2025年9月15日月曜日

●「Eさんが愚痴を言う」という現実は、Dさんがつくりだした現実なのである■受け止め方※2025/09/15 4:25

たとえば、DさんとEさんがいたとする。

Dさんは、精神世界の人で、言霊や思霊、受け止め方をかえればいいという考え方が正しいと思っているとする。Eさんも、精神世界の人で、言霊や思霊、受け止め方をかえればいいという考え方が正しいと思っているとする。

Eさんが、政治について批判をしたとする。Dさんは、最初はあわせていたけど、だんだん、『Eさんといるとつかれる』と思うようになったとする。『Eさんの言っていることは、正義ではあるけど、息苦しいことが多い』とDさんは思ったとする。

Dさんは、ついに切れて、Eさんとのつきあいをやめたとする。

けど、Dさんは、ほかの人には「言ったことが現実化する」「思いが現実化する」「受け止め方をかえればいい」と言っている人なのだ。

たとえば、Dさんは「Eさんといると、楽しい」と言えばよかったのである。言えば言ったことが現実化するので、Eさんといると、楽しいと感じるようになるのだ。

たとえば、Dさんは「Eさんの言っていることは、たいへんためになる」と受け止め方をかえればよかったのである。「Eさんといると楽しくなる」と受け止め方をかえればよかったのである。

DさんはEさんに感謝すればよかったのである。

「すべて、感謝感謝」なのだから、感謝すればよかったのである。「Eさんが政治の話をしてくれるので、ありがたい」と感謝すればよかったのである。

Dさんは、Eさんのいやなところ?ばかりを見ないで、Eさんのいいところを見ればよかったのである。

ともかく、Dさんは、人には「言ったことが現実化する」「楽しいと言えば楽しくなる」と自信満々で、何回も言ったのだから、「Eさんといると楽しい」と言えばよかったのである。

それで、問題解決ができる。

Eさんとの縁を切るとかつきあいをやめるという選択をする必要はなかった。

ちがうか?

たとえば、Dさんは、Eさんのことを「政治ネガティブ屋」と批判したとしよう。そう思って、そういうあだ名を、頭の中でつけていたのである。

じつは、言えば言ったことが、現実化するので「ネガティブな人といると、楽しくなる」と言えば、楽しくなるのである。

なので、言霊的な解決方法を実行するべきだったのである。

「政治ネガティブ屋」というようなあだ名をつけずに「Eさんの政治話はためになる」とEさんを、こころのなかでほめればよかったのである。

人について、ネガティブなとらえ方をせず、人についてポジティブなとらえ方をすればよかったのである。すべては、受け止め方次第なのだから、Eさんの発言についても、ネガティブな発言だと受け止めずに、ポジティブな……じつに、じつにためになる発言だと受け止めればよかったのである。

しかし、受け止め方次第だとは思わずに、自分の受け止め方にこだわって、受け止め方をかえなかったのである。

Dさんは、「Eさんは、ネガティブな話ばかりをする」「政治について愚痴ばかりを言う」と受け止めてしまったのである。

精神世界では、現実は自分がつくりだしているだけだという考え方もある。ようするに、出来事というのは、中立的に生起しているものだという考え方がある。

中立的に生起しているものに自分が、意味合いを付与してしまうのである。ネガティブな意味合いを付与すると、中立的な出来事が、ネガティブな出来事になるのである。ポジティブな意味合いを付与すると、中立的な出来事がポジティブな出来事になるのである。

なので、「Eさんは、ネガティブな話ばかりをする」「政治について愚痴ばかりを言う」という意味合いを付与してしまったのは、Dさんだというとになる。

出来事は、中立的なのである。

意味合いをもたないものなのである。

意味合いを付与しているのは、意味合いを付与している個人だということになる。

なので、どういう意味合いを付与するかは、個人が決めることだということになる。中立的な出来事にネガティブな意味合いを付与するか、中立的な出来事にポジティブな意味合いを付与するかは、個人が、決めていることなのである。

だから、この場合、Dさんが、ネガティブな出来事が発生したと思っているだけになる。

Eさんが「非常に重要なことを言った」とポジティブに受け取るか、Eさんが「愚痴を言った」とネガティブに受け取るかは、Dさんの受け取り方次第なのである。

つまり、「Eさんが、政治についてネガティブなことばかり言う」「Eさんが、政治について、愚痴ばかり言う」という現実をつくりだしてしまったのは、Dさんだということになる。

DさんがDさんの現実をつくっているのである。

「Eさんが愚痴を言う」という現実は、Dさんがつくりだした現実なのである。

まあ、こういうことを言われたら、Dさんは、あんまりいい気持がしないだろうと、ぼくは思う。

けど、Dさんがほかの人に「すべては受け止め方の問題だ」と言ったとき、相手は、そう感じているかもしれないのである。

●過去の記憶は、未来の行動にさえ、影響をあたえるものなのである■過去※2025/09/13 8:10

「過去は記憶の中にしかない」という言い方にも問題がある。「過去は記憶の中にしかないから、関係がない」とか「過去は記憶の中にしかないから、影響をうけないことは、可能だ」とうことを、言いたいのだと思う。

言っておくけど、ぼくは、「過去は記憶の中にしかない」とは、思っていない。過去の出来事は、過去の出来事であって、記憶の中にあるかないかとは関係がないのである。

過去において、Aさんが、Bさんをなぐったら、Aさんのなかに記憶があるかどうかに関係なく、なぐったということになる。

過去において、Cさんが、自宅を出るとき、玄関ドアの鍵をかけたら、Cさんの記憶とは関係なく、玄関ドアは鍵をかけられた状態になるのである。

だから、「自分」が覚えてるかどうかに関係なく、過去においてなんらかの状態の変化がしょうじたなら、過去においてなんらかの状態の変化がしょうじたということは、現在の状態に影響をあたえるのである。

しかし、今回は「過去は記憶の中にしかない」ということにして話をする。前回の続きなのだけど、非・言霊主義者のBさんが、言霊主義者のAさんが「真理だと思っていること」を批判したとする。Aさんは、精神世界の人でもあるとする。言霊だけではなくて、精神世界のなかで、語られるいろいろなことを信じているとする。

「過去は記憶の中にしかない」にしても、Aさんは、自分が真理だと思っていることを批判されたら、Bさんに対して、いやな感じをもった状態になるのである。過去においてBさんが、Aさんが真実だと思っていることを批判した。

Aさんは、普段、「過去は記憶の中にしかない」と言っているとする。「過去は記憶の中にしかないことなのだから、現在の自分に影響をあたえない」と思っているのだ。

ところが、「こいつは、言霊理論を批判したやつだ」と思っていると、Bさんに対する態度がかわるのである。「そっちが、そのつもりなら、こっちだって批判してやる」とAさんが思ったとする。

過去は、記憶の中にしかないのであれば、Aさんが、関係がないと思えば、それで、おしまいなのである。どうしてかというと、Bさんが過去において、Aさんが真実だと思っていることを批判したということは、Aさんの記憶の中にしかないことになっているからだ。

記憶の中にしかないことだから、こだわる必要がない……というのが、じつは、Aさんたちの主張なのである。

ところが、そのAさんが、実際に自分の身に起きたことに関しては、「過去のことだから関係がない」とは思わずに、「過去において、こういうことが起きたから、こいつにはこうしてやろう」と思うのである。

相手であるBさんが、陰謀論者なら、「これだから陰謀論者はあてにならない(あほなことを言う)」と言いたくなるのである。ようするに、『陰謀論者はまちがったことを言うから、言霊理論に関しても、まちがったことを言った』と思いたいのである。

相手であるBさんが、ヘビメタをきらっている人なら、「ヘビメタはリズムにのると気持ちがいい」と言いたくなるのである。もちろん、ほんとうに、ヘビメタが好きである場合もある。

ほかに例をあげるとするなら、相手が、無職なら、「これだから、無職は社会常識がない(だから、言霊理論に関しても、真理がわからずに、まちがったことを言っている)」と言いたくなるのである。

ともかく、揶揄したくなったり、皮肉を言いたくなったりするのである。

「過去は記憶の中にしかない」ということで、過去否定論者がなにを言いたいかということが重要なのである。過去は記憶の中にしかないから……なんなんだ?

過去否定論者は「過去は、単なる記憶だ」ということも言いたいのである。「単なる記憶だから、感情的に反応する必要はない」ということも言いたいのである。

過去というのは、頭の中にしかない単なる記憶なのだから、感情的に反応する必要がないのである。単なる記憶にすぎないのだから……。

ところが、当の過去否定論者が、ある記憶に関しては、感情的に反応して、嫌味や皮肉を言いたくなるのである。言霊理論を否定されたということは、言霊理論を否定されたという単なる記憶ではないのである。

あるいは、「相手が……自分が真理だと思っている言霊理論を真理ではないと言った」ということは、単なる記憶ではないのである。単なる記憶ではなくて、感情を伴った記憶なのである。

もちろん、比較的に言って、感情を伴わない記憶もある。

完全に感情を伴わない記憶があるのかどうかということは、ちょっと、わからない。そのときのメタ認知は成り立っているから、なんらかのことは、認知して、感じていると考えるほうが自然だ。

けど、そういうもののなかで、感情的な動きを感じない記憶だと判断できる場合もある。

その判断基準が、たぶんぼくの判断基準とはちがうのだろう。

まあ、ぼくにしても、比較的に言って、感情を伴わない記憶はあると思う。無味乾燥、無感情である状態で、発生した出来事に関しても、無感情なときに発生した出来事であるというようなメタ認知が成り立っている。

無感情だというメタ認知が成り立っているということは、その記憶が、無感情だという色に染められていたということだ。

ともかく、過去の記憶が単なる記憶にすぎないのであれば、その記憶が、感情的な判断に使われることはないのである。

「こいつは、こういうことをした」という記憶は、単なる記憶ではなくて、感情を伴った記憶なのである。なので、過去の記憶だけど、現在の判断に影響をあたえるのである。

現在の判断は未来の行動に影響をあたえるのである。

なので、過去の記憶は、未来の行動にさえ、影響をあたえるものなのである。

これは、無味乾燥な単なる記憶ではないということを意味している。

なので、「過去は記憶の中にしかないから、影響をうけない」という理論はまちがっている。過去の記憶は、過去の記憶なので、現在の感情や判断に影響をあたえるのである。

2025年9月14日日曜日

●言うに言えない、不愉快なことが発生するのである■騒音※2025/09/14 1:55

現実というのは……全部……いやだな。ヘビメタ騒音でつらすぎる。みんな、ヘビメタ騒音がどれだけ影響をあたえるか、ぜんぜんわかっていない。もう、いやだな。ほんとうに、いろいろな連鎖で、すべてが、くるしいことになる。ヘビメタ騒音を起点として、いろいろな、言うに言えない、不愉快なことが発生するのである。

長かったなぁ。ほんとうに、みんなわかっていない。ほんとうに、わかっていない。 

●「つらいこと」というのも、一意には決まらないのである■言霊※2025/09/12 17:00

「ポジティブ言葉を使うと、つらい毎日になってしまう」ということを書いたけど、ちょっと付け足しておく。それは、言霊主義者側の、誤解についてなのである。

基本、言霊主義者は「言ったことが現実化する」と考えているので、いかようにでも書き換えることができると思っているのだ。

そのくせ、「西から太陽がのぼると言えば、西から太陽がのぼるのか」ということに関しては、「西から太陽がのぼると言えば、西から太陽がのぼるなんていうのは、おかしい(まちがっている)」と考えるのだ。

自分でも、「それは、むりだ」と思うことに関しては、頑固な言霊主義者も、言霊主義者であることをやめてしまうのである。

ようするに、言霊主義者だって……自分が「それはむりだ」と思うことに関しては、「言ったって、言ったことが現実化しない」と思っているのである。だから、自分がどう思っているかということが、ほんとうは、重要なのである。

言霊理論だけに集中して議論すると……議論なんてものにはならないのだけど……意見をかわすと……言霊主義者は「自分が、それはむりだと思っていることに関しては、言ったって現実化しない」と考えていることを、わすれて、ただ、「言えば、言ったことが現実化する。これは、正しい。実際に自分が言ったときは、現実化した」という話をするのである。

そして、普段、自分が暮らしている場面では「これは、言ったってむりだ」と思うことに関しては「言ったって、言った通りになるはずがない」と考えているのである。そういう矛盾した存在なんだよ……。言霊主義者というのは……。

言霊主義者にとって、自分……が、むりだと考えるか、むりだと考えないかということが、非常に重要なことなんだよ。

他人のことだと、環境(条件の束)を無視してしまうので、「理論」だけが重要になってしまうのである。抽象化した理論だけが重要なことになってしまうのである。だから、言霊理論が正しいかどうかという話になると、言霊主義者は、一種、教条主義者になってしまうのである。

もちろん、その言霊主義者が、教条主義者のことを、きらっていたとしても、教条主義者になってしまうのである。

相手の現実は、見えないから、無視してしまう。

自分が一倍速で経験したことではないので、現実味がないのだ。他人の経験に関しては、まったく現実味がない。

相手の現実を無視してしまうのである。

自分のことなら、「これはむりだ」と思うことに関しても、他人のことだと「これはむりだ」と思わずに、「言えば言ったことが現実化する」と言ってしまうのである。

環境には、内部環境と外部環境があるということを書いたけど、このどっちも、むししてしまうのである。

相手が経験したことは、自分にとってリアルじゃないから、無視できるのである。

自分が経験したことに関しては、メタ認知が成り立っているから、むりだということがわかるのである。相手が言っていることに関しては、……相手が言っているという場面におけるメタ認知は成り立っているけど……言っている内容そのものに関しては、メタ認知が成り立っていないので、平気で無視することができるのである。

だから、「むりだ」とは思わないのである。言えば言ったことが現実化するので、「できると言えばできる」と助言してしまうのである。

つらいことでも、「できる」と言って、がんばればいいということになってしまう。相手のことなら、そういうことになってしまうのである。言霊主義者のなかでは、そういうことになってしまうのである。

ブラック社長の下で働いているときのように、条件が悪い人は、とても、苦労をしているのである。それを「だれだって苦労している」とか「自分だって苦労した」と言って、無視してはいけないのである。

ともかく、つらい状態がすでに成り立っているなら「できるできる」と言って、がんばっても、つらい状態が、よくならないのである。時間経過というものがある。

だから、つかれた状態でがんばっていると、もっとつかれるのである。その場合「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。身体的につらいことを、長い期間続けると、精神的には憂鬱になる場合が多い。

これまた、言葉のあやなんだけど「つらいこと」というのが、一意には切らないのである。

たとえば、テニスの試合をして、つらい状態で、つらいと思いながらも頑張ったとする。その結果、勝てたとする。その場合、『つらくても頑張ってよかった』と考えることができる。

この場合の「つらいこと」は、あとで、憂鬱になるようなことではないのである。

ストレス対抗で、がんばったら、効果があった……あるいは、効果があったと実感できたという場合は、ブラック社長のもとで「つらいこと」をしているような憂鬱な気持にはならないのであるる。

それは、つかれてがんばっても、敗北しかないからそうなる。

「つらいこと」というのも、一意には決まらないのである。 

一例をあげて、あたかも、すべての場合において成り立つようなことを言う人がいるけど、抽象化、法則化する場合は、注意しなければならない。

 

2025年9月13日土曜日

●精神世界のなかで言われていることと、根本的な良心は、関係がない■精神世界※2025/09/13 5:40

言霊主義者は、「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化される」ということは、正しいと思っている。言霊主義者は、「事実だ」「真実だ」と言って、聞かない。

言霊主義者にとっては「言えば言ったことが、現実化する」というのは、事実だから、「事実だ」と言って、認めないのである。言霊主義者にとっては「言えば言ったことが、現実化する」というのは、真実だから、「真実だ」と言って、認めないのである。

その言霊主義者が、精神世界の人で、普段は「相手をかえるのは、むりだから、自分がかわるしかない」などと言っていたって、自分が真理だと思っていることを否定されたら、おこって、否定するのである。

相手が言っていることを否定して、自分が言っていることが真理だと主張するのである。

自分がかわるのではなくて、相手をかえようとするのである。

さらに言ってしまえば、その言霊主義者が精神世界の人で「すべてに感謝感謝」と言っていたって、自分が真理だと思っていることを、真理ではないと言ってきた相手には感謝しないのである。自分が真実だ当言っていることに関してもおなじである。

さらに言ってしまえば、その言霊主義者が精神世界の人で「すべては自己責任」と言っていたって、「自分が真理だと思っていることを、否定された」のは、自分の責任だとは思わずに、相手が「自分が真理だと思っていることを、否定した」のだから、これは、相手の責任だと思うのである。

相手がやったことだから、相手の責任だと思うのである。

さらに言ってしまえば、自分が真理だと思っていることを、否定した相手には、親切にしないのである。逆に、意地悪なことをしてやろうと思ったり、意地悪なことを言ってやろうと思うのだ。意地悪なことを言わない場合も、皮肉ぐらいは、言いたくなって、言うということになりがちだ。

さらに言ってしまえば、過去否定論者でも、過去において、自分の意見を否定した人には、しかえしをしてやろうと思うことが多いのである。AさんとBさんがいたとする。Aさんは、過去否定論者で、言霊主義者だ。Bさんが、過去において、言霊理論を否定したとする。そうすると、Aさんは「この人(Bさん)が、自分が真理だと思っていることを否定した」ということを重視するのである。「この人」に対して、いやな感じがしょうじるのである。

過去は関係がないのではなくて、過去の出来事を重視するのである。

過去の出来事が、その人の認識をつくりだしたのである。その人というのは、この場合は、「自分が真理だと思っていたことを(だれかに)否定された」言霊主義者であり、同時に過去否定論者である人のことだ。

さらに言ってしまえば、言霊主義者であり、なおかつ、「人に親切にすればいいことがある」と言ってる人だって、自分が真理だと思っていることを否定した相手には、親切にしないのである。逆に、意地悪をするようになるのである。

そういう感情が、言霊主義者や精神世界の人たちのなかにも、しょうじやすいのである。

まあ、「自分が真理だと思っていたことを否定した相手にも」親切にする場合もある。それは、そういう場面もある。メタ認知があるからね。良心にしたがって、行動することがある。

「自分が真理だと思っていたことを否定した相手」に対しても、良心に従って、行動することはある。ある。

この良心というのは、別に、精神世界につかっいない人でも、持っているものだ。ようするに、精神世界の考え方と、根本的な良心は、関係がないのである。

精神世界のなかで言われていることと、根本的な良心は、関係がないのである。

 

●「日が西からのぼる」と言えば、日が西からのぼるようになる■言霊※2025/09/12 16:59

「負けたと言うから、負けた」という言い方にならず「負けると言うから、負ける」という言い方になるのは、おかしなことではない。

これは、繰り返し起こることだから、現在形になっている。

たとえば、一日のなかで、日がのぼったあとになれば、日がのぼったと過去形で言うことになる。しかし、繰り返されることだから「日がのぼる」と現在形で言うのである。「日がのぼると言うから、日がのぼる」と言霊主義者は「現在形で」言うのである。

だから、一回の勝負のあと、負けた人に、「負けたと言うから負けた」と言うのではなくて、「負けると言うから負ける」と言うのは、それだけを考えれば、理が通ったことなのである。

一回の勝負で、負けた人が、負けたと言ったとしよう。そうすると、言霊主義者が、現在形で「負けると言うから負ける」と言うのである。

しかし、たとえば、一日なのかで、午後になったとき「日がのぼった」とだれかが言ったとする。その場合、言霊主義者は、「日がのぼった」と言ったから、実際に、日がのぼったと考えるのである。

これは、もちろん、まちがいだ。

だれかが「日がのぼった」と言うから、実際に日がのぼったのか?

ちがうね。

それでは、現在形にして「日がのぼると言うから、日がのぼる」と言えば、正しいことになるか?

いやーー。正しいことにならない。

だって、そうだろ。だれかが「日がのぼる」と言ったから、日がのぼるのか?

だれかが「日がのぼる」と言ったから、日がのぼるようになったのか?

ちがうね。地球が自転しているから、東から、日がのぼるように見えるだけだ。だれかが、日がのぼると言ったことは、関係がない。

だいたい、そのだれかというのは、おぎゃーーとうまれたあと、東から日がのぼるということを、学習するのである。東から日がのぼるということが、さきで、だれかが東から日がのぼるということを学習したのは、あとのことだ。

配られたカードで、役がない場合も、おなじだ。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、役がない人で、勝つことはない。負けるか引き分けるかのどっちかしかないのだ。ようすに、Aさんは、負けやすい。連続して負けることも多いのである。

Bさんは、言霊主義者だとする。「Aさんが、負けた」と言ったところを、Bさんが見たとする。そうすると、Bさんは、言霊主義者なので、「負けると言うから、負ける」と言い出すのだ。

ならば、たとえば、「日が西からのぼる」と言えば、日が西からのぼるようになるかというと、ならないのだ。「日が東からのぼる」と、だれかが言うから、日が東からのぼるのだという言霊主義者の考え方はまちがっている。

だれかが「日が東からのぼる」と言ったから、言霊の力によって、日が東からのぼるようになったのだと言霊主義は、考えるのだ。

ならば、だれかが「日が西からのぼる」と言ったら、日が西からのぼるようになるかといえば、ならないのである。

これとおなじことが、Aさんが負けた場合にも成り立つ。

Aさんが「勝つ」と言っても、勝てるようにはならないのである。それは、「日が西からのぼると言っても、日が西からのぼるようにはならないのとおなじなのである。

だから、言霊主義者は、Aさんにむりなことを言っているのである。

2025年9月12日金曜日

●「悪いセルフイメージをもってるやつが悪い」■引き寄せ※2025/09/11 3:56

引き寄せの法則について、ちょっとだけ言っておこう。また、ポーカーの例になるけど、ブタの人が負けやすいのは、ブタだからなのだ。

ところが、引き寄せの法則という考え方を導入すると、「役がないカードをもっている」という条件が、自動的に無視されてしまう。

すべて、自分が思っていることが引き寄せられているだけだという言い方になるのである。

ようするに、ブタの人は、負けることを引き寄せているのである。ロイヤルストレートフラッシュをもっている人は、勝つことを引き寄せているのである。

けど、ブタ(役がない)という条件や、ロイヤルストレートフラッシュをもっているという条件は、捨象されてしまう。ブタの人が負けやすいのは、「自分は負けやすい」というセルフイメージもっているから、負けやすいのだということを……引き寄せ信者は言うのである。

勝つことを引き寄せるには「勝つことを引き寄せている自分」を想像すればいいということになる。勝っている自分を想像すれば、勝つことを引き寄せられるということを言いだすのだ。これも、言霊の思考とおなじように、逆転の思考なのだ。

ところが、逆転の思考というのは、事実を無視してしまう。「条件」を無視してしまうのである。ブタという条件をもっている人は、実際に、負けやすいのである。ブタという条件をもっている人は、自分と同様にブタという条件をもっている人と、引き分けになる場合を除いて、負けるのである。

これは、ブタをもっている人の「セルフイメージ」の問題ではない。

ブタを実際に持っているということが問題なのだ。

けど、これをセルフイメージの問題に書き換えてしまうのだ。あるいは、言い換えてしまうのだ。あるいは、置き換えてしまうのだ。

そうなると、「悪いセルフイメージをもってるやつが悪い」というとになる。「負けるというセルフイメージをもっているから、負けるのだ」ということになる。勝つためには、勝つというセルフイメージをもてばいいということになるのである。

ところで、たしかに、ブタの人は、ブタの人と引き分ける以外は、負けるので、負けるというセルフイメージができやすいのだ。事実、負ける回数が、役をもっている人よりも多いので、自分は負けやすいというセルフイメージをもってしまうのだ。

セルフイメージがさきで、役が悪いという現実があとなのではなくて、役が悪いという現実がさきで、セルフイメージがあとなのだ。「負けやすい」というセルフイメージが負けやすい状態をつくっているわけではない。

けど、連続して起こっていることに関しては、どっちがさきなのかということについて、人は鈍感になってしまう。「セルフイメージがさきなのだ」と言われると、「そうなのかな」「そうなんだろう」と思ってしまう人がいる。

けど、これは、まちがっている。

「負ける回数が多い」という現実がさきなのだ。

勝っている人の場合もおなじで、「勝っている回数が多い」という現実がさきなのだ。これに関しては、いろいろと問題がある。

たとえば、実際には負けた回数が多い人が、自分は勝ちやすいというセルフイメージをもっていたというようなこともありえるからだ。これは、認識の問題だ。実験で、現実を切りだすとき、それまでに経験してきたことを捨象して、その実験内の、回数を問題にしてしまう。

なので、「こういう傾向の人がいる」ということになる。その場合、ポジティブなセルフイメージをもってる人が優れているという印象をあたえるけど、これもどうかなと思う。ぼくはね……。

この文脈だと、負けた回数が多いのに「自分は勝ちやすい」と思っている人のほうが、ポジティブでいいということが言われる。けど、一〇〇回中、九九回負けているのに、自分は勝てると思っている人が、カケゴトにはまるのである。

そして、実際に、負けているのに、自分は勝てるというセルフイメージにしたがって、確率が悪いかけをするのである。

ときどき勝つことがあるのだ。ときどき勝ったときのイメージが強く残って、何回も負けているときのイメージが残らないタイプなのである。そういう人たちは、負けた回を無視してしまう。

一〇〇日のなかで、一日に一回、パチンコをして、九九日負けて、一日だけ勝った人がいるとする。一日に損をする額と、一日に、儲けたときの最高額を決めないと、トータルで、損をしたのか得をしたのかはわからない。

けど、まあ、一日に一万円使って、勝った日に一〇万円儲けたとする。

そうすると、一〇〇万円使って、九万円儲けたことになる。勝った日も一万円使っているので、九万円儲けたということになる。一〇〇万から九万をひいて、九一万円損をしたということになる。トータルでは九一万円損をしたということになる。

ところが、一回の「勝ったセルフイメージ」だけが記憶に残って、まけた九九回のことは、忘れてしまったとしよう。

そうなると「自分は勝てる」と思っているので、パチンコに行くことをやめられなくなる。ポジティブだけど、これはこれで問題だ。かけ事の中毒に関しては、たしかに、セルフイメージがかかわっているのである。

かけ事にはまる人の多くは「自分なら勝てる」といったポジティブなセルフイメージがあるのである。けど、現実は、「負け」を引き寄せている。引き寄せというタームを使うとそういうふうに表現できる。

引き寄せ理論のなかでは、「勝つ」というイメージをもっていると、勝つという現実を引き寄せられることになるのだけど、実際にはちがう。

けど、引き寄せ信者は、あとだし思考があるので「負けた人は」負けを引き寄せているのだと言い換えることができるのだ。自分のなかのセルフイメージだけが問題なのだというところは、否定しないのである。負けている人は、じつは負けるというイメージをもっている人なのだと、後出しで、決めてしまう。

ここらへんの決めつけは、あとだしで自由自在なので、引き寄せ理論にあうように、現実を言いかえることができるのだ。

じつは、「負ける」というイメージもっていたんだということにすれば、引き寄せ理論は正しいということになってしまうのである。ようするに、負けた人は、「勝てるイメージ」を「勝てるほど」うまくもてなかった人なのだということになる。

あとだしなので、なんとだって言える。

どうして、引き寄せる方法に興味を持ってしまうのかというと、欠乏感があるからなのだ。すべてのほしいものをすでに持っている人が、引き寄せの方法なんかに興味をもつはずがない。自分がほしいと思ったらほしいものを手に入れることができるというセルフイメージをもっている場合、いまさら、引き寄せの方法なんかに興味をもつかな?

