2025年12月31日水曜日

●実際の場面では、条件は関係があることなのである■社会※2025/12/31 16:07

ヘビメタ騒音が毎日続くことは、ほんとうに、ひどいことなのに、九九・九九%ぐらいの人が、まったくわかってくれなかったなぁ。こいつら、みんな、誤解をしている。きちがい兄貴が、普通の兄貴ではなくて、かわっているので、わからないのも、しかたがないけど……。それにしても、ひどすぎる。九九・九九%の人を「みんな」と表現してしまうけど……。みんな、言霊主義者のように誤解をするのである。みんな、思霊主義者のように誤解をするのである。完全に誤解なんだけど、どれだけ説明しても、わかってくれない。これ、理論的なことだから、理論的なことがわかる脳みそがある人なら、わかることなのである。感情とか、経験とか関係なく、理論的なことがわかる脳みそをもっている人なら、理論的なことは、つたわるはずなのである。ところが、理論的ことがわかる脳みそをもっているひとが、極端に少ないので、みんな、誤解があることを言うのである。誤謬があることを言うのである。勝手な決めつけをして、こっちをバカにしてくるのである。これは、信念にかかわることだから、説明をしても、簡単にはかわらない。この誤解は、一般的なものだから、誤解をしている人のほうがスタンダードだということになる。けっきょく、理論的なことも含めて、きちがい兄貴がきちがい的な意地で、きちがい的な感覚でやったことは、みんなに、理解されないのである。そうなると、わからないやつらは、勝手な決めつけをして、こともあろうに、俺をせめるのだ。こんなのない。こいつらだって、苦手な音をあれだけの音のでかさで、あれだけの頻度で、あれだけの時間の長さ、やられれば、おなじような「体の状態」になるのに、まったく、認めないのである。ここで書いてきたけど、「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音下で暮らしているからだ。そして、きちがいヘビメタ騒音下で暮らした年月が一〇年つみかさなれば、一〇年つみかさなっただけの「負の効果」があらわれるからだ。こいつらだって、苦手な音をあれだけの音のでかさで、あれだけの頻度で、あれだけの時間の長さ、やられれば、おなじような「精神状態」になるのに……まったく、認めないのである。やられていないから、わからないだけだ。同レベルの経験がないからわからないだけだ。だから、同レベルの経験がない状態で、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言うわけだ。自分なら平気なつもりなのだ。これは、優越感だ。だから、基本的に、こっちを見下して、バカにしてくるわけなのである。そして、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」というのは、条件を無視した話なのに、「どんな条件でもそうなる」と誤解をして、クソを言ってくるのだ。でっ、何度も言うけど、これは、言霊主義者に限ったことではなくて、みんな、おなじようなことを言ってくる。おなじような態度で、おなじようなことを言ってくるのだ。「努力をすれば成功する」という言葉は、別に、精神世界の人ではなくても、言う言葉だ。「すべては自己責任」という言葉も、別に、精神世界の人ではなくても、言う言葉だ。こいつらみんな、自分の言っていることは、正しいと思っている。条件を無視していると移行とに気がつかない。条件について言及すれば「そんなのは関係がない」と言い放ち、自分が言っていることが正しいと言い張るのだ。つまり、「条件なんて関係がない」ということを言うのだ。こんなのは、アホだ。アホすぎる。条件に関係なく、成り立つことについて言及しているつもりなのだ。こいつらは……。けど、条件が関係あるのである。実際の場面では、条件は関係があることなのである。条件に関係なく、成り立つことについて……この人たちは、言及しているつもりなのだけど……まちがっている。

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どんな条件でも、できると言えばできる……なんて、どれだけひどいことを押しつけているか、わかっているのか……と言いたくなる。どんなにひどい条件でもできると言えばできる……。自分はできるつもりでいるんだよ。実際に、その条件でやろうとしているわけでないから、できると思っている。想像力がない人が想像しているから、自分なら平気だと思っている。どんなにひどい条件でも、できると言えばできる……なんて、ほんとうに、どんだけひどいことを言っているのか……わかっているのか?

「どんなにひどい条件でも、できると言えばできる」と言っているやつらは、ほかの人にひどいことを押しつけて、悦に浸っている変態だ。そういうレベルのやつらなんだよ。

2025年12月30日火曜日

●ニセの原因をつくって、人をせめるのはやめろ■社会※2025/12/30 20:20

 悪い空気のところに住んで、肺病になった人に「よくなるよくなると言うと、よくなる」と言うのは、いいことなのか悪いことなのかというと、悪いことだ。

悪い空気のところに住んで、肺病になった人に「なおるなおると言うと、肺病がなおる」と言うのは、いいことなのか悪いことなのかというと、悪いことだ。

どうしてかというと、空気が悪いところで、どれだけ「なおるなおる」と言っても、なおらないからだ。

「病気になると思ったから、病気になった」という決めつけをした場合も、おなじだ。

もともと、「病気になると思ったから病気になった」のではないのだ。悪い空気が原因で病気になったのだ。「思い」は関係がないのである。

けど、後出し思考をする人は「実際に病気になったのなら、病気になると思ったにちがいがない」と思ってしまうのである。

これも、推論自体が間違っている。思ったから病気になったのではなくて、悪い空気によって……悪い空気の中に含まれている物質によって……病気になったのだ。

だから、病気になった人に、「病気になると思ったから病気になった」というのは、ひどいことなのである。勘違いの原因をつくりだして、病気になった人のせいにしてしまう。

これと、自己責任論がつけば、「病気になる」と思った人の自己責任だということになってしまうのである。本当に必要なのは、空気を浄化することなのである。悪い空気という条件をかえることなのである。

ニセの原因をつくって、人をせめるのはやめろ。

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悪い空気のなかで「なおるなおる」と言っても、なおらないことが決まっている。どうしてかというと、「悪い空気」によって、病気になったからだ。手短に言うと、ニセの希望をもたせて、挫折させるということになる。挫折することが、最初から決まっているのである。でたらめなことを言っているだけなのである。余裕がある人が、でたらめなことを言っているだけなのである。

たとえば、いい空気の中で生活しているAさんがいたとする。そして、悪い空気のなかですごしているBさんがいたとする。そしてさらに、Bさんが肺の病気になったとする。

Aさんは、自分のことではないので、余裕があるのである。AさんにとってBさんの「肺の病気」というのは、自分の「肺の病気」ではないので、余裕があるのである。

そして、Aさんが、精神世界を信じている人だと、「Bさんが病気になると思ったから病気になったのだ」と言い「Bさんが、なおるなおると言えばBさんの病気がなおる」ということを言うのである。ひとごとなのである。余裕があるのである。

Aさんは、自分の推論が正しいと思って譲らない。そして、Aさんは実際に悩んでいない。Aさんは、悪い空気のことでこまっていなのだ。Aさんの身の上には、悪い空気によって、肺の病気になるという出来事か発生していない。発生していないのだ。

けど、Aさんは、Aさんで、「よかれ」と思って、「実用的な方法」を教えてやっているつもりなのだ。当然、(方法に)自信があるので、方法が無効だということを言われると、腹を立てやすい傾向がある。精神世界の人にはそういう傾向がある。ぼくの経験の範囲で言うと、一〇〇%の人が腹を立てたのである。

Aさんが実用的な方法だと思っている方法は、ぜんぜん実用的な方法ではないのである。どうして、そうなってしまうかというと、Aさんが、原因について間違った考えをもっているから、そうなってしまう。Aさんは、Bさんが肺の病気になった原因について、間違った考えをもっているのである。 

もともと、悪い空気が原因なので、Bさんがどれだけ「なおるなおる」と熱心に言っても、なおらない。悪い空気のなかで、Bさんがどれだけ 「なおるなおる」と熱心に言っても、なおらないということが、決まっている。そうなると、Aさんは、「Bさんが、なおるなおると言ったときの言い方が悪かったから、なおらないのだ」ということを言い出すのである。これも、決まっているのである。

●間違った推論をして「否定できる」と思っているだけ■社会※2025/12/30 19:36

遺伝の問題で、いい空気の中で暮らしていても、肺の病気になる人のことを考えてみよう。ようするに、悪い空気の中で暮らしていても、肺の病気になることはあるし、いい空気の中で暮らしていても肺の病気になることがある世界について考えてみよう。

原因が、空気と遺伝子のふたつある場合だ。

たとえば、Aさんが「いい空気の中で暮らしていても肺の病気になる人はいるのだから、空気の問題ではない」と言ったとする。空気の問題なのであれば、いい空気の中で暮らしている人が肺の病気になることはないという理論を(Aさんが)主張したとする。

けど、この理論は、まちがっている。最初の設定では、悪い空気の中で暮らしていると一〇〇%の確率で、肺の病気になるのである。

そして、遺伝の問題で、病気になる人がいるにしろ、「悪い空気の中で暮らしているから、肺の病気になった」という理論は、正しいのである。Aさんの推論が間違っているのである。

いい空気の中で暮らしている人が肺の病気になったということは、『空気原因論』を否定しないのである。

ところが、Aさんが勝手に間違った推論をして「否定できる」と思っているだけなのだ。

空気が悪いところに住んでいる人は、空気が悪いから肺の病気になっている。たとえば、空気がいいところに住んでいるのに、肺の病気になった人をBさんだとする。Bさんは、空気の悪さではなくて、遺伝の問題で肺の病気になったのだ。

Bさんが肺の病気になったということは、空気が悪いところに住んでいる人たちが、空気の悪さによって肺の病気になったいうことを否定しないのである。 

空気がきれいなところでも、肺の病気になった人がいるので、「空気の悪さによって肺の病気が引き起こされる」という『空気原因論』は間違っていると主張している人は、間違っている。空気がきれいなところにいる人が、ひとりでも、肺の病気になったのであれば、『空気原因論』は間違っているという推論は、間違っているのである。

空気がいいところに住んでいる人が、肺の病気になったということは、『空気原因論』を否定しないのである。Bさんは、遺伝の問題で肺の病気になったのだから、『空気原因論』を否定できない。 

●この決めつけは間違っている■社会※2025/12/30 0:06

 条件を無視した話というのは、よくない話なのだ。

しかし、言霊、思霊、引き寄せ、努力論、自己責任論というのは、条件を無視した話なのだ。

だから、それらの言説というのは、じつは、悪い効果をもっている。それらの言説というのは、社会に対して良い効果ではなくて、悪い効果をもっている。

条件というのは重要だ。たとえば、いい空気と悪い空気について考えてみよう。いい空気のところに住んでいる人は、普通に暮らせる。けど、悪い空気のところに住んでいる人は、時間の問題で肺の病気になるとする。まあ、悪い空気の内容によっては、ほかの病気にもなるだろう。これは、空気の成分がもたらす結果だ。だから、空気という条件が重要なのである。

「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」とする。この場合、よい空気のところに住んでいる人も、悪い空気のところに住んでいる人も、みんな、「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということになるはずだ。

ところが、悪い空気のところに住んでいる人は、明るいことを考えても、「肺の病気になるという」悪いことが起こることが決まっているのである。

いっぽう、いい空気のところに住んでいる人は、すくなくても、空気が原因で「肺の病気になるという」悪いことが起こらないようになっている。

もちろん、ほかの原因で、肺の病気になる場合はあるのだけど、すくなくても、悪い空気によって、肺の病気になることは避けられるのだ。

この結果は、「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということとは、一切合切、関係がないことなのだ。

しかし、いい空気のところ住んでいる人は、「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と言って、悪い空気のところに住んでいる人が肺の病気になったことを、悪い空気のところに住んでいる人のせいにすることができるのだ。

悪い空気のところに住んでいるということが、ほんとうの原因なのに、肺の病気になった人は、「暗いことを考えたから、肺の病気になったのだ」と責めることができるのである。

もちろん、ほかの条件が一緒なら「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考えに関係なく、いい空気のところに住んでいる人は、悪い空気のところに住んでいる人よりも、肺の病気になりにくいということが言える。

ほかの条件が一緒なら、いい空気のところに住んでいる人は、悪い空気の影響を受けないので、悪い空気が原因である肺の病気にはならないのである。

とりあえず、いい空気のところに住んでいる人と、悪い空気のところ住んでいる人の、ほかの条件はおなじだとする。これは、遺伝子的個体差をこえて、おなじだとする。

その場合、肺の病気になったかどうかというのは、「明るいことを考えたか 暗いことを考えたか」のちがいではなくて、いい空気のところに住んでいるか、悪い空気のところに住んでいるかのちがいによって、決まるものなのである。考え方は、一切合切関係なく、「いい空気」か「悪い空気」かでちがってくる。考え方の差が、結果の差をもたらすわけではないのだ。これが重要だ。

そして、とりあえず、肺の病気になっていない人が、肺の病気になっている人をせめることができるということも、非常に重要なことなのである。

これは、行為としては、悪いことをやっているとぼくは思う。

けど、前投稿のように、本人は、悪い行為をしているつもりなんてない。「明るい考え方を持てば、肺の病気にならないのだから」いい行為をしていると思うだろう。

やっている人はそう思うだろう。

だって、本人の意識としては「病気にならない方法」を教えてやっているのだから、いい行為にちがいがないのである。しかし、まちがった認識に基づいた、悪い行為なのである。

思霊理論は、一般的には、自己責任論とともに語られることはないけど、思霊もこの点において、自己責任論なのだ。実際には、運用において、思霊理論は他人を対象にした自己責任論になる。

「暗いことを考えた人が、病気になったのだから、そんなのは自己責任だ」ということになる。

ほんとうは、空気の問題なのに、空気の問題であるということを無視して、「その人(病気になった人)が暗いことを考えたから、病気になったのだと決めつけてしまうのである。

この決めつけは間違っている。間違っているし、病気になった人に対して、たいへん失礼な決めつけなのである。

まちがった決めつけをされて不愉快になる人はいる。その場合、まちがった決めつけをした人は、まちがった決めつけをされた人に、まちがった決めつけをされた人がいやがることをしているということになる。

別に、人がいやがることをしようと思って、人がいやがることをしているわけではないのだけど、結果的に、人がいやがることをしているケースが発生する。

*     *     *

空気の悪さと空気のよさが、肺の病気になるかどうかを決定しているというモデルについて考えてみた。言いたいのは、ほんとうは、空気の問題なのに、「その人がどう思ったか」の問題にすり替えて、「その人」が悪いことを思ったから病気になったんだと決めつけることだ。

しかも、ほんとうは、まちがったことを言っているのに、まちがったことを言っていると認めないのである。精神世界の人たちは認めない。原因の帰属理論が間違っているのである。精神世界の人は、最初から、「原因」について間違った考え方をもっているのである。

その間違った考え方に基づいて現実を解釈してしまうのである。相手の現実を、まちがった考え方に基づいて解釈してしまうのである。決めつけてしまうのである。

しかし、多くの場合、精神世界の人が、自分の間違いを認めることはない。「絶対に、自分の考え方が正しい」と言い張ることが多い。ぼくの経験の範囲だと、すべての精神世界の人がそういう反応をした。

精神世界の人は、人には、「受け止め方をかえればいい」と言うのだけど、自分の受け止め方は、頑固にかえない傾向がある。

精神世界の人は、人には、「相手をかえることはできないから、自分がかわるしかない」などと言うのだけど、条件が悪くてこまっている人の考え方にあわせて自分の考え方を、頑固にかえない傾向がある。

原因について間違った考えをもっているということについて、精神世界の人が「原因について間違った考えをもっていた」と認めることは、ほとんどない。こっちがどこまで説明しても……精神世界の人は、「最初に決めつけた原因が原因だと」と思ったままなのだ。 

