2025年7月23日水曜日

●カルマ理論を信じた人も、他人につめたくなるのだ■カルマ※2025/07/23 6:33

 もうひとつ指摘しておかなければならないことは、カルマ理論だけで、自己責任論になってしまうということなのである。

カルマ理論と自己責任論は、くっつきやすい理論だけど、カルマ理論だけで、自己責任論といえるものが成り立ってしまうのである。

たとえば、「前世でこれこれのことをしたから、現世でこれこれのことがしょうじている」ということを言った場合、けっきょく、前世でそのことをしたのは、その人なので、自分がやっていることが、かえってきているだけだから、自己責任論が成り立ってしまうのである。

ようするに、その人のたましいということを考えると、自分がやったことが、帰ってきているだけだから、自業自得だということになってしまうのである。たましいというレベルで考えると、不条理ではないというわけだ。

これは、悪魔の所業だ。

たましいという考え方を利用して、その人に対する虐待を正当化している。

その人のたましいがやったことなので、いま、虐待されても仕方がないということになってしまうのだ。

カルマ理論を信じる人たちは、みんな、いまやられている人間に、つめたい人間になってしまうのでる。理論的な必然として、そうなりやすい。等価だからね。

自分のたましいが、むかし人にやったことが、かえってきているだけ……。こう考えてしまうと、いまやられている人は、いまやられて当然だと思うようになってしまう。けど、カルマ理論が正しいなんて誰が言ったのか?

その人のたましいが、むかし、ひどいことをしたということを、どうやって、証明するのだ?

これ、あたかも、証明されたように考えてしまうのだ。そして、「今現在、やられていること」が証拠だということになってしまうのだ。

いま、虐待されているのであれば、たましいは、過去世において、ほかの人を虐待していた……ということになってしまうのだけど、それは、実際に、現世で「虐待された」ということによって、証明されたことになってしまうのである。

カルマ理論は、人々を奴隷にするために、あるいは、悪い人にするために、悪魔が流した理論だとする。そういうふうに考えると、じつは、つじつまがあうのである。カルマ理論を信じると、悪魔好みの、悪い人になってしまうのである。

カルマ理論は、等価性によって、自己責任論になるんだよね。特に、自己責任論をふりまわさなくても、自己責任論になっている。そして、明確な自己責任論とも、くっつきやすい。

自己責任論を信じた人は、他人につめたくなるのだけど、カルマ理論を信じた人も、他人につめたくなるのだ。特に、今現在、くるしんでいる人間には、つめたくなる。ようするに、環境が悪くて、こまっている人に、つめたくなる。

こいつらが、環境が悪くてこまっている人にすることは、助言なのだけど、その助言が、そのこまっている人を、さらにこまらせるのだ。そして、助言をしているほうは、いいことをしたと、ほんとうに思っている。

こういう事態をつくりだすことを逆算すると、カルマ理論は、適切な理論なのである。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。