とりあえず、長期・慢性疲労と短期・非慢性疲労をわけることにする。
長期慢性疲労は、何十年間も積み重なった疲労のことだとする。ようするに、眠ったあとも、続く疲労だ。短期・非慢性疲労は、一回眠れば、とれるタイプの疲労だ。一度、夜、ちゃんと眠れば、それでリセットされてしまうような疲労だ。
どっちも、「つかれ」だ。
ところで、四〇年間、長期通勤をしてつかれはてている人がいたとする。この人をAさんだとする。Aさんは、一日のなかで、短期の疲労も、もちろん感じる。
けど、子どもや、わかい人のように、眠ってしまえば疲れがとれるわけではない。長期疲労がたまっているからだ。
まだ、サラリーマン生活をはじめたばかりのわかい人がいたとする。この人をBさんだとする。
ところで、言霊主義者というのは、「言ったこと」に注目しがちだ。「つかれた」と言ったら、「つかれた」という言葉はわからないので、「つかれた」と言った人を、平等に扱うのである。ようするに、区別なく扱う。
「つかれた」という言葉を発した人は、おなじように「つかれた」という言葉を発した人なのだ。だから、長期・慢性疲労と、短期・非慢性疲労の区別をしない。
Aさんが「つかれた」と言っても、Bさんが「つかれた」と言っても、「つかれた」という言葉から発生する?つかれの量は同じなのだ。あるいは、「つかれた」という言葉に宿っている言霊がもたらす「つかれ」の量は同じだと推測できる。
言霊主義者というのは、相手の過去の出来事を無視する傾向がある。言霊主義者が、唯一、重視する「相手の出来事」がある。それは、「言った」という出来事だ。
しかも、言霊主義者は「言ったから、そうなる」と思っているのである。
Aさんが「つかれた」と言ったとする。言霊主義者から見るとAさんがつかれたと言ったから、Aさんはつかれたのだということになる。おなじように、Bさんが「つかれた」と言ったとする。言霊主義者から見るとBさんがつかれたと言ったから、Bさんはつかれたのだということになる。
Aさんにはある四〇年の長距離通勤のつかれが、無視されてしまうのである。
だいたい、Aさんは、「つかれた」と言ったからつかれたのではない。四〇年間の長距離通勤にプラスして、今日のそれまでの時間内に、いろいろな出来事が発生したから、つかれたのだ。
四〇年間の長距離通勤にプラスして、今日のそれまでの時間内に、いろいろな出来事が発生したから「つかれた」と言ったのである。
どうして、四〇年間の疲れを無視してしまうのか?
言霊主義者は、過去否定論者じゃなくても、過去を否定する人間なのだ。この場合、条件がつく。相手の過去は無視するけど、自分の過去は無視しないのだ。
自分が一倍速で四〇年年間の長距離通勤を経験した場合、自分にはそれがわかるので、無視しないのだ。こういう幼稚で単純なところがある。
もう一つ、言霊主義者が無視しない過去の出来事がある。それは、「言った」という過去の出来事だ。「言った」という過去の出来事だけは、例外なのだ。
言霊主義者も、人間なので、「つかれ」という感覚は知っている。なので、「自分だってつかれたことがある」と言えば、それで、相手と同程度の疲れを感じたことがあるということに、なってしまうのだ。
言霊主義者の頭のなかでは、自分も相手と同程度の疲れを感じたことがあるということになってしまう。
これと、「つかれた」と言ったということ以外の過去の出来事を無視してしまう思考が合わさると、自分も相手と同程度の疲れを感じたことがあるという立場で、相手の数十年にわたるつかれを否定することができるのだ。
だって、自分だってつかれたことはあるわけだし、言霊主義者にとって大切なのは、発言だけだから、相手が「つかれた」と言ったら、どういうつかれなのかということは、無視して、「相手がつかれたと言った」ということだけを重視するからだ。
* * *
問題なのは、「つかれた」という言葉に宿っている「つかれ」の量は、「つかれた」という言葉に宿っている「つかれ」の量によって決まると、言霊主義者が考えているかどうかということだ。言葉がおなじなら、おなじ量の「言霊」が宿っていると思うのかどうかということが問題になる。
断言することはできないけど、文字列がおなじなのだから、おなじ文字列から出てくる言霊の量は、おなじだと、言霊主義者が考えているかもしれないという疑いがある。
言霊主義者は、ものすごく、単純な理解しかしないんだよなぁ。
相手が「つかれた」と言ったら、「つかれたんだな」としか理解しない。どういう質のつかれが、どのくらいの量あるのかということは、気にしないところがある。気にしないので「どんなにつかれていても、元気だ元気だと言えば元気になる」と他人に言えるところがあるのではないか。
相手のつかれの質というのは、相手の経験に関係なく、平均化されてしまうのではないか。
相手が「つかれた」という文字列を使うなら、その文字列に対応した「つかれ」しか、言霊主義者は感知しないのではないか。「つかれた」という言葉に宿っている言霊があるとする。
Aさんが「つかれた」と言っても、Bさんが「つかれた」と言っても、「つかれた」という言葉に宿っている言霊のもたらす「つかれの量」は、かわらないのではないかということだ。
そういう理解を言霊主義者がしているのではないかということだ。
言霊主義者は、相手の過去を無視する傾向がある。「つかれた」という言葉が発せられた背景というものについて、深く洞察しないのだ。
相手が「つかれた」と言ったら「つかれたんだな」と思うだけでどういうことが起こって、つかれたのかということは、深く考えないのである。ようするに、相手の言葉以外の、相手の背景を無視する傾向が(言霊主義者には)ある……ように、わたしには、思える。
まあ、ともかく、それとは別に、おなじ文字列に込められた言霊の量と質はおなじなのかという問題がある。もちろん、言霊はないし、言霊の力もないので、言霊主義者がどう考えているのかということが問題なのである。
「つかれたと言うからつかれる」と言霊主義者が言ったとする。「つかれた」という言葉に宿っている言霊の量は、だれが言ってもおなじなのだろうか。「つかれた」という言葉がもたらす、「つかれ」の量がおなじなら、おなじだということになる。
