2025年6月30日月曜日

●ちゃんと、普段は、未来のことを考えて、行動しているのに、未来の存在を否定する■過去※063001

「過去も、未来も存在しない。存在するのは現在だけだ」「過去は記憶の中にしかなく、未来は、まだ到来していないので、現在しかない」と言うようなことを言う人たちがいる。とりあえげ、「現在だけ主義者」と言っておこう。

しかし、これだと、「現在」と考えられた時点がずっと続くということになってしまうのだ。時間が流れて行かない。「現在」と表現された時点から、未来に時間が動いていくとする。そうなると、未来は必要なのである。

まあ、これ、現在と表現されているものをどのように考えるかということが、重要になってくる。

もし、現在だけなら、現在が、ずっと続くことになってしまう。

瞬間という言葉を使ってもおなじである。「今、この瞬間」がずっと続いてしまうのである。 

この問題は、「ある」とか「存在する」ということの意味にもかかわってくる。ともかく「過去も、未来も存在しない。存在するのは現在だけだ」「過去も未来もない。あるのは現在だけだ」という言い方は、ふわふわっと、感じだけを言っている言い方だ。厳密に考えると、なにを言っているのか、わからない話になる。たぶん、言っている本人も、まったくわかってない。

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ところで、この言葉の問題だけではなくて、「今現在だけ主義者」は、じつは、「今現在しかない」と思って生活しているわけではないのである。

階段から落ちて、体がいたくなれば、階段から落ちたから、体がいたくなったと思うのである。

落ちたのも過去、いたくなったのも、過去だ。

けど、現在もいたいとする。これは、前にも書いた通り、過去の出来事が「現在だと考えている現在」に影響をあたえているということだ。 

たとえば、今現在だけ主義者のAさんがいたとする。Aさんが、電車に乗っているとき、人身事故が起こって、Aさんが乗っている電車が止まったとする。人身事故の内容が、飛び込みだっとする。その場合、過去において、飛び込みという出来事が発生したということが、重要なのである。

実際に過去において、飛び込みという出来事が発生したから、Aさんが乗っている電車が停止した。過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえている。あるいは、「すでに」あたえた。

Aさんは、「過去は記憶の中にしかない」などと主張しているのだけど、もし、人身事故が起こらなかったら、たいへん高い確率で、電車は止まっていなかった。

「人身事故が起こった」という過去の出来事が、人々の「記憶の中にしかない」ものだったら、こんなことにはならない。

そして、普通の生活の中にいるAさんは、電車が止まったので、遅刻するかもしれないと考えるのである。

これは、Aさんが、じつは、未来のことについて考えているということをあらわしている。 

「過去も、未来も存在しない。存在するのは現在だけだ」「過去は記憶の中にしかなく、未来は、まだ到来していないので、現在しかない」とAさんは、主張しているわけだけど、普通に、未来のことについて考えて生活しているのである。

電車が動きだせば、「まにあうかもしれない」と未来のことについて考えるのである。

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Aさんが小便をしたくなったら、駅のトイレを使おうと思うのである。今現在しかないのであれば、そもそも、ある程度の「時間の長さ」をもつ「小便をしたい」というようなこと自体が、思い浮かばないのだけど、とりあえず、「小便をしたい」と思ったAさんは「過去も、未来も存在しない。存在するのは現在だけだ」などとは、思わずに、小便の問題を解決するために、未来のことについて考えてしまうのである。

「小便がしたくなった」のも、過去が今現在(と表現されているもの)に影響をおよぼしているからなのである。

過去の水分摂取と、Aさんの体の中でおこったことが、影響をあたえている。

もし、過去の出来事が、「人間の記憶」の中にしかないものだったら、過去の水分摂取と、Aさんの体の中でおこったことは、Aさんの「今現在」の尿意に影響をあたえない。ところが、過去の水分摂取と、Aさんの体の中でおこったことは、Aさんの「今現在」の尿意に影響をあたえるのである。 

Aさんの電車が(Aさんにとって)目的の駅についたとき、Aさんは、ドアのほうに移動するだろう。これだって、Aさんが未来を考えて、ドア付近に移動したのである。

ほんとうに「今現在しかない」のであれば、こんなことはできない。

そして、移動したということは、過去の影響が、記憶の中にしかないということを否定している。移動したのだから、実際に移動したのである。

位置の変化があったのである。

「位置の変化」の結果を享受しているのに、「過去はない」とか「過去は記憶の中にしか存在しない」と考えるのは、自分勝手だ。

ちゃんと、普段は、未来のことを考えて、行動しているのに、未来の存在を否定する。

そして、行動の結果、状態の変化がしょうじたのに、「今現在しかない」「過去は存在しない」と言って、状態の変化がしょうじたということを、無視してしまう。

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もう、書く必要もないけど、Aさんが、食中毒になったときは、普通に、過去との関連を考えるのである。「あれを食べたから、食中毒になった」と思ったりするのである。

まあ、実際に、なにを食べたから、食中毒になったということは、検査で特定しなければならない。

けど、あるものを食べたという過去が、現在に影響をあたえているのである。

現在というのは、この場合、現在の状態という意味だ。食中毒になったらなったで、食中毒でくるしいということを感じるのである。

過去は記憶の中にしかないのであれば、どうして、今現在?食中毒でくるしんでいるのだ。

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ちなみに、Aさんの尿意には、言霊も、思霊も関係していない。水分摂取と、Aさんの体の働きが影響している。そして、尿意を感じるまえに、いろいろな原子的な、あるいは分子的な運動が存在したということを意味している。運動の結果が尿意としてあらわれるのだ。尿意を感じるのには、これまた、体が、尿意を感じるようにできていなければならないのだ。

Aさんが、尿意を感じていないのに「小便がしたい」と急に言って、「言った結果」言霊の力により、尿意を感じたわけではない。過去の運動の結果が、尿意を感じるということに結びついている。尿意を感じること自体も、過去の物理的な運動の結果なのである。人間のからだがそういうふうにできている。

おなじように、Aさんが、尿意を感じていないのに「小便がしたい」と急に思って、「思った結果」思霊の力により、尿意を感じたわけではない。尿意ひとつとっても、思霊や言霊は関係がない。

ところが、「小便をしたいと思うから、小便がしたくなる」とか「小便をしたいと言うから、小便がしたくなる」とかと、まちがったことを言う人たちがいる。

小便をしたくないときに、「小便がしたい」と思っても、小便がしたくならない場合のほうが多い。小便をしたくないときに「小便がしたい」と思ったら、小便がしたくなったような気分になったということを言う人たちがいる。

自己暗示でそういうふうに感じたのだろう。

しかし、じゃあ、ほんとうに、膀胱に小便がじゅうぶんにたまっていないときに、小便ができるかというとそうではないのである。 そして、実際に、小便がしたくてたまらない時の「小便がしたい」気持ちと、小便なんてまったくしたくないのに、「小便がしたい」と言って、なんとなく、小便がしたくなった時の気持ちは、ぜんぜんちがうのである。

実際に、小便をしたいときの膀胱の状態と、小便をしたくないときの膀胱の状態はちがう。言霊の力によって、急に、膀胱の状態がかわるわけではないのだ。ようするに、かわったのは、気持ちだけなのだ。しかも、気持ちですら、かわらないときがあるのである。ここでも、一〇〇%詐欺をしている。

言霊、言霊と言う人たちは、小便をしたいときの膀胱の状態と、小便をしたくないときの膀胱の状態はちがうということを、無視して、言えば、言ったから、膀胱の状態がおなじ状態になると、勝手に妄想しているのだ。これは、まちがった考え方だ。言えば、言ったから、膀胱の状態が、言霊の力によって、おなじ状態になったわけではない。

普段、言霊主義者だって、体のしくみによって、尿意を感じるのである。小便をしたくなった後に、小便がしたいと思うのである。小便なんて、まったくしたくないときに、突然、「小便がしたい」と言って、言霊の力によって尿意を感じて、小便をするわけではないのである。 

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膀胱の状態ではなくて、気持について考えてみよう。私はちょっと前に……小便がしたくてたまらない時の「小便がしたい」気持ちと、小便なんてまったくしたくないのに、「小便がしたい」と言って、なんとなく、小便がしたくなった時の気持ちは、ぜんぜんちがうのである……と書いた。気持ちの問題は、膀胱の問題よりも、ちょっと、複雑なのだ。

言霊主義者は、他人事であれば、他人の状態を考えずに、言霊的なことを言う。たとえば、「小便をしたいというから、小便がしたくなる。小便をしたくないと言ったら、小便なんてしたくなくなる」と言うわけだ。相手の状態をガン無視したことを言うのだ。

「小便なんてしたくない」と言ったら、尿意が消えたなどと言うのだ。しかし、実際には、「小便なんてしたくない」と言ったあとに、小便をしているのだ。一時的に、「小便をしたくないような気分になったかもしれない」ということだ。そのくらいに弱いことなのである。言霊の力なんて、そのくらいに弱いものとして設定されているのである。ところが、同時に、すべてを現実化してしまうほど、強い力として設定されているのである。あるいは、すべてをかえることができる強い力として、設定されている。この「気分になる」「気がする」というような弱い力としての「言霊」と、すべてを現実化してしまうような強い力として「言霊」というのが、言霊主義者のなかで、ごっちゃごっちゃになっているのである。そして、ごっちゃごっちゃになっているということを利用して、まちがったことを言うのである。そして、ごっちゃごっちゃになっているから、矛盾に気がつかないのである。そもそも、「弱い力として言霊」と「強い力としての言霊」の設定自体に、問題がある。

 

 

2025年6月29日日曜日

●言霊主義者は、言霊の力を使えるので、そんなことは、しない■言霊※062901

「言えば、言った通りになる」「言えば、言ったことが現実化する」というのが、言霊主義者の主張だ。言霊主義者は、この内容が、正しいと言っているのである。

しまいには、宇宙をつらぬく真実だと言いやがる。

けど、ちょっとまて。

「言えば、言ったことが現実化する」なら、言った内容は、なんでもいいことになる。「ある内容は、言えば、現実化するけど、別のある内容は、言っても現実化しない」と言っているわけではないのである。

どんな内容でも、ともかく、言ってしまったら現実化すると言っているのである。なら、満員電車の中で、言霊主義者が、小便をしたくなったとき、どうするか?

瞬間移動して、一度、家のトイレにもどり、小便をすればいいのである。

あるいは、「小便をしたくならない」と言えば、それで、問題解決できるのである。

ところが、次の駅で降りて、小便をしようと考えて、ドア側によるというような行動をする。あるいは、「しばらくのあいだ、まとう」と思うわけである。言霊で、解決しようとしないのである。

こういう現実的な問題に関しては、言霊で解決しようとは、思わないのである。

自分が一倍速で経験していることは、一倍速で経験しているので、「理由が明らか」なのである。

自分にとって、理由があきらかなのである。

感情的な動きも、一倍速で経験しているので、時系列的な感情の流れが、自分にとって、明らかなことなのである。

「自分にとって、明らかなこと」だと、普通に物理的な思考をしてしまうのである。言霊が出てくる余地がまったくないのである。

自分にとって明らかではないことに関しては、言霊思考が割り込んでくるのである。未来の希望などは、未来のことなので、まだ自分が、一倍速で経験したことではない。だから、空想の余地がある。

他人のことなら、自分が、一倍速で経験したことではないので、経験を理解するということが、不十分なのである。自分の経験ではないので、思考でカバーしなければならない。状態や、理由を、思考でカバーしなければならなくなるのである。

自分が一倍速で経験したことではないので、自分にとって、「理由」や「感情の流れ」があきらかではないのである。言霊主義者が、「他人の理由」や「他人の感情の流れ」を空想で、おぎなって、理解するのである。

つまり、解釈に余地がある。

「他人の理由」や「他人の感情の流れ」を理解するとき、理解度が、人によってちがうのである。

言霊主義者は、自分勝手で、自己中心的な思考をしてしまうので、「他人の理由」や「他人の感情の流れ」をうまく理解できないところがあるのである。

ようするに、「他人の話」を聞いて、「どういうことが起こったか」解釈しなければならないのだけど、解釈するにしろ、それは、「自分の経験ではない」ということが、最初から決まっているので、他人事なのである。

自分のことではないので、解釈の余地がしょうじるのだけど、この解釈の余地がしょうじたときは、言霊思考になってしまうのである。

「小便をしたくない」と言えば、小便をしたくなくなるのである。しかし、その場合も、けっきょく、死なない場合は、近い未来のある時間に、小便をするのである。

小便を我慢することができるのだけど、我慢は、体には悪いので、我慢のしすぎには注意しよう。

「小便をしたくないと言ったら、なんとなく、小便をしたくないような気持になり、我慢できた」ということを、言霊主義者が言ったとする。「けど、どのみち、小便をしたんでしょ」と言いたくなる。

体のしくみがある。からだのしくみの範囲内のことを、やっただけなのである。

尿意をがまんするということは、別に、「小便をしたくない」と言わなくても、できることだ。からだのしくみによって、最初からできることなのである。それを、「言霊の成果」のように言ってしまうのが、言霊主義者だ。

自分の経験について語っている場合は、体のしくみによって、可能なことが、多い。

そして、ストレス対抗期間内のことが多い。

しかし、それは、体のしくみによってできたことであって、言霊の力によってできたことではないのだ。「なんとなく、そういう気分になった」ということは、言霊の力ではなくて、言葉の力だ。

言霊の力と、言葉の力というのは、峻別しなければならないのである。そうしないと、「言霊」と言われているものの正体がわからなくなる。 

まあ、言霊主義者は、言霊の力で、瞬間移動できるので、満員電車の中にいるときは、なにか、ほかの理由で、満員電車の中にいるのだろう。

まさか、通勤のために、乗りたくもない満員電車に乗るなんてことは、ないと思う。言霊主義者は、言霊の力を使えるので、そんなことは、しない。

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小便を我慢しすぎて、膀胱が破裂した人が実際にいるので、バカなことはやめましょう。

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自分の感情に関することは、「なんとなくそういう気分になる」とか「なんとなくそんな気がする」ということがある。とりあえず、「気分類」と言っておこう。

実際にそうなるということを、とりあえず、「実体類」と言っておこう。

その場合、気分類と実体類には差がある。

よく、言霊の説明で、「気分になる」というのがでてくる。「眠たくない」と言ったら「眠たくなくなった」と言うような話である。「眠らない」と言ったら、眠らずにすごすことができた……だから、言霊は真実だと彼らは言いたいのである。

けど、「眠らない」と言ったあとも、言ったあとのどこかの時点で、けっきょくは、眠るのである。死ななければ……。「眠らない」と言ったあと、しばらくのあいだは、起きていたということにすぎない。

「眠らない」と言ったあと、実際には、眠っているのである。

「眠らない」と言ったあと、実際には「眠った」のである。生きていれば……。 

「眠らない」ということに関しては、気分類であって、実体類ではない。

しかし、言霊主義者は、気分類と実体類の区別をしていないので、気分類の例で、実体類を説明しようとする。「言えば言ったことが実体化する」ので、気分類と実体類の区別をしていない。

つまり、言ったことの内容には、気分類と実体類が含まれているのである。

気分類で成り立ったことは、実体類でも成り立つと……言霊主義者は無意識に……仮定しているのである。

しかし、言霊主義者にとっては、仮定ではなくて、事実なのだ。せめて、仮定しているだけだということに、気がついてくれればよいのだけど……。

これが、やっかいなところだ。ここでも、言霊主義者は、一〇〇%詐欺をして、法則性詐欺をしている。

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相手も「気分類」なら、できることなのである。気分類は、一倍速で体験可能なことであり、体のしくみに依存しているものであり、ストレス対抗期間内のことだ。

しかし、相手の状況や相手の状態をまったく理解していない言霊主義者は、相手に対して「実体類」であることを、おしつけるのだ。

おしつける根拠は、自分が気分類で体験したときは、言霊の力で乗り切ったと思っているからだ。

実際には、言霊の力で乗り切ったわけではないけど、ストレス対抗期間内に、言霊的な対処をしたので、言霊的な対処が「どんな場合でも」有効だと誤解をしている状態なのである。

言霊的な対処と書いたけど、これは、言葉による対処だ。

まるまるというような気分になった。「アファーメーションをした」「言葉で気合を入れた」ということだ。

これらは、言霊の力で現実化されたことではないのである。

そして、気合を入れるにしろ、身体がかかわっている。身体のしくみがかかわっている。身体のしくみをこえたことは、できないのである。

言霊主義者は、誤解をして、相手にむりなことをおしつけることがある。言霊主義者の「助言」というのはあ、相手に、むりなことをおしつける内容であることが多い。

相手の状態を推し量ることが、苦手なのである。相手の状態が、わからないので、「気分類」を根拠にして、言霊が永遠の真理だから、言霊的な助言が相手にも役に立つと思っているのだ。

しかし、実体類に関係することは、言霊主義者・本人だって、言霊で問題を解決することができないのである。

ここがまったくわかってないないのが、言霊主義者だ。 

 

 

2025年6月28日土曜日

●うーーん。じつに、おもしろくない■騒音※2025/06/28 16:45

うーーん。じつに、おもしろくない。おもしろくない。まあ、あたりまえだよなぁ。みんな、長期騒音のことが、わっかていない。あれがどういうことなのかわかっていない。あそこから、ずっと陸続きだ。

気分というのは、やはり、人生のなかで発生した出来事と関係がある。関係なしに「楽しい楽しい」と言ったって楽しくなるわけじゃない。ものすごく楽しくないやつらが「楽しいと言えば楽しくなる」などと言う。

楽しくない。

そいつらの人生のなかで起こったことは、俺よりもましなんだよ。連続という意味ではね。余裕のある人が「俺だって苦労した」と、ドヤ顔で言う。

こいつらは、きちがい家族のきちがい的な騒音なんて経験してない。うちのなかで、きちがい家族がどういうふうにふるまうのか、まったくわかってない。だったら、同レベルの苦労なんかじゃない。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、猛烈に不愉快なのに、わかっていないやつらが、ろくでもないことを言ってくる。もっと、不愉快になる。そういう毎日の連続で、いいはずがない。 

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あーーあ。もう、俺、つかれたなぁ。土曜日の午後5時6分かぁ。きちがいヘビメタががんがん鳴ってたなぁ。言っておくけど、 「楽しいと言えば楽しくなる」と言う人も、「楽しいと言えば楽しくなる」とドヤ顔で言う人の家族も、みんなみんな、きちがい兄貴とはちがうのである。

だから、気ちがい兄貴みたいに、「ものすごい音」で鳴らそうと思わない。普通に、「迷惑だからやめておこう」ということになる。

ところが、きちがい兄貴は、きちがいなので、それがわからない。そして、もしわかっているのだとしたら、「迷惑だから鳴らせない」ということが、いやなのだ。自分が、鳴らせなくなるのがいやなのだ。だから、うちでだけ、そのリミッターをはずしてしまう。きちがい秋にしたって「よそ」では、リミッターがついている状態なのである。この家は、きちがい親父が作った家だから、きちがい親父みたいなことをしてもいいという、暗黙の認識がある。そりゃ、きちがい親父が、きちがい行為をしているときは、きちがい親父だって、ほんとうなら、わかることを、わからないようにして、やってしまうわけだから、そうなる。だから、無意識的にはやってはいけないことだとわかるので、無意識的なレベルでやっていいことにするために、無意識的なベルで「やってない」ということにしてしまうのである。ほんとうは、でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らすために、無意識的なレベルで、この音は、鳴らしていい小さな音だと認識してしまうようにしてしまうのである。これが、どれだけ言われても、本人がそうしているつもりがない状態なので、無意識な催眠術にかかったような感じで、やってしまう。ようするに、ものすごくでかい音で鳴らしているのだけど、でかい音で鳴らしているということが、まったく頭に浮かばない状態になってしまうのである。どうしてそうなるかというと、「やってはいけない音で鳴らしたいから」だ。そういうきちがい構造をもっている人と、一緒に住んだことがない人は、当然、そういうきちがい構造をもっている人が鳴らす騒音というものを、聞いたことがないのである。そういうきちがい構造をもっている人が、普段、鳴らす騒音というものを経験したことがないのである。当然、一日のなかでも、実際の影響がどのようなものになるかわからない。つたない想像力で想像するしかないのである。自分のことだと、わかるのに、ほかのひとのことだと、とたんにわからなくなるやつらがいる。あるいは、単に経験がないから、見積違いをしてしまう。影響の度合いについて、まちがった考え方をもってしまう。けど、影響の度合いについて、まちがった考え方をもっている」とぼくが、その人たちにどれだけ説明しても、そいつらは、腹をたてて、認めないのである。腹をたてたいのはこっちなんだよ。きちがい兄貴の無意識的な問題が、そのような事態を引き起こしているのである。そして、きちがい兄貴が、夢中でやっているにもかかわらず、まったくやってないつもりのままだから、問題がでかくなるのである。これは、普通の人が、普通に設定している……自分がやっていることは、自分でわかるはずだという考え方を、裏切るものなのである。ようするに、きちがい兄貴が、「よそのいえ」では、鳴らせないような音で、ガンガン、自分のヘビメタを鳴らしたいと思ったとする。そうすると、無意識的なレベルで、変換をしてしまうのである。変換が必要なのは、「よそのいえ」では、絶対に鳴らせないようなでかい音で鳴らしたいから、なのである。けど、その過程が、無意識的な過程だから、意識的なきちがい兄貴の意識には、一切合切のぼってこないのだ。だから、ここにはずれがあるのだけど、きちがい兄貴は、そのズレがわからない。そして、きちがい兄貴だけではなくて、ドヤ顔で「言ったことが現実化する」「楽しいと言えば楽しくなる」と言っている人たちも、そのズレがわからないのである。まったくわかっていないのである。

