場面を考えると、精神世界の人たちは、悪いことをしているほうの味方をするのである。
悪いことをされているほうに、わかったようなことを言うのである。
その……「わかったようなこと」……というのは、「無理なこと」なのである。
しかし、精神世界の人たちのなかでは「無理なことではない」ということになっていることなのである。
ジャイアンとのび太の話でとりあげたけど、やられてるほうに、無理なことを言うのである。これは、いつでもおなじだ。やっているほうではなくて、やられているほうに、無理なことを言う。これが、精神世界の人たちが、高確率でやることだ。
たとえば、ブラック社長と、名前だけ店長のことを考えたとしよう。
引き寄せ主義者は、過剰な労働を引き寄せた「名前だけ店長」が悪いということを言い出す。名前だけ店長が、過労死寸前の労働を引き寄せてしまったからダメなんだということを言うわけだ。名前だけ店長が、サービス残業を引き寄せたからダメなんだということを言うわけだ。
名前だけ店長に、サービス残業をおしつけているブラック社長のことは、悪く言わないのである。
そして、名前だけ店長が、サービス残業を引き寄せないようにすればいいということを言い出す。サービス残業ではなくて、快適な労働を引き寄せるように、快適な労働を引き寄せる行為をすればいいのだということになる。
だから、快適な労働をしているところを、ものすごく強くイメージすればいいということを言い出す。
引き寄せというのは、妄想だ。引き寄せができるというのも、妄想だ。引き寄せる力を強くすれば、なんでも引き寄せることができるというのも、妄想だ。
そして、最初は、『自分が、引き寄せたいことを引き寄せたい』と思ったところからはじまる。対象は、自分なのである。
しかし、引き寄せパラダイムを信じているから、この世界のすべてが、引き寄せパラダイムの対象になる。
ようするに、他人も、いろいろなことを「引き寄せている」と考えるようになる。他人も、自分とおなじように、いろいろなことを引き寄せることができると考えてしまうのである。
ほんとうは、引き寄せ能力などというものはない。
なおさら、個人に特有の引き寄せ能力なんてものはない。
だから、「ない」力をもっているという仮定のもとに暮らすことになる。
この人たちにとって、たいていの他人というのは、引き寄せの力に気がつかない愚かな存在なのだ。自分は気がついている存在だから、気がついているほうがえらいということになる。
そして、そういう他人というのは、引き寄せ能力が『自分よりも』低い存在なのである。
引き寄せがへたくそな人は、引き寄せることができないし、引き寄せることができる自分は、引き寄せることができるのである。
実際に、悪い条件が悪い出来事を発生させることがあるのだけど、これも、悪い条件が悪い出来事を発生させたのではなくて、その人が悪い出来事を引き寄せたから、ダメなんだ(悪いんだ)ということになってしまうのである。
だから、条件が悪いから、悪い出来事が発生しやすい人には、「いいことを引き寄せることができる方法」を教えてあげればいいということになってしまうのである。
しかし、これが善意であろうとも、もともと、個人的な「引き寄せ能力」というものはない。なにか、音楽の才能や、絵の才能のように、「引き寄せの才能」があり、「引き寄せの才能」には、個人差があるという世界観があるのである。
「引き寄せの才能」には、個人差があるというものの見方で、世界を見るようになるのである。
ようするに、世界のなかで起こったことを、引き寄せパラダイムに従って見るようになるのである。ほんとうは、「条件の悪さ」が原因なのだけど、「引き寄せ能力の不足」が原因なのだと思ってしまうのである。
他人のことも含めて、「引き寄せ能力の不足」が原因なのだとみなすようになってしまうのである。……一度、引き寄せという考え方を信じると、自動的にそうなってしまう。