もうひとつ指摘しておかなければならないことは、カルマ理論だけで、自己責任論になってしまうということなのである。
カルマ理論と自己責任論は、くっつきやすい理論だけど、カルマ理論だけで、自己責任論といえるものが成り立ってしまうのである。
たとえば、「前世でこれこれのことをしたから、現世でこれこれのことがしょうじている」ということを言った場合、けっきょく、前世でそのことをしたのは、その人なので、自分がやっていることが、かえってきているだけだから、自己責任論が成り立ってしまうのである。
ようするに、その人のたましいということを考えると、自分がやったことが、帰ってきているだけだから、自業自得だということになってしまうのである。たましいというレベルで考えると、不条理ではないというわけだ。
これは、悪魔の所業だ。
たましいという考え方を利用して、その人に対する虐待を正当化している。
その人のたましいがやったことなので、いま、虐待されても仕方がないということになってしまうのだ。
カルマ理論を信じる人たちは、みんな、いまやられている人間に、つめたい人間になってしまうのでる。理論的な必然として、そうなりやすい。等価だからね。
自分のたましいが、むかし人にやったことが、かえってきているだけ……。こう考えてしまうと、いまやられている人は、いまやられて当然だと思うようになってしまう。けど、カルマ理論が正しいなんて誰が言ったのか?
その人のたましいが、むかし、ひどいことをしたということを、どうやって、証明するのだ?
これ、あたかも、証明されたように考えてしまうのだ。そして、「今現在、やられていること」が証拠だということになってしまうのだ。
いま、虐待されているのであれば、たましいは、過去世において、ほかの人を虐待していた……ということになってしまうのだけど、それは、実際に、現世で「虐待された」ということによって、証明されたことになってしまうのである。
カルマ理論は、人々を奴隷にするために、あるいは、悪い人にするために、悪魔が流した理論だとする。そういうふうに考えると、じつは、つじつまがあうのである。カルマ理論を信じると、悪魔好みの、悪い人になってしまうのである。
カルマ理論は、等価性によって、自己責任論になるんだよね。特に、自己責任論をふりまわさなくても、自己責任論になっている。そして、明確な自己責任論とも、くっつきやすい。
自己責任論を信じた人は、他人につめたくなるのだけど、カルマ理論を信じた人も、他人につめたくなるのだ。特に、今現在、くるしんでいる人間には、つめたくなる。ようするに、環境が悪くて、こまっている人に、つめたくなる。
こいつらが、環境が悪くてこまっている人にすることは、助言なのだけど、その助言が、そのこまっている人を、さらにこまらせるのだ。そして、助言をしているほうは、いいことをしたと、ほんとうに思っている。
こういう事態をつくりだすことを逆算すると、カルマ理論は、適切な理論なのである。