ほんとうに、ヘビメタ騒音で「ひとりになって」しまった。ほんとうに、ヘビメタ騒音で人間関係、ぼろぼろ。ぼろっぼろ。きちがい兄貴のような家族にやられてない人は、そうなる必然性がわからない。そういうやつらは、俺がきちがい兄貴のせいにしていると言うのだろう。これは、きちがい兄貴のせいじゃないのに、きちがい兄貴のせいにしているという意味だ。これも、ぜんぜんちがうのに「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」「元気だ元気だと言えば元気になる」「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」などと言っているやつらには、わからないことだろう……と思う。みんな、実生活のなかで、一倍速でやられてないから、やられた体で他人とつきあうということが、どれだけたいへんなことかわかってないんだよね。やられていなければ、普通に問題なくできたことなんだよ。全部に影響がある。きちがいヘビメタ騒音は、全部に影響がある。きちがい兄貴はきちがいだから、まったくなにもやってないつもりなのだ。けど、自分が、一〇〇やりたければ、絶対の意地で一〇〇、やって、一だって、ゆずらない。小数点を出して言ってもしかたがないけど、〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一だって、ゆずらない。けど、きちがい親父おなじように、きちがい兄貴は「ゆずってやったゆずってやった」と言うのだ。入試のときだって鳴らしていたのに、なにを言っているんだ? これ、ほんとうに、きちがい兄貴の頭と、きちがい親父の頭がおなじなのだ。ほんとうに、そっくり。〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一だって、ゆずらなければならなくなったら、発狂してしまうのだ。一〇〇にこだわる。一〇〇のうちの、一〇〇にこだわる。けど、一〇〇やりきれれば、まったくやっていなつもりになれるのだ。これが、きちがい脳なんだよ。親父と兄貴がまったくおなじ。きちがい的な意地で、ゆずらずにやっているのに、それがまったくわかってない。どれだけ、もめても、俺がこまっているということが、まったくわからない。本来なら、鳴らしてはいけないようなでかい音で鳴らしているということが、一五年間の間、ずっと、毎日わからない。けど、兄貴の嫁さんと、兄貴がマンションに住むようになってから、鳴らさないのだ。こういう、きちがい。こういう無意識。
現在、なんとかweb系の仕事で食べています。このブログで扱う問題は「この世とはなにか」「人生とはなにか」「人間とはなにか」「強迫神経症の原因と解決法」「うつ病の原因と寄り添う方法」「家族の問題」などについてです。
2025年6月25日水曜日
絶対に、「鳴り終わったら関係、ない」なんて、言わない。
ヘビメタ騒音の切羽詰まった状態というのが、並じゃないんだよな。破裂しそうな気持をもって、歩いていた。学校に向かっていた。学校に向かって歩いているとき、もちろん、ヘビメタ騒音が鳴っているわけではない。きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、前の日の夜になり終わった。あるいは、その日の朝、家を出る時まで鳴っていたけど、家から離れたので、聞こえない状態だ。けど、じゃあ、鳴り終わったから関係がないかというと、そうではないのである。これ……「鳴り終わったら関係、ない」と言ったやつを、ぶっ殺してやりたい気分になる。そんなもんじゃないのである。そんなもんじゃないということがわかってないということは、ぼくとおなじようなレベルの騒音を経験したことがないということなのである。きちがい家族が鳴らす、きちがい的なレベルの騒音を経験したことがないということなのである。けど、こういうやつだって……口を開けば「俺だって騒音ぐらいあった」と言う。「俺だって苦労した」と言う。「俺だって憂鬱なときはある」と言う。けど、ちがうんだよね。おなじことを経験した人が、そんなことを言うはずがない。「鳴り終わったら関係がない」と言ったあとに「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だって苦労した」「俺だって憂鬱なときはある」と言うのだ。そんなことは、ありえない。レベルがちがうんだよ。経験したことがちがうんだよ。おなしレベルをことを経験した人が「鳴り終わったら関係、ない」なんて、絶対に言わない。きちがい家族の、ものすごい騒音を毎日聞かされたことがない人だけ「鳴り終わったら関係、ない」と言う。もう、それでバレバレなんだよ。ぜんぜんちがうことを経験したんだよ。絶対に、「鳴り終わったら関係、ない」なんて、言わない。
* * *
しかし、絶対に、「鳴り終わったら関係、ない」と言ったやつが、認識を改めたとしても、ぼくの側の崩壊は、とまらない。どれだけ切羽詰まった気持ちで、歩いていたか。学校の椅子に座っていたか。切羽詰まった気きもちと書いたけど、ほんとうに、並じゃないのである。それは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音でつくられたもなのである。ほかのことで、そうなっているわけじゃないのである。
ともかく、やられちゃったので、不可避的にこういう状態になった。切羽詰まった気持ち、怒り、憂鬱、不安……。ほんとうに、並じゃないのである。ギリギリ限界なのである。そりゃ、普通の気持ちは死んで、異常な気持が生まれるだろう。憂鬱の憂鬱が、並じゃない。会社に行くときは憂鬱で憂鬱でしかたがないけど、旅行に行くときは楽しくて楽しくてしかたがない……そんなやつが言う、憂鬱とはちがうのだ。ところが、そういうやつだって「憂鬱で死にたい気持ちになった」と言うのだ。「自分だって、憂鬱な気持で電車に乗っていた」と言うのだ。そりゃ、そうなんだろうけど、ちがうよ。
2025年6月24日火曜日
けど、これが、ほかの人にはわからないのである
一〇年先のことは、一〇年たったら、考えよう。
それにしても、だれに言ってもわからない気持ちがある。ほんとう、普通だったら楽しいところに行く場合、楽しくなるのだけど、ぼくは、死にそうなほど憂鬱になるのである。内見の話じゃない。ともかく、みんながレジャーとしていくようなところに行くことを考えた場合、ものすごく憂鬱になるのである。どうしてかというと、ヘビメタ騒音の毎日があったからだ。ヘビメタ騒音の毎日は、ほんとうに地獄の毎日だった。あれで、気にしないようにして生きるということはできない。そりゃ、どうしたって影響をうける。そして、昨日の夜、鳴らされた場合でも、次の日の朝、ものすごく憂鬱なのである。その気持ちを、おさえて、行動していた。そのめちゃくちゃにつらい状態を、こらえて、起きて、行動していた。けっきょく、そういうことを毎日続けたことが、普通なら楽しい場所に行くときも、強烈に憂鬱になるという状態をつくりだした。けど、これが、ほかの人にはわからないのである。
矛盾を感じないから、「言ったことが現実化する」と信じているだけなのである。
言霊主義者は、朝起きたとき、どれだけのことが発生したか、思い知るべきなのである。自分が言わなかったことが、いっぱい、いっぱい、発生している。
自分が言わなかったのに、発生したんだぞ。
地球の裏側で、いろいろなことが起こった。そのひとつひとつについて、まったく、言霊主義者は発言していないのである。発言しなかったのである。それなのに、地球の裏側で、いっぱい、いっぱい、いろいろなことが発生した。
地球の裏側どころか、自分の街のありとあらゆることについて、言わなかったにもかかわらず、自分の町のなかで、いろいろなことが発生したのである。
じゃあ、普段、言霊主義者は、土のなかの出来事について、どれだけ、発言するのか。「ミミズがこういうふうに動く」と言わなければ、ミミズがこういうふうに動くということが、現実化しなかったのである。
言霊理論にしたがえばそうなる。
「ミミズがこういうふうに動く」と言わなかったのに、ミミズがこういうふうに動いたということが、現実化してしまうのであれば、言わなかったことも現実化するということなのである。
一匹のミミズだけではない。
おびただしい数の、土のなかに住む奇妙な生物についても、いちいち、だれかが言及しないと、土のなかに住む、おびただしい数の奇妙な生物が、その通りに、動かないのである。
だって、言ったことが現実化すると言っている。
言霊主義者は、言ったことが現実化すると言っているのだ。
おびただしい数の細菌が動いたなら、おびただしい数の細菌について、言霊主義者が、事前に発言していなければならないのである。そうじゃないと、細菌だって動けない。細菌だって、増えない。
地球の裏側どころか、自分の家の、庭のことまで、全部、言われなければ、そうならないのである。言霊主義者が、知らないうちに、その言霊主義者の庭に、雑草がはえた。「ここに雑草がはえる」と言わなくても、雑草がはえた?
なぜか?
言霊の力とは、関係なしに、物理的な力が働いて、雑草がはえたのである。そして、言霊主義者は、雑草が実際にはえて、自分が気がつくまで、雑草についてはなにも考えなかったのである。つまり、雑草についてなにも言わなかったのである。
ある言霊主義者が、道を歩いていたとき、道端に花が咲いているのを発見したとする。「ああっ、こんなところにも、花が咲いている」と言霊主義者は思って、うれしい気持ちになった。
ところで、「ここに花が咲く」と事前に言わなかったのに、どうして、花が咲いたのか?
おかしいじゃないか。
「だれかが、咲く言ったから咲いたんだろ」と(言霊主義者は)言うかもしれない。しかし、言霊主義者は、ほんとうは、自分が言ったから、自分が言った通りになる(はずだ)と考えているのである。
「明日は雨になる」と自分が言ったから、実際に雨になったと、考えるのである。ほんとうは、「自分」なんだよね。
だから、「自分が言わなかったこと」が現実化していることを発見したときは、おどろかなければならない。ところが、まったく、おどろかないのだ。
「自分が言わなくたって、現実化する」と思っているから、道端の花のことまでは、言わない。それでは、「自分が言わなくたって、現実化する」と意識的に思っているのかというと、そうではないのである。
意識的には「自分が!言ったことが現実化する」と思っているのである。地球の裏側で起こることについてなにも言わなかったのに、地球の裏側で、いろいろなことが起こっている……。起こった。
地球の裏側どころか、隣町のことについて、自分が、まったくなにも言わなかったのに、隣町の人たちがいろいろなことを、した。隣町どころか、自分の庭でも、自分が言わなかったことが、いっぱい、いっぱい、起こっている。起こった。
ようするに、矛盾を感じないから、「言ったことが現実化する」と信じているだけなのである。
つまり、「自分が言ったから、現実化した」と言霊主義者が考えることは、ものすごく、限られていることなのである。
自分の意識がそこに集中しないと「こうなる」ということを言えず、「こうなる」と言ったことが、言ったあとに、現実化しないと「言霊は正しい」と思わないのだ。
そして、自分が言わなかったことが現実化していた場合は、自分が言わなかったのに、現実化したということに、疑問をもたない。これは、矛盾に気がつく思考力がまったくないということを意味しているのである。
庭に草がはえていたら、ごく普通に、「どこかから、雑草のタネがとんできて、土の上に落ちて、発芽して、草がはえた」と思うのだ。
「他人が言ったから、現実化した」「他人が言ったから、庭に草がはえた」と無理やり考えたとしても、ほんとうは、他人が言ったかどうかはわからない。
そして、人類が発生するまえに、「火山が噴火する」と……だれも言わなくても、火山が噴火したということになる。
人類が発生する前に、雨がふっていたとする。人類のだれかが「雨がふる」と言うまえに、雨がふっていたのである。
自分が「雨がふる」と言ったから、「雨がふった」と考えているのが、言霊主義者なのである。
自分が「明日、雨がふる」と言ったから「今日、雨になった」と考えるのが、言霊主義者なのである。
「自分が言わなかったことでも、だれかが言ったので、そうなった」という理論は、人類が発生する前に起こったさまざまなことを考えると、簡単に否定できるものなのである。
どうして、海がある?
どうして、地球がある?
どうして、人類以外の生物が発生したのか?
* * *
実際、自分の町のことでも、無数のことが起こっており、その無数のことについて、だれかが言及した数は、少ないはずなのである。実際に起こったことの数にくらべて、自分や他人が言ったことの数が、少なすぎるのだ。
事前に言及されなかったにもかかわらず、自然界の物理的な活動によって起こったことは、無数にある。
そして、じつは、人間がかかわることでも、事前にだれかが言わなくても、発生したことが……たくさんあると言わなければならなくなる。
なにを一個とカウントするかの問題があるけど、無数にあると言っていいほど、多数のことが「だれにも言われなかった」にもかかわらず、現実化してしまっている。
* * *
言ったことが現実化する……と言霊主義者が言っているときは、自分が言ったことが、現実化したということに、焦点があっているのである。そこに、意識が集中している。
ほかのことは、自分の身に起こったことですら、事前に、なにも発言されていなかったということに、気がつかない。
自分の身に起こったことですら、自分が言わなかったにもかかわらず、起こったことがたくさんあるはずなのに、それらのことは、簡単にガン無視してしまうのである。言霊主義者は、自分が言わなかったのに、たくさんのことが現実化したということに、気がつかない。
自分が言わなかったことが現実化していることを発見したとしても、『自分が言わなかったことが現実化した』とは、思わないのである。
どれだけ、欠陥のある思考か、わかるだろうか?
わからないのかな?
* * *
言霊主義者は、「自分が言ったことが、現実化する」という意味で、この言葉を言っているけど、自分が言わなくたって、めちゃくちゃに多くのことが現実化しているのである。す
でに、現実化したのである。
ならば、自分が言わなかったことも現実化するし、だれかほかの人が言わなかったことも現実化するということを、認識しなければならないのである。ところが、「ヌケヌケ思考」なので、そういう認識をもつことがない。
* * *
「言えば、言ったことが現実化する」という場合の主体は、第一義的には、「自分」なのである。
「自分」が言わなかったのに、すでに起こったこと……つまり、現実化したことについては、間に合わせ的に、「だれかが言ったから、現実化した」と他人を持ち出すけど、理論的な整合性はないのである。
矛盾については、間に合わせ的な思考で「これが正しい」とつぎはぎで考えているから、根本的な矛盾に突きあたらなくてすむのだ。
しかし、まちがっている。
言霊主義者は、実生活のなかでは、自分が言わなかったことが現実化しているということに気がつかなければならないのだ。
あるいは、自分も他人も言わなかったことが、現実化しているということに、気がつかなければならないのだ。
ところが、まったく気がつかない。
言霊主義者は『言えば、言ったことが現実化する。これが正しい』と思っている。言わなかったことが、現実化していることを突きつけられても、『言えば、言ったことが現実化する。これが正しい』と思っている状態がかわらない。
そして、言霊主義者が、「言えば言ったことが現実化する」と言っているときは、じつは、「言えば、現実化することもあるし、言っても現実化しないことがある」という意味をこめて「言えば言ったことが現実化する」と言っているのだ。
最初から、「言っても現実化しないことがある」ということを、言霊主義者ですら、無意識的には認めているのだ。
だから、あとだしで「言い方が悪いから現実化しなかったのだ」と「いいわけ」をすることができる。そして、その「いいわけ」が、理論的におかしいということに気がつかないですむ。
「言ったら、言ったことが現実化する場合もあるし、現実化しない場合もある」と言えばいいのに、「言えば、言ったことが現実化する」と言ってしまうのである。
これは、無意識的に、一〇〇%詐欺をしているということになる。
しかし、理論的に説明をされても、一〇〇%詐欺をしているということを認めないのである。ぼくが知っている範囲でいうと……一〇〇%詐欺について……ぼくが、ちゃんと理論的に説明してあげても、言霊主義者は、認めない。
言霊主義者は……言霊に関しては……理論的に考えることができないのである。理論的にまちがっていることは、理論的にまちがっているということを認めなければならない。
* * *
誤解を招くと、まずいので、ちょっとだけ言っておきたいことがある。「言ったら、言ったことが現実化する場合もあるし、現実化しない場合もある」と書いたけど、言霊の力によって、言ったことが現実化することは、絶対にない。
なぜなら、言霊も言霊の力もないからである。
言ったら、言ったあとに、ほかの理由で、言ったことが現実化する場合はあるけど、それは、言霊ではないほかの理由で現実化しただけだ。
ようするに、言ったあとに、ほかの理由で現実化した場合のことを、「言ったら、言ったことが現実化する場合もある」と(ぼくは)表現しただけなのである。
2025年6月22日日曜日
だから、俺がうたがわれる。不可避的にうたがわれる。
ほんとうに、ヘビメタ騒音の不利感が並じゃないのである。ほんとうに、あんな音で鳴ってたのは、うちだけ。うちだけなんだよ。俺の部屋だけ、きちがいの音で満ちていたんだよ。普通の音じゃなかったんだよ。普通の人が普通の家でやるような音……鳴らすような音じゃなかったんだよ。きちがい兄貴もきちがい親父も普通の人じゃないけど、自覚がない。普通の人は、きちがい兄貴がどういうふうにくるっているか、きちがい親父がどういうふうにくるっているか、まったくわかってない。だから、俺が、不可避的に、いつも、誤解をされる。「自分だって苦労した」と言っているやつだって、ほんとうは、きちがい家族と一緒に住んでいたわけじゃない。そのきちがい家族が、きちがい感覚で、自分がこの世で一番嫌いな音を、大音響で鳴らしていたわけではない。ところが、「できると言えばできる」「眠れると言えば眠れる」「そんなのは、あまえだ」「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だって苦労した」と、無理解発言をする。こいつらも、無理解発言をしているという自覚がない。認識がない。まったくない。「差」がでかすぎる。そして、あんなにも長い期間、あんなにも長い時間、自分がこの世で一番嫌いな音を聞かされ続けたら、不可避的に、鬱になるのに、それがわからない。意欲がなくなるのに、それがわからない。つかれるのに……つかれはてるのに、それがわからない。わかっていないやつが、えらそうなことを言ってくる。これも、きちがいヘビメタ騒音とセットだ。そして、きちがい親父は、きちがい兄貴が鳴らしているときも、きちがいなのである。ほかの人が、信じないような反応をする。だから、俺がうたがわれる。不可避的にうたがわれる。きちがい兄貴が鳴らしているとき、ほとんどの時間、きちがい親父はうちにいなかった。よりつかなかった。だから、「きちがい兄貴が鳴らしているとき」というのは、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らしていた期間のことだとする。全体をとおして、きちがい親父の、きちがい兄貴に対する態度がきちがいなんだよ。ほかの人がわかるわけがない。
「今現在に集中すればいい」と助言するやつらは、それがまったくわかっていないのである
「過去は記憶の中にしかない」とか「過去は記憶の中にしか存在しない」とかと言っている人たちは、「今現在に集中すればいい」という文脈で、これらのことを言っている場合が多い。
「今現在に集中すればいい」という文も、「すべては自己責任」という文とおなじように、条件がめちゃくちゃに悪い人を、せめる文なのだ。
条件が悪い人の条件をガン無視して、あたかも、「今現在に集中する」ことで、条件がめちゃくちゃに悪い人の状態を改善できるようなことを言うのである。
しかし、条件が悪い人が「今現在」に集中すると、条件がもっともっと悪くなるのである。はっきり言ってしまうと、この文は、条件が悪い人の首をしめる文だ。
状態の悪さというのが、条件から出てくるもなのである。
条件というのは、過去から現在まで、続いているものなのである。もちろん、短時間で終わる条件もある。しかし、こまっている人の悪い条件というのは、多くの場合、長く続いている条件なのである。つまり、長期間続いている条件なのである。
たとえば、ブラック社長と名前だけ店長がいるとする。名前だけ店長は、長年、サービス残業で、夜、あまり眠れないという生活をしているとする。その場合、名前だけ店長が「今現在に集中しても、いいことにはならないのである。サービス残業に集中したって、いいことにはならないということだ。
日中の仕事でもいい。問題なのは、つかれはてているということなのである。
だから、休まなければならない。それも、長年、むりをしてきたのだから、普通以上に、休めるようにしなければならないのである。
ところが、「今現在に集中すればいい」と助言するやつらは、それがまったくわかっていないのである。名前だけ店長が、「今現在」に集中して、作業をしたとしても、いいことにはならない。無理をして作業をしているのに、さらに、むりをして作業をすることを、推奨されている状態になる。
* * *
「今現在に集中すればいい」などと人に言うやつが、批判をされると、「俺だって苦労した」と言い出す。けど、「今現在に集中すればいい」などと人に言うやつが経験した苦労と、名前だけ店長が経験した苦労をくらべると、名前だけ店長が経験した苦労のほうが、ずっとずっと、ひどい苦労だと言うことができる。
そりゃ、そうだろ。
ほんとうに、ひどい苦労をした人が、ほかの人に、さらに苦労をおしつけるようなことを、言うはずがない。余裕でたえられる苦労だったから、「今現在に集中すればいい」と考え、「今現在に集中すればいいという考え方は、正しい」と思っているんだよ。
だから、「今現在に集中すればいい」と他人に言うんだよ。
ギリギリ、がんばっている人に、もっとがんばらせるようなことを言う人は、くそ。ぎりぎり、がんばってる人に、くるしい状態がさらに長く続くようなことを言う人は、くそ。
* * *
「今現在に集中すればいい」と他人に言う人は、他人の苦労について過小評価をしている場合がある。神様視点で、「今現在に集中すればいい」と他人に言う人の苦労が「小」、名前だけ店長の苦労が「大」であったとする。
けど、「今現在に集中すればいい」と他人に言う人は、自分の苦労が「大」だから、名前だけ店長よりも、自分のほうが苦労してきたと思っているのである。
そして、自分が「今現在に集中するというやり方」で苦労を乗り切ったので、「今現在に集中するというやり方」で、名前だけ店長も苦労を乗り切れると思っているのだ。
ところが、名前だけ店長のほうがはるかに苦労をしているのである。
名前だけ店長だって、ずっと、無理をしてきたのだから、「今現在に集中しよう」と思って、がんばっていたときがあるはずだ。そりゃ、過労しすぎて、意識が遠くなるときだってあるだろう。
ところが、そういうがんばりを……「今現在に集中すればいい」と他人に言う人は……無視してしまう。今現在に集中すれば、乗り切れると思っているので、乗り切れないのであれば、がんばっていないということになってしまうのである。
こいつらの頭のなかではそうなってしまう。
しかし、「今現在に集中すればいい」と他人に言う人が、乗りきれたのは、単に、苦労が小さかったからなのである。「今現在に集中しよう」と思って、乗りきれるレベルの苦労だったからなのである。 初期ストレス対抗期間中にのりこえられることだったのである。
また、一日のなかで、ストレス対抗期間が続く時間内に、乗り越えられるものだったのである。だから、「今現在に集中しよう」と思えばどうにかなったことなのである。
しかし、「質」と「量」が関係する。時間の長さ、期間の長さが関係する。そういったものを、「条件」という言葉であらわすとすると、「条件」がちがっていたのである。
しかし、「今現在に集中すればいい」と他人に言う人は、「条件」の差を無視して、夜郎自大になり、自分はできたのだから、他人もできるだろうと思って、無理なをことを(他人に)言うのである。
もちろん、「今現在に集中すればいい」と他人に言う人ぐらいの苦労なら、名前だけ店長だって、乗りきれたのである。それは、名前だけ店長が、一五年間も、一日に三時間ぐらいしか眠れない状態で、仕事をしてきたということからわかる。
一五年間という長さ……。日曜、休日も、平日のように働いて、一五年間という長い期間、毎日働いてきたという実績。それが、名前だけ店長の、生活体力が並ではないということを、証明している。
あーー。それなのに、それなのに、そういう肝心なことは、無視して、ほんのちょっとがんばっただけなのに、「自分はすごい」と思って「今現在に集中すれば、いい」と、名前だけ店長のような人に、言ってしまう。
こいつらは、高慢で夜郎自大だけど、そういう自己認識がないのである。
こんなこと、喧嘩を売っているようなものなのに、まったく気がつかないんだよな。
自己責任論者なら、責任を感じるべき案件だ。
* * *
あとは……「言えば言ったことが現実化する」と言うのであれば、「名前だけ店長が、じゅうぶんな、休息時間をとれる」と言ってあげればいいのだ。
そうすれば、名前だけ店長だって、じゅうぶんな、休息時間をとれるようになる。
「名前だけ店長が、がんばって働かなくても、じゅうぶんな収入を得られるようになる」と言ってあげればいいのだ。そうすれば、名前だけ店長の問題は解決する。ところが、「言えば言ったことが現実化する」と人に言っている人は、言ってやらない。
どうしてかというと、「言ったって言っただけになる」ということを、無意識的には知っているからだ。「言霊なんてまったく無意味なんだよ」と考えているから、問題を解決するような言葉を言わない。
べつに、名前だけ店長の問題なら、名前だけ店長が、問題解決の言葉を言わなければならないという決まりはない。「言えば、言ったことが現実化する」からだ。
「今現在に集中すればいい」と他人に言う人が「名前だけ店長の問題はすべて解決する」と言ってあげれば、名前だけ店長がサービス残業の作業に、集中しなくてもいい状態ができあがるのである。
あーー。それなのに、それなのに、「集中すればいい」と言うのだ。
「できると言えばできる」と言うのだ。完全に、くそですね。人のことなんてまったく考えていないから、「今現在に集中すればいい」とか「できると言えばできる」とかと、人に言う。
「できると言えばできる」のだから、今現在に集中しなくたって……できるぞ。
こいつらが言っていることは、支離滅裂。
ところが、自分では、「いいことを言った」と思っているのである。自分では「すごくいい助言してあげた」と思っているのである。やられたほうは、不愉快な気持になって、こまりはてるのである。
* * *
それから、「夜郎自大」と言われて、おこった人は、自分の受け止め方をかえればいいのである。
「夜郎自大だと言われたので、腹がたつ。これであたりまえだ」と思わずに、「エイリさんが言っていることが正しい。確かに自分は夜郎自大だった」と受け止め方をかえればいいのである。
エイリさんにあわせて、自分の受け止め方をかえればいいのである。
精神世界にこっているあなたなら、それができるだろう。
2025年6月21日土曜日
「過去は記憶の中にしかない」と言っている人であって、なおかつ、「言ったことが現実化する」と言っている人
「言えば、言ったことが、現実化する」という言い方がある。「言ったこと」と言っている。ようするに、言ったという過去の出来事が、現在に影響をあたえ、言った内容が、現在において、現実化すると言っているのである。
言霊主義者はそう考えているわけだから、言霊主義者が「過去は関係がない」「過去は記憶の中にしかない」と言うのはおかしなことなのである。
「言ったこと」が現実化されると言っているだろ。
もっとも、「言えば、言ったことが現実化する」という命題は偽なので、そもそも、相手にする必要がないのだけど、言霊主義者で 「過去は記憶の中にしかない」と言っている人は、自分自身が言っていることの矛盾に気がついたほうがいいぞ。
「過去は記憶の中にしかない」と言っている人であって、なおかつ、「言ったことが現実化する」と言っている人は、自身の矛盾に気がついたほうがいい。
「言ったこと」って過去のことだろ。「言った」と過去形で言っているだろ。
「言った」ことが「現実化する」のだから、もちろん、過去の発言が、現在に影響をあたえるということを言っているんだよ。過去において「言った」ことが、現在において(あるいは、未来において)現実化すると言っているわけだろ。
現実化するのは、過去に言った内容なんだよ。
だったら、過去の影響をうけているどころの話ではないぞ。「言ったことが現実化する」ということは、「言わなかったことは現実化しない」ということになる。
もしかりに「言ったことは現実化するし、言わなかったことも現実化する」という意味で「言ったことが現実化する」と言うのであれば、「言ったことが現実化すると言う意味がない」のである。
過去に言ったことだけが、現実化するのであれば、今現在成り立っているものは、すべて、過去において言われたことだということになる。「言ったことが現実化する」と言っているのだから、「過去は記憶の中にしかない」と言うのは、矛盾している。
こいつらは、ほんとうに、自分が主張している内容をよく考えたことがあるのか?
