あんまり、書きたくないけど、書いておく。
虐待について書いたけど、いじめもおなじなのである。A君がいじめられたら、カルマ論者は、A君のたましいが、かつて、人をいじめたので、A君が、現世でいじめられたのだということになってしまう。
そういう空想のストーリを考え出して、A君をせめるのである。
A君のたましいが、かつて人をいじめたというストーリーは、A君じゃなくて、カルマ論者が勝手に考え出したことなのである。神様が、カルマ論者に、じつは、こうなのだということを教えたわけではない。
精神世界の人は、実際に出来事がしょうじると、出来事の結果から、独自のことを言いだす。後出しジャンケンなのだ。
たとえば、引き寄せというストーリーをもっているものは、A君が、いじめを引き寄せたからダメなんだということを言いだすのである。
思ったことが現実化するというストーリーをもっているものは、A君が、いじめられると思ったからだめなんだということを言いだすのである。
言ったことが現実化するというストーリーをもっているものは、A君が「いじめられる」と言ったから、実際にA君がいじめられたのだということを言いだすのだ。
たとえば、B君が、A君のことが気に食わないという理由で、うしろから、A君の背中をぶったとする。そして、A君が「いたい」と言ったとする。
そうすると、言霊主義者は「A君がいたい」と言ったから、実際に、いたくなる出来事が発生したと言いだすのである。
もちろん、引き寄せストーリーを信じている人は、A君が、ぶたれるという出来事を引き寄せたと考えるのである。実際に「起こったあと」に妄想的な原因を考えて、断罪するわけ。
「これはこうだ」と決めつけるわけ。
けど、妄想でしかないんだよ。
そして、言霊主義者は、自分がぶたれたときは、「ぶたれたから、いたくなった」と普通に思うわけ。言霊なんて出てこない。ぶたれる前に、「ぶたれる」と自分が言ったから、言霊の力によって、「ぶたれるということ」が現実化したとは考えないのである。
一〇円玉が落ちたときは、「一〇円玉が落ちた」と普通に考えることとおなじなのである。一〇円玉が落ちるまえに「一〇円玉が落ちる」と言って……言ってなくても言ったことにして……言ったから、言葉に宿っている言霊の力によって、一〇円玉が「実際に」落ちたとは考えないのだ。
他人事だと、いたいと言ったから、いたくなるという出来事が現実化したと考えてしまうのである。
そして、つねにそういうことをしているのに、まったく、疑問を感じないのだ。
この、矛盾無視回路こそが、幼稚な考え方の源泉なのである。
意識が、「言霊」に集中しないときは、「言霊」のことなんて、まったく考えないのである。自分が一倍速で体験していることは、実際に自分が一倍速で体験したことだから、順番がひっくり返ることがないのである。
順番というのは、出来事の順番だ。
自分の身に起こったことは、一倍速で体験したことなので、原因と結果をひっくり返して考える必要がないのである。