「社会のせいにする」という言い方も、「人のせいにする」という言い方とおなじ問題を抱えている。個別性を考えないのだ。「社会のせいにしている」ように見える人は、みんな、こうだと決めつけてしまう。
だれかが、だれかを「社会のせいにしている」と思っているだけで、それは、神様視点での、決定事項ではない。
まず、これが肝心なんだよな。
AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは、Bさんのことを「社会のせいにする人だ」と思っている人だとする。
Cさんは、Bさんのことを「社会のせいにする人だ」と思っていない人だとする。Bさんが難からの発言をしたり、何らかの行動をした場合、Aさんは「Bさんは社会のせいにしている」」と思ったわけだ。
そして、Cさんは「Bさんは社会のせいにしていない。Bさんの主張はあっている」と思ったわけだ。Aさんのなかでは、Bさんは「社会のせいにする人」であり、Bさんは「社会のせいにした」ということになる。
Cさんのなかでは、Bさんは「社会のせいにする人」ではなく、Bさんは「社会のせいにしたわけではない」ということになる。Bさんのことなのだけど、Bさんに対して、別の個人が、それぞれ、ちがった判断をくだしたということだ。
神様視点の個人などは、存在しない。神様視点は、神様しかもてない。みんな、『自分は、だれだれさんが社会のせいしていると思っている』ということを、表現しているにすぎない。
しかし、本人のなかでは、それは、「正しいこと」なのである。本人のなかでは、「決定事項」なのである。
だから、その「決定事項」にしたがって、そのあとの意見を言うようになる。そして、Bさんというような個別具体的な例について語っているときも、個別具体的なBさんのことについて語っているという意識だけではなくて、Bさんのような人全体について語っているという意識が成り立っている。
たとえば、Aさんは「Bさんは社会のせいにした」「Bさんは社会のせいにする人だ」と決めつけたわけだ。
ほんとうに、Bさんが「社会のせいにした」のかどうかは、わからない。
かりに、Bさんが社会のせいにしたとして、ほんとうに、社会側に責任があった場合はどうなのだ。
Bさんが言ってることは「Bさんが、社会のせいにしている」ということで、しりぞけていいことではない。「せいにする」という言い方には、「本当は、対象となる存在のせいではないのに、だれかが、その対象のせいだと言っている」というニュアンスが含まれることになる。
実際に……「だれだれ(1)が、だれだれ(2)のせいにした」と(だれだれ3が)言っている場合は、言っている主体(だれだれ3)が、ほんとうはだれだれ(2)の責任ではないことを、だれだれ(1)が、だれだれ(2)の責任だと考えて、「だれだれ(2)のせいだ」と表現したと……だれだれ3が考えているということを意味している。
Aさんの言っていることを考えると、Aさんは「ほんとうは、Bさんのせいなのに、Bさんが社会のせいにしている」という認識か成り立っている。
そして、Bさんが言っていることは、不適切なことだという認識が成り立っているのだ。Bさんが言っていることが間違っているという判断が、「Bさんが社会のせいにした」という言い方に、まぎれこんでいるのである。
集合的一括思考が成り立ってる場合、さらにやかっいなことに、Bさんのようなことを言ってる人は、みんな、Bさんとおなじだと考えてしまうのである。
しかし、「社会のせいだ」と言った人には、別々の人生があるのである。ようするに、おなじではない。「社会のせいだ」と考えだ場合の、「社会」というものについて、「社会のせいだ」と言っている人が、みんなおなじ考え方をもっているとは限らない。
「社会」と言ったって、具体的に思い浮かべている「社会」がちがうのだ。
けど、これらのことについても、捨象して、一般化した集合的一括思考が成り立っているのだ。
たとえば、神様視点で決定してしまうけど、Bさんが実際に「社会のせいにした」とする。これは、悪い例だ。ほんとうは「Bさん」のほうに責任の所在があるとする。
しかし、Bさんは、「社会」のせいにしたとする。しかし、この社会という言葉は、問題なんだよね。
まあ、それには触れずに、話をすすめることにしよう。
悪い例に合わせて、一般化してしまう。悪い例に合わせて、集合的一括思考をしてしまうとしよう。その場合……「ほんとうは、たしかに社会のほうに、責任がある」場合の人についても、「社会のせいにした」と判断して、Bさんとおなじ存在だと思うようになるのである。