もちろん、質は、無視されている。だってそうだろ。言霊主義者は、相手の背景を無視している。過去の出来事によって、相手の背景が決まるのである。
もちろん、相手が言葉にして表現したぶんしか、他人である言霊主義者は理解しない。相手が表現していない部分が、相手の経験のなかにはあるのではないかということは、可能性としても考えられることがないのだ。言霊主義者によって考えられることがない。
文字列がおなじ言葉なら、おなじ量の言霊、おなじ質の言霊が宿っていると言霊主義者が考えるかどうかということについて、ぼくは、考えているのである。
* * *
ともかく、言霊主義者の理解というのは単純で、相手が「つかれた」と言ったら「つかれたんだな」ぐらいしか感じないのである。
そこには、「平準化された」つかれしかないのである。「つかれた」という言葉がおなじなら、だれが言っても、「つかれた」という記号しか、言霊主義者にはつたわらないのかもしれない。
言葉は、平準化されるなら、記号でしかないんだよ。
* * *
ところで、言霊主義者は、おなじ文字列に宿っている言霊は、おなじ言霊だと思っているのだろうか。「思いが強いほうが勝つ」というような考え方があるのである。もし、思い別良いほうが勝つ」と言霊主義者が思っているなら、おなじ文字列に宿っている言霊は・おなじではないと考えているということになるのである。
『思いが強いほうが勝つ』という言霊主義者の発言について、説明しておこう。
たとえば、AさんとBさんが試合をするとする。Aさんが「勝つ」と言ったとする。言霊的な理解をするなら、「勝つと言ったのだから」Aさんが勝つのだ。
そして、Bさんも「勝つ」と言ったとする。言霊的な理解をするなら、「勝つと言ったのだから」Bさんが勝つのだ。
AさんもBさんも「勝つ」という言葉を使っている。「勝つ」という文字列に込められた「言霊の量」はおなじなのだろうか?
ちがうのだろうか?
すべての言霊主義者が『思いが強いほうが勝つ』と言うかどうかは、わからない。
けど、多くの言霊主義者は単純なので、AさんもBさんも「勝つ」といった場合には、「勝つという思いが強いほうが勝つ」などと言ってしまうのだ。
Aさんの実力やBさんの実力は関係がないのである。言霊主義者は言ったかどうかを問題にする。外部環境も内部環境も、すべて、無視して、「言ったかどうか」ということしか、問題にしない。
「言えば言ったことが現実化する」のだから、そうなる。
言ったかどうかだけが問題になるのである。
その人の実力も、その人のコンディションも、関係がないのである。ところが「勝つ」と言ったほうが、勝つのだ。
両方とも「勝つ」と言った場合は、「思いが強いほうが勝つ」などと、多くの言霊主義者が言ってしまう。
しかし、それは、言霊ではなくて、思いが強いかどうか問題であるということを言っているのである。
言霊は関係がないということになってしまう。
こういうところでも、言霊主義者の考え方というのは、幼稚で支離滅裂なのだ。矛盾ばかりなのだ。
「言い方が悪いから、現実化しなかった」と言霊主義者が言う場合もある。
これは、あとだしで言うことだ。
最初は、どんな言霊主義者も「言えば、言ったことが、現実化する」というのだ。現実化するのだから、現実化しないということはないのである。
ところが、現実化しないということが起こった。それに対する、くるしまぎれの言い訳なのだ。
もうすでに指摘したことだけど、「言い方が悪いから、現実化しなかった」ということは、「言っても言い方が悪いと現実化しない(こともある)」と言っていることになる。
「言えば、言ったことが現実化する」というのは、「言えば、一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ということと意味的に等価なので……もう、この時点で、理論的に破綻している。
けど、今回、言いたいのはそのことじゃない。たとえば、言い方によって、こめられる言霊の量を調整できると思っているのかどうかということだ。
もちろん、言霊主義者がどう思っているかということが問題なのである。基本的に、言霊理論はまちがっているので、そんなことを考えてもしたがないと思う人がいるかもしれないけど、ぼくの研究対象は、言霊を信じている人たちなのだ。
言霊自体ではない。
どうも、言霊主義者は、ほぼ全員が「思いを込めて言えば、言霊の量を調整できる」と思っているみたいなのだ。
言霊に込められる思いの量がちがうと思っているみたいなのだ。
そして、思いの量がそのまま、言霊の量になると思っているみたいなのだ。「みたい」という話なるけど、しかたがない。
* * *
「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という理論の場合、言霊の力というのは、言葉に(最初から)宿っているので、自分が「宿らせる」力じゃないんだよなぁ。
ここも、なんか、自分が宿らせる力があると思っているみたいなんだよな。
言い方によって、自分が(言葉に)宿らせる言霊の量がちがうと思っているみたいなんだよな。
けど、「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という理論の場合、自分の言い方は、関係がない。
自分が宿らせる力はない。自分が宿らせるのではなくて、言葉に宿っている力なのである。こういうところも、なんか、幼稚なんだよな。
自分が強く言えば、言霊の量も増えて、言霊の力が強くなると思っている部分がある。
だから、「言い方」が問題になる。
けど、「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という理論の場合、言い方に関係なく、言葉に宿っている言霊の力によって、一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化するということになるわけだから、言い方は問題にならない。