実際に、手に入れることができるので、いまさら、引き寄せの方法なんかに興味をもたない。

カネがないと、カネを引き寄せようと思うのである。すでに、じゅうぶんな金をもっている場合は、別に、カネを引き寄せようとは、思わない。

だって、すでに、自分がじゅうぶんだと思うカネがあるのだから。欠乏を感じると、引き寄せたくなるのである。

カネはもっているけど、じゅうぶんではないと考えている場合は、カネを引き寄せようとする意欲が発生しやすい。

もっとも、現実的な方法で、ほしいぶんのカネを手に入れることができる人は、おまじないのような引き寄せ方法に頼らなくても、すぐに、ほしいぶんのおカネを手に入れることができる。 

引き寄せ方法に興味を持ってしまうのは、欠乏感があるのに、現実的な方法では、「それ(引き寄せたいもの)」を手に入れることができないからなのだ。……おぼえておこう。

2025年9月11日木曜日

●迷惑行為をしたということを認めないやつら■騒音※2025/09/11 4:51

きちがい兄貴も、きちがい親父も、ものすごい意地で、迷惑行為をして、迷惑行為をしたということを認めないやつらなんだよな。

しかも、普通の人がやらないことを、きちがい的な意地でやりやがる。しかも、ずっとやるのである。

どれだけ、「やめろ」と言っても、きちがい的な意地でやってしまうのである。

殺さないと、やめさせることができないのである。

本人は、知らんぷりだよ。

きちがいヘビメタ騒音によって、しょうじた睡眠障害で、俺がどれだけ、「うごけない」思いをしていると思っているんだ。俺にとってものすごく重要な時期も、きちがい兄貴が、知らんぷりで、きちがいヘビメタを鳴らしていた。ちぎれそうな気分でくらしていた。

「鳴り終わったら関係がない」と言うやつがいるけど、そいつは、ぜんぜんわかっていない。しかも、そういうやつが「俺だって騒音ぐらいあった」と言うのである。ほんとうに、腹がたつ。

どうしてこんなことになってしまうんだ。

きちがいにやられて、バカにバカにされる。きちがいにやられて、バカになめられる人生だった。

やりきれなさと、心細さがある。心細さというのは、自分にとって重要なことを、踏みにじられたときの、心細さだ。「これから、どうなるんだ」という不安だ。そりゃ、踏みにじられたあとなのだから、気になるだろ。「どうしてくれるんだよ」という気分もまざっている。そういう不安だ。

きちがい兄貴に毎日毎日、騒音でやられてつらかった。これ、脳の炎症みたいなものなのである。自分の意思ではどうにもできない症状が出てしまうのである。それが、ほかの人から見ると、俺がさぼっているように見えるのである。こんなの、ない。

過去否定論者が、なにを否定しているのか、過去否定論者はわからない。こいつらも、程度はちがうけど、きちがい兄貴やきちがい親父と似ているところがあるんだよ。

こっちから見るとそうなる。

そして、不可避的に発生する不可避的な症状を、不可避的ではない症状だと思っているのだ。ちょっと、俺が本気を出してどうにかしようとすれば、どうにでもなる症状だと思っているのだ。自分なら、そういうことがあっても、そんなことにはならないと思っているのだ。「そんなのは、さぼっているだけだ」と思っているのだ。こんなやつら……。こんなやつら……。

●一気に、四か所も、残るタイプのやつにやられた■騒音※2025/09/11 4:36

めちゃくちゃに暗い気持ちになっている。じつは、昨日、猛烈に左手の甲が、かゆくなったのだけど、今日見たら、シミができていた。これは、残るタイプのやつだ。残るタイプのやつは、何年か前に右手の甲を刺されたあと、ずっと、出現しなかったやつなのに、どうも、出現したみたいだ。これ、イレズミタイプと言っているけど、刺されたところが、うすーーくしめった感じになって、きれいには、もとにもどらない。刺されて、中央が赤くなるやつは、きれいになおる。一気に、四か所も、残るタイプのやつにやられた。四か所じゃなくて八か所だった。親指のほうも、おなじ感じのやつに刺されていた。

基本、ぼくは、いろいろとあって、動けない状態になっている。こまった。逃げられない状態になったあと、いろいろといやなことが積み重なっていく。基本は、家族がやったことだ。兄と父がやったことで、動けない状態になった。これ、それが……。ほかの人にはわからないことなのである。どんだけ長い期間くるしめられるか、わからないことなのである。 

●相手が経験してきたことをすべて否定してしまうような言葉■過去※2025/09/09 5:43

AさんとBさんがいたとする。Aさんは、無職だったとする。Bさんは、過去否定論者だとする。

Aさんが「ぎっくり腰になったことがあるので、この仕事はできない」と言ったとする。Bさんは、Aさんを働かせたいとする。

そして、Bさんは、『仕事をえり好みをするのはよくない』と考えているとする。その場合、Bさんは、「ぎっくり腰になったことがあるということは、関係がない」ということを言うのである。どうしてかというと、ぎっくり腰になったのは、過去の出来事だからだ。

『過去の出来事は現在に影響をあたえないので、Aさんがぎっくり腰でこの仕事は、できないと言うべきではない』とBさんは考えるのだ。

ところが、Bさんがぎっくり腰になった場合は、自分が一倍速で経験したことなので、「これこれこういうことをしているときに、ぎっくり腰になった」ということがわかり、ぎっくり腰になったとき、いたかったということもわかるのだ。

ところが、Bさんは、Aさんではないので、Aさんのいたみがわからない。なので、「過去は関係がない」と言うことができるのだ。

Bさんが椎間板ヘルニアになったとする。ある時点で、椎間板が「飛び出した」状態になったのである。なので、Bさんが椎間板ヘルニアになったあと、いろいろな行動をするとき、その部分に、いたみを感じるようになったのであれば、過去のある時点で、椎間板が飛び出した状態になったということが、原因なのである。

Bさんは、過去否定論者なのだけど、自分の身に起こったことは、わかるので、これこれこういう作業をしているときに、いたみを感じて、医者に行ったら、椎間板ヘルニアだと診断されたということを知っている。

なので、椎間板ヘルニアになったあとは、自分の行動を気にするようになる。

『椎間板ヘルニアだから……なるべくいたくなるような行動をするのはやめよう』とBさんは、思ったりするのだ。

これは、Bさんが「過去がある」と思っているということなのだ。これは、Bさんが「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえる」と思っているということなのだ。

Bさんは、自分のことだと、「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえる」と考えてまうのだ。Bさんの表現だと「過去がない」わけではなくて、「過去がある」ということになるだろう。

まあ、過去否定論者が言う「過去はない」という表現は、本人が意味をよく理解していないという意味で、意味があいまいなのだ。じつは、過去否定論者は、本人が、「過去はない」という言葉で、なにを表現しようとしているのか、ぜんぜんわかっていないところがある。

本人が、わかっていない。

ただ、気分で言っているだけなのだ。

けど、本人は、「ちゃんと意味がある」と思っているのだ。これ、こまるんだよなぁ。「過去はない」という言葉で、なにを言いたいのかはっきりさせてほしい。

ともかく、過去否定論者は、自分が一倍速で経験したことに関しては、過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえるということを、否定しないのだ。過去否定論者が否定するのは、相手の過去の出来事が、相手の現在の状態に影響をあたえるということなのだ。

相手の過去の出来事が、相手の現在の状態に影響をあたえているということを、否定したくなるのはなぜなのか?

相手を働かせたいのである。あるいは、相手を社会活動に参加させたいのである。

「過去は現在に影響をあたえない」とか「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえない」とかということは、ほんとうは、関係がないことなのである。

相手を働かせたいから、そう言っているだけなのである。自分は普段、そんなことは思っていないのである。自分が、自分の身で体験したことに関しては、「過去は関係がある」と思っているのである。もちろん、「過去は現在の状態に関係がある」と思っているのである。

しかし、じゃあ、「相手を働かせたい」と思っているときに、相手が「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえる」と言った場合、過去否定論者が、それを認めるのかというと、たいていの場合は、認めないのだ。相手を働かせたいと思っているときは「過去は関係がない」と言って、過去の出来事が現在の状態に影響をあたえるということ自体を否定する。

これ、ほんとうに、こまったやつなんだよなぁ。

相手が働いていないときだけではなくて、相手が、じゅうぶんに働いていないと、過去否定論者が評価する場合も、「相手の過去」は否定されるのである。

「相手における過去の出来事が、現在の相手の状態に影響をあたえている」ということを、否定する。

ようするに、相手が、過去において、努力をした場合でも、相手が努力をしたということ自体が、関係のはない話になってしまうのだ。「過去はない」あるいは「過去は関係がない」ので、相手がした努力も関係がないことになってしまうのである。

過去においてと書いたけど、一秒前だって、過去なんだぞ。Aさんが、二〇年前から、一秒前まで、ずっと、努力をしてきたとしても、Bさんは、「過去は関係がない」と言って、Aさんがしてきた努力を全否定してしまうのだ。

しかも、Bさんは、自分が、相手の努力(相手が、ずっとしてきた努力)を全否定したという自覚がない。自覚がないのだ。へっちゃらなのだ。Bさんには、相手が、どういうことで腹をたてているのか、まったくわからない鈍感さがある。

世の中には、Bさんのレベルで、相手の努力を否定してしまう人が、いっぱい、いる。「過去は関係がない」と言えば、すべて、否定できるのである。

「過去は関係がない」というのは、相手が経験してきたことをすべて否定してしまうような言葉なのだ。そういう言葉を、平気で言う。相手が経験したことのなかには、現在の相手(の状態)に影響をあたえていることだって、いっぱいある。

というか、ほんとうは、すべてのことが影響をあたえているのだけど、特に、影響をあたえていることに関しては、影響が認識できるので、影響があると認識しているのではないかと思う。

もちろん、本人が、認識しているのである。本人以外の人は、たいていの場合、あまり認識していないのである。本人が、相手に「影響がある」と言ったって、相手は「過去は関係がない」という魔法の言葉を使って、全否定してくるかもしれない。

●ポジティブ言葉を使うと、つらい毎日になってしまう■社会※2025/09/10 8:51

 たとえば、ポジティブ言葉を使うと、つらい毎日になってしまうのだけど、そういう毎日をつくりだしているのは、じつは、ブラック社長なのだ。

ブラック社長というのは、自分の利益のために、社員(従業員)をこきつかっても、まったく平気な人なのだ。ひとのしあわせを、考えていない人なのだ。

そういう人だから、自己責任論をふりまわしているのである。ポジティブ思考と自己責任論というのは、密接にからまりあっている。

ここでひとつ問題なのは、「ネガティブなことを言うやつは、無視をしろ」「ネガティブなことを言うやつは悪いやつだ」「ネガティブなことを言うやつとは、かかわるな」ということをポジティブなブラック社長が言っているということだ。

これで、「監視状態」ができあがるのである。

そして、ブラック社長がやっていることを批判できない状態になってしまうのである。名前だけ店長が「毎日、残業でつかれる」と言ってしまったとしよう。

「つかれる」と言っているので、ネガティブな言葉を言っているということになる。

もし、名前だけ店長が「ブラック社長のやり方には問題がある」と言ってしまったとしよう。

そうすると、これもネガティブな発言なので、まわりの人間は、ネガティブな発言をしたやつとは、つきあわないようにしようとするのである。そういう気持になるのである。

そして、まわりの人間も、「はぶられる」「無視される」「危険人物あつかいされる」のがいやなので、「ブラック社長のやり方には問題がある」と言えなくなってしまうのである。

相互監視が、自然に成り立っているのである。

相互監視が自然に成り立つように、ブラック社長が、誘導したのである。

*     *     *

「ブラック社長が無理なことを言ってくるので、つかれはてた」と名前だけ店長が言ってしまったとしよう。

これも、「人のせいにした」ということになってしまう。本来、ブラック社長のやり方には問題がなく、名前だけ店長が、ブラック社長のせいにしたということになってしまうのだ。「人のせいにするのは悪いこと」なので、名前だけ店長が、悪いことをしたということになってしまうのである。

けど、ほんとうに悪いことをしているのは、ブラック社長だ。

こんな、簡単なことも、わからなくなってしまうのである。 

 

2025年9月10日水曜日

●自然とポジティブな言葉が出てくる状態とはちがうのだ■社会※2025/09/09 23:24

うんと手短に言ってしまうと、「運をあげる方法」として語られているものは、ブラック社長が言っていることなのである。

「ポジティブ言葉を使え」「ニコニコしろ」「素直に受け取れ」「感謝しろ」「会社が悪いと思うな」「他人が悪いと思うな」「自己責任だと思え」「ネガティブ言葉を使うな」「ネガティブ言葉を使っているやつとつきあうな」「人に親切にしろ」……全部、ブラック社長が言っていることだ。

名前だけ店長を、自殺までおいつめた言葉と、「運をあげる方法」に書かれている言葉はおなじなのである。 

「ネガティブ言葉を使うやつとは、距離をたもて」というのは、けっこう問題のある言葉なのだ。これも、正しいと思ってしまう人が多いのだけど、問題がある言葉だ。まあ、説明しにくいのだけどね……。

基本的に、社内のくるしい状態というのは、ブラック社長が作り上げていることなんだよ。ブラック社長が、利益をえたいので、そうしているだけなんだよ。みんなが、くるしむような作業量を、少ない賃金でおしつけているんだよ。

「ポジティブ言葉を使えばいい」というのも、ポジティブ言葉を使うことによって、たいへんなことをおしつけられているのだ。従業員がポジティブ言葉を使って、がんばると、ブラック社長が儲かるのである。

じゃあ、ポジティブ言葉を使っている従業員が、しあわせなのかというと、そうではないのだ。

ポジティブ言葉を使っている従業員が、「できるできる」と言って残業をすることによって、ポジティブ言葉を使っている従業員は、つかれてしまうのである。「できるできる」とポジティブな言葉を使わずに残業をしない状態よりも、つかれてしまうのである。

そして、それが、毎日続けば、毎日「よりつかれる」状態が続いてしまう。ポジティブ言葉によって、疲労がたまっていくのである。

これは、ほんとうに楽で、楽しい仕事をしていて、自然とポジティブな言葉が出てくる状態とはちがうのだ。

たとえば、ポジティブ言葉を使わずに、残業をしなければ、そのぶんだけ、つかれないのである。つかれてしまうのは、「できるできる」とポジティブ言葉を使って、自分をはげまして、残業をするからなのである。

なので、「できるできる」とポジティブ言葉を使うということは、この場合は、そのぶんだけ、つかれるということを、実際には意味しているのである。

「できない」とネガティブ言葉を使って、残業をしなければ、そのぶんだけ、つかれないのである。

「ポジティブ言葉を使うと、しあわせになる」と言うけど、ポジティブ言葉を使うからこそ、残業が増えてしまうのだ。

そして、「残業をやらなければならない」という気持が増すようになっている。

一日は二四時間なので、時間的には、限界がある。その限界値すれすれで、がんばったって、つかれるだけなのだ。そのつかれた状態というのは、ネガティブな状態なのだ。不幸な状態なのだ。

わからないかな?

2025年9月9日火曜日

●もともと、役のちがいがあるのだから、同量化するのはおかしい■社会※2025/09/09 1:20

「みんな、苦労している」という言い方がある。

これも、均質化・同質化のテクニックだ。

ほんとうは、環境に差があり、発生する出来事に差がある。だから、苦労の質や、苦労の量に差があることになる。環境によって、苦労の質や、苦労の量が、ちがうのだ。

ちがうのだけど、「みんな、苦労している」というひとことで、苦労の質や、苦労の量を、同質化・同量化してしまう。

じつは、特殊な苦労というのは、特殊な環境をもつ人しか、経験していない。だから、均質化するのは、むりなのだ。

*     *     *

ちょっと、特殊性から離れて、一般的な話をする。「配られたカードで勝負するしかない」というようなことについて、話したことがあるけど、配られたカードに差があるのである。

ブタの人がもっている『負けさすさ』と、キングのスリーカードをもっている人の『負けやすさ』は、そもそもがちがうのである。カードに差がある。

これは、役に差があるということなのだけど、役に差がある。役に差があるということは、そこからしょうじる「苦労」にも差があるということなのだ。

けど、「みんな、苦労している」というひとことで、差が無効化される。差がないような扱いを受けることになる。

*     *     * 

たとえば、「負ける」と、いろいろな意味で、苦しくなるとする。そうすると、「負けやすさ」が「苦労の差」をうむということになる。

ようするに、最初から、苦労の量には差があるということになっているのだ。カードの差があるのだから、苦労の差もあるということになる。

ところが、「みんな苦労している」というひとことで、キングのスリーカードをもっている人の苦労も、ブタをもっている人の苦労も、おなじだということになってしまうのである。

キングのスリーカードをもっている人が「俺だって負けたことがある」と言ったとする。これは、事実だとする。負けたということが、苦労をすることを意味するならば、「俺だって苦労した」というのは、事実だということになる。

しかし、キングのスリーカードをもっている人が経験した苦労の量は、ブタをもっている人が経験した苦労の量とはちがうのである。ブタなのだから、キングのスリーカードよりも、負けやすいのである。ならば、苦労の量には差があるということになる。

「俺だって負けたことがある」「俺だって苦労した」「みんな、苦労をしている」といういう言葉で、同量化することはできないのだ。

もともと、役のちがいがあるのだから、同量化するのはおかしい。

*     *     *

まったく役がない人、九のワンペアをもってる人、エースのスリーカードをもっている人の、負けさすさはちがう。

しかし、エースのスリーカードをもっている人ですら、負けることはあり、苦労をしていると言える。

だから、エースのスリーカードをもっている人が「俺だって負けたことがある」「俺だって苦労した」と言った場合、正しいことを言っているという問題がある。主観的には、正しいことを言っているのである。

そして、客観的にも、「俺だって負けたことがある」「俺だって苦労した」ということ自体は、正しいのである。ただし、エースのスリーカードをもっている人の苦労の量と、役がない人の苦労の量は、ちがうのである。

そして、エースのスリーカードをもっている人が、「俺だって負けたことがある」「俺だって苦労した」と言った場合、エースのスリーカードをもっている人は、自分自身と自分よりも格下の役をもっている人の『苦労の差』を無視したことになる。文脈から言って「おなじぐらいの苦労をした」という意味になってしまうからだ。

●兄貴の行動がおかしいから、ぼくがおかしいと思われるのだ■騒音※2025/09/03 10:42

兄貴は、ほんとうのサイコパスでなにもわかっていないのである。親父も、ほんとうのサイコパスでなにもわかっていないのである。ほかの人は、きちがい兄貴がサイコパスだということがわかっていないのである。

きちがい兄貴が「うち」でやったことというのは、ほんとうに、「よそ」では、ありえないことなんだよ。だから、みんな、ほんとうは「効果」がわからない。

きちがい兄貴のしつこさで、きちがい兄貴のこだわりで、夢中になって、ものすごくでかい音で、きちがい兄貴が好きな音を鳴らすと、「生活」がどういうものになるのか、みんな、みんな、わかっていないのである。わかるわけがない。

ところが、「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」「わたしだって騒音ぐらいあった」と言えば、ぼくと同等の騒音を経験したこと鳴ってしまうのである。

「ぼくとおなじレベルの騒音生活を、した」ということになってしまうのである。

「ぼくとおなじ期間の長さ、ぼくとおなじレベルの騒音生活、をした」ということになってしまうのである。

そうすると、なめてかかってくるのである。

あとは、『エイリが言っていることがおかしいので、エイリが嘘を言ってる』と思っているやつらがいる。

きちがい兄貴の行動がおかしいから、ぼくがおかしいと思われるのだ。きちがい兄貴の感覚がおかしいから、ぼくがおかしいと思われるのだ。きちがい親父の行動がおかしいから、ぼくがおかしいと思われるのだ。きちがい親父の感覚がおかしいから、ぼくがおかしいと思われるのだ。ぼくが、妄想タイプの精神病だと思われるのだ。ぼくが、嘘つきだと思われるのだ。

被害甚大なんですけどーー。

こいつらが、俺に対して、意地悪をしてくる。俺が嘘を言っていると思っているから、いろいろと、悪い解釈をするのだ。俺の行動すべてを悪いように解釈する。

きちがい兄貴が、おかしいのに、俺がおかしいと思われるのだ。こんなのは、ない。

*     *     * 

ぼくが嘘を言っていると思っている人間は、ほんとうに、ぼくに対して、意地悪なことを次々にやるようになる。ぼくが嘘を言っていると思っている人間は、次々に、あらぬ誤解をするようになる。

こいつらが妄想で、へんな解釈をつくりあげているだけだ。こいつらが、ぼくの発言や行為を、曲解するのである。

こいつらの曲解は、「お兄さんの行動が異常すぎるから、本当の話ではない」と思ったことから、発生するのだ。

ところが、きちがい兄貴の感覚や、きちがい兄貴の行動は、ぼくが説明した通りなのである。

こいつらは、当然、きちがい家族が、至近距離で鳴らしたときの、こっちの部屋の状態なんて知らない。ぼくは、ほんとうのことを言っているのに、信じないのだ。

「そんなわけ、ない」と思っている。「そんな音で鳴らしていたら、親が文句を言う」と思っている。

ところが、そうじゃないのだ。

おかあさんは、親父とは別の方向にずれまくっているのである。おかあさんも、普通の人ではないのである。普通の人だったら、絶対にしずかにさせようと思って、がんがん、言う。自発的に、注意する。兄貴が言うことを聞かなかったら、必死になって、外に助けを求めようとする。

ともかく、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚で、意地を通してしまうと、意地が通ったのだ。

これは、普通の環境じゃない。

だから、よそのうちでは、起こりえないことなのだ。だから、よその人は、「経験」していないのだ。だから、よその人は、経験していないから、わからないのだ。

影響のでかさがわからない。どういう生活になるのか、一倍速で体験したことがないから、わからない。

それが、数千日つもった場合、体にどういう影響があるか、よその人は、わからない。経験したことがないので、わからない。わからないから、軽く考える。あるいは、「嘘だ」と思う。

こんなの、ない。

こんな、人生、ない。 

2025年9月8日月曜日

●「けど、実際に、言ったことが現実化した」■言霊※2025/09/05 0:28

 「けど、実際に、言ったことが現実化した」と言う人がいる。自分が言ったから、現実化したのだと思っているのだ。この人たちは、いくつかのまちがいをおかしている。 

けど、そのまちがいが、自分にとって「ここちいい」ので、否定しないのである。あるいは、まちがいだと認識しないのである。

たとえば、小さいころから、漫画家になりたいと思っていたとする。そして、実際、「デザイナーになる」と言ったら、漫画家になれたとする。

この場合、「言えば言ったことが現実化する」ということは、正しいと思うようになるだろう。実際に、言った。言ったから、現実化したのだと思っても、不思議ではない。

しかし、何回も指摘したように、言った「から」ではないのだ。たしかに、言った。

けど、そのあと行動をしたのだ。二重まわしの例で言えば、「二重まわしができるようになる」と言ったあと、二重まわしの練習をしたから、二重まわしができるようになったのだ。

言ったから、どこかにいる言霊の神様が、神様の力で、二重まわしができるようにしてやったのではないのだ。

「漫画家になる」と言って、漫画家になれた人も、「漫画家になる」と言ったあと、漫画を、実際に、描いたのである。その人の才能があったのである。漫画家になれるような才能がその人には、そなわっていた。

まあ、才能も、内部環境のひとつだ。

だから、内部環境を無視して……「言ったから、そうなった」……と考えるのは、まちがいなのだ。どうしてかというと、しつこくなるけど「言ったから」言霊の力によって、そうなったわけではないからだ。

その人の才能がすぐれていた。その人の、外部環境も、漫画家になるということでは、有利に働いた。だから、けっきょく、現実的な出来事の繰り返しによって、漫画家になったのだ。

どうして、「言ったから」言霊の力で漫画家になれたと考えてしまうのだ?

