あんまり説明したくないのだけど、ちょっとだけ、説明しておこう。
たとえば、「人に親切にすれば幸福になる」とする。
その場合、幸福ではない人は、人に親切にしてこなかった人だということになる。人に親切にしていたなら、幸福になっているはずなのだ。
幸福になっていないということは、人に親切にしてこなかったということを、意味しているのである。
その場合、特に意識していなくても、「人に親切にすれば幸福になる」という文を受け入れた人には、「幸福ではない人は、人に親切にしてこなかった人だ」という認識が成り立ってしまう。
人に親切にしてこなかった人のことを、短く「不親切な人」と言い換えるとする。
そうなると、「幸福ではない人は、不親切な人だ」ということになる。さらに、「幸福ではない人」を「不幸な人」と言い換えるとする。
そうなると「不幸な人は不親切な人だ」ということになってしまうのである。
もちろん、言い換えには問題がある。どうしてかというと、たとえば「幸福ではない人」の集合のなかには、「幸福ではないけど、不幸でもない人」が含まれるからだ。
しかし「人に親切にしてこなかった人」の場合は「不親切な人だ」ということになってしまう。
親切にしないことが「不親切」という表現の内容になるからだ。
「人に親切にしてこなっかたけど、親切な人」という表現は、矛盾している。
だから、表現の問題で、ばらつきがある。
幸福という表現の場合は、幸福ではないけど不幸ではない人がいる。何度も言うけど、表現によってばらつきがある。
このことは、注意しなければならないことなのだけど、普通は、「幸福ではない人」は「不幸な人」だと意識されやすい。
「幸福・不幸関係」において、不幸ではないけど、幸福でもないことを『中間地点』と呼ぶことにする。
表現のばらつきについては説明した。とりあえず、表現のばらつきを無視することにする。そして、反対語については、そのまま、『中間地点』を考えずに、反対語として扱うとする。
たとえば、人に親切にすることを、親切にすると表現することにする。そして、親切にするの反対を不親切にすると表現することにする。
そうすると、「親切にすれば、幸福になる」という言葉は、親切と幸福のあいだにペア(つい)をつくることになる。頭のなかに、親切なら(→)幸福という思考回路ができあがるのだ。その場合、逆に、頭のなかに、不親切なら(→)不幸という思考回路も、できあがってしまう。
ところが、実際の場面では、だれか(1)がだれか(2)のことを、「親切な人」と見なしているだけなのだ。神様視点で、「親切な人」と「不親切な人」が決まっているわけではない。
そして、これは、かなり、時間が限られた出来事によって決まることであり、「だれだれは親切な人」「だれだれは、不親切な人」というように、だれかが判断したということを意味するだけだ。
これは、永続的に、だれかが親切な人であるということを意味していない。
あるいは、これは、永続的に、だれかが不親切な人であるということを意味していない。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Bさんが、Aさんにおカネを貸してくれ」と言ったとする。
そうしたら、Aさんがおカネを貸してくれなかったとする。
Bさんのなかで、「Aさんは不親切な人だ」ということになったとする。
しかし、Aさんがほんとうに、不親切な人なのかどうかはわからない。
これは、BさんのAさんに対する判断であり、Aさんがほんとうに不親切な人なのかどうかわからない。
たとえば、BさんとCさんがいたとする。Bさんが、Cさんに「カネを貸してくれ」と言ったとする。Cさんは、Bさんにカネを貸したとする。
そのとき、Bさんは「Cさんは親切な人だ」と思ったとする。
Bさんのなかでは、Cさんは親切な人なのである。
そして、CさんがBさんに五回カネを借りたとする。Bさんが六回目、おカネを借りようとしてCさんに「おカネを貸してくれ」と言ったとする。そうしたら、Cさんは「今までのカネを返してくれ。かえてくれないなら、もう、カネはかさない」と言ったとする。