2025年12月29日月曜日

●普通の人は普通の人で、「ちがいがある」ということを認めない■騒音※2025/12/29 16:38

 きちがい兄貴がやったことというのは、特殊ことなのである。特殊な騒音、そして、特殊なやり方。きちがいだから、気にしないで鳴らせるでかい音で鳴らし続けた。普通の人なら、「気にして」鳴らせない音で、鳴らした。もう、ここがちがうのである。そして、きちがいだから、きちがい的な熱量で鳴らし続けたのである。普通の人ならやらないしつこさで、鳴らし続けた。ここもちがうのである。もともと、でかい音で鳴らすというのが異常なことなのだけど、それにもまして、「言われても気にしない」性格だった。「言われたら」怒り狂って、やり続けてしまう性格だった。これも、普通の人とはちがうのである。普通の人なら、でかい音で鳴らしたくて、でかい音で鳴らしても、「うるさい」と言われたら、いちおうは、相手が言ってることがわかるということになる。ところが、きちがい兄貴は、きちがいだから、どこまでも、どこまでも、「相手が言っていることがわからない態度」で鳴らし続けた。だから、ちがうのである。そして、家族が何千日も、文句を言っていれば、普通の人は、「気にする」のに、兄貴はまったく気にならなかった。ここもちがう。ちょっと横道にそれるけど、アドラーは「気にしないこと」をすすめる。あたかも、それが正しい態度であるかのような進め方だ。けど、もともと、気にしない人が、どれだけ非道なことをするのかということについては、無視しているのである。「そんなのは、常識だ」というひとことで無視しやがる。完全に、気にさせないでやらせる側の理論なのである。もちろん、気にしすぎの人にとっては、ありがたい理論だけど、そもそも、まったく気にしない人間がいるということがぬけている。そして、そういう人間が、非道徳的ことに邁進してしまう可能性があるということも、無視しているのである。アドラーは無視しているのである。アドラーの主張には、こういう性質がある。これは絶対におさえておかなければならないことなんだよ。けど、普通のアドラーは、おさえない。「正しい教えだ」「いい教えだ」と思っている。だから、基本的には、きちがい的な家族に、きちがい的なことをされた人間のこころを揺さぶるのである。アドラーやアドラー信者が言うことは、きちがい的な人間に傷つけられたほうの人間を、さらに、傷つける可能性がある。だいたい、もともと、気にしない人は、きちがい的な感覚やきちがい的な理論によって、気にしないのである。それが、悪い方向に発揮されると、まわりの人がこまるのである。そして、「家族」だと、もっとこまるのである。家族が、気にしない人で、それが悪いことに発揮される人だと、家族として一緒に住んでいる人がこまるのである。まあ、アドラーの話は、いいよ。ともかく、きちがい兄貴が、普通の人がやらないことをやったのである。きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、普通の人が絶対にやらないことをやったのである。だから、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んでいる人は、少ない。その少ない人は、すでに、普通の人ではない。だから、普通の人は、きちがい家族が鳴らす騒音を経験したことがないのである。だから、普通の人が「俺だって苦労した」「俺だって困難を経験した」「俺だって、つかれるときはある」「俺だって、憂鬱なときはある」「俺だって騒音ぐらい経験した」と言ったって、それらは、ちがうことなのである。ちがうことなのである。けど、普通の人は普通の人で、「ちがいがある」ということを認めないのである。

2025年12月28日日曜日

●言われること自体が、いやなことなんだよ■言霊※2025/12/28 5:06

「相手がいやがることはやめましょう」ということに、同意している人でも、相手がいやがることをする場合があるのである。

「相手がいやがることをしない」というのはひとつの行動基準だ。

しかし、いつも、「相手がいやがっている」ということがわからない場合がある。AさんとBさんがいるとする。Aさんは「相手がいやがることはやらないようにしよう」と思っている人だとする。

しかし、Bさんが「いやがっている」という認識がないと、Aさんのなかで、Bさんがいやがっていることをしているという認識もないということになる。

Aさんが、たとえ、BさんがいやがることをBさんにしたとしても、Bさんがいやがっているということを、Aさんが認識していない場合は、Aさんが「相手がいやがることはやらないようにしよう」と思っていたところで、BさんがいやがることをBさんにするいうことになってしまうのである。

それから、たとえば、Bさんがいやがっていることは知っているけど、Bさんのためになるから、こうしようと思っている場合などは、相手がいやがっているということを知っているけど、その行為をするということになるのである。

「相手がいやがることをしない」という行動基準よりも、「Bさんのためになるのだからやっていい」という行動の基準のほうが優先されているのである。

この場合は、Bさんがいやがっていても、Bさんがいやがる行為をするということになる。

もちろん、Aさんは、「相手がいやがることをするのはよくない」ということには賛成している人なのである。だから、お題目として相手がいやがることはやらないようにしましょう」と言ったって、現実の場面では、そのことを理解している人が、相手がいやがることをやる場合があるのである。

さらに言ってしまえば、「いやがっている相手が悪いのだ」と思う場合だってあるのだ。その場合は、「相手がいやがることはやめましょう」ということにはならない。

相手がいやがっていたって、相手が間違っているのだから、やるのである。これも、そのときはそのときで「相手がいやがっていることはやめましょう」という基準よりも、(その人のなかで)高い基準があるのだ。高いというのは、優先順位が高いという意味だ。

前に話した例だと、たとえば、宗教の勧誘がある。宗教の教えに、「人がいやがることはやめましょう」と書いてあったとしても、しつこい勧誘をする場合があるのである。

しつこい勧誘をするときは、するときで、「これは必要なことだ」という認識があるのである。

そして、それは、「人がいやがることをしない」という基準よりも、優先順位が高い基準なので、相手がいやがっていたとしても、しつこい勧誘をしてしまうのである。

だから、「人がいやがることはやめましょう」という教えが正しくても、「人がいやがることはやめよう」と意識的に思ってる人が増えても、実際には「人がいやがる行為」をする場合があるので、「人がいやがることをする人」がいなくなるわけではないということになる。

だいたい、熱心に勧誘をしている人が、「勧誘されるといやな思いをする人がいる」ということ自体を認めるかどうかも、あやしい。

「自分は善行をしている」つもりなので、相手がいやがっていることを、積極的にする場合があるのだ。

「人がいやがることはやめましょう」という教えを、人が学んで、人が「その教えは正しい」と思っても、じつは、人がいやがることをする人は減らない場合がある。

だって、他者が自分の行為をいやがっているかどうかについて、鈍感な人は、他者が自分の行為をいやがっているということがわからないので、どれだけ「人がいやがることはやめましょう」ということに同意していたって、他者がいやがることをしてしまうからである。 

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手短に言って、精神世界の人は、ヘビメタ騒音の話をしたとき、きちがい兄貴が「迷惑行為をした」ということに注目しないのである。きちがい兄貴が「人がいやがる行為をした」ということは、無視してしまうのである。精神世界の人は無視する。

そういう基本的なことを無視する。

そして、「できると言えばできる」とか「楽しいと言えば楽しくなる」とか「どれだけ疲れていたって、元気だ元気だと言えば元気になる」とか「すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」とかということを言い出す。

きちがい兄貴が、長年、毎日、俺が嫌がる行為をしたということは、ガン無視だ。彼らは、普通に無視するのである。そして、ヘビメタ騒音の影響も無視するのである。「影響がある」ということを(こっちが)説明しても、精神世界の人は、影響を無視しやがるのである。

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「人がいやがることはやめましょう」と思ったって、それを運用している時点で、人がいやがっていることなのかどうかということを正確に認識できない点がある。しかも、相手がいやだとはっきり言っても、相手がいやがっているということよりも、重要な基準があれば、その基準に従って、いやがることをするのである。

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たとえば、「人がいやがることはしないようにする」のがいいということは、納得して受け入れた人がいたとする。Cさんだとする。Cさんは、精神世界の人なので、「言えば、言ったことが現実化する」ということも、受け入れていたとする。

けど、Cさんは、「単純なのが正しい」と思って、項目同士の関係を考えないのである。実際の運用でどういう問題がしょうじるかということについて考えないのである。

ばらばらの、正しそうな項目を全部、暗唱したところで、実際には、それを実行できないのである。

言ったことが現実化するなら、「すべての人は、人がいやがることをしなくなる」と言えば、それでおしまいなのだ。すべての人が、人がいやがることをしなくなる。

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兄貴が俺にやったことを無視して、「どんだけつかれていたって、元気だ元気だと言えば元気になるから、元気だ元気だと言えばいい」ということを言った言霊主義者(精神世界の人)がいたけど、兄貴が俺にやったことを考えると、他人から 「どんだけつかれていたって、元気だ元気だと言えば元気になるから、元気だ元気だと言えばいい」ということを言われること自体が、いやなことなんだよ。

2025年12月27日土曜日

●「働かないと生きていけない」■社会※2025/12/27 21:43

無理解ぶり発揮する態度というのがある。この無理解ぶりを発揮している態度というのは、立場によるけど、相手の気持ちを傷つけるのである。相手の生きる気力に影響を与えるのである。

信念と言えば聞こえはいいけど、間違った信念だし、洗脳されて、ただ単にそう思っているだけのことなのだ。

洗脳をするほうは……「これは正しい」とあんまり物をよく考えない人が、考えてしまうようなストーリーを考えだして、説明しているだけだ。洗脳された気分なんてないのだ。自分で判断して「正しいと思った」と思い込むのだ。

けど、相当に誘導されている。矛盾のある考えたに気がつかない。

洗脳するほうが……「納得しやすい例」を考えだして、説明したので、「具体例から」「抽象的な理論」に対する跳躍が起こりやすい人だと「真実だ」と確信してしまう。

けど、多くの場合、嘘だ。これ、洗脳用の理論なのだ。

じゃあ、そういう「あほな人」のことは気にしなければいいということになるかというと、ならないのだ。どうしてかというと、「働かないと、飢え死にする」という考え方があるからだ。

この世では、「働かないと、生きていけない」とか「働かないと、自分が思っていることができない」とかということが、まず、考え方の底にある。実際に、働かないと、じゅうぶんに、楽しく生きていけないとする考え方がある。

そして、これの考え方が嘘かというと、条件によっては、嘘であるけど、条件によっては、嘘ではないことなのだ。

もちろん、生活保護制度などがある。だから、別に働かなくても生きていけるというのはある。あるけど、これも、条件を満たせば、もらえることがあるということだけで、条件を満たしていても、もらえないばあいだって、実際にある。

ようするに、生活保護制度は運営において、信頼できる制度ではないのだ。まあ、ともかく、小さいときから、「働かないと、生きていけない」「働かないと、みじめな思いをすることになる」ということが、思考の根本に植え込まれる。

なので、いちおう、働かないと「社会人としてじゅうぶんに」生きることができないということは、いちおうの前提にしておく。この前提は、ほんとうは間違っている。間違っているのだけど、いちおう、多くの人の頭のなかにある前提として正しいということにしておく。

どうして、かわいい女の子が、過労で自殺しなければならなかったか?

どうして、ほかにもいろいろな企業があるのだから、転職しなかったのか?

このような問題はある。まあ、おいつめられていたからなのだろう。かわいい女の子は、優秀なので、ほかのところで働けたはずだ。

しかし、かわいい女の子よりも、条件が悪い人がいる。職業選択の自由があるようなことを言うけど、実際には、そうではない。条件が悪い人には職業選択の自由なんてない。これが、現実だ。

こういう現実があるのに、「言えば言ったことが現実化する」というようなバカな話が信じられているのだ。こんなのは、おかしい。

言えば言ったことが現実化するなら、そもそも、働かなくてもいということになる。「働かなくても、じゅうぶんに、暮らせる」と、ひとこと言えば、働かなくても、じゅうぶんに暮らせるようになるからだ。

あるいは、「毎日、一〇〇万円が、目の前に出現する」と言えば、「毎日、一〇〇万円が、目の前に出現する」ようになるので、じゅうぶんにリッチ生活ができるようになる。言えば、それだけで、問題を解決できる。……できるはずなのだ。言霊理論理が正しいならそうなる。

ところが、言霊理論が間違ってるので、そんなことにはならないのである。「毎日、一〇〇万円が、目の前に出現する」と言ったって、一〇〇万円が、目の前に出現するようにならない。言霊理論が間違っている。言霊理論が間違っているので、現実的問題に対して現実的な対処をしなければならなくなるのである。

条件が悪い人は、再就職するために、仕事を探しても、条件が悪いから、採用されにくくなっているのである。そして、生活保護を申請しても、うまくもらえない場合があるということは、生存に対する恐怖を与えるのである。

だから、「働かないと食っていけない」というような考え方は、現代社会において、現実味がない話ではないのだ。理論的には「働かなくても、言っていける」場合がある。実際に働かないと、生きていけない人がいるのも事実なのだ。

ともかく、「働かないと生きていけない」というのは、「言ったことが現実化する」というような根拠のない妄想ではなくて、根拠のある現実的な考え方なのだ。

「働かなくても、生きていける場合がある」けど「働かないと生きていけない状態で生活している人もいる」ということは、事実なのだ。

その人が、勝手に「働かないと生きていけない」と思い込んでいるだけではなくて、その人の条件だと、その考え方が正しいという場合がある。

何度も言うけど、働かずに生きている人はいる。その人たちには、そういう条件が成り立っているのである。

現実的問題は「(自分は)働かないと生きていけない」と思っているということなのだ。そして、余裕がない状態で暮らしていると「転職はできない」という考え方になり、「自分は、この企業で働かないと生きていけない」という考え方をもつことになる。

「人は働かないと生きていけない」という考え方は間違っているけど、 「(自分は)働かないと生きていけない」という考えたは間違っていない場合がある。

ホームレスになったり、ほかの人からとやかく言われるのがいやだという問題もあるだろう。ホームレスになるというのは、物理的にたいへんなことだ。

ほかの人からとやかく言われるというのは、「やわらかい問題」なのだけど、この問題には、じつは「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力論」「自己責任論」などがかかわっている。ようするに、「やわらかい問題」をつくりだしている外的な力というのは、それぞれ、「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力論」「自己責任論」を信じている人たちが作り出している力なのだ。

しかし、それも、本人という個人を中心にしてみた場合、外野にそういう人たちがいるという問題と、「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力論」「自己責任論」いう価値観を本人が信じているという問題がある。

「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力論」「自己責任論」いう価値観を内面化してしまうと、つねに「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力論」「自己責任論」でせめてくる他人を自分のなかに飼っているような状態になってしまう。なので、つねに、自分がそれらの価値観によって攻撃されるのである。なので、憂鬱になってしまうのである。 

 

 

 

●アホな発言で、相手の生きる気力をそぐことができる■言霊※2025/12/27 18:33

 アホな発言で、相手の生きる気力をそぐことができる。たとえば、「かゆいと言うからかゆくなる」という発言だ。

言っているほうは、気分がいいのだろうけど、言われたほうは、「言いようがない」気持ちになる。

このあいだ、蚊がたくさんいる家の話をしたけど、あそこで語ったことが正しい。ようするに、「かゆいと言うからかゆくなる」という発言は、相手の条件を考えていない無礼な発言なのだ。ところが、無礼なことを言ったという気持ちがないわけ。

どうしてかというと、ほんとうに「かゆいと言うからかゆくなる」と「そのときは」思っているからだ。自分が蚊に刺されて、かゆくなった場合は、「蚊に刺されてかゆくなった」と「そのときは」本気で思っているのだ。どっちも、本気で思っている。

相手が「愚痴らしきことを言った」と認識したときは、お得意の言霊理論を使って「かゆいと言うからかゆくなる」と「そのときは」本気で言う。正しいことを言ったと(本人は)思っている。

けど、間違っていることを言ったのだ。

たとえば、「かゆいと言うからかゆくなる」と言われた相手が、自分の条件について言及して「かゆいと言ったからかゆくなったわけではなくて、自分のうちに蚊が多いから、かゆくなる頻度が高くなるだけだ」と言ったって、「かゆいと言うからかゆくなる」と言うやつは、信じない。

「かゆいと言うから、かゆくなる。これが正しい」と言って間違っていることを認めない。

こういうやつは、条件の悪い人を、その発言で……おいこんでいる。おいこんでいるんだよ。

無駄な圧力をかけているんだよ。

ただでも条件が悪くてこまっている人に、妄想的なことを言って、もっとこまらせているんだよ。

かぐらいならともかく、きちがい家族によるきちがい騒音など、問題が深刻な場合は、そういうことを言われると、生きる気力を奪われるのである。ほんとうに、きちがい家族にやられて、世間のバカにやられる状態になる。 

