言えば言ったことが現実化する」ということと、「言えば言ったことが、言ったあとに現実化する場合だってある」ということは、ちがう意味をもっているんだよ。
ところが、「言えば言ったことが現実化する」と主張している人たちは、「言えば言ったことが現実化する」ことと「言えば言ったことが現実化する場合だってある」ということが、意味的に等価だと思っているわけ。
おなじことだと思っているわけ。
けど、ぜんぜんちがう。
さらに、言霊主義者が「言えば言ったことが現実化する」と言う場合は「言えば、言ったことが言霊の力によって、現実化される」という意味で「言えば言ったことが現実化する」と言っているのだけど、両者は、かなしずしも等価ではない。まあ、そういう意味で使っているということは、理解している。
けど、まあ、ここらへんのことは、ずっと説明してきたから、省略する。ともかく、一〇〇%詐欺をしていることに、気がつかない限り、理論的には、正しくないことを言っているのである。けど、ぼくの経験の範囲で言うと、ここらへんのことを言霊主義者に説明しても、言霊主義者が、認めてくれたことが、ないのである。
「言えば言ったことが現実化する」ということは、「言えば、すべての言ったことが現実化する」ということと、意味的に等価であるということが、わかってない人たちがいる。
その場合、「元気だ元気だと言えば、自分は元気になった」ということは、「言えば、言ったことが現実化する」ということの証拠になると思っているのだ。
けど、「元気だ元気だと言えば、元気になった」というのは、「言えば、言ったことが現実化する」ということが、正しいということの証拠にはならない。
けど、自分が一回でも、「言ったことが現実化した」と思うことがあれば、普遍的に「言ったことが、現実化する」と思ってしまうのである。これは、まちがいだ。理論的にまちがっている。とこるが、認めないのである。言霊主義者は認めない。
「元気だ元気だ」と言えば、すべての場合において、元気になると思っているのである。しかも、「言霊の力で元気になる」と思っているのである。けど、言霊の力はないので、言霊の力で元気になることは、一〇〇%場合において、ない。はっきりと、そう言える。言霊の力ではなくて、言葉の力によって、元気になったような気がしただけだ。ストレス対抗期間内の出来事であって、なおかつ、体のしくみによって達成されることだ。言霊の力で、元気になったわけじゃないのである。
もう、まちがいが多すぎて、いやになる。
ところが、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音によって、できないことが増えると、言霊的なことを言われる機会が増えるのである。
ほんとうに、不愉快なことなのである。きちがい兄貴のきちがい騒音で、ぼくが元気ではない状態になれば、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってくる人たちが出てくる。この人たちは、俺に助言をしているつもりだ。悪意はない。
けど、理論的にまちがっているのである。
そして、理論的にまちがっているということを、この人たちに説明しても、この人たちは、……ぼくの経験の範囲で言えば……みんな、わかってくれなかった。しかも、くちをたてて「言霊(理論)は正しい」と言って、聞かないのである。
そして、基本的なことを言ってしまうと、ぼくに対して、いい感情を抱かないのである。そりゃ、自分が信じている理論を批判されたのだから、おもしろくないわけだ。そうなると、敵対的な感情が生まれるのである。ぼくが、不幸な目にあえば、「ざまあみろ」と思う気持がうかぶのである。この人たちのこころに……。
言ってみれば、こっちが理論的に正しいことを説明しただけなのに、言霊主義者から、うらまれるという、不幸なことが発生してしまうのである。
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きちがいヘビメタ騒音によって、「できないこと」が増えるのである。そうすると、言霊主義者が「できないと言うから、できない」「できると言えばできる」などと言ってくることが多くなるのである。
こいつらは、ほんとうにみんな……みんながみんな、ヘビメタ騒音の影響でできなくなったということを、無視しやがるのである。
きちがい兄貴が、きちがいヘビメタ騒音をでかい音で鳴らしきることにこだわらなければ、こんなことになっていないのだ。言霊主義者がなんかの機会に「できると言えばできる」と言ったって、「そうですね」と言えば、それですむわけなのである。
けど、きちがい兄貴の、きちがい騒音がずっと続いたことによって、できなくなったぼくは、「そうですね」と言うことに抵抗がある。そして、サービスで「そうですね」と言ってしまうと、ひどいことになるのである。これ、ぼくの経験の範囲で言うと、言霊主義者が増長するのである。俺のことを、もっとなめてくるのである。こういうことが、ほんとうにいやだ。
起点は、この場合、きちがいヘビメタ騒音なのだよ。きちがい兄貴のきちがい騒音なんだよ。これは、ほかの家では発生しないことなんだよ。きちがい兄貴とおなじレベルで、おなじようにくるっている人間じゃないと、やり続けることができないからだ。
ほとんどの言霊主義者が、ぼくとおなじレベルのことを経験していないから、きちがいヘビメタが鳴りはじめるまえのぼくのように「できている」だけなのだ。
ぼくが、突然、「できない」と言ったから、「できない」という言葉にやどっている言霊の力によって、できなくなったわけじゃないのである。もう、その点ですら、言霊主義者は誤解をしている。
「きちがいヘビメタ騒音でできくなった」と言っているのに、きちがいヘビメタ騒音の影響を、ガン無視するということ自体が、失礼なことなのである。
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言霊主義者は「言えば、すべての言ったことが現実化する」ということと「言えば、言ったことが現実化する場合もある」ということの区別をしていない。「言えば、言ったことが現実化する」というのは「言えば、すべての言ったことが現実化する」ということと、意味的に等価なのである。もう、これは、さんざん説明してきたけど、ほとんどの言霊主義者が、理解しない。
もうひとつ言いたいのは、全称・自称詐欺についてである。たとえば、言霊主義者は……「自分が、明日は雨がふると言ったから、雨になった」と思っているのである。自分の身に発生した、ひとつの例から導き出した法則性が、すべての場合において成り立つと自動的に考えてしまうのである。
もともと、 「言えば、すべての言ったことが現実化する」ということと「言えば、言ったことが現実化する場合もある」ということの区別ができていないので、自分の場合は、こうだったので、これが不変的な法則として成り立つと思ってしまう。
ちなみに、「言えば言ったことが現実化する場合がある」と書いたけど、これは、言ったあと、言霊ではない別の理由で、言った内容が現実化しただけだ。
ともかく、「元気だと言えば元気になる」と思っている人は、自分が「元気だ元気だ」と言ったとき、自分が元気になったので、「元気だ元気だと言えば元気になる」ということが、普遍的に発生すると勘違いしてしまうのである。
「元気だ元気だと言ったら、元気になった。だから、言ったことが現実化する」と考えてしまうのである。
「言ったことが現実化する」というのは、「すべての言ったことが、一〇〇%確率で現実化する」ということと意味的に等価なのだ。
もちろん、自分が「元気だ元気だ」と言ったら、元気になったということが、「すべての言ったことが、一〇〇%確率で現実化する」ということの根拠にはならない。
けど、言霊主義者は、根拠になると思っているのである。
「言えば言ったことが現実化する場合がある」ということと「言えば、言ったことが現実化する」ということの区別ができていないから、こういうところでも、簡単に誤解してしまうのである。この誤解の上に、全称・自称詐欺が成り立っている。
ようするに、一〇〇%詐欺の上に全称・自称詐欺が成り立っている。全称・自称詐欺は、一〇〇%詐欺の特殊なケース。