自分が主張している内容同士が、矛盾していたら、こまるだろ。
過去は記憶の中にしか存在しないという考え方はまちがっている
過去は記憶の中にしかないと言う人がいるけど、この考え方はまちがっている。今現在は、過去の影響をうけている。だいたい、「今現在」というのは、つねに、過去に押し流されてしまうことなのである。
たとえば、さっき、小便をしたとする。そして、いまは、すっきりしているとする。
いますっきりしているのは、さっき小便をしたからなのである。もちろん、過去は、記憶のなかにあるだけのものじゃない。いまの状態を作り出しているものだ。
過去の出来事が、今現在の状態をつくっているのである。
たとえば、今現在、病院に入院しているとする。入院した理由は、階段から落ちて、足を骨折したというものだとする。過去において、階段から落ちなければ、今現在、入院していないのである。過去において、階段から落ちなければ、入院しているという現実は、「ない」のである。
もちろん、ほかの理由で入院するということはあるけど、ほかの理由で入院したときは、過去において、理由になる出来事が発生したから、入院しているのだ。
今現在、たとえば、足が動かない状態で固定されて、ベットの上に横になっていたとする。その場合、過去は、記憶の中にしかないとは、言えない。
どうしてなら、今現在、入院して、ベッドの上にいるからだ。今現在の状態は、過去の出来事の「上」にあるのである。
比喩的な言い方になるが、今現在が頂点であり、頂点をつくりだしたのは……あるいは、頂点の状態をつくりだしたのは……今現在よりも以前の過去の出来事なのである。
過去は記憶の中にしか存在しないという考え方はまちがっている。ちゃんと、過去の出来事が、今現在の出来事に影響をあたえている。
現在進行形で、影響をあたえている。現在進行形だということは、「今現在」などと言っているあいだに、「今現在」が過去になってしまうということだ。
過去の出来事は、記憶の中にだけ存在するわけではないのである。「過去の出来事」の時系列的な総和が、現在の状態をつくりだしている。
記憶の中にしかないものなのであれば、現在の状態とはまったく関係なしに存在しているはずだ。
ところが、現在の状態は、過去の総和なのである。
もちろん、過去の総和は、現在に影響をあたえている。過去の総和が「今現在」を形作っていると言っても過言ではない。記憶の中にしかないものなのであれば、現在を形作れない。
思い出のなかにあるものだけが、過去の出来事ではないのである。思い出のなかにあることは、現在の状態に、比較的に言って、影響力が小さいものなのだろう。だから、想起するだけですむ記憶なのである。
ところが、過去の出来事が、「今現在の状態」をつくりだしているのである。
過去は、記憶の中にしかないものだ……過去は思い出のなかにしかないものだと思っているとは、影響力が極小であるような過去の出来事を思い出して、現在の状態とは……一見関係がないように思えるから……過去の出来事は、現在に影響をあたえないと思っているだけなのである。
その人だって、「過去の出来事」の影響をうけて、今現在?を生きている。
文字を書くことだって、過去の影響をうけているのである。
もし、ほんとうに、今現在しかないのであれば、行為をどこからどこまでと考えるかという問題はあるけど、今現在書いている文字しか存在していないということになる。
あるいは、鉛筆で文字を書く場合は、ひとつの線をひいている状態しかないということになってしまうのである。そして、ひとつの線をひくということも、過去の出来事の結果なのである。過去の出来事がつみかさなっているので、ひとつの線をひくことができるのである。
* * *
「昨夜は、よく眠った」……と言う場合も、過去の影響をうけている。記憶のなかで「よく眠った」と思っているだけではないのである。ちゃんと、よく眠ったという影響をうけている。
いまのからだの状態は、昨夜の睡眠と無関係ではないのである。起きたとき、『よく眠ったと』思えるのは、実際に眠っているあいだのからだの状態が、今のからだの状態に影響をあたえているから、思えることなのである。
「過去の出来事は、過去の出来事だから、記憶の中にしかない。だから、今現在には、影響をあたえない」という考え方は、完全にまちがっている。
2025年6月20日金曜日
「仕事のおしつけ」あるいは「違法行為」に加担していないと言いきることができるのだろうか?
言霊主義者である「ブラック企業社長」が、従業員である「名前だけ店長」に、「できると言えばできる」などと言霊的なことを言って、働かせようとする理由について考えたことがあるだろうか?
ブラック社長が、言霊主義者であり、「言えば、言ったことが現実化する」とほんとうに考えているのであれば、ブラック社長は、「おカネが、目の前にわきだす」と言えばそれで、すむのである。
言えば言ったことが現実化するので、目の前におカネがわきだすのである。
だから、そのおカネを使えばいい。
ところが、そんなことは、どれだけ言っても、現実化しないことを、言霊主義者であるブラック社長は知っているので、従業員をタダで使うために、言霊的考え方について、言及するのである。
言霊理論が正しいという前提で「できると言えばできる」と言うのである。
「言えば、言ったことが現実化する」と言うのである。
これは、サービス残業をさせるための言葉だ。
ブラック社長は……言霊の力ではなくて、言葉の力を使っているのである。
言霊の力と言葉の力を切り分けて考えたほうがいいと、ぼくは、何回か言霊主義者に、伝えたことがある。けど、言われた言霊主義者が、(その言葉を)言われたあと、言霊の力と言葉の力を切り分けて考えるようになったのかどうかはわからない。
これも、ぼくが「すべての言霊主義者が、これ以降、言霊の力と言葉の力を分けて考えるようになる」と言えば、それですむ話なのである。……言霊理論は正しくないので、言ったところで、言っただけになり、すべての言霊主義者が、これ以降……つまり、ぼくが実際にその言葉を言ったとき以降……言霊の力と言葉の力を切り分けて考えるようになるわけではないけどね……。
ブラック社長は、ただで、名前だけ店長の労働力を使いたいだけなのである。
どうしてかというと、そのほうが、カネが儲かるから。
カネ儲けの話なのであれば、言霊で解決できるはずだ。
ところが、言霊で解決せずに、名前だけ店長の労働力を吸い上げようとするのである。
どうしてかというと、それが現実的な方法だからである。言霊を信じていないから、現実的な方法で、お金をかせごうとするのである。
たとえ、違法行為であっても、現実的な方法で、お金をかせごうとするのである。まったく、言霊の力なんて信じていないのである。
「それは、言霊理論を悪用しているブラック社長だけの話で、善良な言霊主義者は、悪事に加担しているわけではない」と、言霊主義者が言うかもしれない。けど、加担はしていると思う。
言霊なんて考え方が、「正しい考え方」として流通しているのは、多数の言霊主義者のせいなのだ。たとえ、だれかが「言えば、言ったことが現実化する」とか「できると言えばできる」などと言っても、その発話者以外の人がだれも、信じなければ、社会のなかで、それらの言葉が正しい言葉として流通することがないのである。
ほんとうは、まちがっているのに、正しい言葉として流通しているから、問題がしょうじるのである。
言霊主義者が、「できると言えばできる」とブラック社長が、名前だけ店長に言っているところにいたとしたら、どう思うだろうか?
「できると言えばできる」と思うのだろう。ブラック社長は、まちがったことを言っていないと思うのだろう。
言霊主義を利用した「仕事のおしつけ」あるいは「違法行為」に加担していないと言いきることができるのだろうか?
ブラック社長は、言霊を悪用しているけど、自分は言霊を悪用していないので関係がないと思うのだろうか。
社会の雰囲気として「言霊(理論)が正しい」という雰囲気があるので、名前だけ店長も、「なにをバカなことを言っているんですか」とブラック社長に言いかえすことができないのである。
社会の雰囲気として「言霊(理論)が正しい」という雰囲気があるので、名前だけ店長も、「アホなことを言わないでください」とブラック社長に言いかえすことができないのである。
言霊主義者は、ブラック社長の「言えば、言ったことが現実化する」とか「できると言えばできる」という言葉を否定できない。自分が普段、言っていることだからだ。
けど、それでも、……言霊主義者だって……自分が一倍速で経験した、ほとんどすべての、物理的な出来事に関しては……物理的な理由でそうなったと思っているのである。すべての場合において、そう思っているわけではないけど、そういう傾向がある。自分にとって、物理的な理由がはっきりしているから、言霊的な理由が入り込む余地がない場合が多い。
言霊的な理由が入り込む余地があることは、他人の身に起こったこと、自分の身に起こったことだけど、どうしてそれが起こったかよくわからないこと、夢や希望に関することだ。
これらは、自分にとっての実感が、薄いのである。あくまでも、そういう傾向があるのではないかという話だ。すべての場合において、それが成り立っていると、主張したいわけではない。すべての場合においてそうだと言っているわけではなくて、そういう傾向があるのではないかということを言っているわけ。
短時間で、ぱっぱっぱっと起こることで、自分がそのプロセスを全部、体験して知っている場合は、比較的に言って、言霊思考にはならないのである。
2025年6月19日木曜日
だいたい、「言う」ということ自体が、物理的な現象なのである
もう、書いたことだけど、言霊主義者が、階段から落ちて腕をいたくした場合、「階段から落ちたから、腕がいたくなった」と考えるのである。
しかし、これはおかしい。
「階段から落ちて、腕がいたくなる」と言ったあと、腕がいたくなるべきなのである。
たとえば、階段から落ちるには、重力が必要だ。
落ちるとき、階段を構成する部分に、自分のからだを構成する要素である腰があたり、その結果、腰がいたくなったのである。あるいは、地面や床を構成するものに、自分のからだを構成する要素である腕があたり、その結果、腕がいたくなったのである。
「階段から落ちて、腕がいたくなる」と言わなくても、「階段から落ちて、腕がいたくなる」という出来事がしょうじたということに、もっと注目しなければならないのである。
ようするに、言わなくても、出来事が発生する。
そして、言霊主義者といえども、物理的な現象を認めているのである。
階段から落ちている最中、あるいは、落ちたとき、階段を構成する要素や、地面や床を構成する要素と「ぶつかった」ので、自分のからだの一部がいたくなったと(言霊主義者だって)思っているのだから、当然、(言霊主義者は)物理的なしくみを知っているのである。
以降、階段を構成する要素のことを階段と言い、地面や床を構成する要素のことを、単に、床と言うことにする。道路なども地面という言葉に含めるとする。
言霊主義者だって階段から落ちた「から」からだの一部がいたくなったと思っている。これは、物理的な力によって、からだの一部がいたくなったということを(言霊主義者が)認めているということなのである。
言霊主義者だって、「からだがいたくなる」と言った「から」からだがいたくなったと考えているわけではなくて、階段や床に自分のからだがぶつかった「から」からだがいたくなったと考えているのである。
言霊主義者だって物理的な衝突が発生した「から」から、自分のからだがいたくなったと思っているのである。
言霊が出てくる余地がないのである。
言わなくても、物理的な法則にしたがって、出来事が発生するのである。
自分が一倍速で、体験したことについては、「言っていなくても、出来事が発生する」ということを、ごく自然に認めているのである。
物理現象は、言霊によって、発生したのではない。
言霊主義者は、言霊について説明するとき、じつは、言霊法則のほうが物理法則よりも上位の法則だと考えているのである。
言霊主義者が、言霊について考えているときは、言霊主義者の頭のなかでは、物理的な現象も、言霊の力によってしょうじることになっているのである。
そして、言霊について考えているときは、言霊主義者の頭のなかでは、非・物理的な現象も言霊の力によってしょうじることになっているのである。
実際には、言霊の力によって発生する非・物理的な現象はないのだけど、言霊の主義者の頭のなかでは、言霊の力によって、非・物理的な現象(超自然的な現象)が発生するということになっているのである。
出来事がしょうじたなら、それは、言霊の力によってしょうじた出来事でなければならないのである。
なぜなら「言えば、言ったことが現実化する」からである。
現実化するときに、物理的なプロセスを必要とするものであったとしても、その物理的なプロセスを含めて、言霊の力によって、しょうじなければならないのである。
「そうでない」と言うのであれば、言霊とはまったく関係なく、物理法則が成り立っていて、物理的な現象がしょうじるということになる。
これは、物理的な現象は、(言霊の力とはまったく関係がない)物理的な運動によってしょうじるということを意味している。
言霊の力が介在する余地がないのである。
言霊主義者だって、自分が一倍速で経験したことに関しては、言霊について考えることがないまま、物理的な力でしょうじたと思っているのである。
自分の意識が言霊に集中しているときだけ、言霊の力によって、言ったことが発生すると考えるのである。「言ったこと」というのは、言った内容にそくした物理的な出来事のことなのである。
もちろん、物理的な出来事がしょうじれば、そのことによって、人間のからだが影響をうけることがある。
自分に関係した物理的な出来事は、自分の精神的な反応を発生させるのである。自分の身体的な反応も、自分の精神的な反応も、ほんとうは、物理的な反応の結果なのである。
だいたい、「言う」ということ自体が、物理的な現象なのである。
だれかが、何事かを言うとき、発話に関する物理的な運動が発生している。
たとえば、空気がなければ、言ったって言葉にはならないのだから、「言ったことが現実化する」ということ自体が成り立たない。つまり、言うということも、物理的な運動の結果なのである。
そして、聞く側が、話す側の言葉を聞きとることができるということも、これまた、物理的な運動の結果なのである。
なので、じつは、言霊の力というものは、物理的な力に依存しきったものなのである。
言霊の力なんてものはないけど、あるとしたら、物理的な力に依存しきったものなのである。
言霊法則なんてないけど……あるとしたら、物理法則のほうが、言霊法則よりも上位の法則なのである。
ところが、言霊主義者は、言霊法則が成り立っていると考え、さらに、言霊法則のほうが物理法則よりも上位の法則であると考えているのである。
あるいは、そのような言霊の性質について、(言霊主義者は)まったくなにも考えていないのである!!
言霊なんてないから、言霊の性質について考える必要もないのだけど……彼ら、彼女ら……言霊主義者が……そう仮定しているのだから、そう仮定した場合について、いま、ぼくが語っているのである。
* * *
もし、言わなくても発生するのであれば、言えば発生するということを言う必要がないということになる。そりゃ、そうだろ。言わなくても発生するし、言っても発生するのであれば、「言えば、発生する」と言うことの意味はなんなんだ?
言えば、現実化する。言わなくても、現実化する。だったら、言っても言わなくても現実化するのだから、「言えば、現実化する」と言う意味がない。『現実化する』というのは、発生するということなのである。
なんらかの出来事が、実際に起こるというとなのである。なんらかの出来事が起こると言わなくても、なんらかの出来事が起こるのであれば、「なんらかのできごとが起こると言えば、なんらかの出来事が起こる」と言うことに、いったい、なんの意味があるのか?
言わなくても、出来事が発生するのだから、「言えば出来事が発生する」と言うことに、いったい、なんの意味があるのか?
* * *
「人類が発生する」とだれがが言うまえに、人類が発生したのである。「地球ができあがる」とだれかが言うまえに、地球ができあがっていた。だったら、言わなくても、発生するのである。言わなくても、できあがるのである。
2025年6月17日火曜日
もう、つかれはててしまったところがある
もう、つかれはててしまったところがある。もう、動きたくないという気持がある。
基本、かゆい。この、ダニにさされたあととひっかき傷。あーー。もう、いやだ。まあ、完全防備で、段ボールの上にあるほこりに、立ち向かうべきだった。けど、暑かったし、過去のいろいろで、完全防備をするのが、ほーーーんとうに、いやなのだ。もう、俺は何回おなじことを繰り返しているのだという気持になる。刺されて猛烈にかゆくなった時、どうしたって、きちがい親父の態度が思い浮かぶ。「ネズミ対策工事をしよう」と俺が言った時の、きちがい親父の態度が、思い浮かぶ。俺は、ずっと、きちがい親父のしりぬぐいをしてきた。もう、いやなんだよ。普通の人がやらないことを、突然やりだして、絶対にやめようとしない。粕漬の魚をテーブルの上にずっと出しておくことに、なんの意味があるのか? 焼いてから、二三時間、出しっぱなしにすることになんの意味があるのか。しかし、やめない。どれだけなにを言っても、やめない。部屋中がくさくてくさくて、たまらなかった。そして、部屋がくさいということを言うと、「くさくないよ!」「くさくないよ!」「くさくないよ!」と発狂して怒鳴るのだ。怒鳴って否定する。これ、ずっとおなじなんだよ。ともかく、自分にとって都合が悪いことを言われると、全否定する。嗅覚が正常なら、絶対にくさいということがわかるのだ。電位依存性カチオンチャネル阻害剤によって、特定のにおいに鈍感になっていたわけではない。自分が、テーブルの上に魚を出しておきたいと思っている。そうしたら、もう、絶対に、それができなくなるようなことは、認めないのだ。それだけ。これが、意識的にやっていることならいいけど、無意識的にやっていることだから、本人には、いつもつもりがないということになる。そして、やり勝ちしてしまえば「なかったことになってしまう」のである。こういう、きちがい構造。
これが、全過程をとおして、へんな態度なんだよ。これ、家でしかやらないんだよ。きちがい親父にしても、家でしかやらない。よそのうち」でこんなことができるわけがない。こういう意地を当せるわけがない。自然に、スイッチを切り替えている。これも、無意識的にやっていることだから、「うち」では、こうして……「よそ」では、こうしようなんて考えているわけではないのだ。自然に、スイッチが切りかわる。
ちなみに、きちがい兄貴もおなじなんだよ。きちがい兄貴が、「よそ」のうちに引っ越したら、ヘビメタを鳴らさなくなった。「よそ」の人に対しては、迷惑だということがわかるのだ。「よそ」の人に対しては、「でかい音だ」ということがわかるのだ。ところが、「うち」だと、スイッチが切りかわってしまう。いちおう、自分の部屋にいれば、となり家とは、距離があるので、きちがい兄貴のなかで、隣の家という「よそ」は気にならないものだったのだろう。そういうところで、感覚がおかしいのだけど、そうなのだ。それから、引っ越したときは、ヘビメタに対する興味が、ほとんどなくなっていたというところもある。ともかく、感覚としては、兄貴にも「うち」ならいいという感覚が成り立っていたのだ。そして、この感覚に対して、きちがい兄貴自身が無自覚なのだ。きちがい親父が建てた「このうち」だから、「思いっきり鳴らしていいい」という気持が、たしょうはあったのではないかと思う。きちがい親父に自分は、やられてきたから、今度は、自分がやりかえしていいという気持があったのではないかと思う。自分というのは、兄貴自身のことだ。きちがい親父に、自分はやられてきたから、今度は、自分が、やりたいようにやっていいと思っていたのだ。きちがい親父は、自分(親父自信)がやりたいようにやってきたわけ。そのやりたいようにやるというのは、普通の人の「やりたいようにやる」いうことではないのである。これが、普通の人にはまったくわからないことなのだけど、きちがい親父がやりたいようにやってきたという場合の、やりたいようにやるやり方というのが、ようするに、例をあげれば、酒糟のついた魚を、自分がやりたいように、テーブルの上に置いておくということなのだ。だから、親父にとって、特別に意識的な行為ではないのである。「かたづけてくれ」と言われると、スイッチが入って、きちがい的な意地でかたづけないのである。これに、なんの意味があるかというと、ない。きちがい親父側の問題なのである。きちがい親父の、きちがい的な無意識の問題なのである。やりたいようにやる」という表現を使うと、ちょっと、普通の人が、誤解をしてしまうのだけど、言ってみれば、へんなところで、やりたいようにやっているのである。頭がおかしい理由で、怒り狂うということも、きちがい親父が、きちがい的な意地でやりきったことだ。幼児に、頭がおかしいことを言って、怒り狂う。これが、一度や二度ではないのである。一日に、何十回やってたかわからない。日曜日なんて、おかあさんに、あたったぶんも、かぞえれば、百何十回もやっていた。普通の人には、考えつかない、奇妙な理屈で、怒り狂っていたのだ。これも、「やりたいようにやっていた」と書けば、そう書けることだ。きちがい兄貴の「ヘビメタの根拠」になっているのは、これだ。きちがい兄貴にとって、自分が思った通りに、思いっきり、うちでは鳴らしていいということに鳴っていたのだけど、これの感情的な根拠が、きちがい親父が、きちがい的な理由で、怒り狂っていたということだ。会社から帰ってきたあとの、わずかな時間で、何十回も怒り狂っていたなぁ。朝の、四〇分の間に、何十回も怒り狂っていたなぁ。これ、親父は、日曜日も、一日中家にいるわけではなくて、午前中だけ数時間いただけだったけど、百数十回じゃなくて、二百数十回ぐらいおこっているような気がする。平日の朝は、おかあさんに怒り狂っていたのだけど、そこに、起きていくのが、いやだった。こういうのも、朝の感覚に影響をあたえるんだよな。運動会などの特別な日は、きちがい親父が起きている時間に、居間に行かなければならないのだけど、死ぬほど憂鬱だった。
こういうことだって、「よそ」の人は「そんなのはへんだ。へんだから、エイリさんが嘘を言っている」と思うわけだ。 俺が親父の話をすると、「そんな人、いるわけがない」と思って、俺が嘘を言っていると思うやつが、いる。俺が、兄貴の話をすると「そんな人、いるわけがない」と思って、俺が嘘を言っていると思うやつがいる。けど、ほんとうなんだよね。
* * *
手短に言って、きちがい親父の「粕漬の魚」に対する態度と、きちがい兄貴の「ヘビメタ」に対する態度が、まったく、おなじなのである。まーーーった、く、まーーーった、く、おなじなのである。そして、普通の人は、このふたりの態度が、まーーった、く、わからないのである。
「そんなのは、ちゃんと言えばいい」と思うだけのやつがいる。こいつに、どれだけ説明してもわかるわけがない。「そんなのは、ちゃんと、お兄さんに言えばいい」「ちゃんと言えば、お兄さんだってわかってくれる」……こういうふうに考えているんだよね。「そんなのは、ちゃんと、お父さんに言えばいい」「ちゃんと言えば、お父さんだってわかってくれる」……こういうふうに考えているんだよね。
どれだけ、ちゃんと言っても、わからないから、こまっているんだよ。どれだけ、ちゃんと言っても、わからないから、問題なんだよ。
* * *
「言えば、言ったことが現実化するから、言えば、いい」と言うやつもおなじだ。言ったって、問題が解決しかないから問題なんだろ。言ったって、現実化しないから問題なんだろ。
こいつらも……。ほんとうに……。こいつらも、ほんとうに、わかってないな。
2025年6月15日日曜日
きちがいヘビメタを鳴らしてなかったら、ぼくのあの人たちに対する態度はちがっていたんだよ (すぐ消す)
サカマのことだって、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったら、あんなことにならなかった。あの時点で七年間毎日鳴らされて、地獄の学生生活を送っていた俺は、騒音に関しては、ほんとうにもう、限界だったんだよ。新しく、騒音問題を、つきつけるな。
きちがいヘビメタが鳴ってなかったら、まったくちがったことになっていたと思う。ほんとうに限界だったなぁ。なんで、うるさい人が引っ越してくるんだろうな。きちがい兄貴の態度と感覚で、きちがい騒音問題が積み重なっていく。そりゃ、絶対の意地で無視して鳴らして、ものすごくでかい音で鳴らしているということも、無視するわけだから、恨みがつもる。きちがい騒音のせいで、俺がどんな思いでくらしていると思っているんだ? ともかく、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ヘビメタを鳴らし続けると、ほかの人との間に、トラブルが生じまくるのである。そして、そういうとき、きちがい親父がさらに、油をそぞくようなことをする。きちがい親父が助けてくれたことなんてないよ。いつもいつも、かならず、悪いほうに味方をするのである。いつもいつも、どれだけなにを言っても、ひどいことになることを選択して、そうするのである。これだって、絶対の意地でそうするわけで、俺が説得すれば、それで、考え方をかえてくれるわけじゃない。けっきょく、きちがい兄貴が「気がつかないまま」……きちがい騒音を鳴らし続ける。うち以外の家では鳴ってない騒音を鳴らし続ける。そうなると、つもっているものがちがうので、感覚がちがってくるのである。ほかの人は、そもそも、うちできちがい兄貴が鳴らしていたような騒音には遭遇していないから、ほかの人が考えるような騒音しか想像しないのである。だから、うちできちがい兄貴が鳴らしていたような騒音には遭遇していない人たちは、長年、きちがい的な家族が知らんぷりで鳴らすような騒音に遭遇すると、どんな影響が出るかということを知らない。心的な影響なんて、もちろん、無視してしまう。からだの影響だって、無視する。こいつらもこいつらで、『そんなのは無視して当然だ』という態度で無視しやがる。
ともかく、ヘビメタ騒音と東側の工事の音で、ダブル怪獣に挟まれてくるしかったよ。けど、あの人たちの感覚はちがうんだよな。俺だって、先行する七年間のきちがいヘビメタ騒音がなかったら、あんな状態ではない。東側の工事の音だって、普通に我慢できた。ともかく、もう、七年間積み重なっている時点で、ぼくは限界に達していた。「限界に達していたぼくを刺激するようなことはするな」ということだ。そりゃ、そうなる。最初は、「この人たちは関係がないから」と我慢していたのだけど、堪忍袋の緒が切れた。くそうるさくしやがって。けど、あっち側から見れば、そりゃ、ちがう。そして、「あれがうるさくないのか」と言いたくなる気持ちもわかる。「あれ」というのは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音のことだ。あの人たちは、ぼくが、あの人たちだけに文句を言って、きちがい兄貴には文句を言っていないと思っているのだけど、それがちがうのだ。こういうところでも、きちがい兄貴が、きちがい的な態度て無視して、きちがい的な意地でやりきるので、ぼくが誤解されることになる。
ともかく、きちがい兄貴が、こだわってこだわって、きちがいヘビメタを鳴らしてなかったら、ぼくのあの人たちに対する態度はちがっていたんだよ。
ヘビメタ騒音で、騒音に対する怒りが限界に達していた。だから、ほかの騒音を鳴らすやつらにも、きちがい兄貴に対する怒りと、同等の怒りがしょうじた。「工事のことはしたがないことだから水に流してやろう」と思っていたのに、引っ越してきたやつが、次から次へと、無神経にうるさくしやがる。
けど、あのとき、きちがいヘビメタが七年間つもっていなかったら、家が建ったときもちがうんだよな。ようするに、家を建てるときの騒音に対する気持ちがちがう。引っ越してきたやつらが、むだにうるさいやつらで、うるさくしたときの気持ちがちがう。
ちがうんだよなぁ。すべてがちがう。