おかいいだろ。言ったあと、行動したのに、その行動は、ガン無視だ。

これじゃあ、よくない。

なんで、実際の行動をガン無視して「言えば言ったことが現実化する」なんて、アホな考えにとりかれてしまうのか?

*     *     * 

人間はたよりない存在なので、「こうしたのでうまくいく」と思い込みたい存在なのである。だから、神頼みをする。言霊も、言霊という神様にお願いをしたようなものなのだ。

言霊の神様は、言ってしまえば、言ったことを、現実化するように、動いてくれるありがたい神様なのだ。

だから、「漫画家になる」と言えば、「漫画家になる」という言葉に宿っている言霊の神様が、自分を漫画家にするように、動いてくれると思うことができるのだ。神様が、自分を漫画家にするように動いてくれるのだから、自分は漫画家にされるはずだと思って、漫画を描くのである。

その結果、漫画家になれたとする。

その場合、言霊の神様にお願いをしたから、自分は漫画家になれたんだと思っても、不思議ではない。これは、これでいい。

ところが、『社会装置』となると問題が発生する。

自分を対象とした言霊思考と、他人を対象とした言霊思考は、根本的にちがうのである。 自分を対象とした言霊思考は、自分の内部でしていればよいのだ。問題はない。

問題なのは、他人を対象とした言霊思考だ。他人を対象とした言霊思考は、他人を奴隷化する社会装置なのである。自分を対象とした言霊思考は、有害ではないけど、他人を対象とした言霊思考は、ものすごく有害なのである。

他人を対象とした言霊思考は、鈍感さのうえに成り立っている。他人の環境は、ガン無視なのだ。

無視しているということにすら、気がつかない無視をすることになる。

他人を対象とした言霊思考をしてしまうと、自動的に、他人の環境を無視することになるのだ。そして、他人の環境を無視したということに、気がつかない状態になってしまう。

これは、やばい状態だ。

けど、普通はそうなるのである。

自分のことであれば、自分が一倍速で経験したことだから、自分自身に対する影響を、ごく自然に考えることができるのだけど、他人のことだと、自分が一倍速で経験したことではないから、他人自身に対する影響を、ことのごとく、無視してしまうのだ。

しかも、何度も言うけど、無視したことに気がつかない。「俺だって苦労した」「私だって苦労した」と言えば、それで、同等の苦労をしたことになってしまう。

ところが、同等の苦労なんてしてない場合が多い。相手に起こった「出来事の重大さ」を、無視できるので、無視してしまう。自動的に無視してしまうし、自動的に無視したことに、たいていの場合は、気がつかない。

2025年9月7日日曜日

●嘘をついたという認識がまったくない状態で、暮らしているのである■騒音※2025/09/07 12:35

 小学六年生のときから、こいつ(きちがい兄貴)のせいで、勉強することができなくなってこまっているのに、きちがい兄貴が……きちがい兄貴の嫁さんに、「ずいぶん協力してやった」と言ったのである。

「定期テストや入学試験に協力してやった」という意味だ。

これ、ぼくとしては、書く手が震えるほど頭にくることなのだけど、きちがい兄貴は、きちがい親父のように気にしていないのだ。

そして、きちがい兄貴は、きちがい親父のように、誤解をしている。

こんなの、頭がおかしいから……かーーーんぜんに、おかしいから、言えることなんだよ。平気で、嫁さん候補の前なら、「ずいぶん(試験に)協力してやった」と、言えるんだよ。こんなの、きちがい。

気持ちがまったくつながっていない。認識が、統合失調症の人よりもおかしい。自分の態度に関して、ものすごい、思い違いがあるのである。

けど、たとえば、「やめろ(鳴らさないでくれ)」と言われたときの態度おなじなんだよ。正確に言えば、「やめろ(鳴らさないでくれ)」と言われたあとの態度とおなじなのだ。自分が鳴らしたいわけ。自

分が、自分が思った通りの音で鳴らしたいわけ。

「自分が思った通りの音」というのは、こだわりのポイントだ。

絶対に、音をさげたくないわけ。そういうときは、『音がでかい』ということを、認めること自体がいやなわけ。絶対にいやなわけ。

だから、無意識的な命令がくだる。絶対に、意識的にも認めない。

『音がでかい』ということを認めると、自分がしずかにしなければならなくなる……自分が音をさげなければならなくなる……ので、いやなのである。この「いやだ」という気持が、頭がおかしいほど、強いのである。

だから、自分はでかい音で鳴らしていない……ということに、なってしまうのである。

耳が正常なのに……鳴らし始めの時期は耳が正常だったのだけど……耳が正常なのに……「これは、小さな音だ」「これは、さげる必要がないほど小さな音だ」ということになってしまうのである。きちがい兄貴のなかで、そうなってしまうのである。

だから、本人は「でかい音で鳴らしている」ということ自体を、認めないですむのである。

そして、じつはでかい音で鳴らしているのだけど、でかい音で鳴らしているということ自体を認めないで、すませたということが、認識されないのである。

これが、もし、ほんとうは、でかい音で鳴らしているということを、普通に認識していたら、ちがうのである。

でかい音で鳴らしきるために、わざと、でかい音で鳴らしているということを認めてやらなかったということになるのである。「わざと」でかい音で鳴らしているということを認めずに、でかい音で鳴らしきった(そのまま欲望のままに、こだわりの音を鳴らし続けた)ということを、認識できるのである。

わざとだから……認識できる。

自分がやったことがわかる。

けど、「わざと」ではないので、そもそもの、そんなことはやっていないということになってしまうのである。きちがい兄貴のなかで、都合よく、そうなってしまうのである。そのままの認知が成り立ってしまうのである。

……きちがい兄貴だって、自分のヘビメタ騒音以外の音に関しては、普通の認識が、普通に成り立っているのだ。すくなくても、初期段階では、聴覚の問題ではないのである。

けど、あまりにでかい音で鳴らし続けたので、きちがい兄貴の耳が悪くなっている。聴覚に問題が発生した。そうなると、きちがい親父の性格のうえに、きちがい親父の認知症がかぶっさったような状態になってしまうのである。きちがい兄貴の性格のうえに、聴覚の鈍感さという問題がかぶさったような状態になってしまうのである。

ともかく、「認めないでやりきる」という態度は、「認めないで、嘘を言う」という態度と似ているのである。

自分が、よその家では鳴らせないほどのでかい音で鳴らしていたということは、嫁さん候補の前では、認めたくないことなんだよ。

だから、自動的に「しずかにしてやった」「ずいぶん、協力してやった」ということになってしまう。

これ、嘘なんだよ。けど、嘘をつ言ったつもりがないのだ。

こまるんだよ。こっちがこまる。きちがい兄貴は全自動でそういう感じなのである。つねに、そういうことになってしまうのである。

こういうやつだから、俺がほかの人から誤解をされる。嫁さん候補から、俺が誤解されるだろ。

それもひとつの誤解だ。

きちがい兄貴は、きちがい兄貴が思いっきり鳴らしたいときは、一日に一三(じゅうさん)時間一〇分鳴らすときも、絶対の意地で、思いっきり一三時間一〇分鳴らして、一〇分間だろうが、ちゃんと我慢して、ちゃんと静かにしてくるということがなかった。

一〇分間だろうが、絶対の意地でゆずりたくなかったのである。だから、押し通した。

俺がどれだけ「こまるから鳴らさないでくれ」「明日、テストだから、ヘッドホンをしてくれ」と言っても、絶対の意地で、思った通りの音で鳴らしていたのだ。スピーカーから鳴らすことに、きちがい的なこだわりがあるから、ヘッドホンで聴くということがなかった。

俺の勉強のことなんて、かまわずに、きちがい的な意地で、一分間だろうがゆずらずに鳴らしていたのである。だから、テスト当日に俺がこまったのである。

あーー。そういえば、入学試験当日に遅刻したことがあったわ……。あれだって、どんな気持ちになると思っているんだよ。前の日、どんな気持になって、ヘビメタ騒音ががんがん鳴っている部屋で、我慢していたと思っているんだよ。

ともかく、「都合が悪い」……「認めるのが都合が悪い」と思ったら、平気でうそをつくのである。そして、嘘をついたつもりがないのである。嘘をついたという認識がまったくない状態で、暮らしているのである。

どれだけ、こまるかーー。家族にこういう人間がいて、実際に迷惑行為を、きちがい的な意地でやるとどれだけこまるか、わかってない。やられてない人はわかっていない。

毎日やられていない人は、実際に自分が毎日やられたわけではないから……自分のこととして……影響がわからないのである。

ところが、「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」と言えば、同質化、同レベル化できるのである。こいつのなかで、同質化、同レベル化できるのである。

これも、そいつの意識のなかで、同質化、同レベル化するだけなんだけど、そいつの頭のなかでは、ともかく、同質化、同レベル化してしまうので、同レベルのことを、経験したということになってしまうのである。

ほんとうは、経験していない。

認知にゆがみがあるのである。思考にまちがいがあるのである。けど、自分なら平気だと思っているので、俺のことを、平気で、ディスってくるのである。

「そんなのは、エイリが気にしすぎなんだ」「俺だったら影響をうけないで、ちゃんと勉強ができる」「そんなのは、エイリが弱いから影響をうけているんだ。俺だったら(強いから)影響をうけないで、試験に行くことができる」と思っているのだ。

あるいは、「そんなのは、エイリが弱いから影響をうけているんだ。俺だったら(強いから)影響をうけないで、遅刻しないで毎日通うことができる」と思ってしまう。

それにプラスして、言霊思考がある人だと、言霊的なことを言うのである。

これも、「言霊的な解決方法があるのに、言霊的な解決方法を採用しないから、ダメなんだ」というダメダシなのである。「言霊は絶対だから、絶対に効く」のである。

努力論者は、「どんな状態だって、努力できる」と言うのである。「どんな状態だって、努力すれば、成功する」と言うのである。「ヘビメタ騒音でできないなんていうのは、いいわけだ」と言うのである。

●ぜんぜんちがう人生だったと思う■騒音※2025/09/07 10:30

正直言って、吐き気がする。吐き気がする。体調が悪い。いやな夢を連続で見た。現実も、悪夢のように感じる。だって、この世は……。いろいろと、いやなこと思い出した。からだとこころが、くるしい。特に、吐き気がする。なにもわるいものを食っていないのになぁ。ともかく、吐き気がおさまるのを待つ。

いろいろなしんどい、思い出があるなぁ。ほんとうにくるしい人生だった。家族を含めて、外部環境が悪すぎた。俺、ほんとうに、きちがい家族じゃなければ、ぜんぜんちがう人生だったと思う。 

きちがい兄貴やきちがい親父が、立て続けにやっていたことが、影響をあたえた。

どうしたって、影響をうける。

現実世界で、現実に毎日やられていることが、影響をあたえないわけだないだろ。俺の体調に影響をあたえる。俺の行動に影響をあたえる。きちがい兄貴がうるさくすると、その日以降の「俺の行動」に影響をあたえる。

どうしてなら、きちがい兄貴の音を浴びてしまったからだ。

きちがい兄貴が、一日で俺の行動にあたえた影響を一〇〇〇〇〇、だとすると、ほかの人は、〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一ぐらいの俺の行動に、文句を言う。

ようするに、〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一ぐらいの「俺の行動」に影響をうけたと言って、文句を言ってくる。ほんとうに、そういうこと。ほんとうに、そういう感じ。

俺が、普段、どれだけのことをやられているか、まったくわかっていない。

どうしたって、きちがい兄貴にやられると、影響が出るのだけど、その影響が出た状態で、俺が……まあ、行動をすると……それに対して、文句を言ってくるということだ。

ヘビメタ騒音のことを俺が言えば、おこるやつがいる。ヘビメタ騒音の話を聴いただけで、不機嫌になるのだ。「なんだ、そんなのおぉぉ」という気持になる。微妙なことに反応しているのである。

遅刻だって、そりゃ、不可避的に、押し出されてするだろう。これが、迷惑行為だとする。俺が遅刻することが迷惑行為だとする。

その場合、俺の迷惑行為が、そいつにあたえる影響が〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一ぐらいなのに、文句を言ってくる。

たとえば、俺がきちがい兄貴がやっていることを言ったとする。そうすると、そいつは、俺が愚痴を言ったと言って、文句を言ってくる。

その場合、やはり、〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一のことで、文句を言ってくるようにしか思えない。どれだけ、ひどい音で鳴っているか、わかってないなぁ。

そいつだって、おなじことを毎日されたら、遅刻をするようになる。どうしたって、不可避的に遅刻をする。どうしたって、不可避的に遅刻をするようになる。

なんか、つねに、はさまれているのだ。

俺は、最大限の努力をしている。

なんか、いつも、はさまれている。どうしたって、そうなるのに、ほかのやつが「ささいなこと」で文句を言ってくる。ダメ出しをしてくる。

おまえ、俺が毎日どんだけのことをされたと思っているんだよ。進行形で言うなら……されていると思っているんだよ。もう、まるで基準がちがう。

そいつらは、俺がきちがい兄貴から、なにをされても、文句を言わず、たえてあたりまえだと思っているくせに、俺に対しては、文句を言ってくる。俺がやられていることにくらべたら、ずっとずっとずっと、些細なことで、俺に文句を言ってくる。

自分なら、平気だと思っているみたいだけど、俺が遅刻をするぐらいで、文句を言ってくるなら、たえられないよ。

だいたい、遅刻だって、ほんとうに、きちがい兄貴の行為によって、押し出されて遅刻をしてしまうのに、それを認めない。

そういう、こころの小さなやつが、自分なら平気だと思って、俺に、無限の我慢を強いてくる。あるいは、すすめてくる。

こいつらは、たとえば、俺が不活性だということに、文句を言ってくるのに、自分は、きちがい騒音を浴びせられても、文句を言わずに、普通に生活できると思っているのだ。

まあ、雑感だよ。普通なら、書かないことだ。不愉快だと言っても、言わなくても、不愉快な思いをさせられることになる。

きちがい兄貴が、常識的ではないことを、毎日毎日、執着して執着して、やりきると、よその人が経験をしてない不愉快さを俺にあたえることになるのだ。

きちがい兄貴が、常識的ではないことを、毎日毎日、執着して執着して、やりきると、よその人がわからない、症状が出るのだ。

そして、その人は、自分がやられていないからと、俺の症状に文句を言ってくる。元気がなければ、元気がないと文句を言ってくる。ぼーーっとしていれば、ぼーーっとしていると文句を言ってくる。そりゃ、限界だよ。 

●言霊主義、思霊主義、努力論が邪魔をする■社会※2025/09/06 9:28

「配られたカードでやっていくしかない」というのは、いちおうは、正しい。あくまでも、「いちおう」だけどなぁ。

基本的には、それでも、カードの格差を、小さくするように、社会的に努力しなければならないのである。だから、社会的に小さくすることを、最初からあきらめずに、社会的に小さくすることに賛成しておいたほうがいい。

もちろん、目の前のことに対処することも必要だ。だから、「配られたカードでやるしかない」と思うこともあるだろう。

けど、それとは、別に、社会的に「配られたカードの格差」を小さくすることに、賛成することだってできるだろう。

ようするに、排他的ではないのである。

目の前のことに対処すると同時に、カードの格差を小さくすることを考えてることは可能だ。そして、社会的にカードの格差を、小さくすることを目指すこと自体は、可能なのだ。

ところが、言霊主義、思霊主義、努力論が邪魔をする。

こういうことを信じると、即座に、「格差を肯定する」ことになってしまうのである。個人的な努力でどうにかするべき問題だという認識が生まれてしまうのである。個人的な努力ではどうすることもできない部分があるので、なるべく小さくする方向を目指すということが必要になるのだけど、なるべく小さくする方向を目指すということを、バカにするようになるのである。

無価値なのは、「格差を肯定」して「自分だけは這い上がれるようにと罠にはまること」だ。

これ、罠なのである。 

言霊主義、思霊主義、努力論で「個人的に」対処すればいいということになると、社会的に対処する方向について、まったく考えなくなってしまうのである。社会的に対処するべきだという人をバカにするような態度が発生するのである。

いま、目の前のことに個人的に対処すればいいのだという意見を言っている人たちは、みんな、洗脳されて、アホなことを言っている人たちだ。

まず、努力論は抜かして考えるけど、言霊主義や思霊主義は、無益で有害な対処方法なのである。そして、努力論に関しては、むかし、書いたから、ここでは省略する。努力をすること自体は、ある程度「目の前の問題」を解決することができるのである。

しかし、「努力をすることもできない」状態の人には、意味がない解決方法なのである。そして、だれもが、努力することができるという精神論は、言霊理論や言霊主義や思霊主義と同じ問題をかかえているのである。

そして、努力論で問題を解決しようとすると、あとで「しっぺがえし」をくらうことが多いのである。

まあ、退職してから、しっぺがえしをくらうやつが、続出しているね。

そして、努力論で個人的問題を解決しようとすると、悪い意味で競争力が増し、不幸への圧力も増すのである。

努力論を個人的に語る場合は、いかにもいいような感じがするように、語るけど、これは、悪魔のリップサービスみたいなもので、あとで、ひどい目にあうことが、ある程度決まっているところがある。

最初は、いかにも、よさそうなことを言うのである。問題が解決するようなことを言うのである。そして、実際に問題が解決したように見えるのである。

ところが、なぜか知らないけど、どんどん自分の首をしめるようになるのである。あとで、しっぺがえしをくらうように、できている。

けど、あとで後悔しても、おそいのだ。

ともかく、個人的にはどうであれ、社会的には、努力論的な解決方法は、よくない解決方法だ。

2025年9月6日土曜日

●「役がないから、負けた」■言霊※2025/09/06 0:42

めぐまれた人が、めぐまれない人に対して、言霊的な助言をするのはよくないことなのである。「配られたカードで勝負するしかない」ということがよく言われる。

配られたカードに格差があるのである。

強いカードの組み合わせと、弱いカードの組み合わせと、カードの組み合わせがない状態がある。とりあえず、カードの組み合わせがない状態のことを、「ブタ」と、ここでは呼ぶことにする。ポーカーで、役の組み合わせがない状態のことを「ブタ」と言うのだ。

たとえば、ポーカーにおいて、ブタである人は、二のワンペアーの人に、負ける。決まっているのだ。そういうルールだからそうなのだ。そして、二のワンペアーの人は、三のワンペアーの人に、負ける。ルールだからそうなる。

もちろん、掛け金を上げていけば、ブタでも勝てることがある。とりあえず、掛け金を無制限に上げることはできないということにする。というか、駆け引きの部分は無視することにする。ベット、フォールド、レイズ、コールは無視することにする。

「配られたカードで勝負するしかない」というのは、たとえ話だからね。人生というのは、最初に配られたカードで勝負するしかないということだ。

たとえばの話だけど、ブタの人は、負けやすいんだよ。全員、ブタなら、やっと引き分け、ひとりでも役をもっているやつがいたら、そいつに、負ける。

ポーカーの「かけひき」の部分は、捨象する。

最初に配られたカードというのが、内部環境と外部環境を意味しているのだ。内部環境というのは、ルックスや才能だ。外部環境は、どういう家に生まれたかということが、一番でかいのだけど、その人を取り巻く環境のことだ。

配られたカードというのが、内部環境と外部環境を意味しているのである。その場合、「配られたカードで勝負するしかない」というのは「自分にあたえられた、容姿や才能と自分にあたえられた家の環境で、やっていくしかない」ということを、意味しているわけ。

ぼくが言いたいのは、カードがいい人が、カードが悪い人に対して「カードが悪い」と言うから、負けるのだと説教するのは、よくないことなのではないかということだ。

あるいは、カードがいい人が、カードが悪い人に対して「負ける」と言うから、負けるのだと説教するのは、よくないことなのではないかと思うわけ。これ、ひどい話なんだよ。

ブタである人は、たいてい、負ける。ブタ同士で戦えば、引き分けになる。けど、二のワンペアの人にも、負けるのだ。配られたカードが悪いから、負けるのである。

ところが、「負けると言うから負ける」のだと、言い換えてしまう人たちが出てくる。言霊主義者だ。役をもってない人は、いろいろなとこで、負ける。相手が、ワンペアでも、役をもっていたら、負ける。

だから、べつに、「負ける」と言ったから、負けるのではないのだ。

役がないから負けるのだ。

配られたカードが悪いから負けるのだ。

ところが、「負けるというから負ける」「勝つと言えば勝つ」と言霊主義者が言ってしまう。これだと、「負ける」と言ったやつが悪いということになってしまうのである。

じゃあ、ブタである人が、「勝つ」と言えば勝てるのかというと、そうではないのだ。

たとえば、ストレートフラッシュという強い役をもっている人がいるとする。Aさんだとしよう。そして、役をもっていない人がいるとする。Bさんだとする。

Aさんは、勝負をすればたいていの場合、勝てるのだ。

だから、「自分は勝ちやすい」というセルフイメージが生まれる。

実際、たいていの場合、勝てるのだから、そのセルフイメージはまちがってはいない。

ところで、Aさんが、ゲームをする前に「勝つ」と言っていたとする。Aさんは、「勝つというから勝てるのだ」と思っているとする。

そうなると、ほんとうは、めぐまれた環境だから勝てるのに、「勝つと言うから勝つのだ」という、まちがった考えをもつようになる。 

ストレートフラッシュをもっている人が、役をもっていない人に「負けると言うから負けるのだ」と説教しているのだ。ストレートフラッシュをもっている人が、役をもっていない人に「勝つと言えば勝つ」と説教をしているのだ。

役をもってない人が、「勝つ」と言ったあと負ければ、「言い方が悪いんだ」と役をもってない人のせいにするのである。「こころをこめて言えば、勝てる」と言うのである。

自分は、こころをこめて言うから、勝てるのだということになる。いや、役がいいから勝てるんでしょ。

「自分は心をこめて言うから勝てるけど、君はこころをこめて言わないから、勝てないのだ」と言う場合、自分はこころをこめて言うことができる優れた人で、相手は、こころをこめて言うことができない劣った人だということを意味しているのである。

ストレートフラッシュという強力な役をもっている人は、「そんなことは意味していない」と言うかもしれないけど、自動的に意味しているのだ。

 何度も言うけど、役をもっていないということが影響をあたえている。役をもっていないから、勝負に負けるのである。

ところが、嫌味なやつの言い分を受け入れてしまうと、自分の言い方が悪いから負けるということになってしまうのである。こんなの、ない。

「ブタだから負けた」と言えば、「ブタだから負けた」と言うから、負けたのだというとになってしまう。役がないから負けたというのは、事実だ。「役がないから、負けた」と言うから、負けたという判断は、まちがっている。

だいたい、負けたあとに「ブタだから負けた」と言ったのだ。蚊が一〇〇匹いる家の例で、書いたけど、連続して起こっていることに関しては、言霊主義者が言っていることが正しいように思えてしまう場合がある。

しかし、この場合も、言霊主義者は、一貫して、まちがったことを言っている。まちがいなのである。言霊主義者は、つねに、非・論理的な勘違いをして、まちがったことを言っている。

さらに、「役がないから負けた」というのは、正しい判断なのに、「いいわけだ」と言い始めるのである。「いいわけをするから負けるのだ」と言い始めるのである。こいつらは、ほんとうに、人をけなしてばかりだ。

いいわけ? 「役がないから負けた」というのは、いいわけじゃない。

役がない人は、役がないから、負けやすいのである。「役がないから負けた」というのは、正しい判断なのである。なんでこれが、いいわけになるのか? 