*     *     *

かわいい女の子が、過労で自殺したら、かわいそうだということになる。その会社のことについて、いろいろなことが言われることになる。

言霊主義者まで、かわいい女の子がかわいそうだと言って、上司をせめるようになる。

けど、言霊主義者がやっていることは、上司がやっていることとおなじなんだよ。これも、まったくわかっていないんだよな。

こっちが、言ったって、相手は「むずかしいことを言っているようだけど、簡単なことが正しい」と言って、ゆずらない。ゆずらないんだよ。

そのくせ、別の機会において……「受け止め方をかえればいい」などとほかの人に説教をしているのだ。言霊主義者である人が「受け止め方をかえればいい」などとほかの人に説教をすることがある。

言霊で解決できるのだから、受け止め方をかえる必要なんてない。

条件が悪い人は、条件が悪いことで、なやむ。

どうしてかというと、条件が悪いと、悪い出来事が発生しやすくなるからだ。

けど、精神世界の人や精神世界のことをちょっとかじった普通の人が、アホなことを言って、こまっている人をおいつめるのである。

*     *     *

かわいい女の子が、上司に、なんらかのことを言ったとき、上司があほな発言をしたのだと思う。そのとき、かわいい女の子が「あーー。この上司になにを言って無駄だ」と思ったのだと思う。

このとき、かわいい女の子は、絶望を感じたのだと思う。絶望とまではいわなくても、失望したのだろう。無理解ぶりを発揮した「アホな発言」は、しばし、相手を失望させる。

何回も何回も、無理解ぶりを発揮した「アホな発言」を返されたら、普通に、失望すると思うなぁ。生きる気力が減る。

2025年12月25日木曜日

●「そんなのは、あまえだ」と言ってやりたい■騒音※2025/12/25 15:07

 「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と言ったやつが、働けなくなったら……「人間は、働くべきだから、あなたも働くべきだ」と言ってやりたい。

そいつが……「病気だから働けない」といったら……「病気なんて関係がない」と言ってやりたい。

そいつが……「歳をとったから、働けない」と言ったら……「歳をとったなんてことは、関係がない」と言ってやりたい。

そいつが、働けなくなったら……「どうして働かないんだ?」と言ってやりたい。

そいつが……「こういう理由で働けない」と言ったら……「そんなのは、言い訳だ」と言ってやりたい。「そんなのは、あまえだ」と言ってやりたい。

「働くということの重要さがわかっていないから、あまえたことを言って、働いていないだけだ」と言ってやりたい。言ってやりたい。そいつにとって、それ……が……じゅうぶんに働けない理由であったとしても、それは、ガン無視して……「そんなのは、関係がない」と言ってやりたい。

こいつらが、死の淵にいて……あと五分で死ぬというときに……ベットの横に現れて……「なんで働かないんだ」と言ってやりたい。「人間は、働くべきだから、あなたも働くべきだ」と言ってやりたい。「だいの大人が、働かないで、横になっていて、はずかしくないのか」と言ってやりたい。言ってやりたい。

 こいつらが、死の淵にいて……あと三分で死ぬというときに……ベットの横に現れて……「働けると言えば、働ける」「できると言えばできる」「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってやりたい。

こいつらが、死の淵にいて……あと一分で死ぬというときに……ベットの横に現れて……「暗いことを考えてたから、そうなっている」「明るいことを考えればそうならなかった」と言ってやりたい。

2025年12月24日水曜日

●条件がちがえば、おこることもちがうのである■社会※2025/12/24 12:25

だれも他の個体になれない。

だれも、ほかの人ではない。

そして、自分の体と他人の体は、わけられているので、他人の体が感じていることを、自分の体が感じることができない。

他人の体が感じていることを、自分の体に置き換えて、他人の体がどう感じているのかということについて、本人が「考える」だけなのである。

これは、他人のくるしみに対して、鈍感だということを意味する。他人がくるしくても、自分はくるしくない。これが、まず、成り立っている。

他人がくるしくても、自分はくるしくないという感覚は、「自己責任論」の基礎になっている。

しかし、自己責任論者が「これ」を自覚することはない。「すべては、自己責任だ」と考えておしまいなのである。

もちろん、他人の身に起こったことは、その他人の自己責任なのである。そして、自己責任論者は、この考え方が正しいと思っている。

しかし、悪い条件をもっている人は、その悪い条件によって、不可避的に、不利なことがしょうじるのである。これは、自己責任とは言えない。

また、他人のいたみがわからない他者と暮らしている場合、他人の行動によって、「自己」が傷つくことがあるのである。他人のいたみがわからないというのは、精神的なことではない。

実際に、他人の体と自分の体がちがうので、いたみがわからないのである。

普通、「他人のいたみがわからないということ」は、想像力のなさについて語られることなのである。そして、他人のいたみがわからない個体と、他人のいたみがわかる個体だと、たいていの場合、その文脈においては、他人のいたみがわかる個人のほうが優れているということになっている。

そういう文脈が頭のなかに、成り立ってしまう。

しかし、これまで述べてきたように、実際に、他人の体と、自分の体が、わけられているので、他人のいたみは、わからないことなのである。他人のいたみは、想像するようなことでしかないのである。

想像力に関しては、個体によって、これまた、差がある。

この差は、普通は、あんまりうまらない。わかるように、努力をしてもわからないままなのである。ようするに、他人のいたみ対する想像力がない人は、生涯そのままなのである。

他人のいたみに対する想像力がある人は、生涯、他人のいたみに敏感である場合が多い。しかし、敏感さも、本人の体調によってかわる。そして、ある他人のいたみに対しては敏感だけど、別のある他人のいたみに対しては、鈍感である場合もある。比較的敏感な人も、敏感さの中に、かたよりがあるがある。

しかし、全体的に(他人のいたみに)敏感な性格と、全体的に(他人のいたみに)鈍感な性格というのは、あるように思える。

話としては、あたかも、他人のいたみに敏感な人のほうが優れているように、語られる場合があるけど、実際には、他人のいたみに敏感な人は、そんな人であって、他人のいたみに鈍感な人のほうが、得をしている。

つまり、「他人たいして思いやりがある」という文脈で、他人のいたみに敏感な人のほうが優れているように語られる場合があるのだけど、実際には、ちがう。

他人のいたみに敏感な人は、うまく社会に適応できないことがある。他人のいたみに鈍感な人たちが社会をつくっていて、他人のいたみに鈍感な人たちが、社会人として標準的な人たちだからだ。

ようするに、鈍感な人たちが、「話の中で考える」……都合のいい……他人のいたみに敏感な人の「イメージ」があるのだけど、実際には、そういうことを言っている人たち自体が、他人のいたみに鈍感な人たちなのである。

エンパスは、社会に適応できなくなってしまう傾向が強い。 

*     *     *

個体として体がわかれているという厳然たる事実であって、体がわかれているからこそしょうじる(感覚的な)部分と、想像力で補う(思考的な)部分は、わけて考えなければならないのである。

そして、個体として、からだがわかれているのが事実なので、体がわかれている事実が持つ意味のほうが、想像力の有無や想像力の強度が持つ意味よりも、強い影響をあたえ。

この根本的な影響からは、逃れることはできない。

しかし、個体として、からだがわかれているのが事実は、自己責任論の中で見過ごされがちなのである。

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一括思考の問題がある。「すべては思考」と言ってもいいのだけど、ここでは、「一括思考」と言うことにしておこう。

たとえば、「努力をすれば成功する」ということが正しいとする。そうなると、成功しなかった人は、努力しなかった人だということになる。

成功しなかった人のなかには、たしかに、努力をぜんぜんしなかったので成功しなかった人もいるのだけど、努力をしたにもかかわらず、成功しなかった人もいるのだ。一括思考のなかでは、どっちも、区別ができないのである。

努力をしたにもかかわらず、成功しなかったというのは、「努力すれば成功する」という考え方に立てば、存在しない人なのである。

しかし、存在する。

「努力すれば成功する」という考え方が間違っているので、その問題が発生する。「努力をすれば成功する」ということを、信じている人のなかでは、努力したにもかかわらず、成功しなかった人というのは、いないことになってるのである。

しかし、それでは、なんとなく、矛盾を感じるのだろう。程度の問題を持ち出すのである。努力したのかもしれないけど、努力がじゅうぶんではなかったということになるのである。

それなら、努力をしたのだから、成功していなければならないのだよ。

けど、努力論者は、自分が言っていることに矛盾を感じない。

「努力がたりなかったから成功しなかったのだ」という鑑賞地域をつくることによって、矛盾を解決したつもりになっているのだ。

しかし、この矛盾は、どこまでも、矛盾して成り立つ。ぜんぜん解決していない。

けど、たいていの努力論者は、解決したつもりになってしまうのだ。

気分だけでものを言うような人たちだから、しかたがない。ちゃんと理論的に物事を考えらない人たちなので、しかたがない。

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一括思考は、自己責任論でも成り立っていて、「すべては自己責任だ」ということになっている。もちろん、最初は、自分自身を対象とした自己責任論なのだけど、すぐに、他人を対象とした自己責任論になってしまう。

他人の身に起きたことは、すべて、その他人の責任なのだ。しかし、実際には、生まれながらに、条件がちがう。他者の行動を(だれかその人が)完全に支配制御できるわけではないので、他者の行動によって影響を受ける場合があるのである。

しかし、自己責任論者は、それを認めない。すべては、自己責任なので、他者の行動によって発生したことも、(その人)の責任だということになってしまう。一括思考が成り立っているので、個別性は、どこまでも、無視されてしまうのである。

ほんとうは、個別性がある。個々の具体的な事件や個々の具体的な出来事には、個々の具体的な条件が成り立っているのである。そして、個々の具体的な出来事には、それに至るまでの個々の具体的なプロセスがあるのである。

これを、すべて無視して、「すべては自己責任だ」と(だれかがだれかに)言う場合は、問題がしょうじる。それは、個別性を無視してているから、発生する問題だ。

ケースバイケースなのである。

ところが、自己責任論者は一括思考をして、他人の身の上に生じたことは、すべてその他人の責任だと決めつけてしまう。個別具体的な事件についても、やられたほうの自己責任だということになってしまうのである。

努力論も、自己責任論も、個別性を無視してしまうのである。つまり、条件を無視してしまう。しかし、実際の世界では、条件がちがえば、おこることもちがうのである。

2025年12月19日金曜日

●自分はこまらないわけだから、ずっとやり続けてしまうのである■騒音※2025/12/19 14:17

 それにしても、ネズミの糞が増えているのに、「俺が(ネズミシートで)つかまえるからいい」と言って、動かなくなってしまう。絶対に、ネズミ対策工事をさせないようにする。これで、こっちが、どれだけこまることになるか、ぜんぜんわかっていない。ネズミの糞が増えていると言っているだろ。親父に言ったのに、発狂モードで真っ赤な顔をして、無視だ。そういうところで、スイッチが入ってしまうと、ずっとゆずらないんだよ。でっ、これが肝心なことなんだけど、それで、相手がどれだけこまっても、相手がこまっているということがわからない。ネズミシートで捕まえたとしても、ネズミが家の中に入ってきてから、捕まえるわけだから、ネズミの糞が増えるんだよ。そんなことは、説明しなくてもわかることなんだよ。けど、何回も説明した。けど、わからないのである。自分の中で、ネズミ対策工事をさせないということになったら、もう、絶対の意地で、すべてのことを否定して、絶対にネズミ対策工事をさせないようにするのである。もともと、親父が、魚を一日に二三時間、テーブルの上に出すことにこだわって、ネズミが入ってくるようになったのである。普通の人なら、やらないことをやったのである。そして、これも、何回も何回も、「魚を出しっぱなしにすると、くさいからやめろ」ぼくが親父に言ったのである。言わなかったことじゃないのである。けど、鼻が正常なら、絶対にわかることを否定して、ゆずらないのである。自分が「魚を一日に二三時間、テーブルの上に出すことにしたら、どんなことがあっても、なにを言われても、魚を出しっぱなしにするのである。

粗大ごみの処理をしなければならないのだけど、ネズミが家の中に入っていた期間が長いので、いたるところに、ネズミの糞が落ちているのである。でっ、そのネズミの糞を、ダニに刺されながら、片づけたのが俺なのである。ところが、俺に……そういう、いやな思いをさせているということは、一向に思い至らないのだ。これも、言われないから知らなかったのではなくて、何十回言われても、わからないままなのである。そして、ここでも、「ネズミがきたのは、親父が魚をだしっぱなしにして、部屋ににおいを充満させたからだ」ということを、(俺が親父に)言うと……言われた親父は、「出してないよぉ!!出してないよぉ!!出してないよぉ!!」とわめいて、出したということを認めないのだ。こんなのない。その場だけ、言い逃れをすれば、それで、本人は住んでしまうのである。しかも、これ、悪意があってやっていることではないのである。自然に……ごく自然にそうなってしまうのである。親父の反応パターンが、このように決まっているのである。自分が認めてしまったら、まずいことになる場合は、絶対の意地で、どんなうそをついても、認めないのである。バレバレの嘘をついても、認めないのである。相手が知っていることで、何回も、もめたことなのに、「嘘」を真っ向から言って譲らないのである。これも、「相手をこまらせるために、嘘を言ってやろうと思って」やっていることではないのである。常に、そういう、反応をして、暮らしているのである。だから、一緒に住んでいるこっちは、ものすごく嫌な思いをすることになるのである。ところが、親父のほうは、まったく何もやったつもりがない状態で暮らしているのである。何十年間も毎日そういう状態なのである。どうしてかというと、意図して、やっていることではないからだ。「嘘をつこう」と思って嘘をついているのではなくて、その都度、ごく自然に嘘をつくということになっているのである。そして、「嘘をついた」という自覚は、嘘をついているときも、嘘をついたあとも、ないのである。それで、本人は、「へいき」なのだ。こんなの、ない。「お父さんだって、ちゃんと言えばわかってくれるよ」というような発言をする人がいるのだけど、これだって、どれだけ現実離れした発言か、本人はわからないのである。親父と一緒に住んでいるわけではないので、わからないのである。家族として……ここ重要なのだけど……家族として、一日でも親父と一緒に住んだことがあれば、わかることなのだけど、家族として、一日も、親父と一緒に住んだことがないので、わからないのである。何度も言うけど、そういう気楽な発言をしている人は、わかっていないということがわかっていない。これも、説明すれば、相手がわかってくれるのかというと、あんまりわかってくれないときのほうが多い。「話自体がへんな話」なので、ぼくが嘘を言っていないのに「そんなこと、あるかな」などと疑問を呈したことを相手が言う場合が多かった。そういうところで、相手が疑問をもったまま会話が終わる場合が、あった。俺が言ったことをちゃんと認めてくれる人よりも、疑問をもったままの人のほうが、はるかに多かった。それが、現実だ。疑問をもっている人は、ぼくが嘘を言っている可能性について考えているわけで、ぼくが本当のことを言ったという認識はないわけ。だから、親父は、ごく自然に頭がおかしい反応をするのだけど、よその人は、それが理解できないから、よその人は、俺が嘘を言っていると思うことが多かったのである。