きちがい兄貴のきちがい部分というのは、ほかの人にはわからないことなんだよな。だから、きちがい兄貴の「態度」というものが、ほかの人にはわからない。きちがい兄貴の「感覚」というものが、ほかの人にはわからない。そうなると、きちがい兄貴の感覚で、きちがい兄貴の態度で、ヘビメタ騒音を鳴らしたときの、こっちがわの「こまりぐあい」というものが、ほかの人にはわからないのだ。だって、ほかの人には、きちがい兄貴のような家族がいないからだ。きちがい兄貴のような家族が、きちがい的な感覚で、きちがい的な態度で、ほかの人が、ほかの家では絶対に鳴らさないような騒音をずっと鳴らしているということを、ほかの人は、うちのなかで経験したことがないということになる。だから、どのくらいに、たまって、どのくらいに、はち切れんばかりになるかわからない。毎日毎日、勉強も宿題もできない状態で七年間の学生生活が「たまったばあい」のことがわからない。もう、ともかく、毎日、堪忍袋の緒が切れている状態なんだよ。堪忍袋が、毎日毎日、何十回も、爆発している状態なんだよ。きちがい兄貴を殺さないということを、実行しているだけで、すべての体力を使ってしまうような状態なんだよ。毎日毎日、たまっていく。
2025年6月14日土曜日
「オッペケペ」という言葉にはものすごい力(ちから)がある
「オッペケペ」という言葉にはものすごい力(ちから)があると思っている人がいたとする。
とりあえず、Aさんだとする。
Aさんは、「オッペケペ」という言葉にはものすごい力が宿っているので、なんでも願いがかなうと思っている。「実際、オッペケペと言ったあと、つかれないと言ったら、つかれなくなった」「実際、オッペケペと言ったあと、眠れると言ったら、眠れたから、オッペケペという言葉には、ものすごいが宿っていると確信した」とAさんが力説する。
事実、Aさんは、オッペケペと言ったあと、つかれないと言ったら、言うまえよりも、つかれがとれたような感じがしたのだ。だから、Aさんは嘘を言っているわけではない。本人のなかでは、「事実」なのだ。
事実、Aさんは、オッペケペと言ったあと、眠れると言ったら、眠ったのだ。これは、事実だ。Aさんが嘘を言っているわけではない。
けど、じゃあ、オッペケペには、ものすごい力が宿っているのかというそうではない。
Aさんがそう思っているだけだ。「オッペケペ、ずっと眠らない」と言えば、ずっと眠らないで生活することができなるかというと、できない。オッペケペの力によって、眠らずに生活できる体をゲットできるわけではないのだ。
ところが、Aさんが体験したふたつのことによって、Aさんは、オッペケペにはものすごい力が宿っていて、その力によって、眠らずに生活できる体をゲットできると、思っているのだ。
「オッペケペ・眠れる」と言ったあと、眠ったことだって、人間のからだのしくみに依存していることだ。人間のからだのしくみとは関係なく、オッペケペに宿っている、すごい力が、Aさんをして眠らせたわけではない。
もちろん、Aさんが、オッペケペに宿っているすごい力を信じているので、「オッペケペ・眠れる」と言ったあと、安心して眠った可能性もある。
その場合は、たしかに、Aさんにとっては、眠りやすい言葉なのである。
しかし、じゃあ、ほんとうにいつでも、そうできるかというと、ほんとうは、そうできない。Aさんだって、まったく眠りたくなくて、元気に動いているときに「オッペケペ・眠れる」と言えば、眠れるのかというと、そうではないのだ。
体のしくみがある。概日リズムがある。
たとえば、Bさんがきちがい的な家族が鳴らす騒音で、夜、眠れなかったとする。これは、きちがい的な家族が鳴らす騒音で眠れなかったということだ。
ところが、オッペケペ信者は、「条件」というものを無視して、ただ単に「オッペケペ」と言えば、すべての問題が解決するということを言うのだ。
しかし、きちがい的な家族がこころをあらためて、鳴らさないようにしないと、この問題は、片づきにくい。もちろん、別居するなどの方法があるかもしれないけど、Bさんが未成年で、別居するという方法は選択しにくいという場合もある。
いずれにせよ、なんらかの、現実的な変化が起こらないと、問題は解決しない。
ところが、オッペケペ信者は、オッペケペということ以外のすべての条件を、前提として無視しているのだ。だから、現実的な条件がもたらす、影響というものを、無視する。
前提として無視しているということが、問題だ。
思考のなかに現実的な条件がもたらす影響というものが、はいってくる余地がないのだ。「オッペケペ」と言うかどうか、それだけが、問題になる。オッペケペと言うことだけが、現実に影響をあたえるのである。
かりにBさんが、Aさんの言うことを認めて、「オッペケペ、しずかになる」と言ったとしよう。
ところが、Bさんのきちがい的な家族が、しずかにしなかった。オッペケペと言ったにもかかわらず、しずかにならなかったのだ。だったら、オッペケペと言うことは、特に、効果がないことだということがわかる。
ところが、Aさんは、オッペケペの効果を信じているので、Bさんの言い方が悪かったから、オッペケペのあとの言葉が現実化しなかったのだと言い出すのである。
しかし、Aさんの主張は、おかしい。オッペケペと言ったあとに、願いを言えば、どんな願いもかなうはずなのである。なので、言い方が悪いと、かなわないというのであれば、矛盾しているということになる。Aさんの主張は、矛盾しているのである。
問題なのは、たとえば、オッペケペ信者が、多数派だった場合だ。Aさんの主張とBさんの主張……どっちが合理的かというとBさんの主張のほうが合理的なのだ。
ところが、オッペケペ信者が多いと、むしろ、Bさんの主張のほうがへんだと思う人が多いというとになる。これは、問題だ。
ようするに、オッペケペ信仰が強くて、社会ほとんどの人がオッペケペの力を信仰しているとすると、条件が悪い人が、自動的に、窮地に立たされるのである。
解決策は、しめされているのである。
「オッペケペ」と言えばいいということになる。
オッペケペと言わない人が悪いんだということになる。
オッペケペと言って問題を解決しようとしない人が悪いんだということになる。
そして、オッペケペと言ったにもかかわらず、問題が解決しなかった場合は、その人の言い方が悪いんだということになってしまうのである。
言い方が悪いのは、その人のせいだということになってしまうのである。
「オッペケペ」のすごい力に関しては、多くの人が疑問をもつだろう。
ところが、「言霊」のすごい力に関しては、多くの人が疑問をもたないのである。
2025年6月12日木曜日
こいつらの反応自体が、こいつらが経験したことがない、いやなことのひとつだ。
こころが、みにくいひとがたくさんいた。そいつらが、みんな、ヘビメタ騒音のことを、うたがうのだ。そいつらが、みんな、そいつらのへんな解釈で、ヘビメタ騒音の話をゆがめてしまう。そいつらの常識だと、きちがい兄貴の話は、へんな話なのである。だから、俺が嘘を言っていると思うやつらだ。こいつらのこころは、みににく、ゆがんでいる。
こいつらの反応自体が、こいつらが経験したことがない、いやなことのひとつだ。ヘビメタ騒音で、いやなことをいっぱい経験したけど、こいつらの解釈、こいつらのゆがんだ意地悪も、ヘビメタ騒音自体がもたらした、いやなことのひとつだ。ふたつ、みっつかもしれないけど、ひとつだ。ようするに、ヘビメタ騒音で、ほかの人が経験しないタイプのいやなことを、経験してしまうのである。ほかの人が経験しないこと……。ほかの人が、「俺だって苦労した」というなかに、きちがい家族の行為によって、自分がほかの人から誤解をされるということがはいっていない。そして、こいつらは、普通に、誤解をする。誤解をしてくる。こいつらに、ヘビメタ騒音やきちがい兄貴の性格について説明しても、こいつらは、信じない。それこそ、へんな解釈をする。俺が嘘つきだとか、あれだとか、これだとかという解釈だ。この解釈はまちがっているけど、こいつらの頭のなかには、たしかにある。
だから、まあ、きちがい兄貴のきちがいの度合いや性質が、ものすごくかわっているので、ぼくが、きちがいだと思われてしまうのだ。これは、親父のことでもおなじなんだよ。そして、きちがいヘビメタがはじまったときの、きちがい兄貴に対する、親父の態度だって、普通の常識で考えれば、へんな態度なんだよ。ありえない態度なんだよ。だから、こいつらは、普通に、俺が嘘を言っていると思ってしまう。俺が、作り話をしていると思ってしまう。俺が、自分の「作り話」に気がついている場合は、嘘つきで、俺が、自分の「作り話」に気がついていない場合は、精神異常者だということに(あいつらのなかでは)なる。あいつらがそう考えるという話だ。これだって、日本語能力がないやつは、「俺が自分(俺自身)のことを、嘘つきで、精神異常者だと言った」と解釈してしまう。ほんとうに、迷惑な話だな。
きちがいヘビメタで、学歴をうしなったけど、うしなったのは学歴だけじゃない。「そんなのは、へんだ」「嘘に違いがない」と思う、低俗なやつらが……こころがみにくいやつらが……こころがみにくい解釈をしてしまうのだ。こころがみにくい解釈は、そいつらの、こころに対応していると思うけどなぁ。
2025年6月11日水曜日
お楽しみ回路を喪失していないけど、自分では苦労が「大」だと思っている人
「お楽しみ回路」をうしなっているか、うしなっていないかということが、「苦労」の度合いを物語っていると思う。
たとえば、「お楽しみ回路」が喪失した場合、苦労が「大」だとする。そして、「お楽しみ回路」が消失していない場合は、苦労が「小」だとする。
お楽しみ回路が消失してない人は、「小」の苦労しか経験してないわけだ。しかし、本人は、自分の苦労は「大」だと思っている。
だから、「お楽しみ回路」という指標で見た場合、本人の認知している苦労の度合いと、実際の苦労の度合いがちがうということになる。
AさんとBさんがいたとする。Aさんは、お楽しみ回路を喪失していないけど、自分では苦労が大だと思っている人だ。Bさんは、お楽しみ回路を喪失していて、自分では苦労が「大」だと思っている人だ。この場合、Aさんが、Bさんに「俺だって苦労した」と言うときは、自分(A)の苦労とBさんの苦労は同レベルの苦労だと思っているのだ。
お楽しみ回路の喪失をひとつの「指標」として見た場合、Aさんの「見積り」には、問題があるということだ。
「差」がある。「ギャップ」がある。「認知のズレ」がある。
ようするに、Aさんの認知では、Bさんとおなじように苦労「大」を経験したということになっている。しかし、「お楽しみ回路」を喪失していない。
どうしてかというと、Aさんの認知とはちがって、苦労自体が「小」だったからだ。
これは、仮定の話だ。しかし、現実をうまく説明していると思う。
「おまえ、どんだけ俺ががんばってきたと思っているんだよ」と言いたくなる。
起きたけど、つかれた。つかれているときの、切迫した感じがする夢を見た。「あれ、夢なのか」と起きたときに、思った。
いまは、まったくなにもやる気がしない。まあ、書いているけどさ。ほんとうは、かたづけをしなければならないのだけど、かたづけをする気持ちがまったくない。もう、ネズミの糞との格闘にあきた。ダニにさされたくない。寝る前に、粗大ごみを片づけたあとのネズミの糞掃除を考えて、ものすごく、憂鬱になった。絶対にやりたくないことなんだよな。その、絶対にやりたくないことを、親父が俺にさせている。まあ、以前から読んでない人のために言っておくと、もう、親父は死んでいるけど、親父が、生前にやったことが問題なんだよ。ネズミ糞が増えることをやった。きちがい的な意地で、ゆずらない。
切迫した夢というのは、きちがいヘビメタ騒音時代の朝に関係している夢だ。あれがわかってないやつが、くそを言う。俺だって、苦労したと言うけど、そいつには、きちがい兄貴なんていない。そいつには、きちがい家族がいないのだ。そして、「苦労」と言うけど身になる苦労や、我慢できる苦労なのだ。「おまえ、どんだけ俺ががんばってきたと思っているんだよ」と言いたくなる。
ほんとうに、言いようがない立場になるのである
ヘビメタ騒音のせいで、ほんとうに、言いようがない立場になるのである。言いようがない、悪い立場になるのである。そして、それが常態化する。どうしてかというと、ヘビメタ騒音が、ずっとずっとずっとずっと、鳴っているからだ。そして、ヘビメタ騒音が堆積してしまうからだ。
気分ということを言うのであれば、ヘビメタ騒音が鳴りはじめてから、鳴っているあいだ、ずっと、気分が悪いのである。そして、それは、人間関係に言い知れない影響をあたえる。これ、外部の人……ヘビメタ騒音にさらされなかった人……俺とおなじように、きちがい家族による騒音を経験しなかった人……には、到底、理解ができることじゃないのである。
七年間のヘビメタ騒音の結果、無職になるのだけど、無職になってからも、言いがたい立場が続くのである。学生のときよりも、もっと言いがたい立場になってしまうのである。
* * *
兄貴のきちがいヘビメタ騒音が、ほかの人をして、俺をバカにさせるのである。このプロセス自体が、ほかの人にはわからない。ほかの人は、俺が無職なら、無職だということで、バカにしてくるやつが多い。色眼鏡で見るのだ。そして、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音ということについて、考える能力が、ない。あるいは、たりない。「不可避的にそうなる」と言っても、ほかのやつは、自分が身をもって経験したわけではないので、認めない。想像力でおぎなって考えなければならないのだけど、大多数のほかの人は、……経験が実際にはない人は……自分の経験の範囲で考えてしまうので、まちがった結論に至ることになる。前投稿の、Aさんのように、勘違いしてしまうのである。自分が経験した「騒音困難」と俺が経験した「騒音困難」をだいたい同レベルのものとして考えて、まちがったことを言いだすのである。前投稿のAさんは、たった一日の寝不足と、一五年間毎日続く寝不足を同レベルの寝不足だととらえてしまったわけだけど、そういうことが、いつも、発生するのである。どうしてかというと、ほかの人の家族は、きちがい兄貴のような家族ではないからだ。ほかの人の家族は、騒音を鳴らすしても、普通の人の範囲で鳴らすわけで、最初から話がちがう。けど、話がちがうということが、経験がない人にはわからない。きちがい的な家族と一緒に住んだことがない人には、まったくわからない。わからないので、ほぼ自動的に、考え違いをしてまうのである。見積違いをしてしまうのである。けど、じゃあ「見積違いをしている」ということについて、相手に話したとしても、その相手は、たいていの場合、認めないのである。「俺だって、苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言って、「くちをたてて」認めないのである。この場合、相手というのは、不機嫌な気持になっているのである。これも、やっかいなことなんだよな。Aさんは、言霊主義者なので、言霊(理論)を否定されると、腹がたつわけだよ。Aさんが、言霊主義者ではないとしても……Aさんは、たとえば、「たった一日の寝不足と一五年間毎日続く寝不足はちがう」ということを言われると腹をたてるわけ。くちをとがらせるわけ。不満に感じるわけ。この相手の態度も、もとをたどれば、きちがい兄貴のやったことが原因なんだよ。ほかの人が信じられないくらいにやった。ほかの人が経験しないようなことを、俺に経験させた。そもそも、経験がちがうのだから話があわない。話の土台がちがう。
* * *
たとえば、ぼくがここで、言霊理論について述べたことは、正しいことなんだよ。理論的に正しい。けど、言霊主義者は認めない。その場合、相手にあわせて、言霊理論をある程度認めてあげるという方法が、考えられる。けど、これも実は問題があることなんだよ。たとえば、ぼくが、大学教授で、たまたまあったAさんが言霊主義者で、言霊理論についてなにかを言ったとする。そのとき、「Aさんが言っていることはまちがっているけど、指摘してもしかたがない」と考えて、「そうですね」と言ったとする。そうしたら、Aさんは「わかってくれた」と思って、そのあと、うきうきして帰って、なにも言わない。けど、ぼくがたとえば、無職だとすると、Aさんは、最初から、ぼくのことを下に見て、えらそうなことを言ってくるわけ。それで、言霊の話と言うのも、そういう流れの中で発せられるものなんだよ。このときに、「そうですね」と言ってしまうと、Aさんの態度が悪い意味で、増長するのである。まあ、いい意味で増長するなんてことはないけどね。「増長」というのは、最初から悪いニュアンスがある言葉だ。いちおう、指摘しておくね。最初から悪い意味をもっている言葉を作者であるぼくが使ったということだ。作者の意見と「ぼく」の意見がおなじだということだ。いちおう、指摘しておかないと不公平になってしまうからね。ともかく、Aさんに、無職であるぼくが同意してしまうと、Aさんが、横柄な態度になるのである。絶対に、話を合わせるために、同意してはいけないのである。無職である人が、無職に偏見をもっている人に、あわせてあげると、ろくなことにならない。もう、一〇〇%、ろくなことにならないということが決まっている。Aのような人間は、無職を格下の人間だと認識しているんだよ。格下の人間が「同意」したら、もっと威張りだすに決まっている。そういうレベルの人間がほとんどだ。言ってしまうと問題があるかもしれないけど、言霊理論にまるで疑問をもたない人は、そういうレベルの人が多い。思考が雑なのである。「無職なら、自分より格下だ」「雨がふると言ったら、雨がふったから、言霊(理論)は絶対に正しい」というような考え方なのである。ちゃんと物事を考えていない。条件について、考えてない。一括思考なのだ。
2025年6月9日月曜日
おまじないで、解決したら、苦労しないよ
たとえば、AさんとBさんがいたとする。
Aさんは、言霊主義者だ。Bさんは、過去一五年間にわたって、休日も含めて、一日に、二時間か三時間しか眠れない状態でくらしていたとする。
Bさんが「つかれた」と言ったとする。それを聞いたAさんが「つかれると言うから、つかれる」「つかれないと言えばつかれない」とBさんに言ったとする。
Bさんは、「つかれないと言っても、つかれる」と言ったとする。それに対してAさんが「自分は、つかれたときに、つかれないと言ったら、つかれがふっとんでつかれなくなった」と言ったとする。
けど、Aさんは、Bさんのように、一日に、二時間か三時間しか眠れない状態でくらしているわけではないのだ。ちゃんと、八時間から九時間、毎日、眠って暮らしていた。
けど、そういうAさんだって、一年に、一日、徹夜をしたときがあるとする。その日は、午前四時まで起きていたのだ。一年に、一日だけ、午前四時まで起きていたときがあるとする。そのとき、Aさんは眠たく感じたけど「眠たくない」と言ったら、眠気がふっとんだと言うのだ。
けど、その日だって、午前四時以降に、眠ったのだ。
そして、次の日は、ちゃんと、いつものように八時間眠れた。Aさんが、眠たいときに「眠たくない」と言ったら、眠たくなくなったというのは、事実だ。
それは、「ストレス対抗」期間内のことだから、そうなる。ストレスに対抗できる、時間がある。あるいは、ストスレに対抗できる期間がある。
ストスレに対抗できる時間内で、ストレスに対抗できる期間内であれば、人間は、ストレスに対抗できる。
けど、それは、長くは続かないのである。
ずっとずっと、長く続くと、ストレスに対抗できなくなってしまうのである。ストレスに対抗している時間というのは、いってみれば、ふんばっている時間なのである。
そりゃ、ちょっと時間は、「緊張」にたえられる。「無理をしている状態」に耐えられる。
けど、だから、ずっとずっとずっと、たえられるかというとそうじゃないのである。「無理をしている状態」がずっとずっとずっと続けば、たえられなくなる。
* * *
言霊主義者は「言ったあと」に起こったことは、言ったから起こったことだと勘違いしてしまう。勘違いなのだけど、勘違いだとは、思わないので、その人のなかでは「真実」になる。
「明日、雨がふる」と言って、雨だった場合のように、たまたま、発生する場合もあるけど、「ストレス対抗力」も、よく、誤解をされる。
ようするに、「ストレス対抗力」でどうにかなったのに、「言ったから」どうにかなったと思ってしまうのだ。「免疫システムによる自然治癒力」も、よく、誤解さをされる。
「ストレス対抗力」も「自然治癒力」も、人間に「そなえつけられた」チカラだ。自然治癒力が、ない人間もいるはいるけど、たいていの場合は、自然治癒力をもっている。自然治癒力がない人間と書いたけど、その人は、自然治癒力がほかの人よりも弱いだけであって、たぶん、完全に自然治癒力がないわけではないと思う。
まあ、ともかく、人間が「体のしくみ」として持つ力がある。その場合、言霊主義者が、言葉を発したあとそうなったという場合は、完全に誤解をしてしまう。
「眠らない」と言ったら「しばらくのあいだ眠たくなくなった」という場合も、ストレス対抗力でそうなっただけなのだが、言霊主義者は「眠らない」と言ったから、眠たくならなかったのだと認識してしまう。
この認識はまちがいだ。どこまでも、眠らないということは、言霊主義者だってできない。ずっとずっと、「眠らない」と言って、眠らないですますことができるのかというと、できない。
ようするに、ストレス対抗期間内に、言霊主義者が「できる」と思ったことが「完了」しているので、言霊主義者が、言霊の力で、「できた」と勘違いしているだけなのだ。
けど、この間ちがいは、「言霊(理論)は正しい」というまちがった確信をうみだしてしまう。けど、何度も言うけど、一五年間、ずっと眠らないことなんて、言霊主義者だって、ほんとうはできない。できないけど、できたつもりになっているのだ。
「眠らない」と言って、何千日もずっと眠らないですごすことは、人間にはできないことなので、言霊理論は正しくない。言ったことが、現実化しない場合がある。
* * *
Aさんは、Bさんの「眠れない時間の影響」について、勘違いをしているのである。
Aさんは、Bさんの「苦労」について勘違いをしているのである。
Aさんは、Bさんの「困難」について勘違いをしているのである。
Aさんの場合は、ストレス対抗期間内におさまる「ねむけ」だった。Aさんの場合は、ストスレ対抗期間内におさまる「つかれ」だった。
神様視点で、Aさんの睡眠に関する苦労は、Bさんの睡眠に関する苦労よりも小さいのである。
ところが、Aさんの視点で、自分の睡眠に関する苦労もBさんの睡眠に関する苦労もおなじなのである。Aさんは、睡眠に関してBさんと「同質・動力の苦労をした」と勘違いしているのである。
だから、言霊的な解決方法をすすめるのである。「自分はできたから、Bさんもできる」と自信満々で言うのである。
しかし、条件がちがうので、Bさんにはできないことなのである。長年にわたって、睡眠不足が続けば、「つかれた」という言葉が出やすくなる。
Bさんが「つかれた」という言葉を発すると、Aさんは「つかれたと言うからつかれるのだ。つかれないと言えばつかれない」ということを言うのだ。
Aさんは、言霊主義者なので、そのように解釈して、そのように言う。
しかし、条件がちがう。そして、Bさんがつかれているのは、長年の睡眠不足のせいであって、Bさんが「つかれた」と言うから、Bさんがつかれているわけではない。
ところが、Aさんの頭のなかでは、Aさんが、Bさんにあったときに、Bさんがつかれたというので、Bさんが「つかれた」と言うから「つかれるのだ」と解釈してしまう。
けど、Bさんがつかれているのは、BさんがAさんにあって、Aさんが聞こえるところで、「つかれた」と言ったからではない。
そのまえに、睡眠不足でつかれている。
かりに、Aさんにあったとき、Bさんが「つかれた」と言わなくても、つかれたままなのだ。Aさんにあうまえから、ずっとずっと、つかれているのだ。だから、Aさんは、Bさんの疲労の原因について、勘違いをしていると言える。
* * *
たとえば、Aさんが「自分だって眠たいときはあった」と言ったとしよう。それは、事実だ。けど、Aさんは条件を無視している。そして、条件の格差を無視している。
たとえば、Aさんが「眠たいときに、眠たくないと言ったら、眠たくなくなった」と言ったとしよう。Aさんにとっては、それは事実だ。ストレス対抗期間内に、そのようなことをやったとき、あるていど、効果があるかもしれない。けど、Aさんは条件を無視している。そして、条件の格差を無視している。条件がちがえば、ちがう。状況がちがえば、ちがう。環境がちがえばちがう。実際に起こったことが、ちがえば、ちがう。そして、「眠たいときに、眠たくないと言ったら、眠たくなくなった」というのが事実だとしても、それは、言霊の力によって引き起こされたことではないのだ。ここでも、Aさんは、勘違いをしている。なにか神秘的な言霊の力によって自分の身体が、改変されたのではない。言霊の力ではないというのは、ずっと眠らないということができないということで、証明できる。人間の体というものを使ってAさんは生きているのだ。人間のからだのしくみが成り立っている。しくみの影響をうける。そして、Aさんは、日本語を理解している。日本語を使って生きているので、当然、日本語を理解している。日本語を理解しできない人には「NEMU TAKU NAI」という音声は、意味がないものなので、言葉としての影響をあたえない。ようするに、「眠たくない」と言って、気合を入れる場合は、言葉の力に頼っているのである。これは、神秘的で自律的な言霊の力とは関係がない。言霊の力というのは、物理的な動きや、身体のしくみを離れた自律的な力なのである。そういう力として、設定されている。いったん言ってしまうと、どこまでも、自律的な力として作用するのである。そういう力として設定されている。もちろん、実際には、そんな力は、ない。そんな力が言葉に宿っているわけではない。もし、かりに宿っているなら、言っただけで、すべてを、好きなようにできる。言っただけで、すべての問題を解決できる。それから、言っただけで、人間のからだのしくみを改変できるのである。改変できる力があるということになっている。しかし、言っただけで、人間のからだのしくみを改変することはできない。「の」の重複は指摘しなくても、いい。
* * *
けっきょく、言霊というようなぎょうぎょうしい言葉を使うから、人が惑わされるのだ。基本的なことを言ってしまえば、「おまじない」なのである。全部、おまじないで解決できると言ったら、わらわれるだろう。言霊主義者だって、「おまじないじゃ、解決しない」と言うだろう。けど、言霊主義者が言霊にたくして言っていることは、「おまじないがきく」ということとおなじなのである。
* * *
問題は、「おまじないがきく」という希望をもつことじゃない。問題なのは、一〇〇%詐欺を行い、法則性詐欺を行うことだ。条件のちがいを無視することは、よくないことなのである。
* * *
他人事であれば「そんなのは、おまじないで解決すればいい」と言えるのである。他人事であれば……。そして、おまじないの効果を信じていれば、「このおまじないは、絶対だ」と言えるのである。「なんだ! せっかく、おまじないを教えてあげたのに、その態度はなんだ!」とおこることもできるのである。
* * *
言霊理論と自己責任論の組み合わせは、最悪だ。他人の条件は、自分の条件ではないので、他人の条件を、ガン無視することができるのである。他人の条件を無視して「おまじないで解決できる」と言うのは、気分がいいことなのかもしれない。そして、条件を無視しているので、他人が失敗をしたら、自己責任だと言えば済む。「絶対にきくおまじない」で、失敗しても、失敗した人の責任だからな。
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おまじないで、解決したら、苦労しないよ。
ともかく、ぼくは、おさまりがつかない
ほかの人が、どうなのかは、知らないけど、ともかく、ぼくは、おさまりがつかない。きちがい兄貴が鳴らしているあいだずっとつらかった。そして、きちがい兄貴が鳴らしていないあいだも、ずっとつらかった。きちがい兄貴が、毎日、きちがい的な意地で、でかい音で鳴らしていたので、きちがい兄貴が鳴らしていないあいだも、その影響で、ずっとずっとずっと、つらかった。
鳴らしていないあいだは、ヘビメタ騒音でつらいということはないのでは」と思う人がいるかもしれない。その人は、まっーーーったく、わかってない。まーーーーったく、わかってない。どれだけ、一日がつらいものになるかわかってない。どれだけ、「睡眠の影響」をうけるか、まるでわかってない。起きて活動している時間は、眠っている時間の影響をうける。どれだけ、ヘビメタ騒音が睡眠に影響をあたえるかまったくわかってない。
2025年6月8日日曜日
これが妄想でなくてなんだ?
