はじまりはなにかというと、事実、虐待されたということなのだ。
事実、虐待されたなら、なんらかの理由があるということになる。
その理由というのが、たとえば、カルマ論における前世のカルマだということになる。
たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、Bさんの父親だ。Aさんが、Aさんの性格にしたがって、幼児のBさんを虐待したとする。ほんとうは、別に、幼児であるBさんの責任ではないのである。
ところが、カルマ論者が、特殊な話を作り上げてしまうのである。
たとえば、じつは、Bさんは、前世で、Aさんの父親だった。そして、前世のBさんが、Aさんを虐待していた。だから、今世では、AさんにBさんが虐待されたることになったのだというような話を……でっちあげてしまうのである。
カルマ論においては、等価なものがあるはずだということになっているのである。
だから、現在、Bさんが、なにかひどいことをされているなら、それは、Bさんのたましいをもっている人が過去世において、実際にしたことなのだという……決めつけがある。
かならず、現世でひどいことをされたなら、過去世において、ひどいことをしているという、ある意味、平等な世界観があるのである。
平等と言ったけど、これは、等価だということだ。
ひどいことを現にされた人は、過去世において、おなじようなひどいことを人にしているということになる。過去世において人にしたことと、等価であるものを……現世で引き受けているという考え方なのだ。つまり、今度は、現世で人にされるという考え方なのだ。
だから、現に……まさしく、実際に……ひどいことをされた人は、過去世においてひどいことをした人だということになってしまうのである。
これは、仮想のスティグマだ。
じゃあ、ほんとうに、Bさんのたましいをもっている人が、過去世において、ひどいことをしていたのかどうかということは、まったくわからないのである。
カルマ論を信じている人が、勝手に、そういう物語を作り上げて、勝手に、Bさんのたましいに罪を着せているだけなのである。
はじまりはなにかというと、事実、虐待されたということなのだ。