そして、親父の「脳みその問題」と兄貴の「脳みその問題」は、この点について、おなじなのである。自分が、認めたら「やばいことになる」と思ったことは、どれだけ明らかなことでも、頭がおかしいレベルで、否定して、認めないのである。認めなければ、頑固にやったって、一階もやったことがないことになってしまうのである。本人のなかで、そうなってしまうのである。だから、頑固にやり通して、頑固にやったということ自体を認めないという……摩訶不思議な状態が成り立ってしまうのである。こういう状態で、きちがい兄貴は、「ヨソのうちでは一分だって鳴らせないような音のでかさで」……ヘビメタを毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らし続けたのである。きちがい親父ときちがい兄貴は、おなじ構造の脳みそをもっているので、何百回、何千回、何万回、何十万回……「ヘビメタ騒音でこまる」ということを言われたって、まったく、気にしないのである。俺がこまっているということが、まったくわからないのである。これも、親父の話で言えば、魚のにおいが、くさいということを、認めないレベルで認めないときとおなじなのだ。ちょっとでも、自分にとって、不利なことを言われると、発狂して、認めないモードになってしまうのである。どれだけ明らかなことでも、絶対に、なんだろうが認めないのである。しかも、そうやって、明らかなことを認めなかったということも、認めないのである。あたりまえだ。意図的に認めないようにしようと思って認めないのではなくて、ごく自然に、認めないのである。その場合も、よその人は「そんなのは変な話だ」と思うのである。「ちゃんと言えば、わかってくれるよ」と思うのである。ほんとうは、そのよその人だって、おなじことをやられれば、宿題ができなくなるのに、「騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」と(俺に対してその人が)言いやがるのである。 これだって、ちょっとした対立だ。「そのよその人だって、おなじことをやられれば、宿題ができなくなるのに」と書いたけど、もちろんそんなことは、証明できない。俺がそういう風に思っているだけだ。俺は、実際にやられたできなくなると思うけどね……。

聴覚が正常なら、「でかい音だ」ということは、説明されなくてもわかることなんだよ。けど、「でかい音だ」ということを認めてしまうと、やばいことになるのである。音を下げなければならなくなってしまうのである。音を下げるのは絶対に、いやなんだよ。だから、「でかい音じゃない」ということになる。兄貴のなかで、ごく自然にそうなってしまう。一度そういうスイッチが入ってしまうと、認めない状態でずっとやり続けることになるのである。親父だって、ほんとうにネズミが入ってきて、ネズミに(親父本人が出していた魚を食べられてしまう)ということが発生するまで、魚を出し続けたのである。兄貴の場合、兄貴がでかい音で鳴らし続けても、兄貴がこまるということがなかった。俺がこまっているだけなのである。俺がこまっているから、兄貴に対して、これこれこういうことでこまるということをどれだけ言っても、兄貴のなかでは、即座に否定されることであって、兄貴のなかに入らないのである。これが、奇妙奇天烈な態度で、ほんとうに、わかっていな状態で、その行為をやり続ける。相手が死ぬほど、こまっていたって、自分はこまらないわけだから、ずっとやり続けてしまうのである。

●矛盾に気がつかない人が、いくら考えても無駄なのである■社会※2025/12/19 11:24

 「人間は働くべきだ」という考え方と「人間は働かなくてもよい」という考え方を、両方とももっているやつが、その都度、メタ認知と普通の認知によって、ある人が「働くべき」なのか「働かなくてもよい」のか、決めているだけなのである。だから、実際にはそういう状態なので、「人間は働くべき」いうような文に注目して、その文が正しいかどうかということを議論していまったく無駄なのである。「人間は働くべきだ」と言っている人が、実際には、「人間は働かなくてもいい」と考えていて、両方の考えの間を行ったり来たりしているだけなので、本当に意味がないのだ。たとえば、Aさんは、意識的には「人間は働くべきだ」と考えているのだけど、実際には、「働けない場合もある」と考えているので、どっちに焦点が当たるかのちがいだけなのである。その場合、Aさんのメタ認知について、Aさん自体が、無自覚なので、個別具体的な例について、「この場合は、働くべきだ」「この場合は、働かなくてもいい」と、恣意的に判断してしまうのである。その恣意的な判断をした後も、Aさんは「人間は働くべきだ」と思っているのである。Aさんが、病気になれば、Aさんは、「病気だから働けない」と考えて働くのをやめてしまう場合がある。Aさんにとっては、その病気は「働けない理由」になるのである。ただ、Aさんが、だれに対しても、「たしかにその病気は働けない理由である」と考えるかどうかというと、そうではないのだ。「自分の場合は、働けない」と思い、「自分は例外だから、働かなくてもいい」と考えるのだ。その場合も、「人間は働くべきだ」という考え方を、Aさんは放棄していないのである。そして、「自分は人間である」という考え方も放棄していない。だから、矛盾している状態なのである。けど、自己中心的な人は、自分の場合のように、他人の場合について、考えていないということを、問題にしないのである。そういう精神的な態度で生活しているのだから、「人間は働くべきだ」というような文について、自己中心的な人が、いくら考えても無駄なのである。Aさんが考えても無駄だし、Aさんのように、矛盾に気がつかない人が、いくら考えても無駄なのである。

●こいつらの認識と、ぼくの認識の間に、隔たりができてしまうのである■騒音※2025/12/19 11:13

 めちゃくちゃに、自分の生活に影響を与えていることなのだけど、人には言いにくいことを、抱えてしまうことになる。見えないスティグマについて、説明したけど、要約すると、こういうことを言いたかったわけ。ほかの人考えているよりも、ほんとうに、きちがい家族のきちがい的な騒音は、影響を与える。これが、不可避的な影響で、「鳴っている」のに、影響を受けないということができないのである。しかし、実際に、きちがい家族にやられていない人は、きちがい家族やり方がわからないから……スイッチが入ったときのやり方がわからないから「たいしたことはない」と思ってしまう。「俺だって、騒音ぐらいあった」と思ってしまう。だから、こっちのメタ認知と、こっちの実際の体を無視して、現実的ではないことを言うようになるのである。けど、こいつらのなかでは、「じゅうぶんに現実的な話」なのである。きちがい兄貴のやり方が異常なので、こいつらの認識と、ぼくの認識の間に、隔たりができてしまうのである。

●実際の場面における、メタ認知■社会※2025/12/19 9:55

 実際の場面における、メタ認知というのがある。場面におけるメタ認知」というのは、ほんとうは、重要なことなのに、はぶかれやすいことなのだ。はぶかれやすいというのは、考慮に入らないということだ。お題目について書いたけど、お題目の一文は、実際のメタ認知を考慮に入れていないお題目の一文なのである。だから、原理としては、「こうするべき」というのがあるのだけど、それが、実際には成り立たないということになる。実際の場面におけるメタ認知のほうが、一文であらわされた行動の基準よりも、優先されてしまうのである。

「こうするべき」というのは、基準について書かれた文なのである。行動基準であったり、判断基準であったりする。「人間は働くべきだ」と思っている人は、「人間は働くべきだ」と思って、「働かない人」に対して、特殊な感情を抱くのである。「働くべきなのに、働いていない人」だからだ。 

Aさんが「人間は働くべきだ」という判断基準をもっているとする。Bさんが働かない人だとする。その場合、AさんにとってBさんは 「働くべきなのに、働いていない人」になる。Bさんがある病気になっていたとする。なので、Bさんは、働けないと思っているとする。Aさんが、たしかに、Bさんは働けない状態だと思った場合、Aさんのなかには、まだ「人間は働くべきだ」という基準が成り立っているのだけど、「Bさんは働かなくてもいい」ということになるのである。そして、Bさんは、Aさんのなかでは、まだ「人間」なのである。だから、例外ができたことになる。「人間は働くべきだ」という基準が成り立っているのだけど、Bさんの条件を考えると、働けなくても当然だと(Aさんが)判断したので、「人間は働くべきだ」という基準をもったまま、「Bさんは例外だ」と考えるのである。Aさんは「Bさんは例外だ」と思うのである。けど、Bさんが、Aさんのなかで、人間であるならば、基準のほうが、否定されなければならないのである。「人間は働くべきだ」という基準は、間違っていたということにならなければならないのである。しかし、Aさんは「人間は働くべきだ」という基準をもったまま、Bさんという、例外をつくってしまうのである。

実際には「人間は働くべきだ」という基準よりも、AさんのBさんに対するメタ認知が、優先されたのである。そういう例外事項は、いくらでも、発生する可能性がある。

だから、お題目としては「正しい」と思っていたって、実際の場面では、メタ認知が優先して、お題目にしたがった「正しい判断」をしない場合があるのである。正しい判断というのは、お題目に従っているという意味で正しいと言っているわけで、そのお題目自体が正しいと言っているわけではない。

最初から、例外が発生することがわかっているような文を、お題目の文にすると、実際には、お題目通りに行かなくてもいいということになるのだから、お題目の意味がなくなるのである。「人間は働くべきだ」というお題目の文と「例外があるので、例外に相当する人は働かなくてもいい」という文は、その例外に相当する人が「人間」である限り、両立しないのである。相互に矛盾しているので、どちらも、正しいということにはならない。

条件を無視している文で、現実の問題を考えようとすると、いろいろな矛盾が発生するのである。 「人間は働くべきだ」「私は、人間である。人間である私は働かなくてもよい」ということになると、矛盾がしょうじる。「人間は働くべきだ」という文と「人間は働かなくてもよい」という文は、両立しないのである。

●そんなのは、お題目で、実際の場面では、まったく役に立たない■社会※2025/12/19 9:16

「人が嫌がることはやるべきではない」とする。けど、これも、問題がある。たとえば、注意されるのがいやな人がいたとする。

Aさんだとする。Aさんが、貧乏ゆすりをしたとする。

Bさんは、Aさんの貧乏ゆすりが気になり、Aさんが貧乏ゆすりをしないように、注意したとする。その場合、Bさんは、Aさんが嫌がることをしたということになる。

だって、Aさんは、人に注意されるのがいやな人だからだ。注意されることがきらいなのだ。だから、Bさんが、「人が嫌がることはやるべきではない」と考えている場合であって、なおかつ、Aさんは、人から注意されたくないと思っているということを知っている場合は、BさんはAさんに、注意をできないということになる。

けど、Aさんは、すでに、Bさんが、「いやがること」をしたのである。Bさんは、人が貧乏ゆすりをしていると、いやだと感じる人なのだ。

とくに、自分の隣の人が貧乏ゆすりをしていると、Bさんは、いやだと思う人なのだ。AさんはBさんの隣に座っていたとする。だから、Aさんは、特に、意図せず、Bさんが嫌がることをやったということになる。

「人が嫌がることはやるべきではない」と言ったって、そんなのは、お題目で、実際の場面では、まったく役に立たないと思う。多くの場合、まったく役に立たない。多少は、役に立つときもあるかもしれない。しかし、ぼくの経験の範囲で言うと、多くの場合、まったく役に立たない。

*     *     * 

人のなかに基準というものがあるとする。判断の基準だ。そして、それを、支えるような考え方があるのである。いままで、あげてきたもののなかでは、たとえば、言霊理論や思霊理論、努力論などが、そのような考え方だ。

そして、「すべては、自己責任」とか「すべては、受け取り方の問題だ」ということも、そのような考え方のなかにはいる。

宗教的に、道徳的なことを言ってたって、実際の運用となると、さまざまな問題がしょうじるのである。

たとえば、ある宗教団体が、さまざまな道徳的なことを主張していたとする。なら、その宗教団体の教えは、正しいのかというと、それだけでは、正しいかどうかはわからないということになる。

そして、宗教団体が教える、正しい行いを、この世界で、実行した場合、さまざまな問題が発生する可能性がある。

その場合、どれだけ、明文化された「その宗教の教え」が正しいかどうかということを考えていたって、むだだということになる。

教えのとおりに、行動するとさまざまな問題がしょうじるのであれば、教え自体が(文として)正しいということをどれだけ主張したって、むだなのである。

 



● 自己責任論を振り回すやつ■社会※2025/12/19 7:51

 自己責任論を振り回すやつというのは、圧迫面接をするやつとおなじなんだよ。圧迫面接をするやつのなかには、「ほんとうは、こんなことはしたくない」と思っているやつもいるだろう。思っていないやつもいると思う。自己責任論を振り回すやつというのは、「ほんとうは、こんなことはしたくない」と思っていない、圧迫面接者とおなじなわけ。だから、じつは、「条件が悪い人」に圧力をかけていることになる。相手の身の上に起こったことは、すべて、なんであれ、相手の責任だという考え方をふりまわすわけだから、やられたほうは、不愉快になる。条件が悪ければ悪いほど、自己責任論を押し付けられたやつは、不愉快になるんだよ。ところで、たとえば、自己責任論を振り回しているやつが、「相手が嫌がることはやめましょう」と普段言っているとする。そういう人は、「相手が嫌がることはやめましょう」信者であり、自己責任論信者であるのだ。とりあえず、Aさんだとする。Aさんは、両方とも、ほんとうに、信じているわけ。その場合、条件が悪い人に自己責任論を押し付けることは、相手が嫌がることなんだけど、相手が嫌がることだとは、Aさんは、認識できないわけ。しかし、条件が悪いほど、自己責任論を押し付けられるのは、いやなことなんだよ。これも、いちおう、例外を除けば……という言葉を付けくわえてく。たいていの「条件が悪い人」にとっては、自己責任論で片づけられることは、不愉快なことなんだよ。「そんなのは自己責任だ」と認識されることは、不愉快なことなんだよ。こんなのは、断罪だ。無実の罪で、断罪されているようなものなのだよ。けど、Aさんは、気がつかない。どこまでも、どこまでも、気がつかない。自分が、道徳的に、倫理的に、正しいことをしていると思って、疑わない。Aさんの相手が、相手の条件について、語れば、Aさんは「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、いいわけだ」と言うことが、決まっているんだよ。どうしてなら、他人を対象とした自己責任論というのは、「どんな条件であれ、相手の身の上に起こったことなら、相手の責任だ」と決めつける思想だからだ。Aさんは、相手の条件を無視して、相手の責任だと決めつけたとき、自分が悪いことをしているとは思っていないわけ。自分が正しいことをしていると思っているわけ。ほんとうに、「相手が、いいわけをしているだけだ」と思っているわけ。圧迫面接をしているけど、圧迫面接は悪だと思っている人とはちがうんだよ。Aさんと圧迫面接をしているけど、圧迫面接は悪だと思っている人とは、ちがう。このちがいは、でかい。相手にとって、不愉快な圧力になる。たとえば、Aさんが、「自己責任論は正しい」と本気で思っていて、「相手が言っていることはいいわけだ」と本気で思っている場合、相手は、不愉快な圧力を感じるんだよ。そりゃ、Aさんが「自己責任論なんて、ほんとうは正しくない」とか「相手が言っていることはいいわけではない」とかと思っている場合とはちがうんだよ。このちがいが、わからないやつらがいる。たしかに、いる。このちがいは、けっこうでかい。お芝居をしているのか、ほんとうにそう思っているのかのちがいだ。本当にそう思っている人は、やっかいなのである。相手にとって、やっかいな存在なのである。条件が悪い人と書いたけど、あまりにも特殊すぎて、普通の人が、悪条件だと認識できないような悪条件を抱えている人は、ごく普通に、不愉快な思いをすることになっているのである。自己責任論がはやっていて、自己責任論が正しいと思っている人が、増えれば増えるほど、普通の人が、悪条件だと認識できないような悪条件を抱えている人は、不満を抱えることになるのである。不愉快なトラブルが多発することになるのである。その場合、「よくなるよくなる」と言えば、「よくなるか」と言うと、よくならない。おまじないのでは、不愉快なトラブルが発生することを解決できないのだ。たとえば、Aさんに、自己責任論を押し付けられた人をBさんだとする。Bさんが、どれだけ、「楽しいことが起こる」と思ったって、実際に、自己責任論者が多い社会に住んでいれば、かなりの確率で、Bさんがいやな思いをすることになっているのである。Bさんは「普通の人が、悪条件だと認識できないような悪条件を抱えている人」だとする。その場合、ごく普通に、普通の人から、いやなことを言われるというとになるのだ。無理解ぶりを発揮した発言をされるということになっているのだ。トラブルが増えるわけなのである。どれだけ、Bさんが「楽しいことが起こる」「楽しいことが起こる」「楽しいことが起こる」「楽しいことが起こる」と呪文のように言ったって、Aさんのような人間が、自己責任論に従って、圧迫発言?をするのだから、不愉快なことは、起こるのである。楽しいことが起こらず、かなりの確率で不愉快なことが起こることが、決まっているのである。