言霊論者は、「言ったことが現実化する」と言っているけど、言ったのに現実化しなかったことは、ガン無視して生きているんだよ。
言わなかったのに、現実化したことも、言霊の理論との関係は考えずに、そのまま、「こういうことが起こったのか」と思って認めてしまうんだよ。
「自分が言わなかったら、現実しかないはずだ」というようなことは考えないんだよ。
言霊というのは、まず、第一に自分の言霊なのである。
「自分が言った通りになる」ということなのである。
普段、自分が言った通りにならなかったことは、無視しているのである。そして、言わなかったことが起こった場合でも、その出来事と言霊理論との関係は、無視しているのである。
全部が全部、自分が言った通りになるわけがないだろ。
けど、そういう前提が成り立っているようなことを……言霊主義者は言うのである。
「全部が全部、自分が言った通りになる」と思って(言霊主義者は)生きているのである。けど、それは、ごくわずかな、特別に意識的な部分に限られるのである。
「明日、雨になると言って、雨になったから、言霊理論は正しい」と思ってしまうような幼稚なやつらなんだよ。「明日、雨になる」と言ったのに、雨にならなかった場合は、自分が「明日、雨になる」と言ったことを無視してしまうのである。
「雨にならなかった(雨がふらなかった)」という事実をそのまま受け止めて、言霊のとの関係についてまったく考えないのである。もちろん、雨にならなかった(雨がふらなかった)ということを経験したあとも、依然として「言霊理論は正しい」と思っている状態が続く。
たとえば、自分が目を覚まして、起きたあと、テレビのニュースで殺人事件が起こったことを知ったとする。「自分が言わなかった」のに、殺人事件が起きたのである。
言霊主義者は「自分が言ったことが現実化する」と激しく主張しているんだぞ。
「どうして、自分が言わなかった殺人事件が起こったのか」ということに、疑問をもたなければ、だめだろ。
ところが、自分が言わなかった殺人事件が起きたということを知っても、そういうものだと思ってしまうのである。言霊理論との関係なんて、一切合切考えないんだよ。
たとえば、自分が起きたあと、テレビのニュースで、芸能人のCさんが浮気をしたということを知ったとする。
「自分が言わなかった」のに、芸能人のCさんが浮気をしたのである。おかしいだろ。Cさんが浮気をするには、「自分」が「Cさんが浮気をする」と言わなければならないのだ。そうじゃないと、言霊理論が正しいとは言えなくなる。
すべての発生することについて、事前に「自分か言っておかなければならない」のである。そうでなければ、言霊理論は正しくないのである。
たとえば、人類が発生する前に、地球が発生した。地球が発生するとだれかが言ったから、地球が発生したのではないのだ。人類が発生する前に、火山が噴火した。だれかが「火山が噴火する」と言ったから、火山が噴火したわけではないのだ。
このふたつの例は、「自分」ではなくても、「だれかが」言えばそれが現実化するという言い訳を……言霊主義者がすることを考えて、あげておいた。
基本的には、言霊主義者は幼児的万能感に支配されているために、「自分が」言ったことが現実化すると言っているのである。
しかし、言霊主義者は、反論として……自分ではない、だれかが「芸能人のCさんが浮気をする」と言ったから、芸能人のCさんが浮気をしたということを言う場合がある。
「自分じゃなくても、だれかが言ったからそうなった」という理論だ。
この場合、Cさんの意思というのは、関係がないのである。Cさんが「これから、私は浮気をする」と言った場合を除いて、Cさんは、だれかほかの人の発言によって浮気をしたということになる。こんな、アホなことを言っているのが、言霊主義者だ。
「自分は言っただけで、すべての事柄を発生させることができる」ということを……言霊主義者は、言っているのである。
けど、言霊主義者には、そのつもりがないのである。言霊主義者はいっぽうでは、「自分は言っただけで、すべての事柄を発生させることができる」ということを考えているのだけど、自分が「自分は言っただけで、すべての事柄を発生させることができる」ということを考えているという明確な意識はないのである。
言霊主義者は、自分の言葉ですべてのことを、制御できるということを言っているのである。
けど、もちろん、現実世界においては、そんなことはない。
だから、妄想なのである。
勝手に、「自分が言えば、言った通りになる」と思っているだけなのである。
これが妄想でなくてなんだ?
2025年6月7日土曜日
相手の問題・割り切り理論
実際には、職階という上下関係がある。会社で働くとなると、上下関係の影響をうける。だから、「よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手の問題だと思って、相手の言っていることを無視していい」ということも、実際の人間関係のなかで発せられる言葉なのである。あるいは、生きる指針として語られる場合は、そのような場面も含めて、「よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手の問題だと思って、相手の言っていることを無視していい」という言葉が語られるのである。ようするに、実際に「運用」されている場面は、さまざまな関係のなかに埋め込まれているのである。ところが、「よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手の問題だと思って、相手の言っていることを無視していい」という考え方が、現実的な関係をまったくふくまない「理想空間」で形成されるのである。「よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手の問題だと思って、相手の言っていることを無視していい」というようなライフハックのような言葉は、どこでも成り立つ言葉として流通するけど、実際には、成り立たない環境がある。とりあえず、「よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手の問題だと思って、相手の言っていることを無視していい」というような考え方を、「相手の問題・割り切り理論」と呼ぶことにする。よく考えなおして、自分が正しいと思ったら、相手が言っていることは、相手の問題だと考えるということだ。
「考えなおしたから、おまえの問題だ」と言える余地がある。「考えなおした」ということが、「相手におしつける」口実になってしまうのだ。人の考えなんて、ある程度決まっているから……「これは、適切範囲要求だ」と思っていれば、考えなおしても、たいていの場合、適切範囲要求だと思うことになる。相手の言っていることを、退けることができる。あたかも、合理的な判断のように思えるかもしれないけど、「考えなおしたのだからいい」「考えなおすと、やっぱり、相手の問題だから、相手にこれを押し釣ることは問題がない」と思うのだ。
* * *
たとえば、きちがい兄貴は、本人の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らしているのに、まったく、悪いと思っていない場合も、きちがい兄貴が「考えなおして」も問題が解決しないのである。無意識のレベルで、聴力を落としているので、でかい音で鳴らしていても、普通の音で鳴らしているとしか思わないのだ。そういう、特殊な人である場合も、やはり、「相手の問題だと、割り切ることで」問題が解決するかというと、解決しないのだ。
兄貴だって……認知的な問題をかかえている兄貴だって……ほんとうは自分の問題なのに、「文句を言ってくる弟の問題だ」と割り切って、きちがい的にでかい音で鳴らすことができるのだ。いっぽう、ぼくが、「兄貴の問題だ」と問題を切り分けても、依然として、きちがいヘビメタを鳴らされている状態なら、ぜんぜん、問題が解決していないということになる。たしかに、きちがい兄貴の問題なのだけど、『きちがい兄貴の問題だ』と割り切ることで、問題が解決しない。問題とはなにか? ここでは、きちがい兄貴が、きちがい騒音を鳴らすという問題が、問題なのだ。
「どれだけなにを言われても」……考えなおして、相手が悪いと思ったら、それは、相手の問題だから、自分には関係がないという考え方は、背景を抜きにして考えれば、それなりに使えるライフハックのように思えるかもしれないけど、現実はちがうのである。
自分の身体をとおして「わかっている人」が、軽々しく「楽しいと言えば楽しくなる」なんて、言うはずがないのだ
ほんとう、このさき、どうするんだよ? もう、そればかりだなぁ。自分でも「そればっかり言っている」と思うよ。しかし、どうする?
いやーー。もう、ほんとう、いろいろとあったなぁ。
いやな他人というのがいるんだよなぁ。ほんとう、ヘビメタ騒音で、いやな他人が増えた。普通の人は、みんな無理解ぶりを発揮して、無理解な発言をする。けど、その人たちは「あたりまえ」のことを言っているだけだと思っているので、納得しない俺に、ある程度、腹がたつのだ。
ヘビメタ騒音がなければ、言霊主義者にアドバイスなんて、されただろうか。こうすればいい。こうすれば不満がなくなる。こうすれば、光り輝く生活ができる。こうすれば、ちゃんと働ける……。こうすれば、幸福になる……でもいいか。こうすれば、できるようになる……でもいいや。ともかく、きちがいヘビメタ騒音がなければ、俺のほうが、能力的うえで、光り輝く生活ができていたので、そんなことを言われずに済んだ。
きちがいヘビメタをやられるから、言霊主義者から「アドバイス」をくらうようになる。アドバイスをしているほうは、いいことをしているつもりなんだよ。「こういうことに気がつかない人に、こういう方法を教えてあげよう」と思っているわけだから、そうなる。けど、べつに「こういうことに湯がついていない」わけではないのだ。言霊主義的な感覚というのは、幼児的万能感がもたらすものだから、当然、幼児期を経験したことがある人は、みんなもっているものだ。
「知らない」わけではないのである。
ただ、現実の問題というのは、言霊的な解決方法では、解決できないということを学んだだけなのだ。
つまり、学習したから、否定された理論なのだ。現実を無視して、「解決できない」ということをガン無視する人たちには、わからないことだろうと思うけど……。
どれだけ、ヘビメタ騒音生活がきついか、みんな、ヘビメタ騒音生活を経験したことがない人は、無視する。何度も言っているけど、そんなのは、聞いた話で、自分の人生においては架空の話だ。経験したことがないので、わからないのである。
なお、何度も言うけど、べつに「ヘビメタ騒音」ではなくてもいい。ともかく、自分がきらいな音なら、いい。
ようするに、ヘビメタが好きな人は、ヘビメタではなくて、ヘビメタが好きな人がきらいなメロディーのきらいな音を想像してもらえば、それでいい。
だれだって、きらいな(単発の)音があるし、きらいなメロディーがある。
ともかく、自分にあわない音をずっと聞かされる続けるということを考えてほしい。
言霊主義者が考える、ヘビメタ騒音生活のきつさは、たいしてきついものではないのである。「俺だって、苦労した」と言っても、それは、また、ヘビメタ騒音のくるしさとは、ちがうくるしさであるはずなのである。
もちろん、ヘビメタ騒音生活のくるしいさよりも、もっとくるしい、くるしさを経験した人がいると思う。
けど、その人がほんとうに、そういう生活を「長期間にわたって」しているなら、絶対にそんなことは、言わないということを、言っているんだよ。わかってないと思うけど。影響のでかさかがわかってない。長期間にわたってずっと続けば、影響はでかくなるのである。そして、不可逆的になっていくのである。
自分の身体をとおして「わかっている人」が、軽々しく「楽しいと言えば楽しくなる」なんて、言うはずがないのだ。「元気だ元気だと言えば、元気になる」なんて言うはずがないのだ。だから、そういうことを言っているということが、わかってないということを、明示しているのである。
2025年6月6日金曜日
口(くち)をとがらせて、否定するのは、わかっていないからなのである
まあ、ここに、言霊主義について、いろいろ書いてきたけど、言霊主義者は「せっかく、アドバイスをしてやったのに、なんだ!?」と思うぐらいのものだろうと思う。言霊主義者としては、すばらしいアドバイスをしてやったのに、その態度なんだ」という気持になるのだろう。けど、きちがい兄貴がやったことがひどすぎる。ぜんぜん、わかってない。言霊主義者は、ぜんぜんわかってない。
言霊主義者じゃなくても、一般人の態度はこんなものだ。「そんなの、あるわけがない」「そんなの、へん」と言って、口(くち)をとがらせるやつだっている。きちがい兄貴のことがまったくわかってないんだよ。きちがい兄貴が、普通の人がわからないようなセンスをもっていて、きちがい的なセンスで、音を鳴らしたので、ほかの人には、まったくわからなくなってしまう。きちがい兄貴が、普通の人だと思っているから……一般人は、きちがい兄貴が普通の人だと思っているから……いろいろと、勘違いをしてしまうのである。
たとえばの話、言霊主義者に俺が言ったことを聞いた、言霊主義者は腹をたてる可能性がある。けど、腹をたてたいのは、こっちなんだよ。わからないとは思うけど。そして、ふたこと目には……みんな……言霊主義者も言霊を信じていない一般人も……みんな……「自分だって苦労した」ということを言う。そりゃ、苦労したと思う。別に、その人たちが「苦労したこと」自体を否定するつもりはない。まったく、ない。けど、文脈というのがあるんだよ。この人たちは、きちがい兄貴のセンスを理解していないのに、きちがい兄貴にもたらされた苦労を、普通の人のセンスで、理解している。ようするに、この人たちが考える、普通の人がもたらす苦労と、この人たちが考えられない、きちがい兄貴がもたらす苦労はちがうのである。ちがうから、ちがう。
だから、きちがい兄貴がもたらす苦労を普通の人がもたらす苦労だと(普通の人は)勘違いしているのである。だから、質や量について勘違いしているわけ。苦労の質や量について、勘違いしているんだよ。
きちがい兄貴のようなしつこさで、きちがい兄貴のような頑固さで、音を鳴らす人間というのを、普通の人たちは、想定していないのである。だから、わかってない。想定していないから、質や量について勘違いをしてしまうのである。きちがい兄貴のような人が家族の一員で、その家族の一員が、きちがい兄貴のようなセンスで、騒音を鳴らしている場合は、その人……そういう家族をもっている人は、ぼくが言ってることが、わかるのである。口(くち)をとがらせて、否定するのは、わかっていないからなのである。「せっかく、いいアドバイスをしてやったのになんだ」とおこる言霊主義者は、言霊理論がまったく役に立たないということを、きちがい家族の行為をとおして、知ることがなかったのである。ようするに、わかっていないのである。
痛さにこだわろうと思って、痛さにこだわっているわけではない。
ほんとうに、くるしかった。毎日、一生、続くんだろうなぁ。あれがどういうことなのか、一倍速で体験して知っているのは、ぼくだけだ。別に「こだわっている」わけではなくて「状態」として「なっている」。たとえば、痛いときは、痛いわけだろ。痛さにこだわろうと思って、痛さにこだわっているわけではない。状態として、そうなっている。きちがい家族のきちがい騒音によって、引き起こされた不眠は、その日の音がなくなれば、終わるわけではないのである。そして、ただたん眠れないだけではなくて、ほんとうにくるしいのである。「俺だって苦労した」と言っている人だって、別に、きちがい家族によるきちがい騒音を毎日毎日、何時間も何時間も経験して、適切な時間に、眠れなくなったわけではない。悪いけど、きちがい兄貴のきちがい騒音が鳴っていなかったら、ぼくは、普通に眠ることができたのである。実際、きちがいヘビメタ騒音がはじまるまえは、普通に、夜になった眠る生活をしていたのである。「できていた」ことなんだよ。俺に対して「あまえている」と言ったやつらのことは、ゆるさない。おまえらよりずっと過酷な状態を経験してきたんだよ。不可避的にそうなるということがわかってないだけだろ。不可避的にそうなるということがわかってない人は、経験がない人だから、「俺だってその暗い経験した」とは言えない。だいたい、ぼくとおなじような経験をした人は、ぼくが言っていることを理解してくれる。「そんなのはいいわけだ」とか「そんなのはあまえだ」なんて言わない。どういうことを経験したかわかっているから、言わない。経験したことがないから、「そんなのはいいわけだ」とか「そんなのはあまえだ」と言うんだよ。
* * *
とりあえず、「こだわる」という表現をしたけど、「こだわる」という表現は、この場合、誤解をして「こだわっている」と思っている人のことを考えて、「こだわる」という表現を使った。この場合、だれかが、このことにこだわっていると、決めつける人がいるのである。だれかの意見ではないのである。たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんから見ると、Bさんが家族の騒音にこだわっているように見えるのである。こだわっているのではなくて、こまっているのである。
もちろん、本人がこだわりたくてこだわっている場合もある。その場合は、ちがう場合だ。場合がちがう。
* * *
たとえば、CさんとDさんがいたとする。Cさんが痛くて痛くて「いたい いたい」と言ったとする。それをDさんが聞いて、「Cさんは痛さにこだわっている」とDさんが考えたとする。けど、Cさんは、痛いから痛いと言っているだけで、なにも、こだわっているわけじゃないということを言いたかったわけ。
2025年6月5日木曜日
雑感 ピンチ
ヘビメタをやられていたときの不安が、そのまま、流れ込んでくる。ほんとうに、つねに、ピンチだった。家族が、原因。家族が、絶対の意地でやる。家族が、絶対の意地でやっていることを、絶対の意地で認めない。けっきょく、やりがちで、鳴らしっぱなしなのだ。いま、じつは、ネズミがとなりの部屋に入りこんで、見えなくなってしまったのだ。じつは、ここ最近ものすごく体調が悪いので、ネズミの病原体でやられるかもしれないと思うと、不安だ。ネズミだけではなくて、ダニもいる。ダニが原因の病気もある。きちがい親父が、絶対の意地でやったのだ。そして、本人は……やった本人は、知らんぷりだ。まったく、やったつもりがないし、相手がこまっているということが、本気でわからないのである。きちがい兄貴もおなじだったんだよな。きちがい親父と、きちがい兄貴はまったくおなじ。きちがい親父がやったことを、きちがい兄貴がヘビメタでやった。やり方がそっくり! ともかく、こまる。そして、きちがい家族のせいで……ほんとうにきちがい家族のせいで……つねにピンチだったんだよな。つねに、ものすごいハンディを抱えていた。ほかの人にはそのハンディがないのである。けど、たとえば、受験で苦労したと言えば、受験で苦労したと言える。けど、きちがい家族によるきちがい騒音がない場合と、ある場合とでは、ぜんぜんちがう。けど、「俺だって苦労した」と言えば、同質化・同量化されてしまう。きちがい兄貴みたいな人は、めったにいないのだから、ほかの人が、きちがい兄貴のような家族でこまるなんてことは、めったにないんだよ。いちおう、めったにないと書いておいたけど、「ない」と書きたくなるほど、ない。きちがい兄貴だけなんだよ。……あんなことを、やったやつは……。あんなに意地になって、あんな長期間、毎日舞にやったのは、きちがい兄貴だけなんだよ。きちがい兄貴みたいなやつが、きちがい的な意地で、きちがい音楽を鳴らすのは、相当に確率が低いことなんだよ。そんなにいるわけがないだろ。ざらにいるのであれば、俺の話が通じる人が多いということになる。けど、みんな、「俺だって苦労した」と言うわりには、誤解しているんだよな。いや、「俺だって苦労した」というレベルの理解だから、誤解していて当然だ。みんな、勘違いしているので、みんな、おなじ思いはしていないよ。うちの兄貴が特殊すぎる。うちの親父が特殊すぎる。みんなというのは、だいたい、ぼくがあってきた人の九九・九九九%ぐらいの人だ。六か月間やられた人がいたけど、その人だなんだよな。その人は、「ちゃんとわかっている」よ。その人以外の「みなさん」みたいに、勘違い発言はしない。ちゃんと、見積もっている。
2025年6月4日水曜日
やっぱり、ヘビメタ騒音で脳内伝達物質の分泌とかホルモンの分泌がめちゃくちゃになる
やっぱり、ヘビメタ騒音で脳内伝達物質の分泌とかホルモンの分泌がめちゃくちゃになる。どんだけ、はげしい騒音が、至近距離で続くと思っているんだよ? なにが、「俺だって騒音ぐらいあった」だ。おまえの騒音と俺の騒音がちがうんだよ。おまえが経験したレベルの騒音じゃないんだよ。ふざけるな。「俺だって騒音ぐらい経験した」と言えば、それで、俺の経験を無効化できると思うな。俺の経験の影響を無効化できると思うな。だいたい、「俺だって騒音ぐらい経験した」と言っただけで、騒音のレベルを相対化できると思っているのがおかしい。自分が経験したのと同じレベルの騒音を、ぼくが経験しているという前提でものを言っているけど、それ自体がまちがっているんだよ。あんな騒音、きちがい兄貴じゃないと出さない。きちがい兄貴だからこそ、気にせずに、鳴らせる騒音なんだぞ。なら、普通の環境、普通の条件下では、発生しない騒音じゃないか。「俺だって騒音ぐらい経験したことがある」と言って、俺の騒音経験を同じレベルのものだと仮定するのはやめる。「俺だって苦労した」という言い方で、苦労を同質化・同量化するのはやめろ。実際に、きちがい兄貴が鳴らしたような騒音を経験してないから、どうしても発生してしまう脳内伝達物質の異常やホルモンの異常がわからない。どうしても、発生してしまう「脳内伝達物質の異常やホルモンの異常」の影響がわからない。実際に経験していないから、必然的にそうなるということがわかってないだけじゃないか。実際に経験していないから、必然的に影響をうけるということがわかっていないだけじゃないか。ふざけるな!
言霊主義者も自己責任論者も、相当にレベルの高い「鈍感力」をもっているということになる。
だいたい、他人が経験したことや他人の条件を無視して、「すべて、おまえの責任だ」と決めつけることに、なんの意味がある?