●精神世界の限界■言霊※2025/09/05 13:19

「つらい」と言うから、つらくなるというのも、じつは、ちがう。これは、メスの蚊が一〇〇匹いる家に住んでいる人に、「かゆい」というから、かゆくなると言っているのとおなじだ。

しかも、本人は、蚊が一匹もいない家に住んでいる場合でも、「かゆいと言うからかゆくなる」と言うのだ。ようするに、蚊という環境を考えると、めぐまれた人が、めぐまれていない人に、嫌味を言っているのである。

蚊という環境を考えると、悪い環境に住んでいる人に対して、いい環境に住んでいる人が、筋違いのことを言っているのである。まちがった認識でまちがったことを言っているのである。

その結果、めぐまれていない人が、不愉快な気持になるのである。

ところで、蚊が一匹もいない家に住んでいる人も、蚊に刺されたことがあるとする。そとで蚊に刺されたのだろう。その場合、「自分だって、蚊に刺されたことがある」と言えるのだ。蚊に刺されるとかゆくなるということは知っていると、言えるのだ。

けど、「かゆいと言うからかゆくなるのだ」という意見をかえない。「かゆいと言うからかゆくなる」ということを言う人は、精神世界に片足を突っ込んつでいる人なのである。

『真理』について述べているつもりなのである。

しかし、『真理』なんて言っていない。まちがったことを言っている。

さらに、精神世界の人は、「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」ということを言う。これも、ひろい意味で『教義』のひとつなのだ。

*     *     * 

ところで、「かゆいと言うからかゆくなる」ということについて考えてみよう。かゆいと言うのは、いつなのか。かゆいと言ったあと、かゆくなるのである。

「かゆいと言う」というように、過去形で書いてあるわけではないのだけど、過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえたということを言っているのである。

なぜ、過去の出来事が現在に影響をあたえたかというと、過去の出来事が言ったということだからだということになっている。

「かゆいと言うからかゆくなる」と言っている場合、対象となる人が、かゆいと言った時点も、かゆくなった時点も、過去のことなのである。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが、言霊主義者で、Bさんが、メスの蚊が一〇〇匹いる家に住んでいる人だとする。Aさんが、Bさんの話を聴いて、「かゆいと言うからかゆくなる」と言ったのだ。

法則性を当てはめてそのように判断したのだけど、判断がまちがっている。

かゆいと言ったからかゆくなったのではなくて、蚊に刺されたからかゆくなったのだ。

いずれにせよ、Aさんが「かゆいと言うからかゆくなる」とBさんに言った時点からみて、Bさんがかゆくなったのも、Bさんがかゆいと言ったのも、過去のことなのだ。

そして、Bさんの体験の中で語られていることと、Aさんの判断について考えると、Aさんは、Bさんが過去において、かゆいと言ったことが、Bさんが過去においてかゆくなったことと、関係があると言っているのだ。

そして、Aさんの判断を考えると、かゆいと言ったあと、かゆくなったのである。

その場合、Aさんは、かゆいと言ったということが、かゆくなったということに影響があると考えているのだ。かゆいと言った時点のほうが、かゆくなった時点よりも、さきなのだ。

とりあえず、「先・過去」の出来事が「後・過去」の状態に影響をあたえたとAさんは考えているのである。そして、「後・過去」が「現在」である場合を考えると、「先・過去」である過去の出来事が現在(後・過去)の状態に影響をあたえたと考えているのである。

だから、Aさんは、「過去は関係がない」などと考えているわけではないのだ。かゆいと言ったということが、かゆくなるというとを引き起こしていると言っているのだから、「過去は関係がある」と思っているのだ。

ともかく、Aさんは、Bさんよりも、蚊の環境においてめぐまれているのである。

蚊に関してだけ言うと、Aさんは「かゆくならない」環境のなかで暮らしているのである。

ようするに、もてる者が、もてない者に対して……「おまえがかゆくなるのは、おまえがかゆいと言うからだ」……と言っているのである。

こんなの、いいことじゃない。

ところが、精神世界のAさんは、「真理を言った」「ものすごくいいことを教えてあげた」と思っているのだ。どれだけ、話がズレているかわかるだろうか。どれだけ、まちがった前提でものを言っているかわかるだろうか。

こんなの、めぐまれた人が、めぐまれない人を、ディスっているだけなのだ。しかも、他人をディスることは、悪いことなのに、悪いことだと思っていないのだ。さらに、理論的にまちがっているのに、理論的にまちがっているということを、認めない。だから、本人は、いいことをしているつもりのままなのだ。ところが、実際には、めぐまれない人をディスっているだけだ。

このあと、たとえば、AさんがBさんに「言えば言ったことが現実化する」と言って、助言をしたつもりになったとする。これも、有害な助言で、無害な助言ではない。

けっきょく、認識がないので、自分が、相手をディスったあと、有害な解決策を言ったということが、わかっていないだけなのだ。

ようするに、自分がどういうことをしているのかということに対する認識がないのだ。

その場合、どれだけAさんが、謙虚に反省しようと思っても、反省できないということになる。だから、ここらへんは、精神世界の限界だということになる。

死んだあと、Aさんが、じつは、相手をディスっていたということに、気がつくかというと、気がつかないような感じがする。……まあ、いいよ。

けど、言霊というまちがった考え方を信じている限り、Aさんは、やはり、AさんがBさんにしたことについて反省することができないのである。

反省タイムを、Aさんがもうけたとしても、Bさんに言ったことがまちがっていたということに、思い至らないし、自分の発言がBさんにとって屈辱的な発言だったということにも、Aさんには、わからない。気がつくことができない。思い至らないのだ。

ようするに、人間は、反省できることだけ反省するということになる。

たぶんだけど、死んだあと、急にわかるようになるということもないと思う。

2025年9月5日金曜日

●一番きらいな音を、大音量で聞かされ続けたら、くるしいと感じるのだ■騒音※2025/09/05 3:57

 ヘビメタは、きらいな音楽なので、根本的に、くるしいのである。となりの部屋で、あんなにでかい音でヘビメタが鳴っていると、根本的に、くるしいのだ。「根本的にくるしい」ということを、無視するな。

「根本的にくるしい」ということを、ガン無視したやつが、えらそうなことを言う。そいつだって、自分が、この世で、一番きらいな音を、大音量で聞かされ続けたら、くるしいと感じるのだ。根本的にくるしい状態になる。

そいつらには、うちのきちがい兄貴のような家族がいないから、うちのきちがい兄貴が「普通に」やるような音で、自分のきらいな音を、聞かされなかっただけなのだ。

家族によって、自分のきらいな音を、日常的に、いつもいつも、大音響で聞かされるという生活をしなかっただけなのだ。

ところが、「自分だって苦労した」と言えば、日常的に、いつもいつも、自分のきらいな音を聞かされる生活をしたことがないのに、あたかも、日常的に、いつもいつも、自分のきらいな音を聞かされる生活をしたことことがあるという前提で、ものを言えるようになってしまうのだ。

ものを言えるようになったと誤解しているだけなのだけど、誤解している本人が、誤解しているとは思っていないので、実際に、日常的に、いつもいつも、自分のきらいな音を聞かされる生活をしたうえで、「できると言えばできる」「宿題ができると言えばできる」と言っていると思っている。

けど、そいつが、ほんとうに、きちがい兄貴が鳴らしているような音を、日常的に、いつもいつも、ずっとずっとずっと、聞かされ続けたかというと、そうではないのである。そいつは、きちがい兄貴がいない生活をしている。

だから、ちがう。ちがうのに、「自分だって苦労した」のひとことで、ちがわないと思って、発言をすることができるのだ。発言をしても問題がないと思ってしまうのだ。けど、こいつがやっていることは、ひどいことだ。

こっちは、腹がたつ。

やられたこっちは、腹がたつんだよ。

これも、こいつらが、認めないことだ。自分は、正しい発言をしていると思っている。けど、正しい発言ではないのだ。前提がまちがっている発言だ。

●「配られたカードで勝負するしかない」■社会※2025/09/05 0:37

たとえば、「配られたカードで勝負するしかない」という言葉がある。

たしかに、配られたカードでやるしかないのだけど、社会制度によって、難易度がかわってくるのである。

ようするに、外部環境によって、難易度がかわってくる。

たとえば、アタオカのくるしい社会では、九のワンペアーだと、非常な苦しみを経験するようになるのだけど、アタオカではない楽な社会では、九のワンペアでも、楽しい経験をすることができるのだ。

思霊信者は「おもいようだ」ということを言うし、引き寄せ信者は「ひきよせればいい」ということを言うのだけど、思霊思考や引き寄せ思考は、じつは、アタオカのくるしい社会を補完しているような考え方……なのだ。

ようするに、思霊思考や引き寄せ思考はよさそうに思えるかもしれないけど、じつは、思霊思考や引き寄せ思考も、アタオカのくるしい社会をつくることに、一役買っている。

アタオカのくるしい社会を維持するための社会装置になってしまっているところがある……。思霊思考や引き寄せ思考は……。

*     *     *

「非情な苦しみ」なのか、「非常な苦しみ」なのかを考えたところ、つねに非常な苦しみを経験することになるというのは、ちょっとおかしな感じもするし、つめたい態度、情がない態度ということを考えると、非情な苦しみのほうが、あっているかなと思って、そっちを一度は、使った。ほんとうは、どっちでもいい。

けど、非情な苦しみの場合、主体の問題が発生してしまうのである。これ、非情なことをしてくるのは、まわりの人間で、非情な苦しみ感じているのは、やられたほうなのだ。非情な人というように、「非情」という言葉が人を修飾している場合は、いちおう、修飾されるほうと、修飾するほうの性格が一致しているのだ。非情な苦しみの場合、苦しみを修飾しているわけで、非情だと感じる苦しみということになる……。

けど、非情なことをしてくるのは、ほかの人たちなのである。やはり、非常な苦しみと書くべきか。しかし、つねに、非常な苦しみ感じているというのは、ちょっとおかしいな。非・常であるわけだから。まあ、普通に考えれば、非常な苦しみなんだろうな。非情な苦しみじゃなくて……。

ということで、「非常な苦しみ」にしましたーー。ひどい苦しみをつねに感じることだってある。人間のつめたさを、つねに感じることだってある。

けど、非情な人たちばかりのなかで、生きていくのは、くるしいのではないか。非情な人たちは、非情なことをしてくる。非情な苦しみというのは、表現としてはおもしろいなぁ。非情なのは、苦しいからな。けど、自分が非情だから、苦しいという意味と、他人が自分に対して非情なことをしてくるから苦しいという意味がふたつとも、区別なく入ってしまう。

●言霊主義者でも、赤ちゃんに対しては、赤ちゃんだから、できないと判断してしまう■言霊※2025/09/01 7:55

たとえば、ある子どもが縄跳びの練習をしたとする。この子どものことをゼット君と呼ぶことにしよう。

ゼット君は、Aという時点で、二重まわしができないので、二重まわしの練習をした。そうたら、Bという時点で、二重まわしができるようになった。

この場合、練習をしたからできるようになったのである。まあ、特に、練習をするという意識がなくて、ちょっとやってみようと思ったら、最初はうまくいかなかったけど、できるようになったという場合だってある。

たとえば、ワイ君も、Aという時点で、二重まわしができなかったとする。

ワイ君は「二重まわしができる」と言って、二重まわしの練習をした。そうしたら、Bという時点で、二重まわしができるようになった。

この場合、「できると言ったからできるようになったのだ」と思う人が出てくる。その人は、言霊の力がワイ君をして、二重まわしができるようにさせたのだと思っているのだ。

言霊主義者は、「言えば言ったことが現実化する」ということの例として、ワイ君の二重まわしの件について、言及するかもしれない。

けど、言霊の力で、ワイ君は、二重まわしができるようになったのだろうか。ちがう。

実際、ゼット君は、「二重まわしができるようになる」と言わなかったのに、二重まわしができるようになった。ワイ君は、不幸にも、「二重まわしができる」と言ってしまったので、言霊の力で、できるようになったという、たいへん不明様なことを言われるようになったのだ。

ワイ君が、練習をしたということは、無視されてしまうのである。けど、これは、無視するべきではない。

実際、ゼット君の場合は、練習したからできるようになった」と認識されるのである。

ところが、ワイ君が「できる」と言ってしまったために、ワイ君ができるようになったのは、できると言ったからだということになってしまったのである。
もちろん、言霊主義者の頭のなかでは、そういうことになったということだ。

ところが、幼児的万能感は、だれにでもあるし、社会的に言霊理論だ正しい理論だということになっていると、普通の人まで、「ワイ君ができると言ったから、できるようになったんだ」と認識してしまうようになるのである。

実際に練習することによって、A時点における「ワイ君の内部環境」がかわったのである。

だから、B時点で、二重まわしができるようになったのである。

言霊は、関係ない。

言霊の力は、関係、ない。

言霊の力で、ワイ君が二重まわしをできるようになったのではないのだ。ワイ君の実際の「行動」が、ワイ君の内部環境をかえたのだ。
神経ネットワーク的な部分を含んだ身体能力が、「できるかどうか」を決めている。言霊の力ができるかどうかを決めているわけではない。

すでにできあがっている身体能力が、練習の量に影響をあたえる。身体的な能力の下地ができあがっていれば、わりとすぐに、二重まわしができるようになる。

たとえば、エックス君は、まだ、生後二か月だとする。当然、二重まわしはできない。二重まわしの練習をすることもできない。

エックス君の親が「二時間練習すれば、エックス君は、二重まわしができるようになる」と言ったって、エックス君は、二重まわしができるようにならない。

成長を待たなければならない。

言霊主義者は、内部環境も外部環境も無視して、「言ったか言わなかったか」を重視する。「できると言った」ということが、できるという結果につながったのだと、本気で思っている。

「言霊の力で、そうなったのだ」と、本気で思っている。

けど、そのような言霊主義者だって、生まれて二カ月しかたってない赤ちゃんが、二重まわしができるとは思わないだろう。

「 二時間練習すれば、エックス君は、二重まわしができるようになる」と言えば、エックス君は二重まわしができるようになるとは、言霊主義者だって思っていないのだ。

これは、「あたりまえだ」と思っていることに関しては、言霊思考にならないということが関係している。赤ちゃんが、二重まわしができないのはあたりまえなのだ。

身体が、二重まわしに対応していない。見ればわかる。

普段は、こういう情報を重視しているのである。重視して、『できる』とか『できない』というような判断をしているのである。

こういう認識について、語られることがないのである。どうしてかというと、言霊の説明をするときは、かならず、「環境の差」を無視するからだ。

環境に関係なく、言えばそうなると言っているのである。そして、何回も説明するけど、「言えば、言ったことが現実化する」という文は、「言えば、一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という文と、意味的に等価なのである。

これは、どんな環境でも、どんな場合でも、そうなるということを、意味している。こういう環境だとそうなるけど、こういう環境だとそうならないということを意味していないのである。
ようするに、言ってしまえば、環境に関係なく、言ったことが現実化するということを言っているのである。
しかし、現実の認知というものが成り立っている。だから、言霊主義者でも、赤ちゃんを見れば、赤ちゃんだと認知するのである。

なので、赤ちゃんには、「むりだ」と考えてしまうのである。

これは、赤ちゃんの内部環境を重視して「むりだ」と判断したということだ。たとえば、言霊主義者のCさんは、Dという赤ちゃんを前にして、Dという赤ちゃんには二重まわしは、できないと思ったのである。

その場合、言霊主義者であったとしても、内部環境を考えたということになる。言霊に関する法則性などを述べるときは、かならず、一括処理なのである。内部環境なんて考えないのである。

その人の才能、その人の身体、その人の身体的な能力……そういったものをすべて無視して、「言えば言ったことが現実化する」と言うのである。「できると言えばできる」と言うのである。

内部環境は、ガン無視している。

ところが、そのおなじ言霊主義者でも、赤ちゃんに対しては、赤ちゃんだから、できないと判断してしまうのである。こっちの判断のほうが、言霊的な判断よりも、上なのである。強いのである。

わかるかな? これ、けっこう重要なことなのだけど、言霊主義者は、重要なことだということも、無視してしまう。たぶん、「たしかにそうしている」ということを認めてしまうと、言霊に対する信仰がなくなってしまうので、無視しているということを、頑固に無視するのであろう。

赤ちゃんを見れば、赤ちゃんだとわかる。赤ちゃんが、突然立って、二重まわしをするのは、不自然なのである。不自然だと……言霊思考が成り立たないのである。言霊主義者は、例外なく、普遍的に言霊原理(言霊理論)が成り立つと言っているのだけど、実際には、その言霊主義者であっても、普通に、認知してしまうことは、普通に認知してしまう。普通に、「赤ちゃんには無理だ」と思ってしまう。

えっーー。どうして、赤ちゃんだとむりなのか。

言えば言ったことが現実化するのだから、「赤ちゃんが立って、縄跳びの二重まわしをする」と言えば、赤ちゃんが立って、縄跳びの二重まわしをするのである。どうしてかというと、言ったことが現実化するからだ。

言霊理論を重視して考えればそうなるのである。ところが、言霊主義者と言えども、むりそうなことはむりだと考えてしまうのである。

「言ったって、現実化されない」と思っているのである。

時間に対する制限はないのだ。言霊理論というのは、言ったことが現実化するということだから、言った内容に、制限はないのである。「二秒以内に、この赤ちゃんが、立って、二重まわしをする」と言えば、言っただけで、この赤ちゃんが、立って、二重まわしをするのである。

ところが、言霊主義者だって、「むりだ」と思うのである。言ったことが、現実化されないと思うのである。

だから、言霊主義者は、「いつかそうなる」という理論を展開する。これは、言い逃れだ。成長を待てば、この赤ちゃんが、いつか、二重まわしができるようになるのだから、言霊理論は正しいと、くるしい言い訳をするのである。

成長を待つ必要なんてないのである。「一秒以内に、一〇年ぶん成長する」と言えば、「一秒以内に、一〇年ぶん、成長する」のである。言霊理論が正しいとすると、そうなるのである。ところが、言霊理論は正しくないので、一〇年ぶん、成長しないのである。

実際に、一〇年の時間がすぎるのをまって、そのとき、この赤ちゃんと同一の存在が、立って、二重まわしをすればいいということにはならないのである。

それだと、言ったのに、言った内容が、現実化されないということになってしまうのである。「一秒以内に、一〇年ぶん、成長する」と言ったら、「一秒以内に、一〇年ぶん、成長する」のである。それ以外は、ない。言霊理論が正しいなら、そうなる。

*     *     *

言霊主義者は、妄想をしているだけなのである。本人にとって、妄想の内容が不自然だと思ったら、妄想の内容は、言っても、現実化しないと思っているのである。

*     *     *

たとえば、言霊主義者ではないエスさんが、言霊主義者であるティーさんに、ゼット君が、「二重廻しができる」と言ったあと、練習をしたら、二重廻しができるようになったと、言ったとする。エスさんは、ティーさんに対して、嘘をついたのだ。

その場合、ティーさんは、「言ったから、できるようになった」と確信するだろう。「二重廻しができると言ったから、二重廻しができるようになったのだ」と確信するだろう。ところが、これは、エスさんが言った嘘なのである。ほんとうは、ゼット君は、「二重廻しができる」と言わなかった。言わなかったのに、練習をしたら、二重廻しができるようになった。

だから、ゼット君の場合は、言霊が関与していないということがあきらかなのである。言霊の力が、ゼット君の練習に、ほんのちょっとでもかかわるということがないのである。

だから、ティーさんは、勝手に、言霊のおかげで、ゼット君は、二重まわしができるようになったと思っただけなのだ。

エスさんが嘘をついた。ゼット君は言わなかった。

だから、ゼット君が二重まわしをできるようになったということについて、言霊の力は一切合切かかわっていない。なので、この場合、言霊主義者が勝手に、誤解をしているだけだということが、あきらかだ。

ゼット君は言わなかった。言霊主義者が「言ったからそうなった」と勘違いして思っているだけなのだ。

ようするに、言霊なんてものは、言霊主義者の頭の中にしかないものなんだよ。言霊の力は、言霊主義者の頭のなかでは、実在して、効力を発揮するものなのだけど、現実世界では、存在しないし、効力を発揮しない。

言葉の力が効力を発揮することはあるよ。けど、それは、言霊の力ではなくて、言葉の力だ。これも、トリックなんだよ。トリック。

●物理世界の物理的な行動なのである■言霊※2025/09/01 1:21

たとえば、おカネがないから、あることができなかったとする。

その状態では「できない」という判断はまちがっていないとする。そのあと、クラウドファンディングというものを知って、出資者をつのったら、おカネが集まり、あることができるようになったとする。

この場合、「状態」がかわったのである。

「条件」がかわったのである。

出資者をつのるという行為によって、条件がかわったのである。だから、条件がかわったので、できるようになったのである。

「できる」と言ったから、言霊の力によって、できるようになったのではない。「できない」と言うから、もともと、できたことが、できないことになったのではないのである。

Aさんが、クラウドファンディングに興味がないとき、「できない」と言ったとする。そのあと、Aさんが、出資者をつのってできるようにした。Aさんが「できない」と言った時点と、Aさんが出資者をつのった時点では、状態がちがうのだ。

条件がちがう。時間も経過した。できるかどうかの判断は、そのときのその人の判断だ。

だから、できないことをできると言う場合と、できないことをできないと言う場合と、できることをできると言う場合と、できることをできないと言う場合にわかれる。

人の判断は、それぞれだ。

しかし、どんな場合でも、言ったことによって、言霊の力によって、状態がかわかることはない。言ったことによって、言葉の力で、人の気持ちがかわる場合はある。この場合は、言霊の力でかわったわけではない。

どこかに、言霊の神様がいて、言っただけで、願いをかなえたわけではないのだ。

身体を使って、状態をかえるように行動したのである。その行動というのは、言霊の力に頼ったものではなくて、物理世界の物理的な行動なのである。

*     *     * 

「できるできる」と言って、行動をしていたら、できるようになったとする。

「だから、できるできる」という言葉には、言霊が宿っていて、その言霊の力によってできるようになったのだ」という認識は完全に、まちがっている。

 「できるできる」と言って、行動をしていたら、できるようになる場合はある。

しかし、だからといって、言霊主義者のように「言えば、言ったことが現実化する」と考えるのは、まちがいなのである。その時点で一〇〇%詐欺をしている。自覚がない場合は、自分で自分をだましたことになる。

さらに言えば、言霊があるという文脈の中で、言霊主義者が「言えば、言ったことが現実化する」と言った場合、「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」ということを言っているのである。

「言えば、言ったことが現実化する」という文のなかには言霊という言葉がはいっていないので、言霊とは関係がない話かというと、そうではないのである。言霊があることが前提で、言霊の力によって、言った内容が現実化されるという意味になるのである。

言霊主義者が言っていることはそういうことなので、「言霊の力によって」という部分を省略した場合でも、「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」という意味になってしまうのである。

しかし、たしかに、「言えば、言ったことが現実化する」という文と、「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」という文の意味はことなるのである。ここにヒッカケがある。これは、ヒッカケだ。

言霊主義者は、「言えば、言ったことが現実化する」という文に「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」という意味を込めて、「言えば、言ったことが現実化する」と言っているのである。これは、わりと、重要なことだ。

2025年9月3日水曜日

●これ自体が、社会にネガティブな影響をあたえている■言霊※2025/09/03 2:50

ポジティブなことを言うと、ポジティブなことが起こり、ネガティブなことを言うと、ネガティブなことが起こる……ということになっている。これが、常識になってしまっている。

しかし、これは、「下の立場の人」に、いやなことをおしつけるための、便利な言葉だ。だれが上の立場で、だれが下の立場なのかということを考えなければならないのである。

上の人が、ポジティブなことを言うと、下の人が、ネガティブな仕事をおしつけられることがある。そういう場合だってある。その場合、下の人にとっては、ストレスがたまる「ネガティブなことが起こった」ということになるのである。

ところが、言霊主義者や「なんとなく」言霊主義的な思考になれている人は、立場なんて、無視するのである。言霊主義者や「なんとなく」言霊主義的な思考になれている人は、立場、環境、状況を無視するのである。

そして、一〇〇%詐欺をして、「ポジティブなことを言うと、ポジティブなことが起こり、ネガティブなことを言うと、ネガティブなことが起こる」と言うのである。

これ自体が、社会にネガティブな影響をあたえている。

こんな、悪いことが成り立っているなんて、よくないだろ。よくないから、ネガティブだ。

●ブラック社長にしたって、できないことはできないのである■言霊※2025/09/02 6:48

「むりだと言うから、むりなんだ」「できると言えばできる」という発言について考えてみよう。

むりだと言うから、むりなのだろうか?

そんなことはない。

むりだと言っている人は、いろいろな状況から考えて、むりだと思っているから、むりだと言っているだけだ。判断の結果を言ったにすぎないのである。

「むりだと言うから、むりなんだ」の「から」に注目してみよう。

「原因」は「むりだと言ったことにあるということ」を言っているのである。

これは、もともとはむりではないことが、「むりだ」と言うことによって、むりなことになったということだ。

おかしいだろ。判断について述べただけだ。

たとえば、「死者をよみがえらさせることなんかむりだよ」とだれかが言ったとする。もともと、死者をよみがえらせることができるのに、その人が「死者をよみがえらさせることなんかむりだよ」と言った「から」むりなことになったと考えるようなものなのである。

こういう主張なのである。

たとえば、「瞬間移動することなんてむりだ」とだれかが言ったとする。

ほんとうは、瞬間移動できるのに、「瞬間することなんてむりだ」とだれかが言った「から」瞬間移動がむりなことになったということを考えているのである。「むりだと言うから、むりなのだ」と言う人は、そのように考えているのである。

「むりだと言うから、むりなのだ」という発言には、そういう気持が、こめられているのである。

じゃあ、瞬間移動することができるかとというとできないのである。

言霊主義者が、どれだけ熱心に「瞬間移動する」と言ったって、瞬間移動しないのである。「できると言えばできる」と言ったって、できないのである。

「わたしは瞬間移動することができる」と言えば、瞬間移動することができるようになるのかというと、ならない。言霊主義者だって、そんなことは知っている。

けど、自分以外の人にある作業をやらせたいときは、「できると言えばできる」と言うのである。「できないと言うから、できない」と言うのである。「むりだと言うからむりなんだ」と言うのである。人に、やらせたいから……。

人を自分が思った通りに動かしたいから。

そして、どうして、人を自分が思った通りに動かしたいかというと、本人にそういう「欲望」があるからなのだ。

ブラック社長は、無料の労働力がほしいのである。

だから「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」と言うのである。何度も言うけど、ブラック社長にしたって、できないことはできないのである。

普段、自分が一倍速で経験していることに関しては、現実的な方法を模索しているのである。言霊主義者であるブラック社長だって、模索しているのである。

たとえば、「おカネが出てくる」と言っておカネを儲けるのではなくて、会社をおこして、従業員を安く働かせるということで、おカネを儲けようとしているのである。

従業員を働かせると書いたけど、ブラック社長は、できれば、従業員を無料で働かせたいのである。

「できないと言うから、できない」というのは、たぶん「できないと言うからできないことになる」ということだと思う。

できないと言うから、できることが、できないことになったのである。だから、できると言えば、できないことになったことが、できることになるのである。

へんだろ。おかしいだろ。

もともと、できることを「できない」と言うことで、「できないことにしてしまった」というニュアンスが出るのだ。そういう印象が付与される。

けど、ブラック社長だって、死人をよみがえらせることはできないし、瞬間移動もできない。

瞬間移動ができないのは、「できない」と言うから、できないのか?