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ともかく、ずっと、ずっとずっと、四六時中鳴らされていたので、ほんとうにつらかったよ。そのつらさというのが、「現在進行形で」何時間も何時間もずっと続いてしまうのだから、何時間も何時間もずっと続いてしまうということの、影響をうけるのである。そして、これは、事実であり、実際の出来事だ。だから、不可避的に、自分の身体に影響をあたえるのである。不可避的に、自分のこころに影響をあたえるのである。これらの影響を無視して、「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるかというと、楽しくならない。影響を無視したって、影響があるので、「楽しい楽しい」と言ってみたところで、ぜんぜん楽しくならないのである。

けど、ドヤがの連中は、自分が、俺(エイリ)と同レベルの騒音生活を一倍速でおくったことがないので、それが、経験としてわからない。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつらが、どれだけ「自分だって苦労した」と言ったって、それは、たいした苦労じゃないということがわかる。絶対に「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っていられなくなる。

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この、ヘビメタ騒音の影響を認めないというのが、きちがい兄貴とドヤ顔・言霊主義者でおなじなのである。そりゃ、ドヤ顔・言霊主義者は、兄貴じゃないから、逸脱行為をしないのだろう。ドヤ・顔言霊主義者は、実際に俺の横で、ものすごくでかい音で、騒音を鳴らし続けたわけじゃない。それは、わかる。しかし、ヘビメタ騒音の影響を認めないというのが、きちがい兄貴とドヤ顔・言霊主義者でおなじなのである。 

●「つかれをためて死ねばいい」と言っているのとおなじだ■言霊※2025/06/28 8:15

「もう、むりだ」と言っているのに、「できると言えばできる」と言い、「今現在に集中すればできる」と言うのだから、「つかれをためて死ねばいい」と言っているのとおなじだ。「むりをして、つかれはてて、死ねばいい」と言っているのとおなじなのである。

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たとえば、条件をよさを一段階目から一〇〇段階まで考えたとする。一段階目が、一番よくて、一〇〇段階目が、一番悪いということにしておく。そうすると、八〇段階目の人は、普通よりも、悪い条件だということになる。

ところが、八一段階目の人よりは、条件が相対的によいのである。そうなると、八〇段階目の人は、八一段階目の人には「できると言えばできる」「今現在に集中すればいい」「目の前の作業に集中すれば、できる」とえらそうにいうのである。

かりに、八〇段階目の人も、「できると言っても」できないことがいっぱいある。

いっぱいあるのだけど、ほかの人には……「できると言えばできる」と言ってしまうのである。いい格好をしたいのである。「自分は、できるできると言ったら、できるようになった」と威張りたいのである。そういうレベルの人間なのである。

けど、七九段階目の人には、「できると言えばできる」「今現在に集中すればいい」「目の前の作業に集中すれば、できる」とは言えない。立場がある。

今度は、七九段階目の人が八〇段階目の人に「できると言えばできる」「今現在に集中すればいい」「目の前の作業に集中すれば、できる」と言うわけよーー。

そうやって、上から下へ、圧力をかけていく。そうなると、条件が悪い人は、自殺してしまう。

たとえば、九九段階目の人や一〇〇段階目の人は、どれだけ、目の前のことに集中してがんばっても、むりがたたって、死んでしまう。むりなことを、やらせるための言葉なんだよ。なんで、わからないかな?

 

2025年6月27日金曜日

●「今現在に集中しているあいだに、沼に沈んでしまえばいい」「ゆでガエルになればいい」■言霊※2025/06/27 12:09

 今現在に集中しているうちに、沼に沈んでしまうのである。今現在に集中しているうちに、ゆでられてしまうのである。なんで、これがわからないのか?

今現在に集中していると、疲労が蓄積してしまうのである。

はっきり言えば、「今現在に集中すればいい」と他人に説教するやつは、自分がいいことを言ったと思っていると思うけど……実際には、言われた相手がくるしむことを言っている。

「ゆでガエルになればいい」「今現在に集中しているあいだにゆでられればいい」と言っているようなものなのである。

「今現在に集中しているあいだに、沼に沈んでしまえばいい」と言っているようなものなのである。そして、最後に「すべては、自己責任」と言って、ゆでられた人や、沼に沈んでいった人を、悪く言うのである。

自分が、不幸をもたらす助言をしたということには、一切合切、責任を感じない。

そもそも、責任を感じないのだから、自己責任だとは思わないだろう。自分の助言を聞いて、沼に沈んだ人の人生や……自分の助言を聞いてゆでガエルになった人の人生なんて、自分にはまったく関係がないと思っているのである。

そりゃ、言った責任を感じないのだから、自己責任なんて感じようがない。

「すべては自己責任」という言葉は、悪い環境のなかで、がんばった人に、向けられる言葉でもある。そりゃ、ほんとうに「自己責任である」場合もある。

その人の責任だということだ。

けど、条件わけが必要なのだ。

場合わけが必要なのだ。

それを「すべては」と言って、条件を無視してしまう。場合わけを無視してしまう。

むしろ、条件を無視した発言をしたということに、責任を感じるべきだし、場合わけを無視した発言をしたということに、責任を感じるべきだ。

ともかく、この世では、条件が悪い人が、めちゃくちゃに悪く言われるのである。そりゃ、普通の人が条件を無視して、その人が不幸になったのは、その人のせいだということを言うわけだから、条件が悪い人はたまったものじゃない。

「今現在に集中すればいい」も「できると言えばできる」も、どっちも、条件が悪い人を、自殺に追い込むための言葉だ。

けど、自殺に追い込むように、「今現在に集中すればいい」「できると言えばできる」と洗脳設計者は言わない。

ちゃんと一般人が、「いいことだ」と思うようなしくみをつくりだしている。けど、「いいことだ」と思って「助言をしてあげるつもりで言った」のに「悪い結果」を招来するのである。

ちゃんと、悪い結果が出てくるように、最初から設計をしている。こういう言葉をはやらせた人たちではなくて、こういう言葉をはやらせることを計画した人たちが、ちゃんと、悪い効果が出るように、計画をたてたということだ。


●言霊にはそんな力がないから、解決しない■言霊※2025/06/27 7:25

「言えば、言ったことが現実化する」という考え方と「すべては、受け止め方の問題である」という考え方を両方もっている人がいるのだ。

たいていの、精神世界の人は、両方とも持っている。両方とも、正しいと思っているのだ。

しかし、それは、意識の変遷……あるいは、意識の集中という問題があるから、両方とも正しいと思っていられるだけなのだ。

「言えば、言ったことが現実化する」と言っているときは、「すべては、受け止め方の問題である」というような考え方は、意識にのぼらない。

逆に、「すべては、受け止め方の問題である」と言っているときは、「言えば、言ったことが現実化する」というような考え方は、意識にのぼらない。

問題なのは、こういう人が多いと、条件が悪い人が、くるしむということだ。

たとえば、ものすごく性格が悪い親がいるとする。ものすごく性格が悪い親が、子どもをきちがい的な理由でいじめたとする。

その場合、精神世界の人は、子ども側の人に「言えば、言ったことが現実化する」とか「すべては、受け止め方の問題である」ということを言うのである。 

「言えば、言ったことが現実化する」というのは、けっきょく、「言えば、解決できる」ということなのである。「言えば」……きちがい的な親の性格がよくなり、きちがい的ないじめをうけなくてもすむということになる。

「言う」という解決方法があると言うのだ。

しかも、それが、効果てきめんで、かならず、解決するということを言う。

しかし、子ども側の人が言ったところで、解決しない。

言霊にはそんな力がないから、解決しない。

しかし、精神世界の人は、「言い方が悪いから現実化しない。もっと、こころをこめて言えば解決する」というようなことを言う。ようするに、「言い方が悪いんだよ」ということだ。

ほんとうは、言霊の力がないから、解決しないのに、「言い方の問題」にしてしまうのだ。

言霊の力がないので、子ども側の人が言っても、解決しないのだ。

ようするに、解決しないことが約束された解決法なのだ。

勘違いしてもらいたくないのは、言葉の力はあるから、ちょっときちがい的な親が、あるていど正常な部分をもっていれば、たしかに、「言葉で説明したことがとおる」ことがある。

それは、言霊の力で、そうなったのではなくて、言葉の力でそうなったのだ。

言霊の力の場合、相手がいないところで、言ってもそうなるのだけど、言葉の力の場合は、相手がいないところで言っても、たいていの場合は、どうにもならない。

相手がいなくても、ほかの人がいて、ほかの人が、子ども側の人がこう言っていたと、親に伝えたら、親が考え方を改める場合も、あるかもしれないので、「たいていの場合」と書いておいた。

しかし、たいていの場合、きちがい的な親は、考え方を改めないのである。きちがい的な親は、きちがい的な人間なので、自分がやっていることを、ちゃんと認識していない場合が多い。

これは、問題となる認知が行動にあらわれるときの「でかた」によるけど、そもそも、やられている側の人の認知と、やっている人の認知がちがうのである。

本人がやっていないつもりなら、やっていないつもりだから、改めようとは思わない。

そして、問題行動をしている親が、考え方を改めよるように、「努力」した場合も、けっきょくは、その努力が、きちがい的な理論やきちがい的な感覚にまみれたものになるから、子ども側の人が、よけいにくるしむことになってしまうのだ。

言霊的な解決方法をこころみても、子ども側の人間が、さらにくるしむ確率が非常に高い。

いったい、正常な家ですごした人が、きちがい的な親の認知や行動や感覚を、どれだけ理解できるだろうか。たいへんに、疑問だ。

正常な親の姿しか知らない人が、考えられないような行動を(きちがい的な親は)するのである。しかも、それ(親が実際にやった問題行為)は、親の性格によって、無視されるのである。

ようするに、普通の人が考えられないようなことをするのだけど、親本人には、自分が普通の人が考えられないようなことしたという認知がないのだ。

だいたい、うちの親のように「やったってやってない」が普通に成り立つ親だっている。あれは、ほんとうに、発狂しているときは、発狂して言っていることが、正しいと思っているのだ。

だから、一般人は、そんなのはおかしいと思って、子ども側の人が言うことを、信じない場合がある。

「ちゃんと言えばわかってくれる」というのは、一般人側の、信念なのだ。そんなことが成り立っていたら、苦労しないのだ。きちがい的な親にやられていた人は、「ちゃんと言えばわかってくれる」ということが成り立っているなら、苦労はしていない。

きちがい的な親に、どれだけちゃんと言っても、きちがい的な親が、きちがい的な態度で、きちがい的なことをするので、こまっているのだ。一般人は、一般人で、それがまったくわかってない。

『子ども側の人が(親の行動や行動の意図を)誤解をしている』と、一般人は考えてしまう。

しかし、それに関して言ってしまうと、一般人こそが誤解をしているのだ。

ともかく、言霊の力は、ほんとうは、ないので、「言ったあと」にほかの理由で、親側の考え方がかわる場合を除いて、親側の考え方がかわるということはない。

態度も行動もかわらない。

言霊主義者は「言ったあと」と「言ったから」を積極的に誤解している。誤認識が成り立っている。そして、言霊主義者は「言葉の力」と「言霊の力」を積極的に誤解している。

だから、「言えば、言ったことが現実化する」と信じることができるのだ。しかし、今まで説明したように、「言えば、言ったことが現実化する」というのは妄想だ。妄想を妄信しているだけなのである。

きちがい的な親にやられてきた人と、きちがい的な親の間には断絶があるのだけど、じつは、きちがい的な親にやられなかった人と、きちがい的な親にやられてきた人の間にも、断絶がある。

そして、きちがい的な親にやられなかった人は、この断絶に気がつくことがないのである。 


2025年6月26日木曜日

●「言ったことが現実化する」のだから「受け止め方の問題」ではない■言霊※2025/06/26 0:48

 言霊主義者であって、「受け止め方の問題だ」と考えている人も、矛盾している。

言霊の力をつかって、相手の受け止め方をかえることができるからだ。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。

Aさんは言霊主義者なのだけど、Bさんに「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言ったとする。

「相手をかえようとしても、むだなので、自分がかわるしかない」などということを、AさんはBさんに言うのである。言霊主義者のAさんは、言霊で相手を、いかようにでも、かえられるのである。

それなのに、「相手をかえようとしても、むだだ」と思ったのは、どうしてだろうか。Aさんは、Bさんの受け止め方を、言霊の力で、かえることができるのである。

そして、Bさんをこまらせている相手がCさんだとする。

その場合も、Aさんが、言霊を使って、Bさんの考え方にあわせて、Cさんの考え方をかえてあげれば、それで、Bさんの問題は解決する。

Bさんに「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言う必要はないのだ。

Aさんが言霊主義者の場合、「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」とBさんに言うのではなく、Bさんに「言霊の力を使って、Cさんの性格をかえればいい」と言うことだってできるのだ。

言霊理論が正しいなら、Bさんが「Cさんの性格が、自分(Bさん)を、こまらせない性格にかわる」と言えば、Cさんの性格が、自分(Bさん)を、こまらせない性格にかわるのだから、それで、Bさんの問題は解決するのである。

Bさんの受け止め方をかえなくても、……言霊の力を使って、Cさんの性格をかえれば……Bさんの問題は解決する。

*     *     * 

だいたい、言霊主義者は「言霊は絶対だ」と言っているのだから、言霊に関しては、自分の受け止め方以外の受け止め方を、認めていないのである。言霊に関する、自分がもっている受け止め方以外の受け止め方を、認めていない。

*     *     * 

「すべては、受け止め方の問題だ」と言うけど、言霊の問題は受け止め方の問題ではないのである。「すべては、受け止め方の問題だ」と考えているということは、言霊に関しても、受け止め方の問題だと考えているということを、暗示しているのである。

なので、「言霊は絶対だ」という考え方と「すべては、受け止め方の問題だ」という考え方は、相互に矛盾している。

*     *     *

ようするに、Aさんは、言霊の力を使って、Bさんの受け止め方や、Bさんの話のなかに出てくるCさんの受け止め方をかえるとができるのだ……。言霊理論が正しいなら……。しかし、実際には、「言霊の力を使って、人の考えをかえることはできない」と思っているので、Bさんには「すべては、受け止め方の問題だから、Cさんの考え方にあわせて、自分の受け止め方をかえればいい」ということを、言ってしまう。言霊理論が正しいなら、こんな助言は、そもそも必要がない。

Aさん自身が、「言えば、言ったことが現実化する(これは、絶対に正しい)」と思っていて……なおかつ「人はかわらないので自分をかえればいい」とか「人のことはかえることができないので、自分の受け止め方をかえればいい」と言うこと自体が、不自然なのである。

なんでなら、言霊の力を使って、人のことをかえられるし、人の受け止め方もかえることができるからだ。

今回の例に関して言うと……Aさんは、Bさんの受け止め方も、Cさんの受け止め方も、自由にかえることができるのである……。言霊理論が正しいなら。言えば、Bさんの受け止め方も、Cさんの受け止め方も、自由にかえることができる。

そして、Aさんは、Bさんの性格も、Cさんの性格も自由にかえることができるのである……。言霊理論が正しいなら……。

さらに、Bさんは、Cさんの性格を自由にかえることができるのである……。言霊理論が正しいなら……。

ところが、Aさんは、Bさんに、「Cさんの性格をかえることは、Bさんにはできないので、Bさんの受け止め方をかえればいい」と助言するのである。矛盾しているだろ。

そして、このことは、Aさんが、ほんとうは、言霊理論を信じていないということを意味しているのである。

Aさんは、「言霊は絶対だ」と言っているのに「すべては、受け止め方の問題だ」とも言っているのである。これも、おかしな話だ。

「言えば、言ったことが現実化する」のであれば「すべては、受け止め方の問題だ」と考えること自体がおかしいのだ。

「言ったことが現実化する」のだから「受け止め方の問題」ではない。

*     *     *

「すべては受け止め方の問題だ」と言っているときは、言霊なんて、まったく信じていないのである。言霊の力もまったく信じていない。言霊も言霊の力も、まったく信じていないから、「すべては受け止め方の問題だ」と言いきることができるのだ。

そして、逆に……「言霊は絶対だ」と言っているときは「すべては受け止め方の問題だ」とは、まったく考えていないのである。ぜーーんぜん、考えていない。 「すべては受け止め方の問題だ」と自分が言いきったことを、忘れてしまう。

ぜんぜん、考えていないのである。まったく矛盾を感じないのである。 

*     *     *

すべては受け止め方の問題だから、言えば現実化するなんてことは、関係がないのである。すべてが受け止め方の問題だからだ。受け止め方をかえればいいのである。言うことで、現実をかえようとしなくても、すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればよいのである。

逆も、嘘なり。嘘に嘘を重ねている状態なんだよな。

逆の場合でも、矛盾している。 

2025年6月25日水曜日

●親父と兄貴がまったくおなじ■騒音※2025/06/25 13:21

 ほんとうに、ヘビメタ騒音で「ひとりになって」しまった。ほんとうに、ヘビメタ騒音で人間関係、ぼろぼろ。ぼろっぼろ。きちがい兄貴のような家族にやられてない人は、そうなる必然性がわからない。そういうやつらは、俺がきちがい兄貴のせいにしていると言うのだろう。これは、きちがい兄貴のせいじゃないのに、きちがい兄貴のせいにしているという意味だ。これも、ぜんぜんちがうのに「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」「元気だ元気だと言えば元気になる」「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」などと言っているやつらには、わからないことだろう……と思う。みんな、実生活のなかで、一倍速でやられてないから、やられた体で他人とつきあうということが、どれだけたいへんなことかわかってないんだよね。やられていなければ、普通に問題なくできたことなんだよ。全部に影響がある。きちがいヘビメタ騒音は、全部に影響がある。きちがい兄貴はきちがいだから、まったくなにもやってないつもりなのだ。けど、自分が、一〇〇やりたければ、絶対の意地で一〇〇、やって、一だって、ゆずらない。小数点を出して言ってもしかたがないけど、〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一だって、ゆずらない。けど、きちがい親父おなじように、きちがい兄貴は「ゆずってやったゆずってやった」と言うのだ。入試のときだって鳴らしていたのに、なにを言っているんだ? これ、ほんとうに、きちがい兄貴の頭と、きちがい親父の頭がおなじなのだ。ほんとうに、そっくり。〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一だって、ゆずらなければならなくなったら、発狂してしまうのだ。一〇〇にこだわる。一〇〇のうちの、一〇〇にこだわる。けど、一〇〇やりきれれば、まったくやっていなつもりになれるのだ。これが、きちがい脳なんだよ。親父と兄貴がまったくおなじ。きちがい的な意地で、ゆずらずにやっているのに、それがまったくわかってない。どれだけ、もめても、俺がこまっているということが、まったくわからない。本来なら、鳴らしてはいけないようなでかい音で鳴らしているということが、一五年間の間、ずっと、毎日わからない。けど、兄貴の嫁さんと、兄貴がマンションに住むようになってから、鳴らさないのだ。こういう、きちがい。こういう無意識。