そりゃ、言いがたい悪条件や、言っても誰も理解しない悪条件をかかえている人は、「すべて、おまえの責任だ」と言われたら腹立つだろ。
なにも知らないやつが、一括処理して、とにもかくにも、なにか悪いことが発生したら「それは、おまえの責任なんだ」ということを、言ってくる。
これ、言われたら腹がたつことだということがわからないというのがおかしい。洗脳されて、頭がおかしくなると、こういう簡単なことがわからなくなる。
普段、他人に「すべては自己責任」などと言っているやつは、実際には、普通の人のように、「これは、だれだって腹がたつ」などと言っているのだ。
何度も言うけど、自分にとって、一倍速でおこったことは、自分が経験したことだから、普通に考えることができるのである。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、自己責任論者だ。Aさんがある日、道に向けて、カメラのシャッターボタンを押したとする。そうしたら、自分がうつされたのではないかと思ったBさんが、自分がカメラに映ったかどうか確認させろと言ってきたとする。
そうしたら、Aさんは、自己責任論者なのに腹をたててしまう。
「なんだこの野郎」という気持になる。「だれだって、そんなことを言われたら腹がたつ」と思ってしまう。こんなやつが「すべては自己責任だ」などと人には言っているのだ。
そういうレベルことなんだよ。
何度も言うけど、自己責任論者は、普段、「すべては自己責任だ」と思わずに生きているんだよ。
* * *
普通に、なんかのトラブルが発生したら、相手のせいだと思って、相手の責任を追及しているんだよ。
「すべては自分の責任だ」とほんとうに、すべのことに関して考えていたら、生活なんてできなくなってしまうんだよ。
自分の意識に特別にのったことだけ、「すべては、すべては自己責任だから、これは、自分の責任だ」と考えているんだよ。
それは、「自分の責任だ」と考えやすいところなんだよ。
なんでも、すべて、自分の責任だと考えているわけではないんだよ。
どんな自己責任論者も、「なんでも、すべて自分の責任だ」と考えているわけではないんだよ。普段、他人に対して「すべては自己責任」などと言っている人だって、ほんとうは、「すべて、自分の責任だ」と思って暮らしているわけではないということは、重要なことだ。
これは、意地悪で言っているわけではなくて、重要なことなのだ。ある種の「鈍感力」と言えるものがあるのである。鈍感力がなければ、自我が崩壊してしまうのである。理屈としての自己責任論というのは、それほど、インパクトがあるものなのである。
ほんとうは、「ほんとうに、すべては自己責任だ」と思って暮らしていたら、体がもたないのだ。精神がもたないのだ。
けど、自分のことに関しては……逆に、自分のせいではないとはっきりと思えるので、自我が成り立っているのである。
「すべては自分の責任」なのであれば、他人の身に起こったことも、自分の責任になってしまうのである。
かりに、他人が不幸な条件で不幸な出来事を経験したとする。この経験に「自分」がかかわってなかったとする。
しかし、「すべては自分の責任」なので、それも、「自分の責任」ということになる。
しかし、実際は、自己責任論者は、そんなピュアなこころをもっていないので、他人の身の上に起こったことは、すべて、その他人の責任だと割り切って考えることができるのである。
自己責任論というのは、じつは、「自分の責任だ」ということには、焦点が当てられていない思考法であり理論なのだ。「すべて他人の責任だ」と考える理論が、自己責任論なのである。
「他人の身の上に起こったことは、すべてその他人の責任だ」と考えるのが、自己責任論にのっとった考え方なのである。「自分の責任」ではないのである。他人が不幸なのは、自分の責任だと考えるのが、自己責任論ではなくて、他人が不幸なのは、その他人の責任だと考えるのが自己責任論になってしまうのである。
* * *
この世には条件の差があり、「どうしようもない条件下」で、その人が不幸なことを経験するということがある。けど、それも、自己責任論によって、その人のせいにされてしまう。自己責任論というのは、自分の責任を追及する理論ではなくて、他人の責任を追及する理論なのだ。
「なんだろうが、そいつの責任だ」と割り切って考えるが自己責任論者の考え方だ。ここでも、個々人の「個別性」や条件の「個別性」は無視されてしまうのである。
言霊思考において、言ったことではないことが発生している場合は、言霊とその事象の関係がまったく考えられないのとおなじで、事象と自己責任論との関係が考えられていないのである。
ようするに、言霊主義者は「言ったことが現実化する」という理論を支持しているわけだけど、言わなかったことが現実している場合には、言霊とその現実との関係を無視してしまうのである。
それとおなじように、自己責任論者は、個別性を無視してしまうのである。事象にはさまざまな理由がある。人の不幸な体験には、さまざまな理由がある。
ところが、「なんだろうがそいつのせいだ」と考える自己責任論者は、他人の身に起こった事柄の個別性を無視してしまうのである。
長くなったけど、言霊主義者の現実無視力は、自己責任論者の現実無視力と、似ているところがある。この「現実無視力」を「鈍感力」と言い換えると、言霊主義者も自己責任論者も、相当にレベルの高い「鈍感力」をもっているということになる。
2025年6月3日火曜日
「すべては自己責任」などと、他人に言ってることに、責任を感じるべきだ
その場合、きちがいヘビメタ騒音がなければ、ぼくにとっても、適切範囲なのだけど、ヘビメタ騒音という項目が付け加わると、不適切範囲になってしまうのだ。
しかし、ほかの人は、自分が、家族によるきちがい騒音にさらされ続けたことがないので、ヘビメタ騒音のことを過小評価してしまう。あるいは、無視してしまう。
そうなると、「ヘビメタ騒音なんて、鳴ってたって、関係がない」ということになる。
しかし、きちがい家族によるきちがい騒音があると、ほんとうにできなくなるのだ。きちがい家族によるきちがい騒音は、関係があるんだよ。
できるかどうかに関係がある。
ところが、何度も言っているけど、ほかの人は、自分が一倍速で経験したわけではないので、それがわからない。
ようするに、条件について考えない。
条件で分けて考えるということを、そもそもしない。一括して、できるとか、できないということを決めている。
どんな条件だとできて、どんな条件だとできなくなるのかということを、考えない。
一見、きれいな?「努力をすれば成功する」という文言が、圧力をうみだす文言にばけるのだ。圧力をうみだすときは、じつは、きれいごとなんて成り立っていない。
一般人は、基本的に、条件について考えない。
たとえば、「努力をすれば成功する」という言葉を聞かされた場合、「どんな条件でも」……「努力をすれば成功する」と考えてしまう。最初に、条件による分岐というものを考えない。
ところが、現実世界では、条件が成り立っていて、条件が、結果に影響をあたえる。
だから、ほんとうは、一番肝心なところを無視していると言っていい。
* * *
「努力をすれば成功する」のほかにも、「すべては自己責任」といったような「一括思考」を強制するような文言もある。
「すべて」と明示して、例外がないということを、宣言している。
この思考に陥ると、現実世界のさまざまな事象について、うまく考えることができなくなる。うまく考えることができないのだけど、自分のことについては、例外がたくさん成り立っている。
しかし、自分のことについては、例外がたくさん成り立っているということを認識できないので、問題がしょうじる。「すべては自己責任」などという言葉をすんなりと信じてしまう人は、ほんとうは、支配者層の考えにしたがって、圧力をうみだ人になっている。
支配者層という言い方が気に食わないのであれば、A層と、B層という言い方をしてもいい。
B層が「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」という考え方を信じ込むと、A層にとってたいへんに都合がよい状態ができあがるとする。
もちろん、この場合の「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」とかという考え方は、例外なくどんな場合でも成り立つという考え方として流通してもらわなければ……こまるのである。
そうしないと、圧力をうみだすことができない。
実際には、社会のいろいろな場所には、上下関係があるので、B層の個人同士が、おしつけあうということになるのである。
そのときに、圧力がしょうじる。
支配者層と被支配者層という言い方にもどす。
被支配者層のなかにだって、さまざまな段階があるのである。身分のちがいがあるのである。立場のちがいがあるのである。恵まれている人と恵まれていない人がいるのである。条件がいい人と、条件が悪い人がいるのである。
だから、ピラミッドの上から一%ぐらいを切って、上から一%の層を支配者層、上から一%の層より下の層を被支配者層とした場合、九九%のなかで、格差がある。
そして、九九%のなかで、上下関係が成り立っているのである。そして、ただ単に、「自分のほうが上だ」「自分のほうができる」と勝手に決めつけている場合でも、「自分のほうが上だ」という「態度」が生まれる。
組織に属している場合は、上下関係がしょうじ。上下関係があるうえで、「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」というきれいごとが語られるのである。けど、これは、上下関係があるという条件無視して語られることなのである。
組織において、上下関係があるなら、「すべては自己責任」とは言えないということなんだよ。じゃあ、どうして、組織において上下関係があるのか? 責任の所在をはっきりさせるために、上下関係がある。
上のやつの命令を聞いて、下のやつがやった。やった結果、ひどいことになった。下のやつは命令通りのことをしたわけで、責任は、上のやつにある。なんで、これがわからないのか? ひどい結果になった場合だけ、下のやつの自己責任になってしまうのはおかしい。
それを、「わかったようなことを言うやつが」……「結果を見て」……「そんなのは自己責任だ」と言うわけだ。これは、非常不公平な意見だ。
本来、自己責任論というのは、アンガーコントロール論として人に近づくのだけど、「その人」のなかで、他人をせめるための道具になってしまうのだ。ぜんぜん、自己責任じゃない。自己責任を感じるなら、条件を無視して、「すべては自己責任」などと、他人に言ってることに、責任を感じるべきだ。
* * *
「努力をすれば成功する」に関しては、条件によってちがうから、条件を無視して、「努力をすれば成功する」とは言えない。組織に属していない場合でも、「属性」に関する偏見などによって、「自分のほうが上だ」と思い込んでしまう人もいる。
その人は、マウントをとろうとする。
そのときに使われる言葉が「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」とかという言葉なのだ。
* * *
話がズレたけど、ともかく、ヘビメタ騒音という条件がもたらす影響がでかすぎるのだ。
ところが、やられてない人は、それがわからない。
自分がやられていないので、実生活のなかでどういう影響があるのかわからない。
自分がやられていないから、わからないだけなのだけど、それを『影響はない』と判断してしまうのだ。そして、騒音生活によって強制的に生まれるハンディを無視する。
ようするに、「騒音生活のハンディはない」と判断するのだ。
これは、その人たちの家族が、まともな家族で、うちの兄貴のようなきちがい的な行為を夢中になってやり続けることがないから、ただ単に、経験していないだけだ。
ようするに、きちがい兄貴がもたらすような騒音生活を経験していないのである。けど、「自分だって苦労した」と言えば、「同レベルの苦労をした」ということになってしまうのである。
だから、「自分が言っていることは正しい」と思ってしまう。
けど、同レベルの苦労なんてしていないんだよ。もし、同レベルの苦労をしていたら、『影響はない』と言うはずがないからだ。
どれだけ、がんばっても、残ってしまう影響に苦しめられたことがないから、『影響がない』と判断してしまうわけだ。
だから、『影響はない』と言っている時点で、同レベルの苦労をしていないということがわかる。人間のからだをもっていたら、不可避的に影響をうけるということがわかる。わかりたくなくったって、わかってしまう。
わかってないないのだから、うけてないんだよ。
そして、たとえば、そいつの体(からだ)に、同レベルのダメージが蓄積していないから、普通のことができるんだよ。俺だって、きちがいヘビメタのハンディがなかったら、普通に、普通のことができるんだよ。
きちがい家族による騒音が何千日も続いて、できなくなったんだよ。なんでこれがわからないのか? ともかく、ものすごく失礼なことなんだぞ。ものすごく失礼な態度で、まちがったことを言っているんだぞ。自覚、ないだろ。正しいことを言っていると思っている。
けど、同レベルの苦労なんて経験してないんだよ。経験していたら、影響をうけるということが、身にしみてわかるから、『影響はない』『影響がない』『影響なんてない』と言わなくなる。
うちの兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、普通の人が一日に一分だってやらないことを、毎日毎日、やり続けたので、不可避的な影響をうけたんだよ。俺が、不可避的な影響を、うけたんだよ。くそ否定するな!
だから、特殊な悪条件をかかえている人は……特殊な悪条件をかかえていない人から、悪く言われることになるのである。
みんな「自分なら平気だ」とくちをそろえて言う。
あるいは、みんな、言わなくても、「自分なら平気だ」と普通に思っている。
「自分なら、そんなの平気だ」「自分なら、そんなことの影響をうけずにできる」と思って、アホなことを言う。
「できると言えばできる」とか「努力をすればできる」とかということを言う。
けど、それは、とても失礼なことなんだよ。強烈に失礼なことなんだよ。
どれだけ「できる」と言ったって、できないし、どれだけ努力をしても、条件が悪い場合は、できない。あるいは、できるようにならない。
条件がもたらす悪影響を排除することが……どうしてもできない状態になる。全部の時間をからめとられているような状態になる。
悪条件が睡眠時間に影響をあたえる。どれだけ体が疲れていても、きちがい騒音のあとで眠れないという状態が毎日続く。そんな状態で、影響を受けないわけがない。
しかし、職場や学校で鳴っているのでなければ、知らない人は知らない。家で、きちがい家族が鳴らしてない人は、きちがい家族が鳴らしている騒音経験していないから、そもそも、きちがい家族による騒音の影響をうけていない。
うけていないのだから、受けている人とは、条件がちがう。けど、条件を無視して、「できると言えばできる」とか「努力をすればできる」とかと言ってしまう。
自動的にそうなる。
ほんとうに、ヘビメタ騒音でくるしかった。ヘビメタというのが、ぼくにとって、苦手な音なのだ。あるいは、苦手な音の集合体なのだ。
こんなの、至近距離で、めちゃくちゃにでかい音で、「しろくじちゅう」ずっと鳴らされていいわけがない。そりゃ、宿題だってできなくなるだろう。
これ、「鳴り終わったあとにやればいい」と言うやつがいたけど、それが、むりなんだよ。無理だということが、わかっていないだけなのだ。これ、むりなんだよな。
そして、そいつにとって、苦手な音に置き換えたら、やっぱり、そいつだって、むりだと思う。できないと思う。俺だって、ヘビメタ騒音が鳴るまえは、宿題ぐらい、余裕でできたんだよ。
テレビを視て、そのあとやっても、余裕だったんだよ。
それが、きちがいヘビメタで、鳴っている最中も、鳴り終わったあとも、できなくなる。鳴り終わったあとの、つかれが尋常じゃないのだ。
これ、どれだけ、苛烈な音かわかってないな。あれが、学校から帰ってきたあと、ずっと鳴っているということが、どういうことなのかわかっていないなぁ。
学校がない日は、朝から、ずっと鳴っているということが、どういうことかなのか、わかっていないな。わかっていないだけなのに、えらそうなんだよ。えらそうになる理由はわかる。
「自分はできるけど、エイリはできない」という理由だ。
きちがいヘビメタで、できなくなったんだよ。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、よその人がやらないことをやっていると、ほかのやつとも、トラブルがしょうじることになるんだよ。
自動的にそうなる。
2025年6月2日月曜日
平日の夜は、きちがいヘビメタが「普通に」鳴っていたので、平日の夜になると、「鳴っている感じ」しかしない
このさき、どうしようかなぁーー。ともかく、元気になりたいなぁ。やる気がある状態になりたいなぁ。楽しみを感じられる状態になりたいなぁ。
しかし、もう、ほんとうにつかれたよ。まだ、きちがいヘビメタ騒音が鳴っている感じがする。いま、夜なんだけど、平日の夜は、きちがいヘビメタが「普通に」鳴っていたので、平日の夜になると、「鳴っている感じ」しかしない。
2025年6月1日日曜日
「自分はこれ以降、ずっと眠らない」と言えば、ずっと、何十年間も、毎日、眠らずに生きていくことが可能
たとえば「眠たくないと言えば、眠たくない(状態になる)」と言えるのかどうかだ。たとえば、「眠たいというから眠たくなる」と言えるのかどうかだ。言霊主義者だって、四八時間起きているのは、相当につらいはずだ。言霊主義者だって、実際には、眠たくなってから、「眠たい」ということのほうが多いはずだ。眠たくないのに、突然「眠たい」と言って、眠たくなるのかというと、それもちがう。だいたい、まず、生理現象として、本人の脳が「眠りたい」と思うような状態を作り出している。言霊主義者だって、たいていの場合は、眠りたくなった後に「眠たい」と言うのだ。順番は、本能的に眠りたくなったあとに、「眠たい」と言っているわけで、眠りたくないのに、急に、「眠たい」と言って、言ったから、言霊の力によって、眠りたくなるわけではないのだ。けど、言霊主義者は、幼児的万能感に支配されているので、「ねむたい」と言うから、ねむたくなると思ってしまう。「ねむたい」と言ったあとに、言霊の力によって、眠たくなるわけではない。時間が近接していて、眠たい感じが予兆のようなものとしてあるなら、「ねむたい」と言ったあと、なんとなく、眠たくなることはある。しかし、それは、もうすでに、いなくても、時間の問題で「ねむたくなる」のである。たとえば、「眠たくないと言えば、眠たくなくなるか」と言えば、そうではないのだ。しかし、人間のからだというのは、短時間なら、ストスレ対抗で乗り切ることができる。だから、「眠たくないと言ったら、しゃっきりして、眠気がふっとんだ」というようなことを言う人たちがいるわけ。けど、その人たちだって、一日二四時間、ずっと起きているということを、一年間ずっと続けるということは、できない。どこかで、「ねむたくない」と言っても、眠たくなって、眠ってしまう。あるいは、「ねむたくない」と言うことを、忘れてしまったあと、眠たくなって眠ってしまう。『眠たくないと言っていないのだから、眠ったって、いいだろ』と思うかもしれない。それなら、たとえば、「自分はこれ以降、ずっと眠らない」と言えば、ずっと、何十年間も、毎日、眠らずに生きていくことが可能なのかということが問題になる。そんなことはできない。言霊主義者だって、四〇年間ずっと、起きて暮らすなんてことはできない。「これ以降、自分は、眠たくならないし、眠らない」と言ったって、眠ってしまう。
言霊主義者が、例に挙げるのは、短時間のストレス対抗期間に起こることだ。「そういう気分で乗り切った」というだけの話だ。その人たちだって、一〇年間、ずっと、起きているなんてことはできない。眠気は、たぶん、波状攻撃を繰り返す。だから、その期間中は、「眠たくない」「眠たくない」と言ったあと、なんとなく・眠たくなくなって、がんばることができたというだけの話だ。これも、人間の脳に、依存した話だ。それは、生体リズムをつくっているけど、けっきょくは、物質的な話なのだ。脳内の様々な物質の物理的な運動によって、眠気がつくられ、人は眠る。
「眠らない」と言っても、途中で死なない限り、最終的には眠るわけだし、「眠たくない」と言っても、最終的には、眠たくなって、眠るわけだ。眠たくなっているときに「眠たい」と言うかどうかは、本来、別の話だ。そりゃ、状態として、眠りたくなっている状態を、口に出すかどうかのちがいでしかない。
* * *
一年間ずっと眠らないことだって、できないのに……「言ったことが現実化する」なんて、よくも、言えたものだよ。他人には「眠たいというから眠たくなる」と言って、ゆずらない。こんなやつらが、ヘビメタ騒音のことを過小評価して、頭がおかしいことを言ってくる。これが、不幸な出来事でなくて、なんだ? ほかの人がまったく理解できない程度、きちがいヘビメタを、きちがい兄貴が、おいモッキリでかい音で鳴らすから、よその「なんでもないやつらとのあいだに」こういう問題がしょうじる。よその「なんでもないやつら」は自分なら平気だと思って、むりなことを言ってくる。経験したことがないから、そう言えるだけだ。もちろん、「なんでもないやつら」だって、騒音ぐらいは経験したことがあるはずだ。じゃあ、その「なんでもないやつら」が経験した騒音と、特殊な家族による騒音が同じレベルの騒音かというと、ちがうのである。当然、影響のでかさもちがう。ところが、影響のでかさを無視して、「俺だって騒音ぐらい経験した」と言えば、「そんなのは関係がない」と言える状態が成り立っている。実際に、きちがい家族による、きちがい騒音を……前日……前々日……二〇〇日まえ、一〇〇〇日まえ、五〇〇〇日まえに経験していない。経験していないから、睡眠リズムが、普通の人のまんまでいられるだけだ。そいつだって、きちがい家族が、きちがい的な基準で、きちがい的な感覚で、きちがい的な音をなら続けたら、ぼくのような状態になる。ところが、本人は、経験していないから、そういう状態になってない。ぼくのような状態になっていない。ぼくのような状態になっていないのは、そいつが、おなじことや、同レベルのことを経験していないからなのに、自分だったら平気だと思って、むりなことを言ってくる。もちろん、そういうやつらが言っているときは、ぜんぜん無理なことだとは思っていないのである。騒音というところまで、抽象化すると、影響のレベルを判定することができなくなってしまうのである。
2025年5月31日土曜日
自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論はまったくちがうのである
「努力をすれば成功する」ということを、「努力をすればその作業をやり終えることに成功する」と言い換えれば、「努力をすれば、その作業をやり終えることに成功する」ということになる。
手短に言うと、むりな仕事でも、努力をすれば、やり終えることができるということになってしまうのである。
だから、努力をすれば成功するというのは、「無限要求定型文だ」と言うことができる。努力をすれば成功すると言っている人は、どれだけ努力をしても、できないことがあるということを認めていないのだ。
しかし、「努力をすれば成功する」と言っている人だって、できないことがある。
いっぱい、ある。
ところが、自分だって、努力をしてもできないことがあるということは、普段、意識に上ってこない。意識にのらない。
だから、よく考えないで、「努力をすれば成功する」「自分は、努力をして成功することができた」と考えているのである。
しかし、何度も言わなければならないけど、努力をしたって、できないことはある。「努力をすれば成功する」と言っている人は、認めたくないのだろうけど、「努力をすれば成功する」と言っている人だって、どんなに努力をしても、できないことが、いっぱいある。
ところで、自己責任論に、自分を対象とした自己責任論と他人を対象とした自己責任論があるということを述べたけど、努力論にも、自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論がある。
これも、最初は、自分を対象とした努力論が頭の中に入ってくるのだけど、そのうちに、他人を対象として「努力をすれば成功する」と言いたくなってくるのである。
これは、もう、自動的に言いたくなると言ってもいいのではないかと思う。
しかし、自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論はまったくちがうのである。他人を対象にした努力論は、これまで見てきたように、理論的にまちがっている。そして、理論的にまちがっているということに、他人を対象とした努力論者は、気がつくことがない。
だから、悪い条件によって『できない他人』と軋轢が生まれるのである。
ようするに、他人を対象とした努力論者の視点から見れば、『できない人』は、努力をしない人なのである。努力をしない人でも、努力をすればできるようになるのだから、できるようにすればいいということになる。努力をすればできるようになるのに、さぼっているのだから、さぼっている悪いやつだということになってしまうのである。
努力をしてもできない人は、努力をしてもできないので、「努力をすれば成功する」「努力をすればできるようになる」と言われても、できないままなのである。
だから、他人を対象とした努力論者が、できない人に対して、負のストロークをあたえるということが、常態化する。ようするに、何回もずっとずっと、繰り返されることになる。
じゃあ、ずっとずっと、このようことが繰り返されることがいいことなのか、悪いことなのかというと、悪いことなのだ。
だって、どれだけ「努力をすればできるようになる」と圧力をかけても、相手は、ずっとできないままだからだ。そして、負のストロークを与え続けてきたという、悪い効果がしょうじるのである。
「できる」とか「できない」とかということに関しては、まったくできないということと、がまんして努力をすればできることがある。
言われたほうが、「(言われたことを)まったくできない場合」も問題があるし、「言われたほうが、がまんして努力すればできること」でも、問題がある。
2025年5月30日金曜日
普段は、自己責任論をふりまわしているやつにかぎって、自己責任だとは思わないのだ
たとえば、「言ったことが現実化する」ということと「言い方が悪いと現実化しない」ということは、両立しないんだよ。どっちとも、正しいと言いきることはできないんだよ。けど、言霊主義者は、よく考えないで「言ったことが現実化する。これは正しい」「言い方が悪いと、現実化しない。これも正しい」と思ってしまう。そして、思ったままだ。理論的に矛盾しているということに気がつかない。矛盾しているということを、ぼくが、言霊主義者に言ったとする。そうすると、言霊主義者は不愉快な気持になるのである。そりゃ、自分が正しいと思っていることが、理論的に正しくないと説明されるわけだから、不愉快な気持になるのである。「単純なのがただしい」と言いかえしたりする。これの意味は「言ったことが現実化するというのは、単純なことだから正しい」ということだ。いや、単純でも、まちがっていることは、まちがっているんだよ。ようするに、「矛盾がある」ということを認めたくないので、認めないような発言をするわけ。それから、「アバウトでいいんだ」ということを言ったりする。これの意味は「言ったことが現実化するということと言い方が悪い現実化しないということが、矛盾しているということは、考えるべきではない。言ったことが現実化するということは、アバウトに理解すればいい。言い方が悪いと現実化しないということも、アバウトに理解すればいい。アバウトに理解すればいいことを、がたがた言ってくるのは、そっちのほうがおかしい。矛盾してたって、アバウトに考えればいいんだよ」ということだ。両方が正しいということになると、矛盾するということは、認めないのである。「アバウトでいいから、矛盾していない」と考えているのである。こういうレベルの思考方法だ。この言霊主義者が、普段「すべては受け止め方の問題だ」と言っていたとしても、そのときは、「受け止め方」をかえてくれるわけではないのである。俺が言っていることにあわせて、自分の「受け止め方」をかえてくれるわけではない。そして、自分が、かたくなに!!!自説にこだわって、理論的な矛盾を認めなかったということは、無視してしまうのである。これは、自説にこだわって「受け止め方をかえなかった」ということだ。だから、この点でも、自分が信じている理論と、自分が実際にやっていることが、矛盾しているのである。この言霊主義者が「エイリさんの話を聴いて楽しい」と言えば、楽しくなるのかと言えば、楽しくならないのではないかと思う。自説を批判された……矛盾があると指摘された……そのとき、「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるのかという問題がある。「うれしいうれしい」と言えばうれしくなるのかという問題がある。自分が正しいと思っていることを批判されて不愉快なときも、「うれしい」と言えば、「うれしくなる」のである。言ったことが現実化するから、うれしいと言えば、うれしくなるのである。ところが、たいていの言霊主義者が、こういう時にかぎって、言霊的な解決方法を模索しないのである。「矛盾があるとか言って、なんだこのやろう」とおこった気持ちになってしまうのである。この言霊主義者が、同時に自己責任論者だったとしよう。自己責任論者だから「批判されたのは自分の責任だ」と思うかというと、思わない場合のほうが多い。ぼくの経験の範囲だと、すべての自己責任論者であり、なおかつ言霊主義者である人が、自己責任だとは思っていなかったのである。矛盾したことを言って、矛盾していると指摘されたのだから、これは、特に、自己責任論じゃなくても、自己責任だと思うべきところだ。ところが、普段は、自己責任論をふりまわしているやつにかぎって、自己責任だとは思わないのだ。この場合だと、「矛盾していると指摘してきたエイリが悪い」ということになる。そいつのなかで、そうなる。「エイリが、不愉快なことを言ってきたので、不愉快になった」ということになる。そいつのなかで、そうなる。一倍速で自分が実際に経験したことだと、「すべては自己責任」などとは思わずに、普通に他責思考をするのだ。「ほかのやつのせいで、自分が不愉快な思いをした」と思うのだ。一倍速で実際に起こったことは、自分の感情を伴ったプロセスを記憶しているので、普通に「これはこうだ」と思うのである。記憶障害者である言霊主義者は、のぞくとすると……言霊主義者は人の話だと、じつは、出来事の時系列的な順番を気にしなかったり、まちがえたりするのだけど、自分が身をもって経験したことに関しては、時系列的な順番を記憶しているので、出来事の時系列的な順番をまちがえるということがないのである。けど、これが、人の話だと、かなりの頻度で、時系列的な順番をまちがえてしまうのである。そして、言霊主義者が事前に「自分は、これ以降……不愉快に感じることはない」と言っておけば、不愉快に感じることがないのである。言霊主義者が、どこかの過去の時点で「不愉快なことは発生しない」と言えば、不愉快なことは発生しないのである。もちろん、自分にとって不愉快なことは発生しないという意味だ。まあ、この場合、すべての人にとって、不愉快なことは、発生しないという意味でもいい。ともかく、一度でも、「不愉快なことは発生しない」と言っておけば、不愉快なことを経験することがないということになるのである。だから、エイリに矛盾を指摘されたとしても、不愉快な思いをすることがないのである。けど、わりとむきになって「アバウトでいいいんだ」「単純なのが正しいんだ」と言っているように思えるのである。ともかく、矛盾があるということは、最後まで認めないのである。
2025年5月29日木曜日
「言い方が悪いと、現実化しない」
繰り返しになるけど、「後出し詐欺」と言えるものがある。後出しなのだ。
たとえば、「言えば、言ったことが、現実化する」と言っておいて、実際に、言ったことが現実化しなかった場合は、「言い方が悪かったから現実化した」と判断する人たちがいる。
この人たちは、後出し詐欺をやっている。「言えば」……「言ったことが現実化するのだから、どれだけ言い方が悪くても、現実化するはずなのである。
もし、「言い方が悪い場合は、現実化しない」と言うのであれば、最初から「言い方が悪いと現実化しないけど、言い方がいいと現実化する」とわけて言えばいいのだ。
その場合も、「言った」という条件を満たすと、なぞの「言霊の力」によって、言ったことが現実化されてしまうという設定はまちがっているけど、こういった言い方をするのであれば、後出し詐欺を避けることができる。
そして、「言い方が悪いと、言っても現実化しない」という現実をどのように受け止めているのかということが問題になる。
そりゃ、そうだろ。
「言い方が悪いと、言っても、現実化しない」のだ。
ならば、「言っても現実化しない場合がある」ということを認識しているということになる。
これは、「言えば、言ったことが現実化する」という言葉には含まれないことなのである。言い方が悪いと現実化しない……。ならば、言えば言ったことが現実化するということには、ならないのである。
これ、まったくわかっていないやつが、最初は「言ったことが現実化する」と言って、そのあとに「悪い言い方だと現実化しない」と言うわけだけど、本人が本人の矛盾に気がついていないのだ。
「言い方が悪いと、現実化しない」と言ったあとに、「言えば、言ったことが現実化する」と言うのは、もう、精神異常なのだ。言い方が悪いと、言っても現実化しないのだから、「言えば、言ったことが現実化する」とは言えないことになる。
理論的におかしいのだ。
言うという集合のなかに、悪い言い方で言うという集合がはいっているんだぞ。
悪い言い方で言うというのは、言うという集合のなかの部分集合なんだぞ。矛盾したことを言っているということに、気がつかないのかな?
