俺は、ほんとうは、親父が死んだら、明るい人になるはずだったのだ。まあ、きちがい兄貴のことはあるから、「相対的に」ということだ。きちがい親父がいるときの俺にくらべれば、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の影響はあるけど、相対的に!明るくなるはずだったのだ。けど、きちがい親父が、ネズミを入れてしまったことで、一変する。これで、また、きちがい親父が、ネズミを餌付けしたり、餌付けされたネズミががんがん入ってくるようになったときの態度が、おなじなのだ。きちがい親父特有の態度なのだ。ネズミの糞は、普通の人なら、絶対に気にする。けど、きちがい親父は、どれだけネズミの糞が増えても気にしない。「そんなの気にしすぎだ」と思っているのだ。「おまえは神経質だ」と思っているのだ。きちがい親父が、なんでもないことで怒り狂っていたことは、俺が神経質になったことと関係しているんだけどなぁ……と言いたくなる。普通の人なら、絶対に気にすること、どれだけ気にするように言っても、気にしない。これ、きちがい親父の態度だけど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に対する態度が、これとまったく同じなのだ。こういうところで、非常に似ているのだ……親父と兄貴は……。こいつら、そっくり。まったくおなじ脳みその構造をもっている。そうなると、じつは、うちなかで狂っている人間に、やられた人間が、「よその人」からへんな風に思われるのだ。こんなのない……。けど、ある。きちがい的な親兄弟にたたられたやつは、みんな、こういう思いをしている。こういう体験がある。けど、きちがい的な親兄弟にたたられてないやつは、みんな、「やられた側のこういう体験」について、誤解をすることになっている。かならず、誤解をする。そういう構造が成り立っている。やられてない人間の理解力が、ぜんぜんたりないのだ。経験として、知ってないので、「やられた側が言うことが」へんなことだと思えるのだ。「やられた側の人が」へんだと思って、解釈を中断するのである。そういうふうに、判断してしまう。これは、言霊主義者に、言霊理論はまちがっているということを、どれだけ説明しても、言霊主義者が理解しないということと、一致している。普通の人の理解力なんてそんなもの。経験がないことに関する理解力なんてそんなもの。普通の人は、きちがい的な親のもとにうまれてないのである。だから、きちがい的な親が、家で、どんな行動をするかわかってない。きちがい的な親がきちがい的な行動をしたとして、その行動に関するきちがい的な親の側の認知が、まったくわかってない。「よそのひと」……きちがい的な親のもとに生まれてない人は、きちがい的な親の行動だけではなくて、きちがい的な親の認知もわかってない。この、きちがい的な親の認知というのは、きちがい的な親自身の行動に関する認知のことだ。まあ、これ、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを頑固にやったときも、発揮されているんだよな。きちがい兄貴なんて、普通の人なら気にする騒音をずっと鳴らしても、「まったくそんなことはやってない」と気がつかない状態の膜なのである。きちがい的な意地できちがい的な騒音を鳴らしているのに、きちがい的な意地できちがい的な騒音を鳴らしているという認知がまったく生じない。鳴らしているときにしょうじなければ、鳴らし終わったあとにもしょうじない。なので、本人の認知としては、「そんなことはやってない」という認知なのである。まったく鳴らしてないときとおなじ認知のままなのである。とことん、親父と兄貴は似ている。おやじの行為と、きちがい兄貴の公開が本質的におなじなんだよ。ただ、きちがい親父は、ヘビメタに興味をもたず、ヘビメタを鳴らさなかっただけで、きちがい的な脳みその構造がおなじなんだよ。
ともかく、きちがい親父が死んだら、ぼくは相対的に明るくなるはずったんだけど、それが、ネズミと墓で、こわされてしまった。ネズミの問題は、ネズミだけの問題じゃなくて、ネズミの糞の問題や、ダニの問題や、ナメクジの問題や、ネズミ対策工事業者の問題や、粗大ごみ回収業者の問題なんだよ。粗大ごみ回収業者の人にたいして、もうしわけがない気持ちになったり、うちのなかに入ってくる人に対して、ぼくがはずかしい思いをしなければならなくなる。
むかし、どこかのブログで「父親が死んだら、明るくなって、旅行に行きまくっているやつがいる」というようなことが書いてあった。旅行に行きまくった人は、「ひきこもり」系の人だ。「ひきこもり」系の人が、父親が死んだことによって、明るくなり、積極的に旅行に行くようになったという記事が書いてあったのだ。で、記事を書いた人は、「親が死んで明るくなるとか、おかしいだろ」みたいなノリがあったんだけど、そんなことはない。父親がきちがいなら、父親が死んだことで、明るくなる人はいる。ぜんぜん、おかしくない。これをおかしいと感じるほうがおかしい。ガキ。こども。