ちょっとだけ、関係がないことを言っておく。じつは、「物理法則に従って、ものが落ちるのではない」のである。ものが落ちる現象を、法則性がある言葉に変換しただけなのである。現象が先なのだ。現象が先で、法則が後なのだ。法則が先で、その法則に従って、現象が発生しているわけではないのだ。ここら辺のことを勘違いしてしまっている人たちがいるんだよな。ものが下に向かって落ちるということが、この世では成り立っている。地球上では、そのように表現できるということだ。ものが、上に向かって移動する場合は、それなりの、物理的な理由が、たしかにあるのである。だから、それも、そういう現象があるということを認めて、そういう現象をうまくあらわす言葉で、表現しただけだ。実際の現象をうまく説明できる言葉で表現しただけなのである。べつに、ものが上に向かって移動する場合は、その法則に従って、移動しているわけではないのである。ものが上に向かって移動する場合も、じつは、現象のほうが先なのである。法則の言葉は、後なのだ。だから、法則に従って移動しているわけではなくて、現象を成り立たせる条件によって、現象が発生しているだけなのだ。現象のほうが、先なのだ。だから、法則に従って運動しているわけではない。ただ、物理的なことに関しては、実際の現象と、法則によって表現される現象が一致しているのである。だから、「法則に従って、現象が発生しているように見える」のだ。一致しているので、「したがって」という言い方が、ゆるされている。
しかし、人間に関係する「XをすればYになる」というような文は、法則性があるようなことを言っているのだけど、じつは、法則性なんてないことについて表現しているだけなのだ。これ、最初から、偽の法則なのだ。ほんらい、法則になりえないことなのだ。だいたい、「Xをする」ということが一意に決まらない。「XをYになる」ということが一意に決まらない。Xがなんなのか、一意に決まらない。Yがなんなのか、一意に決まらない。こんな言葉で、法則なんて表現できるわけがないだろ。「たいがいにしろ」と言いたくなる。
ところが、「XをすればYになる」というような文を口にする人は、あたかも、物理法則と同じような法則が成り立っていると(勝手に)思っているのである。これが、そもそも、間違いなのに、間違いであるということに、気がつかない。「XをすればYになる」というような文を口にする人は、間違いであるということに、気がつかない。最初から思い違いをしているのである。こんなのは、ゲームにしかならない。言葉の遊びなのだ。言葉の遊びという領域内のことなのだ。ところが、「XをすればYになる」ということを前提とした助言をする人たちというのは、言葉の遊びだということに気がついていないのである。本当に、自分たちの助言で、こまっている人たちが、助かると思っているのだ。これが、問題なんだよ。