●絶対に、「鳴り終わったら関係、ない」なんて、言わない■騒音※2025/06/25 6:38

 ヘビメタ騒音の切羽詰まった状態というのが、並じゃないんだよな。破裂しそうな気持をもって、歩いていた。学校に向かっていた。学校に向かって歩いているとき、もちろん、ヘビメタ騒音が鳴っているわけではない。きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、前の日の夜になり終わった。あるいは、その日の朝、家を出る時まで鳴っていたけど、家から離れたので、聞こえない状態だ。けど、じゃあ、鳴り終わったから関係がないかというと、そうではないのである。これ……「鳴り終わったら関係、ない」と言ったやつを、ぶっ殺してやりたい気分になる。そんなもんじゃないのである。そんなもんじゃないということがわかってないということは、ぼくとおなじようなレベルの騒音を経験したことがないということなのである。きちがい家族が鳴らす、きちがい的なレベルの騒音を経験したことがないということなのである。けど、こういうやつだって……口を開けば「俺だって騒音ぐらいあった」と言う。「俺だって苦労した」と言う。「俺だって憂鬱なときはある」と言う。けど、ちがうんだよね。おなじことを経験した人が、そんなことを言うはずがない。「鳴り終わったら関係がない」と言ったあとに「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だって苦労した」「俺だって憂鬱なときはある」と言うのだ。そんなことは、ありえない。レベルがちがうんだよ。経験したことがちがうんだよ。おなしレベルをことを経験した人が「鳴り終わったら関係、ない」なんて、絶対に言わない。きちがい家族の、ものすごい騒音を毎日聞かされたことがない人だけ「鳴り終わったら関係、ない」と言う。もう、それでバレバレなんだよ。ぜんぜんちがうことを経験したんだよ。絶対に、「鳴り終わったら関係、ない」なんて、言わない。

*     *     *

しかし、絶対に、「鳴り終わったら関係、ない」と言ったやつが、認識を改めたとしても、ぼくの側の崩壊は、とまらない。どれだけ切羽詰まった気持ちで、歩いていたか。学校の椅子に座っていたか。切羽詰まった気きもちと書いたけど、ほんとうに、並じゃないのである。それは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音でつくられたもなのである。ほかのことで、そうなっているわけじゃないのである。

ともかく、やられちゃったので、不可避的にこういう状態になった。切羽詰まった気持ち、怒り、憂鬱、不安……。ほんとうに、並じゃないのである。ギリギリ限界なのである。そりゃ、普通の気持ちは死んで、異常な気持が生まれるだろう。憂鬱の憂鬱が、並じゃない。会社に行くときは憂鬱で憂鬱でしかたがないけど、旅行に行くときは楽しくて楽しくてしかたがない……そんなやつが言う、憂鬱とはちがうのだ。ところが、そういうやつだって「憂鬱で死にたい気持ちになった」と言うのだ。「自分だって、憂鬱な気持で電車に乗っていた」と言うのだ。そりゃ、そうなんだろうけど、ちがうよ。 

2025年6月24日火曜日

●けど、これが、ほかの人にはわからないのである■騒音※2025/06/24 23:34

一〇年先のことは、一〇年たったら、考えよう。

それにしても、だれに言ってもわからない気持ちがある。ほんとう、普通だったら楽しいところに行く場合、楽しくなるのだけど、ぼくは、死にそうなほど憂鬱になるのである。内見の話じゃない。ともかく、みんながレジャーとしていくようなところに行くことを考えた場合、ものすごく憂鬱になるのである。どうしてかというと、ヘビメタ騒音の毎日があったからだ。ヘビメタ騒音の毎日は、ほんとうに地獄の毎日だった。あれで、気にしないようにして生きるということはできない。そりゃ、どうしたって影響をうける。そして、昨日の夜、鳴らされた場合でも、次の日の朝、ものすごく憂鬱なのである。その気持ちを、おさえて、行動していた。そのめちゃくちゃにつらい状態を、こらえて、起きて、行動していた。けっきょく、そういうことを毎日続けたことが、普通なら楽しい場所に行くときも、強烈に憂鬱になるという状態をつくりだした。けど、これが、ほかの人にはわからないのである。 

●矛盾を感じないから、「言ったことが現実化する」と信じているだけなのである■言霊※2025/06/24 2:06

 言霊主義者は、朝起きたとき、どれだけのことが発生したか、思い知るべきなのである。自分が言わなかったことが、いっぱい、いっぱい、発生している。

自分が言わなかったのに、発生したんだぞ。

地球の裏側で、いろいろなことが起こった。そのひとつひとつについて、まったく、言霊主義者は発言していないのである。発言しなかったのである。それなのに、地球の裏側で、いっぱい、いっぱい、いろいろなことが発生した。

地球の裏側どころか、自分の街のありとあらゆることについて、言わなかったにもかかわらず、自分の町のなかで、いろいろなことが発生したのである。

じゃあ、普段、言霊主義者は、土のなかの出来事について、どれだけ、発言するのか。「ミミズがこういうふうに動く」と言わなければ、ミミズがこういうふうに動くということが、現実化しなかったのである。

言霊理論にしたがえばそうなる。

「ミミズがこういうふうに動く」と言わなかったのに、ミミズがこういうふうに動いたということが、現実化してしまうのであれば、言わなかったことも現実化するということなのである。

一匹のミミズだけではない。

おびただしい数の、土のなかに住む奇妙な生物についても、いちいち、だれかが言及しないと、土のなかに住む、おびただしい数の奇妙な生物が、その通りに、動かないのである。

だって、言ったことが現実化すると言っている。

言霊主義者は、言ったことが現実化すると言っているのだ。

おびただしい数の細菌が動いたなら、おびただしい数の細菌について、言霊主義者が、事前に発言していなければならないのである。そうじゃないと、細菌だって動けない。細菌だって、増えない。

地球の裏側どころか、自分の家の、庭のことまで、全部、言われなければ、そうならないのである。言霊主義者が、知らないうちに、その言霊主義者の庭に、雑草がはえた。「ここに雑草がはえる」と言わなくても、雑草がはえた?

なぜか?

言霊の力とは、関係なしに、物理的な力が働いて、雑草がはえたのである。そして、言霊主義者は、雑草が実際にはえて、自分が気がつくまで、雑草についてはなにも考えなかったのである。つまり、雑草についてなにも言わなかったのである。

ある言霊主義者が、道を歩いていたとき、道端に花が咲いているのを発見したとする。「ああっ、こんなところにも、花が咲いている」と言霊主義者は思って、うれしい気持ちになった。

ところで、「ここに花が咲く」と事前に言わなかったのに、どうして、花が咲いたのか? 

おかしいじゃないか。

「だれかが、咲く言ったから咲いたんだろ」と(言霊主義者は)言うかもしれない。しかし、言霊主義者は、ほんとうは、自分が言ったから、自分が言った通りになる(はずだ)と考えているのである。

「明日は雨になる」と自分が言ったから、実際に雨になったと、考えるのである。ほんとうは、「自分」なんだよね。

だから、「自分が言わなかったこと」が現実化していることを発見したときは、おどろかなければならない。ところが、まったく、おどろかないのだ。

「自分が言わなくたって、現実化する」と思っているから、道端の花のことまでは、言わない。それでは、「自分が言わなくたって、現実化する」と意識的に思っているのかというと、そうではないのである。

意識的には「自分が!言ったことが現実化する」と思っているのである。地球の裏側で起こることについてなにも言わなかったのに、地球の裏側で、いろいろなことが起こっている……。起こった。

地球の裏側どころか、隣町のことについて、自分が、まったくなにも言わなかったのに、隣町の人たちがいろいろなことを、した。隣町どころか、自分の庭でも、自分が言わなかったことが、いっぱい、いっぱい、起こっている。起こった。

ようするに、矛盾を感じないから、「言ったことが現実化する」と信じているだけなのである。

つまり、「自分が言ったから、現実化した」と言霊主義者が考えることは、ものすごく、限られていることなのである。

自分の意識がそこに集中しないと「こうなる」ということを言えず、「こうなる」と言ったことが、言ったあとに、現実化しないと「言霊は正しい」と思わないのだ。

そして、自分が言わなかったことが現実化していた場合は、自分が言わなかったのに、現実化したということに、疑問をもたない。これは、矛盾に気がつく思考力がまったくないということを意味しているのである。

庭に草がはえていたら、ごく普通に、「どこかから、雑草のタネがとんできて、土の上に落ちて、発芽して、草がはえた」と思うのだ。

「他人が言ったから、現実化した」「他人が言ったから、庭に草がはえた」と無理やり考えたとしても、ほんとうは、他人が言ったかどうかはわからない。

そして、人類が発生するまえに、「火山が噴火する」と……だれも言わなくても、火山が噴火したということになる。

人類が発生する前に、雨がふっていたとする。人類のだれかが「雨がふる」と言うまえに、雨がふっていたのである。

自分が「雨がふる」と言ったから、「雨がふった」と考えているのが、言霊主義者なのである。

自分が「明日、雨がふる」と言ったから「今日、雨になった」と考えるのが、言霊主義者なのである。 

「自分が言わなかったことでも、だれかが言ったので、そうなった」という理論は、人類が発生する前に起こったさまざまなことを考えると、簡単に否定できるものなのである。

どうして、海がある?

どうして、地球がある?

どうして、人類以外の生物が発生したのか? 

*     *     * 

実際、自分の町のことでも、無数のことが起こっており、その無数のことについて、だれかが言及した数は、少ないはずなのである。実際に起こったことの数にくらべて、自分や他人が言ったことの数が、少なすぎるのだ。

事前に言及されなかったにもかかわらず、自然界の物理的な活動によって起こったことは、無数にある。

そして、じつは、人間がかかわることでも、事前にだれかが言わなくても、発生したことが……たくさんあると言わなければならなくなる。

なにを一個とカウントするかの問題があるけど、無数にあると言っていいほど、多数のことが「だれにも言われなかった」にもかかわらず、現実化してしまっている。

*     *     * 

言ったことが現実化する……と言霊主義者が言っているときは、自分が言ったことが、現実化したということに、焦点があっているのである。そこに、意識が集中している。

ほかのことは、自分の身に起こったことですら、事前に、なにも発言されていなかったということに、気がつかない。

自分の身に起こったことですら、自分が言わなかったにもかかわらず、起こったことがたくさんあるはずなのに、それらのことは、簡単にガン無視してしまうのである。言霊主義者は、自分が言わなかったのに、たくさんのことが現実化したということに、気がつかない。

自分が言わなかったことが現実化していることを発見したとしても、『自分が言わなかったことが現実化した』とは、思わないのである。

どれだけ、欠陥のある思考か、わかるだろうか?

わからないのかな?

*     *     * 

言霊主義者は、「自分が言ったことが、現実化する」という意味で、この言葉を言っているけど、自分が言わなくたって、めちゃくちゃに多くのことが現実化しているのである。す

でに、現実化したのである。

ならば、自分が言わなかったことも現実化するし、だれかほかの人が言わなかったことも現実化するということを、認識しなければならないのである。ところが、「ヌケヌケ思考」なので、そういう認識をもつことがない。

*     *     * 

「言えば、言ったことが現実化する」という場合の主体は、第一義的には、「自分」なのである。

「自分」が言わなかったのに、すでに起こったこと……つまり、現実化したことについては、間に合わせ的に、「だれかが言ったから、現実化した」と他人を持ち出すけど、理論的な整合性はないのである。

矛盾については、間に合わせ的な思考で「これが正しい」とつぎはぎで考えているから、根本的な矛盾に突きあたらなくてすむのだ。

しかし、まちがっている。

言霊主義者は、実生活のなかでは、自分が言わなかったことが現実化しているということに気がつかなければならないのだ。

あるいは、自分も他人も言わなかったことが、現実化しているということに、気がつかなければならないのだ。

ところが、まったく気がつかない。

言霊主義者は『言えば、言ったことが現実化する。これが正しい』と思っている。言わなかったことが、現実化していることを突きつけられても、『言えば、言ったことが現実化する。これが正しい』と思っている状態がかわらない。

そして、言霊主義者が、「言えば言ったことが現実化する」と言っているときは、じつは、「言えば、現実化することもあるし、言っても現実化しないことがある」という意味をこめて「言えば言ったことが現実化する」と言っているのだ。

最初から、「言っても現実化しないことがある」ということを、言霊主義者ですら、無意識的には認めているのだ。

だから、あとだしで「言い方が悪いから現実化しなかったのだ」と「いいわけ」をすることができる。そして、その「いいわけ」が、理論的におかしいということに気がつかないですむ。

「言ったら、言ったことが現実化する場合もあるし、現実化しない場合もある」と言えばいいのに、「言えば、言ったことが現実化する」と言ってしまうのである。

これは、無意識的に、一〇〇%詐欺をしているということになる。

しかし、理論的に説明をされても、一〇〇%詐欺をしているということを認めないのである。ぼくが知っている範囲でいうと……一〇〇%詐欺について……ぼくが、ちゃんと理論的に説明してあげても、言霊主義者は、認めない。

言霊主義者は……言霊に関しては……理論的に考えることができないのである。理論的にまちがっていることは、理論的にまちがっているということを認めなければならない。

*     *     *

誤解を招くと、まずいので、ちょっとだけ言っておきたいことがある。「言ったら、言ったことが現実化する場合もあるし、現実化しない場合もある」と書いたけど、言霊の力によって、言ったことが現実化することは、絶対にない。

なぜなら、言霊も言霊の力もないからである。

言ったら、言ったあとに、ほかの理由で、言ったことが現実化する場合はあるけど、それは、言霊ではないほかの理由で現実化しただけだ。

ようするに、言ったあとに、ほかの理由で現実化した場合のことを、「言ったら、言ったことが現実化する場合もある」と(ぼくは)表現しただけなのである。


2025年6月22日日曜日

●だから、俺がうたがわれる。不可避的にうたがわれる■騒音※2025/06/22 23:20

 ほんとうに、ヘビメタ騒音の不利感が並じゃないのである。

ほんとうに、あんな音で鳴ってたのは、うちだけ。うちだけなんだよ。

俺の部屋だけ、きちがいの音で満ちていたんだよ。普通の音じゃなかったんだよ。普通の人が普通の家でやるような音……鳴らすような音じゃなかったんだよ。

きちがい兄貴もきちがい親父も普通の人じゃないけど、自覚がない。

普通の人は、きちがい兄貴がどういうふうにくるっているか、きちがい親父がどういうふうにくるっているか、まったくわかってない。

だから、俺が、不可避的に、いつも、誤解される。

「自分だって苦労した」と言っているやつだって、ほんとうは、きちがい家族と一緒に住んでいたわけじゃない。そのきちがい家族が、きちがい感覚で、自分がこの世で一番嫌いな音を、大音響で鳴らしていたわけではない。

ところが、「できると言えばできる」「眠れると言えば眠れる」「そんなのは、あまえだ」「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だって苦労した」と、無理解発言をする。こいつらも、無理解発言をしているという自覚がない。認識がない。

まったくない。

「差」がでかすぎる。そして、あんなにも長い期間、あんなにも長い時間、自分がこの世で一番嫌いな音を聞かされ続けたら、不可避的に、鬱になるのに、それがわからない。意欲がなくなるのに、それがわからない。つかれるのに……つかれはてるのに、それがわからない。ほかの人には、わからない。

わかっていないやつが、えらそうなことを言ってくる。これも、きちがいヘビメタ騒音とセットだ。そして、きちがい親父は、きちがい兄貴が鳴らしているときも、きちがいなのである。ほかの人が、信じないような反応をする。

だから、俺がうたがわれる。不可避的にうたがわれる。きちがい兄貴が鳴らしているとき、ほとんどの時間、きちがい親父はうちにいなかった。よりつかなかった。

だから、「きちがい兄貴が鳴らしているとき」というのは、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らしていた期間のことだとする。全体を通して、きちがい親父の、きちがい兄貴に対する態度がきちがいなんだよ。ほかの人がわかるわけがない。

だから、「そんなに鳴っていたら、絶対に家族が注意するはずだ。家族が注意しなかったのだから、そんなにでかい音で鳴っていなかったのだろう」というような推測はまちがっているのだ。

けど、これだって、俺が説明したって、まちがった推測をしている人は、わかってくれない。

●「今現在に集中すればいい」と助言するやつらは、それがまったくわかっていないのである■過去※2025/06/22 5:35

 「過去は記憶の中にしかない」とか「過去は記憶の中にしか存在しない」とかと言っている人たちは、「今現在に集中すればいい」という文脈で、これらのことを言っている場合が多い。

「今現在に集中すればいい」という文も、「すべては自己責任」という文とおなじように、条件がめちゃくちゃに悪い人を、せめる文なのだ。

条件が悪い人の条件をガン無視して、あたかも、「今現在に集中する」ことで、条件がめちゃくちゃに悪い人の状態を改善できるようなことを言うのである。

しかし、条件が悪い人が「今現在」に集中すると、条件がもっともっと悪くなるのである。はっきり言ってしまうと、この文は、条件が悪い人の首をしめる文だ。

状態の悪さというのが、条件から出てくるもなのである。

条件というのは、過去から現在まで、続いているものなのである。もちろん、短時間で終わる条件もある。しかし、こまっている人の悪い条件というのは、多くの場合、長く続いている条件なのである。つまり、長期間続いている条件なのである。

たとえば、ブラック社長と名前だけ店長がいるとする。名前だけ店長は、長年、サービス残業で、夜、あまり眠れないという生活をしているとする。その場合、名前だけ店長が「今現在に集中しても、いいことにはならないのである。サービス残業に集中したって、いいことにはならないということだ。

日中の仕事でもいい。問題なのは、つかれはてているということなのである。

だから、休まなければならない。それも、長年、むりをしてきたのだから、普通以上に、休めるようにしなければならないのである。

ところが、「今現在に集中すればいい」と助言するやつらは、それがまったくわかっていないのである。名前だけ店長が、「今現在」に集中して、作業をしたとしても、いいことにはならない。無理をして作業をしているのに、さらに、むりをして作業をすることを、推奨されている状態になる。

*     *     *

「今現在に集中すればいい」などと人に言うやつが、批判をされると、「俺だって苦労した」と言い出す。けど、「今現在に集中すればいい」などと人に言うやつが経験した苦労と、名前だけ店長が経験した苦労をくらべると、名前だけ店長が経験した苦労のほうが、ずっとずっと、ひどい苦労だと言うことができる。

そりゃ、そうだろ。

ほんとうに、ひどい苦労をした人が、ほかの人に、さらに苦労をおしつけるようなことを、言うはずがない。余裕でたえられる苦労だったから、「今現在に集中すればいい」と考え、「今現在に集中すればいいという考え方は、正しい」と思っているんだよ。

だから、「今現在に集中すればいい」と他人に言うんだよ。

ギリギリ、がんばっている人に、もっとがんばらせるようなことを言う人は、くそ。ぎりぎり、がんばってる人に、くるしい状態がさらに長く続くようなことを言う人は、くそ。

*     *     * 

「今現在に集中すればいい」と他人に言う人は、他人の苦労について過小評価をしている場合がある。神様視点で、「今現在に集中すればいい」と他人に言う人の苦労が「小」、名前だけ店長の苦労が「大」であったとする。

けど、「今現在に集中すればいい」と他人に言う人は、自分の苦労が「大」だから、名前だけ店長よりも、自分のほうが苦労してきたと思っているのである。

そして、自分が「今現在に集中するというやり方」で苦労を乗り切ったので、「今現在に集中するというやり方」で、名前だけ店長も苦労を乗り切れると思っているのだ。

ところが、名前だけ店長のほうがはるかに苦労をしているのである。

名前だけ店長だって、ずっと、無理をしてきたのだから、「今現在に集中しよう」と思って、がんばっていたときがあるはずだ。そりゃ、過労しすぎて、意識が遠くなるときだってあるだろう。

ところが、そういうがんばりを……「今現在に集中すればいい」と他人に言う人は……無視してしまう。今現在に集中すれば、乗り切れると思っているので、乗り切れないのであれば、がんばっていないということになってしまうのである。

こいつらの頭のなかではそうなってしまう。

しかし、「今現在に集中すればいい」と他人に言う人が、乗りきれたのは、単に、苦労が小さかったからなのである。「今現在に集中しよう」と思って、乗りきれるレベルの苦労だったからなのである。 初期ストレス対抗期間中にのりこえられることだったのである。

また、一日のなかで、ストレス対抗期間が続く時間内に、乗り越えられるものだったのである。だから、「今現在に集中しよう」と思えばどうにかなったことなのである。

しかし、「質」と「量」が関係する。時間の長さ、期間の長さが関係する。そういったものを、「条件」という言葉であらわすとすると、「条件」がちがっていたのである。

しかし、「今現在に集中すればいい」と他人に言う人は、「条件」の差を無視して、夜郎自大になり、自分はできたのだから、他人もできるだろうと思って、無理なをことを(他人に)言うのである。