もともと、瞬間移動することができないので、瞬間移動することはできないと(言霊主義者ではない人が)言っただけだ。

たとえば、言霊主義者ではないAさんが「瞬間移動することはできない」と言ったとする。Aさんの判断では、瞬間移動することはできないことなのである。

だから、「瞬間移動することはできない」と言ったのだ。

ところが、Aさんが、瞬間移動することはできないと言ったから、瞬間移動することができなくなったという印象をあたえようとするのが、言霊主義者なのだ。

印象操作だ。

「できないと言うから、できない」という言葉は、そういう印象をあたえるのである。

実際、言霊主義者は、「できないと言うから、できることができなくなった」と思って、そう言っているのである。つまり、「できない」と言うことによって、「できないことになったのだ」と言霊主義者は考えているのである。

だから、「できないことでも、できると言えば、できることになる」のである。これが、言霊主義者の妄想思考だ。

こんなの、頭がおかしいレベルだぞ。

どうしてこんなことが、まかりとおっているのか?

どうしてかというと、ひとつは、幼児的万能感をだれもがもっているからなのだ。

だれもがもっている幼児的万能感を、悪い人に利用されたのである。悪魔の手下の手下にそそのかされて、言霊教祖が、人を洗脳しているのである。言霊教祖は、知ってか知らずか、悪魔の協力者なのである。

*     *     *

ネガティブな発言をする人が、できることをできないことにしてしまうのだという印象をつくりだすのである。世の中の言霊教祖や言霊教徒は、そういう印象をつくりだそうとしているのである。

ネガティブなやつが、ネガティブな発言をしたから、ネガティブな結果が出てきたのだということにするのである。

「できない」という合理的な判断をした人は、ネガティブな発言をした悪い人になってしまうのだ。こういうしくみができあがっている。

そうすると、普通の人は、ネガティブなことを言えなくなってしまう。

たとえ、「できる」という判断がまちがっているとしても「できない」と言ってしまうと、「できない」と言ったことによって、できないことになってしまうので、「できない」というネガティブな発言をすることができなくなってしまう。

それから、言霊理論はまちがっているのだけど、まちがっているというネガティブな発言をすることもよくないことだということになってしまう。

「まちがっている」という言葉はネガティブな言葉だから、言えなくなってしまうのである。

ほんとうに、まちがっているのに、まちがっていると言うと、言霊主義者がめちゃくちゃに、ネガティブな反応をしてくるから、「まちがっている」と言いにくくなってしまう。

「単純なのが正しい」「言霊は絶対に正しい」「理屈じゃねーーんだよ」と言って、言霊理論は、理論的にまちがっているのではないかという発現を、封じてしまう。

「正しい」というのが、ポジティブで、「まちがっている」と言うことは、ネガティブなことなのだ。ネガティブなことを言うのは、悪いことだから、言霊理論が理論的にまちがっているということを指摘したやつが悪いということになってしまう。

言霊主義者の頭の中では、そうなってしまう。

ネガティブかポジティブかということが、正しいかまちがっているかを決めてしまうのである。これは、おそろしいことだぞ。

たとえ、合理的な判断でも、「ネガティブだ」というレッテルを貼れば、まちがった判断だということになってしまうのである。こういうことを利用して、うまいこと、労働者を使っているのが、世の中の、言霊を利用している経営者なのである。

2025年9月2日火曜日

●みんな、ヘビメタの負荷がわかっていない■騒音※2025/09/02 22:49

みんな、ヘビメタの負荷がわかっていない。ヘビメタの負荷が一キロぐらいだと思っているのだ……。重さでたとえるなら一キロぐらいだと思っている。

で、自分の負荷は、一・四キロぐらいだと思っている。だから、俺だって、重いと言う。俺だって動きにくいという。けど、ヘビメタ騒音の負荷は二〇〇キロぐらいある。重さでたとえるならの話だ。

だから、家に帰って、必死になって「やめてくれ」「このままだと、明日、学校でこまる」ということを言ったって、きちがい兄貴が、きちがいだから、まったくやめない。きちがい兄貴は、負荷がゼロだと思っているやつだ。

どれだけやったって、俺に影響がないのである。

けど、きちがいでなければ、あんな音で鳴らさない。きちがいでなければ、弟がこまるということがわかる。どれだけ、説明をされても、弟がこまるということがわからない。

自分の「よその家では絶対に鳴らせないような」でかい騒音で、弟がこまっているということが、わからない。どれだけ弟が説明したって、わからない。

これ、頭がぶっ飛んでいるのである。悪いけど、普通の人の家にいる親兄弟(家族)なら、絶対にわかることなんだよ。

けど、自分がやりたいから、わからなくなってまう。なにを言われたって、自分が文句を言われたということしかわからない状態になっている。

そして、自分が文句を言われれば、内容に関係なく、憤慨するのである。なんだろうが、自分の意地を押し通そうとするのである。ゆずる気なんて、まったくないのである。

まったく問題がないことをやって、文句を言われているような感じになってしまう。問題があることをやっているのに、それがわからない。

普通の人が、うるさくする場合は、うるさくしているということ自体は、ある程度、わかっている。きちがい兄貴は、きちがいだからまったくわかっていない。

きちがい兄貴の場合、自分が思った通りにやりたいという気持が強いので、ほかのことは、無意識的なレベルで無視してしまう。無意識的なレベルで無視したということは、意識にのぼらないので、無意識的なレベルで無視したということも、頑固にわからない状態になっている。

この態度は、相手にとってムカつくものなのである。つまり、ぼくにとって、兄貴のこの「つきぬけた」態度はむかつくものなのである。

こんなのない。道理がとおっていない。

ところが、精神世界の人は、「受け止め方をかえればいい」とか「相手をかえることはできないので、自分がかわればいい」と言うのだ。そのくせ、「言霊理論はまちがっている」ということを言われたら、受け止め方をかえず、自分をかえようとせず、憤慨してしまう。

兄貴よりは、憤慨していないけど、それでも、憤慨してしまう。エイリさんに対して、負の感情が生まれるのである。

それで、精神世界だなんだと言っている。これ、言霊理論がまちがっているということを、エイリが言ったということに関して、相当に、ネガティブな感情を抱くのである。

「なんだこんにゃろう」「言ったことが現実化する」「これが正しい」「へんなことを言うな」と思って、エイリのことがきらいになるのである。意地悪なことができるなら、意地悪なことをしてやろうと思うのである。嫌味が言える機会があったら、嫌味を言ってやろうと思うようになるのである。

まあ、精神世界の人のことは、ちょっと棚の上に置いておこう。

あーー。けど、精神世界の人の態度と、普通の人の態度は、似ている。おなじようなものなのである。

*     *     *

ほんとうに、俺の人生はなんなんだ。きちがい兄貴が、きちがい的な基準で、毎日毎日、きちがい騒音を鳴らしたので、俺が、こまった。ほかの人は、きちがい的な基準がわかっていないし、実際に、きちがい的な基準で鳴らされ続け丈ではないので、軽いことだと考えてしまう。

けど、重いことなのだ。どうすることもできないことなのだ。

対処しようとしてがんばると、それが、ストレスになって様々な症状をうみだしてしまう。症状に対する理解なんて、ほかの人にはないんだよ。

*     *     *

精神世界の人は、「道理」を無視して、「むりなこと」を言う。

けど、「むりなことを言っているつもりがない」し、「むりなことだとは思っていない」のである。こんなの、きちがい家族による騒音生活をしたことがないから、そう思っているだけなのに、「自分ならできる」と思っているのだ。

こっちが「むりなことを言うな」と言っても、あっちは「むりじゃない」と言って、これまたきちがい理論をふりまわすのだ。やられてないからわかっていないだけ……。自分が一倍速で経験したら、むりだということがわかることなんだよ。

けど、そいつらのまわりには、ドハズレな基準をもったきちがい的な騒音にこだわる人……こだわってこだわって騒音を鳴らしづける家族がいないから、わからないんだよ。 

「道理」を無視しているのは、精神世界の人たちなんだよ。 

*     *     *

しかし、俺の人生は、いったい、なんだったんだ。あのひどさがわかっていないやつらに、ひどいことを言われる。まあ、それもあるけど、やられた時点でおしまいだったんだな。どれだけ、「鳴らすな」と言っても、鳴らしていた。鳴らされている時間が長かった。鳴らされている時間の影響というのは、鳴らされていない時間にまでおよぶ。けど、ほかの人は、これがわからない。鳴らされているときだけ、つらいのだと思ってしまう。鳴らされているときの影響は、鳴らされていないときは、ないと思ってしまう。あるいは、無視できるほど小さいものだと思ってしまう。「そんなのは気の持ちようだ」と思ってしまう。ところが、ちがうんだよ。実際に、あの生活を経験したことがない人は「そんなのは気の持ちようだ」と思ってしまう。そう、決めつけてしまう。「自分なら、お兄さんをしずかさせさることができた。そんなのは、自己責任だ」と思ってしまう。 そんなのは気の持ちようだ」と思っている人は、実際やられたことがないので、『影響』を過小評価している。けど、兄貴が、「でかい音で鳴らしている」ということを認めないように、「影響を過小評価している」ということを、彼らは、認めないのだ。過小評価……している。これは、まちがいがない。こっちから見れば、一目瞭然で、わかりきったことなのだけど、あいつらにしてみれば「そんなのは関係がない」と思えることなんだよ。

2025年9月1日月曜日

●あの生活が、どういうものか、ぜんぜんわかってない■騒音※2025/09/01 23:02

ヘビメタ騒音がひどかった。ヘビメタ騒音生活がひどかった。

どうしても、どうしても、どうしても、ヘビメタ騒音が鳴っていないときの、日常生活に影響をあたえる。

これがわかっていないということは、同質、同等の苦労をしていないということなのだ。

みんな「俺だって苦労した」と言う。

けど、会社に通勤することができて、なおかつ、普通に旅行に行くぐらいの体力がある。そんなレベルのからだを維持して「俺だって、苦労した」「俺だって、騒音ぐらいあった」というのは、失礼なことなのである。

けど、みんな……ほんとうに、みんな……失礼なことだと思っていないのだ。「なんだ、こんにゃろう」というよう態度だ。なめているのである。

どうして、なめられるかというと、ヘビメタ騒音で、普通に通勤できないからだになっていたからだ。みんな、みんな……ほんとうに、みんな……「自分だって苦労した」と言うけど、俺が言っていることがわからないのであれば、同質・同等の苦労をしていないということになる。

勝手なことを言うな。

おまえが、わかっていないだけだ。

必然的に「こうなる」ということがわかってないだけだろ。

どれだけ必死になって、がんばっても、必然的に、こうなる。つまり、ぼくのような体になる。通勤通学できない体になる。どれだけがんばっても、がんばっても、日常生活に、でかいでかいでかい、影響が出る。どれだけがんばっても、日常生活にでかいでかいでかい影響が出るということがわかっていないということが、同質・同等の苦労をしていないということの証拠なのである。

影響の範囲のでかさ、影響の深さがわかっていないのである。どれだけ続くことか、わかっていないのである。「楽しい楽しい」と言っただけで楽しく感じるようなメンタルなんて維持できるわけがないだろ。

そこもわかっていないということは、わかっていないということになのである。

ともかく、こいつらは、失礼なやつらだ、失礼すぎる。ほんとうに、ぶんなぐってやりたい。

あの騒音生活が、どういうものか、ぜんぜんわかってない。

あの生活が、どういうものか、ぜんぜんわかってない。

影響をあたえるということが、わかってない。

ほんとうに、すべてに影響をあたえる。

それから、まるで、努力していないような言い方になっているけど、努力の結果、症状がしょうじたのである。やられている期間中、ずっとずっとずっと、努力し続けてきた。やられた期間のあと、ずっとずっとずっと、努力し続けてきた。まるで、わかってない。

こいつら、まるで、俺がさぼっていたと思っているんだよな。ほんとうに、なめくさりやがって。ほんとうにゆるせない。ゆるさない。こいつらの、くそ理解。なめくさった理解。努力していないわけがないだろ。 

●「これこれこういうものができあがる」■言霊※2025/08/30 19:42

たとえば、若い女性社員の上司が、若い女性社員になんかの成果物を要求したとする。

言霊理論が正しければ、上司が「こういうものができあがる」と言えば、それで、すんじゃうんだよ。

「一秒以内に、理想通りの成果物ができあがる」と、ひとこと、言えば、それで、理想通りの成果物ができあがるので、それで、すむ。

ところが、言っただけでは、成果物なんてできあがらない。

だから、部下である女性社員に「これこれ、こういうものをつくれ」と命令する。命令通りに、女性社員が「これこれ、こういうものをつくった」とする。女性社員も、言霊理論が正しければ、言っただけで「これこ、こういうものをつくる」ことができるのだ。

けど、言っただけだと、言っただけになってしまう。女性社員が「これこれこういうものが、できあがる」と言ったとしよう。

言霊理論が正しければ、これこれこういうものが、できあがるのである。

ところが、言霊の「魔法の力」なんてないから、できあがらないのである。

だから、女性社員は、上司が言った意図をくみとって、自分なりに「これこれこういうもの」をつくろうとする。実際に、女性社員が、自分のからだを動かしてつくらないと、つくることができないのだ。

これだけで、もう、言霊理論がまちがっているということが、証明できる。

「言えば、言ったことが、現実化する」というのは、「一〇〇%の言ったことが、言霊の力によって、一〇〇%の確率で、現実化する」ということだから、言っただけで、これこれこういうものが、できあがらなければならない。

ところが、みんな、そんな、魔法は使えない。

使えないのである。

言霊の「魔法」は使えない。

使えないから、自分のカラダを動かして、「これこれこういうもの」をつくらなければならないのである。そして、女性社員が、「これこれこういうもの」をつくったとする。

そして、上司に提出したとする。

そうすると、上司が、「これじゃない」と言うのである。これは、自分が要求した「これこれこういうもの」じゃないと言うのだ。だから、女性社員は、また、つくりなおさなければならなくなる。

こんなことは、言霊理論が正しいなら、起こらない。

そもそも、女性社員は、そんな仕事をする必要がない。

上司が、「これこれこういうもの」ができあがるとひとこと言ってしまえば、それで、実際に「これこれこういうもの」ができあがるからだ。

その成果物が、上司に提出するだけの成果物でなくて、クライアントにじかに渡す成果物だったとしよう。その場合、じつは、クライアントが「これこれこういうものができあがる」と言えば、それで、できあがってしまうので、上司の仕事もない。

みんな、だれでも「これこれこういうものができあがる」と言えば、言った通りのものができあがるので、特に、企業が製品をつくる必要がない。

「できるできる」と言って、一所懸命になって商品をつくる必要なんてないのだ。

言ったあと、努力してつくらなければならないのであれば、言霊理論は、正しくないということになる。言っただけで、できあがるからだ。

以上のようなことを考えると、そもそも、上司が「できると言えばできる」と説教していること自体が、おかしいのだ。

*     *     *

言霊主義者である「ブラック社長」が、名前だけ店長に、サービス残業をさせるとき「できると言えばできる」と言って、サービス残業をおしつけているけど、それも、本来は、必要がないことだ。

ブラック社長が、名前だけ店長がやる仕事の内容を、「こういうふうになる」と、ひとこと、言ってしまえば、それで、「こういうふうになる」からだ。

ならないのであれば、言霊理論がちがっているのである。もう、言わせないでよ。

だいたい、ブラック社長が、社員の労働力を不当に搾取しようとするのは、おカネがほしいからなんだよ。ブラック社長が、どれだけ、「世のため人のため」に会社をおこしたと言っても、ほんとうは、ブラック社長は、カネがほしいだけなんだぞ。

そして、人のことは、どうでもいいから、サービス残業を人におしつけようとするんだよ。

カネがほしいだけなんだよ。

言霊理論が正しいなら、「おカネが出てくる」と言えば、おカネが出てくるんだよ。一兆円でも、一京円でも、言えば、言っただけの金額が出てくるんだよ。

けど、言っただけでは、言っただけになってしまうので、会社をおこして、おカネを儲ける必要があるんだよ。

*     *     *

言霊主義者のなかには、詐欺的な情報商材で儲けた人を、いい人だと崇拝している人がいる。

言霊理論が正しければ、詐欺的な情報商材なんてつくらなくても、「おカネが出てくる」とひとこと言えば、おカネが出てくるんだよ。

詐欺的な情報商材で儲けたということを知らなければ、おカネがないところからスタートして、莫大なおカネを儲けることができた「いい人」だということになる。

たとえば、詐欺的な情報商材をつくった人がAさんだとする。ある言霊主義者がBさんだとする。

そうすると、Bさんが、Aさんのことを「自由な発想ができるすごい人だ」とほめたりするのである。Bさんは、じつは、Aさんがどうやって、カネを儲けたのか、ほんとうはよく知らないのだ。「風の時代だから、自由な人が活躍できるようになる」などと言うのだ。

いやーー。知らないだけだと思うけど、Aさんは、詐欺的な情報商材で儲けただけなんだよ。

Aさんが詐欺的な情報商材で儲けなければならなくなったのも、言っただけでは、言っただけになってしまうからだ。

言霊理論が正しいなら、「おカネが出てくる」と言えば、おカネが出てくる。

別に、詐欺的な情報商材をつくって、人に売らなくても、カネなんていくらでも出てくる。

だから、実際に、詐欺的な情報商材を「がんばってがんばって」つくるということをしなくてもいいのだ。つくった詐欺的な情報商材を「がんばってがんばって」売らなくてもいいのだ。

*     *     * 

企業が、企業の活動をしている時点で、言霊理論が現実的ではないということを意味しているのである。

言えば、言ったことが現実化するのだから、みんな、言うことで、自分の願いをかなえている。

ほしいものは、なんだって、言えば手に入るのだ。

「一秒以内に、これこれこういうものが手に入る」と言えば、手に入るのだ。手に入るという表現が問題なのであれば、「一秒以内に、これこれこういうものが、自分の前にあらわれる」と言えばいい。理想通りのものが、自分の前にあらわれる。

「自分に、あらわれたものの所有権がある」と言えば、自分にあらわれたものの所有権があることになるので、自由に使っていいということになる。別に、企業にものをつくってもらう必要なんてない。

ほしいものを、言えば、それで、ほしいものが手に入る。「一秒以内にあらわれる」と言えば、一秒以内にあらわれる。

*     *     * 

どうして、言霊主義者は、働いているのか?

世のため、人のためか?

いや、おカネのためでしょ。おカネがほしいから、働いているんでしょ。

そして、ほんとうに、世のため人のためなのであれば、世のため人のために、言えば、すべての問題を解決することができるのだ。

「一秒以内に、すべての人の悩みが解決する」と言えば、すべての人の悩みが一秒以内に解決してしまうのである。

そして、なにも、言霊主義者だけがその能力をもっているわげはないのである。

ほとんど、すべての人が、その能力をもっている……ということになっている。

しゃべれない人に関しても、だれがしゃべれる人が「すべてのしゃべれない人がしゃべれるようになる」と言えば、言っただけで、すべてのしゃべれない人がしゃべれるようになるのである。

だから、そのあとなら、すべての人が、言霊の魔法を使えるようになる。

だったら、もう、企業で働く必要なんてないのである。お金をかせぐために働く必要なんないのである。

言霊主義者が、働いている時点で、おかしいのである。

言霊主義者が働いているなら、その言霊主義者は、「言ったって、言ったことが現実化するわけじゃない」と思っているから、働いているのである。

「こういうものが、できあがる」と言っても、言っただけでは、できあがらないので、自分のカラダを動かして、「こういうもの」という言葉で表現されたものをつくっているのである。

言霊主義者だけではなくて、みんなそうなのである。

なので、言霊主義者だけではなく、みんながみんな、ほんとうは、「言ったって、言ったことが現実化するわけじゃない」と思って行動しているのである。言霊の魔法は、使えないのである。

みんな、言霊の魔法を使えない。

だから、実際に動く必要がある。

言っただけで、そうなるなら、だれも苦労しない。

ところが、「言っただけで、そうなるんだ」ということを言うやつらがいるのである。言霊主義者だ……。嘘を言っている。しかも、嘘を言っているつもりがない。

*     *     *

ようするに、人が働いたり、企業がものをつくっているのは、言霊理論が正しくないということを、証明しているようなものなのだよ。

「言ったことが、言霊の力によって、現実化されない」ので、人が、働いているんだよ。おカネを儲けるためにね……。

企業が商品というものをつくっているわけだけど、これなんかも、言っただけで出てくるものであれば、つくる必要がないわけ。

だって、そうだろ。言っただけで、出てくるんだから。

個人が、個人的にほしいと思ったら、ほしいと思った時点で「これこれが、出てくる」と言えばいい。そうすると、言った内容が、言霊の力によって、現実化されるので、実際に出てくるということになる。

実際には、言った内容が、言霊の力によって、現実化されることがないから、わざわざ、買うのだ。

企業の商品を買う。

言った内容が、言霊の力によって現実化されるなら、言えば、出てくるということになる。

ほしいものは、なんでも、手に入る。手に入らないわけがない。ものだけじゃない。恋人や結婚相手だって、言えば、出てくる。言った内容が、言霊の力によって、現実化されるので、出てくるのである。

それ以外ではないのである。

もし、言霊理論が正しいのであれば、言った内容が、言霊の力によって、現実化されるので、出てくる。理想の相手と結婚して、理想の相手と、理想の結婚生活ができるのだ。もし、それをのぞむのであれば……。のぞむのであれば、言ってしまえばいい。

言ったら、言った言葉に宿っている言霊の力が、それを現実化してくれる。

そうでなければならない。

そうなると、いまの生活とは、だいぶちがった生活をしているというとになるのだ。

ところが、いまの生活というのは、たとえば、ブラック企業に務めて、くるしい労働をして、対価としておカネを得るという生活だ。そうするしかないと思っているから、そうしているのだ。

そして、「できると言えばできる」と言われて、サービス残業をおしつけられるのである。したがうかどうかは別にして、そんなふうな生活をしている。

言えば言った内容がかなう生活とは、だいぶちがうじゃないか。

「だいぶちがう」と思わないのか?

実際は、働いて生活にしているのに、「言えば言った通りになる」「言えば、言ったことが現実化する」という夢物語を信じているのか?

なんで、働いているんだ?

働いていないとしても、まったくおなじだ。言っただけで、自分の思い通りになる生活をしていないのだ。言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化されるのだから、もちろん、言えば、言っただけで、自分が思い通りの生活ができるということになる。

言えば、いいわけだから。

自分の思い通りの生活を手に入れるには、自分の思い通りの生活について、言えばいい。言及すればいい。「こんなふうな生活になる」と、ひとこと、言えば、その通りになる。

ならないのであれば、言霊理論がまちがっているということなのである。

「できると言えばできる」「できないと言うからできない(ことになる)」……。アホらしい。

なんで、そんなことを信じている人が多いのか?

おかしいとは思わないのか?