どういう表現を使うかどうか、迷うのだけど、行動による一般化が成り立ってしまう。たとえば、無職の人に対する偏見は、無職の人に対する偏見なのだけど、「こういうことを言った人」に対する偏見は「こういうことを言った人」に対する偏見として成り立つのである。
だれか(4)が「社会のせいだ」と言ったとする。そうしたら、ほかの「社会のせいだ」と言っている(集合的他者)人も、だれか(4)とおなじだという偏見が成り立ってしまう。
職業的属性ではなくて、発言による属性、行動による属性によって、偏見が成り立つパターンがある。
だから、神様視点で、Bさんが「社会のせいにした」とする。
ほんとうは、Bさんが言っていることは間違っているとする。ほんとうは、社会のせいではなくて、Bさんのせいだとする。
つまり、実際にBさんに瑕疵があるのに、社会の瑕疵だとBさんが主張しているということになる。責任の所在が(神様視点で)Bさんにある場合だ。
社会にはBさんが主張するような責任がないという場合だ。こういう場合をひとつあげれば「社会のせいだ」と言っているやつは、みんな、実際に「社会のせいだ」と言っているやつに瑕疵があるのに、社会のせいにしているとみなしてしまう。
しかし、それは、適切なみなし方?ではないのである。一括思考をしたところで、間違った推論をしているということになる。
たとえば、Cさんが、ほんとうに、社会に責任があることについて、「社会のせいだ」と言ったとする。「社会のせいだ」と言ったという事実は、BさんとCさんでかわりがない。
たしかに、Cさんも「社会のせいだ」と言っている。たしかにCさんも「社会のせいだ」と言った。
言ったのだ。
なら、Cさんは「本当は社会に責任がないことについて」「社会のせいだ」と言ったということになるのかどうかだ。
この場合、Cさんは、ほんとうに社会に責任があることについて「社会のせいだ」と言ったわけだから、Bさんとはちがう。
しかし、Aさんは、Bさんが「社会のせいだ」と言ったこととと、Cさんが「社会のせいだ」と言ったことを、おなじように認識してしまう。
個別性は、はく奪されている。
Aさんのなかでは、「社会のせいだ」と言ったということが、重要なのだ。「社会のせいだ」と言った人は、みんな、ほんとうは、社会の責任ではないことについて、社会のせいだと言ったということになってしまう。
Cさんの場合は、ほんとうに社会に責任があることについて、「社会のせいだ」と言ったのだ。だから、CさんとBさんはちがう。しかし、Aさんにとっては、Cさんも「社会性だ」と言った人だということになっている。
その場合、Cさんも、Bさんとおなじように、「社会の責任ばないこと」を「社会のせいにした」と表現した人だということになる。
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「責任の所在について言及すること」と、「なになにのせいにすること」はちがう。ちがうけど、区別がついていない人たちがいる。この人たちにとっては「責任の所在について言及すること」と「なになにのせいにすること」はおなじことなのである。
責任の所在について、直接言及しない場合も、だれか(1)がだれか(2)によって「なになにのせいにしている」と判断されることはある。だれか(2)にとっては、だれか(1)が「なになにのせいにした」ということは、事実なのである。
ところが、だれか(2)が、ただ単に責任の所在について言及した場合は、だれか(2)は、「なになにのせいにした」ことにはならない。「責任の所在について言及すること」と、「なになにのせいにすること」はちがう、ちがうことだからだ。
「なになにのせいにした」ということは、「だから、だめなんだ」という思考と、簡単に結びつく性格をもっている。 「責任の所在について言及した」だれか(1)は、自動的に「ダメな人」になるのである。
だれか(2)のなかでは、「ダメな人」になる。こういうことが、広範な場所で、成り立っている。
ちなみにだけど、だれか(2)のようなひとは、自分が一倍速で感じていることに関しては、「こいつがこういうことをしたから、自分は腹を立てた」というような感情をもつことが、たびたびある。
そのときは、「なになにのせいだ」と言ったわけではないけど、自分が腹を立てたのは、こいつがこういうことをしたからだ」と思っているわけだ。
そして、じつは、口に出すこともあるのだ。
ところが、言霊主義者のように「ぬけぬけ」なので、自分が感情的に正しいと思っていることに関しては、『自分がだれだれのせいにした』という気持ちにはならないのだ。
自分の場合は、ちゃんとした理由があるのだから、「だれだれのせいにした」ということにはならないと思っていることが多い。まあ、ごく自然に、「だれだれのせいだ」ということにするのだけど、ごく自然に「あたりまえだ」と思って、『自分自身』がだれだれのせいにしたということを感じないような状態になっている。