もちろん、「今現在に集中すればいい」と他人に言う人ぐらいの苦労なら、名前だけ店長だって、乗りきれたのである。それは、名前だけ店長が、一五年間も、一日に三時間ぐらいしか眠れない状態で、仕事をしてきたということからわかる。

一五年間という長さ……。日曜、休日も、平日のように働いて、一五年間という長い期間、毎日働いてきたという実績。それが、名前だけ店長の、生活体力が並ではないということを、証明している。

あーー。それなのに、それなのに、そういう肝心なことは、無視して、ほんのちょっとがんばっただけなのに、「自分はすごい」と思って「今現在に集中すれば、いい」と、名前だけ店長のような人に、言ってしまう。

こいつらは、高慢で夜郎自大だけど、そういう自己認識がないのである。

こんなこと、喧嘩を売っているようなものなのに、まったく気がつかないんだよな。

自己責任論者なら、責任を感じるべき案件だ。

*     *     * 

あとは……「言えば言ったことが現実化する」と言うのであれば、「名前だけ店長が、じゅうぶんな、休息時間をとれる」と言ってあげればいいのだ。

そうすれば、名前だけ店長だって、じゅうぶんな、休息時間をとれるようになる。

「名前だけ店長が、がんばって働かなくても、じゅうぶんな収入を得られるようになる」と言ってあげればいいのだ。そうすれば、名前だけ店長の問題は解決する。ところが、「言えば言ったことが現実化する」と人に言っている人は、言ってやらない。

どうしてかというと、「言ったって言っただけになる」ということを、無意識的には知っているからだ。「言霊なんてまったく無意味なんだよ」と考えているから、問題を解決するような言葉を言わない。

べつに、名前だけ店長の問題なら、名前だけ店長が、問題解決の言葉を言わなければならないという決まりはない。「言えば、言ったことが現実化する」からだ。

「今現在に集中すればいい」と他人に言う人が「名前だけ店長の問題はすべて解決する」と言ってあげれば、名前だけ店長がサービス残業の作業に、集中しなくてもいい状態ができあがるのである。

あーー。それなのに、それなのに、「集中すればいい」と言うのだ。

「できると言えばできる」と言うのだ。完全に、くそですね。人のことなんてまったく考えていないから、「今現在に集中すればいい」とか「できると言えばできる」とかと、人に言う。

「できると言えばできる」のだから、今現在に集中しなくたって……できるぞ。

こいつらが言っていることは、支離滅裂。

ところが、自分では、「いいことを言った」と思っているのである。自分では「すごくいい助言してあげた」と思っているのである。やられたほうは、不愉快な気持になって、こまりはてるのである。

*     *     *

それから、「夜郎自大」と言われて、おこった人は、自分の受け止め方をかえればいいのである。

「夜郎自大だと言われたので、腹がたつ。これであたりまえだ」と思わずに、「エイリさんが言っていることが正しい。確かに自分は夜郎自大だった」と受け止め方をかえればいいのである。

エイリさんにあわせて、自分の受け止め方をかえればいいのである。

精神世界にこっているあなたなら、それができるだろう。

 

2025年6月21日土曜日

●「過去は記憶の中にしかない」と言っている人■過去※2025/06/21 5:18

「言えば、言ったことが、現実化する」という言い方がある。「言ったこと」と言っている。ようするに、言ったという過去の出来事が、現在に影響をあたえ、言った内容が、現在において、現実化すると言っているのである。

言霊主義者はそう考えているわけだから、言霊主義者が「過去は関係がない」「過去は記憶の中にしかない」と言うのはおかしなことなのである。

「言ったこと」が現実化されると言っているだろ。

もっとも、「言えば、言ったことが現実化する」という命題は偽なので、そもそも、相手にする必要がないのだけど、言霊主義者で 「過去は記憶の中にしかない」と言っている人は、自分自身が言っていることの矛盾に気がついたほうがいいぞ。


「過去は記憶の中にしかない」と言っている人であって、なおかつ、「言ったことが現実化する」と言っている人は、自身の矛盾に気がついたほうがいい。

「言ったこと」って過去のことだろ。「言った」と過去形で言っているだろ。

「言った」ことが「現実化する」のだから、もちろん、過去の発言が、現在に影響をあたえるということを言っているんだよ。過去において「言った」ことが、現在において(あるいは、未来において)現実化すると言っているわけだろ。

現実化するのは、過去に言った内容なんだよ。

だったら、過去の影響をうけているどころの話ではないぞ。「言ったことが現実化する」ということは、「言わなかったことは現実化しない」ということになる。

もしかりに「言ったことは現実化するし、言わなかったことも現実化する」という意味で「言ったことが現実化する」と言うのであれば、「言ったことが現実化すると言う意味がない」のである。

過去に言ったことだけが、現実化するのであれば、今現在成り立っているものは、すべて、過去において言われたことだということになる。「言ったことが現実化する」と言っているのだから、「過去は記憶の中にしかない」と言うのは、矛盾している。

こいつらは、ほんとうに、自分が主張している内容をよく考えたことがあるのか?

自分が主張している内容同士が、矛盾していたら、こまるだろ。


 

●過去は記憶の中にしか存在しないという考え方■過去※2025/06/21 0:54

過去は記憶の中にしかないと言う人がいるけど、この考え方はまちがっている。今現在は、過去の影響をうけている。だいたい、「今現在」というのは、つねに、過去に押し流されてしまうことなのである。

たとえば、さっき、小便をしたとする。そして、いまは、すっきりしているとする。

いますっきりしているのは、さっき小便をしたからなのである。もちろん、過去は、記憶のなかにあるだけのものじゃない。いまの状態を作り出しているものだ。

過去の出来事が、今現在の状態をつくっているのである。

たとえば、今現在、病院に入院しているとする。入院した理由は、階段から落ちて、足を骨折したというものだとする。過去において、階段から落ちなければ、今現在、入院していないのである。過去において、階段から落ちなければ、入院しているという現実は、「ない」のである。

もちろん、ほかの理由で入院するということはあるけど、ほかの理由で入院したときは、過去において、理由になる出来事が発生したから、入院しているのだ。

今現在、たとえば、足が動かない状態で固定されて、ベットの上に横になっていたとする。その場合、過去は、記憶の中にしかないとは、言えない。

どうしてなら、今現在、入院して、ベッドの上にいるからだ。今現在の状態は、過去の出来事の「上」にあるのである。

比喩的な言い方になるが、今現在が頂点であり、頂点をつくりだしたのは……あるいは、頂点の状態をつくりだしたのは……今現在よりも以前の過去の出来事なのである。

過去は記憶の中にしか存在しないという考え方はまちがっている。ちゃんと、過去の出来事が、今現在の出来事に影響をあたえている。

現在進行形で、影響をあたえている。現在進行形だということは、「今現在」などと言っているあいだに、「今現在」が過去になってしまうということだ。

過去の出来事は、記憶の中にだけ存在するわけではないのである。「過去の出来事」の時系列的な総和が、現在の状態をつくりだしている。

記憶の中にしかないものなのであれば、現在の状態とはまったく関係なしに存在しているはずだ。

ところが、現在の状態は、過去の総和なのである。

もちろん、過去の総和は、現在に影響をあたえている。過去の総和が「今現在」を形作っていると言っても過言ではない。記憶の中にしかないものなのであれば、現在を形作れない。

思い出のなかにあるものだけが、過去の出来事ではないのである。思い出のなかにあることは、現在の状態に、比較的に言って、影響力が小さいものなのだろう。だから、想起するだけですむ記憶なのである。

ところが、過去の出来事が、「今現在の状態」をつくりだしているのである。

過去は、記憶の中にしかないものだ……過去は思い出のなかにしかないものだと思っているとは、影響力が極小であるような過去の出来事を思い出して、現在の状態とは……一見関係がないように思えるから……過去の出来事は、現在に影響をあたえないと思っているだけなのである。

その人だって、「過去の出来事」の影響をうけて、今現在?を生きている。

文字を書くことだって、過去の影響をうけているのである。

もし、ほんとうに、今現在しかないのであれば、行為をどこからどこまでと考えるかという問題はあるけど、今現在書いている文字しか存在していないということになる。

あるいは、鉛筆で文字を書く場合は、ひとつの線をひいている状態しかないということになってしまうのである。そして、ひとつの線をひくということも、過去の出来事の結果なのである。過去の出来事がつみかさなっているので、ひとつの線をひくことができるのである。

*     *     *

「昨夜は、よく眠った」……と言う場合も、過去の影響をうけている。記憶のなかで「よく眠った」と思っているだけではないのである。ちゃんと、よく眠ったという影響をうけている。

いまのからだの状態は、昨夜の睡眠と無関係ではないのである。起きたとき、『よく眠ったと』思えるのは、実際に眠っているあいだのからだの状態が、今のからだの状態に影響をあたえているから、思えることなのである。

「過去の出来事は、過去の出来事だから、記憶の中にしかない。だから、今現在には、影響をあたえない」という考え方は、完全にまちがっている。


2025年6月20日金曜日

●「仕事のおしつけ」あるいは「違法行為」に加担していないと言いきること■言霊※2025/06/20 0:28

 言霊主義者である「ブラック企業社長」が、従業員である「名前だけ店長」に、「できると言えばできる」などと言霊的なことを言って、働かせようとする理由について考えたことがあるだろうか?

ブラック社長が、言霊主義者であり、「言えば、言ったことが現実化する」とほんとうに考えているのであれば、ブラック社長は、「おカネが、目の前にわきだす」と言えばそれで、すむのである。

言えば言ったことが現実化するので、目の前におカネがわきだすのである。

だから、そのおカネを使えばいい。

ところが、そんなことは、どれだけ言っても、現実化しないことを、言霊主義者であるブラック社長は知っているので、従業員をタダで使うために、言霊的考え方について、言及するのである。

言霊理論が正しいという前提で「できると言えばできる」と言うのである。

「言えば、言ったことが現実化する」と言うのである。

これは、サービス残業をさせるための言葉だ。

ブラック社長は……言霊の力ではなくて、言葉の力を使っているのである。

言霊の力と言葉の力を切り分けて考えたほうがいいと、ぼくは、何回か言霊主義者に、伝えたことがある。けど、言われた言霊主義者が、(その言葉を)言われたあと、言霊の力と言葉の力を切り分けて考えるようになったのかどうかはわからない。

これも、ぼくが「すべての言霊主義者が、これ以降、言霊の力と言葉の力を分けて考えるようになる」と言えば、それですむ話なのである。……言霊理論は正しくないので、言ったところで、言っただけになり、すべての言霊主義者が、これ以降……つまり、ぼくが実際にその言葉を言ったとき以降……言霊の力と言葉の力を切り分けて考えるようになるわけではないけどね……。

ブラック社長は、ただで、名前だけ店長の労働力を使いたいだけなのである。

どうしてかというと、そのほうが、カネが儲かるから。

カネ儲けの話なのであれば、言霊で解決できるはずだ。

ところが、言霊で解決せずに、名前だけ店長の労働力を吸い上げようとするのである。

どうしてかというと、それが現実的な方法だからである。言霊を信じていないから、現実的な方法で、お金をかせごうとするのである。

たとえ、違法行為であっても、現実的な方法で、お金をかせごうとするのである。まったく、言霊の力なんて信じていないのである。

「それは、言霊理論を悪用しているブラック社長だけの話で、善良な言霊主義者は、悪事に加担しているわけではない」と、言霊主義者が言うかもしれない。けど、加担はしていると思う。

言霊なんて考え方が、「正しい考え方」として流通しているのは、多数の言霊主義者のせいなのだ。たとえ、だれかが「言えば、言ったことが現実化する」とか「できると言えばできる」などと言っても、その発話者以外の人がだれも、信じなければ、社会のなかで、それらの言葉が正しい言葉として流通することがないのである。 

ほんとうは、まちがっているのに、正しい言葉として流通しているから、問題がしょうじるのである。

言霊主義者が、「できると言えばできる」とブラック社長が、名前だけ店長に言っているところにいたとしたら、どう思うだろうか?

「できると言えばできる」と思うのだろう。ブラック社長は、まちがったことを言っていないと思うのだろう。

言霊主義を利用した「仕事のおしつけ」あるいは「違法行為」に加担していないと言いきることができるのだろうか?

ブラック社長は、言霊を悪用しているけど、自分は言霊を悪用していないので関係がないと思うのだろうか。

社会の雰囲気として「言霊(理論)が正しい」という雰囲気があるので、名前だけ店長も、「なにをバカなことを言っているんですか」とブラック社長に言いかえすことができないのである。

社会の雰囲気として「言霊(理論)が正しい」という雰囲気があるので、名前だけ店長も、「アホなことを言わないでください」とブラック社長に言いかえすことができないのである。

言霊主義者は、ブラック社長の「言えば、言ったことが現実化する」とか「できると言えばできる」という言葉を否定できない。自分が普段、言っていることだからだ。

けど、それでも、……言霊主義者だって……自分が一倍速で経験した、ほとんどすべての、物理的な出来事に関しては……物理的な理由でそうなったと思っているのである。すべての場合において、そう思っているわけではないけど、そういう傾向がある。自分にとって、物理的な理由がはっきりしているから、言霊的な理由が入り込む余地がない場合が多い。

言霊的な理由が入り込む余地があることは、他人の身に起こったこと、自分の身に起こったことだけど、どうしてそれが起こったかよくわからないこと、夢や希望に関することだ。

これらは、自分にとっての実感が、薄いのである。あくまでも、そういう傾向があるのではないかという話だ。すべての場合において、それが成り立っていると、主張したいわけではない。すべての場合においてそうだと言っているわけではなくて、そういう傾向があるのではないかということを言っているわけ。

短時間で、ぱっぱっぱっと起こることで、自分がそのプロセスを全部、体験して知っている場合は、比較的に言って、言霊思考にはならないのである。


2025年6月19日木曜日

●「言う」ということ自体が、物理的な現象なのである■言霊※2025/06/19 0:27

もう、書いたことだけど、言霊主義者が、階段から落ちて腕をいたくした場合、「階段から落ちたから、腕がいたくなった」と考えるのである。

しかし、これはおかしい。

「階段から落ちて、腕がいたくなる」と言ったあと、腕がいたくなるべきなのである。

たとえば、階段から落ちるには、重力が必要だ。

落ちるとき、階段を構成する部分に、自分のからだを構成する要素である腰があたり、その結果、腰がいたくなったのである。あるいは、地面や床を構成するものに、自分のからだを構成する要素である腕があたり、その結果、腕がいたくなったのである。

「階段から落ちて、腕がいたくなる」と言わなくても、「階段から落ちて、腕がいたくなる」という出来事がしょうじたということに、もっと注目しなければならないのである。

ようするに、言わなくても、出来事が発生する。

そして、言霊主義者といえども、物理的な現象を認めているのである。

階段から落ちている最中、あるいは、落ちたとき、階段を構成する要素や、地面や床を構成する要素と「ぶつかった」ので、自分のからだの一部がいたくなったと(言霊主義者だって)思っているのだから、当然、(言霊主義者は)物理的なしくみを知っているのである。

以降、階段を構成する要素のことを階段と言い、地面や床を構成する要素のことを、単に、床と言うことにする。道路なども地面という言葉に含めるとする。

言霊主義者だって階段から落ちた「から」からだの一部がいたくなったと思っている。これは、物理的な力によって、からだの一部がいたくなったということを(言霊主義者が)認めているということなのである。

言霊主義者だって、「からだがいたくなる」と言った「から」からだがいたくなったと考えているわけではなくて、階段や床に自分のからだがぶつかった「から」からだがいたくなったと考えているのである。

言霊主義者だって物理的な衝突が発生した「から」から、自分のからだがいたくなったと思っているのである。

言霊が出てくる余地がないのである。

言わなくても、物理的な法則にしたがって、出来事が発生するのである。

自分が一倍速で、体験したことについては、「言っていなくても、出来事が発生する」ということを、ごく自然に認めているのである。

物理現象は、言霊によって、発生したのではない。

言霊主義者は、言霊について説明するとき、じつは、言霊法則のほうが物理法則よりも上位の法則だと考えているのである。

言霊主義者が、言霊について考えているときは、言霊主義者の頭のなかでは、物理的な現象も、言霊の力によってしょうじることになっているのである。

そして、言霊について考えているときは、言霊主義者の頭のなかでは、非・物理的な現象も言霊の力によってしょうじることになっているのである。

実際には、言霊の力によって発生する非・物理的な現象はないのだけど、言霊の主義者の頭のなかでは、言霊の力によって、非・物理的な現象(超自然的な現象)が発生するということになっているのである。

出来事がしょうじたなら、それは、言霊の力によってしょうじた出来事でなければならないのである。

なぜなら「言えば、言ったことが現実化する」からである。

現実化するときに、物理的なプロセスを必要とするものであったとしても、その物理的なプロセスを含めて、言霊の力によって、しょうじなければならないのである。

「そうでない」と言うのであれば、言霊とはまったく関係なく、物理法則が成り立っていて、物理的な現象がしょうじるということになる。

これは、物理的な現象は、(言霊の力とはまったく関係がない)物理的な運動によってしょうじるということを意味している。

言霊の力が介在する余地がないのである。

言霊主義者だって、自分が一倍速で経験したことに関しては、言霊について考えることがないまま、物理的な力でしょうじたと思っているのである。

自分の意識が言霊に集中しているときだけ、言霊の力によって、言ったことが発生すると考えるのである。「言ったこと」というのは、言った内容にそくした物理的な出来事のことなのである。

もちろん、物理的な出来事がしょうじれば、そのことによって、人間のからだが影響をうけることがある。

自分に関係した物理的な出来事は、自分の精神的な反応を発生させるのである。自分の身体的な反応も、自分の精神的な反応も、ほんとうは、物理的な反応の結果なのである。

だいたい、「言う」ということ自体が、物理的な現象なのである。

だれかが、何事かを言うとき、発話に関する物理的な運動が発生している。

たとえば、空気がなければ、言ったって言葉にはならないのだから、「言ったことが現実化する」ということ自体が成り立たない。つまり、言うということも、物理的な運動の結果なのである。

そして、聞く側が、話す側の言葉を聞きとることができるということも、これまた、物理的な運動の結果なのである。

なので、じつは、言霊の力というものは、物理的な力に依存しきったものなのである。

言霊の力なんてものはないけど、あるとしたら、物理的な力に依存しきったものなのである。

言霊法則なんてないけど……あるとしたら、物理法則のほうが、言霊法則よりも上位の法則なのである。

ところが、言霊主義者は、言霊法則が成り立っていると考え、さらに、言霊法則のほうが物理法則よりも上位の法則であると考えているのである。

あるいは、そのような言霊の性質について、(言霊主義者は)まったくなにも考えていないのである!!

言霊なんてないから、言霊の性質について考える必要もないのだけど……彼ら、彼女ら……言霊主義者が……そう仮定しているのだから、そう仮定した場合について、いま、ぼくが語っているのである。

*     *     *

もし、言わなくても発生するのであれば、言えば発生するということを言う必要がないということになる。そりゃ、そうだろ。言わなくても発生するし、言っても発生するのであれば、「言えば、発生する」と言うことの意味はなんなんだ?

言えば、現実化する。言わなくても、現実化する。だったら、言っても言わなくても現実化するのだから、「言えば、現実化する」と言う意味がない。『現実化する』というのは、発生するということなのである。

なんらかの出来事が、実際に起こるというとなのである。なんらかの出来事が起こると言わなくても、なんらかの出来事が起こるのであれば、「なんらかのできごとが起こると言えば、なんらかの出来事が起こる」と言うことに、いったい、なんの意味があるのか?

言わなくても、出来事が発生するのだから、「言えば出来事が発生する」と言うことに、いったい、なんの意味があるのか?