*     *     *

ほんとうに、責任がある人だっている」ということを言い出す人がいると思う。ようするに、「たしかに、Bさんには、Bさん特有の条件があるのかもしれないけど、悪い条件がなくたって、悪いことを次々にして、自分で自分の首を絞めるやつがいる」ということを言いたくなる人間がいると思う。相手の身の上に起こったことは、すべて、相手の責任だという考え方は、個別性を無視した考え方なのである。「すべて」なのだから、個別性を無視しているのである。だから、ぼくが言っていることは、矛盾していないわけ。「相手の身の上に起こったことのうち、たしかに、相手の責任だと言えることが、あるかもしれない」ということは、ぼくが言っていることとは、関係がないことなのである。起点は、自己責任論者の責任論だからだ。起点の自己責任論者が、条件を考えないということが、問題の本質なのである。しかし、これも、たとえば、Aさんのような自己責任論者に「条件を考えていない」ということを言えば、「考えている」「俺だって考えている」と言うかもしれないのである。言った場合、さらに、不愉快なことになる。ぼくにとっては、ね。

自己責任であることと、自己責任ではないことがあるとぼくは、考えているわけ。相手の身の上に起こったことのうち、相手の責任であることは、あるかもしれない。ある可能性はある。否定できない。けど、それと、「すべては自己責任である」と言う考え方は、ちがうんだよ。「相手の身の上に起こったことのうち、相手の責任であること」があるということは、別にぼくが、今まで説明してきた考え方を否定するものではないのである。どうしてかというと、起点である自己責任論が、「条件を無視する理論」だからだ。

ようするに、 「相手の身の上に起こったことのうち、相手の責任であることがある」ということは、「相手の身の上に起こったことは、すべて、相手の責任だ」ということを意味しているわけではないのである。「相手の身の上に起こったことのうち、相手の責任であることがある」という文の意味と、「相手の身の上に起こったことは、すべて、相手の責任だ」という文の意味はおなじじゃない。ここらへんも、ごちゃごちゃになっているやつが、いるんだよなぁ。こまるなぁ。

2025年12月17日水曜日

●こっちがどれだけ、こまるか、まったくわかっていない■騒音※2025/12/17 0:04

 親父のネズミ攻撃が効いている。全部、きちがい兄貴の騒音攻撃とおなじだ。やったやつは、なんと思っていない。頑固にやりきって、なんとも思っていない。こっちがどれだけ、こまるか、まったくわかっていない。

ネズミの糞とダニで、つんだ。これ、こころが重い。もう、全部いやだ。 

2025年12月16日火曜日

●ヘビメタ騒音自体が「見えないスティグマ」のようになってしまう■騒音※2025/12/16 11:00

 たとえば、ヘビメタのことを「かくしている」場合、なんか、やばいことを、かくしている状態になるのだ。弱点みたいなものだ。あるいは、知られたくない情報だ。たとえば、無職である人が、無職であることをかくしているとする。その場合、無職であるということを知られたくないという意識がある。そういう意識があるから、特定の会話をさけようとする。この場合、嘘をつくつもりがない場合は、訊かれたら、無職だということにしているとする。「聞かれたくないなぁ」と思いながら、会話をするということになる。それとおなじようなことが、ヘビメタ騒音にも成り立ってしまう。ほかの人に、ヘビメタ騒音のことを言っても、ほかの人にヘビメタ騒音のことを言わなくても、「へんな態度」がうまれるのだ。「なにかをかくしている態度」が、発生する。そして、無職だということが発覚?した場合、あるいは、無職だということを自分で言った場合、相手の態度は、あんまりいいものではなくなる。日本では、無職というのはけしからん存在だからだ。

ヘビメタ騒音自体が「見えないスティグマ」のようになってしまうところがある。そして、それで、こまるのは、ぼくだけなのだ。無職でも、学歴でも、ヘビメタ騒音でめちゃくちゃなんだけど、ほかの人は知らない。いろいろな不都合な状態がしょうじるわけだけど、ほかの人は、ヘビメタ騒音のことは重視しない。「話がおかしい」と思ってぼくが言っていることを疑うやつが約四割。「そんなの関係がない」と思ってぼくのことをバカにするやつが約六割だ。こいつらは、「ヘビメタ騒音で無職になることはない」と思っているわけだ。こいつらは、「ヘビメタ騒音が鳴り終わったら、眠れるはずだから、眠れなくなるなんていうのは、いいわけだ」 と思っているわけだ。だから、「ヘビメタ騒音でどうしても遅刻をしてしまう」ということを認めないわけだ。だから、「ヘビメタ騒音で通勤通学ができなくなる」ということを認めないわけだ。しかたがなく、言った場合がこれだ。そして言わない場合は、「(エイリは)特に理由がないのに無職である人だ」ということになる。この人たちにとっては、そうなのだ。だから、言うにしろ、言わないにしろ、スティグマになってしまうのである。言わない場合は、見えないスティグマ。言った場合は、見えるスティグマだ。

けど、この人たちは、「不可避的にそうなる」ということがわかっていない。どれだけ、眠い状態で起きて、無理をして学校に通っていたかということを、無視しやがるのだ。こいつらは、経験がないので、「なんでもないことだ」と思っているのである。こいつらは「俺だって朝はつらい」と言う。こいつらは「俺だって眠れない夜はある」と言う。けど、ちがうんだよ。毎日、あのきちがいヘビメタが、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴っているような状態でできあがる、状態とはちがう。「俺だって朝はつらい」と言う場合、つらさにおいて、別のことを言っているのである。まったく別のことを言っているのである。けど、「ちがうんだ」と言えば、相手は腹を立ててしまうのである。 「俺だって眠れない夜はある」と言う場合も、普通の状態で、一日、眠れない夜を経験するのと、きちがいヘビメタ騒音で、毎日、眠れない夜を経験するのは、ちがうことなんだよ。けど、これも、「ちがうんだ」と言えば、相手は腹を立ててしまうのである。ぼくの経験の範囲で言うと、そういうことになる。

*     *     *

ともかく、ヘビメタ騒音で、つねに、立場が悪くなるのである。これ、ほんとうに、ヘビメタ騒音が、毎日、連続していたとということが、でかいことなんだよ。「関係がない」と言うやつは、繰り返しの効果も無視してしまうのだけど……。

ヘビメタ騒音が鳴ってから、学校でも社会でも、つねに、立場が悪い状態なのである。こんなの、やってられるか。ほんとうに、ヘビメタ騒音が、毎日ずっと鳴っていなかったら、こんなことになっていない。きちがいヘビメタ騒音が鳴っていなかったころだって「眠れない夜」はあった。けど、ちがうんだよ。ヘビメタ騒音が鳴り始めてからの「眠れない夜」と、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったころの「眠れない夜」はおなじ「眠れない夜」でも、ぜんぜんちがうんだよ。きちがいヘビメタ騒音を長期間にわたって毎日経験していない人は、きちがいヘビメタ騒音が鳴り始めてからの「眠れない夜」の深刻さが、まるでわかっていない。ほんとうに、わかっていない。けど、そいつらが、ヘビメタ騒音が鳴っている場合の「眠れない夜」と「ヘビメタ騒音が鳴っていない場合の「眠れない夜」はちがうのだということを、認めることがないのである。俺が説明したって、こいつらの頭のなかでは、エイリが言っている「眠れない夜」と自分が経験した「眠れない夜」は同程度のものだという考え方がぬけない。どれだけ説明したって、こいつらはこいつらで、自説にこだわる。ヘビメタ騒音の「眠れない夜」だろうが、自分の「眠れない夜」だろうが、おなじだと思ったまま、すごすわけ。こっちの立場が低ければ、あっちは「なんだとぉ」とおこるんだよ。ぼくの経験の範囲で言うとそういうことになる。

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ちなみに、「受け止め方をかえればいいんだ」と言っている人であって、なおかつ、エイリが言っている「眠れない夜」と自分が経験した「眠れない夜」は同程度のものだという考え方をもっている人は、自分の受け止め方をかえないのだ。エイリにあわせて、あるいは、エイリの言っていることにあわせて、自分の受け止め方をかえればいいのに、自分の受け止め方をかえない。「そんなのは、たいしたことじゃない」と言い、「受け止め方をかえればいいんだ」と言う。こんなやつばかりだよ。この世は、こんなやつばかりだった。 

●そして、おなじことが繰り返されるんだよ■騒音※2025/12/16 8:50

  粗大ごみ業者に連絡をしてしまったので、並じゃない、不安が押し寄せている。これ、ほんとうに、いやなんだよ。自分の都合?で、ほかの人を、巻き込んでしまうのがいやだ。ほかの人が、俺の都合で、ダニに刺されてしまうのがいやだ。けど、今回は、じつは、バルサンをたいていない。バルサンをたいても、どのみち、作業をすれば、ダニに刺されるからだ。バルサンをたく場合、この部屋でやらないにしろ、布団をビニール袋に入れて密閉したり、食器をビニール袋に入れて密閉しなければならない。密閉しても、この部屋にも、ガスはくるわけだから、それ以降、バルサンの粒子がある部屋で暮らすことになる。あんまり、いい気持ちがしない。俺は、こういうのは、ほんとうは、ものすごく嫌なんだよ。けど、きちがい親父が、そうさせるのである。しなければならないような状態をつくりだす。けど、本人は、もちろん、わかっていないのだよ。この、「わからなさ」が異常なのである。きちがいだから、自分のなかに「魚をだしっぱなしにしておきたい」という気持ちがあると、「におわないよお」「におわないよお」と絶叫して、なんとしても、魚を出しっぱなしにするということを、貫き通そうとする。あとになって、きちがい親父のきちがい行為が原因で、ネズミが入ってくるようになったらなったで、「そんなこと、言ってない」「そんなこと、言ってない」「そんなこと、言ってない」と絶叫しておしまいなのである。そうやって、「反対のこと」を言って、本人が逆上したら、本人のなかでは、それですんでいるのだ。だから、関係がない人になってしまう。きちがい兄貴が、きちがいヘビメタを鳴らしているときに「しずかにしてくれ」と言われたときの態度が、まさしくこれなのだ。こんなの、ほかのひとに、わかるはずがない。この、「におわないよ」と親父が逆上しているときの態度と、「しずかにしてくれ」と言われて、兄貴が逆上しているときの態度が、おなじなのだ。兄貴は、絶叫しなかったけど、おなじなんだよ。親父の場合も、寡黙バージョンはある。ともかく、本人が、発狂して、はねのけたら、本人のなかでは、終わっていることなんだよ。そして、本人は、行動かえないんだよ。そして、おなじことが繰り返されるんだよ。こまるんだよ。

きちがい兄貴の場合、きちがいヘビメタを「思いっきり鳴らしたいときは」思いっきり鳴らしたいわけだから、思いっきり鳴らせなくなるようなことは、どれだけ明らかなことでも、絶対に認めないのである。聴覚が正常だから、でかい音で鳴らしているということがわかるはずなのに、でかい音で鳴らしているということが、ほんとうにわからない状態になってしまう。相手が、自分にとって不愉快なことを言ってきたら、寡黙モードで、拒絶する。でかい音で鳴らしているということを認めてしまったら、しずかにしなければならなくなるから、でかい音で鳴らしているということ自体を、絶対に認めないのだ。けど、絶対に認めないようにしようと思って、認めないようにしているわけではないのである。ここが、ブラックホールなんだよ。ほかの人にはわからない部分だ。そして、あろうことか、きちがい兄貴もわかっていないのである。だから、行為としては、「でずっぱり」でやりきるのだけど、本人は、やりきったつもりがまったくないという、奇妙な状態が発生する。この奇妙な状態で、バレバレなんだけど、本人は、「危機」を乗り越えて、鳴らしてきたのである。危機というのは「しずかにしなければならない危機」のことだ。

こんなやつに、どれだけ、「朝、起きられなくなるから、しずかにしろ」と言っても、しずかにしないのである。 

*     *     *

鳴っているときも、次の日の朝も、内臓がキューっといたむ。無理やり動くことになる。そりゃ、うつ病にもなるだろう。楽しめない状態になるだろう。そして、これ言っても、ほかの人にはわからないと思うけど、無理やり自分を元気づけて、行動した場合、いろいろな失敗をするのである。ポジティブ思考とか、あるいは、言霊的な元気づけとか、人に親切にする方法などを試みると、かならず、失敗するのである。トラブルが増えるのである。

●それが、人体をもった、普通の人間のあり方だ■騒音※2025/12/16 8:32

  ヘビメタに毎日やられると、次の日の朝、憂鬱なのである。だいたい、ヘビメタにやられると、疲れ果てているのに、眠れない状態になる。この、疲れ果てているのに眠れない状態というのは、ヘビメタ騒音によってもたらされた状態なんだよ。自分はやられたことがないから「そんなのは関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言う。けっきょく、きちがい家族と一緒に住んだことがないので、きちがい家族が、どういうやり方で、どういう感覚で、「普通ではないこと」をやりきるのか、まったくわかってないのだ。やられたことがないから、ほんとうは、わかっていないだけなのである。けど、自分なら平気だと思っている人は、エイリだから気にする」「エイリだから影響を受けている」と、ごく自然に思ってしまう。けど、ちがうんだよね。実際にやられたらわかる。きちがい兄貴の態度でやられたら、朝、どれだけ憂鬱になるかわかる。そして、その憂鬱な状態で、気を取り直して生きてきたのである。その憂鬱な状態から這い上がって、学校に行っていたのである。そりゃ、きちがい家族による、激しい騒音がない人は、夜、眠れる。ぼくだって、きちがい兄貴がヘビメタをやる前は、そうだったんだよ。きちがい兄貴が、フォークギターを弾いているときは、夜、普通に眠れたんだよ。別に俺の能力の問題ではないのだ。しかし、「ヘビメタ騒音は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と思っている人は、俺の能力の問題にしてしまうのだ。自分は、能力があるから、鳴ってたって’影響を受けないで眠れるけど、エイリは能力がないから、眠れないのだと思ってしま。ぼくだって、ちゃんと眠れたのだ。気ちがいヘビメタが鳴り始めるまえは、ちゃんと眠れた。普通の人間なら、あの繰り返しを経験したら、眠れなくなるのである。自分がきらいな音を、自分がきらいな家族が、がんがん、「よそでは絶対に鳴らせないような」音のでかさで、鳴らしていれば、眠れなくなるのである。それが、普通の人間のあり方なのである。能力がある人だって……(普通の時間に)眠れる能力がある人だって、(普通の時間に)眠れなくなるのである。それが、わかっていないやつが、えらそうなことを言ってくる。「自分なら、そんなふうにならない」と思って、えらそうなことを、ガンガン言ってくる。こいつらは、夜郎自大なバカだか、こっちが説明すれば、腹を立ててしまう。言霊主義者が、言霊理論を否定されたときのような態度で、憤慨してしまう。じゃあ、どうして、こういうことになっているかというと、きちがい兄貴が「ブラックホール」だからだ。ほかの人からは見えないのである。ほかの人「考え」の中に入っていないのである。きちがい兄貴がやることは、異常なので、普通の「うち」に住んでいる人は、わからないのである。経験していないのである。普通の人は、きちがい家族が、きちがい的な意地でやることを、経験していないのである。だから、ほんとうに、わかっていないだけなのである。あれだけ、きらいな騒音が、つみかさなったら、どうなるかわかっていないだけなのである。あれだけ、爆音で、至近距離で、きらいな音が鳴り続けたら、そりゃ、(夜)眠れなくなる。眠れなくなるにきまっている。それが、人体をもった、普通の人間のあり方だ。普通の反応だ。普通の反応なのだけど、ようするに、きちがい兄貴のようなことをやる人が、その人の家族のなかにはいないから、経験していないだけなのだ。経験していないから、俺とおなじような状態になっていないだけなのだ。それを、まるで自分の能力のように思いやがって。こんなアホなやつらが、俺にえらそうなことを言いやがる。わかってないだけなのに、えらそうだな!

