「努力をすれば成功する」という文も、カルマ理論のように、使われるのである。「努力をすれば成功する」という文があるために、能力で劣っていると、性格まで劣っているように言われるのである。
たとえば、ある能力において劣っている人がいるとする。それは、その能力において劣っているだけで、性格には関係がないし、人間の価値とも関係がないのである。
ところが、努力をすれば成功するという文があると、努力をしないからダメなんだということになってしまうのである。ようするに、その点において能力で劣っているのは、その点において、努力をしないからダメなんだということになってしまうのである。
その点において劣っているのは、いいことでも、悪いことでもないとする。
しかし、その点において、能力が平均以上になるように、努力をしないからダメなんだと決めつけられてしまう。
ようするに、その点において能力で劣っているということは、善でも悪でもないのだけど、努力をしないという悪い性質をもっているということにされてしまうのだ。
努力をすれば、成功するのだから、能力を高める努力をすれば、能力を高めることに成功するはずなのである。つまり、能力は高くなるはずなのである。
けど、低いままでいる。高くない。
だったら、能力を高めるための努力をしないでさぼってるということになってしまうのである。努力をすれば、その点における能力を高めることができるのだから、能力が低いままなのは、当然するべき努力をしていないということになってしまうのである。
だから、ただ単に、その点において能力がないということが、悪いことになってしまうのである。
なんでなら、努力をしてないからだ。
努力をしないのは悪いことなのだ。
だから、悪い性質をもっているということになってしまう。
努力をしないような悪い性格だから、能力が低いままなのだということになってしまうのである。ようするに、性格の問題になってしまうのである。
ただ単に、その点において能力が(人よりも)劣っているだけなのに、性格が悪いから、劣っているのだということになってしまう。
その点において能力が(人よりも)劣っているだけなのに、努力をしないという悪い性質をもっているということになってしまうのだ。ここにおいて、能力の問題が、性格の問題に書き換えられてしまうのである。
たとえば、計算能力が人よりも低い人がいるとする。これは、能力の問題なのだ。そして、計算機を使えば、おぎなうことができることだ。性格は関係がないのである。
ところが、「努力をすれば成功する」ということになっていると、計算能力をあげるように努力をすれば、計算能力はあげられるということになってしまう。計算能力が劣っているのに、計算能力をあげようと努力しないからダメなんだということになってしまうのである。
計算能力をあげるように努力すれば、だれもが、計算能力をあげることに成功する(はずである)という前提が横たわっている。しかし、このような前提は、ないことになっているのである。
そして、計算能力をあげるように努力すれば、だれもが、計算能力をあげられるのに、特定のあの人は、努力しないから、計算能力があがらないということになってしまうのだ。
だから、能力の問題ではなくて、性格の問題になってしまう。
努力しようとしない性格が問題なんだということになってしまう。努力をしないような性格は、悪い性格なのだ。これも、暗黙の前提として成り立っている。
だから、「努力をすれば成功する」というような文が正しい文だ思われていると、能力の問題が、性格の問題になってしまうのである。
能力の問題は、じつは、善悪を含まない問題なのだけど、性格の問題になってしまうと、善悪を含む問題になるのである。
だから、能力がない人は、悪い性格だということになってしまうのである。あるいは、悪い性質をもった人だということになってしまうのである。