*     *     *

「人類が発生する」とだれがが言うまえに、人類が発生したのである。「地球ができあがる」とだれかが言うまえに、地球ができあがっていた。だったら、言わなくても、発生するのである。言わなくても、できあがるのである。

 

2025年6月17日火曜日

●もう、つかれはててしまったところがある■騒音※2025/06/17 1:52

もう、つかれはててしまったところがある。もう、動きたくないという気持がある。

基本、かゆい。この、ダニにさされたあととひっかき傷。あーー。もう、いやだ。まあ、完全防備で、段ボールの上にあるほこりに、立ち向かうべきだった。けど、暑かったし、過去のいろいろで、完全防備をするのが、ほーーーんとうに、いやなのだ。もう、俺は何回おなじことを繰り返しているのだという気持になる。刺されて猛烈にかゆくなった時、どうしたって、きちがい親父の態度が思い浮かぶ。「ネズミ対策工事をしよう」と俺が言った時の、きちがい親父の態度が、思い浮かぶ。俺は、ずっと、きちがい親父のしりぬぐいをしてきた。もう、いやなんだよ。普通の人がやらないことを、突然やりだして、絶対にやめようとしない。粕漬の魚をテーブルの上にずっと出しておくことに、なんの意味があるのか? 焼いてから、二三時間、出しっぱなしにすることになんの意味があるのか。しかし、やめない。どれだけなにを言っても、やめない。部屋中がくさくてくさくて、たまらなかった。そして、部屋がくさいということを言うと、「くさくないよ!」「くさくないよ!」「くさくないよ!」と発狂して怒鳴るのだ。怒鳴って否定する。これ、ずっとおなじなんだよ。ともかく、自分にとって都合が悪いことを言われると、全否定する。嗅覚が正常なら、絶対にくさいということがわかるのだ。電位依存性カチオンチャネル阻害剤によって、特定のにおいに鈍感になっていたわけではない。自分が、テーブルの上に魚を出しておきたいと思っている。そうしたら、もう、絶対に、それができなくなるようなことは、認めないのだ。それだけ。これが、意識的にやっていることならいいけど、無意識的にやっていることだから、本人には、いつもつもりがないということになる。そして、やり勝ちしてしまえば「なかったことになってしまう」のである。こういう、きちがい構造。

これが、全過程をとおして、へんな態度なんだよ。これ、家でしかやらないんだよ。きちがい親父にしても、家でしかやらない。よそのうち」でこんなことができるわけがない。こういう意地を当せるわけがない。自然に、スイッチを切り替えている。これも、無意識的にやっていることだから、「うち」では、こうして……「よそ」では、こうしようなんて考えているわけではないのだ。自然に、スイッチが切りかわる。

ちなみに、きちがい兄貴もおなじなんだよ。きちがい兄貴が、「よそ」のうちに引っ越したら、ヘビメタを鳴らさなくなった。「よそ」の人に対しては、迷惑だということがわかるのだ。「よそ」の人に対しては、「でかい音だ」ということがわかるのだ。ところが、「うち」だと、スイッチが切りかわってしまう。いちおう、自分の部屋にいれば、となり家とは、距離があるので、きちがい兄貴のなかで、隣の家という「よそ」は気にならないものだったのだろう。そういうところで、感覚がおかしいのだけど、そうなのだ。それから、引っ越したときは、ヘビメタに対する興味が、ほとんどなくなっていたというところもある。ともかく、感覚としては、兄貴にも「うち」ならいいという感覚が成り立っていたのだ。そして、この感覚に対して、きちがい兄貴自身が無自覚なのだ。きちがい親父が建てた「このうち」だから、「思いっきり鳴らしていいい」という気持が、たしょうはあったのではないかと思う。きちがい親父に自分は、やられてきたから、今度は、自分がやりかえしていいという気持があったのではないかと思う。自分というのは、兄貴自身のことだ。きちがい親父に、自分はやられてきたから、今度は、自分が、やりたいようにやっていいと思っていたのだ。きちがい親父は、自分(親父自信)がやりたいようにやってきたわけ。そのやりたいようにやるというのは、普通の人の「やりたいようにやる」いうことではないのである。これが、普通の人にはまったくわからないことなのだけど、きちがい親父がやりたいようにやってきたという場合の、やりたいようにやるやり方というのが、ようするに、例をあげれば、酒糟のついた魚を、自分がやりたいように、テーブルの上に置いておくということなのだ。だから、親父にとって、特別に意識的な行為ではないのである。「かたづけてくれ」と言われると、スイッチが入って、きちがい的な意地でかたづけないのである。これに、なんの意味があるかというと、ない。きちがい親父側の問題なのである。きちがい親父の、きちがい的な無意識の問題なのである。やりたいようにやる」という表現を使うと、ちょっと、普通の人が、誤解をしてしまうのだけど、言ってみれば、へんなところで、やりたいようにやっているのである。頭がおかしい理由で、怒り狂うということも、きちがい親父が、きちがい的な意地でやりきったことだ。幼児に、頭がおかしいことを言って、怒り狂う。これが、一度や二度ではないのである。一日に、何十回やってたかわからない。日曜日なんて、おかあさんに、あたったぶんも、かぞえれば、百何十回もやっていた。普通の人には、考えつかない、奇妙な理屈で、怒り狂っていたのだ。これも、「やりたいようにやっていた」と書けば、そう書けることだ。きちがい兄貴の「ヘビメタの根拠」になっているのは、これだ。きちがい兄貴にとって、自分が思った通りに、思いっきり、うちでは鳴らしていいということに鳴っていたのだけど、これの感情的な根拠が、きちがい親父が、きちがい的な理由で、怒り狂っていたということだ。会社から帰ってきたあとの、わずかな時間で、何十回も怒り狂っていたなぁ。朝の、四〇分の間に、何十回も怒り狂っていたなぁ。これ、親父は、日曜日も、一日中家にいるわけではなくて、午前中だけ数時間いただけだったけど、百数十回じゃなくて、二百数十回ぐらいおこっているような気がする。平日の朝は、おかあさんに怒り狂っていたのだけど、そこに、起きていくのが、いやだった。こういうのも、朝の感覚に影響をあたえるんだよな。運動会などの特別な日は、きちがい親父が起きている時間に、居間に行かなければならないのだけど、死ぬほど憂鬱だった。

こういうことだって、「よそ」の人は「そんなのはへんだ。へんだから、エイリさんが嘘を言っている」と思うわけだ。 俺が親父の話をすると、「そんな人、いるわけがない」と思って、俺が嘘を言っていると思うやつが、いる。俺が、兄貴の話をすると「そんな人、いるわけがない」と思って、俺が嘘を言っていると思うやつがいる。けど、ほんとうなんだよね。

*     *     *

手短に言って、きちがい親父の「粕漬の魚」に対する態度と、きちがい兄貴の「ヘビメタ」に対する態度が、まったく、おなじなのである。まーーーった、く、まーーーった、く、おなじなのである。そして、普通の人は、このふたりの態度が、まーーった、く、わからないのである。 

「そんなのは、ちゃんと言えばいい」と思うだけのやつがいる。こいつに、どれだけ説明してもわかるわけがない。「そんなのは、ちゃんと、お兄さんに言えばいい」「ちゃんと言えば、お兄さんだってわかってくれる」……こういうふうに考えているんだよね。「そんなのは、ちゃんと、お父さんに言えばいい」「ちゃんと言えば、お父さんだってわかってくれる」……こういうふうに考えているんだよね。

どれだけ、ちゃんと言っても、わからないから、こまっているんだよ。どれだけ、ちゃんと言っても、わからないから、問題なんだよ。

*     *     *

「言えば、言ったことが現実化するから、言えば、いい」と言うやつもおなじだ。言ったって、問題が解決しかないから問題なんだろ。言ったって、現実化しないから問題なんだろ。

こいつらも……。ほんとうに……。こいつらも、ほんとうに、わかってないな。 

2025年6月15日日曜日

●きちがいヘビメタを鳴らしてなかったら■騒音※2025/06/15 22:55

サカマのことだって、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったら、あんなことにならなかった。あの時点で七年間毎日鳴らされて、地獄の学生生活を送っていた俺は、騒音に関しては、ほんとうにもう、限界だったんだよ。新しく、騒音問題を、つきつけるな。

きちがいヘビメタが鳴ってなかったら、まったくちがったことになっていたと思う。ほんとうに限界だったなぁ。なんで、うるさい人が引っ越してくるんだろうな。

きちがい兄貴の態度と感覚で、きちがい騒音問題が積み重なっていく。そりゃ、絶対の意地で無視して鳴らして、ものすごくでかい音で鳴らしているということも、無視するわけだから、恨みがつもる。

きちがい騒音のせいで、俺がどんな思いでくらしていると思っているんだ?

ともかく、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ヘビメタを鳴らし続けると、ほかの人との間に、トラブルが生じまくるのである。そして、そういうとき、きちがい親父がさらに、油をそぞくようなことをする。きちがい親父が助けてくれたことなんてないよ。

いつもいつも、かならず、悪いほうに味方をするのである。

いつもいつも、どれだけなにを言っても、ひどいことになることを選択して、そうするのである。

これだって、絶対の意地でそうするわけで、俺が説得すれば、それで、考え方をかえてくれるわけじゃない。

けっきょく、きちがい兄貴が「気がつかないまま」……きちがい騒音を鳴らし続ける。

うち以外の家では鳴ってない騒音を鳴らし続ける。

そうなると、つもっているものがちがうので、感覚がちがってくるのである。ほかの人は、そもそも、うちできちがい兄貴が鳴らしていたような騒音には遭遇していないから、ほかの人が考えるような騒音しか想像しないのである。

だから、うちできちがい兄貴が鳴らしていたような騒音には遭遇していない人たちは、長年、きちがい的な家族が知らんぷりで鳴らすような騒音に遭遇すると、どんな影響が出るかということを知らない。

心的な影響なんて、もちろん、無視してしまう。

からだの影響だって、無視する。

こいつらもこいつらで、『そんなのは無視して当然だ』という態度で無視しやがる。

ともかく、ヘビメタ騒音と東側の工事の音で、ダブル怪獣に挟まれてくるしかったよ。けど、あの人たちの感覚はちがうんだよな。俺だって、先行する七年間のきちがいヘビメタ騒音がなかったら、あんな状態ではない。東側の工事の音だって、普通に我慢できた。

ともかく、もう、七年間、積み重なっている時点で、ぼくは限界に達していた。「限界に達していたぼくを刺激するようなことはするな」ということだ。

そりゃ、そうなる。最初は、「この人たちは関係がないから」と我慢していたのだけど、堪忍袋の緒が切れた。くそうるさくしやがって……。

けど、あっち側から見れば、そりゃ、ちがう。そして、「あれがうるさくないのか」と言いたくなる気持ちもわかる。「あれ」というのは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音のことだ。あの人たちは、ぼくが、あの人たちだけに文句を言って、きちがい兄貴には文句を言っていないと思っているのだけど、それがちがうのだ。

こういうところでも、きちがい兄貴が、きちがい的な態度て無視して、きちがい的な意地でやりきるので、ぼくが誤解されることになる。

ともかく、きちがい兄貴が、こだわってこだわって、きちがいヘビメタを鳴らしてなかったら、ぼくのあの人たちに対する態度はちがっていたんだよ。 

ヘビメタ騒音で、騒音に対する怒りが限界に達していた。だから、ほかの騒音を鳴らすやつらにも、きちがい兄貴に対する怒りと、同等の怒りがしょうじた。

「工事のことはしたがないことだから水に流してやろう」と思っていたのに、引っ越してきたやつが、次から次へと、無神経にうるさくしやがる。

けど、あのとき、きちがいヘビメタが七年間つもっていなかったら、家が建ったときもちがうんだよな。ようするに、家を建てるときの騒音に対する気持ちがちがう。引っ越してきたやつらが、むだにうるさいやつらで、うるさくしたときの気持ちがちがう。 

ちがうんだよなぁ。すべてがちがう。

きちがい兄貴のきちがい部分というのは、ほかの人にはわからないことなんだよな。だから、きちがい兄貴の「態度」というものが、ほかの人にはわからない。きちがい兄貴の「感覚」というものが、ほかの人にはわからない。

そうなると、きちがい兄貴の感覚で、きちがい兄貴の態度で、ヘビメタ騒音を鳴らしたときの、こっちがわの「こまりぐあい」というものが、ほかの人にはわからないのだ。だって、ほかの人には、きちがい兄貴のような家族がいないからだ。

きちがい兄貴のような家族が、きちがい的な感覚で、きちがい的な態度で、ほかの人が、ほかの家では絶対に鳴らさないような騒音をずっと鳴らしているということを、ほかの人は、うちのなかで経験したことがないということになる。

だから、どのくらい、たまって、どのくらいに、はち切れんばかりになるかわからない。

毎日毎日、勉強も宿題もできない状態で七年間の学生生活が「たまったばあい」のことがわからない。もう、ともかく、毎日、堪忍袋の緒が切れている状態なんだよ。

堪忍袋が、毎日毎日、何十回も、爆発している状態なんだよ。

きちがい兄貴を殺さないということを、実行しているだけで、すべての体力を使ってしまうような状態なんだよ。毎日毎日、たまっていく。

2025年6月14日土曜日

●「オッペケペ」という言葉にはものすごい力(ちから)がある■言霊※2025/06/14 11:35

 「オッペケペ」という言葉にはものすごい力(ちから)があると思っている人がいたとする。

とりあえず、Aさんだとする。

Aさんは、「オッペケペ」という言葉にはものすごい力が宿っているので、なんでも願いがかなうと思っている。「実際、オッペケペと言ったあと、つかれないと言ったら、つかれなくなった」「実際、オッペケペと言ったあと、眠れると言ったら、眠れたから、オッペケペという言葉には、ものすごいが宿っていると確信した」とAさんが力説する。

事実、Aさんは、オッペケペと言ったあと、つかれないと言ったら、言うまえよりも、つかれがとれたような感じがしたのだ。だから、Aさんは嘘を言っているわけではない。本人のなかでは、「事実」なのだ。

事実、Aさんは、オッペケペと言ったあと、眠れると言ったら、眠ったのだ。これは、事実だ。Aさんが嘘を言っているわけではない。

けど、じゃあ、オッペケペには、ものすごい力が宿っているのかというそうではない。

Aさんがそう思っているだけだ。「オッペケペ、ずっと眠らない」と言えば、ずっと眠らないで生活することができなるかというと、できない。オッペケペの力によって、眠らずに生活できる体をゲットできるわけではないのだ。

ところが、Aさんが体験したふたつのことによって、Aさんは、オッペケペにはものすごい力が宿っていて、その力によって、眠らずに生活できる体をゲットできると、思っているのだ。

「オッペケペ・眠れる」と言ったあと、眠ったことだって、人間のからだのしくみに依存していることだ。人間のからだのしくみとは関係なく、オッペケペに宿っている、すごい力が、Aさんをして眠らせたわけではない。

もちろん、Aさんが、オッペケペに宿っているすごい力を信じているので、「オッペケペ・眠れる」と言ったあと、安心して眠った可能性もある。

その場合は、たしかに、Aさんにとっては、眠りやすい言葉なのである。

しかし、じゃあ、ほんとうにいつでも、そうできるかというと、ほんとうは、そうできない。Aさんだって、まったく眠りたくなくて、元気に動いているときに「オッペケペ・眠れる」と言えば、眠れるのかというと、そうではないのだ。

体のしくみがある。概日リズムがある。

たとえば、Bさんがきちがい的な家族が鳴らす騒音で、夜、眠れなかったとする。これは、きちがい的な家族が鳴らす騒音で眠れなかったということだ。

ところが、オッペケペ信者は、「条件」というものを無視して、ただ単に「オッペケペ」と言えば、すべての問題が解決するということを言うのだ。

しかし、きちがい的な家族がこころをあらためて、鳴らさないようにしないと、この問題は、片づきにくい。もちろん、別居するなどの方法があるかもしれないけど、Bさんが未成年で、別居するという方法は選択しにくいという場合もある。

いずれにせよ、なんらかの、現実的な変化が起こらないと、問題は解決しない。

ところが、オッペケペ信者は、オッペケペということ以外のすべての条件を、前提として無視しているのだ。だから、現実的な条件がもたらす、影響というものを、無視する。

前提として無視しているということが、問題だ。

思考のなかに現実的な条件がもたらす影響というものが、はいってくる余地がないのだ。「オッペケペ」と言うかどうか、それだけが、問題になる。オッペケペと言うことだけが、現実に影響をあたえるのである。
かりにBさんが、Aさんの言うことを認めて、「オッペケペ、しずかになる」と言ったとしよう。

ところが、Bさんのきちがい的な家族が、しずかにしなかった。オッペケペと言ったにもかかわらず、しずかにならなかったのだ。だったら、オッペケペと言うことは、特に、効果がないことだということがわかる。

ところが、Aさんは、オッペケペの効果を信じているので、Bさんの言い方が悪かったから、オッペケペのあとの言葉が現実化しなかったのだと言い出すのである。

しかし、Aさんの主張は、おかしい。オッペケペと言ったあとに、願いを言えば、どんな願いもかなうはずなのである。なので、言い方が悪いと、かなわないというのであれば、矛盾しているということになる。Aさんの主張は、矛盾しているのである。


問題なのは、たとえば、オッペケペ信者が、多数派だった場合だ。Aさんの主張とBさんの主張……どっちが合理的かというとBさんの主張のほうが合理的なのだ。

ところが、オッペケペ信者が多いと、むしろ、Bさんの主張のほうがへんだと思う人が多いというとになる。これは、問題だ。

ようするに、オッペケペ信仰が強くて、社会ほとんどの人がオッペケペの力を信仰しているとすると、条件が悪い人が、自動的に、窮地に立たされるのである。

解決策は、しめされているのである。

「オッペケペ」と言えばいいということになる。

オッペケペと言わない人が悪いんだということになる。

オッペケペと言って問題を解決しようとしない人が悪いんだということになる。

そして、オッペケペと言ったにもかかわらず、問題が解決しなかった場合は、その人の言い方が悪いんだということになってしまうのである。

言い方が悪いのは、その人のせいだということになってしまうのである。 

「オッペケペ」のすごい力に関しては、多くの人が疑問をもつだろう。

ところが、「言霊」のすごい力に関しては、多くの人が疑問をもたないのである。 

2025年6月12日木曜日

●こいつらが経験したことがない、いやなことのひとつだ■騒音※2025/06/12 9:03

こころが、みにくい人がたくさんいた。

そいつらが、みんな、ヘビメタ騒音のことを、うたがうのだ。

そいつらが、みんな、そいつらのへんな解釈で、ヘビメタ騒音の話をゆがめてしまう。そいつらの常識だと、きちがい兄貴の話は、へんな話なのである。

だから、俺が嘘を言っていると思うやつらだ。こいつらのこころは、みににく、ゆがんでいる。

こいつらの反応自体が、こいつらが経験したことがない、いやなことのひとつだ。ヘビメタ騒音で、いやなことをいっぱい経験したけど、こいつらの解釈、こいつらのゆがんだ意地悪も、ヘビメタ騒音自体がもたらした、いやなことのひとつだ。

ふたつ、みっつかもしれないけど、ひとつだ。

ようするに、ヘビメタ騒音で、ほかの人が経験しないタイプのいやなことを、経験してしまうのである。

ほかの人が経験しないこと……。

ほかの人が、「俺だって苦労した」というなかに、きちがい家族の行為によって、自分がほかの人から誤解をされるということがはいっていない。

そして、こいつらは、普通に、誤解をする。誤解をしてくる。こいつらに、ヘビメタ騒音やきちがい兄貴の性格について説明しても、こいつらは、信じない。

それこそ、へんな解釈をする。

俺が嘘つきだとか、人格障害者だとか、精神異常者だとかという解釈だ。この解釈はまちがっているけど、こいつらの頭のなかには、たしかにある。

だから、まあ、きちがい兄貴のきちがいの度合いや性質が、ものすごくかわっているので、ぼくが、きちがいだと思われてしまうのだ。これは、親父のことでもおなじなんだよ。そして、きちがいヘビメタがはじまったときの、きちがい兄貴に対する、親父の態度だって、普通の常識で考えれば、へんな態度なんだよ。

ありえない態度なんだよ。

だから、こいつらは、普通に、俺が嘘を言っていると思ってしまう。俺が、作り話をしていると思ってしまう。俺が、自分の「作り話」に気がついている場合は、嘘つきで、俺が、自分の「作り話」に気がついていない場合は、精神異常者だということに(あいつらのなかでは)なる。