* * *
そして、このことが、「努力をすれば成功する」という言い方にも、成立している。「努力をすれば成功する」と、まず言っておいて、後出しで「努力の方向がまちがっていると、成功しない」と言うのである。
これも、努力をするということの集合のなかに、間違った方向の努力をするという集合が含まれているのである。だから、本来の意味では、努力をすれば成功するのだから、まちがった方向の努力をしても、成功するはずなのである。
この文脈において、努力というものは、言霊のようなものなのである。
……あとで、正しい努力と言うことが語られる。
しかし、正しい努力というのはなんなのか?
正しい努力というのは、「努力をすれば成功する」と(あてずっぽうで)言ったやつの、頭の中にある、努力なのである。
ほんとうは、どういう努力なら、成功したのかということを知らなくても、ともかく、成功しなかったのだから、それは、正しい努力ではないということになるのである。
そして、どこかにある……理想的な正しい努力をしたなら、成功したはずだ……という夢物語が語られるのである。
これは、言霊のときのように、ずるいやり方だ。
きたなすぎる。
こんなきたないやり方をして、平気なのか?
努力の場合は、言霊のように、「努力霊(どりょくだま)」があって、その「努力霊」が、神秘的な力で、成功する結末をもたらすということは、言われない。
しかし、成功しなかった場合は、あたかも、「努力霊」があるような話になってしまうのである。
正解はわからないのに、正解があるはずだということになり、正解にいたれば、成功するということになってしまうのである。
* * *
まず、成功した場合は、努力をしたから成功をしたということになる。そして、成功しなかった場合は、努力をしなかったから成功しなかったということになるのである。
ようするに、後出しなのだ。
後出し詐欺をやっている。
成功しない限り、努力をしたことにはならないのだ。
そこで、正しい言い方とおなじように正しい努力ということが問題になる。
「まちがった努力をしたから成功しなかった」と、後出しで言われるようになるのだ。成功しなかった人であって、なおかつ、努力をした人は、だれか努力論者から「まちがった努力をしたから成功しなかった」と言われることになる。
「まちがった努力をしたから成功しなかった」と言いきる人は、正しい努力がなんなのか知っているみたいなのだけど、本人が、知っている気持ちになっているだけだ。
ほんとうは、正しい努力なんてわからないのである。
「まちがった努力をしたから成功しなかった」と言っている人も、正しい努力の具体的な内容がわからないのだ。
正しい努力というのは、「結果的に!!」成功した努力なのだ。
成功しなければ、どれだけ「正しい」と思われる努力をしたとしても、それはまちがった努力なのだ……。「まちがった努力をしたから成功しなかった」と言って「後出し詐欺をする」努力論者が「正しい努力をしたかもしれない人」に「まちがった努力をしたから成功しなかった」というのである。
条件が悪くて、努力をしようにも努力をすることができなかった人や、条件が悪くても正しい努力をしたかもしれない人が、努力論者から「まちがった努力をしたから成功しなかった」と言われることになる。
けど、じゃあ、その努力論者が、ほんとうに正しい努力を知っているのかというと、知っているわけではない。
成功しなかったなら、正しい努力ではなかったのだろうと、後出しで、決めつけているのだけなのだ。
こういう詐欺。
理論的に考えることができないので、たぶん、自分がなにをやっているのかわからないのだろう。この文を読んだとしても、多くの努力論者は、ぼくがなにを言っているのかわからないかもしれない。
ともかく、詐欺なんだよ。
「きたないことをやるな」と言いたくなる。
だって、そうだろ。正しい努力をして成功しなかったかもしれないのに、成功しなかったという結果から、正しい努力ではないと決めつけてしまうのだ。
こんなの、ない。
努力の場合は、たしかに、行動がある。言霊のような神秘的な力を想定する必要がないのだ。
しかし、言霊とおなじように、幼稚な努力論者が、後出し詐欺をするということになる。
努力論にも、一〇〇%詐欺、法則性詐欺、後出し詐欺の三つの詐欺が、最低でも……成立している。
努力の場合は、主体的な行動ができるのである。
だから、後出し詐欺は、言霊理論の後出し詐欺よりも、目立たなくなっている。
「まちがった努力をしたから成功しなかった」というのは、あるていど、理論的に正しいように聞こえるのである。しかし、後出し詐欺をやっていることには、かわりがないのである。
正しそうに見えても、後出し詐欺はしっかりとやっていて、詐欺をしていないわけではない。
おわかりか?
* * *
神様視点で「正しい努力」というものがあるとする。努力論者Aがいたとする。努力をしたけど、成功しなかった人がいたとする。
とりあえず、Bさんは、できる範囲で正しい選択をして、努力をしたけど、成功しなかったとする。そうなると、Aさんは、Bさんが実際には成功しなかったということに注目して、Bさんの努力が足りなかったから成功しなかったのだと言い出すのである。
そして、Bさんが「じゅうぶんな、努力をした」と言えば、Aさんは「努力の方法が正しくなかったから、成功しなかったんだ」とBさんに言うのである。
Aさんが神様視点で「正しい努力」がなんなのか、知っているわけではないのである。
そして、AさんはBさんが「正しい努力」をしたのかどうかも、ほんとうは、わかっていない。Bさんの努力が「正しい努力」だったかもしれないけど、Aさんは、結果を見て、Bさんの努力は、正しい努力じゃなかったと、後出しで、決めつけているだけなのである。
条件が悪ければ、「正しい努力」なんてできないかもしれない。けど、Aさんは、努力論者なので、「努力をすれば成功する」ということを信じている。
なので、「成功しなかったのなら、努力をしなかったのだ」と(成功しなかった)他人に言いたい気持ちになるのである。他人が「努力をした」と言い返せば、「努力が足りなかった」とか「正しい努力じゃなかったから成功しなかったんだ」と言いたくなるのである。
これは、後出しなんだよ。
最初の「努力をすれば成功する」という文がまちがっている。
「努力をすれば成功する」という命題は『偽』なのに、『真』だと思っている努力論者が、最初に、勘違いをしているのである。
そりゃ、『偽』なのに、『真』だと思っているのだから、勘違いをしているということになる。
2025年5月28日水曜日
主義主張で、「人にどう思われてもいい」と思っているわけではないんだぞ。
ヘビメタ騒音でできなくなっているのだから、「人にどう思われたっていい」ということにはならないのである。
ヘビメタ騒音で……できなくなっているんだぞ。
ヘビメタ騒音がなければ……できることなんだぞ。
ヘビメタ騒音でできなくなっているから、他人と、トラブルがしょうじるんだぞ。
ヘビメタ騒音できなくなっているのだから、そこから発生する問題について「人にどう思われたってかまわない」ということにはならない。
主義主張で、「人にどう思われてもいい」と思っているわけではないんだぞ。
ヘビメタ騒音でどうしても、勉強ができないなら、俺がこまるのである。ヘビメタ騒音でどうしても、遅刻をしてしまうなら、俺がこまるのである。どうだっていいことじゃない。
人が、「こいつはだらしないから、遅刻する」と思っていいわけがない。人が、「こいつは、勉強がそれほどできない」と思っても、いいわけじゃない。
ヘビメタ騒音で、ほんとうに、宿題ができなくなる。
宿題をやってこいという要求がある。こんな要求、ほんとうに、ヘビメタ騒音がなければ、いくらだって、こたえることができる要求なんだよ。
けど、ヘビメタ騒音が鳴っているから、どうしても、どうしても、どうしても、できなくなるんだよ。ヘビメタ騒音が鳴っている最中、どうしても、どうしても、どれだけがんばっても、宿題をやり遂げることができないんだよ。
問題だろ。
それから、ほかの人たちは、ヘビメタ騒音を浴びたあと、どういう状態になるかわかってないので、ヘビメタ騒音が鳴りやんだあとも、ヘビメタ騒音でつかれはてている状態だから、宿題ができないと言っても認めない。
これだって、不名誉なことなんだよ。
ほかの人が、ぼくのことについて誤解をしているんだよ。こいつらの前提は、「ヘビメタ騒音が鳴り終わったら、宿題ができるはずだ」ということなんだよ。
ところが、午後四時から、午後一一時一〇分までヘビメタ騒音が続くと、鳴り終わったあとも、宿題をすることができない状態になる。毎日続くと、そうなるんだよ。こいつらが実際に、自分がこの世で一番嫌いな音を、毎日毎日、何時間も何時間も、聞かされることがなかったから、わかっていないだけの話なんだよ。
あの至近距離で、あのめちゃくちゃな音をガンガン聞かされ続けて、いいわけがない。そんなのが、七時間近く続いて、いいわけがない。そんなのが、一三時間以上続いて、いいわけがない。
日曜、祭日、きちがい兄貴が、休みで家にいる日は、一三時間以上、さらされ続けることになる。日曜日が休みにならないのである。
日曜日はしずかだから、平日、ヘビメタ騒音のせいで、できなかった勉強の遅れを取り戻すということもできないのである。
「ヘビメタ騒音で、できなくなった」と俺が説明したあと、「人がどう思うかなんて気にしなくていい」と言ったやつが、リアル世界にいる。いた。
そいつは、どれだけ、俺が……そいつのその言葉を聞いて、くやしい思いをするか、まるでわかってない。こいつらは、誤解をしている。
だいたい、そいつらにしたって、俺が二十歳をこえて、無職なら、「無職野郎」と思うわけなんだよ。そいつらが、そうやって、俺のことをバカにする。
それで、「人の評価なんて気にしなくていい」「人がどう思うかなんて気にしなくていい」と言う。
そいつが、「無職に対する偏見」をもっていて、「なんだろうが、無職はダメなやつだ」と思って、無職属性がある俺のことをバカにしたとする。そいつの意見では、そいつが「無職であるエイリ」のことをバカにしたって、あたりまえだと思っているんだよ。そいつにとって、無職なやつはだめだというのは、あたりまえのことだからだ。
こんな、きちがい野郎。こんな、バカ野郎。
ほんとうに思考力が低すぎる。ほんとうに理解力が低すぎる。きちがい野郎だ。
いいわけがないだろ。これも、こいつらにしてみれば、鳴り終われば、ヘビメタ騒音は関係がないということになっているので、鳴り終わったら、(それは)エイリが無職でいる理由にはならないと思っているのだ。
こんなの、ない。
きちがい兄貴が、きちがいヘビメタを、ほかの人がわからないレベルで、夢中になって、でかい音で鳴らすから、こうやって、俺が恥をかくことになる。
うちにくれば、ぼくが言っていることが正しいということが、一発でわかるんだよ
こうしているあいだも、ヘビメタ騒音の感じが持続しているので、いやな人生だったと思う。あんなのが続いていいわけがないだろ。なにが「言ったことが現実化する」だ? なにが「明るいことを思えば明るいことが現実化する」だ? ふざけんな。ふざけんな。
この日曜日の午後……の雰囲気……。これ、ほんとうに、ヘビメタ騒音の雰囲気だ。至近距離で鳴っていた。鳴りはじめたら、どれだけ言っても、一秒もやめてくれない。
きちがいが、きちがいの音で、きちがいの意地で鳴らす。
みんな、知らない。うちで鳴っているだけだから、学校の友達は知らない。学校の人は知らない。
俺が言っても、きちがい家族がいない人たちばかりだから、きちがい家族の「維持」がわからない。きちがい家族の「こだわり」がわからない。
どしうて、ぼくが、兄貴のことをきちがいと言わなければならないのか?
反応がおかしいからだ。みんな、きちがい兄貴の、きちがい的な部分が……そもそもわからない。だから、普通の騒音だと思ってしまう。普通の「兄」だと思ってしまう。普通の家族がやっていることだと思ってしまう。
もう、ここで、誤解がしょうじてしまう。もちろん、ここで生じた誤解について、張本人であるきちがい兄貴は、知る由(よし)もない。
張本人が、学校の人たちの「認知」ときちがい兄貴が実際にやっていることの「ずれ」を認識することは、ない。絶対にない。そりゃ、自分がやっていることがわからないからだ。
普通の人だったら、あんな音では、鳴らしたくても鳴らさないんだよ。
あんな音で鳴らしてしまうということ自体が、「ぶっこわれている」。きちがいだ。なにもわかってないきちがいだ。
どれだけ、きちがい兄貴がやっていることは、常識はずれなことだ……ということを兄貴に言ったって、きちがい兄貴は、認めない。発狂してやりきる。
ところが、これまた、きちがい兄貴はきちがいだから「やりきった」という気持が生じない。相手が文句を言ってきた……ということすら、自分がやり通せるなら、忘れてしまう。なら、こだわらないいい性格かというと、ちがうのである。
きちがい兄貴が「悪いこと」を押し通して、相手に文句を言われたということを、瞬時に忘れてしまうのである。忘れてしまうのだか、こだわらない性格」だということができそうな感じがするけど、言うことはできない。「こだわらない性格」には、いいニュアンスが含まれている。
たとえば、自分が相手に、悪いことをされて、おこったけど、すぐに水流して、相手が自分にやったことを忘れてあげるというような性格もこだわらない性格と表現されることがある。「こだわらない性格」というのは、相手が自分に不愉快なことをやってきたときも、すぐに忘れてあげるというようなニュアンスがある。
けど、きちがい兄貴は、自分、相手に悪いことをして、悪いことをしたということまったく認識しない人たちなのである。だから、「こだわらない性格」というような良いニュアンスをもっている言葉は、使えない。
きちがい兄貴やきちがい親父に、俺が「こういうことがあった」いうことを言ったとする。たとえば、きちがい兄貴が俺の言い分を無視して、鳴らし続けてしまったということを、俺が兄貴に言ったとする。
兄貴は、言われたときに(自分が)不愉快なのであれば、おこっておこって、おこって、おこって、認めない。即座に発狂して、腹をたてて認めない。
こういうやり取りも、きちがい兄貴、本人の頭の中に、まったく残らないのだ。相手が言っていることというのは、「感じ」でしかないんだよ。いちおう、兄貴のことを書いたけど、親父の場合もおなじだ。これ、まったくおなじなんだよ。
なんとなく、自分にって不都合なことを言われたというレベルの、漠然とした理解なんだよ。意識のレベルでは、漠然としたレベルのままなんだよ。無意識のレベルでは、相手の言ったことを……認めてしまうと、自分が「押し通すことができなくなることだ」ということを、正確に理解しているんだよ。
けど、それは、意識には登らないわけ。
だから、ものすごくへんな態度なんだよ。相手が言ったことのうち……自分の行為にかかわる基本的なことを、絶対の意地で認めないのだ。
基本的なことを認めると、やめなければならなくなるから、認めないのである。きちがい兄貴なら、ヘビメタの音が「でかい」ということを認めない。
こんなの、聴覚が正常なら、だれだってわかることだ。
けど、そのときだけ、聴覚に異常がしょうじて?わからなくなってしまうのである。
けど、ほんとうには、聴覚に異常がしょうじたわけではないのである。聴覚に異常がしょうじたのではなくて、聴覚が認識したものを、受け止める部分に、異常がしょうじたのである。
性格的に……聴覚に異常がしょうじたような状態になって、認めないのである。もちろん、性格的にと書いたけど、本人は、「知らない」のだよ。自分が「そうしている」ということを知らない。
けど、自分にとって都合が悪いことを言われると、いつもそうなるんだよ。だから、こまるんだよ。きちがい兄貴は知らないわけだし、よその人も、そんな異常な人がいるとは思わないので、たいしたことじゃないと思っているわけ。
きちがい兄貴も、きちがい兄貴がやっていることがわからないし、よその人も、きちがい兄貴がやっていることがわからないということになる。これが毎日続いたら、こまるんだよ。
この機能??……このきちがい機能をいつも、もちいて、きちがいヘビメタを、猛烈にでかい音で鳴らしてしまうのだけど、いつも、でかい音で鳴らしていないつもりのままなのだ。
「しずかにしてくれ」と言われたら、「なんだか不都合なことを言われた」ということだけがわかるので、きちがい的な意地ではねのけようとする。きちがい兄貴は、発狂して、きちがい的な意地ではねのける。
この時に、殺してやめさせないと、(きちがい兄貴は)やりきってしまう。殺せなかったので、やられてしまった。
ともかく、「うち」で鳴っている音なんて、学校の人たちはまったく知らないから、どうでもいい問題だということになる。学校で、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的にでかい音で鳴らているわけではないからね。
直接、被害をうけるのは、ぼくの部屋にいるぼくだけだ。
きちがい兄貴が、普通に鳴らしているときに、ぼくの部屋に来れば、だれもが、「うるさい」と思う音で鳴っているんだよ。「いつもこんな音で鳴っているの?」と思う音で鳴っているんだよ。
だから、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚で、普通の音で鳴らしいるとき、うちにくれば、ぼくが言っていることが正しいということが、一発でわかるんだよ。
2025年5月27日火曜日
神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件(3)
神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件のことなのだが、ちょっと、重複して言っておきたいことがある。
Bさんは、まちがっている。Aさんは正しい。
Aさんは、たいていの場合、Bさんが、やってこないことに関して、腹をたてるだろう。この立腹は、それなりに理解ができることなのである。
いっぽう、Bさんから見ると、Aさんの立腹自体が、不愉快なものであり、無視しなければならないものなのである。
だから、アドラーが言うことにしたがって、Aさんの立腹は、Aさんの問題だと問題を切り分けることに成功する。
しかし、もともと言えば、Bさんがやってこなかったことが原因なのだ。Bさんの認識がまちがっているのである。
しかし、Bさんのなかでは、Aさんが不適切な過剰要求をしてきたということになっているので、Bさんは、絶対に、自分のあやまりには気がつかない。
ほんとうは、Bさんの側の……作業内容の「評価あやまり」と、Aさんの態度に対する「評価あやまり」がある。
しかし、Aさんの態度に問題があるとか、Aさんの性格に問題があると思っているBさんは、自分の意見をかえない。
「Aさんが、自分に理不尽なことを要求してきたのだから、Aさんが悪い」とBさんは思ったままだ。「Aさんが、おこるのは、Aさんの性格の問題だから、自分は関係がない」とBさんは思ったままだ。
相手の問題と自分の問題を切り分けるということが奨励されているけど、どっち側がどう思っているのかということが、問題になる。
ところが、相手の問題と自分の問題を切り分ければよいのだという問題解決法が提示されるときは、現実の認知は、問題にならないのである。現実の認知は、自分の側の『現実の認知』が絶対に正しいということになって、固定されて考えられている。しかし、実際には、だれも、固定することはできないのだ。だから、実際には、上下関係やそれまでの出来事が、「条件」になっている場合が多い。自分がよく考えて、これは、相手の問題だと考えれば、自分に問題がある場合も、相手の問題だと思ったままなのである。そういう状態の個人が量産されることになる。
* * *
「相手はかわからないから、自分がかわればいい」と、だれかがAさんにアドバイスをしたとする。そのアドバイスは、Aさんの負担を増やすだけなのである。
「すべては、受け止め方の問題だ」と、だれかがAさんにアドバイスをしたとする。どういう意味かというと、すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいいというよな意味なのだ。たとえば、価値中立的な出来事が発生しただけで、それに、「Bさんがやってこなかったから腹立たしい」という「解釈」を、Aさんが価値中立的な出来事に当てはめただけなのだという言い方がある。これは、認知療法の一部に出てくる考え方であり、精神世界の「よくある話」の一部に出てくる考え方だ。出来事に意味合いをあたえるのは、「その人・個人」だから、その人が、その現実をつくりあげているということになる。出来事は中立的に生起しているのに、その中理的な出来事に対して、「Bさんがやってこなかったから、こまる」というような意味合いを付与しているだけなのだということになる。Aさんが、中立的な出来事に、意味合いを付与しているだけなのだということになる。ここから発展して「だから、自分の受け止め方をかえればいい」というところに、つながる。
しかし、実際の場面では、だれも、中立的に受け止めていないのである。神様的な視点で受け止めることができる神様は、どこかほかの、ところにいる。実際のプレーヤーである個人は、個人の目を通して、出来事を把握しているのである。どこかに「価値中立的な、正しい認知がある」という考え方自体がまちがっているのかもしれないのだ。実際、だれの頭にも、「価値中立的な、正しい認知」なんてない。ないのだ。まったくない。
つまり、「価値中立的な、正しい認知」があると、だれか個人が、空想しているだけなのだ。その個人だって、実際に、生活をしているなかでは、一度も、価値中立的に出来事を認知・認識したことがないと言える。もしかりに、価値中立的に出来事を認知・認識したことがあると、だれか個人が思っていたとしても、それがほんとうに、価値中立的な認知・認識であると言いきることはできない。どうやって、言いきれるのか疑問に思わないのか?
その人が、ある価値観に基づいて、価値中立的な認知したと思っているだけなのだ。「自分は価値中立的に現実を受け止めた」と思うかもしれないけど、思っているだけなのかもしれない。どうやって、思っているだけだということを否定するのだ? 否定するとなると、価値観が問題になるのではないのか? どうしたって、価値観が問題になるだろう。この場合は、本来は、出来事は中立的に生起している(はずだ)という価値観が問題になる。そして、自分がそれを実行したという(価値中立的ではない)認知・認識が問題になる。
2025年5月26日月曜日
神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件(2)
神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件について、もうちょっと、言っておく。
Bさんの視点では、Aさんの要求は、超過範囲要求なので、やらない。超過範囲要求は不当な要求なので、やる必要がないのだ。Aさんに屈する必要がないのだ。
Aさんが、どれだけ、「不当な要求ではない。正常な範囲の要求だ」と言っても、Bさんの視点で見れば、不当な要求なので、やらない。
アドラー主義者は、「相手の問題だと切り捨ててしまうのである。ようするに、よく考えて、自分の考え方がまちがってないと思うなら、不当な要求をしてくるのは、Aさんの問題だから、自分には関係がないということになる。
Bさんが、アドラーの考え方に賛成している場合は、不当な要求をしてくるのは、Aさんの問題だから、自分には関係がないと思ってしまうのである。
しかし、神様視点で、適切範囲要求なので、Bさんが、ほんとうはまちがっている。
「相手の言い分をよく考えて判断すれば、だれもが、正しい基準でものを考えることができるはずだ」という考え方や、「不当な要求をしてくる相手の問題だから、相手の言うことをガン無視していい」という考え方は、問題を引き起こす考え方なのである。
* * *
Aさんが、いい人で、Bさんの仕事までやってあげたとする。AさんはAさんの仕事をかかえているので、よけいな仕事が増えたということになる。一回だけなら、出血大サービスで、対応できるけど、毎日続いたら、Aさんがまいってしまう。
これも、言霊主義者なら「できると言えばできる」と言って、問題にしないことなのである。
「できる」と言ったって、できないことはある。かりに、何回かはできたとしても、ずっとそれを続けるのは、むずかしい場合がある。
ようするに、一時的にストスレ対抗で処理できるけど、それは、むりをしてやっていることだから、ずっと続くのはまずい。
短期間で終了することと、長期間にわたって続くことは、それぞれ、日常生活の中で、ちがった性質をもつものなのである。
ところが、言霊という視点で考えると、両者のちがいなんて、まったく問題にならないのである。
「できる」と言えば、どっちだって、できるのである。
一日で終わることと、何十年かかっても終わらないことの区別をしない。一日で終了することと、数万日かかっても終了しないことの区別をしない。
「言えば、言ったことが現実化する」という文のなかに、どうやって、短期間で終わることと、長期間で終わることの区別を含めることができるのか?