これは、まあ、最初の一〇〇%詐欺にやられているんだよ。いろいろな、罠がしかけられているんだよ。罠にひっかかったから、「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化される」という妄想を信じているだけなんだよ。

妄想ファンタジーを信じているだけなんだよ。

いろいろなトリックにひっかかって、妄想を真実だと思っているだけなんだよ。妄想を、真理だと思っているだけなんだよ。妄想だと気がつかないように、洗脳しているんだよ。妄想だと気がつかないように、洗脳されだけなんだよーー。 

2025年8月30日土曜日

● 特殊な環境をもっている人は、特殊な環境をもっている■環境2025/08/30 19:44

特殊な環境をもっている人は、特殊な環境をもっているので、自分の環境について、普通の人に理解を求めることができなくなる。

普通の人は普通の人の環境のなかにいる。

そうなると、どうしても、自分の環境で体験したことをもとに、環境について考えるということになる。ここで言う環境というのは、条件の束のことなので、相手の環境について考えるとき、自分の環境を基準して考えるということだ。

条件の悪さは、聞いたこととして理解できるけど、それは、聞いた話として理解しているだけだ。自分のことではないので、切迫感も切実さもないのである。

そうなると、たとえば「苦労」と言った単語にどう反応するかのゲームみたいなものになってしまう。

相手の立場を考えるということは、じつは、言霊主義者だけではなくて、普通の人も苦手なのだ。エンパスでない限り、相手の立場について考えるということ自体が、苦手な人が多い。

言霊主義者の場合は「言ったことが現実化する」という特殊な考え方をもっているので、そのフィルターを通して、相手の言っていることを理解するということになる。

普通の人には、この特殊なフィルターである『言霊主義フィルター』はないのだけど、普通の人は、言霊主義者よりも、たしょうは、相手の立場になって考えることができるというレベルの差しかない。普通の人の理解レベルは、言霊主義者に毛が生えた(はえた)程度のレベルだ。

そして、普通の人は、言霊主義フィルターをもっていなくても、『努力論フィルター』をもっている場合が多い。などがある場合が多い。

特殊な悪い家族にかこまれて住んでいる場合、特殊な悪い家族に囲まれて住んでいない人には、特殊な悪い家族に囲まれているからこそ発生してしまう問題は、理解しにくいということになる。

そりゃ、自分の場合は、ちがうのだから、「そんなのは、どうでもいい」ということになってしまう。言霊主義フィルターをもっているものは、「言えば解決する」と言い努力論フィルターをもっているものは、「どんな環境での、努力すれば解決する」と言うのだ。

ところが、言っても解決しないし、努力しても解決しないのだ。そもそも、努力することができない環境をもっている人は、努力できない。

しかし、努力論者は、努力することができないということを認めないのである。

努力論者によれば、どんな環境だって、努力はできるのである。努力論者にとって、「努力ができない」と言うことは、あまえなのである。

言霊フィルターと努力論フィルターをもっている人は「努力できないなんてことはない。できるといえばできる」と言って、努力することができない環境というものを無視してしまう。

そして、努力なり、言うことで、解決できると決めつけてしまうのだ。しかし、言うことでも、努力することでも解決できない問題はある。そういう問題を多く生み出す環境がある。

●自殺した人を追いつめた人が言っていることとおなじなのだ■言霊※2025/08/30 9:07

相手が自殺した場合であって、なおかつ、権威のある報道機関が報道した場合であって、なおかつ、生前の相手と「自分」のあいだに一切合切の関係がない場合は、言霊主義者も、言霊思考に陥らないわけか。

けど、こんなに条件がそろうのは、まれだろう。これは、ぼくの想像にすぎないけど、たぶん、生前の相手が、言霊主義者に、相談をしたら、言霊主義者は、言霊的な提案をすると思う。

その言霊的な提案というのが、まさしく、自殺した人を追いつめた人が言っていることとおなじなのだ。

しかも、たとえば、自殺した人の記事を読んでいるときは、言霊主義者といえども、言霊思考に陥らないのだけど、言霊主義者本人には、言霊思考に陥っていないという自覚がないのだ。

そして、現実の相手には……言霊的な対応をしてしまうのだ。

ようするに、一時的に、新聞記事や週刊誌を読んでいるときは、言霊思考に陥らないのだけど、それは、言霊主義者が言霊思考のまちがいに気がついて、言霊思考をしないようにしようと思ったということではないのだ。

一時的に、言霊思考をしない状態になるけど、すぐに、言霊思考をする状態になってしまう。

基本、自分が一倍速で経験したことに関しては、言霊思考をしないことになっている。自分のことなのに、言霊思考をする場合は、「願望」「希望」「夢」「欲」がからんでいる場合にかぎられる。他人のことだと、他人のことは「かくるみて」しまうので、言霊思考になる。

他人のことと書いたけど、特に、他人の「困難」「苦労」「悩み」などについて考える場合は、言霊主義者は、画一的で単純な理解しかしない傾向がある。

しかし、相手が自殺をして、それが記事になっている場合は、記事を書いた人間の目を一度通した記述を読むので、相手の状況について、理解が深まるのである。

まあ、たぶん、自殺をしたというのが、決定的なんだろうな。

自殺をしたということは、それ相応の苦労をしたということを、高確率で、明示している。なかには、本人も、なんで自殺したかわからないような感じの人もいるかもしれない。こういう、レアなケースについては、ここでは、考えないこととする。

すでに自殺している場合であって、なおかつ、報道機関が報道している場合は、言霊主義者といえども、言霊思考に陥らず、相手のことを考えることができるのか?

やっかいだな。

相手が自殺をしていない状態だと、途端に、言霊思考になり、言霊的な決めつけをしてしまう。言霊主義者にとっては、相手が言っていることは「そういうこと」でしかないのだ。

言霊的な解決方法というのは、「ブラック社長」の口から出ているか、「上司」の口から出ているか、その言霊主義者の口から出ているかのちがいしかない。内容は、おなじなのである。

判を押したように、おなじ。画一的。


2025年8月29日金曜日

●ぬけたところに、言霊思考が、しみ込んでしまう■言霊※2025/08/29 14:55

言霊主義者というのは、相手のことを考えるのが苦手な人たちなのである。考えているようで、考えていない。

相手の状態は、ガン無視だ。相手と自分の立場を入れ替えて、自分だったらどうだろうということを考えるのが苦手なのだ。

そして、考えても、ものすごく表面的なものにしか注意が向かないのである。

だから、ものすごく表面的なものを割り切って考えて、言霊思考に陥ってしまう。

自分の場合は、一倍速で経験しているので、眠気でも、つかれでも、喉の渇きでも、なんでも、よくわかるのだ。たいていの場合、自分のことであれば、言霊的な思考をせずに、現実的な思考をしてしまう。

そして、言霊を無視して、現実を優先したということに、気がつかない。

言霊主義者が、自分が一倍速で経験できることについて、言霊思考で考える場合は、夢、希望などがあり、言霊的な妄想が、自分にとって都合がよいときなのだ。たぶんだけど、時間的な余裕もある。夢がかなう、希望がかなうということを、夢想しているわけだから、本人にとって都合がいいことになる。そして、夢や希望についても、本人のなかでは、ちゃんと文脈があることなのだ。夢をもつにいたったプロセスは「自分」が一倍速で経験したことなのである。そういう意味で「ぬけ」がない。ところが、他人のことになると「ぬけ」だらけになる。ぬけたところに、言霊思考が、しみ込んでしまう。そうなると、相手の状態を無視することになる。相手が言っていることを、言霊主義者本人は、よく理解したつもりなのだけど、本当は、相手の状態を無視しているのである。相手が言っている「つかれ」は、単なる「つかれ」で、言霊主義者には実感がないつかれなので、「ようは、つかれたんだろ」「どんなにつかれていても、元気だ元気だと言えば元気になる」といったようなタイプの反応をしてしまう。相手の内部環境や、相手の外部環境が、レアなものであったとしても、上記のような反応をしてしまうので、問題がしょうじる。相手の環境が特に悪い場合は、言霊主義者が考える相手の環境と、相手が実際にかかえている環境のあいだに、差がしょうじるので、相手の環境が特に悪い場合は、言霊主義者は、相手に対して、むりなことを言うようになる。言霊主義者は「むりなことをいっている」という自覚はない。感覚もない。

 

●なんで、気がつかないの?■言霊※2025/08/29 1:27

 言霊主義者というのは、「名前だけ店長を自殺に追い込んだブラック社長」や「若い女性従業員を自殺に追い込んだ上司」が言霊主義者だということに、気がつかないのかな?

たぶん、気がつかないのだろうけど、こういうところも、いやなんだよな。鈍感さがある。鈍感なところがあるんだよなぁ。なんで、気がつかないの?

「名前だけ店長を自殺に追い込んだブラック社長」が言っていることと、言霊主義者が言っていることは、おなじことなんだよ。 「若い女性従業員を自殺に追い込んだ上司」が言っていることと、言霊主義者が言っていることはおなじことなんだよ。

なんで、気がつかないの?

 

●気分次第なのだ■言霊※2025/08/28 20:12

パチンコが大好きな言霊主義者がいたとする。「パチンコで勝つ」と言って、家を出た。

けど、実際には、負けた。

この場合、言霊主義者は、「言ったことが現実化しなかった」ということについて、考えない。けど、負けたということはわかるのである。「パチンコで勝つ」と言ったのに「パチンコで負けた」という認識はあるのである。

しかし、この認識があるときも「言ったことが現実化する」と思ったままなのである。

どうしてこのようなことが可能かというと、「言ったことが、現実化する場合だってある」という意味を込めて「言ったことが現実化する」と言う場合と、「すべての言ったことが、かならず現実化する」という意味を込めて「言ったことが現実化する」と言う場合があるからだ。

ようするに、「言ったことが現実化する」というひとつの文に、まったくちがった意味を込めて、使い分けているのである。

ただし、自分が使い分けているという自覚がまったくないのである。負けた途端に「言ったことが、現実化する場合だってある」という意味になってしまうのである。

負けた途端に「言ったことが現実化する」という文は「言ったことが、現実化する場合だってある」という意味になってしまうのである。

そして、次の日起きて、「昨日は負けたけど、今日は絶対に勝つ」「勝つと言えば勝つ」「言ったことが現実化する」「これは、絶対の法則だ」と言っているときは、「すべての言ったことが、かならず現実化する」という意味で「言ったことが現実化する」と言っているのである。

「言ったことが現実化する」という文の意味が、いれかわっている。

そして、いれかわかっていることに、本人が、気がつかない。まったくの無自覚。無意識的に使い分けている。使い分けているという意識がまったくない。

だから、気分次第で、その都度、おなじ文で言っていることの意味がちがうというとになる。

自分が実際に体験している場合でも、「そのつど」ちがう意味を込めて「言ったことが現実化する」と言っている場合もある。気分次第なのだ。

2025年8月28日木曜日

●自分の現実的な出来事にあわせて、無意識的に使い分けている■言霊※2025/08/28 18:53

  言霊主義者は、自分がほんとうに、つかれているときは、「つかれたから休もう」と思うのである。ところが、ひとごとだと「つかれたというから、つかれる」「つかれないと言えば、つかれない」「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってしまうのである。自分が、一倍速で体験した、つかれる理由は、自分にとって明らかだから、無視できないのである。つかれる仕事を、十八時間続けてきたので、つかれたということが、わかるのである。「つかれる仕事を、十八時間続けたきたという出来事」が現在のつかれに影響をあたえているということがわかるのである。「元気だ元気だ」と言っても、無駄だから、眠ろうと思うのである。自分のことである場合は、つかれる理由も、つかれたという主観的な感覚も、明らかなことなんだよ。けど、他人のことだと、それがわからない。つかれる理由を無視すれば、無視できる。つかれたという(相手の)主観を無視すれば、無視できる。だから、無視してしまう。自分ことである場合は、「無視できない理由」なんだよ。自分のことである場合は「無視できない体感」なんだよ。しかも、自分が、相手の状態を無視しているということがわかっていないのである。自分が、めちゃくちゃにつかれている状態ではないときに、「元気だ元気だ」と言ったら、言うまえよりも元気になったような気がするということを経験したとする。そうすると、「言ったことが、言霊によって、現実化する」という文は正しいと思ってしまうのである。ところが、この文は正しくない。そして、言霊主義者は「言ったことが、言霊ではない別の理由によって、現実化する場合だってある」という文の意味と「言ったことが、言霊によって、現実化する」という文の意味のちがいが、まったくわかっていないのである。おなじだと思っている。意味的に等価だと思っている。何度も言うけど、「言えば、言ったことが現実化する」という文と、「すべての言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という文は、意味的に等価なんだよ。ところが、言霊主義者は、「言えば言ったことが現実化する」という文と「言えば、言ったことが、現実化する場合だってある」という文が、意味的に等価だと思っている。言霊主義者は、「言えば、言ったことが現実化する」というひとつの文に、「すべての言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という意味と、「言えば、言ったことが、現実化する場合だってある」という意味をもたせて使っているのである。そして、「すべての言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という文と「言えば、言ったことが、現実化する場合だってある」という文は、意味的に、等価ではないのである。等価であるときもあるなんてことはなくて、いつもかならず、等価ではないのである。だから、言霊主義者は、自分のなかで、「すべての言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という意味をもつ「言えば、言ったことが現実化する」という文と「言えば、言ったことが、現実化する場合だってある」という意味をもつ「言えば、言ったことが現実化する」という文を使い分けていることになる。ところが、無意識的に使い分けているわけで、意識的に使い分けているわけではないのである。両者の意味のちがいを理解して、意識的に使い分けているわけではないのである。自分の体調や、自分の現実的な出来事にあわせて、無意識的に使い分けているのである。言霊主義者が、言霊理論が正しいと思った出来事があったとする。たとえば、「明日は雨がふる」と言ったら、「雨がふった」というような場合について考えてみよう。自分が「明日は雨がふる」と言ったら、実際に、雨がふった。だから、「言えば、言ったことが現実化する」と思ってしまう。例から、言えることは、「言えば、言霊とは別の理由で、言ったことが現実化する場合だってあるなということなのだ。「言えば、言ったことが現実化する場合だってある」という意味で「言えば、言ったことが現実化する」と言っているのだ。ところが、普遍化して理解しているときは「すべての言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という意味で「言えば、言ったことが現実化する」と言っているのだ。例から、普遍的な法則を導き出そうとしているのだけど、じつは、普遍的な法則を導き出しているわけではない。もう、この時点で、考え違いをしている。もう、この時点で、失敗しているのだ。本人は、例から、普遍的な法則を導き出したつもりでいるのだけど、もう、この時点で、考え違いをしている。まちがい。たんなるまちがいなんだよ。

*     *     *

正しいと確信している内容が、最初から、まちがっているのである。こいつらが、正しいと確信している内容が、最初から、まちがっている。こいつらが例について語る場合は、「言えば、言ったことが現実化する場合だってある」という意味で「言えば、言ったことが現実化する」と言っているのだ。「明日は、雨になる」と言ったら実際に、雨になった。だから、「言えば、言ったことが現実化する」という文は正しいということになる……と思っているのだ。もちろん「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」という文がもつ意味と「言えば、言ったことが、言霊の力以外の力によって現実化する」という文がもつ意味は、ちがう。ここらへんも、あいまいなんだよな。つまり、あいまいだから、無意識的に、使い分けることができる。

 

●きちがい兄貴が、知らんぷりでやりきるのである■騒音※2025/08/28 9:04

  ほんとうに、ネズミが家に入ってきてから、捕まえる方法じゃ、ネズミがはいってくるわけだから、ネズミの糞が増えて、ネズミのダニが家の中に残ることになるから、だめだと何回も言っているのに、きちがい親父が、「俺が捕まえるからいいよ」「俺が捕まえるからいいよ」「俺が捕まえるからいいよ」と発狂して言って、ネズミ対策工事をさせてくれないのである。けっきょく、きちがい親父が入院しているあいだに、ネズミが巣をつくってしまったのである。壁のなかに巣をつくってしまった。入院する前から、巣をつくっていたんじゃないかな。

手の甲のシミは、ダニなのである。きちがい親父が家にネズミを入れなかったら、こんなことになっていないのである。ダニと言っても、いろいろな種類がいる。普通は、家の中にいないはずのダニがはいってしまったのである。

きちがい親父が、魚を二十三時間、テーブルの上に出しっぱなしにするという、きちがい的なことをやりはじめて、これも、どれだけ言っても、やめてくれなかった。きちがい親父がやめたのは、ネズミがはいってきて、テーブルの上に出しっぱなしにした魚を(ほんとうにきれいに)食べてしまうようになってからだ。自分の魚が食べられると、やっと、ネズミが出たということを認めて、親父が、魚を出しっぱなしにしないようになった。兄貴の騒音も、親父の魚に対する態度も、親父のネズミに対する態度も、みんな同じなんだよ。

きちがい親父がネズミを入れる原因を作ったのに知らんぷりだ。知らんぷりというか、そういう認識がないのである。きちがい兄貴が、俺に迷惑をかけたということに関しても、親父のように、認識がないのである。どれだけ、「学校でこまるからやめろ」「宿題をするからやめろ」と言っても、きちがい親父並みの認識で、きちがい兄貴が、知らんぷりでやりきるのである。 

2025年8月27日水曜日

●関係がないわけないだろ■騒音※2025/08/27 21:16

 ほんとうに、みんな、わかってないのだけど、あの音のでかさで、この世で一番嫌いな音を聞かされ続けるということは、くるしいことだ。あの中にいて、影響をうけないようにすることはできない。「影響をうけないようにすることができない」ということがわからない……ということは、理解していないということを意味しているのである。本人のからだで、経験したことがないということを意味しているのである。たとえ、平日、約七時間でも、時間が長いのである。長すぎる。休日約十三時間でも、時間が長いのである。ずっと、あの騒音のなかにいるということがくるしいのである。トイレに入っても、風呂場に行っても、ずっとずっと、あの騒音のなかにいるということが、くるしいのである。あのくるしさが、わかってないやつに、わかったようなことを言われるということが、そもそも、くやしいことだ。「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だってくるしい」「俺だって、朝起きるのはつらい」……というやつらは、まったくなにもわかっていない。そして、経験したことがちがいすぎるのである。わかっていたら、そんなことは、クチが裂けても言わない。言えない。言えない状態になる。言ってしまうのだから、わかっていない。経験していない。……経験したことがないということを、意味している。そんな発現、できるわけがないだろ。ぜんぜんちがうレベルの騒音、ぜんぜんちがうレベルのつらさなんだよ。こいつら、ほんとうに、自分がやられたことがないから、わからないだけなんだよな。そして、えらそうだ。自分がほんとうに、同レベルのことを経験したと思ってるから、たちが悪い。長い。一日のなかでも、長すぎる。影響をうけないわけがないだろ。どれだけ影響をうけるか、わかっていないから、「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だってくるしい」「俺だって、朝起きるのはつらい」って言うんだよ。「鳴り終わったら関係がない」「そんなのは、関係がない」と言うんだよ。「なにが、ヘビメタ騒音だ」と言うんだよ。おまえらは、ゆるさない。ぜんぜん、わかっていない。ぜんぜんわかっていないので、「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だってくるしい」「俺だって、朝起きるのはつらい」と言う。ぜんぜん、ちがうことについて言っているんだぞ。ほんとうに、うちのきちがい兄貴が、かわったきちがい兄貴ではなくて、あんなことを、やりはじめなければ、こんなことを言われることはなかったのだ。みんな、みんな、こういうことを言う。「そんなのは関係がない」と言うのだ。実際にやられたことがなく、実査の影響のでかさがわからないから「そんなのは関係がない」と言うのだ。関係がないわけないだろ。言ってはいけないことかもしれないけど、ぶんなぐって、ぶんなぐって、ぶんなぐってやりたい。

ぼくが生きてきた感想を言ってしまうと、ほんとうに、すべてに、たたってきた。きちがい兄貴のヘビメタ騒音が、すべてに、たたってきた。やられていないやつから、「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だってくるしい」「俺だって、朝起きるのはつらい」と言われることだって、きちがい兄貴が(ほかの人がやらないような音のでかさで)ほかの人がやらないような時間の長さ、鳴らしたから、発生したことなんだよ。うちのきちがい兄貴が、こだわってこだわってこだわって、こだわりのきちがいヘビメタを、こだわりのでかい音で鳴らさなかったら、こんなことになっていない。全部なんだよ。鳴りはじめてから、起こったこと、すべてに影響をあたえている。影響の範囲をガン無視だ。きちがい兄貴も、どれだけ言っても、影響の範囲をガン無視して鳴らし続けたわけだけど、ほかのぼんくら野郎どもも、影響の範囲をガン無視して、頭がおかしいことを言う。実際にやられたら、そんなことはできないということを言う。やられてないので、できることなのだ。けど、実際にやられたら、できない。実際に毎日、やられたらできない。どんどん、つもっていって、どうしてもできなくなる。はりつめた状態なんだよ。なにをするのも、はりつめた状態なんだよ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音が鳴っていない、学校にいるさいちゅうだって、はりつめた状態なんだよ。機能のヘビメタ騒音で、どうしても、はりつめた状態で、学校にいることになる。鳴り終わったのだから、関係がないなんて、やられていないから言えることなんだよ。やられていたら……おなじことをやられていたら、体でわかっているから、そんなことは、言えなくなるんだよ。わかっているから、言えなくなる。自分のからだで経験すれば、わかることなんだよ。自分のからだで経験していないことだから、軽く見て、「鳴り終わったのだから関係がない」と言っているだけだ。ほんとうに、頭にくる。ぶんなぐって、やりたい。だいたい、昨日のヘビメタ騒音だけではなくて、ずっとずっと、続いているヘビメタ騒音の影響をうけている。ストレス対抗期間をすぎて、ずっと鳴っているわけだから、身体や精神に、深刻な影響が出る。それが、経験的にわかっていないのだから、わかっていないのだよ。わかってない。 

●これ、一生、続いているんだぜ■騒音※2025/08/27 18:23

 理想は、理想。まあ、ぼくがほんとうにこまっている問題というのは、ほかの人には、わかりにくい問題なんだよなぁ。わかるわけがない。体験があまりにも特殊すぎる。体験から出てくる悩みなので、ほかの人にはわからない。そして、たとえば、理想の生活をするとなると、まずそこが、ネックになるのだ。けっきょく、決まった時間に起きて活動するということが決まっていると、それだけで、自殺したくなるので、いろいろと問題がある。今朝も、じつは、「例の雰囲気」がおそってきた。「例のつかれ」がおそってきた。ほかの人に、わかるわけがない。ヘビメタ騒音でしょうじた雰囲気だからだ。ヘビメタ騒音でしょうじたつかれだからだ。経験がないけど、推論で、わかってくれる人は、たしょうはいる。けど、その人たちの問題ではない。その人たちは、きちがい家族が、小学六年生のときから二五歳になるまで、きちがい的な音で、ヘビメタを鳴らしていたわけではない。ヘビメタは、ぼくにとって、一番きらいな音がつまっている音楽だ。ヘビメタが好きな人にはわからないことだ。その人たちだって、きらいな音はあるだろう。そのきらいな音が、あの至近距離で、あの時間の長さ、あの音のでかさで鳴っていたら、どうなるか? やっぱり、ぼくとおなじような効果があらわれると思う。心身ともに、ひどいことになると思う。これ、一生、続いているんだぜ。

やっぱり、「そんなのは関係がない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなの、鳴り終わったら関係がない」と言ったやつらを、ぶんなぐって、やりたいな。ぶんなぐってやりたい。どれだけ影響が出るか、こいつらは、まったくわかっていない。わかっていないということもわかっていない。本人は、わかっているつもりなのだ。「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だって苦労した」とみんな、言う。けど、そいつらは、普通に暮らせるだけの、体を維持している。普通に通勤通学できる身体を保持している。ぜんぜんちがうんだよ。ぜんぜんちがうから、保持しているだけだ。昨日も書いたけど、こいつらは、簡単に考えすぎる。ヘビメタ騒音の効果を、小さく見積もりすぎている。「そんなんじゃないんだ」ということを、どれだけ言っても、認めない。影響のでかさがわかってない。「ヘビメタ」という言葉も問題だ。深刻な感じがしないのだ。きちがい的な意地で、きちがい感覚で鳴らしてしまう、きちがい家族が、すぐ横の部屋で鳴らしていたら、どれだけこまるかわかっていない。こいつらだって、一番、苦手な音が、あのでかさで、あの至近距離で鳴っていたら、生活がめちゃくちゃになって、

睡眠時間の問題だって、こいつらは、俺とおなじレベルでは、経験していない。けど、「俺だって朝はつらい」と言いやがる。こいつらには、きちがい的な家族がいない。きちがい的な家族が、きちがい的な感覚で、毎日しつこく、すべての時間を使って、この世で自分が一番、きらいな音を鳴らしているわけではない。 

きちがい兄貴の感覚というのは、おかしいんだよ。そんなにいるわけがない。そして、きちがい兄貴が、意地を通そうとしたら、通せた環境というのも、レア中のレアなのだ。こんな、普通はないのだ。きちがい親父はきちがい親父だし、おかあさんは、きちがい親父とはまったくちがった意味で、普通の人ではないのだ。両方とも、普通の人からは、ずれまくっている。そして、近所の人も、うちから離れていたという点もあるのだけど、でかい幼稚園の横で、騒音耐性が強すぎるのである。でかい家が多いので、庭に余裕がある。そして、一番近い、東側の家は、当時空き地だった。これ、東側に引っ越してきた人たちにとってみれば、俺と、きちがい兄貴が、仲間に見えるのだ。「こっちには、うるさいと文句を言ってきたのに、あれがうるさくないのか」というような意見を、たぶんかかえていたんじゃないかな。これ、ありがちなんだよ。 

ともかく、きちがい兄貴が意地を通せる環境だったんだよな。近所の人が……近所といっても、ちょっと離れているのだけど、ドラムに夢中になった子どもがいた人がいたんだけど、うちに、「どうやって、しずかにさせたのか」ということを聞きにきたんだよね。しずかにさせてないからぁ。きちがい兄貴が引っ越したから、しずかになっただけだ。 

●「このくらいならだいじょうぶだ」■言霊※2025/08/26 22:42

言霊主義者で、思霊主義者で、過去否定論者である、Aさんが、ジムに行って、開脚のための器具をいじっていたとしよう。

開脚のための器具で、左右の足を固定して、ハンドルを回すと自助に、足の角度が広くなっていくというものだ。ハンドルを回しすぎて、股間がいたくなったとする。

その場合、言霊主義者なのに、「股間がなおる」と言って、股間のズレをなおそうとしないのである。股間がいたくなったとしよう。「股間はいたくない」と言って、股間のいたみをけそうとしないのである。

「自然に、なおるのをまつしかない」などと言うのである。

しかも、股間がいたくなる前に、「股間がいたくなる」と言っていないことに気がつかないのである。

言えば言ったことが現実化するので、股間がいたくなる前に、股間がいたくなると言っておかなければならないのだ。けっきょく、言うことで、なおすこともできない。

しかし、「言うことでなおすことはできない」ということを、認めないのである。

人には、「いたいと言うから、いたくなる」「いたくないと言えば、いたくなくなる」などと自信をもって言ってしまうのに、自分のことだと「むりそうだ」と思って、言いもしないのである。

「なおると言えば、なおる」と人には言うけど、本人は、病院に行ったり、自然になおるのをまったりする。

「一秒以内に、なおる」と言えば、一秒以内になおるのである。もし、なおらなければ、言霊理論がまちがっているということになるのである。

ところが、「一秒以内になおる」と言って、なおすことが、できないにもかかわらず、人には「なおると言えばなおる」「言霊は絶対だ」など言ってしまうのである。

こんなやつ、ばかりだ。

ハンドルを回すとき、「このくらいならだいじょうぶだ」と思っていたのである。思ったことが現実化するなら、だいじょうぶであったはずなのだ。

ところが、思霊理論がまちがっているので、物理的な力が加わって、股間がいたくなったのである。

「だいじょうぶだ」と思っていたのに、股間がいたくなったのである。

思ったことが現実化するわけではないのである。

ところが、ほかの人には「思ったことが現実化する」と言ってしまうのである。「いたくなると思うから、いたくなる」と言ってしまうのである。

「いたくなると思ったことが、いたくなることを引き寄せたのだ」と言ってしまうのである。

過去否定論者は、「過去は関係がない」と言い「過去は現在に影響をあたえない」というわけだけど、自分が、一倍速で経験したことについては、足を広げる機器で、足を広げすぎて、股間がいたくなったと思っているのである。

えーーっ?