あいつらがそう考えるという話だ。

これだって、日本語能力がないやつは、「俺が自分(俺自身)のことを、嘘つきで、精神異常者だと言った」と解釈してしまう。ほんとうに、迷惑な話だな。

きちがいヘビメタで、学歴をうしなったけど、うしなったのは学歴だけじゃない。

「そんなのは、へんだ」「嘘に違いがない」と思う、低俗なやつらが……こころがみにくいやつらが……こころがみにくい解釈をしてしまうのだ。

こころがみにくい解釈は、そいつらの、こころに対応していると思うけどなぁ。

2025年6月11日水曜日

お楽しみ回路を喪失していないけど、自分では苦労が「大」だと思っている人

  「お楽しみ回路」をうしなっているか、うしなっていないかということが、「苦労」の度合いを物語っていると思う。

たとえば、「お楽しみ回路」が喪失した場合、苦労が「大」だとする。そして、「お楽しみ回路」が消失していない場合は、苦労が「小」だとする。

お楽しみ回路が消失してない人は、「小」の苦労しか経験してないわけだ。しかし、本人は、自分の苦労は「大」だと思っている。

だから、「お楽しみ回路」という指標で見た場合、本人の認知している苦労の度合いと、実際の苦労の度合いがちがうということになる。

AさんとBさんがいたとする。Aさんは、お楽しみ回路を喪失していないけど、自分では苦労が大だと思っている人だ。Bさんは、お楽しみ回路を喪失していて、自分では苦労が「大」だと思っている人だ。この場合、Aさんが、Bさんに「俺だって苦労した」と言うときは、自分(A)の苦労とBさんの苦労は同レベルの苦労だと思っているのだ。

お楽しみ回路の喪失をひとつの「指標」として見た場合、Aさんの「見積り」には、問題があるということだ。

「差」がある。「ギャップ」がある。「認知のズレ」がある。

ようするに、Aさんの認知では、Bさんとおなじように苦労「大」を経験したということになっている。しかし、「お楽しみ回路」を喪失していない。

どうしてかというと、Aさんの認知とはちがって、苦労自体が「小」だったからだ。

これは、仮定の話だ。しかし、現実をうまく説明していると思う。

「おまえ、どんだけ俺ががんばってきたと思っているんだよ」と言いたくなる。

起きたけど、つかれた。つかれているときの、切迫した感じがする夢を見た。「あれ、夢なのか」と起きたときに、思った。

いまは、まったくなにもやる気がしない。まあ、書いているけどさ。ほんとうは、かたづけをしなければならないのだけど、かたづけをする気持ちがまったくない。もう、ネズミの糞との格闘にあきた。ダニにさされたくない。寝る前に、粗大ごみを片づけたあとのネズミの糞掃除を考えて、ものすごく、憂鬱になった。絶対にやりたくないことなんだよな。その、絶対にやりたくないことを、親父が俺にさせている。まあ、以前から読んでない人のために言っておくと、もう、親父は死んでいるけど、親父が、生前にやったことが問題なんだよ。ネズミ糞が増えることをやった。きちがい的な意地で、ゆずらない。

切迫した夢というのは、きちがいヘビメタ騒音時代の朝に関係している夢だ。あれがわかってないやつが、くそを言う。俺だって、苦労したと言うけど、そいつには、きちがい兄貴なんていない。そいつには、きちがい家族がいないのだ。そして、「苦労」と言うけど身になる苦労や、我慢できる苦労なのだ。「おまえ、どんだけ俺ががんばってきたと思っているんだよ」と言いたくなる。

 

ほんとうに、言いようがない立場になるのである

 ヘビメタ騒音のせいで、ほんとうに、言いようがない立場になるのである。言いようがない、悪い立場になるのである。そして、それが常態化する。どうしてかというと、ヘビメタ騒音が、ずっとずっとずっとずっと、鳴っているからだ。そして、ヘビメタ騒音が堆積してしまうからだ。

気分ということを言うのであれば、ヘビメタ騒音が鳴りはじめてから、鳴っているあいだ、ずっと、気分が悪いのである。そして、それは、人間関係に言い知れない影響をあたえる。これ、外部の人……ヘビメタ騒音にさらされなかった人……俺とおなじように、きちがい家族による騒音を経験しなかった人……には、到底、理解ができることじゃないのである。

七年間のヘビメタ騒音の結果、無職になるのだけど、無職になってからも、言いがたい立場が続くのである。学生のときよりも、もっと言いがたい立場になってしまうのである。

*     *     * 

兄貴のきちがいヘビメタ騒音が、ほかの人をして、俺をバカにさせるのである。このプロセス自体が、ほかの人にはわからない。ほかの人は、俺が無職なら、無職だということで、バカにしてくるやつが多い。色眼鏡で見るのだ。そして、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音ということについて、考える能力が、ない。あるいは、たりない。「不可避的にそうなる」と言っても、ほかのやつは、自分が身をもって経験したわけではないので、認めない。想像力でおぎなって考えなければならないのだけど、大多数のほかの人は、……経験が実際にはない人は……自分の経験の範囲で考えてしまうので、まちがった結論に至ることになる。前投稿の、Aさんのように、勘違いしてしまうのである。自分が経験した「騒音困難」と俺が経験した「騒音困難」をだいたい同レベルのものとして考えて、まちがったことを言いだすのである。前投稿のAさんは、たった一日の寝不足と、一五年間毎日続く寝不足を同レベルの寝不足だととらえてしまったわけだけど、そういうことが、いつも、発生するのである。どうしてかというと、ほかの人の家族は、きちがい兄貴のような家族ではないからだ。ほかの人の家族は、騒音を鳴らすしても、普通の人の範囲で鳴らすわけで、最初から話がちがう。けど、話がちがうということが、経験がない人にはわからない。きちがい的な家族と一緒に住んだことがない人には、まったくわからない。わからないので、ほぼ自動的に、考え違いをしてまうのである。見積違いをしてしまうのである。けど、じゃあ「見積違いをしている」ということについて、相手に話したとしても、その相手は、たいていの場合、認めないのである。「俺だって、苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言って、「くちをたてて」認めないのである。この場合、相手というのは、不機嫌な気持になっているのである。これも、やっかいなことなんだよな。Aさんは、言霊主義者なので、言霊(理論)を否定されると、腹がたつわけだよ。Aさんが、言霊主義者ではないとしても……Aさんは、たとえば、「たった一日の寝不足と一五年間毎日続く寝不足はちがう」ということを言われると腹をたてるわけ。くちをとがらせるわけ。不満に感じるわけ。この相手の態度も、もとをたどれば、きちがい兄貴のやったことが原因なんだよ。ほかの人が信じられないくらいにやった。ほかの人が経験しないようなことを、俺に経験させた。そもそも、経験がちがうのだから話があわない。話の土台がちがう。

*     *     *

たとえば、ぼくがここで、言霊理論について述べたことは、正しいことなんだよ。理論的に正しい。けど、言霊主義者は認めない。その場合、相手にあわせて、言霊理論をある程度認めてあげるという方法が、考えられる。けど、これも実は問題があることなんだよ。たとえば、ぼくが、大学教授で、たまたまあったAさんが言霊主義者で、言霊理論についてなにかを言ったとする。そのとき、「Aさんが言っていることはまちがっているけど、指摘してもしかたがない」と考えて、「そうですね」と言ったとする。そうしたら、Aさんは「わかってくれた」と思って、そのあと、うきうきして帰って、なにも言わない。けど、ぼくがたとえば、無職だとすると、Aさんは、最初から、ぼくのことを下に見て、えらそうなことを言ってくるわけ。それで、言霊の話と言うのも、そういう流れの中で発せられるものなんだよ。このときに、「そうですね」と言ってしまうと、Aさんの態度が悪い意味で、増長するのである。まあ、いい意味で増長するなんてことはないけどね。「増長」というのは、最初から悪いニュアンスがある言葉だ。いちおう、指摘しておくね。最初から悪い意味をもっている言葉を作者であるぼくが使ったということだ。作者の意見と「ぼく」の意見がおなじだということだ。いちおう、指摘しておかないと不公平になってしまうからね。ともかく、Aさんに、無職であるぼくが同意してしまうと、Aさんが、横柄な態度になるのである。絶対に、話を合わせるために、同意してはいけないのである。無職である人が、無職に偏見をもっている人に、あわせてあげると、ろくなことにならない。もう、一〇〇%、ろくなことにならないということが決まっている。Aのような人間は、無職を格下の人間だと認識しているんだよ。格下の人間が「同意」したら、もっと威張りだすに決まっている。そういうレベルの人間がほとんどだ。言ってしまうと問題があるかもしれないけど、言霊理論にまるで疑問をもたない人は、そういうレベルの人が多い。思考が雑なのである。「無職なら、自分より格下だ」「雨がふると言ったら、雨がふったから、言霊(理論)は絶対に正しい」というような考え方なのである。ちゃんと物事を考えていない。条件について、考えてない。一括思考なのだ。

2025年6月9日月曜日

おまじないで、解決したら、苦労しないよ

たとえば、AさんとBさんがいたとする。

Aさんは、言霊主義者だ。Bさんは、過去一五年間にわたって、休日も含めて、一日に、二時間か三時間しか眠れない状態でくらしていたとする。

Bさんが「つかれた」と言ったとする。それを聞いたAさんが「つかれると言うから、つかれる」「つかれないと言えばつかれない」とBさんに言ったとする。

Bさんは、「つかれないと言っても、つかれる」と言ったとする。それに対してAさんが「自分は、つかれたときに、つかれないと言ったら、つかれがふっとんでつかれなくなった」と言ったとする。

けど、Aさんは、Bさんのように、一日に、二時間か三時間しか眠れない状態でくらしているわけではないのだ。ちゃんと、八時間から九時間、毎日、眠って暮らしていた。

けど、そういうAさんだって、一年に、一日、徹夜をしたときがあるとする。その日は、午前四時まで起きていたのだ。一年に、一日だけ、午前四時まで起きていたときがあるとする。そのとき、Aさんは眠たく感じたけど「眠たくない」と言ったら、眠気がふっとんだと言うのだ。

けど、その日だって、午前四時以降に、眠ったのだ。

そして、次の日は、ちゃんと、いつものように八時間眠れた。Aさんが、眠たいときに「眠たくない」と言ったら、眠たくなくなったというのは、事実だ。

それは、「ストレス対抗」期間内のことだから、そうなる。ストレスに対抗できる、時間がある。あるいは、ストスレに対抗できる期間がある。

ストスレに対抗できる時間内で、ストレスに対抗できる期間内であれば、人間は、ストレスに対抗できる。

けど、それは、長くは続かないのである。

ずっとずっと、長く続くと、ストレスに対抗できなくなってしまうのである。ストレスに対抗している時間というのは、いってみれば、ふんばっている時間なのである。

そりゃ、ちょっと時間は、「緊張」にたえられる。「無理をしている状態」に耐えられる。

けど、だから、ずっとずっとずっと、たえられるかというとそうじゃないのである。「無理をしている状態」がずっとずっとずっと続けば、たえられなくなる。

*     *     *

言霊主義者は「言ったあと」に起こったことは、言ったから起こったことだと勘違いしてしまう。勘違いなのだけど、勘違いだとは、思わないので、その人のなかでは「真実」になる。

「明日、雨がふる」と言って、雨だった場合のように、たまたま、発生する場合もあるけど、「ストレス対抗力」も、よく、誤解をされる。

ようするに、「ストレス対抗力」でどうにかなったのに、「言ったから」どうにかなったと思ってしまうのだ。「免疫システムによる自然治癒力」も、よく、誤解さをされる。

「ストレス対抗力」も「自然治癒力」も、人間に「そなえつけられた」チカラだ。自然治癒力が、ない人間もいるはいるけど、たいていの場合は、自然治癒力をもっている。自然治癒力がない人間と書いたけど、その人は、自然治癒力がほかの人よりも弱いだけであって、たぶん、完全に自然治癒力がないわけではないと思う。

まあ、ともかく、人間が「体のしくみ」として持つ力がある。その場合、言霊主義者が、言葉を発したあとそうなったという場合は、完全に誤解をしてしまう。

「眠らない」と言ったら「しばらくのあいだ眠たくなくなった」という場合も、ストレス対抗力でそうなっただけなのだが、言霊主義者は「眠らない」と言ったから、眠たくならなかったのだと認識してしまう。

この認識はまちがいだ。どこまでも、眠らないということは、言霊主義者だってできない。ずっとずっと、「眠らない」と言って、眠らないですますことができるのかというと、できない。

ようするに、ストレス対抗期間内に、言霊主義者が「できる」と思ったことが「完了」しているので、言霊主義者が、言霊の力で、「できた」と勘違いしているだけなのだ。

けど、この間ちがいは、「言霊(理論)は正しい」というまちがった確信をうみだしてしまう。けど、何度も言うけど、一五年間、ずっと眠らないことなんて、言霊主義者だって、ほんとうはできない。できないけど、できたつもりになっているのだ。
 

「眠らない」と言って、何千日もずっと眠らないですごすことは、人間にはできないことなので、言霊理論は正しくない。言ったことが、現実化しない場合がある。

*     *     *

Aさんは、Bさんの「眠れない時間の影響」について、勘違いをしているのである。

Aさんは、Bさんの「苦労」について勘違いをしているのである。

Aさんは、Bさんの「困難」について勘違いをしているのである。

Aさんの場合は、ストレス対抗期間内におさまる「ねむけ」だった。Aさんの場合は、ストスレ対抗期間内におさまる「つかれ」だった。

神様視点で、Aさんの睡眠に関する苦労は、Bさんの睡眠に関する苦労よりも小さいのである。

ところが、Aさんの視点で、自分の睡眠に関する苦労もBさんの睡眠に関する苦労もおなじなのである。Aさんは、睡眠に関してBさんと「同質・動力の苦労をした」と勘違いしているのである。

だから、言霊的な解決方法をすすめるのである。「自分はできたから、Bさんもできる」と自信満々で言うのである。

しかし、条件がちがうので、Bさんにはできないことなのである。長年にわたって、睡眠不足が続けば、「つかれた」という言葉が出やすくなる。

Bさんが「つかれた」という言葉を発すると、Aさんは「つかれたと言うからつかれるのだ。つかれないと言えばつかれない」ということを言うのだ。

Aさんは、言霊主義者なので、そのように解釈して、そのように言う。

しかし、条件がちがう。そして、Bさんがつかれているのは、長年の睡眠不足のせいであって、Bさんが「つかれた」と言うから、Bさんがつかれているわけではない。

ところが、Aさんの頭のなかでは、Aさんが、Bさんにあったときに、Bさんがつかれたというので、Bさんが「つかれた」と言うから「つかれるのだ」と解釈してしまう。

けど、Bさんがつかれているのは、BさんがAさんにあって、Aさんが聞こえるところで、「つかれた」と言ったからではない。

そのまえに、睡眠不足でつかれている。

かりに、Aさんにあったとき、Bさんが「つかれた」と言わなくても、つかれたままなのだ。Aさんにあうまえから、ずっとずっと、つかれているのだ。だから、Aさんは、Bさんの疲労の原因について、勘違いをしていると言える。

*     *     *

たとえば、Aさんが「自分だって眠たいときはあった」と言ったとしよう。それは、事実だ。けど、Aさんは条件を無視している。そして、条件の格差を無視している。

たとえば、Aさんが「眠たいときに、眠たくないと言ったら、眠たくなくなった」と言ったとしよう。Aさんにとっては、それは事実だ。ストレス対抗期間内に、そのようなことをやったとき、あるていど、効果があるかもしれない。けど、Aさんは条件を無視している。そして、条件の格差を無視している。条件がちがえば、ちがう。状況がちがえば、ちがう。環境がちがえばちがう。実際に起こったことが、ちがえば、ちがう。そして、「眠たいときに、眠たくないと言ったら、眠たくなくなった」というのが事実だとしても、それは、言霊の力によって引き起こされたことではないのだ。ここでも、Aさんは、勘違いをしている。なにか神秘的な言霊の力によって自分の身体が、改変されたのではない。言霊の力ではないというのは、ずっと眠らないということができないということで、証明できる。人間の体というものを使ってAさんは生きているのだ。人間のからだのしくみが成り立っている。しくみの影響をうける。そして、Aさんは、日本語を理解している。日本語を使って生きているので、当然、日本語を理解している。日本語を理解しできない人には「NEMU TAKU NAI」という音声は、意味がないものなので、言葉としての影響をあたえない。ようするに、「眠たくない」と言って、気合を入れる場合は、言葉の力に頼っているのである。これは、神秘的で自律的な言霊の力とは関係がない。言霊の力というのは、物理的な動きや、身体のしくみを離れた自律的な力なのである。そういう力として、設定されている。いったん言ってしまうと、どこまでも、自律的な力として作用するのである。そういう力として設定されている。もちろん、実際には、そんな力は、ない。そんな力が言葉に宿っているわけではない。もし、かりに宿っているなら、言っただけで、すべてを、好きなようにできる。言っただけで、すべての問題を解決できる。それから、言っただけで、人間のからだのしくみを改変できるのである。改変できる力があるということになっている。しかし、言っただけで、人間のからだのしくみを改変することはできない。「の」の重複は指摘しなくても、いい。

*     *     *

けっきょく、言霊というようなぎょうぎょうしい言葉を使うから、人が惑わされるのだ。基本的なことを言ってしまえば、「おまじない」なのである。全部、おまじないで解決できると言ったら、わらわれるだろう。言霊主義者だって、「おまじないじゃ、解決しない」と言うだろう。けど、言霊主義者が言霊にたくして言っていることは、「おまじないがきく」ということとおなじなのである。 

*     *     *

問題は、「おまじないがきく」という希望をもつことじゃない。問題なのは、一〇〇%詐欺を行い、法則性詐欺を行うことだ。条件のちがいを無視することは、よくないことなのである。 

*     *     *

他人事であれば「そんなのは、おまじないで解決すればいい」と言えるのである。他人事であれば……。そして、おまじないの効果を信じていれば、「このおまじないは、絶対だ」と言えるのである。「なんだ! せっかく、おまじないを教えてあげたのに、その態度はなんだ!」とおこることもできるのである。 

*     *     *

言霊理論と自己責任論の組み合わせは、最悪だ。他人の条件は、自分の条件ではないので、他人の条件を、ガン無視することができるのである。他人の条件を無視して「おまじないで解決できる」と言うのは、気分がいいことなのかもしれない。そして、条件を無視しているので、他人が失敗をしたら、自己責任だと言えば済む。「絶対にきくおまじない」で、失敗しても、失敗した人の責任だからな。

*     *     *

おまじないで、解決したら、苦労しないよ。 

ともかく、ぼくは、おさまりがつかない

 ほかの人が、どうなのかは、知らないけど、ともかく、ぼくは、おさまりがつかない。きちがい兄貴が鳴らしているあいだずっとつらかった。そして、きちがい兄貴が鳴らしていないあいだも、ずっとつらかった。きちがい兄貴が、毎日、きちがい的な意地で、でかい音で鳴らしていたので、きちがい兄貴が鳴らしていないあいだも、その影響で、ずっとずっとずっと、つらかった。

鳴らしていないあいだは、ヘビメタ騒音でつらいということはないのでは」と思う人がいるかもしれない。その人は、まっーーーったく、わかってない。まーーーーったく、わかってない。どれだけ、一日がつらいものになるかわかってない。どれだけ、「睡眠の影響」をうけるか、まるでわかってない。起きて活動している時間は、眠っている時間の影響をうける。どれだけ、ヘビメタ騒音が睡眠に影響をあたえるかまったくわかってない。 

2025年6月8日日曜日

これが妄想でなくてなんだ?