区別なんて含めることはできない。
言霊思考で扱う限り、両者の区別なんてしない。
たとえば、「短期間のことなら、できると言えばできるけど、長期間のことだと、できると言ってもできない場合がある」なんてことは、言わないわけだ。
「できると言えば、できる」のである。期間なんて、まったく関係がない。
それが、言霊思考だ。
自分が、自分の視点で、時系列的に出来事を体験している場合は、「長期間だとむりだ」というようなことが、言霊主義者にだってわかるのである。
「ずっと毎日続くと、つかれる」「つかれがたまると、できなくなる」ということが、言霊主義者だって、経験をとおしてわかっている場合がある。その場合は、そのように考えるのである。そのようにというのは、「自分は、つかれがたまるとあれができなくなる」と考えるということだ。あるいは「毎日、つかれがたまって、もう限界だ」と考えるということだ。
「できると言えばできる」というのは、短期的なことで、ストレス対抗が機能する場合の話だ。
ストレス刺激がずっと、長期間にわたって続くのであれば、人間に備わっているストレス刺激に対抗する力では、どうにもならない状態になる。
ストレス対抗で、がんばっている状態自体が、ストレスになってしまうので、修復ができなくなる。ようするに、体が(もうそれ以上)ストレス刺激に対抗できない状態になる。
言霊主義者は、「文」として切り取って、法則性があると勝手に思っているだけなのだ。だから、ほんとうは、いろいろなところで、ぼろが出る。
ところが、言霊主義者は、言霊では対応できない部分を、無視してしまうのである。自分にとって、明らかなことは、現実的な思考をするのである。そして、現実的なことでも、言霊思考にあわないことは、無視するのである。
ようするに、「明日は晴れる」と言ったのに、雨になった場合は、雨になったということを無視してしまうのである。あるいは、昨日「明日は晴れる」と言ったことを、無視してしまうのである。都合よく無視して、「言霊は絶対だ」「言霊原理は正しい」と思っているだけなのである。
ようするに、「(なになに)ではない場合」に遭遇したしても、それについては、深く考えないのである。言霊理論を否定するような出来事が発生した場合も、言霊主義者は、それを無視して「言霊は絶対だ」と思ったままなのである。
2025年5月25日日曜日
神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件(1)
神様視点で、適切要求範囲だと書いてあるので、読者は、適切な要求範囲だということがわかる。
しかし、実際には、神様視点で、確かな基準を提供できる人がいない世界に住んでいるのである。ようは、まちがっているBさんも、正しいことを言っているAさんも、おなじ資格をもつ人間だということになり、どっちの意見が正しいのか、判定できる人がいないのだ。
Aさんは、自分の意見が正しいと思い、Bさんは、自分の意見が正しいと思っているわけだ。
かりに、Cさんが、「Aさんの意見のほうが正しい」ということを言ったとしても、それは、Cさんの意見であって、神様の意見じゃない。確かな基準なんてない。
みんなが、それぞれに、自分の頭のなかに「確かな基準のイメージ」をもっているだけなのだ。
その、自分の頭のなかの「確かな基準のイメージ」が「正しい基準だ」とわかるような神様視点の「正しい基準」がどこかにあるわけではない。
何度も言うけど、アドラーのような人間は、「どこかに正しい基準がある」と思っているのだ。そして、「よく考えれば、だれでも、正しい基準にあてはめて、目の前のことを考えることができる」と思っているのだ。
Bさんが、よく考えると……いままで自分が「それ」は、「超過要求範囲だ」と思っていたけど、それは間違いで「じつは適切要求範囲だ」と思うことができるという設定が成り立っているのである。
しかし、実際の場面では、Bさんがどれだけ深く考えても、Bさんがどれだけ考え直しても、Bさんにとっては「それ」が「超過範囲要求である」ように思えるということが発生する。
だから、Bさんにとっては、Aさんは、「超過範囲要求」の仕事をおしつけてくる、悪い上司だということになる。
「それは超過範囲要求だ」として、Aさんの要求をはねのけるということが、Bさんにとっては「正しいことに」なるのである。
よく考えたあとのBさんは……自分が、Aさんの要求に合わせる必要がないと考えていて、その考え方に自信がある状態なのである。そして、BさんがAさんに「そんなのは、超過した要求だ」と言って、BさんがAさんの要求にあわせなくてもいいと思っている状態になる。
Aさんは、適切な要求をしたのに、Bさんが、適切な要求をはねのけるので、こまるということになる。
あるいは、Aさんが、適切な要求をしたあと、Bさんが実際には、それの半分しかやってないということがわかって、こまるということになる。
* * *
なお、自己責任論者に言わせると、Aさんがこまっても、それは、Aさんの自己責任なのである。自己責任論者というのは、こまっているほうをいためつけるようなことしか言わない。
思霊論者は、思った通りになると言っているので、思った通りにならなかった時点で、思霊理論はまちがっているという現実に直面しなければならなくなる。
しかし、思霊主義者は、Bさんのように、まちがったことを信じて、うたがわない状態になっており、現実を無視してしまうのである。
* * *
かりに、Aさんが言霊主義者だとする。
言霊主義者であるAさんは、「Bさんは、自分が要求したことをやってくる」と言えば、やってくるはずだと思っているのだけど、実際には、Bさんが自分が要求したことをやってこないので、言ったことが現実化しないという現実にぶちあたることになる。
ところが、Aさんは、現実を無視してしまうのである。理論にあわない現実というのは、無視してしまうのである。
ほんとうは、「言っても、言った通りにならないことがある」ということを認めなければならないのに、Aさんの頭のなかは、「言ったことが現実化する」という考え方が依然として成り立っている状態なのである。
* * *
AさんとBさんの会社にいるCさんがいたとする。Cさんが言霊主義者であり、Aさんが言霊主義者でない場合は、CさんはAさんに「言えば言ったことが現実化するから、Bさんがちゃんとやってくると言えばいい」と言うだけなのだ。
Aさんが、「Bさんがちゃんとやってくる」と言っても、Bさんは、Aさんの要求は、不当な超過範囲要求だと思っているので、自分が適切範囲要求であると思っている範囲しかやらない。
なので、Aさんがどれだけ「Bさんがちゃんとやってくる」と言っても、Bさんには影響がなく、Bさんがやってこないということになる。
その場合、Cさんは「Aさんの言い方が悪いから、Bさんがやってこなかったのだ」「もっと、こころをこめて、Bさんがやってくると言えば、Bさんはやってくるのだ」と言って、ゆずらない。
Cさんは、「Aさんの『言い方が』へぼいから、ダメなんだ」ということをAさんに言うのである。
* * *
かりに、Cさんが「Bさんは、ちゃんとやってくる」と言っても、Bさんはやってこないとしよう。Cさんは、言霊理論がまちがっているということを認めるかというと、認めないのである。
Cさんが言うのは、「Aさんの言い方が悪かったから、言ったことが現実化しなかったのだ」ということだけなのである。いっておくけど、言霊理論は、ただ単に「言えば言ったことが現実化する」と言っているだけなので、関係者でないCさんが言っても、現実化することになる。
CさんとBさんの間になにも関係がなくても、Cさんが「BさんがAさんの要求通りのことをやる」と言ったら、Bさんは、Aさんの要求したことをやることになるのである。
そういう魔法のような効果があると言霊主義者は言っているのである。
Cさんが言霊主義者であるという前提で話しているので、Cさんが「BさんがAさんの要求通りのことをやる」と言ったら、Bさんは、Aさんの要求したことをやることになるのである。
だったら、Cさんが、Aさんの問題を解決してやってもよいのである。Cさんが「言霊の力」を利用して、Aさんの問題を解決してやってよいのである。
ところが、Cさんは「言霊の力は絶対だ。言霊の力はすごいんだ。言えば、言った通りになる」と言って、ぜんぜん、Aさんの問題を解決してやろうとしない。Cさんがやることと言えば、Aさんに、説教をするだけなのである。
そして、Aさんが失敗をすれば、Aさんの言い方が悪かったから失敗したとAさんせめるだけなのである。
たいていの場合、Aさんは失敗することになるのである。
どうしてかというと、言霊の力はないので、言霊の力によっては、Bさんの行動をかえられないからだ。
Aさんが言ったあとに、Bさんが、行動をかえる場合が少しはある。その場合は、言霊の力ではなくて、言葉の力によって、Bさんの行動をかえただけだ。言霊の力ではなくて、言葉の力だ。その場合、言霊主義者が勝手に、言霊の力でBさんの行動がかわったと思っているだけなのだ。
AさんがBさんのいないところで「Bさんはちゃんとやってくる」と何回言っても、Bさんには、言葉として伝わっていないので、この場合は、言葉の力によって、Bさんの行動がかわるということはない。
ただし、Aさんがひとりで、「Bさんはちゃんとやってくる」とおまじないのように、一〇〇回ぐらい言っていたところを、偶然、Dさんがみて、DさんがBさんに「Aさんが、おまじないのように、何回も、Bさんはちゃんとやってくると言ってたぞ」ということを、伝えた場合は、Dさんの言葉によって、Bさんの行動がかわることはある。
そういう場合もある。
けど、その場合は、やはり、言霊の力でそうなったのではなくて、言葉の力でそうなっただけだ。ここらへん、勘違いをするべきではない。
だいたい、言霊の力を使って、Aさんの問題を解決してやらないのに……あるいは、解決してやれないのに……Aさんをせめる言霊主義者というのは、傲慢だ。
自分だって、「言うこと」で、言霊の力を使って、問題を解決することができないのに、あたかも自分は言霊の力を使って、問題を解決できるという前提でものを言っている。
そういう前提で、Aさんの言い方が悪いから、言霊の力が発動しないのだということを言っている。
こんなのない。
これだけ間違った前提で、ものを言って、いい気になって威張っているなんて、大人としておかしい。幼稚園児ならありえるけど、だいの大人が、こんなまちがいをして恥ずかしいと思わないのか。
間違っているのは、言霊主義者なのに、言霊主義者はいつもえらそうなのだ。
どうしてかというと、「自分は言霊を使える」と思っているからだ。
ほんとうは、言霊主義者も、言霊の力なんて使えない。その意味では、言霊主義者も、言霊の力でBさんの行動をかえることができなかったAさんとおなじなのだ。
ところが、「言霊の力を使える分だけ、自分はAさんよりも優れている」と思って、Aさんに、「言霊を使えば、問題を解決できる」と言うのだ。
もちろん、上から目線で、Aさんが知らないことを教えてあげるという態度になる。
そして、ほぼ決まっていることなのだけど、Aさんが失敗すれば、「Aさんの言い方が悪いからダメなんだ」と言うのである。自分は「言い方がうまいから、いつも、言霊の力を使うことができる」と思っているのである。
ところが、その言霊主義者が、言霊の力を使って、Aさんの問題を解決できるのかというと、できないのだ。
「言霊の力」なんてないから、できない。
2025年5月24日土曜日
2025年5月23日金曜日
神様視点で、超過範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが上司で、BさんがAさんの部下だ。神様視点で、超過範囲要求と適切範囲要求がわかるとする。
しかし、ほんとうは、神様視点なんてない。けど、今回は、ぼくが言いたいことを説明するために、神様視点の基準があるとする。
神様視点で、超過範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件(作業内容)があるとする。Aさんは、Bさんに、適切な範囲の要求をしているとしか思えないのである。Bさんは、Aさんの要求が、不適切な要求だと思うのである。
よく考えると、神様視点の基準がわかるわけではないのだ。ところが、アドラー的な考え方をもつ人は、よく考えれば、神様視点の基準がわかるという前提でものを言っているのだ。
そして、Aさんのような立場の人は、「自分でよく考えて、相手が言っていることが理不尽なことなら、無視をしていい」と考えるのである。
たとえば、AさんがBさんにおしつけた内容を、Bさんがやらなかったとする。Bさんにとっては、不適切な要求なので、自分が適切だと思う範囲の作業をしたけど、それ以上は、しなかったとする。
その場合、Aさんは、Bさんが当然、自分がおしつけた内容をやるものだと思っているので、Bさんがやらなかった場合は、「たりない」「ちゃんとやれ」ということを言うのである。
このとき、たいていの場合は、Aさんのなかに、怒りの感情がしょうじるのである。まあ、落胆とか絶望とかあきらめという感情が生じる場合もあるけど、『思い通りにいかなかった』ので、たいていの場合は不愉快な感情が生まれるのである。「怒り」の感情がしょうじる場合が、もっとも、多いだろう。
* * *
ところで、Aさんが自己責任論者だとしても、現実的な場面では、「すべては自己責任」と考えない場合のほうが多い。
自分が要求した範囲をBさんがやらなかった。そして、やろうとしない。そういうことに関して、Aさんが、「自分の責任だ」と考えるかどうかということが問題になる。
Aさんが、自己責任論者である場合は、当然、このような場合でも、「自分の責任だ」と考えるべきなのである。ところが、普段は、「すべては自己責任だと思っているよ」と言っていても、実際の場面になると、こういう小さなことでも、自己責任とは思わず、怒りの感情がわいてくるのである。
自己責任論は、本来は、アンガーコントロール論なので、こういうところで、怒りを感じないようにするための方便なのだ。けど、実際に、運用されるべきところでは、運用されず、あるていど余裕がある空想的な場面で、「すべては自己責任だ」とひとりで納得しているようなところがある。
ようするに、実際に問題が発生していないところで、「すべては自己責任だ」と納得している場合が多い。自分の部屋にいて、自己責任関係の本を読み、お茶やコーヒーをすすっているときは、「すべては自己責任だ」「俺はそう思って生きていこう」などと思うのだけど、実際に、相手が自分の思った通りに動かなかった場合は、怒りの感情がわいてしまうのである。
そして、たとえば、「思ったことかが現実化する」という考え方を信じている場合でも、「思ったことが生じるはずなので、思ったことが生じるはずだ」と思わないのである。
……Bさんが実際にやってこなかった。……Bさんが実際にやらなかった。……そして、Bさんが、これは不適切な超過範囲要求だと自分に言ってくる……とする。ほんとうのことを言えば、このこと自体が、自分にとって、自分の思った通りのことではないのである。
つまり、Bさんがやってこなかった、あるいは、Bさんがやらなかった時点で、「思ったことが現実する」という考え方は、不適切な考え方であり、頭のなかから削除しなければならない考え方だということが、わかるのである。
わかるのだけど、「明日は雨になる」と言ったあと、実際には、雨にならなかった場合の、言霊主義者の態度とおなじで、その理論にあわない実際の出来事を、無視してしまうということがしょうじる。
無視してしまうと言っても、「お言ったことが生じるはずだ」という視点で考えたことを無視するのである。Bさんがやってこなかったということは、無視していない。
だから、現実認知は正しいのだけど、「思ったことが現実化する」という理論はまちがっているということが、現実の出来事に対応して思い浮かばないことになっているのである。
ともかく、Aさんは、Bさんがやらなかったことについて、不満に思うのである。どうしてかというと、自分のなかでは、それは、適切範囲要求なので、やらなかったBさんが悪いということになるからだ。
「自分でよく考えれば」……神様視点で考えることができて、自分の要求が不適切範囲要求(超過範囲要求)だったということに、気がつくことができるかというと、たいていの場合は、できない。自分の基準が正しいと思っているわけだから、「このくらいちゃんとやらないBさんがまちがっている」ということになる。Aさんのなかでは、そういうことになるのである。
* * *
「思えば、思ったことが現実化する」というのは「思えば、一〇〇%の思ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ということと意味的に等価なのである。
なので、自分が要求した仕事内容を、相手がやってこなかった時点で、「思えば、思ったことが現実化する」という命題が「偽」であるということに気がつかなければならないのである。
ところが、思霊主義者は、相手が自分の要求した仕事内容をやってこなかった場合でも、思霊理論が正しいと思っているのである。
つまり、 「思えば、思ったことが現実化する」という命題が「真」であると思っているのである。思ったままなのである。
これは、おかしなことなんだよ。
自分が相手に要求した時点では、相手は自分が要求した仕事内容をやってくると思っているわけだから……。
思えば、思ったことが現実化するのだから、相手は自分が要求した仕事内容をやってくるはずなのである。相手の能力とか相手の都合とか、相手の考え方とかそういうこととは関係なく、自分が思ったことが現実化するという理論だから、自分が思ったことであれば、相手にかかわることであっても……自分がそう思ったのだから、相手は自分が思った通りに動いて、相手場自分が思った通りのことをやってくるべきなのである。
「思ったことが現実化する」のだから、そうなる。
ところが、思霊主義者は、考えを改めなければならない場面に遭遇した時も、思霊理論が正しいと思ったまま、相手を叱責するというような行動をするのである。いやーー。気がつかなきゃダメでしょ。
すでに、自分が思った通りのことが発生していないのだから、思霊理論が正しくないということに、気がつなければならない。
ところが、「明日は雨になる」と(自分が)言ったのに、雨にならなかった場合の言霊主義者のように、現実のほうを無視してしまうのである。
頭のなかでは、現実に関係なく「言霊理論は正しい」と思ったままなのである。「明日は雨になる」と(自分が)言ったのに、雨にならなかった。これは、言霊理論がまちがっているということなのである。だから、雨にならなかった時点で、そのことに気がつかなければならないのである。
思霊主義者も、実際に発生する、いろいろな現象を無視してしまうのである。理論にあわない現実が発生したのに、現実を認めない。
ところが、じゃあ、まったく現実を無視しているのかというとちがうのである。ちゃんと、思った通りにならなかったということを、認識している。
たとえば、相手が自分の思った通りに動かなかったのなら、相手が自分の思った通りに動かたなかったということを認識して、腹をたてるのである。実際に、無視されているのは、思霊理論の正当性なのだ。現実的な場面では、「思ったことが現実化する」というような考え方自体が、思い浮かばないのである。
現実のプロセスのなかでは、自分の思考リソースが、目の前のことに振り向けられているので、「思霊理論が正しいかどうか」ということに、リソースをさくことが、できないのである。
だから、現実の場面では、思霊理論とは違うことが起こったとしても、それはそれとして処理してしまうのである。
だから、いつまでもいつまでも、思霊理論が正しいと思ったままなのである。
手短にいうと、こういうところで思霊主義者は「むしがいい」のであり、「つごうがいい」のである。思っても、思ったことが現実化しない場合もある……ということを、日常生活の中で、何度も何度も、突き付けられているのに、そのことは、無視して、「思えば思ったことが現実化する」と断言してしまう。
「思ったって、思ったことが現実化しない場合がある」のであれば、当然、「思ったことが現実化する」とは言えないのである。「思ったことが現実化する場合もあるし、思ったことが現実化しない場合もある」ということは、言える。
「思えば、思ったことが現実化するのだから、思えばいい」と言っているときは、思っただけで、思ったことが現実化するのだから、思えばいいということを言っているのである。
「明るいことを思えば、明るいことが現実化する」と言っている場合は、明るいことを思ったのに、暗いことが現実化することはないということを言っているのであり、明るいことをうもったのに、明るいことが現実化しないことはないということを言っているのである。
しかし、実際には「明るいことを思ったって、暗いことが現実化する」場合がある。
そして、「明るいことを思ったって、明るいことが現実化しない」場合がある。「明るいことを思えば、明るいことが現実化する」と言っているときに、明るいことが起こらない場合があるということを考えているかというと、そうではないのである。
明るいことを思ったのだから、明るいことが現実化するに決まっているのである。……思霊主義者の頭のなかでは、出来事に関係なく、「明るいことを思ったのだから、明るいことが現実化する」ということになっているのである。
ところが、ぜんぜん、決まっていないのである。ようするに、最初から、でたらめを言っている。ところが、思霊主義者は、「自分がでたらめを言っている」とは思っていないのである。「真実を言っている」と思っているのである。
もし、思霊主義者に、子どもっぽいずるい部分がなければ、思い通りにいかなかった現実にふれるたびに、「思霊理論はまちがっている」ということに気がつくはずなのだ。ずるい部分があるから、気がつかない。
もしかりに、悪い意図をもつ悪い支配者がいたとする。その場合、悪い意図をもつ悪い支配者は、悪い計画を実行してしまう。その場合、「思ったことが現実化する」と考える人たちが、悪い計画を阻止できるかどうかというと、阻止できない。
「明るいこと」を思えば、明るいことが現実化すると考えているので、ぼけっと、明るいことを空想しているだけだと行こうとになる。
その間に、悪い支配者とその部下は、悪い計画をガンガン先にすすめてしまう。思霊主義者は「悪いことを考えると悪いことが現実化する」と考えているので、支配者層が悪いことを計画して実行しているという悪いことを、思うことができなくなるのである。
なぜなら「そういうふうに思ったら、実際にそうなってしまうから、そう思わないようにしよう」と考えるからだ。
だから、悪い意図をもった支配者がいる場合は、思霊主義者は無力な存在になってしまうのである。無力な存在になるだけなら、ましなのだけど、真実について述べる人の足を引っ張ることになる。
どうしてかというと、真実を述べる人は、暗い現実について、真実を述べるからだ。悪い支配者が悪いことを実行している……ということが、暗い現実なのだから、暗い現実について述べているわけだ。ところが、思霊主義者は「暗いことを言うと、暗いことが現実化するので、暗いことを言うな」と暗い現実について述べている人に、言うわけだ。
暗いことを思わなければ、暗いことが起こらないのであればいいけど、すでに、暗いことが起こっているのだ。もうすでに、暗いことが起こっているのに、それは無視をして、ただ単に明るいことを思えばいいのだと言ってしまう。現実を無視するなと言いたい。
まあ、これは、悪い支配者と部下が、悪い計画を実行している場合の話だ。架空の話だからね……。悪い計画には、何段階かあるとする。一段階目、二段階目、三段階目と進んでいるのに、「悪いことを考えると悪いことが起こるから、考えないようにしよう」と言っているやつらは、悪い計画に協力しているとさえ、言える。
悪い支配者側から見て、思霊主義者が、どれだけ扱いやすいやつらかということが、わかるだろう。こんなに、扱いやすいやつらはいない」と思うだろう。思霊主義者を含めた一般市民側が、こんな体たらくなら、悪い支配者は「しめしめ」と思うだろう。
* * *
「思えば、思ったことが現実化する場合もある」と言えばいいのに、「思えば、思ったことが現実化する」と言ってしまうので、それ自体が、一種の「信仰」になってしまうのである。ほんとうは、理論的な文字列が、信仰の対象になってしまうのである。
実際には、理論にはあわないので、現実を無視したり、現実を信仰通りの解釈に結びつけたりするのである。「文字列の内容は常に正しい」ということになっているのだけど、それは、文字列の内容にあわない現実を無視するということによって成り立っている「信仰」なのである。
2025年5月22日木曜日
きちがい兄貴の感覚がへんなので、ぼくが、全体の約四割の人から、へんな人だと思われてしまうのである。
一日が、ほんとうに、破壊されてしまうのである。工事などの限定期間の騒音ではないのである。工事などの、やる理由がわかる騒音ではないのである。きちがいが、きちがい感覚で鳴らす騒音なのである。きちがいだから、絶対にゆずらない。ほかの人は、きちがい兄貴の、きちがい部分がわからないので、ぼくが言っていることが、おかしいと感じてしまう。だから、約四割の人は、『そんなの嘘だ』と思い、ぼくが嘘を言っているという前提で、物事を考えてしまう。事実なので、差がある。ぼくの認識が事実に基づいた認識で、「嘘に違いがない」という約四割の人の認識は、事実とは関係がない認識なのである。これも勝手に、その人が、その人の常識的な考えと照らし合わせて、「嘘だ」と判断しただけなのである。けど、この判断は、その人が、ぼくの言うことを考えるときの前提になってしまう。きちがい兄貴が、普通の人が考えることができないぐらいに、きちがいなので、普通の人が、普通に誤解をしてしまうのだ。これで、ぼくが、濡れ衣を着せられることになる。約4割の人の、ぼくの行動に関する解釈というのが、すべて、『そんなの嘘だ』と思ったあとの解釈になる。だから、その四割の人のなかでは、ぼくが、すでに、「嘘を言う悪い人間だ」と言うことになっているので、ぼくのすべての行為を、「嘘を言う悪い人間がする行為だ」と認識してしまうのである。ぼくが言うことは、「嘘を言っている人が言うことだ」と認識してしまうのである。こいつらが、ことのごとく、俺に対して、意地悪なことをしてくるのである。こいつらが、俺に対して、俺が不愉快だと感じる発言をしてくるようになるのである。こいつらの発言は、ほんとうに不愉快だ。不愉快以外のなにものでもない。
きちがい兄貴の感覚がへんなので、ぼくが、全体の約四割の人から、へんな人だと思われてしまうのである。
「努力をすれば成功する」というのは、努力をすれば成功するはずなのだから、むくわれるはずなのである
適切範囲要求と超過範囲要求があるとする。基本的には、超過範囲要求は、不適切範囲要求と言い換えることができる。会社に入った場合、上下関係があることが多い。
上下関係に対する考え方はちがうけど、目上の人は、目下の人に向かって、命令することができるというのが、上下関係の中に含まれている。
どこまでが適切な要求範囲であり、どこまでが不適切な要求範囲であるかということについては、人それぞれに基準があり、あいまいなところがある。
ようするに、社会で統一した適切範囲要求と、社会で統一した不適切範囲要求があるわけではないのだ。
しかし、「ここまでは妥当な要求だ」というようないちおうの範囲を、法律が定めている場合もある。しかし、それが厳密に守られることは、むしろ、少なく、ある程度の幅があることになっている。ようするに、会社によるばらつきが大きいし、個人による「ばらつき」が大きいのである。
* * *
実際には、会社のような場所では、上下関係がある状態で、努力をするのが、常態なのである。つまり、普通の状態なのである。なので、ほんとうは「努力をすれば成功する」という言葉は、上下関係がある場合についても、当然に成り立たなければならない。
そして、「人がどう思うか気にする必要がない」という方も、現実社会においては、上下関係が存在している場合が多いのである。
そして、「人がどう思うか気にする必要がない」という考え方のほうが「上司の評価を気にする必要がない」という考え方よりも範囲が大きい。
ようするに、「上司の評価を気にする必要がない」という考え方の集合は、「人がどう思うか気にする必要がない」という考え方の集合に包括されている。「人がどう思うか気にする必要がない」という集合のなかに「上司の評価を気にする必要がない」という考え方の集合がはいっている。上司のほうが、部分集合。
* * *
「不適切な要求」にこたえて、がんばって努力して、不適切だと思う仕事をやったとして、むくわれるかどうかということについて考えてみよう。
不適切な「超過範囲要求」をがんばってやったとしても、むくわれない場合がある。その場合は、努力したのにむくわれなかったということになる。
「努力をすれば成功する」というのは、努力をすれば成功するはずなのだから、むくわれるはずなのである。
けっきょく、「努力をすれば成功する」というのは、現実を無視した「クソ理論」なのである。まず、第一に一〇〇%詐欺が行われているということに、気がつかなければならない。話は、それからだ。
2025年5月21日水曜日
そいつは、「よく考えなおしても」そいつの判断基準で判断してしまう
アドラーは、「よく考えれば、だれでも正しい結論に至ることができる」と仮定しているのだ。しかし、自分がそう仮定しているということに、気がついていない。
ようするに、「よく考えれば、だれでも正しい結論に至ることができる」と仮定として、判断をしている。
あることが、神様視点で、超過要求だったとする。
しかし、Aさんは、適切要求だと思ったとする。そして、Bさんは超過要求だったとする。その場合、Aさんが、Bさんの言い分をよく考えて判断すれば、Bさんの言い分が正しいことがわかるという、設定なのだ。ばからしい。
「よく考えて判断すればよい」というのが、どれだけ、アホな設定かわからないのか?