過去は関係がないのじゃないの?

過去は現在に影響をあたえないんじゃないの?

過去が現在に影響をあたえないのであれば、どうして、股間がいたくなったのだよ?

過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえないのだろ。

それだったら、過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえないので、股間はいたくないのである。股間がいたいなら、過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえたということになる。

自分が一倍速で、経験したことなら、「これこれこういうことが起きて、こうなっている」と思うことができるのである。まさしく、過去の出来事が現在の状態に影響をあたえると思っているのである。

ハンドルを回しすぎた……という過去の出来事が、股間がいたくなるという過去の出来事を引き起こし、現在、股間がいたいと感じているのである。

自分のことなら、この通り、ちゃんと、過去の出来事に原因があると思っているのである。

ところが、ひとごとだと、「過去はない」とか「過去は関係がない」とか「過去は現在に影響をあたえない」とかと言い出す。

「過去はない」というのが、どういう意味なのか、ぼくには、わからないけど、ともかく、そんなことを言うのである。

もうひとつ「過去は記憶の中にしかない」というような言い方がある。これは、「過去は記憶の中にしかないから、現在の状態に影響をあたえていない」と言いたいのである。

いや、あたえているでしょ。

Aさん、ご本人だって、ちゃんと、「ハンドルを回しすぎて、股間がいたくなった」と思っているわけだよ。

そして、ハンドルを回しすぎたというような記憶がなくなったとしても、股間がいたいままなのだ。もちろん、自然に治癒するまでの時間は、いたいということだけどな。

たとえば、Aさんの記憶を操作して、ジムに行った記憶や、ハンドルを回しすぎた記憶を消去したとする。その場合、股間のいたみもきえるかというと、きえないのだ。記憶を消去すれば、物理的な股間のずれ?も修正されるのかというと、修正されないのだ。

記憶を消去しても、股間がもとの状態にもどらない。

けした記憶に対応した出来事が発生する前の状態にもどらないのである。記憶をけしても……。

過去が記憶の中にしかないものなら、どうして、物理的な股間のズレが発生しているのか? 

股間がズレている状態になっているのか?

過去は、記憶の中にしかないから、現在の状態に影響をあたえないという考え方がまちがっているということに、気がついてくれ。過去において、発生した出来事は、実際に発生した出来事なので、現在に影響をあたえるのだ。

*     *     *

「理屈じゃねぇーーんだよ」といったやつのクチに、アンパン、つめこみたい。あんパン、くって、だまってろ。 

2025年8月25日月曜日

●こんなの、普通の家で育った人に、わかるはずがない■騒音※2025/08/25 19:48

このさき、どうするかな?

俺が理想している「やる気」が出てこなくてもいいから、そこそこ、普通の「やる気」が出てきてくれないかな。

重たい気持ちになるのは、ダニで作業員の人を苦しめてしまうというようなことなのだ。できれば、刺されてほしくない。ビニール製の防護服やレインコート上下を着れば、抱きかかえるように布団を持ち上げたとしても、刺されないとは思う。

けど、なんか、ゴミ処理場所に行ったあと、作業をしなければならないらしく、そのときに刺される可能性はある。だいたい、防護服?やレインコートを着たまま、車の座席にすわると、車の座席にダニがつく可能性がある。

きちがい親父が、さなかを出す前は、ほんとうに、ネズミなんて一匹も入ってこなかったのだ。

あとで考えると、いろいろなところに、隙間があるのだけど、隙間があるにもかかわらず、一匹も、ネズミがはいっこなかった。ネズミがはいってくるようになったのは、親父が、一日に二三時間、粕漬の魚をテーブルの上に置くようになってからなのだ。

一カ月間ぐらい、そういうことをしていたら、ネズミがはいってくるようになった。

普通はやらないことだし、「部屋中がすごいにおいになるから、魚を冷蔵庫に入れてくれ」と言われたら、冷蔵庫に入れようと思うものなのである。

ところが、言われたら、きちがい感覚が爆発してしまう。

きちがい的な意地で、否定して、絶対に、自分が思った通りに、一日に二十三時間近く、魚を出しっぱなしにしようと思う人なのだ。こんなの、普通はありえない。

「におわないよ!!におわないよ!」と真っ赤な顔をして、絶叫している姿を、ほかの人にも見せたい。

だって、実際に、見ないと、信じてくれない。

どういう意地でやっているか、ほかの人は、理解してくれない。

ほかの人は「そんなのは、くさいから、やめてくれ」と言えばいいでしょと思っている。

ところが、一筋縄ではいかないのだ。普通のことが通用しない。きちがいスイッチが入ってしまうと、きちがい的なことに、こだわってこだわってこだわって、こだわって、絶対に、なんだろうが、自分が思ったことを、やるということになる。

やり続けるのである。

絶対の意地でやり続けるのである。これだって、兄貴のヘビメタ騒音と似たようなところがあるのだ。普通の人が、絶対にやらないことを、きちがい的な意地で毎日やる。修正が効かないのである。「やめてくれ」と言ったら、きちがい的な意地でやりきるのである。やりきろうとするのである。

殺さないと、実際にやってしまうのである。

これ、きちがいの感覚だと、意地を通してやったことになっていないのだ。これも、きちがい的でおかしい。おかしいのだけど、つねに、普通に、そうなのだ。そうなっているのだ。

きちがい兄貴ときちがい親父はそういうところで、まったく一緒で、きちがい黄な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定する。でっ、自分の行為で、相手がこまっているということも、きちがい的な意地で否定して、まったく気にしないのだ。こまるんだよ。

どうせ、やったことを認めないことなのだから、本人は、意識的にはこだわっているつもりがないのだ。

けど、やったことを認めないというのは、一〇〇%の意地で、一〇〇%自分が思った通りにやりきったときに、発生することなのだ。

ともかく、普通の人とは、ちがうのだ。だから、普通の人は、きちがい親父やきちがい兄貴のことについて、普通に誤解をするのである。「そんなんじゃないんじゃないの」「ちゃんと言えばわかってくれるよ」と普通の人は、思うし、そのように、言うのである。

ところが、きちがい兄貴の脳みそも、きちがい親父の脳みそも、ここに書いた通りの脳みそで、絶対の意地で、聞かないのだ。「絶対の意地で聞いてやらなかった」ということも、絶対の意地で認めないということになる。

「絶対の意地で聞いてやらなかった」ということを認めるのがいやなのである。

だから、何度も言うけど、ネスト構造が成り立っている。こまるんだよーー。こまる。

きちがい親父の自分が原因になって出している魚のにおいに対する態度と、きちがい兄貴のヘビメタに対するとい態度が、まったくおなじなのである。

きちがい兄貴が、たとえば、きちがいヘビメタをものすごい音で鳴らしているとき、俺が兄貴に、「やめてくれ」と言ったとする。

そのときの、認めたくない気持ちと、「俺がどれだけ言っても、やめてくれなかった」ということを認めたくないときの気持ちが、まったくおなじなのである。

だから、猛烈に、こまるんだよ。兄貴は、きちがい的な意地で、弟の人生を破壊するようなことを、毎日、やり続けた。

けど、「やり続けたつもりがない」のである。これがまったくないんだよ。

そして、ほんとうに、きちがい的にでかい音で鳴らしていたのだけど、でかい音で鳴らしていたというつもりもないわけ。どうして、つもりがないかというと、「ものすごくでかい音で」鳴らしたかったからなのだ。「でかい音で、鳴らしている」というとをちょっとでも認めたら、自分がしずかにしなければならないような予感がするのである。

そういう予感がするときは、スイッチが入ってしまって、絶対に、認めないのである。これが、無意識的な過程だから、本人は、ほんとうに気がついていないのである。

やられている側からすると……兄貴は、きちがい的な意地でやっているのだから、きちがい的な意地でやっているということがわかっているはずだ……と思ってしまうのだけど、ほんとうに、ほんとうに、まったく、わかってないのだ。

わかってない状態で、生活して、生きている。そういう存在なのだ。こんなの、普通の家で育った人に、わかるはずがない。

これから、親父の話ではなくて、兄貴の話をしようと思う。普通の家で育った人は、ヘビメタ騒音の被害を認めないのである。実際に自分がやられたことがないから、わからない。想像の話だから「自分なら平気だ」と思って、「そんなのは関係がない」と言う。

ところが、ぎちゃぎちゃに、関係があるんだよ。

どれだけ無視して、どれだけ影響をうけないように、はりつめた気持ちで生きていても、やられているから、体が被害をうけている。精神が影響をうけている。

この「辛抱状態」に関する理解が、普通の人たちには、これまた、まったくまったく、ないのである。この辛抱状態を軽く考えて、自分なら影響をうけないで、鳴ってないときのように普通に行動できると思っているのだ。

そして、たとえば、鳴ってないときのように、夜に眠って、朝起きるということができると思っているのだ。そりゃそうだろ。

「辛抱状態」のときは、『影響をうけない状態』なのだから、そう思って当然だ。

ところが、辛抱状態のときも、影響をうけているのである。

どうしてかというと、きちがいが、至近距離で、自分のきらいな音を、世の家ではありんないようなでかい音で鳴らし続けているからだ。

*     *     *

きちがい兄貴の頭の構造によって、きちがい兄貴が、無視してやり続けたことが、ぼくの人生に影響をあたえている。ぼくの毎日に影響をあたえている。

一般人の頭の構造というのもある。一般人の頭の構造によって、きちがい兄貴にやられた特殊な騒音の影響があるということを、認めないのである。

もちろん、自分のところまで、きちがい兄貴の騒音が聞こえるわけではないので、きちがい兄貴の騒音が、ぼくにあたえた影響を認めないのである。一般人の頭の構造によって、『影響はない』と判断してしまうのである。

この判断も、なかなか、くつがえらない。

言霊主義者は、言霊主義者の頭の構造によって、影響を無視した上に、言霊的なことを言うのである。 

●よそのやつから、なめられるということが、決まっている■騒音※2025/08/25 16:19

きちがい兄貴の、きちがいヘビメタで、いつも、いつも、切羽詰まった状態なのに、きちがい兄貴が、いつも、いつも、決まった量」やるのである。決まった時間鳴らすのである。

これ、ほんとうに、きついことなのである。

どれだけがんばっても、日常が破綻してしまうのである。どれだけ、ヘビメタ騒音の影響をうけないようにしようとしても、一〇〇%の確率で、一〇〇%の量、うけてしまうのである。

一倍速で経験している俺にとっては、そういうことでしかないのである。

ところが、一倍速で経験したことがない人たちにとっては、ぼくが、ただ単に「泣き言を言っている」ようにしか見えないのである。一倍速で経験したことがない人たちにとっては、ぼくが、ただ単に「ネガティブなことを言っている」ようにしか見えないのである。

こいつらだって、自分がきらいな音で、おなじことをされたら、めちゃくちゃに腹をたてて、つかれはてる生活になるのに、それがわからない。

わからないから、涼しい顔で、あるいは、ドヤ顔で「ネガティブなことを言うから、ネガティブなことが起こる」などと言う。

わからないから、すずしい顔で、あるいは、ドヤ顔で「過去は関係がない」「過去は現在の状態に影響をあたえない」「鳴り終わったら関係がない」などと言う。

ただ単に、きちがい家族の騒音を毎日毎日、聞かされる状態じゃないから、そういうふうに言っていられるだけなのに、えらそうなんだよな。

「自分だったら、鳴らされても、影響をうけないでくらせる」「自分だったら、鳴らされても、それくらいできる」と思っているのだ。

きちがい兄貴が、へんなんだよ。

きちがい兄貴が、普通の人なら絶対にやらないことをやっているんだよ。だから、普通の人は、きちがい兄貴のような人間にやられたことがないんだよ。どうしてかというと、きちがい兄貴のような家族が、いないからだ。

ただ単に、きちがい家族がいないから、やられていないだけなのに、自分が優れていると思っているのだ。自分は、エイリさんより優れているから、そんなことがあったとしても、影響をうけずに、普段とおなじことができると思っているのだ。

だから、なめられる。きちがい兄貴が、きちがいモードで、普通の人がやらないようなことをやるということから、やられていない人間になめられるということが発生する。

これ、不可避なのである。どうしてかというと、鳴っているからだ。

やられないと、どれだけつらいかわからないのだ。やられないと、できなくなるということがわからない。鳴ってなければ、できることが、できなくなるということが、鳴ってないから、わからない。

わからなければ、自分の考えが正しいということになる。だから、なめてくる。きちがい兄貴が俺の言っていることを無視して、頑固に鳴らした時点で、よそのやつから、なめられるということが、決まっているのである。

普通の人は、きちがい兄貴のような音で鳴らしたくても「迷惑だ」と思って、実際には慣らさない。鳴らしたって、試しに鳴らすだけで、そんなに長い時間鳴らさない。ところが、きちがい兄貴は、きちがいだから、普通の音だと思って、鳴らしてしまう。

ずっとずっとずっと、鳴らしてしまう。

普通の音で鳴らしていると思っているから、どれだけなにを言われても、そのままの音で、意地になって、鳴らし続ける。普通の人なら、「迷惑だ」と思って、鳴らせない音を、ずっとずっと、鳴らし続ける。

だから、ぼくの一日が、普通ではない騒音漬けになる。そして、普通の人は、きちがい家族が鳴らすきちがい騒音を、一日に、一分も経験したことがないので、普通の騒音だと思って……こっちからすれば「あたまがおかしいこと」……を言ってくるのである。

こっちからすれば「むりなこと」を言ってくるのである。こっちからすれば「現実的ではないこと」を言ってくるのである。

こっちからすれば「妄想に満ちたこと」を言ってくるのである。

こいつらに、「そんな音ではない」「そんなんじゃない」「ちがう」とどれだけ言っても、こいつらはこいつらで、認めないのである。自分なら平気だ……と思ったまま、俺に説教をする。

説教をされて、不愉快な気持になって、家に帰ってくると、家に近づいた時点で、きちがい兄貴のきちがい騒音が聞こえるのである。どれだけ、家に近づきたくないか? わかるか? わかるわけがないか? 家のドアを開けると、雪崩のように、きちがい騒音が落ちてくるのである。ふってくるのである。どれだけつらいか、わからないだろう。

小学六年生のときから、そんな生活で、影響をうけないわけがないだろ。精神的に、身体的に影響をうけないわけがない。ところが、こいつらは、俺のをことヘビメタ騒音のことで、下に見ているので、俺の言うことを認めないのである。

「影響をうけないと言えば、影響をうけないですむ」という前提でものを言ってくる。

「気にしなければ、影響をうけないですむ」という前提でものを言ってくる。

「こだわらなければ、影響をうけないですむ」という前提でものを言ってくる。

この態度が、きちがい兄貴が鳴らしているときの態度と、一兆分の一ぐらい似ているのである。きちがい兄貴が鳴らしているときの態度というのは、こいつらの態度を一兆倍ぐらい頑固にしたものだ。頑固さが似ているのである。

こいつらはこいつらで、『影響をうける』ということを頑固に認めないのである。

だから、俺の一日というのは、きちがい兄貴の頑固なヘビメタと、世間の人の頑固な否定のループになる。繰り返し繰り返し、毎日毎日、そういうことが発生してしまう。

俺にとって、この世界というのは、そういう世界だった。
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2025年8月24日日曜日

●なに、若い女性の側に立ったようなことを言っているんだよ■言霊※2025/08/24 17:14

東大を卒業した若い女性が、仕事についていけずに、自殺したとしよう。

この場合、若い女性なので、同情される。言霊主義者まで、同情して「上司の態度に問題がある」「会社の姿勢に問題がある」というようなことを言い出す。

けど、これが、五〇代の中年男性だったら、同情なんてされない。

「そんなのはあまえだ」「あまえてんじゃねぇーよ」と言われておしまいだ。

あえて『女の子』と書くけど、『女の子』と『中年男性』のちがいは、でかい。

言霊主義者は「できると言えばできる」「できないと言うからできないんだ」と言って、働かせようとするのである。「できるできると言って、努力すればいい」ということになってしまう。

これ、ただ単に、若い女の子か、中年男性かのちがいなんだよ。

しかも、「禿げ散らかした中年男性」というような容姿を含む形容がなされると、いかにも『バカにしていい』という雰囲気ができあがる。

言霊主義者は、若い女性を自殺に追い込んだ上司のような考え方をもっているんだよ。努力論者は、若い女性を自殺に追い込んだ上司のような考え方をもっているんだよ。

言霊主義者や努力論者は、若い女性を自殺に追い込んだ上司の側に立っているんだよ。言霊主義者や努力論者は、若い女性を自殺に追い込んだ上司とおなじ考え方をもっているんだよ。

言霊主義者や努力論者が、自殺した若い女性に同情するのは、こっけい。

ちなみに、自殺した若い女性も、言霊理論はまちがっていると言いきることができなかったのである。自殺した若い女性も、努力論がまちがっていると言いきることができなかったのである。

ようするに、本人の行動の基準が、言霊理論や努力論で、できあがっていたのだ。否定できない。自分の行動の原理になっていた。

だから、無限に努力しなければならない状態になっていたのである。

*     *     *

つけたしておくと、「過去は関係がない」ということになると、若い女性が入社以来がんばってきたということが、関係がないことになるのである。入社以来、がんばってきたから、つかれがたまっているわけね。その「つかれ」も関係ないことになるのである。

過去は関係がないので、がんばり続けることによってしょうじた「つかれ」も関係がないということになる。

さらに言ってしまうと、「過去はない。未来もない。今現在しかない。今現在に集中すればいいんだ」ということになると、やはり、「がまんして、目の前の作業に集中すればいい」ということになってしまうのである。「がまんして、今現在やっている作業に集中すればいい」ということになってしまうのである。

*     *     *

言霊主義者や過去否定論者が言っていることは、上司が若い女性社員に言ったことと、おなじなんだよ。

どうして、急に、自分は、女性社員の味方だというようなふりをし始めるのか?

どうして、急に、「上司の発言には問題がある」「会社の態度には問題がある」ということを言い始めるのか?

おまえらが、普段、人に言っていることだろ。

ひょっとして、まったく、自覚がないのか? 

*     *     *

「過去は関係がない」ということは、その女性が、入社した時から、ずっとやってきたことが関係ないということになるのである。ずっとやってきたことで、つかれはてていても、関係がないということになるのである。

そして、たとえば、「むりだ」とか「できない」と言えば、ネガティブな発言をしたということになるのである。

ネガティブな発言をするから、ダメなんだということに、なってしまうのである。言霊主義者や過去否定論者の頭のなかでは、事実、そうだということになってしまうのである。

「元気だ元気だ」「できるできる」とポジティブな発言をしなければならなくなるのである。

過去の出来事や、過去の行動は、その人のからだに影響をあたえる。「過去は現在に影響をあたえない」なんてことはないのだ。

過去において、実際に起こったことは、現在の状態に影響をあたえるのだ。

これ、たぶん、ほんとうに、自覚がないんだよ。

自殺して、ニュースなったとする。そうすると、若い女性が、どれだけがんばってきたのかということも、報道される。そうすると、自分が普段、ほかの人に言っていることは忘れて、若い女性に同情するようになるのである。

たとえば、顔写真が載っていたとする。そして、その女性がかわいいタイプの女性だったとする。そうすると、「かわいそうだ」と思うのである。

いちおう、こういうことになると、その女性について考えることができるようになるのである。「頑張り屋さんだった」「努力家だった」ということが、いちおう、報道されるので、報道されたことを信用する人たちは、信用してしまう。この女性が、頑張り屋さんじゃなかったということではない。

問題なのは、権威がある報道機関によって報道されれば、事実になるということだ。普段、相手の言うことは、無視してしまう人が、受けとりやすい状態になる。

相手の物語を、報道だから、認めてしまうのである。

普段、自分が、直接、言われたら、やはり、上司のような発言をするのである。一倍速で経験したことは、わかるということを言ってきたのだけど、報道の説明を聞いたり、週刊誌の説明を読むことは、本人が、自主的に一倍速で体験したことなのである。

相手の話を聴いているときは、相手の話の背景がわからないのである。

ようするに、相手の言っていることは、認めないで、「元気だ元気だと言えばいい」「過去は関係がない」と言ってしまうのである。

まあ、ここらへん、微妙なんだよな。

能動的に背景を理解しようとしたということと、対象が若くて、かわいい女性だということが、重要なんだよ。

こいつらは、たぶん、自覚がない。

普段、自分が、上司のような発言をしているということに、気がついていない。

「どんだけつかれていたって、元気だ元気だと言えば元気になる」とほかの人には言うのである。「つかれるまでの過去は関係がない」と思っているので「過去は関係がない」と言うのである。

能動的に背景を理解する動機がない場合は、言霊主義者は、言霊主義的なことを言い、過去否定論者は、過去否定論者的なことを言うのである。

*     *     *

もうひとつ、つけくわえると、実際に、自殺したあとだということが、たぶん重要なんだろう。

たとえばの話だけど、その若い女性が生きていて、自殺する前に、言霊主義者に相談をしたら、言霊主義者は、上司のようなことを言うのだろう。

そして、過去否定論者も、彼女のつかれを否定して、上司のようなことを言うのだろう。

死んでしまった人のことだから、同情的になれるのだろう。

死ぬ前に、相談されたら、言霊主義者と過去否定論者は、彼女の上司とおなじようなことを言うということが、想像できる。

自殺したから、悲劇ということになっているけど、自殺する前なら、「ネガティブなことを言っているにすぎない」ということになるのである。

「泣き言を言っているにすぎない」ということになるのである。

「できない」とか「つかれた」というのは、ネガティブなことでりあり、言霊主義者や過去否定論者は、「目の前の人」は「ネガティブなことを言っている」と認識するのである。

言霊主義者と過去否定論者は、普段は、そのように認識するのである。けど、自殺したあと、メディアが報道したということになると、「悲劇」として認識することができるのである。

だから、突然、若い女性の側に立ってしまうのである。

言霊主義者と過去否定論者は、普段、上司の側に立っている。上司とおなじ発言をしている。上司のように、若い女性の発言を否定して、はねのけている。

「たいしたことじゃない」と認識して、「元気だ元気だと言えば元気になる」「できるできると言えばできる」「ネガティブなことを言うから、ネガティブなことが起こる」「気にしないようにすればいい」「こだわるから、だめなんだ」「過去は関係がない」「今現在に集中すればいい」と言っているはずだ。 

*     *     *

なに、若い女性の側に立ったようなことを言っているんだよ?

おかしいだろ。

*     *     *

なんで、報道機関が「過去の話」をすると、それは、重視するんだろう……。過去否定論者の話なんだけど、報道機関が、自殺の背景を説明するために過去の話をすることがある。過去否定論者は、「過去は関係がない」と考えるのだから、無視すればいいのに、報道機関が「過去話」をしたときは、無視しないのだ。こんなのは、おかしい。

過去否定論者は、言霊主義者のように、矛盾を感じていないのである。

なんかの事件が起こったとする。過去否定論者は、その事件を犯した人の生い立ちを、雑誌の記事で読むと、「過去は関係がない」とは考えないで、「そういう過去が、犯罪者の心理に影響をあたえたのだろう」と思うのだ。

過去は、関係がないんじゃないのか?

過去は、現在に影響をあたえないんじゃないのか? 