 言霊論者は、「言ったことが現実化する」と言っているけど、言ったのに現実化しなかったことは、ガン無視して生きているんだよ。

言わなかったのに、現実化したことも、言霊の理論との関係は考えずに、そのまま、「こういうことが起こったのか」と思って認めてしまうんだよ。

「自分が言わなかったら、現実しかないはずだ」というようなことは考えないんだよ。

言霊というのは、まず、第一に自分の言霊なのである。

「自分が言った通りになる」ということなのである。

普段、自分が言った通りにならなかったことは、無視しているのである。そして、言わなかったことが起こった場合でも、その出来事と言霊理論との関係は、無視しているのである。

全部が全部、自分が言った通りになるわけがないだろ。

けど、そういう前提が成り立っているようなことを……言霊主義者は言うのである。

「全部が全部、自分が言った通りになる」と思って(言霊主義者は)生きているのである。けど、それは、ごくわずかな、特別に意識的な部分に限られるのである。

「明日、雨になると言って、雨になったから、言霊理論は正しい」と思ってしまうような幼稚なやつらなんだよ。「明日、雨になる」と言ったのに、雨にならなかった場合は、自分が「明日、雨になる」と言ったことを無視してしまうのである。

「雨にならなかった(雨がふらなかった)」という事実をそのまま受け止めて、言霊のとの関係についてまったく考えないのである。もちろん、雨にならなかった(雨がふらなかった)ということを経験したあとも、依然として「言霊理論は正しい」と思っている状態が続く。

たとえば、自分が目を覚まして、起きたあと、テレビのニュースで殺人事件が起こったことを知ったとする。「自分が言わなかった」のに、殺人事件が起きたのである。

言霊主義者は「自分が言ったことが現実化する」と激しく主張しているんだぞ。

「どうして、自分が言わなかった殺人事件が起こったのか」ということに、疑問をもたなければ、だめだろ。

ところが、自分が言わなかった殺人事件が起きたということを知っても、そういうものだと思ってしまうのである。言霊理論との関係なんて、一切合切考えないんだよ。

たとえば、自分が起きたあと、テレビのニュースで、芸能人のCさんが浮気をしたということを知ったとする。

「自分が言わなかった」のに、芸能人のCさんが浮気をしたのである。おかしいだろ。Cさんが浮気をするには、「自分」が「Cさんが浮気をする」と言わなければならないのだ。そうじゃないと、言霊理論が正しいとは言えなくなる。

すべての発生することについて、事前に「自分か言っておかなければならない」のである。そうでなければ、言霊理論は正しくないのである。

たとえば、人類が発生する前に、地球が発生した。地球が発生するとだれかが言ったから、地球が発生したのではないのだ。人類が発生する前に、火山が噴火した。だれかが「火山が噴火する」と言ったから、火山が噴火したわけではないのだ。

このふたつの例は、「自分」ではなくても、「だれかが」言えばそれが現実化するという言い訳を……言霊主義者がすることを考えて、あげておいた。

基本的には、言霊主義者は幼児的万能感に支配されているために、「自分が」言ったことが現実化すると言っているのである。

しかし、言霊主義者は、反論として……自分ではない、だれかが「芸能人のCさんが浮気をする」と言ったから、芸能人のCさんが浮気をしたということを言う場合がある。

「自分じゃなくても、だれかが言ったからそうなった」という理論だ。

この場合、Cさんの意思というのは、関係がないのである。Cさんが「これから、私は浮気をする」と言った場合を除いて、Cさんは、だれかほかの人の発言によって浮気をしたということになる。こんな、アホなことを言っているのが、言霊主義者だ。

「自分は言っただけで、すべての事柄を発生させることができる」ということを……言霊主義者は、言っているのである。

けど、言霊主義者には、そのつもりがないのである。言霊主義者はいっぽうでは、「自分は言っただけで、すべての事柄を発生させることができる」ということを考えているのだけど、自分が「自分は言っただけで、すべての事柄を発生させることができる」ということを考えているという明確な意識はないのである。

言霊主義者は、自分の言葉ですべてのことを、制御できるということを言っているのである。

けど、もちろん、現実世界においては、そんなことはない。

だから、妄想なのである。

勝手に、「自分が言えば、言った通りになる」と思っているだけなのである。

これが妄想でなくてなんだ?

 

2025年6月7日土曜日

相手の問題・割り切り理論

 実際には、職階という上下関係がある。会社で働くとなると、上下関係の影響をうける。だから、「よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手の問題だと思って、相手の言っていることを無視していい」ということも、実際の人間関係のなかで発せられる言葉なのである。あるいは、生きる指針として語られる場合は、そのような場面も含めて、「よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手の問題だと思って、相手の言っていることを無視していい」という言葉が語られるのである。ようするに、実際に「運用」されている場面は、さまざまな関係のなかに埋め込まれているのである。ところが、「よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手の問題だと思って、相手の言っていることを無視していい」という考え方が、現実的な関係をまったくふくまない「理想空間」で形成されるのである。「よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手の問題だと思って、相手の言っていることを無視していい」というようなライフハックのような言葉は、どこでも成り立つ言葉として流通するけど、実際には、成り立たない環境がある。とりあえず、「よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手の問題だと思って、相手の言っていることを無視していい」というような考え方を、「相手の問題・割り切り理論」と呼ぶことにする。よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手が言っていることは、相手の問題だと考えるということだ。

「考えなおしたから、おまえの問題だ」と言える余地がある。「考えなおした」ということが、「相手におしつける」口実になってしまうのだ。人の考えなんて、ある程度決まっているから……「これは、適切範囲要求だ」と思っていれば、考えなおしても、たいていの場合、適切範囲要求だと思うことになる。相手の言っていることを、退けることができる。あたかも、合理的な判断のように思えるかもしれないけど、「考えなおしたのだからいい」「考えなおすと、やっぱり、相手の問題だから、相手にこれを押し釣ることは問題がない」と思うのだ。

*     *     *

たとえば、きちがい兄貴は、本人の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らしているのに、まったく、悪いと思っていない場合も、きちがい兄貴が「考えなおして」も問題が解決しないのである。無意識のレベルで、聴力を落としているので、でかい音で鳴らしていても、普通の音で鳴らしているとしか思わないのだ。そういう、特殊な人である場合も、やはり、「相手の問題だと、割り切ることで」問題が解決するかというと、解決しないのだ。

兄貴だって……認知的な問題をかかえている兄貴だって……ほんとうは自分の問題なのに、「文句を言ってくる弟の問題だ」と割り切って、きちがい的にでかい音で鳴らすことができるのだ。いっぽう、ぼくが、「兄貴の問題だ」と問題を切り分けても、依然として、きちがいヘビメタを鳴らされている状態なら、ぜんぜん、問題が解決していないということになる。たしかに、きちがい兄貴の問題なのだけど、『きちがい兄貴の問題だ』と割り切ることで、問題が解決しない。問題とはなにか? ここでは、きちがい兄貴が、きちがい騒音を鳴らすという問題が、問題なのだ。

「どれだけなにを言われても」……考えなおして、相手が悪いと思ったら、それは、相手の問題だから、自分には関係がないという考え方は、背景を抜きにして考えれば、それなりに使えるライフハックのように思えるかもしれないけど、現実はちがうのである。 

 

自分の身体をとおして「わかっている人」が、軽々しく「楽しいと言えば楽しくなる」なんて、言うはずがないのだ

  ほんとう、このさき、どうするんだよ? もう、そればかりだなぁ。自分でも「そればっかり言っている」と思うよ。しかし、どうする?

いやーー。もう、ほんとう、いろいろとあったなぁ。

いやな他人というのがいるんだよなぁ。ほんとう、ヘビメタ騒音で、いやな他人が増えた。普通の人は、みんな無理解ぶりを発揮して、無理解な発言をする。けど、その人たちは「あたりまえ」のことを言っているだけだと思っているので、納得しない俺に、ある程度、腹がたつのだ。

ヘビメタ騒音がなければ、言霊主義者にアドバイスなんて、されただろうか。こうすればいい。こうすれば不満がなくなる。こうすれば、光り輝く生活ができる。こうすれば、ちゃんと働ける……。こうすれば、幸福になる……でもいいか。こうすれば、できるようになる……でもいいや。ともかく、きちがいヘビメタ騒音がなければ、俺のほうが、能力的うえで、光り輝く生活ができていたので、そんなことを言われずに済んだ。

きちがいヘビメタをやられるから、言霊主義者から「アドバイス」をくらうようになる。アドバイスをしているほうは、いいことをしているつもりなんだよ。「こういうことに気がつかない人に、こういう方法を教えてあげよう」と思っているわけだから、そうなる。けど、べつに「こういうことに湯がついていない」わけではないのだ。言霊主義的な感覚というのは、幼児的万能感がもたらすものだから、当然、幼児期を経験したことがある人は、みんなもっているものだ。

「知らない」わけではないのである。

ただ、現実の問題というのは、言霊的な解決方法では、解決できないということを学んだだけなのだ。

つまり、学習したから、否定された理論なのだ。現実を無視して、「解決できない」ということをガン無視する人たちには、わからないことだろうと思うけど……。

どれだけ、ヘビメタ騒音生活がきついか、みんな、ヘビメタ騒音生活を経験したことがない人は、無視する。何度も言っているけど、そんなのは、聞いた話で、自分の人生においては架空の話だ。経験したことがないので、わからないのである。

なお、何度も言うけど、べつに「ヘビメタ騒音」ではなくてもいい。ともかく、自分がきらいな音なら、いい。

ようするに、ヘビメタが好きな人は、ヘビメタではなくて、ヘビメタが好きな人がきらいなメロディーのきらいな音を想像してもらえば、それでいい。

だれだって、きらいな(単発の)音があるし、きらいなメロディーがある。

ともかく、自分にあわない音をずっと聞かされる続けるということを考えてほしい。

言霊主義者が考える、ヘビメタ騒音生活のきつさは、たいしてきついものではないのである。「俺だって、苦労した」と言っても、それは、また、ヘビメタ騒音のくるしさとは、ちがうくるしさであるはずなのである。

もちろん、ヘビメタ騒音生活のくるしいさよりも、もっとくるしい、くるしさを経験した人がいると思う。

けど、その人がほんとうに、そういう生活を「長期間にわたって」しているなら、絶対にそんなことは、言わないということを、言っているんだよ。わかってないと思うけど。影響のでかさかがわかってない。長期間にわたってずっと続けば、影響はでかくなるのである。そして、不可逆的になっていくのである。

自分の身体をとおして「わかっている人」が、軽々しく「楽しいと言えば楽しくなる」なんて、言うはずがないのだ。「元気だ元気だと言えば、元気になる」なんて言うはずがないのだ。だから、そういうことを言っているということが、わかってないということを、明示しているのである。 

2025年6月6日金曜日

口(くち)をとがらせて、否定するのは、わかっていないからなのである

 まあ、ここに、言霊主義について、いろいろ書いてきたけど、言霊主義者は「せっかく、アドバイスをしてやったのに、なんだ!?」と思うぐらいのものだろうと思う。言霊主義者としては、すばらしいアドバイスをしてやったのに、その態度なんだ」という気持になるのだろう。けど、きちがい兄貴がやったことがひどすぎる。ぜんぜん、わかってない。言霊主義者は、ぜんぜんわかってない。

言霊主義者じゃなくても、一般人の態度はこんなものだ。「そんなの、あるわけがない」「そんなの、へん」と言って、口(くち)をとがらせるやつだっている。きちがい兄貴のことがまったくわかってないんだよ。きちがい兄貴が、普通の人がわからないようなセンスをもっていて、きちがい的なセンスで、音を鳴らしたので、ほかの人には、まったくわからなくなってしまう。きちがい兄貴が、普通の人だと思っているから……一般人は、きちがい兄貴が普通の人だと思っているから……いろいろと、勘違いをしてしまうのである。

たとえばの話、言霊主義者に俺が言ったことを聞いた、言霊主義者は腹をたてる可能性がある。けど、腹をたてたいのは、こっちなんだよ。わからないとは思うけど。そして、ふたこと目には……みんな……言霊主義者も言霊を信じていない一般人も……みんな……「自分だって苦労した」ということを言う。そりゃ、苦労したと思う。別に、その人たちが「苦労したこと」自体を否定するつもりはない。まったく、ない。けど、文脈というのがあるんだよ。この人たちは、きちがい兄貴のセンスを理解していないのに、きちがい兄貴にもたらされた苦労を、普通の人のセンスで、理解している。ようするに、この人たちが考える、普通の人がもたらす苦労と、この人たちが考えられない、きちがい兄貴がもたらす苦労はちがうのである。ちがうから、ちがう。

だから、きちがい兄貴がもたらす苦労を普通の人がもたらす苦労だと(普通の人は)勘違いしているのである。だから、質や量について勘違いしているわけ。苦労の質や量について、勘違いしているんだよ。

きちがい兄貴のようなしつこさで、きちがい兄貴のような頑固さで、音を鳴らす人間というのを、普通の人たちは、想定していないのである。だから、わかってない。想定していないから、質や量について勘違いをしてしまうのである。きちがい兄貴のような人が家族の一員で、その家族の一員が、きちがい兄貴のようなセンスで、騒音を鳴らしている場合は、その人……そういう家族をもっている人は、ぼくが言ってることが、わかるのである。口(くち)をとがらせて、否定するのは、わかっていないからなのである。「せっかく、いいアドバイスをしてやったのになんだ」とおこる言霊主義者は、言霊理論がまったく役に立たないということを、きちがい家族の行為をとおして、知ることがなかったのである。ようするに、わかっていないのである。

痛さにこだわろうと思って、痛さにこだわっているわけではない。

 ほんとうに、くるしかった。毎日、一生、続くんだろうなぁ。あれがどういうことなのか、一倍速で体験して知っているのは、ぼくだけだ。別に「こだわっている」わけではなくて「状態」として「なっている」。たとえば、痛いときは、痛いわけだろ。痛さにこだわろうと思って、痛さにこだわっているわけではない。状態として、そうなっている。きちがい家族のきちがい騒音によって、引き起こされた不眠は、その日の音がなくなれば、終わるわけではないのである。そして、ただたん眠れないだけではなくて、ほんとうにくるしいのである。「俺だって苦労した」と言っている人だって、別に、きちがい家族によるきちがい騒音を毎日毎日、何時間も何時間も経験して、適切な時間に、眠れなくなったわけではない。悪いけど、きちがい兄貴のきちがい騒音が鳴っていなかったら、ぼくは、普通に眠ることができたのである。実際、きちがいヘビメタ騒音がはじまるまえは、普通に、夜になった眠る生活をしていたのである。「できていた」ことなんだよ。俺に対して「あまえている」と言ったやつらのことは、ゆるさない。おまえらよりずっと過酷な状態を経験してきたんだよ。不可避的にそうなるということがわかってないだけだろ。不可避的にそうなるということがわかってない人は、経験がない人だから、「俺だってその暗い経験した」とは言えない。だいたい、ぼくとおなじような経験をした人は、ぼくが言っていることを理解してくれる。「そんなのはいいわけだ」とか「そんなのはあまえだ」なんて言わない。どういうことを経験したかわかっているから、言わない。経験したことがないから、「そんなのはいいわけだ」とか「そんなのはあまえだ」と言うんだよ。

*     *     * 

とりあえず、「こだわる」という表現をしたけど、「こだわる」という表現は、この場合、誤解をして「こだわっている」と思っている人のことを考えて、「こだわる」という表現を使った。この場合、だれかが、このことにこだわっていると、決めつける人がいるのである。だれかの意見ではないのである。たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんから見ると、Bさんが家族の騒音にこだわっているように見えるのである。こだわっているのではなくて、こまっているのである。 

もちろん、本人がこだわりたくてこだわっている場合もある。その場合は、ちがう場合だ。場合がちがう。 

*     *     *

たとえば、CさんとDさんがいたとする。Cさんが痛くて痛くて「いたい いたい」と言ったとする。それをDさんが聞いて、「Cさんは痛さにこだわっている」とDさんが考えたとする。けど、Cさんは、痛いから痛いと言っているだけで、なにも、こだわっているわけじゃないということを言いたかったわけ。 

2025年6月5日木曜日

雑感 ピンチ

 ヘビメタをやられていたときの不安が、そのまま、流れ込んでくる。ほんとうに、つねに、ピンチだった。家族が、原因。家族が、絶対の意地でやる。家族が、絶対の意地でやっていることを、絶対の意地で認めない。けっきょく、やりがちで、鳴らしっぱなしなのだ。いま、じつは、ネズミがとなりの部屋に入りこんで、見えなくなってしまったのだ。じつは、ここ最近ものすごく体調が悪いので、ネズミの病原体でやられるかもしれないと思うと、不安だ。ネズミだけではなくて、ダニもいる。ダニが原因の病気もある。きちがい親父が、絶対の意地でやったのだ。そして、本人は……やった本人は、知らんぷりだ。まったく、やったつもりがないし、相手がこまっているということが、本気でわからないのである。きちがい兄貴もおなじだったんだよな。きちがい親父と、きちがい兄貴はまったくおなじ。きちがい親父がやったことを、きちがい兄貴がヘビメタでやった。やり方がそっくり! ともかく、こまる。そして、きちがい家族のせいで……ほんとうにきちがい家族のせいで……つねにピンチだったんだよな。つねに、ものすごいハンディを抱えていた。ほかの人にはそのハンディがないのである。けど、たとえば、受験で苦労したと言えば、受験で苦労したと言える。けど、きちがい家族によるきちがい騒音がない場合と、ある場合とでは、ぜんぜんちがう。けど、「俺だって苦労した」と言えば、同質化・同量化されてしまう。きちがい兄貴みたいな人は、めったにいないのだから、ほかの人が、きちがい兄貴のような家族でこまるなんてことは、めったにないんだよ。いちおう、めったにないと書いておいたけど、「ない」と書きたくなるほど、ない。きちがい兄貴だけなんだよ。……あんなことを、やったやつは……。あんなに意地になって、あんな長期間、毎日舞にやったのは、きちがい兄貴だけなんだよ。きちがい兄貴みたいなやつが、きちがい的な意地で、きちがい音楽を鳴らすのは、相当に確率が低いことなんだよ。そんなにいるわけがないだろ。ざらにいるのであれば、俺の話が通じる人が多いということになる。けど、みんな、「俺だって苦労した」と言うわりには、誤解しているんだよな。いや、「俺だって苦労した」というレベルの理解だから、誤解していて当然だ。みんな、勘違いしているので、みんな、おなじ思いはしていないよ。うちの兄貴が特殊すぎる。うちの親父が特殊すぎる。みんなというのは、だいたい、ぼくがあってきた人の九九・九九九%ぐらいの人だ。六か月間やられた人がいたけど、その人だなんだよな。その人は、「ちゃんとわかっている」よ。その人以外の「みなさん」みたいに、勘違い発言はしない。ちゃんと、見積もっている。

2025年6月4日水曜日

やっぱり、ヘビメタ騒音で脳内伝達物質の分泌とかホルモンの分泌がめちゃくちゃになる

 やっぱり、ヘビメタ騒音で脳内伝達物質の分泌とかホルモンの分泌がめちゃくちゃになる。どんだけ、はげしい騒音が、至近距離で続くと思っているんだよ? なにが、「俺だって騒音ぐらいあった」だ。おまえの騒音と俺の騒音がちがうんだよ。おまえが経験したレベルの騒音じゃないんだよ。ふざけるな。「俺だって騒音ぐらい経験した」と言えば、それで、俺の経験を無効化できると思うな。俺の経験の影響を無効化できると思うな。だいたい、「俺だって騒音ぐらい経験した」と言っただけで、騒音のレベルを相対化できると思っているのがおかしい。自分が経験したのと同じレベルの騒音を、ぼくが経験しているという前提でものを言っているけど、それ自体がまちがっているんだよ。あんな騒音、きちがい兄貴じゃないと出さない。きちがい兄貴だからこそ、気にせずに、鳴らせる騒音なんだぞ。なら、普通の環境、普通の条件下では、発生しない騒音じゃないか。「俺だって騒音ぐらい経験したことがある」と言って、俺の騒音経験を同じレベルのものだと仮定するのはやめる。「俺だって苦労した」という言い方で、苦労を同質化・同量化するのはやめろ。実際に、きちがい兄貴が鳴らしたような騒音を経験してないから、どうしても発生してしまう脳内伝達物質の異常やホルモンの異常がわからない。どうしても、発生してしまう「脳内伝達物質の異常やホルモンの異常」の影響がわからない。実際に経験していないから、必然的にそうなるということがわかってないだけじゃないか。実際に経験していないから、必然的に影響をうけるということがわかっていないだけじゃないか。ふざけるな!

言霊主義者も自己責任論者も、相当にレベルの高い「鈍感力」をもっているということになる。

だいたい、他人が経験したことや他人の条件を無視して、「すべて、おまえの責任だ」と決めつけることに、なんの意味がある?

