非特権階級と特権階級のあいだには、差がある。条件の差があるのだ。
だから、「労働」というものも、非特権階級と特権階級のあいだには差がある。そもそも、特権階級は、労働なんてしなくてもいいのである。
しかし、非特権階級の内側にある差のほうが、重要なところもある。ようするに、普通の人の生活というものを考えると、普通の人のなかでの、差というのが……普通の人の人生に……めちゃくちゃに重要な影響を与えることになる。
ここでは、普通の人というのは、非特権階級の人という意味だとする。普通の人のなかで、条件の差があるのだけど、条件の差というのものは、普通の人の人生に「ものすごく大きな」影響を与える。与え続ける。
ところが、精神世界の話のなかでは、まず最初に、条件の差を無視した言い方をしてしまうのである。
しかも、条件の差を無視したということを、無視しているのである。
そして、条件というものは、あとで、付け加えられるものなのである。多くの人が、集合的一括思考をしてしまうので、そこで付け加えられた条件というのは、否定されるためにある条件だということになる。
つまり、無条件で、最初の言い方が成り立つということになってしまうのである。最初の言い方というのは、たとえば、「言えば言ったことが、現実化する」というような言い方だ。
「明るいことを思えば明るいことが起こり、暗いことを思えば、暗いことが起こる」ということも、「暗いことか明るいことか」という条件以外の条件を無視した言い方になっている。
「引き寄せは可能だ」という言葉も、「引き寄せ行為をすれば、引き寄せたい内容を引き寄せることができる」という意味になるのだけど、この場合も、引き寄せ行為をするかしないかという条件以外の条件は、自動的に、最初に、無視されることになるのである。
そして、サブルーチンがはじまり、サブルーチンのなかで、条件がわいる人がディスられることになるのである。条件が悪いから、悪い出来事が発生している人が、軽蔑されることになるのである。
格下の存在として見下すことになってしまうのである。
最初の言葉を信じた人は、自動的に、サブルーチンの考え方も、身に着けるようになる。ごく自然にそうなるのだ。
しかし、特性があるんだよね。特性としては「から」と「あと」の区別がつかないということや、100%構文の意味がよくわかっていないということや、「ぬけぬけ」の思考をするということだ。それぞれ、すでに、詳しく論じてきた。ここでは省略する。ようするに、いろいろな誤解が成り立っている。
しかし、その誤解が、最初の文は、絶対に正しいという確信を生み出すことになる。
もちろん、最初の文は、間違っている。なので、その確信も間違っているということになる。しかし、一度最初の文を受け入れた人のなかでは、最初の文が形成するパラダイムが成り立ってしまうので、間違っているようには思えないのである。
そして、サブルーチンは、サブルーチンのなかにサブルーチンをもっていることがある。サブルーチンだけでぬける場合もあるけど、サブルーチンのなかのサブルーチンがはじまってしまう場合もある。
さらに、サブルーチンのなかのサブルーチンに、さらにサブルーチンがある場合もある。まあ、ここら辺は、ネスト構造が成り立っているのだけど、何階層のサブルーチンが成り立っているかということは、たいして重要ではない。
ともかく、サブルーチンに入ると、ごく普通に「なになに……ではない人」を見下すようになるのである。一見正しそうなことを信じている人が、条件が悪くてこまっている人を、見下すようになる。これも、最初から、しくみとして成り立っていることなのだ。
だから、一見正しそうなことを信じる人が、どれだけ増えても、社会はよくならない。それどころか、一見正しそうなことを信じる人が、増えれば増えるほど、社会が悪くなっていくのだ。
そして、相対的に条件が悪い人の人生は、過酷なものになる。