言霊主義者は、本人があたりまえだと思うことに関しては、別に、言霊の力でそうなったとは、考えないのである。それとおなじように、過去否定論者は、報道機関が説明する過去に関しては、「過去は関係がない」とは、考えないのである。おかいだろ。こんなのは、おかしい。 

●「くるしみつづけろ」というメッセージ■言霊※2025/08/24 15:59

自己責任論において、自分を対象とした自己責任論と、他人を対象とした自己責任論があるように、言霊理論においても、自分を対象とした言霊理論と、他人を対象とした言霊理論がある。

自分を対象とした言霊理論も、他人を対象とした言霊理論も、言霊理論自体は、おなじなのである。ただ、対象がちがうのである。対象のちがいは、大きな結果のちがいをもたらす。

自分を対象とした言霊理論は、自己暗示のような言葉の力があるので、有益な場合もある。もちろん、有害な場合もあるのだけど、有益な場合もある。他人を対象とした言霊理論は、有害でしかないのだ。

他人を対象とした言霊理論というのは、「くるしみつづけろ」という呪いの言葉にしかならない。

これは、悪魔の装置なのだ。

もっと、厳密にいうと悪魔の「社会装置」なのだ。

他人を対象とした自己責任論も、けっきょくは、「くるしみつづけろ」「おまえがわるい」というメッセージを送りつけているのである。なので、これも、悪魔の「社会装置」なのだ。

他人を対象とした努力論も、「くるしみつづけろ」というメッセージを送りつけているのである。他人を対象とした努力論も、悪魔の「社会装置」なのだ。

他人を対象としたカルマ論も「くるしみつづけろ」「それで当然だ」「こういうあつかいであたりまえだ(自分や社会がおまえをこういうふうにあつかうのは、あたりまえだ)」という社会的なメッセージを含んでいる。

ようするに、他人を対象としたカルマ論も「くるしみつづけろ」というメッセージなのだ。

他人を対象とした思霊理論も、「くるみしつづけろ」というメッセージを送りつけているのである。

言霊理論の場合は、「言い方が悪かったから、現実化しない」ということになり、思霊理論の場合は、「思い方が悪かったから、現実化しない」ということになるのである。これは、最初から、決まっている。

どっちも、環境を無視したおまじないなので、効力がないことは、はっきりしている。

つまり、言われてやった人は、失敗するようにできているのである。

うまくいく場合だってある」と食いさがるかもしれないけど、それは、「言ったあと」「思ったあと」に、おまじないとは、まったく関係がない別の理由で、そうなっただけなのである。

それを、「おまじないのおかげてこうなった」とほんとうの理由を無視しているだけなのだ。

この場合は、すでに、自分を対象とした言霊理論や、自分を対象とした思霊理論になっている。

言われた他者が、やった時点で、言われた他者の視点にうつっている。言われた他者自身からすれば、自分を対象とした言霊理論になっている。

たいていの場合は、失敗するけど、たまたま、ほかの理由で、言った通りになったり、思った通りになったりする場合はある。

けど、それは、言霊理論が正しいということの証明にならないし、思霊理論が正しいという証明にもならないのだ。努力論の場合も、環境が悪ければ、たいていの場合、失敗するようになっているのである。

そして、くるしみ続けることになるのである。努力論においては、成功した場合でも、くるしみ続けることになるのである。名前だけ店長は、その日一日、努力することに成功したのである。

努力をしてやり遂げたのである。成功した。

しかし、それを毎日一五年間続けて、体が悪くなったのである。限界をむかえたのである。名前だけ店長は、一五年間毎日、努力することに成功し続けてきたのである。

けど、そのあいだじゅうずっと、くるしかったのである。他人を対象とした努力論だと「もっと続ければいいじゃないか」ということになるのである。

2025年8月23日土曜日

●たいていの人は、デフォルトで、理解しないのである■騒音※2025/08/22 22:32

 あまりにも特殊な人にやられ続けたので、ほかの人が理解できないのである。ほかの人の「理解する枠」を超えたことが、起こったのである。

どうしてかというと、きちがい兄貴が、きちがい兄貴だからだ。

これ、俺だって自分の兄のことを、きちがい兄貴とは呼びたくない。

しかし、やったことがひどすぎる。

そして、これは、毎日毎日やったことなのだ。当然、積み重なれば、影響がでかくなる。積み重なった悪影響を、改善することができなくなる。

ところが、ほかの人には、きちがい家族がいないので、ぼくがされたことが、どういうことなのか、わからないのである。

どうしたって自分の枠内で、理解しようとする。そうすると、やられたことがないことに対する理解なので、ズレてしまのである。兄貴が特殊すぎるので、うちの兄貴のようなことをする人がいない。ほかにはいない。

だから、ほかの人は、兄貴のような家族とは、一緒に住んだことがないのである。一生のなかで、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んだことがないのである。だから、兄貴のような家族に、やられたことがないのである。

だから、やられると、どういうところにまで、影響が出るのかということについて、考え違いをしてしまうのである。

そして、他人のことは他人のことだから、基本的に関係がないわけである。他人が、あることでくるしんでいても関係がないわけである。自分がくるしいわけじゃないからだ。

兄貴がやったことは、騒音という、だれもが経験することなのだけど、兄貴のやり方が異常なので、異常な騒音にくるしむことになったのである。

けど、異常な人が鳴らす、異常な騒音が毎日続いたことがない人が、大半なので、この人たちは、きちがい的な家族がもたらす異常な騒音を経験していないのである。何度も言うけど、他人のくるしみなんて、いたくもかゆくもないのである。

だから、「こうすればいい」と、頭がおかしいことを言うことができる。

もう、これ、兄貴が、普通の人がやらないことを、十数年間という長期間にわたってやったときから、決まっているのだ。そんなの、実際にやられなければ、理解できるはずがないことだ。

だれだって、つかれたことはあるけど、きちがい家族によって、つかれたことは、少数者しか経験していないことだ。

そして、うちの場合、きちがい兄貴の感覚や、きちがい兄湯のやり方が、ほんとうにきちがいなので、ほかの人にはわからないということになる。ほかの人というのは、きちがい家族と一緒に住んでいないほかの人という意味だ。

すべての人とは言わないけど、たいていの人は、デフォルトで、理解しないのである。

ネガティブなことを言うことは、悪いことで、ポジティブなことを言うことは、いいことだということになっている。なっているとする。

その場合、実際の個人差というものを、ガン無視して、そういうことを言っているわけである。個人の環境なんて、月とすっぽんだ。個人の環境なんて、ぜんぜんちがう。環境がもたらすことを、無視することはできない。

しかし、これに関しても、「無視がデフォルト」なのだ。無視して当然。無視して、ものを言って当然だということになる。

環境が悪い人……多くの悪い条件をかかえている人に……「言えば言ったことが現実化するので、ポジティブなことを言えばいい」と言うこと自体が、ポジティブなことか、ネガティブなことかというと、ネガティブなことだ。

これがわかってない人たちがいる。

これがわかってない人たちが、いっーーーぱいる。

一見ポジティブに見えるけど、相手の条件を無視しているという点で、すでに、ネガティブなのである。相手の条件を無視した助言というものは、もう、言った時点で、ネガティブなことをしたということになるのである。

どうしてかというと、相手の条件を無視したからだ。 

● ほんとうは、「言うこと」に「魔法のような力」は、ない■言霊※2025/08/23 5:22

ほんとうは、「言うこと」に「魔法のような力」は、ない。宿っていない。そんなチカラは、「言うこと」に宿っていない。

けど、あたかも、「宿っている」ように言うのである。

もちろん、嘘だ。しかし、嘘がたくみなのである。

だから、例から、全体について言うような言い方で言われると、全体性があるということを信じてしまう人たちが、続出することになる。

そして、やっかいなのは、こういう嘘を言うことが、ポジティブでいいことだと思われていることなのである。人をだますことは、よくないことなのに、「ポジティブでいいことをした」と、思うようになっている。

言霊教祖が、言霊信者を量産するとき、言霊信者になる人たちをだましているのだけど、その行為は、いい行為だと言われるのである。こんなのは、ない。

嘘を言って、人をだましている。

「いい結果になる」のだから、いいじゃないかと思うかもしれないけど、「いい結果になった」と思う人と、悪い結果になったと思う人が出てくる。

いい結果になったという思う人は、だまされたあと、自分をだましきって行動をしたことにより、自分の主観的な範囲では、いいことが起こったと思った人なのである。

しかし、そういうことがたとえ、発生したにしろ、だまされたことにはかわりがないのである。言霊教祖が、嘘を言ったということにはかわりがないのである。

そして、「いいことがあった」と思う人たちが、今度は、言霊教祖のようなことを言う人になって、他の人をだますようになるのである。

この人たちは、言霊教祖のように、セミナーをして、カネをもらうわけではない。善意で、「教えてあげる」だけだ。

しかし、言霊理論には嘘があり、言霊理論を口にするときに、相手の条件をガン無視するので、いいことをしていないと言える。

しかし、この人たちは、理論的に物事を考えることが苦手なので、そのことに、気がつかない。自分で自分に一〇〇%詐欺をして、相手にも、一〇〇%詐欺をすることになる。

この人たちは「言えば言ったことが現実化する、こともある」ということと「言えば言ったことが現実化する」ということの区別がついていない。

悪意はないのだろうけど、自分に対しても、人に対しても、一〇〇%詐欺をすることになってしまう。 

そして、助言をするほうに、悪意はないのだろうけど、「条件をガン無視されること」を言われると、腹がたつ人が一定数いる。条件が非常に悪い人たちや、複数の悪い条件をかかえている人たちだ。この人たちは、日常のいろいろなことで、こまっているのだけど……、

それは、言霊的な解決方法では解決しない。

どうしてかと言うと、言霊的な解決方法というのは、人をだますためのまちがった解決方法だからだ。言葉の力がいい影響をあたえることはあるかもしれないけど、それは、言葉の力であって、言霊の力ではない。

そして、実行できるという点で、環境が実行できる環境なのである。実行できる状態だから、実行できるだけなのである。「できるできると言って、がんばって勉強したから、資格試験に受かった」とする。

『受かったのだからいいじゃないか。できるできると自分を鼓舞して、勉強をしたのだから、いいじゃないか』……と思うかもしれない。

けど、それは、言霊の力ではないのである。言霊の力で、資格試験に受かったわけではないのだ。ここらへんも、誤解をしている。

こういうことを、言霊思考の『成果だ』と思っている人たちがいる。

けど、それは、単なる勘違いだ。

そして、まさしく、言霊があるから、自分の身にこういうことが鵜こったのだと思っている人がいるけど、それも、勘違いだ。言霊の力ではなくて、言葉の力だ。

そして、それは、実際の行動をサポートしただけなのである。この場合、実際に勉強をしたという行動を無視することはできない。

資格試験に受かったのは、実際に、勉強したからだ。

もちろん、内部環境として、自分の才能などが影響している。複数の内部的な条件が、悪いと、勉強しても、合格しない。

「言霊のおかげで、資格試験に受かった」と思っている人は、実際に、自分が行動したということを、言霊のせいにして、無視している。

せいぜいのところ、言葉の力を使って、勉強するという行動を続けたということなのだ。

自己暗示の力はあるし、自己暗示が自分の行動に影響をあたえることはある。

しかし、言葉による自己暗示は、言葉の力だ。言霊の力じゃない。言えば言ったことが(言霊の力で)現実化するのであれば、「試験に受かる」と言ってしまえば、試験に受かるのだ。言霊の力で試験に受かる。一〇〇%の確率で、試験に受かる。

だから、言霊の力を信じているのであれば、勉強する必要がないのだ。言えば言ったことが現実化するので、「受かる」と言ったら「受かる」のだ。「受かる」と言ったのに、受からないなんてことはないのだ。受かると言っても、受からないかもしれないと思って、勉強をするという行動をするのは、言霊の力を信じていないからなのである。

そして、お決まりの、言葉の力を言霊の力だと思うコースに突入する。

これ、勘違いだから……。

ほんとうは、内部環境が満たされていて、実際に行動したから、そうなったのである。ようするに、受かったのである。言霊の力なんて、一切合切関係がないのである。

*     *     *

内部環境や外部環境なんて、一切合切関係なく、ただ「言ったか言わなかったか」で、結果が決定されてしまうなんて、おかしいと思わないのか?

現実を見ればわかるだろう。

内部環境も外部環境も関係がないというのが、現実を無視した考え方なのだ。実際には、特に外部環境と「成功」の関係がある。相関関係が高い。そして、ほんとうは、因果関係もある。因果関係のことは、横に置いておくとして……相関関係が高いということから、目をそらせるにはどうしたらいいのか?

相関関係が高いということから、目をそらせるには、「言ったことが現実化する」ということにしておいたほうがいいのさ。

内部環境がめぐまれていないやつ……外部環境がめぐまれていないやつ……どっちも恵まれていないやつ……そういうやつらが、「言ったことが現実化する」「これが正しい」と思ってくれれば、特権的に外部環境がめぐまれているやつは、徳をすることになる。

そして、内部環境に関しては、じつは、外部環境がよければ、それにつれて、内部環境もよくなる傾向がある。内部環境がよければ、外部環境がよくなる場合もあるけど、ちょっと特殊だ。

外部環境がダメで、内部環境がいい場合は、外部の人から、「内部環境がいい」と認識されなければダメなのだ。特殊な才能があるから、特殊な才能を伸ばしたほうがいいと考える、外部の人が出てくるかどうかがカギになる。

ともかく、めぐまれないやつらが、「言ったことが現実化する」と思って、格差に目をむけないほうが、支配者階級にとっては、いいことなんだよ。 

 

 

2025年8月22日金曜日

●「こういう方法でがんばればいいんだ」■騒音※2025/08/22 11:24

 どのみち、鳴りはじめたら、どれだけなにをしてもダメだったんだ、ということが、よくわかる。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚で、あれをずっと鳴らしたら、こっちが、どれだけ気にしないようにして、がんばっても、だめだったんだということが、よくわかる。けど、他人は、この部分がないわけだ。実際に、一日もやられてないから、わからないのだ。俺が、長年、毎日ずっと、がんばっていたということが、まったくまったく、わからない。そして、一日ずつ、つもっていく感覚も、わからないのだろう。わかるわけがない。だから、「元気だ元気だと言えば元気になる」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言うのだろう。これ、わかってないから、言う言葉なんだよ。わかってないから言う言葉だということも、わかってない。これがまた、言霊主義者のように、どれだけこっちが、理論的に説明しても、ダメなのだ。相手は、わからない。相手は、相手の感覚でものを言う。だから、何度も言うけど……きちがい兄貴が鳴らし始めた時点で、こういうことを言う相手とは、決裂しているわけ。ヘビメタ騒音の影響をガン無視する相手とは、言いあらそいになることが、きまっている。絶対に、わかりあえないことが、決まっている。『影響をうけないことは可能だ』ということを言う人は、ぼくの、敵なんだよ。敵にならざるをえない。そして、相手だって、俺のことを不愉快なやつだと思うわけ。「なんだ、こんにゃろう」という気持になる。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚で、こっちが言うことを無視して、鳴らし続けた時点で、決まっている。 

この人たちは、実際にやられていないので、実生活の感覚を無視してしまうのだ。どうしたって、やられれば、不可避的に影響をうけるという部分を蒸してしまう。不可避的に影響をうける」という必然性を無視してしまう。どれだけ、なにを言ったって『影響をうける』のだ。「影響をうけない」と言っても、影響をうける。この人たちは「影響をうけない」と言えば、影響をうけないと思っているのだ。けど、それは、空論だ。実際に、影響をうけて暮らしていないから、わからないだけだ。どういう時間があるかわからないのだ。そして、相手が、がんばってきた期間を無視してしまう。相手が、どれだけがんばったかを無視してしまう。期間の長さを無視してしまうというのは、問題がある。これ、ほんとうにまったくわかっていないんだよ。実際に、影響をうける。そして、影響をうけた状態で、辛抱して、がんばっている時間の長さを無視してしまう。影響をうけた状態で、辛抱して、がんばっている期間の長さを無視してしまう。実際に、影響をうけるていないので、本人が、無理解な言葉を発しているときは、それこそ、自分が正しいことを言っていると思っているのだ。つまり、『影響なんてない』と思っているのだ。これが、耐えて、耐えて、耐えて、がんばってきた人をどれだけ愚弄したことか、わかっていない。そりゃ、『影響なんてない』と思っているわけだからな。愚弄するな。侮辱するな。がんばっているときの……ものすごくいやな感覚を無視して、ものを言っている。それだけで、相手を愚弄している。相手を侮辱している。わかってないんだよな……。相手がものすごくいやな環境のなかで、がんばってきたということを無視してしまうので、相手が、これから、「こういう方法でがんばればいいんだ」ということを言ってしまう。「できるできると言ってがんばれば、それで問題解決なんだよ。自分だって、騒音はあったけど、そうやって頑張っている」と言うわけ。いやーー。ぜんぜん、ちがうレベルの騒音について語っているということがわかってない。わかっていないのは、こいつらが、「こういう方法でがんばればいいんだ」ということを言っているということから、わかる。こんなのは、わかっていないから、言っているだけなんだよ。経験していないから言っているだけなんだよ。こいつらは、ほんとうに腹がたつ。もちろん、こういうことの原因をつくったのは、きちがい兄貴だけどな。こういうやつらから、こういうことを言われる原因をつくったのは、きちがい兄貴だということだ。こいつらは、経験がないから、わかっていないだけだ。実際に、こいつらのまわりには、きちがい兄貴のような家族がいないのである。その家族が、きちがい的な意地で、ほかの誰も鳴らさないような騒音を鳴らし続けるということがなかったのである。だから、実際にそうされると、どれだけがんばっても、こういう状態になる……ということがわかってない。こういう状態ですごした、すべての時間を無視して、「こういう方法でがんばればいいんだ」ということを言う。わかってない。……わっかっていない。わかっていない。

こいつらは、一日中続く、身体感覚を、無視している。一日中、続く、身体感覚を、無視するな。無視しているということにすら、気がつかないんだろうなぁ。その、無視しているということに気がつかないというところも、きちがい兄貴に似ている部分があるんだよなぁ。ほんとうに、腹がたつ。ほんとうに、いやなやつらだな。 

相手の身体感覚を無視して、妄想的なことを言っているということが、わかっていない。そりゃ、前提に妄想があることだから、妄想的なことなんだよ。まちがっていることなんだよ。「理論的にまちがっている」ということを説明しただけで、こいつらが、おこりだすということも、決まっている。それじゃあ、うまくいくはずがない。きちがい兄貴が、こいつらが理解できないことをやっている。こいつらは、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んでいないから、きちがい家族の影響をうけたことがない。こいつらが経験したいやなことというのは、きちがい家族にやられたことじゃないのだ。もう、そこからしてちがう。きちがい家族に、毎日やられることによって発生した、特殊な身体感覚がわかっていない。自分のこととしてわかっていない。自分のこととしてわかっていないので、軽く考えたり、無視して、妄想的な提案をする。現実的な提案だと思っているのだ。いやーー。妄想的な提案でしょ。相手の状態を……相手の身体感覚を……無視している。無視しているということも認めないで、腹をたてるというのか? いや、普通に腹をたてているみたいだな。自分が相手の身体感覚を無視しているということがわかっていない。自分が妄想的なことを言っているということがわかっていない。これ、妄想的なことなんだよ。むりなことなんだよ。身体感覚がわかっていないから「むりなことじゃない」と思っているだけだ。 

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たとえば、一五年間、過酷な労働に耐えてきた「名前だけ店長」の身体感覚を無視して、「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」と言うのは、ひどいことなのである。なんでこれがわからないかな? 「俺だって苦労した」とひとこと言えば、名前だけ店長とおなじレベルの苦労をしてきたということになると思っているみたいだけど、これも、ちがう。名前だけ店長の身体感覚を無視している時点で、おなじような苦労はしていないということがわかる。 「過去は現在に影響をあたえないので、今現在に集中してがんばればいい」ということになってしまう。いやーー。過去は現在に影響をあたえるでしょ。どうして、そういう「アタオカ理論」を口(くち)にするんだ?

一五年間、毎日やってきたということを、無視しているのである。そりゃ、毎日、三時間しか眠れないなら、つもるものがある。疲労と言えば、疲労なのだけど、名前だけ店長の身体感覚を無視しているのである。言霊主義者なら「つかれると言うから、つかれる」「つかれないと言えば、つかない」というような言葉が、続くわけ。過去否定論であって、言霊主義者である人いるから、 「過去は現在に影響をあたえない」「つかれると言うから、つかれる」「つかれないと言えば、つかない」と連続して言う場合もある。自分だってつかれている」のだから、「つかれているからできないというのは、いいわけだ」とか「つかれているからできないというのは、あまえだ」と言うことだってできるのだ。「できると言えば、できるのに、できないと言ってあまえている」と言うことだってできるのだ。けど、こんなことを言うやつらが、名前だけ店長と同レベルのつかれなんて、経験しているわけがないのだ。ほんとうに、夜郎自大。「アタオカ理論」で、人をせめるのはやめろ。

同レベルの経験をしたことがないから、相手の身体感覚を無視できる。相手の身体感覚がわかってないから、頭がおかしいことを言うことができるだけ。無理なことを言うことができるだけ。ただ、それだけ。普段、自分がどういう生活をしているのか、まったくわかっていないのだ。 

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ヘビメタ騒音が鳴り始めたということは、そのときから、俺が、全力で頑張って、むりなことをしているということになるということが、わかっていないのだ。「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」と思っているので、どれだけ長く、毎日、ヘビメタ騒音が続いても、ぼくのからだが、やられる前のからだとおなじだと思っている……。そういうところがある。相手の身体感覚を、無視する。無視したということにも、気がつかない。どれだけの長さ、ぼくが、くるしい条件下でがんばってきたかということを、無視してしまう。何度も言うけど、無視したということにも、気がつかない。 

●いやなやつが、次から次へと登場することになるのである■騒音※2025/08/21 18:51

ヘビメタ騒音というハンディがあると、いやなやつが、次から次へと登場することになるのである。

きちがい兄貴は、特殊なんだよ。ほかの人が、絶対に、家ではやらないことをやっている。

しかも、きちがい兄貴本人が、「ほかの人が家では鳴らさないような音で、鳴らしている」という自覚がない。やったっていいことをやっているつもりしかないのである。

だから、こまる。

特殊な家族による、特殊な騒音だから、ほかの人が、経験したことがないような騒音なのである。

だから、鳴らされたあと……眠れなくなるということがわからない。

これの一部は、きちがい兄貴の態度に対するいらだちも、関係している。そりゃ、そうだろ。普通の人が、工事で、音を鳴らしているわけではないのである。ぜんぜん、ちがう。

こういう文脈や、音を鳴らす人の認知が、騒音に対するいらだちに、影響をあたえるのである。

どれだけ、「そんなにでかい音で鳴っているとこまる」ということを(きちがい兄貴に)言っても、きちがい的なモードで、まったく、認めないのだ。

これは、いちおう、騒音というのは、迷惑なものだということがわかっていて、自分の騒音に関して認めないというような態度ではなくて、「騒音」なるものが、自分にとって(兄貴にとって)まったく、わからないものだからわかないという態度だ。

「騒音で不快になったことがまったくないやつの態度」なのだ。騒音に反応する脳みそがまったくないやつの態度なのだ。ところが、きちがい兄貴は、騒音で不快になったことがあるやつなのだ。

きちがい兄貴だって、苦手な音はあり、苦手な音だと、うるさく感じて不快になるのだ。普通のうるさい音にも、ちゃんと反応するのである。

だから、「騒音」というものがどういうものか、わかっているのでる。

ところが、それに対応する……騒音に対応する脳みその回路がそもそもないというような感じで、無視する。この無視のしかたが、特別なのだ。

ほかの人だと、自分がどれだけやりたくても、そういうところまではずれていないので、「騒音は不快だ」ということがわかっている状態で、拒否するわけだろ。「しずかにすることを拒否するわけだろ。

ところが、きちがい兄貴の場合、ほんとうに、わかってない状態になる。実際には、もちろん、きちがい兄貴は、自分が音を騒音だと感じることがあるのである。けど、まったくそういうことがないというようなところまで、ズレて、まったく認めないのだ。

まったく認めないやつというのは……こっちにとっては……腹が立ってしかたがないやつなのである。

そういう、腹が立ってしかたがないやつが鳴らしている、きちがい騒音なんだよ。ものすごくでかい音なんだよ。よその家では、あんな音では鳴ってないんだよ。

そういう、きちがい的なやつが、「あたりまえだ」と思って鳴らしている騒音。そういう、きちがい的なやつが、「悪いことをしているわけではない」と思って鳴らしている騒音。そういう、きちがい的なやつが「迷惑をかけてない」と思って鳴らしている騒音。腹がたつだろ。腹がたつ。

あの音のでかさで、あの至近距離で、自分がきらいな音を、強制的に、何時間も何時間も聞かされたら、眠れなくなる。鳴り終わったあと、眠れなくなる。

これが、わからないやつらがいる。そいつらが、「自分だったら眠れる」と思ってくそを言ってくるのである。そういうことになってしまう。

きちがい兄貴が、きちがい的な基準で、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、きちがい騒音を鳴らさなかったら、こいつらになめられることもないのだ。

過去否定論者は、過去は関係がない」と言って、何時間も何時間も、強制的に、自分のきらいな音を、ものすごい怨霊で聞かされたということの影響を認めないのである。

「過去は関係がない」からだ。

けど、こいつらだって、おなじことをされたら、やっぱり、眠れなくなるのである。もちろん、照明はできない。そして、こいつらの家族が、きちがい兄貴のような家族ではないから、そういうこと……俺とおなじことを経験しないのである。

こいつらは、人生のなかで、俺とおなじ騒音……きちがい兄貴の態度で鳴らす、きちがい的な騒音を経験していないのである。きちがい的な家族が、きちがい的な感覚で鳴らし続ける騒音というのを、経験していないのである。

こいつらは、夜郎自大な性格だから、これたま、「自分なら平気だ」と思って、くそを言うのである。ほんとうに、頭にくる。頭にくる。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。