「の」の重複は指摘しなくていい。 

2025年12月15日月曜日

●こいつらは、想像力がないから、そう思っているだけなんだよ■騒音※2025/12/15 12:18

 やられていないから、わかっていないだけなのに、クソえらそうなことを言う、頭が悪いやつばかりだったなぁ。そういうやつが、多かった。この人たちは、「自分なら平気だ」と思っている。ごく普通にそういう風に思っている。きちがい兄貴やられたことを、ほんとうに自分がきらいな音でやられたら、どうなるか、わかっていないだけなんだよ。だいたい、やられていないやつから、わかったようことを言われること自体が、不愉快なことなんだよ。じゃあ、こいつらが、「自分なら平気だ」という前提で「そんなのは関係がない」ということ自体が、相手を不愉快にさせる発言なんだということが、わかるかというと、わからないのだ。自分は正しいことを言っていると思っている。ぼくが、そこら辺のことを、説明したとしても、そんな説明は受け入れない。「ダメなおまえがなにを言っているんだ」「できないおまえがなにを言っているんだ」「弱音を吐いているおまえがなにを言っているんだ」という反応をする。で、そういう反応も、こっちにしてみれば……実際に、きちがい家族にやられた人にしてみれば、不愉快な反応なんだよ。わかっているわけがない。こんなことを言うやつらが、わかっているわけがないのだ。だから、ヘビメタ騒音で、不愉快な思いをするわけなのだけど、必然的に生じる体の症状で、ほかの人から、悪く言われるということが決まっているのである。こいつらはこいつらで、「必然性」を認めないのである。どうしてなら、「自分なら平気だ」と思っているからだ。「自分なら影響を受けずに生活できる」と思ってるからだ。「自分なら平気だ」とか「自分なら影響を受けずに生活できる」とかと、実際に言うかどうかは別にして、そう思っている。深く、そう、思っている。疑いなく、そう思っている。これ、こいつらのなかでは、確定事項なのである。じゃあ、どうして、こいつらが、俺のことを見下してくるのかというと、実際に、きちがいヘビメタが鳴っているからなのだ。あるいは、鳴っていたからなのだ。これ、不可避的な症状なんだよ。「ダメなおまえがなにを言っているんだ」……ヘビメタ騒音で、ダメになっている。「できないおまえがなにを言っているんだ」……ヘビメタ騒音で、できなくなっている。「弱音を吐いているおまえがなにを言っているんだ」……実際にヘビメタ騒音が鳴っているので、相手が「弱音を吐いている」と感じることを言うことがあるということになる。きちがいヘビメタが鳴っていなかったら、ダメになっていないし、できなくなっていないし、弱音もはかないのだ。これ、毎日、「ほんとうに、異常な状態なんだ」ということがわからないのである。こいつらは、「ほんとうに、異常な状態なんだ」ということがわからないのである。こいつらは、経験がないから「ほんとうに、異常な状態なんだ」ということがわからないのである。常識的な騒音を想定して、自分なら、そんなことにならないと思っているのだ。常識的な騒音を想定して「自分なら、だめにならない」と思っているのだ。常識的な騒音を想定して「自分なら、できない状態にならない」と思っているのだ。常識的な騒音を想定して「自分なら、相手が弱音だと判断することを言うことがない」と思っているのだ。こいつらは、想像力がないから、そう思っているだけなんだよ。相手の言うことを理解して、相手の立場に立って考えるという力が、ほとんどないから、そう思っているだけなんだよ。がりがり亡者なんだよ。

2025年12月14日日曜日

●しあわせな生活を想像できない■騒音※2025/12/14 13:13

 まあ、端的に言って、しあわせな生活を想像できない。想像することができない。

これが、やっかいなんだよな。そりゃ、理想的な生活はある。自分にとって、理想的な生活はある。しかし、ヘビメタ騒音で破壊された。それは、わかい時期を破壊されたということだ。わかい時期というのが、ほんとうに重要なのだ。気持ちの問題というのがあるからね。

問題なのは、たとえば、楽しく感じないということだ。これも、長期騒音の結果なんだけど、そうなんだよ。実際に、そうなんだよ。実際に、楽しく感じないんだよ。意欲の問題もある。この楽しく感じる力と、意欲というのは、おなじものを別の言い方で言っているのではないかと思える。まあ、それぞれ、多少ちがう側面に光が当たっている言い方なのだろうけど、だいたいはおなじだ。もっている、実際的な意味がおなじなんだよね。

でっ、問題なのは、自分の意志では、「楽しく感じることができない」ということなのだ。これに関しては、いろいろと言いたいことがある人がいるだろう。「自分は意志で、楽しく感じることができる」と言いたくなる人もいるだろう。その人たちとぼくのちがいはなにかと言えば、きちがいヘビメタ騒音がずっと鳴っていたかどうかのちがいだと思う。

この「自分は意志で、楽しく感じることができる」と言いたくなる人は、本人は「自分だってつらい思いをした」と言うけど、ほんとうは、たいしてつらい思いをしていない人なのである。もう、はっきり断言できる。ほんとうは、たいしてつらい思いをしていないから、「自分は意志で、楽しく感じることができる」と思っているだけなのだ。たぶん、刺激の程度と期間の長さがちがうのだと思う。

*     *     *

自分の意志で、自分の感じ方を制御できると言い張る人たちもいるけど、この人たちは、感じ方の根源を決めてしまうような体験がない人たちなのだ。あるいは、言霊主義者のように、ほんとうの現実を無視して、「そのときだけ」「その気になっているだけ」の人たちかもしれない。ほんとうは、言霊主義者だって、自分が言った通りに感じる存在ではないのだ。自分が言ったって、自分の感情をかえられないときがあるのだ。実際には、自分が言ったって、自分の感情をかえられない「時間」のほうが長いのに、その「長い時間」を無視してしまうのである。実際には、自分が腹を立てているときは、「うれしい」と言ったって、うれしくならないのに、そういうことは、ガン無視して、「自分は自分の意志で自分の感情を制御できる」と思っているだけなのだ。「自分の感情を制御するには、言えばいい」ということになっている。自分にとって、都合がいい感じ方があったとする。たとえば、「楽しい」とか「うれしい」という感じ方だ。出来事に関係なく「楽しい」と言えば、「自分は楽しく感じる」のである。出来事に関係なく「うれしい」と言えば、「自分はうれしく感じる」のである。そういうことが、自分にはできると「意識的には」確信している。けど、実際の生活のなかでは、ぜんぜんちがうのである。腹が立っているときに、「うれしい」と感じるべきだと思って「うれしい」と言っても、うれしく感じないはずなのである。けど、言霊主義者はそういうことを、無視してしまう。全部の時間、自分は、自分が言ったとおりの感情を維持できると思っているのだ。「どんなにつらいことがあったって、楽しいと言えば楽しく感じる」のである。だから、つらいときは、「楽しい」と言えば、それで、楽しくなるので、問題が解決するのである。自分が言えば、自分が言ったとおりに、自分が感じることができるという「現実的ではない」自己イメージをもっているのだ。

*     *     *

実際に、きちがい兄貴がきちがい騒音を爆音で鳴らしているときも、爆音で鳴らし終わった後も、ひどい時間なのに、こいつらがわかっていないだけなのである。

もちろん、ヘビメタが好きなら、わからないだろう。

けど、そういうやつらにだって、苦手な音があるはずだ。この世で一番嫌いな音があるはずだ。この世で一番嫌いな音が、ガンガン、隣の部屋で鳴っていたら、うるさいと思うのである。

こういうやつらだって、うるさいと思うのである。そして、それが続けば、こういうやつらにだって、体調の変化が訪れるのである。体調の変化というのは、そのまま、意欲や感じ方の問題に移行するのである。全体性というのがあるんだよ。

脳だって、機関なのだから、影響を受ける。脳だけは、影響を受けないまま存在し続けるという考え方は、明らかにおかしい。脳も、内臓とおなじ機関なんだよ。生物的な機関なんだよ。

だから、外界の刺激があれば、影響を受ける。

なんで、音という外界の刺激だけ、影響を受けないと考えることができるんだよ?

おまえら、ほんとうに、頭がおかしいことを言いやがって。 

●親父と兄貴のハンディがなかったら■騒音※2025/12/14 12:35

親父と兄貴のハンディがなかったら、ぼくは、いろいろなことができたと思う。

学問の世界で暮らしたかった。それが、俺の夢だった。だから、普通の人とは、勉強のもつ意味がちがうのだ。

きちがい家族によるヘビメタ騒音が毎日、地道に、すべてを破壊した。俺のすべてを破壊した。 

●出来事は「こころ」に影響を与えるのである■騒音※2025/12/14 1:27

  ほんとう、つまんーーんない。つまんなーーい。ヘビメタ騒音のことが頭のなかにある。ヘビメタ騒音のだるさが、からだの中にある。しかたがないことなんだよなぁ。それから、ほんとうに、どうでもいい記憶が浮かぶ。けど、どうでもいいと書いたけど、どちらかと言えば、悪い記憶なんだよな。ヘビメタ騒音のことでいろいろなことがあり、「よその人」がきらいになった。不愉快な記憶がある。ちょっとした、クラスメイトとの会話なんだけど、あんまりいい記憶じゃない。けど、なぜか、急に思い出してしまう。今回のは、ほんとうに、何十年間も、一回も思い浮かばなかったことだから、めずらしい。けど、ささいな……どうでもいいことだ。

今日は、風呂に入った。風呂に入っただけで、もう、だいぶ疲弊している。相当に、つかれる。風呂に入っただけで、めちゃくちゃにつかれているのだ。風呂から出たあと、郵便局に行くつもりだったけど、めんどうくさいので、行かなかった。

ともかく、出来事は「こころ」に影響を与えるのである。出来事に関係なく「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるなんてことはない。この、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言うやつは、どうにかならないのか? こいつらだって、ほんとうは、そうではないことがあるのに、それは、ガン無視か? こいつらも、じつは、出来事の影響を受けているわけで、実際に発生してしまった出来事から生じた感情を、「言っただけで」上書きすることができるわけではないのだ。中立的な状態で「楽しい楽しい」と言ってみたら、なんとなく楽しくなったような気がしたので「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と思い込んでいるだけなのだ。普段、自分が出着ことに対応して生きていることを、忘れてしまっている。「幼稚なやつらだな」と思う。ところが、ヘビメタ騒音で、いろいろなところに問題がしょうじると、幼稚なやつらからバカにされることになるのだ。ヘビメタ騒音で、心身ともに、つかれはてているからだ。

2025年12月12日金曜日

●『どれだけ鳴っていたって大した問題じゃない』■騒音※2025/12/12 12:44

 きちがい兄貴は、きちがい的な意地を通して、すべての時間、鳴らしたのに、すべての時間鳴らしていないのと同じ気分でいるんだよ。これがどういうことだか、わかるか? わかるわけがないと思うけど、これがわかっていないやつと、話すと、めちゃくちゃにいや思いをするのである。ぼくが、めちゃくちゃに嫌な思いをする。自分の体験としてわかっている人間なんて、世界で俺だけなんだよ。だから、俺が、ほかの人と話すと、いやな思いをすることになる。自動的にそうなるんだよ。自分が体験していないのに、鋭い感性と高度な推理力で判断できる人を除いて、みんな、わかっていないわけだから、こまる。こいつら……普通の人は、『どれだけ鳴っていたって大した問題じゃない』と思って、自分の意見を言ってくるわけ。『そんなの関係ない』と思って、自分だ正しいと思うことを言ってくるわけ。そうなると俺のことを自動的に侮辱することになるんだよ。こいつらにしてみれば、俺が、さぼっていると思っているわけ。できるのにさぼっていると思っているわけ。けど、ヘビメタ騒音でできないんだよ。この世には「ヘビメタ騒音でできない」ということを、理解せずに、頭がおかしいこと・無理なことを言ってくるやつらがいっぱいいた。

*     *     *

それから、「い抜き言葉」について、ちょっとだけ書いておく。口語を重視しているので、「い抜き言葉」を使っている。「口語ではそういうふうに言っている」ということを重視する文では、ことわりなく「い抜き言葉」を使うことにしている。「い抜き言葉」は文法的には間違いだけど、逆に「い」を入れて表現すると「しっくりこない」場合があるので、「い抜き言葉」を使う場合がある。 

2025年12月10日水曜日

●俺の努力を完全に否定しているのだ■騒音※2025/12/10 5:34

あの生活をしていない人が、「俺だって苦労した」と言って、ヘビメタ騒音のことを無視してしまう。こいつらは、ゆるせない。ゆるせない。

話がちがうんだよなぁ。

そして、言霊主義者には、言霊的な誤解があるから、「言ったことが現実化する」と思って、「ネガティブなことを言うから、そうなった」と、さらに誤解をしてしまう。

こいつらの思考は、完全に、理論的に間違っているのだけど、こっちが、理論的に間違っているということを、説明しても、こいつらは、納得しない。たいていの場合、納得せずにおこる。自分が正しいと信じていることを否定されて、腹を立てているのだ。

じゃあ、その腹を立てているときに「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるのかという問題がある。「これ以降、エイリは、言霊理論を批判しないようになる」と言えば、言っただけで、エイリが、言霊理論を批判しないようになるのかという問題がある。

こいつらが、「言霊理論は理論的に間違っている」ということを突き付けられて感じた不満を一(いち)だとする。そうすると、きちがい兄貴の騒音から生じるエイリの不満は、一〇〇〇京ぐらいなのである。一〇分で、一〇〇〇京だ。ぜんぜんちがうのである。

不満のレベルがちがう。

頭がおかしい家族が、自分がこの世で一番嫌いな音を、きちがい的な音のでかさで鳴らしている空間……。そういう空間にいるときのストレスの度合い……。

鳴り終わったあと、眠れなくなるにきまっているだろ。それがわからないやつが、「俺だって苦労した」と言って、ヘビメタ騒音の影響を否定するのである。

こいつらは、切羽詰まった空間で、耐えて耐えて、頑張ってきた俺の努力をすべて、否定している。影響を否定し、影響のでかさを否定し、俺の努力を完全に否定しているのだ。

2025年12月8日月曜日

●それで、兄貴やヨソの人がこまるわけではないのだ■騒音※2025/12/08 8:35

どうするかな。

さっさと、カネを出す決意をして、中古住宅を買い、引っ越すべきなんだけどなぁ。めちゃくちゃに、憂鬱なんだよ。

親父が最後にやった、『魚だしっぱなし事件』と『ネズミ事件』と『ネズミ対策工事事件』と『ダニ問題』……がでかすぎる。

バルサンをたいても、粗大ごみ業者の人が、ダニに刺されることになるんだよなぁ。それが、いやなんだよな。めちゃくちゃに、こころが重い。

もう、俺は八年間ぐらいダニに刺されてきたので、もう、いやなんだよ。

そして、ダニに刺されるようないやな思いをほかの人にさせたくないと思う。けど、タンスなんて(俺が独自の力で)処理できるわけがないだろ。 運び出してもらわなければならない。

そして、タンスの裏に、ネズミの糞があるわけさ。それを、作業員の人が見てしまうわけ。「きたないなぁ」と思うだろう。「きたないところに住んでいるんだなぁ」と思うだろう。

いやなんだよ。そういう風に思われたくない。

けど、きちがい親父が、俺に押し付けた。これ、きちがい親父がやったことなんだよな。それも、普通の人がやることじゃないから、一回目、ほかの人に言うと、ほかの人が信じない……ところがある。

兄貴の嫁さんも、親父が、魚を出した話や、どれだけネズミが増えても、「俺(親父)がネズミシートで捕まえる」と言って、きかなかったという話をしても、最初は、俺が嘘を言っていると思ったんだよな。

兄貴の嫁さんが、兄貴に「そんなこと、あるのかな」と言ったら、兄貴が「やりそうだな」と言ったんだよ。兄貴は、ヘビメタに関してはきちがいだけど、親父がやりそうなことはわかっているんだよ。

