たとえばの話だけど、自分が「すきですきでたまらない」人とデートできて「うれくしくて、くれしくて」たまらないときに、「頭にきた」と言えば、頭にくるのか? 腹がたったといえば、腹がたつのか。うれしいときは、うれしいと感じているわけで、出来事に関係なく、自分に言葉で命令すれば、その通りに感じるようになるとでも言うのか? 言っているんだよね。
ほんとうは、自分の日常生活のなかでは、そんなことはしてない。そういうことをこころみたとしても、そういうふうには、いかないのである。そんなことにはならないのである。うれしくうれしくてたまらないとき、文脈に関係なく、出来事に関係なく「腹がたつ」と言えば、腹がたつか? ほんとうは、腹なんて立たないのではないか。うれしいままなのではないか。
どうして、「自分の感情なら、自分が制御できる」というようなライフハックがはやってしまうのか。ほんとうは日常生活のなかで、そういうことをしてないのに、どうして、あたかも可能であるかのような話をするのか。真実であるという前提で、大ぶろしきをひろげるのか? 自分が言葉で命令すれば、自分は、その命令通りに感じるようになる……。こんなおかしい話に、疑問をもたないのか?
そして、「そういうことは成り立たない」ということを、ぼくが言えば、ぼくに対して、敵対心をもつのか? 自分が信じているのことを、否定されたから、不愉快になったんでしょ。
じゃあ、ぼくが、「言霊は成り立たない」「言霊理論はまちがっている」ということを話したとき、ぼくに対して敵愾心を感じて、不愉快になったとする。そのとき、「エイリさんからありがたい話を聞いた」と思わないのか?
「エイリさんが言っていることは正しい」「エイリさんが自分の目を覚まさせてくれた」……こう思って、「感謝感謝、なんでも感謝」と思えば、それでいいのではないか?
「言霊理論を否定されて、うれしくしてうれしくてたまらない」と言えば、うれしくなるのではないか?
ところが、実際には、不愉快なままなのである。「こんなの読むんじゃなかった」「言霊は正しい」と思って、なんとか、気持ちを切り替えようと思って、ほかのところを読むのである。
この、「自分の感情なら、自分が制御できる」というような理論は、ひらたく言ってしまえば、かなりやばい。「自分が言葉で命令すれば、自分は、その命令通りに感じるようになる」というような理論は、ひらたく言ってしまえば、かなりやばい。
暗闇条件の人を、追いつめるのである。「条件なんて関係がない。過去なんて関係がない。すべては、自己責任」……という考え方とセットになって暗闇条件の人をおいつめる。
そういうふうにできている。
さらに言ってしまうと、カルマ論がこういう理論の礎(いしずえ)になっているのである。カルマ論が、精神的な正しさを付与するのである。カルマ論は、じつは、悪の理論だ。この世の差別を肯定するための理論だ。
++++
「自分が言葉で命令すれば、自分は、その命令通りに感じるようになる」という考え方と他人による感情制御は、多少似ている。これ、こういうことに鈍感にさせるための理論なのではないか。