、「いたい」と言うと、よけいにいたく感じるから、「いたくない」と言って、「いたさ」をやわらげようとしている場合でも、おなじだ。

ころんだあと、「いたい」と感じたけど、「いたい」と言わなかった場合でも、出来事の順番はかわらない。「いたい」と言わなかった場合は、「いたい」と感じたけど、言わなかっただけだ。「いたい」と感じただけで、「いたい」と言わなかった場合は、いたくならないはずなのである。「いたい」と言ったから、そのあと「いたく感じる」というのは、嘘だ。

言ったことが現実化するわけではないのである。ころぶということが現実化したあと、「いたい」と感じたのである。ころんだって、うちどころがよければ、いたくないのである。あるいは、クッションのうえでころんでもいたくないのである。

しかし、「いたい」と言ったから、ころんだわけじゃない。「いたい」と言ったあと、いたく感じるような出来事が発生したわけじゃない。

突然、足がいたくなって、足がいたくなったから、足に力がはいらず、その結果ころんだという場合について考えてみよう。この場合も、けっきょくのところ、とつぜん、足がいたくなったなら、足の部分になんらかの異変が起きたわけで、その異変というのは、からだを構成する物質の物理的な変化によってしょうじたのである。

物理的な変化がしょうじたあと「いたい」と感じたのである。

たとえば、突然、足の血管が切れたとする。足の血管が切れたあと、いたいと感じたり、足に力が入らなくなるのである。この場合、足の血管が切れたほうが、さきだ。

原因となる出来事のほうがさきにしょうじている。そのあと、痛覚を刺激するのであれば、「いたい」と感じるのである。

「いたい」と感じたとき、わずかに遅れて、「いたい」と言うのである。

もちろん、「いたい」と感じたあと「いたい」と言うと、「よけいにいたくなるかもしれない」と考えて、「いたい」とは、言わなかったという特殊な場合においても、まず、原因となる出来事が発生したのである。原因となる出来事が発生する前に「いたい」と感じたわけではない。

「いたい」と感じることと、「いたい」と言うことがほぼ同時である場合もあるけど、やはり、いたいと感じていなければ「いたい」という言葉をださないのが普通なので、さきに「いたい」と感じて、あとで「いたい」と言っている。頭の構造的を考えると、感じるほうがさき。わずかにでも、さき。

いずれにせよ、いたいと言ったあと、いたいと感じる出来事が発生したわけではないし、いたいと感じたあと、原因となる出来事が発生したわけでもない。

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だいたい、言霊理論が正しいなら、「いたくない」と言ったあと、いたく感じるということはない。いたみをやわらげるために「いたくない」と言った?

いたくないと言ったあとも、いたさが残っているのではないか?

「いたくない」と言ったことで、どの程度、いたさが緩和されたのかは、知らないけど、「いたみ」が残っているわけで、それは、「いたくない」と言ったあとも、「いたい」ということを意味している。

緩和されたけど、すこしは、いたく感じているのか?

だとしたら、言霊理論は、すでに破綻している。「いたくない」と言ったら、すぐに「いたくなるくなる」のである。「言霊には言ったことを現実化させるすごいチカラがある」ので、「いたくない」と言ったら、言霊のすごいチカラによって、いたくない状態が実現化するはずだ。「いたくない」と言ったあと、いたみを感じているなんて、おかしい。ありえない。

言霊理論が正しいなら、ありえないことだ。

言霊理論が正しくないから、そういうことがあるのだ。言霊主義者だって、「いたくない」と言ったにもかかわらず、「いたいままだ」ということを経験しているはずなのである。そういう経験があるはずなのである。

けど、言霊理論について語っているときは、「言霊にはものすごいチカラがあるから、言ったことが現実化する」と言って、そういう自分の経験については、まったく、考えないのである。

 *     *     *

しかし、こういうことを指摘された場合、言霊主義者は、その通りだと、現実を受け入れるだろうか? たぶんだけど、自分の幼児的万能感が傷つくのは、不愉快なので、受け入れないと思う。

「いたくない」と言ったあとも「いたみ」が残っているという現実は、無視されるのである。

そして、ぼくがここに書いてきたことも「屁理屈、言うな」と言って、認めない。それは、自分の幼児的万能感が傷つくことなのである。

言霊には、ほんとうは、本人が言っているようなチカラがないということを認めるのは、いやなことなのである。

だから、認めないのである。 


毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。