だから、主観というのが、ものすごく重要で、他人のことなら、だれか(3)が、だれか(4)の責任を追及しているのであれば、そのだれか(3)は、「人のせいにする人だ」と認識するしまう人(だれか5)も、自分のことに関しては、自分は(外から見て)「人のせいにする」ような表現をしたとしても、(自分のことなので)「人のせいにする人だ」とは自分のことを思わないのである。
その本人(5)にとって、本人の主観的な感情があることに関しては、そとからみて、「人のせいにしているように見える場合でも」……本人の主観としては、「(自分は)人のせいにしていない」ということになっているのである。
だから、『自分は自己責任で生きている』と豪語するけど、実際には、あたりまえだと思うことに関しては、自己責任で生きていない人が、主観的には「自分は自己責任で生きている」と思っているようなことが、「人のせいにする」ということにも、しょうじてしまう。
かりに、他人同士のことであれば、ごく自然に、「とにかく、人の責任を追及しているほうが、人のせいにしている」と感じる人でも、自分と他人のことであれば、『自分が他人の責任を追及している場合』でも、自分が「人のせいにしている」ということにはならないのだ。こういうもたちがいる。
この「人のせいにする」というコンセプトは、言霊、思霊、引き寄せ、さまざまなXをすることの、サブルーチンとして、登場することがある。
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無職に対する偏見と「だれだれのせいだ」と言った人に対する偏見は、偏見という意味では、たいしてちがいがない。「だれだれのせいだ」と言った人だというときに成り立つ認識も、無職の人に対する認識も、たいしてかわがない。無職の場合は、カテゴリーわけが簡単だ。しかし、「だれだれのせいだ」と言ったということに関しては、「だれだれのせいだ」と言ったということを認識した人のなかで成り立つカテゴリー(集合)であり、「だれだれのせいだ」と言ったときに、いなかった人のなかには「だれだれのせいだ」と言ったという認識は成り立たない。
たとえば、AさんとBさんとCさんとDさんがいたとする。
Aさんは、無職であるとする。Aさんが、なにかのことで「これこれこうなのは、Dさんのせいだ」言ったとする。Bさんは、Aさんが、「これこれこうなのは、Dさんのせいだ」言ったときに、Aさんと一緒にいたので、Aさんが、「これこれこうなのは、Dさんのせいだ」言ったということを知っているとする。Cさんは、Aさんが、「これこれこうなのは、Dさんのせいだ」言ったときに、Aさんと一緒にいなかったので、Aさんが、「これこれこうなのは、Dさんのせいだ」言ったということを知らなかったとする。
この場合、Bさんのなかには「Aさんは人のせいにした人だ」という認識が成り立ち、Aさんは「人のせいにしたグループ」のなかにいれられる。Cさんのなかには、「Aさんは人のせいにした人だ」という認識がないので、Aさんは「人のせいにしたグループ」のなかに、はいっていない。
BさんもCさんもAさんが無職であるということを知っているとする。「だれだれのせいだ」と言ったというようなことが原因であるカテゴリーわけは、流動的で、だれだれが、このように言ったということを聞いたかどうかという経験によって、差がつく。
無職というようなカテゴリーの場合、わりと!固定的なのだ。Aさんが無職であるという情報が正しい場合、Aさんが自分で言ったのか、どこかで発覚したのかわからないけど、Aさんが無職ではない人になるまでは、正しいカテゴリーわけだということができる。
正しいというのは、情報として正しいということであって、別に「無職であることがよくないことだ」という偏見が、正しいということではない。Aさんが無職であるという情報が間違っている場合、Bさんも、Cさんも間違った認識をしているということになる。
しかし、情報が訂正されるまでは、Bさんのなかでも、Cさんのなかでも、Aさんは無職であり続ける。「言った」ということは、忘れない限り、言ったという認識が成り立っている。
「Aさんは、Dさんのせいだ」と言ったというBさんの記憶がなくならない限り、Aさんが、Dさんのせいではなかったと言ったにしろ、言ったということは、言ったということとして、記憶に残る。まあ、無職ではない状態になったあとも、無職であったという記憶は残る。
まあ、ともかく、行動に関する集合的一括思考と、わりと!!固定的なカテゴリー関する集合的一括思考は、いちおう、わけて考えたほうがいいということを言いたい。