ちょっとだけ、簡単に書いておこう。
問題なのは、「善意で言っている」ということなのだ。「こういう方法で解決できる」と善意で言っている。善意で言っているということには、嘘がないのである。
これが問題なのだ。
基本的に、この人たち……善意で助言をする人たちは……相手の状態を無視している。相手にある「条件」を無視している。環境を「条件」の束だとする。
もう、環境の中に無数の条件が成り立っているのだ。その無数の条件を無視してしまう。条件というのは、「主なもの取り出すとこういうことが言える」というものでしかない。
条件というのは、対象者の意識にのぼる「主な条件」なのだ。対象者というのは、この場合、助言を受ける側の人だ。無数の条件の中で生きているということは、だれだってわかっているのだ。
あえて、条件の中から、重要なものを選び出して言うなら、こういう条件があるということを言っているのだ。条件というのは、意識が集中していなければ、無数に成り立っていて、意識が集中したときに「これこれこういう条件がある」と認識されるようなものでしかない。
まあ、ここが重要なのだよ。
さらに重要なことは、助言をする人たちは、みんな、対象者(相手)の条件を軽んじるということなのだ。もともと、相手の条件は「がんちゅうにない」のだ。「そんなのは関係がないこと」なのだ。
「関係があると相手が言ってるだけなのこと」なのだ。助言をする側にはそういう、心の構えがある。
これが、条件を(対象者が)選び出して認識しているということよりも、さらに重要なことなのだ。
ようするに、相手の条件というのは、助言をする人たちにとって、関係がないことなのだ。
最初から「関係がないこと」なのだ。
最初から、「関係がないことだ」と決めつけられているのだ。
どうしてかというと、助言をする側が、「XをすればYになる」というような文型におさまるような助言をするからだ。
助言をするほうにとってみれば、最初から、相手の条件は関係がないことになっている。
どうしてかというと、「XをすればYになる」という構文におさまるなら、どのXもXだからだ。一〇〇%のXにおいて、構文の内容が成立するという前提で、モノを言っているのだ。
けど、これには、無理がある。
けど、無理があるということがわからないのだ。
このライフハック的な言い方には、そういう冷酷なところがある。これ、最初から、条件を一切合切かえりみない言い方なのだ。「条件なんて、あったってない」ということになっているのだ。
これがどういうことをもたらすかというと、言われたほうに圧力がかかり、言われたほうが不愉快になるのだ。そして、言われたほうが、その内容を実行しても、「よからぬこと」が発生する確率が、高いのである。
どうしてかというと、条件によって、それが、無効か、あるいは、さらに悪い状態をもたらすことが決まっているからだ。
助言をするほうによって、無視されている「相手の条件」が、悪いことをもたらすのだ。さらに圧力が高くなるのだ。言ってみれば、まったく無効か、あるいは、有害であることが、決まっているのだ。
なんでなら、無視された条件によって、(相手側)の悪い出来事が発生しているからだ。ところが、「XをすればYになる」という構文におさまるような助言をする人は、最初から、相手の条件を無視していることを言っているということについて、注意を払わない。
だから、「相手が言い訳をしている」「相手のやり方が悪いのだ」ということしか、感じないのである。相手の「悪い条件」に注意が向かないのである。
注意が向かないような呪文として「XをすればYになる」という文が機能している。