そりゃ、言いがたい悪条件や、言っても誰も理解しない悪条件をかかえている人は、「すべて、おまえの責任だ」と言われたら腹立つだろ。

なにも知らないやつが、一括処理して、とにもかくにも、なにか悪いことが発生したら「それは、おまえの責任なんだ」ということを、言ってくる。

これ、言われたら腹がたつことだということがわからないというのがおかしい。洗脳されて、頭がおかしくなると、こういう簡単なことがわからなくなる。

普段、他人に「すべては自己責任」などと言っているやつは、実際には、普通の人のように、「これは、だれだって腹がたつ」などと言っているのだ。

何度も言うけど、自分にとって、一倍速でおこったことは、自分が経験したことだから、普通に考えることができるのである。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、自己責任論者だ。Aさんがある日、道に向けて、カメラのシャッターボタンを押したとする。そうしたら、自分がうつされたのではないかと思ったBさんが、自分がカメラに映ったかどうか確認させろと言ってきたとする。

そうしたら、Aさんは、自己責任論者なのに腹をたててしまう。

「なんだこの野郎」という気持になる。「だれだって、そんなことを言われたら腹がたつ」と思ってしまう。こんなやつが「すべては自己責任だ」などと人には言っているのだ。

そういうレベルことなんだよ。

何度も言うけど、自己責任論者は、普段、「すべては自己責任だ」と思わずに生きているんだよ。

*     *     *

普通に、なんかのトラブルが発生したら、相手のせいだと思って、相手の責任を追及しているんだよ。

「すべては自分の責任だ」とほんとうに、すべのことに関して考えていたら、生活なんてできなくなってしまうんだよ。

自分の意識に特別にのったことだけ、「すべては、すべては自己責任だから、これは、自分の責任だ」と考えているんだよ。

それは、「自分の責任だ」と考えやすいところなんだよ。

なんでも、すべて、自分の責任だと考えているわけではないんだよ。

どんな自己責任論者も、「なんでも、すべて自分の責任だ」と考えているわけではないんだよ。普段、他人に対して「すべては自己責任」などと言っている人だって、ほんとうは、「すべて、自分の責任だ」と思って暮らしているわけではないということは、重要なことだ。

これは、意地悪で言っているわけではなくて、重要なことなのだ。ある種の「鈍感力」と言えるものがあるのである。鈍感力がなければ、自我が崩壊してしまうのである。理屈としての自己責任論というのは、それほど、インパクトがあるものなのである。

ほんとうは、「ほんとうに、すべては自己責任だ」と思って暮らしていたら、体がもたないのだ。精神がもたないのだ。

けど、自分のことに関しては……逆に、自分のせいではないとはっきりと思えるので、自我が成り立っているのである。

「すべては自分の責任」なのであれば、他人の身に起こったことも、自分の責任になってしまうのである。

かりに、他人が不幸な条件で不幸な出来事を経験したとする。この経験に「自分」がかかわってなかったとする。

しかし、「すべては自分の責任」なので、それも、「自分の責任」ということになる。

しかし、実際は、自己責任論者は、そんなピュアなこころをもっていないので、他人の身の上に起こったことは、すべて、その他人の責任だと割り切って考えることができるのである。 

自己責任論というのは、じつは、「自分の責任だ」ということには、焦点が当てられていない思考法であり理論なのだ。「すべて他人の責任だ」と考える理論が、自己責任論なのである。

「他人の身の上に起こったことは、すべてその他人の責任だ」と考えるのが、自己責任論にのっとった考え方なのである。「自分の責任」ではないのである。他人が不幸なのは、自分の責任だと考えるのが、自己責任論ではなくて、他人が不幸なのは、その他人の責任だと考えるのが自己責任論になってしまうのである。

*     *     *

この世には条件の差があり、「どうしようもない条件下」で、その人が不幸なことを経験するということがある。けど、それも、自己責任論によって、その人のせいにされてしまう。自己責任論というのは、自分の責任を追及する理論ではなくて、他人の責任を追及する理論なのだ。

「なんだろうが、そいつの責任だ」と割り切って考えるが自己責任論者の考え方だ。ここでも、個々人の「個別性」や条件の「個別性」は無視されてしまうのである。

言霊思考において、言ったことではないことが発生している場合は、言霊とその事象の関係がまったく考えられないのとおなじで、事象と自己責任論との関係が考えられていないのである。

ようするに、言霊主義者は「言ったことが現実化する」という理論を支持しているわけだけど、言わなかったことが現実している場合には、言霊とその現実との関係を無視してしまうのである。

それとおなじように、自己責任論者は、個別性を無視してしまうのである。事象にはさまざまな理由がある。人の不幸な体験には、さまざまな理由がある。

ところが、「なんだろうがそいつのせいだ」と考える自己責任論者は、他人の身に起こった事柄の個別性を無視してしまうのである。

長くなったけど、言霊主義者の現実無視力は、自己責任論者の現実無視力と、似ているところがある。この「現実無視力」を「鈍感力」と言い換えると、言霊主義者も自己責任論者も、相当にレベルの高い「鈍感力」をもっているということになる。

 

2025年6月3日火曜日

「すべては自己責任」などと、他人に言ってることに、責任を感じるべきだ

たとえば、神様視点で適切範囲、ほかの人視点で適切範囲であるような作業があったとする。

その場合、きちがいヘビメタ騒音がなければ、ぼくにとっても、適切範囲なのだけど、ヘビメタ騒音という項目が付け加わると、不適切範囲になってしまうのだ。

しかし、ほかの人は、自分が、家族によるきちがい騒音にさらされ続けたことがないので、ヘビメタ騒音のことを過小評価してしまう。あるいは、無視してしまう。

そうなると、「ヘビメタ騒音なんて、鳴ってたって、関係がない」ということになる。

しかし、きちがい家族によるきちがい騒音があると、ほんとうにできなくなるのだ。きちがい家族によるきちがい騒音は、関係があるんだよ。

できるかどうかに関係がある。

ところが、何度も言っているけど、ほかの人は、自分が一倍速で経験したわけではないので、それがわからない。

ようするに、条件について考えない。

条件で分けて考えるということを、そもそもしない。一括して、できるとか、できないということを決めている。

どんな条件だとできて、どんな条件だとできなくなるのかということを、考えない。

一見、きれいな?「努力をすれば成功する」という文言が、圧力をうみだす文言にばけるのだ。圧力をうみだすときは、じつは、きれいごとなんて成り立っていない。

一般人は、基本的に、条件について考えない。

たとえば、「努力をすれば成功する」という言葉を聞かされた場合、「どんな条件でも」……「努力をすれば成功する」と考えてしまう。最初に、条件による分岐というものを考えない。

ところが、現実世界では、条件が成り立っていて、条件が、結果に影響をあたえる。

だから、ほんとうは、一番肝心なところを無視していると言っていい。

*     *     *

「努力をすれば成功する」のほかにも、「すべては自己責任」といったような「一括思考」を強制するような文言もある。

「すべて」と明示して、例外がないということを、宣言している。

この思考に陥ると、現実世界のさまざまな事象について、うまく考えることができなくなる。うまく考えることができないのだけど、自分のことについては、例外がたくさん成り立っている。

しかし、自分のことについては、例外がたくさん成り立っているということを認識できないので、問題がしょうじる。「すべては自己責任」などという言葉をすんなりと信じてしまう人は、ほんとうは、支配者層の考えにしたがって、圧力をうみだ人になっている。

支配者層という言い方が気に食わないのであれば、A層と、B層という言い方をしてもいい。

B層が「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」という考え方を信じ込むと、A層にとってたいへんに都合がよい状態ができあがるとする。

もちろん、この場合の「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」とかという考え方は、例外なくどんな場合でも成り立つという考え方として流通してもらわなければ……こまるのである。

そうしないと、圧力をうみだすことができない。

実際には、社会のいろいろな場所には、上下関係があるので、B層の個人同士が、おしつけあうということになるのである。

そのときに、圧力がしょうじる。

支配者層と被支配者層という言い方にもどす。

被支配者層のなかにだって、さまざまな段階があるのである。身分のちがいがあるのである。立場のちがいがあるのである。恵まれている人と恵まれていない人がいるのである。条件がいい人と、条件が悪い人がいるのである。

だから、ピラミッドの上から一%ぐらいを切って、上から一%の層を支配者層、上から一%の層より下の層を被支配者層とした場合、九九%のなかで、格差がある。

そして、九九%のなかで、上下関係が成り立っているのである。そして、ただ単に、「自分のほうが上だ」「自分のほうができる」と勝手に決めつけている場合でも、「自分のほうが上だ」という「態度」が生まれる。

組織に属している場合は、上下関係がしょうじ。上下関係があるうえで、「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」というきれいごとが語られるのである。けど、これは、上下関係があるという条件無視して語られることなのである。

組織において、上下関係があるなら、「すべては自己責任」とは言えないということなんだよ。じゃあ、どうして、組織において上下関係があるのか? 責任の所在をはっきりさせるために、上下関係がある。
上のやつの命令を聞いて、下のやつがやった。やった結果、ひどいことになった。下のやつは命令通りのことをしたわけで、責任は、上のやつにある。なんで、これがわからないのか? ひどい結果になった場合だけ、下のやつの自己責任になってしまうのはおかしい。

それを、「わかったようなことを言うやつが」……「結果を見て」……「そんなのは自己責任だ」と言うわけだ。これは、非常不公平な意見だ。

本来、自己責任論というのは、アンガーコントロール論として人に近づくのだけど、「その人」のなかで、他人をせめるための道具になってしまうのだ。ぜんぜん、自己責任じゃない。自己責任を感じるなら、条件を無視して、「すべては自己責任」などと、他人に言ってることに、責任を感じるべきだ。

*     *     *

「努力をすれば成功する」に関しては、条件によってちがうから、条件を無視して、「努力をすれば成功する」とは言えない。組織に属していない場合でも、「属性」に関する偏見などによって、「自分のほうが上だ」と思い込んでしまう人もいる。

その人は、マウントをとろうとする。

そのときに使われる言葉が「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」とかという言葉なのだ。

*     *     *

話がズレたけど、ともかく、ヘビメタ騒音という条件がもたらす影響がでかすぎるのだ。

ところが、やられてない人は、それがわからない。

自分がやられていないので、実生活のなかでどういう影響があるのかわからない。

自分がやられていないから、わからないだけなのだけど、それを『影響はない』と判断してしまうのだ。そして、騒音生活によって強制的に生まれるハンディを無視する。

ようするに、「騒音生活のハンディはない」と判断するのだ。

これは、その人たちの家族が、まともな家族で、うちの兄貴のようなきちがい的な行為を夢中になってやり続けることがないから、ただ単に、経験していないだけだ。

ようするに、きちがい兄貴がもたらすような騒音生活を経験していないのである。けど、「自分だって苦労した」と言えば、「同レベルの苦労をした」ということになってしまうのである。

だから、「自分が言っていることは正しい」と思ってしまう。

けど、同レベルの苦労なんてしていないんだよ。もし、同レベルの苦労をしていたら、『影響はない』と言うはずがないからだ。

どれだけ、がんばっても、残ってしまう影響に苦しめられたことがないから、『影響がない』と判断してしまうわけだ。

だから、『影響はない』と言っている時点で、同レベルの苦労をしていないということがわかる。人間のからだをもっていたら、不可避的に影響をうけるということがわかる。わかりたくなくったって、わかってしまう。

わかってないないのだから、うけてないんだよ。

そして、たとえば、そいつの体(からだ)に、同レベルのダメージが蓄積していないから、普通のことができるんだよ。俺だって、きちがいヘビメタのハンディがなかったら、普通に、普通のことができるんだよ。

きちがい家族による騒音が何千日も続いて、できなくなったんだよ。なんでこれがわからないのか? ともかく、ものすごく失礼なことなんだぞ。ものすごく失礼な態度で、まちがったことを言っているんだぞ。自覚、ないだろ。正しいことを言っていると思っている。

けど、同レベルの苦労なんて経験してないんだよ。経験していたら、影響をうけるということが、身にしみてわかるから、『影響はない』『影響がない』『影響なんてない』と言わなくなる。

うちの兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、普通の人が一日に一分だってやらないことを、毎日毎日、やり続けたので、不可避的な影響をうけたんだよ。俺が、不可避的な影響を、うけたんだよ。くそ否定するな! 

だから、特殊な悪条件をかかえている人は……特殊な悪条件をかかえていない人から、悪く言われることになるのである。

みんな「自分なら平気だ」とくちをそろえて言う。

あるいは、みんな、言わなくても、「自分なら平気だ」と普通に思っている。

「自分なら、そんなの平気だ」「自分なら、そんなことの影響をうけずにできる」と思って、アホなことを言う。

「できると言えばできる」とか「努力をすればできる」とかということを言う。

けど、それは、とても失礼なことなんだよ。強烈に失礼なことなんだよ。

どれだけ「できる」と言ったって、できないし、どれだけ努力をしても、条件が悪い場合は、できない。あるいは、できるようにならない。

条件がもたらす悪影響を排除することが……どうしてもできない状態になる。全部の時間をからめとられているような状態になる。

悪条件が睡眠時間に影響をあたえる。どれだけ体が疲れていても、きちがい騒音のあとで眠れないという状態が毎日続く。そんな状態で、影響を受けないわけがない。

しかし、職場や学校で鳴っているのでなければ、知らない人は知らない。家で、きちがい家族が鳴らしてない人は、きちがい家族が鳴らしている騒音経験していないから、そもそも、きちがい家族による騒音の影響をうけていない。

うけていないのだから、受けている人とは、条件がちがう。けど、条件を無視して、「できると言えばできる」とか「努力をすればできる」とかと言ってしまう。

自動的にそうなる。

ほんとうに、ヘビメタ騒音でくるしかった。ヘビメタというのが、ぼくにとって、苦手な音なのだ。あるいは、苦手な音の集合体なのだ。

こんなの、至近距離で、めちゃくちゃにでかい音で、「しろくじちゅう」ずっと鳴らされていいわけがない。そりゃ、宿題だってできなくなるだろう。

これ、「鳴り終わったあとにやればいい」と言うやつがいたけど、それが、むりなんだよ。無理だということが、わかっていないだけなのだ。これ、むりなんだよな。

そして、そいつにとって、苦手な音に置き換えたら、やっぱり、そいつだって、むりだと思う。できないと思う。俺だって、ヘビメタ騒音が鳴るまえは、宿題ぐらい、余裕でできたんだよ。

テレビを視て、そのあとやっても、余裕だったんだよ。

それが、きちがいヘビメタで、鳴っている最中も、鳴り終わったあとも、できなくなる。鳴り終わったあとの、つかれが尋常じゃないのだ。

これ、どれだけ、苛烈な音かわかってないな。あれが、学校から帰ってきたあと、ずっと鳴っているということが、どういうことなのかわかっていないなぁ。

学校がない日は、朝から、ずっと鳴っているということが、どういうことかなのか、わかっていないな。わかっていないだけなのに、えらそうなんだよ。えらそうになる理由はわかる。

「自分はできるけど、エイリはできない」という理由だ。

きちがいヘビメタで、できなくなったんだよ。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、よその人がやらないことをやっていると、ほかのやつとも、トラブルがしょうじることになるんだよ。

自動的にそうなる。

2025年6月2日月曜日

平日の夜は、きちがいヘビメタが「普通に」鳴っていたので、平日の夜になると、「鳴っている感じ」しかしない

このさき、どうしようかなぁーー。ともかく、元気になりたいなぁ。やる気がある状態になりたいなぁ。楽しみを感じられる状態になりたいなぁ。

しかし、もう、ほんとうにつかれたよ。まだ、きちがいヘビメタ騒音が鳴っている感じがする。いま、夜なんだけど、平日の夜は、きちがいヘビメタが「普通に」鳴っていたので、平日の夜になると、「鳴っている感じ」しかしない。

2025年6月1日日曜日

「自分はこれ以降、ずっと眠らない」と言えば、ずっと、何十年間も、毎日、眠らずに生きていくことが可能

 たとえば「眠たくないと言えば、眠たくない(状態になる)」と言えるのかどうかだ。たとえば、「眠たいというから眠たくなる」と言えるのかどうかだ。言霊主義者だって、四八時間起きているのは、相当につらいはずだ。言霊主義者だって、実際には、眠たくなってから、「眠たい」ということのほうが多いはずだ。眠たくないのに、突然「眠たい」と言って、眠たくなるのかというと、それもちがう。だいたい、まず、生理現象として、本人の脳が「眠りたい」と思うような状態を作り出している。言霊主義者だって、たいていの場合は、眠りたくなった後に「眠たい」と言うのだ。順番は、本能的に眠りたくなったあとに、「眠たい」と言っているわけで、眠りたくないのに、急に、「眠たい」と言って、言ったから、言霊の力によって、眠りたくなるわけではないのだ。けど、言霊主義者は、幼児的万能感に支配されているので、「ねむたい」と言うから、ねむたくなると思ってしまう。「ねむたい」と言ったあとに、言霊の力によって、眠たくなるわけではない。時間が近接していて、眠たい感じが予兆のようなものとしてあるなら、「ねむたい」と言ったあと、なんとなく、眠たくなることはある。しかし、それは、もうすでに、いなくても、時間の問題で「ねむたくなる」のである。たとえば、「眠たくないと言えば、眠たくなくなるか」と言えば、そうではないのだ。しかし、人間のからだというのは、短時間なら、ストスレ対抗で乗り切ることができる。だから、「眠たくないと言ったら、しゃっきりして、眠気がふっとんだ」というようなことを言う人たちがいるわけ。けど、その人たちだって、一日二四時間、ずっと起きているということを、一年間ずっと続けるということは、できない。どこかで、「ねむたくない」と言っても、眠たくなって、眠ってしまう。あるいは、「ねむたくない」と言うことを、忘れてしまったあと、眠たくなって眠ってしまう。『眠たくないと言っていないのだから、眠ったって、いいだろ』と思うかもしれない。それなら、たとえば、「自分はこれ以降、ずっと眠らない」と言えば、ずっと、何十年間も、毎日、眠らずに生きていくことが可能なのかということが問題になる。そんなことはできない。言霊主義者だって、四〇年間ずっと、起きて暮らすなんてことはできない。「これ以降、自分は、眠たくならないし、眠らない」と言ったって、眠ってしまう。

言霊主義者が、例に挙げるのは、短時間のストレス対抗期間に起こることだ。「そういう気分で乗り切った」というだけの話だ。その人たちだって、一〇年間、ずっと、起きているなんてことはできない。眠気は、たぶん、波状攻撃を繰り返す。だから、その期間中は、「眠たくない」「眠たくない」と言ったあと、なんとなく・眠たくなくなって、がんばることができたというだけの話だ。これも、人間の脳に、依存した話だ。それは、生体リズムをつくっているけど、けっきょくは、物質的な話なのだ。脳内の様々な物質の物理的な運動によって、眠気がつくられ、人は眠る。

「眠らない」と言っても、途中で死なない限り、最終的には眠るわけだし、「眠たくない」と言っても、最終的には、眠たくなって、眠るわけだ。眠たくなっているときに「眠たい」と言うかどうかは、本来、別の話だ。そりゃ、状態として、眠りたくなっている状態を、口に出すかどうかのちがいでしかない。 

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一年間ずっと眠らないことだって、できないのに……「言ったことが現実化する」なんて、よくも、言えたものだよ。他人には「眠たいというから眠たくなる」と言って、ゆずらない。こんなやつらが、ヘビメタ騒音のことを過小評価して、頭がおかしいことを言ってくる。これが、不幸な出来事でなくて、なんだ? ほかの人がまったく理解できない程度、きちがいヘビメタを、きちがい兄貴が、おいモッキリでかい音で鳴らすから、よその「なんでもないやつらとのあいだに」こういう問題がしょうじる。よその「なんでもないやつら」は自分なら平気だと思って、むりなことを言ってくる。経験したことがないから、そう言えるだけだ。もちろん、「なんでもないやつら」だって、騒音ぐらいは経験したことがあるはずだ。じゃあ、その「なんでもないやつら」が経験した騒音と、特殊な家族による騒音が同じレベルの騒音かというと、ちがうのである。当然、影響のでかさもちがう。ところが、影響のでかさを無視して、「俺だって騒音ぐらい経験した」と言えば、「そんなのは関係がない」と言える状態が成り立っている。実際に、きちがい家族による、きちがい騒音を……前日……前々日……二〇〇日まえ、一〇〇〇日まえ、五〇〇〇日まえに経験していない。経験していないから、睡眠リズムが、普通の人のまんまでいられるだけだ。そいつだって、きちがい家族が、きちがい的な基準で、きちがい的な感覚で、きちがい的な音をなら続けたら、ぼくのような状態になる。ところが、本人は、経験していないから、そういう状態になってない。ぼくのような状態になっていない。ぼくのような状態になっていないのは、そいつが、おなじことや、同レベルのことを経験していないからなのに、自分だったら平気だと思って、むりなことを言ってくる。もちろん、そういうやつらが言っているときは、ぜんぜん無理なことだとは思っていないのである。騒音というところまで、抽象化すると、影響のレベルを判定することができなくなってしまうのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。