そいつの判断基準がすでにそいつのなかにあるのだから、そいつは、「よく考えなおしても」そいつの判断基準で判断してしまう。
なんらかの外的な要因が、かわって、それをAが認識すれば、Aが考え方をかえる場合はある。しかし、それは、判断に影響をあたえるなんらかの要因が、変化し、その変化をAが感じたから、おこる変化なのだ。
Aが、神様視点で考えられるようになるということではない。
「よく考えれば」……相手が言っていることが正しいかどうかわかるので、自分で判断して、相手の言い分を無視すればいいというのが、アドラーの考え方なのだ。
「ちょっと考えると、まちがうこともあるけど、よく考えれば、まちがうことがない」という、暗黙の設定が紛れ込んでいるのだ。
よく考えれば、神様視点の正しい判断基準でものを考えることができる……というわけではない。ところが、あたかも、「よく考えれば、神様視点の正しい判断基準でものを考えることができる」という前提が成り立っている。
神様視点の正しい判断基準という言葉を使うわけではないけどね。なんかもやもやと思っている正しい判断といのは、神様視点の正しい判断基準という意味合いを持っている。
「自分の頭でよく考えれば」……相手の言い分は無視していいのである。「自分の頭でよく考えれば」……相手の感情は無視していいのである。そうすると、「考えた」と思えば、自動的に、相手の言い分や相手の感情を無視していいということになる。だって、考えたのだから、無視していいのだ。よく考えたのだから、無視していいのだ。相手の不満は、相手の問題なのだ。
どれだけ無茶なことを要求しても、相手の問題だと片づけることができるのだ。相手の問題と自分の問題を切り離して考える……。けど、自分の行為がさきにある場合は、相手の問題だと言いきれない場合がある。ところが、「よく考えて」無視して、「相手の問題だ」と思えば、それで、どんな無茶なことを要求しても、「相手の問題になってしまう」のである。
そして、自己責任論が、この判断の後押しをする。たとえ、不満を持っていたとしても、やってしまった、相手の責任なのだ。自分が、無茶なことをおしつけた責任というのは、自己責任論者なのに、まったく頭に浮かばないのである。
2025年5月18日日曜日
『だれだって正しい基準で考えることができる』『正しい基準で考えれば、正しい結論に至ることができる』
極端に、「人の言うことを気にしない人」というものについて考えてみよう。たとえば、Aさんが、Bさんに、包丁を見せつけた。Aさんは、通り魔で、包丁を見せた時の、相手の反応を見て楽しみたい人だったのだ。そして、Aさんが、Bさんに包丁を見せたとき、Bさんが、Aさんのことをにらんだとする。そうしたら、Aさんが、Bさんにひどい目で見られたと思って、Bさんを刺した。こういう事件が起こったとする。その場合、Aさんは、「Bさんがひどい目付きで見てきたので、頭にきてさした。あんな目付きで見られただれだって腹をたてる。自分よりも、あんな目付きで見てきたBさんがひどい。Bさんが自分にやったことがひどいので、刺されても文句は言えない」と考えたとする。Bさんの家族が、Aさんがひどいやつだと言ったとする。「人の言うことを気にしない」能力が高いAさんは、なにを言われたって、気にしない。それどころか、自分がひどい目つきで見られたのでかわいそうだと思うのだ。Aさんのなかでは、『Bさんがひどいことを自分(Aさん)にしたので、刺されて当然であるわけで、自分(Aさん)がせめられるのはおかしいという感覚がある。「Bさんの家族は、たいしたことをやってない自分をせめてくるので感覚がおかしい」とAさんは思うのだ。だから、Aさんは、Bさんの家族をひどいクレーマーだと思っているだけで、Bさんの家族の言い分が妥当だということに、まったく気がつかない。アドラーは「自分でよく考えて判断すればいい」ということをいっているのだけど、Aさんがどれだけ考えたって、そんなことしか思い浮かばないのだ。相手の言い分が正しいかどうか、「自分がよく考えて判断すればいい」という考え方には、よく考えれば、だれだって正しい基準で考えることができるのだから、正しい結論に至るはずだという『妄想的な前提』が成り立っている。そりゃ、いろいろなやつがいるから、『だれだって正しい基準で考えることができる』『正しい基準で考えれば、正しい結論に至ることができる』と考えてしまうのは、現実的ではない。
* * *
レッサーパンダ事件と呼ばれる事件が実際に起こったのだけど、被害者がアニメ声だったから、加害者は「本気で相手が嫌がっている」と言うことに気がつかずに、刺したというようなことを、主張するやつが出てくる。レッサーパンダ事件と言うのは、簡単に言ってしまうと、障碍者の男性が、女性を刺した通り魔事件のことだ。これは、通り魔事件だ。加害者と被害者の間に、因縁の関係があったわけではない。ただ、路上であっただけ。それまでは、一切合切、面識がない二人だったのである。加害者のほうが、被害者を刺した理由というのが、よくわからないので、いろいろな憶測を呼ぶことになる。加害者本人が動機について明確に話したわけではなくて、誘導されて調書ができあがったという感じだ。ともかく、こういう事件についても、「すべては自己責任」と考える人は、刺された人間のせいだと考えてしまうのだ。ただ単に、歩いていたら、へんな人が、包丁を見せて、へんな表情を浮かべた。なので、相手を見たら、相手が、包丁で(自分)を刺した。こういう場合だって、精神世界の人は、刺されたほうの自己責任だと言ってしまうのだ。そして、冒頭のアニメ声だったからというのも、じつは、被害者側の責任を追及しているのである。アニメ声でなければ、刺されなかったかもしれない。アニメ越えではない声で、「やめて」と言ったら、加害者は「やめた」かもしれない。それなのに、アニメ声で「やめて」と言ったので、加害者が、ほんとうにいやがっていると思わずに、包丁で(アニメ声の相手を)刺して、殺したということになる。こういうことを言う人の頭のなかでは、「やめて」とアニメ声で言わなかったことが、過失になるのだ。落ち度になるのだ。だから、被害者側にも、落ち度があるということになってしまう。こんなの……ない。アニメ声でない声で「やめて」と言ったらやめたはずだというのは、単なる想像なのである。アニメ声でない声で「やめて」と言ったって、刺したかもしれない。勝手に、「アニメ声だから、わからなかった」と言っているやつが、そう思っただけなのである。しかし、相手が本物の包丁を持って、近づいてくるのに、「やめて」と本気で言わない人なんているのだろうか。加害者が障害者だから「相手が本気で言っているとは思わなかった」とその人は思っているのだ。まあ、その人というのは、アニメ声でない声で、「やめて」と言ったら、加害者は被害者を刺さなかったと勝手に想像している人のことだ。とりあえず、この人のことを、Aさんということにしておこう。Aさんの考えでは、本気で刺そうと思って近づいてきた加害者に対して、被害者が「やめて」とアニメ声ではない声で言ったから、刺されたということになる。こんなのは、おかしいだろ。刺すつもりで、相手に近づき、刺すつもりで、相手を刺したのだ。どんな声で、「やめて」と言っても、刺したはずだ。じつは、加害者は知的障碍者なのだけど、知的障碍者だから、相手が、「本気でやめて」と言っていることに気がつかなかったというのが、Aさんの意見なのだ。いやーー。そりゃ、ないだろ。どれだけ、太い声で「やめろ」と言ったって、本気で刺すつもりで、刺したのだから、やめなかったと考えるのが筋だ。ようするにAは、加害者が知的障碍者だから、相手が『本気で』やめてと言っているということがわからなかったから、刺したとAさんは言うのだ。こんなの、ない。冗談で、刺すふりをしたら面白いだろうなと思って、刺したわけではないのだ。それこそ、本気で、相手がなにを言っても、かまわずに刺したのだ。相手が、アニメ声ではない普通の声で「やめて」と言ったら、やめてやるつもりで、ふざけるつもりで、刺すような真似をした? そんなことはないだろ。ふざけるつもりで、刺すような真似をしたのだけど……相手が、本気で「やめて」と言わなかったから、そのまま、ほんとうに刺した? そんなことはないだろう。ふざけてさすようなふりをするために(相手に)近づいたのではなくて、最初から、刺すつもりで、相手に近づいたのだ。相手が『本気で』やめてと言ったら、刺すのをやめるつもりだったけど、相手が『本気で』やめてと言っているようには思えなかったので、刺した。どれだけゆがんだ考え方をもっているのだろ? Aさんの考え方は、ゆがんでいる。相手が普通の声で「やめて」と言ったら、刺さなかったけど、相手がアニメ声で「やめて」と言ったから、刺した。被害者の女性が、女性らしい声で「やめて」と言ったので、相手がほんとうにいやがっているとは思わずに刺した。こんなのは、おかしい。Aさんの考え方は、事態を混乱させるだけだと思う。Aさんがどうしてこういうことを言うのかというと、Aさんは、自分が障害者の味方のつもりだから、こういうこと言うのである。しかし、Aさん自身は、公平に判断しているつもりなのである。こんなのは、ない。障害者に肩入れしているので、障碍者が加害者である事件に関しては、加害者側に立ってしまうのである。Aさんは、そういう人なのである。公平なわけがない。
けど、Aさんだけではなくて、「すべては自己責任」と被害者側の追及をしている精神世界の人も、相当に、加害者に肩入れをした意見をもっていると思う。
* * *
だれだって正しい基準で考えることができるのだから、正しい結論に至るはずだ……と思っている人たちは、実際に起こった事件の前では、口をふさいでしまうのである。
* * *
刺したほうの責任は追及されず、刺されたほうの責任が追及される。おかしな世の中だ。自己責任論なんてものがはやってから、やったやつの責任ではなくて、やられたやつの責任を問う世の中になってしまった。こんなのはおかしい。しかし、自己責任論がはやっているので、ほとんどの人がおかしいとは思わないのだ。こんなのは、おかしい。自己責任論者が、おかしいと思わないのもおかしい。善悪の基準が麻痺している。自分がどれだけ、でたらめなことを言っているのか、まったく、気がついていないんだよなぁ……。こんなのはない。自己責任論者が増えたことで、世の中は、悪くなった。自己責任論者が増えるまえよりも、あきらかに、悪くなった。なぜ、悪いことをやった人の責任が問われず、悪いことをされた人の責任が問われるのだ。こんなのおかしいだろ。これがおかしいと思わないのは、おかしい。「すべては、自己責任」なんてよく言うよ。それなら、自己責任論を信じることで、自己責任論者の数を増やしたことに、責任を感じるべきだ。自己責任論者が増えると、社会が悪くなる。やったらやりがちの世界になってしまうからだ。
* * *
構造的には「やられている」側の人間が「自己責任」などと言いだす。支配者層は、ウハウハだな。ほんとうに、奴隷根性を植えつけられて、条件が悪い人をいたぶりはじめる。「自己責任」と言っている「やられている側の人間」が……「条件が悪い人」に圧力をかけようとする。考えが、たりないんだよ。こんなやつばかりだ。
2025年5月17日土曜日
これは、一種のダブルバインドになる。
以前も、指摘したのだけど、アドラーのように、努力論の立場をとる人であり、なおかつ、人の言うことは気にしなくてもいいという立場をとる人は、ほかの人に対して、圧力をかけている。ようするに、努力論で、ダメ出しをしておいて、相手が、ダメダシされたということを気にすると、「ほかの人の評価なんて気にする必要がない」と言い出す人だ。これも、一種のダブルバインドなのである。ダメな評価を自分が他人に出して、他人が気にすれば、「他人の評価」なんて気にする必要がないということを言い出すのだ。この場合の「他人の評価」というのは、ダメ出しをした。自分の(相手に対する)評価だ。自分と他人という言葉を使うと、誤解が生じるので、いちおう、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんが、Bさんに対して「Bさんは努力をしていないダメな人間だ」と評価したとする。そして、別の機会に、Aさんは、Bさんに対して「他人の評価なんて気にする必要がない」と言ったとする。「他人の評価なんて気にする必要がない」のなかの「他人」にAさん自身が含まれているのである。Bさんにとっては、Aさんも他人だからだ。他人であるAさんがくだしたBさんに対する評価を、気にしなくてもいいということを、AさんがBさんに言ったことになる。だから、これは、一種のダブルバインドになる。
うちのきちがい兄貴には、それが本当になかったんだよ。
「やめろ」「やめろ」と言っているのに、ものすごい音で鳴らして、やめてくれなかった。毎日、毎時間、毎分、毎秒、ずっとずっと、そうだった。やめてくれなかった。あの引きつる……ものすごい騒音のなかで生きてきた。普通にやられることが、あの騒音のなかでは、できない。けど、きちがい家族と一緒に暮らしていない人は、それがわからない。きちがい家族ではない人は、どれだけ鳴らしたくても、あんな音で鳴らさないから、からない。だれを中心にして家族というかという問題があるのだけど、正常な家族とだけ暮らしている人は、きちがい的な家族が、きちがい的な意地で、鳴らす騒音に、さらされることがないのである。きちがいでなければ、そもそも……そういう音……で……鳴らそうとも思わないのである。きちがいでなければ、「やめてくれ」と何十回も、言われ続けたら、やめてあげるのである。きちがいでなければ、「やめてくれ」と何百日も、言われ続けたら、やめてあげるのである。それが、きちがいだからできない。きちがい感覚で鳴らし続ける。きちがい的な意地で……『絶対に、一分間だってしずかにしてやらない』という気持で、鳴らし続ける。けど、きちがいだから、自分がそうしているということが、まったくわからない。これ、ほんとうに、きちがい的な意地でやっていることが、まったくわからないのだ。一日に、何十回も文句を言われているということが、わからないのだ。普通なら、自分だって騒音にさらされると腹がたつという経験をしているのだから、立場を入れ替えて考えて、「ああ、ああいうふうに腹をたてているのだな」と思う部分が……あるのだけど……うちのきちがい兄貴には、それが本当になかったんだよ。
彼らにとっては「架空の話」だ。彼らにとっては、「仮定の話」だ。
ほんとうに、どれだけがんばっても、鳴っていないときとおなじ体では、生きられないのに、それがわかってないやつらばかりなんだよなぁ。あれだけ、きらいな音を……ガンガン鳴らされて……鳴らされていないときとおなじ状態で生きられるわけがないだろ。どれだけ、影響をうけないようにしても、影響をうける。不可避的に影響をうける。ところが、やられたことがないやつは、そこを無視する。自分なら平気だ」と、普通に考えてしまう。そして、「自分なら平気だ」と決めつけてしまう。そうなると、影響をうけているやつは、自分よりも弱いやつだと思うようになるのである。けど、その人たちには、きちがい兄貴のような家族がいないので、実際に、きちがい兄貴のようなきちがい家族が鳴らす騒音にさらされることがない。さらされ続けることがない。だから、誤解をしてしまう。そして、誤解をしたことに気がつかないまま、俺に、ラベリングをする。「自分よりも弱いやつ」「自分だったら気にしないような騒音を気にして、グダグダ言っているやつ」というラベリングをする。実際、ヘビメタ騒音によって……きちがい家族のきちがい騒音によって……ほかの人がまったく体験していないきちがい的な騒音によって……体が弱くなっているのである。鳴っていなければ、できることが、まったくできなくなっているのである。これも、持続期間というものをまったく考えない、ろくでもないやつらが、持続期間が長いと、どうしてもしょうじるいろいろなことを無視するのである。これも、やられていないやつは……きちがい家族にやられたことがないやつらは……やられたことがないので!……ごく普通に、無視できるのである。彼らにとっては「架空の話」だ。彼らにとっては、「仮定の話」だ。実際にさらされているわけではないのである。実際にさらされて、それでも自分は平気だったから平気だと思っているわけではないのである。実際にさらされていない状態で、自分だったら平気だろうと想像しているだけなのである。けど、実際やられていないので……実際にやられた生活を続けたことがないので……想像というよりも、確信になってしまうのである。「自分なら平気だ」と決めつけてしまう。だから、こいつらの頭のなかでは、「自分ならそんなの、平気だ」「自分なら影響をうけずに暮らすことができる」と言うことになってしまうのである。自動的、そうなってしまうのである。決めつけたことさえ、忘れてしまう。事実、そうだと思ってしまう。自動的に、自分なら平気だと……あたかも、自分がほんとうに体験して、平気だと思った場合の境地に到達してしまうのである。もちろん、実際には、経験していないのである。経験したことがないから、どうなるかわからないだけなのである。けど、本人が決めつけているし、本人が決めつけたことで、なんの不都合も生じないのである。不都合は生じないし、自分はエイリよりも優れていると感じることができるので、好都合なのである。だから、絶対に、手放さない。ぼくに、説明されても、「自分なら平気だ」という思い込みが、ずっと続くのである。
2025年5月15日木曜日
「できると言えばできる」も「努力すればできる」もおなじような「機能」をもつ言葉なのだ
経営者側ではなくて、従業員側にも言霊主義者がいる。経営者も従業員も、カネがほしいなら、言霊の力を使って金を儲ければいいのである。ところが、ほんとうは、そんなことはできないので、経営者は会社を経営して金を儲け、従業員は、従業員として雇われて、金を儲けるのである。言霊の力を使って、問題を解決している話ではないのである。
そして、たとえば、ブラック企業の経営者が「できると言えば、できる」と言ったとしよう。名前だけ店長に、サービス残業をおしつけるときの言葉だ。言霊理論が正しいなら、サービス残業なんておしつけなくてもいいのである。言えば言った通りになるので、言えばいいだけの話だ。言えば、その通りになるので、言えば、どんな問題も解決してしまう。サービス残業をおしつけて、せこく、金儲けをしなくてもすむのだ。
名前だけ店長が、もう無理だと考えていたとしよう。だから、「できません」と言う。「できないというからできない。できると言えばできる』というのが、ブラック社長の答えだ。何度も言うけど、ブラック社長の立場なら、「できると言えばできる」という意味がある。おしつけたいだけなのだ。そして、それは、自分のふところに、カネをもってくる言葉なのだ。しかし、従業員のほうが「できると言えばできるというのは正しい」と言って、ブラック社長の味方をするのである。従業員が言霊主義者の場合は、「できると言えばできる」という言葉に、疑問を感じない。正しいと思っているから、正しいと言ってしまう。それが、名前だけ店長を追い込むのだ。言霊主義者の従業員は、ブラック社長に同調して、協力して、名前だけ店長を、追い込む。もちろん、いいことをしていると思っているのだ。正しいことを言っていると思っているのだ。……言霊主義者である従業員は、自分の行いが正しいことだと思っている。しかし、実際には、名前だけ店長を追い込むだけだ。名前だけ店長は、従業員がブラック社長の味方をしているということに、気がついて、絶望して、死んでしまう。これ、うしろのほうから、おなじようにブラック社長に搾取されているにもかかわらず、ブラック社長の言い分を肯定するやつが出てくるということが、どういうことなのか、理解していないのだ。言霊主義者の従業員は、そんなことは理解していない。考えない。自分だって、搾取される側なのに、「できると言えばできる」という言霊主義的な言葉が、正しいと言ってしまうのである。言霊主義を悪いことに利用しているブラック社長に賛成してしまうのである。こんなの、ないだろ。名前だけ店長じゃなくても、「うっっ」と思うよ。「ああ、なにも話が通用しない」と思うよ。「こいつらに何を言っても、頭がおかしい答えが返ってくる」と思うよ。しかも、自分の側についていいはずの従業員が、ブラック社長の味方をするのだ。つかれはてているのに、こんなことをされたら、猛烈にへこむよ。
* * *
「できると言えばできる」も「努力すればできる」もおなじような「機能」をもつ言葉なのだ。妄想的な言葉なのに、正しい言葉として流通してしまう。「Xをすれば、できる」というかたちになるのだけど、 一〇〇%詐欺と法則性詐欺が成り立っている。「Xをすれば、Yできる」というかたちにしてもいい。Yには、内容がはいるのだ。その内容は、おしつける側にとって都合がいい内容だ。
上から下に、こういう妄想的な言葉をおしつけて、Yをさせようとする。もちろん、個人のしあわせをうばっている。こういう、前向きな言葉でも、実際には、個人のしあわせを奪うことが可能なのだ。だから、ほんとうは、後ろ向きな言葉なのだ。はっきり言えば、悪意がある言葉なのだ。もともとは、「できると言えばできる」という言葉は、ただ単に、まちがっている言葉であって、悪意がある言葉ではない。しかし、会社のなかで使われるとなると、使われる場所が限られているので、悪意がある人が使うということになるのである。それに、悪意はないけど、言霊的な考え方に慣れ親しんでいる人が、賛成してしまう。こんなのは、ない。社長が、「楽しいと言えば楽しくなる」と言う場合も、要注意だ。仕事でいやなことがあっても、「楽しい」と言えば、解決してしまう。だから、そうやって解決すればいいという話になる。ただ単に、いやなことではなくて、構造的に問題があるとしたらどうなる? 構造的な問題が、高頻度で発生してしまうではないか。その問題を、言霊の力で解決したほうがいいんじゃないか。ほかの人に負担をかけて、我慢させる方便として、「楽しいと言えば楽しくなる」と言う言霊的な言葉が使われる……。言霊主義者はそういうことに、疑問をもたないばかりか、賛成してしまう。従業員側にいても、言霊主義者は、言霊的な言葉には賛成してしまう。正しいと「自動的に」思ってしまう。こんなやつらがいっぱいいたら、ほんとうにこまっている人は、音(ね)をあげてしまう。自殺しようと思ってしまう。
問題なのは、「努力すればできる」というのも、言霊的な言葉とおなじような意味をもつということだ。「できるできると言って努力すればいい」ということになってしまう。「努力できる」と言えば、「努力できる」のである。「努力すればいいじゃないか」ということになる。条件が悪いと、むりなことが重なるので、できなくなるのである。
まあ、家できちがい的な家族が、きちがい的な騒音を兆時間鳴らし続けるというようなハンディがある場合は、「努力すればできる」と言ったって、できくなるのである。問題なのは、きちがい的な騒音が長時間鳴っているということだ。きちがい的な騒音が長時間鳴っているという条件が、できないからだをつくるのである。それを「できると言えばできる」と言う解決法で解決できるかと言うとできないのである。ハンディというものがあって、ほかの人は、ヘビメタ騒音のハンディを軽く見るけど、非常に重たいものだった。自分がきらいな音でやられ続けたら、どれだけ、きちがい家族の騒音が、自分の体調に影響をあたえるか、わかるよ。わかるようになるよ。けど、やられていない人にとっては、自分の問題ではないので、軽く考えたり、無視してしまうのである。
そして、言霊主義者なら「できると言えばできる」と言い、努力論者なら「努力すればできる」と言うのだ。いやーー。きちがいヘビメタが鳴っている状況で生きているということ自体が、ものすごい努力のたまものなんだけどなぁ。まるでわかってないなぁ。
長い間つもった場合のことなんて無視しやがるのである。自分が体験してないから、まったくわかってないだけだ。けど、かならず「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言うのだ。こいつらは……。
たとえば、「どんなにつらいことがあっても、一日の終わりに、楽しいと言えば楽しくる」という言葉を社長が言ったとする。「言霊社員」や「努力論社員」は、その言葉が、いい言葉だと思って、賛成してしまうのである。そうなると、この人たちとはちがう苦労があるぼくは、めちゃくちゃに不愉快な気持になるのである。ものすごいハンディなんだよ。「楽しい」と言ったって、楽しくなるわけがない。ヘビメタがなくなってくれなければだめだ。そして、居間だから言えることなのだけど、一年以内に、鳴りやまなければだめだ。どこまでも、どこまでも、影響がある。
ストスレ対抗期間というべきものがあると(ぼくは)思う。その期間をすぎてしまうとだめなのだ。その期間をすぎて、ずっとずっと、おなじ気ちがいストスレがくわわる生活をしていると、全部がダメになる。ダメになったあと、なおらない。この期間のことをストレス超過期間ということにする。その場合、「楽しいと言えば楽しくなる」とか「できると言えばできる」とか「努力すればできる」と言っているのは、幸運にも、きちがい家族と一緒に住んだことがなく、きちがい家族が、きちがい騒音を鳴らすということがなかった人たちなのだ。この人たちだって、「自分だって苦労した」「自分だってつらいことがあった」と言う。言うけど、程度と期間の長さがちがうんじゃないかな。ぼくとおなじようなことを経験した人が、「楽しいと言えば楽しくなる」とか「できると言えばできる」とか「努力すればできる」と言っていられるとは、到底、思えない。
* * *
そういえば、「人の嫌がることはやめましょう」なんてことを、精神世界の人が言ったりするする。「できると言えばできる」というような言葉が、実際にどういう場面で使われているかわかっているのかな? 人が嫌がることを、人におしつけるときに、使われるんだよ。もちろん、すべての場合ではない。そういう使われ方をする場合が、多い。だから、言霊主義者は、「人の嫌がることをやらないようにしよう」と思っているのであれば、ブラック社長が名前だけ店長に、サービス残業をおしつけようとしているときに、「できると言えばできる」というようなことに賛成するべきではない。いやーー。気がつかないかもしれないけど、そういうことを言われて、名前だけ店長は、嫌がっているよ。店長が嫌がることを、言霊主義者の従業員がしている。まちがっていることに、従業員の立場なのに、賛成してしまう……裏切り者のようなやつがいるんだよね。
* * *
宗教の勧誘というものについて考えてみよう。もちろん、宗教の勧誘が気にならないという人も、わずかだけど、いる。「人の嫌がることはやめましょう」ということについては、たいていの宗教的な人が賛成するんじゃないかな。宗教の人は、まったく気がつかないけど、多くの人は、宗教の勧誘をされたくないと思っているんだよ。迷惑行為だと思っているんだよ。宗教の勧誘をする人は、きらわれているよ。宗教の勧誘をされたくないと思っている人は多い。「人の嫌がることはやめましょう」と言っているのだから、宗教の勧誘は、やめたほうがいい。だって、嫌がっている人のほうが多い。人の嫌がることは、やめましょう。
毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/
ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。
自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。
●ヘビメタ騒音というのは
ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。
あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。
俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る
日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!
「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!
各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。
ぼくはまけない
「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。
サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。
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