条件を無視したまま、細かい作法にシフトしていくという問題がある。
不幸な人が不幸なのは、それぞれ、不幸になるような現実的な条件があるからなのである。条件が、出来事の質や回数を決定してしまう。
たとえば、悪い親と一緒に住んでいる人は、悪いことが起きやすくなるのである。
ところが、そういう条件を無視して、「運をよくしようとする」と、作業の深度が深くなるのである。
つまり、「運をよくするための儀式」がより、複雑になるのである。
しかし、どれだけ、儀式が複雑になっても、悪い条件がかわらないと、悪い出来事の質や回数がかわらないので、不幸な思いをすることになるのである。
たとえば、神社にお参りをするとする。神社にお参りをすると「運があがる」ということにしておこう。
そうすると、神社にお参りしても、条件が悪い人は、なかなか幸福にならない。たまたま、起こることに期待しなければならなくなる。
ところが、条件が悪いので、よいことが起こらず、悪いことばかりが起こるというとになってしまうのである。
条件が悪いからなのである。
ちゃんと、「悪い家族」という原因があるのである。運とかそういうことではなくて、ちゃんと、物理的な身体をもった、「悪い家族」という原因がある。
ところが、神社にお参りをしても、運があがらなかったということになると、お参りのやり方が悪いのではないかということになってしまうのである。
これが、人を隷属させる方法なのである。
このやり方は、「言霊」でも「思霊」でも「引き寄せ」でもおなじなのである。
言霊の場合は、「言い方が悪いから効果がない(言ったことが現実化しない)」ということになる。思霊の場合は、「思い方が悪いから効果がない(思ったことが現実化しない)」ということになる。
引き寄せの場合は、「引き寄せ方法を、うまく、実行していないから引き寄せられない」ということになる。祈り方とおなじで、儀式の問題になる。儀式の細かさが深くなるのである。
言霊において「言うこと」は儀式のようなものなのである。
「うまく言えば現実化するけど、うまく言えないと現実化しない」ということになるので、「言い方」について、作法の深度が深くなるのである。
しかし、言い方を工夫しても、どれだけ、うまく言うようにしても、もともとの理論が、でたらめなので、言い方を工夫したり、うまく言うようにしても、「現実化の頻度」とは関係がないのである。
この、関係がないところで、ダメ出しをして、相手を従属させるという「きたない手」を使っているところが多いのだ。
最初から、ダメな方法なのである。
最初から効果がない方法なので、効果がないのである。
「いいことが起こる」言ったあとに、なにがしかのいいことが起こったとする。そうすると、言ったから、いいことが起こったのだと考えるわけだ。
しかし、言霊はないので、言霊の力によって、そのいいことが起こったわけではないのだ。
しくみは、「雨が降ると言ったあとに、雨が降った」ということとおなじだ。「言ったあと」と「言ったから」の混同があるのである。
たとえば、「いいことが起こる」と祈ったあと、いいことが起こったとする。これは、「いいことが起こる」と祈ったあと、いいことが起こっただけだ。「あと」なのである。
それを、「祈ったから」いいことが起こったのだと(勝手に)解釈してしまうのだ。そうすると、「祈りのパワーは絶大だ」ということになるのである。
そのときの祈り方や、そのときに行った神社だと、「うまくいく」と思うわけだ。
しかし、条件をぬかせば、ランダムに起こっていることなのである。あるいは、条件によって起こる頻度が決まっているものなのである。
たとえば、家では、きちがい的な家族にたたられるけど、学校で、いい友達ができたとする。
友達ができたことで、家族の基本的な問題は解決しないけど、学校でいい友達と交流したときに、いい思い出ができたとする。
これは、いいことだ。
その場合、お祈りをしていなければ……「お祈りをしたから、いいことがあった」とは思わない。お祈りをしていないのだからそうなる。
ところが、お祈りをしたあと、学校でいい友達と出会い、いい思い出ができた場合は、「お祈りをしたあといいことが起こった」と考えるのではなくて、「お祈りをしたからいいことが起こった」と考えることが可能になる。
けど、その「いいこと」というのは、一番悪い条件からはずれたときに起こっていることなのである。
条件は様々だから、一番悪い条件にたたられている人も、どこか、その一番悪い条件が条件として機能しない場所では、いいことが起こる場合がある。
しかし、実際には、家族の問題というのは、学校にいるときにも、影響を与える。
特に、騒音系の問題だと、学校にいる時間も、家にいるときのように、影響を与える。睡眠が削られ、体力がなくなり、学校でのさまざまな行動に影響を与えるからだ。
だから、基本的には、「悪い家族」という条件が、ほかのことにも影響を与えている。
けど、影響が低い場面では、たまたま、いいことが起こることもある。
それは、お祈りとは関係なく、起こるのである。
ともかく、条件というのは、ひとつじゃない。
もう、複雑に絡み合っているのである。
だから、「たまたま」いいことが起こることもある。
しかし、条件が悪い人というのは、いろいろなところで、条件が悪いのである。
まあ、それを改善したいと思うのは当然だ。
だから、安直な方法を求めるのである。
たとえば、「言うこと」「思うこと」「お祈りすること」「お祈り以外の儀式をすること」だ。その方法が効くとか聞かないというのは、じつは、雨が降ると言ったあと、雨が降る確率とおなじようなもので、方法に関係なく、ほかのことによって、出来事の質が決まってしまう。
「雨が降る」と、どれだけ「いい言い方」で言っても、言うことが……雨が降る確率に影響を与えないのだから、「いい言い方」をどれだけ研究して言っても、無駄なのだ。
生きにくい人が多ければ多いほど、この「安直な解決産業」がうるおうようになっている。
条件が厳しければ厳しいほど、この「誤解の上に成り立つカルト産業」がうるおうようになっている。
* * *
全員が、悪意を持って、隷属させようとしているとは、言わない。実際そうではないからだ。「Xをすれば運があがる」「Xをすれば幸福になる」と言っている人たちが、すべて、悪意を持って、人を隷属させようとしているわけではないのだ。それは、ちがう。
しかし、社会の構造を考えると……。意図せず、圧力を加えているということになる。まあ、善意なのはわかるし、『区別』に書いたことがわからないのだから「妄信」することはある。
社会の全体像なんて、見えないか、積極的に無視しているのだから、善意で、「本当にいい方法を教えてあげるんだ」と思っていたとしても、不思議ではない。
それに、どっち側に回るかと言うことを除いて考えると、人間は、不安な生き物なのである。そして、なにか神仏に、助けを求めたくなる生き物なのである。
だから、条件が厳しければ厳しいほど、自分にもできそうな「安直な解決方法」を求めることになる。この圧力が、ものすごい圧力なのである。
なら、どうして、このものすごい圧力がしょうじるかというと、厳然とした……でっかいでっかい、格差があるからなのだ。猛烈な格差がある。条件の格差と言ってもいいのだけど、実際に、どういう家に生まれたかで、厳然とした格差が生じてしまう。
緩やかな格差ではなくて、猛烈に激しい格差なのである。猛烈に激しい格差が現前して、生まれたと同時に、その格差のただなかに、なげこまれてしまう。
だから、条件が悪い人は、悪い出来事がたくさん発生してしまうのである。条件が悪いと一口に言っても、悪さの程度に、差があるのである。条件と言っても、無数の条件があるのである。
だから、条件が悪い人のなかにも、激しい格差があるということになる。
まあ、ともかく、「社会構造を考えよう」ということになる。