だから、兄貴の嫁さんは、兄貴の言葉に「おどろいた」わけ。

ほんとうに、親父が『めちゃくちゃにくさい魚』を出しっぱなしにするんだよ。そういうことは、普通の人は、しないんだよ。注意しなくても、しないんだよ。

普通の人は『臭いからやめよう』と思うんだよ。

ところが、めちゃくちゃにくさいのに、突然スイッチが入って、親父がそういうことをやってしまう。親父にとって自発的にやったことだから、親父のなかでは、ゆずれないことなんだよ。ものすごいこだわりがあるわけ。

自分が思いついてやり始めたことを、邪魔されると、発狂しておこるんだよ。

俺が「臭いからやめろ」と言うと、親父が「におわないよぁ」「におわないよぁ」「におわないよぁ」と真っ赤な顔をして、怒鳴るんだよ。きちがい親父が、基本的な事実を、発狂して、否定する空間なんだよ。

うちの居間は、そういう空間なんだよ。

これは、きちがい兄貴が、ヘビメタをやりっぱなしにしたときとおなじ構造が成り立っている。認めたくないことは、事実でも、認めないのだ。

けど、事実だけど、認めてやらなかったという認識が一切合切成り立っていないのだ。だから、やりっぱなしになる。きちがい兄貴の場合も、普通の人なら、思いつかないことなんだよ。普通の人ならやろうと思わないことをやるわけ。普通の人は、あんなでかい音で、鳴らそうと……そもそも……思わない。

ヘビメタを爆音で鳴らすことも、兄貴が、自発的に思いついたことなんだよ。だから、親父とおなじで、感覚器をだまして、認めない。ものすごい音で鳴らしているのだけど、ものすごい音で鳴らしているということを、認めない。けど、本人は、嘘をついているつもりがないのだ。これが問題なんだよ。

ここが、ほかの人にとっては、わからないことなんだよ。ほかの人から見て、この部分が盲点になっているんだよ。

けど、ほかの人ではなくて、きちがい兄貴にとっても、盲点になっているいるんだよ。これがきちがいでなくて、なんだ。自分にとって都合がいいように、狂っているのだ。

でっ、こういう『しくみ』がある場合は、『相手』がどれだけ言っても、「でかい音で鳴らしているということ』を発狂して認めない。

そして、『発狂して認めないということ』をしたはあとは、本人とって、なかったことになってしまうのだ。

相手が「こまったということ」も、「相手がこまっているから、自分に文句を言ってきたということ」も、ないことになっている。兄貴のなかではないことになっているのだ。

そして、そのあと、ずっと「でかい音で」鳴らし続けるわけだけど、そのあと、ずっと「でかい音で」鳴らし続けても、本人が鳴らし終わって寝るときには、「そんなことはしていない」というような認識のまま、寝てしまう。どれだけこだわりつくしてやったって、やってないのとおなじなのだ。

とりあえず、説明をするために「そんなことはしていない」ということを書いたのだけど、じつは「そんなことはしていない」ということも、意識的に思ったことではない。あえて言うなら、そういう状態だ。

ほんとうは、「そんなことをしていない」と思わずに、まったく関心がない状態になってしまうのである。まったく関心がない状態のとき、『やった』という認識が成り立っているけど関心がない状態になっているのと、『やった』という認識が成り立っていないまま、関心がない状態になっているのとは、ちょっとちがうのである。

まあ、そんなちょっとしたちがいを説明しても、ほかの人にはわからないと思うけど、けっこう、重要なちがいだ。

*     *     * 

話を、親父の魚事件に戻す。 

親父・本人は、ほんとうににおわないつもりでいるんだよ。都合が悪いときだけ、嗅覚がおかしくなるわけ。くさいということを認めてしまったら、かたづけなければならなくなるだろ。

それがいやなんだよ。

絶対に「だしっぱなしにしたいわけ。そういうところに、スイッチが入ってしまったわけ。だから、嗅覚が正常なら絶対にわかることを、絶対の意地で、否定して、怒鳴り続けるわけ。

ともかく、認めると、自分が死んでしまうとような、切羽詰まった気持ちで、発狂して、認めないわけ。絶叫バージョンと、緘黙バージョンがあるんだけど、おなじなんだよ。

*     *     * 

ここで、きちがい兄貴の騒音事件に話を戻す。 

きちがい兄貴も、ほんとうは、普通のうちでは絶対に鳴らせないようなでかい音で鳴らしているのだけど、「普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で鳴らしている」ということを、認めてしまうと、自分が「普通のうちでは鳴らせないようなでかい音」鳴らすことができなくなってしまうということが、わかっているわけ。

だから、「普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で鳴らしている」ということを、絶対の意地で認めないわけ。聴覚が正常なら、絶対に、でかい音で鳴らしているということがわかるのだけど、聴覚が正常なのに、でかい音で鳴らしているということを、絶対の意地て認めないわけ。いつもそうなんだよ。認めてしまったら、でかい音で鳴らせなくなってしまうわけ。

それがわかっているから絶対に認めない。

けど、それがわかっているのは、兄貴の意識ではなくて、兄貴の無意識なんだよ。

だから、意識の視線では、ほんとうにでかい音で鳴らしていないつもりなんだよ。本人が、ほんとうに、わかっていないのだ。

だから、こういうところで、「自分自身にだましがある人」は、いやなんだよ。けど、これが、ほかの人にはわからない。だから、ほかの人は「お兄さんにやめてと言えばいい」ということを言うわけ。「ちゃんと言えば、お兄さんだってわかってくれるよ」ということを言うわけ。

普通の人は、普通の人で、兄貴の構造が……この構造が……わかっていないのだ。

そして、うちという環境を考えると、兄貴が意地を通そうとしたとき、通せる環境なんだよ。これも、ヨソの人にはわからないことなんだよ。正確に言えば、ヨソの人が認めたくないところなんだよ。

だから「そんなのは、へんだ」ということになる。ヨソの人の頭のなかで「そんなのはへんだ」と言うことになる。だかから、ヨソの人は「エイリが嘘を言っている」と思うわけ。だから、多くのヨソの人は……「エイリがちゃんと言わないからだめなんだ」と思ったり、「エイリが嘘を言っている」と思うわけ。

きちがい兄貴が、きちがい感覚をもっていて、きちがい感覚に根ざした行為をしてしまうと、ぼくが疑われるわけ。これが、セットなんだよ。

兄貴は、もちろん、意図してやっているわけではない。ヨソの人に、誤解をさせるために、わざと「わからない芝居」をしているわけではないのだ。

ここが、さらに、やっかいなんだよ。

きちがいがきちがいの意地を通せるところで、きちがいの意地を通してしまうと、そうなるわけ。でっ、これで、こまるのは、俺だけ(エイリだけ)なんだよ。ヨソの人がこまるわけではない。兄貴がこまるわけではない。

兄貴が、でかい音で鳴らしてしまってこまるわけではない。兄貴が、ヨソの人に、誤解をさせて、兄貴がこまるわけではない。兄貴が、きちがい構造を通して、ヨソの人に誤解をさせ、エイリにぬれぎぬを着させているのだけど、それで、兄貴やヨソの人がこまるわけではないのだ。俺だけがこまるの……。こういう構造なんだよ。

2025年12月6日土曜日

●関係……あるんだよ■騒音※2025/12/06 20:30

まあ、俺もいろいろとやってきたわけだけど……むなしい。限りなくむなしい。むなしいよーー。むなしい。あーー。

けっきょく、これが終着駅なのか。ほんとーーう、いろいろとやってきた。ぼくなりに、あがいたんだよ。ぼくの人生は、兄の長期ヘビメタ騒音でくるしかった。もう、それだけになっちゃったなぁ。

しかし、ほんとう、いろいろとやってきた。やってきたんだよーー。もう、つかれたけど……。もーーう、つかれたわぁ。動きたくない。 

どうにかしようと、やってきたことが、全部……ほんとうに全部……くるしいことだ。ものすごいハンディを抱えてやってきた。不遇な環境の中でがんばってきた。

けど、限界があるんだよな。限界が……。どれだけ、ヘビメタ騒音生活が、はりつめた生活か、ほかの人のには、わからないのだ。まーーったく、わからない。

はりつめた生活になる。どろどろの生活になる。発狂的な生活になる。不安な生活になる。

あの音で、あの至近距離で、鳴らされて、影響を受けないわけがないだろ。けど、「自分なら、だいじょうぶだ」「自分なら影響を受けない」と思っているやつが、ひどいことを言ってくるのだ。

どうして、そいつらが俺を見下して、無理なことを言ってくるのかというと、そいつらには、きちがい兄貴がおらず、俺にはきちがい兄貴がいるからなんだよ。

きちがい兄貴のきちがい行為で、ぼくが「できなくなる」のである。きちがい兄貴がきちがい行為をするから……きちがい行為をし続けるから……できなくなる。できていたことができなくなる。ぼくが……できなくなって、ほかのやつらから、いろいろと言われるようになる。

言ってくるやつらは、「自分なら、だいじょうぶだ」「自分なら影響を受けない」と思っている。

機転が、よそのうちにはいない、きちがい家族の行為なんだよ。よそのうちには、きちがい家族がいないのだから、経験のしようがない。やり方がおかしい。やっているときの認知がおかしい。やっているときの感覚がおかしい。やったあとの認識がおかしい。

全部、普通の人じゃない。全部、普通の人なら、ありえないことだ。だから、普通の人は、経験していないのだ。

そりゃ、騒音は経験したことがあるけど、きちがい家族がやり続ける……しつこい騒音を経験したことがない。一緒に住んでいる家族の常軌を逸している騒音を経験したことがないのだ。きちがいだから、やり方がきちがいなのである。みんな、わかっていない。

影響を受けるに、決まっているだろ。影響を受けるということがわからないやつが、的外れなことを言ってくるんだよね。その的外れなことというのは、基本的にぼくを侮辱したことなのだ。そして、たとえば、これに、言霊思考がつみかさなる。言霊なんことを持ち出すやつは、「自分がいいアドバイスをしてやった」と思っているだけだ。ちがうんだよ……。

けど、言霊主義者は、普通の人であって、きちがい家族の騒音を毎日経験した人じゃないのだ。常識人の判断も、言霊主義者の判断も、きちがい家族の騒音を毎日経験したことがないという点では一致している。

ぼくが経験したことだけが異常で、ぼくだけが、この騒音の異常性を理解している人間なのだ。多数決をするとまけるのである。

そういう状態を、きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で作り出してしまう。あんな音で鳴らすやつは、うちのきちがい兄貴しかいないんだよ。

しかも、なんか、うちの環境は、あいつが鳴らし続けることをゆるしてしまった。きちがいなら、きちがい行為をやっていないつもりで、押し通すことができたのだ。普通のうちだったら、できないことなんだよ。どれだけきちがいでも、きちがい行為を、押し通すことなんてできないんだよ。

これは、むかしも言った話だけど、兄貴が、おばあちゃんのうちに下宿していたとして、あの音のでかさで、きちがいヘビメタを鳴らせるかというと、鳴らせないのだ。

もちろん、ぼくがそう思っているだけだ。実際には、きちがい兄貴は、おばあちゃんのうちには下宿しなかった。下宿していなかった。うちで鳴らしていたのである。うちなら、鳴らせるのである。

きちがい感覚で、でかい音で鳴らししているということを、頑固に無視して、鳴らし続けることができるのだ。本人の意識としては、ほんとうに、でかい音で鳴らしたつもりがないのだ。

しかも、毎日、ヘビメタ騒音でこまっているということを、きちがい兄貴に言っているのに、それも、きちがい親父のように無視してしまう。きちがい親父ときちがい兄貴は、頭の構造がおなじなんだよ。

「うち」はきちがい親父がつくった「うち」なんだよ。

きちがい親父が、ヘビメタ騒音以外のことで、ヘビメタ騒音とおなじやりかたで、きちがい行為をしていたんだよ。うちのなかでは、きちがい行為があたりまえだという、歴史があるんだよ。

ほかのうちには、そんなものはない。

よそのうちには、そんなことをする人はいない。きちがいが、きちがい行為をがんこにやりきることができる「うち」だったのだ。普通の人は、この点も理解していない。

だから、ほんとうは、やられたことがない。どういう意地で、どういう認識で、どういう感覚で、きちがい家族が、きちがい行為をやってしまうか、わかっていない。

よその人はまったくわかっていない。わかっていないところで、常識を持ち出して、「そんなのは関係がない」と言う。関係……あるんだよ。毎日、体(からだ)と心(こころ)に影響を与えるんだよ。不可避的に影響を与えるんだよ。

2025年12月4日木曜日

●一番、こまっているときは、無視して、我慢させる■騒音※2025/12/04 7:55

 はっきり言って、鬱なんだよ。どうしても、明るい気持ちで、部屋探し、うち探しができない。いろいろとありすぎたんだよ。

きちがい的な父親の行動ということを考えるなら、うまれたときから、たたられている。

うまれたときから、普通の環境じゃないのである。

いや。もう、うまれるまえからたたられている。

当時、おかあさんが、病院に持ち込むための電気ストーブみたいなものを買ってもらえなかったのだ。おかあさんの話だと、当時は、病室に、おのおのが、暖房機を持ち込むような方式だったのらしい。

おかあさんと別の人ひとりで、ひとつの部屋を使っていたのだ。相部屋(あいべや)で、隣の人が、おかあさんにもあたるようにしてくれたみたいだ。そのときだって、おかあさんは、隣の人に「かり」ができてしまう。わかるかな?

もっていないから、かりるということになる。

おかあさんが、「さむいから、早く電気ストーブを買ってきて」と父に言ったのだけど、父が、拒否したのだ。もったいなくて、買えなかった。カネはあったんだよ。電気ストーブぐらい、買うカネはあったんだよ。

けど、けど、けど……親父の性格がたたって、買えなかった。

けっきょく、一番寒いときは、電気ストーブを買わず、春になって?電気ストーブが「セール」になったら、買ってきたのだ。

けっきょく、一番、寒いときには、電気ストーブがなかったわけ。

母親のストレスが、当時、子宮内にいた俺に影響を与えている。うまれるまえから、きちがい的な父の影響があった。

この、必要じゃなくなったときに、買ってやるというのが、父の手口なのだ。きちがい的な父は、特に考えてそうしているわけではないのだけど、いつもいつも、そうなる。

必要性がなくなったとき、あるいは、必要性がうすれたときに買ってくるというのは、いじわる以外のなにものでもない。

だって、そうだろ。相手が一番、こまっているときは、無視して、我慢させる。やせ我慢だ。


*     *     *

まあ、親父としては、「せっかく買ってきてやったのになんだ」ということで、腹を立てるのだろう。腹を立てたのだろう。相手が、あるものを必要としているときには、絶対に買ってやらないという性格なのだ……。親父は……。

おカネがかかわっているけど、おカネがかかわっていない場合でもそうなることがある。買ってやらないということは、やってやらないということに、内包される。

買ってやらないということは、やってやらないということの部分集合。ごく自然に、そうなるんだよ。これも、きちがい親父が(よその家で)やってもらえなかったということが、影響している。

きちがい親父がよその家で虐待され続けていたわけだから、そうなる。

きちがい親父は、自分が(本当に必要なとき)いつもやってもらえなかったのである。いつも、その家の子どもはやってもらえるのに、親父はやってもらえなかったのである。

そりゃ、ぐっとくるだろう。

けど、これがまた、普通の人には、そういうときのくやしさが、あんまりよくわからないのである。

だから、こういうところでも、親父の行為が誤解される。「そんなこと……ないんじゃないの」と言うわけだよ……。よその人は……。

けど、きちがい親父は、やってやらないことを、無意識的に選択しているのである。相手にとって(それが)必要ではなくなったら、やってやれるようになるのだ。

もっとも、これは、カネがかかわっている。電気ストーブだって、子どもの机だって、子どもの鉛筆だって、子どもの消しゴムだって、子どもの靴だって、子どもが必要しているハンダゴテだって、全部、おなじなのである。