そのとき、Bさんのなかで、「Cさんは不親切な人だ」ということになったとする。おなじCさんなのだけど、あるときは、「親切な人」だと判断されて、あるときは「不親切な人」だと判断されたということになる。
Bさんのなかで、Cさんが親切か不親切かということについて判断がかわったということだ。
けど、これは、Bさんのなかでの話だ。ほかの人は、Cさんのことをどう評価するかわからない。ほかのとの関係では、Cさんは、なにをしているのか、この話だけではわからない。
いまは、作中の人物ということになって、作者であるぼくが、ほかの情報を排除して、Aさん、Bさん、Cさんについて語ったけど、実際には、神様的な視点を持つ人なんて、この世にはいない。
勝手に、個人の頭のなかで「あの人は、親切な人だ」とか「あの人は、不親切な人だ」ということを、決定しているにすぎない。決定するときの根拠が、また、人によって異なるのである。
人は出来事によって、自分やほかの人のことを、親切な人だとか不親切な人だと勝手に判断しているにすぎない。そして、それは、時間とともに変わる場合がある。出来事一の時点と、出来事二の時点で、登場する人の状態や価値基準が異なっている場合がほとんどなので、(人に対する)対応が異なることがある。
しかし、人格としての一貫性は「ある」ような感じがしているものなのである。
そして、人格としての一貫性は、複数の出来事によって、ある人(3)の頭のなかに、ある人(4)はこうだというようなイメージができあがったということだ。
しかし、どちらの人も、時間とともに変化していくのである。その時点(1)での条件・状態というものは、永遠ではない。
ある人(3)も、ある人(4)も、その時点(2)での条件・状態というものは、ちがう。
時間がちがえば、評価するほうの状態もちがうし、評価されるほうの状態もちがうのだ。状態と書いたけど、これは、複数の条件が成り立っている状態ということだ。
そして、場面がちがえば、認知も、メタ認知もちがうのだ。いちおうは、人格として「親切な人」とか「不親切な人」という判断はできそうなのだけど、ほんとうは、場面場面の「印象」の総合でしかない。
そして、場面場面の「印象」をもっているのは、個々人であって、神様ではない。個々人が……個々人の視点で、個々人の出来事に関して解釈して、その出来事に関係した他人のことを、その都度「親切な人だ」とか「不親切な人だ」と判断しているだけなのだ。
そして、記憶に残る場合もあるけど、記憶に残らない場合もあり、記憶に残った場合でも、忘れる場合がある。
だから、個々人が出来事に応じて、かりそめに、「あの人は親切だ」とか「あの人は不親切だ」と判断しているだけで、だれかのことを、人格として……固定的に……「親切な人」とか「不親切な人」と決めつけることはできない。
親切→幸福というパターンができあがると、不親切→不幸というパターンもできあがってしまうということが問題なのだ。
いったん、不親切→不幸というパターンができあがると、不幸→親切というパターンもできあがってしまう。幸福→親切というパターンは、親切→幸福というパタンができあがったときに、できあがってしまう。
親切→←幸福(親切なら幸福だ・幸福なら親切だ)というパターンと、不親切→←不幸(不親切なら不幸だ・不幸なら不親切だ)というパターンのふたつの対になるパターンが、頭のなかにできあがってしまう。
「親切にすれば、幸福になる」という言葉だけで、言葉に表現されていない関係が、頭のなかにできあがってしまうのだ。
現実に不幸な人は、不親切な人だというイメージが、頭のなかにできあがってしまう。不親切な人が、がんばって、人に親切にすれば、幸福になるいうことを言っているということになってしまう。
不幸な人は、不親切なの人なのである。
一般的ではないけど、中間地点まで含めた言い方をすれば、非・幸福な人は、人に親切にしてこなかったから、非・幸福なのである……ということになってしまう。
そういうイメージが頭のなかにできあがってしまう。
これは、じつは、ものすごく問題があることだ。