全部!おなじ事になっている。

「親父がかかわったら、おしまい」なんだよ。

けど、よその人が……また・・ 「親父がかかわったら、おしまいだ」というのは、ぼくの側の間違った思い込みだと思うようにできているのだ。

こういうズレが、いろいろなところ発生してしまう。

*     *     *

ちなみに、何度も言うけど、親父の頭と、兄貴の頭は部分的におなじなので、やっぱり、相手が、「それで」どれだけこまっているのかということがわからないところがあるんだよね。

相手がこまっているということを、自動的に無視してしまう。これは、「きちがい親父は、やってやらないことを、無意識的に選択しているということ」とは、ちがうことだ。

関係があるのだけど、ちがうことだ。

両方が重なっているのである。

親父と兄貴の場合、きちがい親父は、「やってやらないことを、無意識的に選択している」ということと「相手がどれだけこまっているかまったくわからない」ということが、重なっているだけで、いちおう、別のことだ。

あたかも、おなじことのように見えるけど、べつのことだ。

*     *     * 

かさなっているので、兄貴は、自分のヘビメタ騒音で、弟がどれだけこまっているかということを、普通に、無視してしまうのである。

普通の人は無視できない部分を、あたりまえのように無視してしまうのだ。ヘビメタ騒音に対する、親父の態度だって、『普通の親』というものを考えた場合、あらかにおかしいのである。

だから、「そんなにでかい音で鳴ってなかったんじゃないか」とよその人が……これまた……誤解してしまうのである。

「そんなでかい音で鳴らしていたら、親が注意をするはずだ」とよその人は、考えてしまうのである。「親が、ヘビメタ騒音を無視して暮らしているなら、そんなでかい音で鳴っていないはずだ」とよその人は考えてしまうのである。

ようするに、「親が注意しないのだから、エイリが言っているようなでかい音で鳴っていない」とよその人は考えてしまうのだ。 

ともかく、うちの父を、「普通の父」だと思ってしまう人は、誤解をするんだよ。俺の言っていることを、誤解する。けど、これまた……誤解しているということを認めない。

よその人は、認めない。

むしろ、よその人にとっては、ぼくが「父」のことを誤解していると思っているのである。こういうことばかりなんだよ。 

ともかく、うちの兄を、「普通の兄」だと思ってしまう人は、誤解をするんだよ。俺の言っていることを、誤解する。

けど、これまた……誤解しているということを認めない。よその人は、認めない。

むしろ、よその人にとっては、ぼくが「兄」のことを誤解していると思っているのである。

こういうことばかりなんだよ。 

2025年12月2日火曜日

●こういう無視のしかたで無視されると、腹が立つということがわからない■騒音※2025/12/02 6:52

 みんな、ほんとうに、ヘビメタ騒音がどれだけきついか、わかってないんだよな。俺にとってヘビメタの音が、どれだけ響くかわかっていない。あの音が、真横で、普通の状態ではありえない音で、ガンガン鳴っていると、ほんとうに、勉強なんてできない。そして、それは、ただ単に勉強ができない時間ではないのである。勉強はできないけど、楽しくゲームをすることはできるとか、あるいは、興味のある本は読めるとか、テレビを視て楽しめる時間ではないのである。マイナスの時間でしかない。切羽詰まった時間なのである。どれだけ切羽詰まった時間か、わかってないんだよね。兄貴が、きちがい兄貴でなければ、一日に一分だって、あんな音で鳴らさないんだよ。もう、それは決まっているんだよ。きちがいだから、やってはいけない音……鳴らしてはいけない音で、ずっと鳴らしていた。これが、また、「ずっと鳴らす」ということに、きちがい的なこだわりがあるのである。これは、親父のこだわりとおなじなのである。これ、絶対に、一秒だってゆずってやらないことに、命がかかっているのである。しかも、本人が、わかっていないのである。絶対に自分が満足できるでかい音で鳴らすということに、命がかかっている。だから、どれだけなにを言っても、聞かないのである。こっちがどれだけなにを言っても、きちがい的な意地ではねのけて、こっちが言うことを、聞かないのである。しかも、きちがいだから、きちがい的な意地ではねのけたということがわかっていないんだよ。相手が、自分のやっていることでこまっているから、やめてくれと言ってきたということが、わかってないんだよ。何十万回、繰り返したって、一回目を言う前の状態とおなじなんだよ。意識としては、そうなんだよ。兄貴の意識としてはそうなんだよ。そのくらいに、わかってないのだ。相手がこまっているということが、わかっていない。自分が、非常識な音で鳴らしているということが、ほんとうにわかっていない。あんなにでかい音で鳴らしておいて、でかい音で鳴らしているということがわからないということは、耳が正常な限り、ありえないことなんだよ。ところが、耳が正常なのに、わからないのである。きちがい的な無意識で、「やってないこと」にしてしまっているのだ。耳は、あまりにもでかい音で鳴らしすぎたので、正常な耳ではなくなるのだけど、正常な聴力があった状態でも、そうなんだよ。心の問題で、自分がやっていることを、絶対の意地で認めないんだよ。自分がでかい音で鳴らしていると移行とが、ほんとうにわかっていない状態なんだよ。非常識な音で「つねに」鳴らしているのに、「つねに」常識的な音で鳴らしているつもりなんだよ。それが、どれだけでかい音で鳴らし続けても、わからないんだよな。何回、注意されてもわからないんだよ。本人はわかっていないから、気楽なんだよ。じゃあ、言えばやめてくれるかというと、そうではない。これが、ほんとうに、ほかの人にはわかっていないことなのだけど……相手が言っていることを理解する前に、はねのけているという状態だ。だから、自分が『やってはいけないことを、頑固にやっている』という気持ちがないのだ。本当は『やってはいけないこと』を頑固にやっているのに、そのつもりまったくない。ぜんぜん、ない。相手がこまっているということも、本人が認識する前に、はねのけてしまう。だから、どれだけこっちが兄貴に対して、兄貴の騒音でこまっているということを言っても、兄貴は、それがまったくわかってない状態で暮らしているのである。これも、普通の人間なら、ありえないことなのだけど、普通にそういう状態でずっと暮らしているんだよ。これも、きちがい親父とおなじだ。これ、ほんとうに、おなじなんだよ。だから、弟の勉強の邪魔をしているということは、こっちがどれだけ、「勉強の邪魔だから、鳴らすな」と言っても、まったくわからない状態で暮らしている。何千日でも、何万日でもおなじなんだよ。こういう無視のしかたは、腹が立つ。けど、よその人は、きちがい家族がいないので、こういう無視のしかたで無視されると、腹が立つということがわからないのだ。そして、焼く4割の人は、「そんな人、いない」と考えるから、俺が嘘を言っていると思っているのだ。こんなの、ない。こんなの、ない。

*     *     * 

眠れなくなるための……下地の時間で、ともかく、この部屋で生きているだけで、つらかった。鳴っている間の、体の状態が、並じゃないのである。みんな、無視する。

この時間が、実際にあるから、眠れなくなっているのに……「眠れると言えば、眠れる」と、言いやがる。この時間が、実際にあるから、眠れなくなっているのに……「鳴り終わったら関係がない」と言いやがる。この時間が、実際にあるから、眠れなくなっているのに……「遅刻の言い訳をしている」と言いやがる。この時間が、実際にあるから、眠れなくなっているのに……「健康管理ができないのは、おまえの責任」と言いやがる。言いやがる。言いやがる。言いやがる。

こいつらの理解では、俺が、「なまけて」「夜更かしをしているからダメなんだ」ということになっているのだ。 こいつらの理解では、俺が、「明日のことを考えないで、夜更かしをしているからダメなんだ」ということになる。ようするに、ヘビメタ騒音が鳴っていたということの影響を無視して、ただ単に、俺が、「明日のことを考えないで、ちゃんと時間通りに寝るということが、重要だと考えていないからダメなんだ」と自動的に考えてしまうのである。しかも、そうやって、ヘビメタ騒音影響を無視して、人をバカにしている……エイリのことをバカにしている……エイリのことを下に見てバカにしている……ということがわかっていないのである。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、眠れないなんてことはない」と考えているのである。「鳴り終わったら関係がない」と考えているので、そう考えるのである。けっきょく、エイリが、夜、決まった時間に眠ることの重要性を理解しようなような、バカだから、夜、決まった時間に眠ろうとしていないだけなのだということになってしまう。「ヘビメタ騒音で眠れないなんて言うのは、言い訳だ」と思ってしまうのである。「夜ちゃんと眠るということの重要性を理解していない人が、あまえたことを言っているだけなのだ」と思ってしまう。実際に、兄貴の行動が影響を与えているのに、ヘビメタ騒音の影響はないと考えている人にとっては、俺が、ほんとうは、ヘビメタ騒音の影響を受けて眠れないわけではないのに、ヘビメタ騒音の影響を受けて眠れないと言っているということになってしまう。「お兄さんのせいにしている」「遅刻する言い訳として、あまえたことを言っている」と思ってしまう。こういうことの繰り返しがメンタルに影響を与えないわけがないだろ。実際に、こういうことは、影響を与える。だから、「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない。「鳴り終わったら関係がない」と言われたあと、楽しい楽しいと言っても、楽しくならない。

出来事は、感情に影響を与えるのである。なおさら、繰り返される出来事なら、感情に影響を与える。これすら、理解していないやつらが「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と、無理なことを言ってくる。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなるだから、楽しくならないやつが悪い」と言ってくる。「出来事に関係なく、楽しい楽しいと言えば、楽しくなるのだから、楽しくしようとしないやつが悪い」と言ってくる。

「鳴り終わったあと、眠れないなんてことはないから、エイリが人のせいにして、言い訳をしているだけだ」と言ってくる。 

●疑いなんてもたない■騒音※2025/12/02 2:44

  たとえば、ヘビメタ騒音でうるさかった」と言うことを理解した人だって、ヘビメタ騒音で通勤ができなくなるということは、認めない。自分は、ヘビメタ騒音が鳴ってたって、通勤できるつもりでいるのだ。そして、「自分だって苦労した」というのは、ほんとうなのだ。たぶん、苦労したのだろう。だから、「自分だって苦労した」という認識は、別に、間違っているわけではない。しかし、自分の苦労と、ヘビメタ騒音の苦労がイコールではないのだ。実際、その人は、きちがい家族によるきちがい騒音を経験していないから、通勤できる。だから、苦労をしたのはほんとうだけど、通勤ができくなるような苦労をしたのかどうかは、わからないのだ。そして、実際に通勤ができる立場で、エイリのことを批判しているのだから、あるいは、元気づけようとしているのだから、通勤ができなくなるような苦労は経験していないのである。そして、ぼくの側が、きちがい家族による、きちがい騒音によって、「人間は、一般的に?通勤ができなくなる」ということを、証明することはできないのだ。なので、相手のなかでは、もし自分が、きちがいヘビメタ騒音並みの騒音をあびつづけて、7年以上生活したら、通勤ができなくなるということは、認めない。認めないのだ。認めるつもりも、ないだろう。だから、ヘビメタ騒音は、通勤ができるかどうかとは関係がないと考えてしまう。ごくごく自然に考えてしまう。疑いなんてもたない。ところが、関係があるんだよ。ぼくの側の意見でしかないけど、おなじレベルの騒音を、日常生活的に毎日あびつづけたら、おなじレベルの騒音で、通勤ができなくなると思う。これが、くやしいところなんだよな。きちがい兄貴のような人間は、めったにいない。ほかの人には、最初から、きちがい兄貴のような家族がいないのだ。だから、きちがい兄貴のような人間のしくみが、ほかの人にはまったくわかっていない。そして、ほかの人には、きちがい兄貴化のような家族が、実際にないのだから、きちがい兄貴のような家族が「毎日毎日」やることの影響を、実際に、受けない。受けないからわかっていないだけなのかもしれないのに、そういうことに関する関心がないので、「受けないからわからないだけなのか知れない」とは考えないのだ。これは、ほんとうに、一般化できるレベルで、「関係がない」と思っている人は、考えていないのではないかと思う。「ヘビメタ騒音と通勤は関係がない」と思っている人のすべてが、「自分は、ヘビメタ騒音の影響(きちがい家族によるきちがい的な騒音の影響を受けていないから、ヘビメタ騒音と通勤の関係がわからないだけなのではないか」と思わないのではないかと思う。

2025年12月1日月曜日

●ダイヤと遊んでいたころが、一番楽しかった■騒音※2025/12/01 6:31

 ほんとうに、ダイヤと遊んでいたころが、一番楽しかったなぁ。ヘビメタ騒音が鳴っていたけど……。ヘビメタ騒音が鳴っていたけど……。

ダイヤとデパートに行くのがめちゃくちゃに楽しかった。わくわくした。ダイヤと東京のでかい本屋に行くのが、めちゃくちゃに楽しかった。近所の本屋に行くのも、めちゃくちゃに楽しかった。

まあ、帰れば、きちがい兄貴が、きちがいの音を猛烈にでかい音で鳴らしていて、こっちは、気分が悪くなるのだけど。発狂したい気分になるのだけど。憂鬱気分になるのだけど。騒音の中で勉強することができないので……まーーったくできないので……腹が立つし、不安になる。それは、避けられない。騒音の中で「楽しい楽しい」と言ったって、楽しくならない。「不安になる必要がない」と思ったって、不安になる。そりゃ、きちがい家族が、きちがい観測で、こっちがっていることをガン無視して、鳴らしていたら、勉強することができないわけだから、将来に不安を感じる。試験の結果に不安を感じる。あたりまえだ。「必要がない?」……。ふざけんな。あんなでかい音でガンガン鳴っていて、発狂的な気分で勉強することがまったくできないのだから、将来に不安を感じてあたりまえだ。そして、「騒音が鳴ったって勉強ぐらいできる」と言った友達との会話シーンを思い出して、不愉快な気持ちになる。そんなことの繰り返しでいいわけがない。きちがい兄貴の態度と言うのは、きちがい親父の態度とおなじだ。きちがい兄貴は、でかい音で鳴らしているという基本的なことを、頑固に認めないで鳴らしている。こんなの、腹が立たないわけがないだろ。そして、こういうところを、無意識的に無視して鳴らしてしまうので、ぼくがほかの人から誤解を受けることになる。「騒音が鳴ったって勉強ぐらいできる」と言った友達だって、自分が、この世で、一番嫌いな音が、あのでかさの音量で鳴っていたら勉強なんてできないんだよ。けど、その友達には、耳が正常なら絶対にわかることを、発狂的な意地で否定して、頑固に鳴らし続ける家族がいないんだよ。だから、わからないだけなんだよ。あの音のでかさがわからない。そして、きちがい兄貴の構造がわからない。きちがい兄貴が卑怯な手を使って、鳴らしているのである。しかも、まるわかりの卑怯な手を使っているきちがい兄貴が、卑怯な手を使っているとは、まったく思ってないのである。きちがい兄貴のなかでは、普通の音で鳴らしているだけということになってしまう。こんなの、ない。これが……こういう態度が、どれだけ腹が立つことか、「騒音が鳴ったって勉強ぐらいできる」と言った友達は、知らない。そりゃ、近くにそういう他人がいないからだ。そりゃ、横の部屋にそういう家族が住んでいないからだ。こまるんだよ。腹が立つ、卑怯な手段で、やっているんだよ!! 

2025年11月30日日曜日

●通勤ができない体になるとは、思っていない■騒音※2025/11/30 14:11

 ヘビメタ騒音のハンディがないやつが、「そんなの関係ない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と言いやがるのさ。そいつらがみんな……ほんとうに、みんな……「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言うんだよ。みんな、言う。けど、そいつらには、きちがい的な家族がいない。きちがい兄貴のような家族がいないのだ。そして、普通の人が鳴らさないような騒音に、毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、さらされるということを経験したわけではない。だから、ほんとうは、自分のうちで……自分の部屋の真横で……家族が、きちがい的な音を鳴らし続けるということを、経験したことがないのだ。きちがい兄貴の「つくり」が、きちがい的だから、ほかの人にはわからない。そして、きちがい兄貴の「つくり」がきちがい的だから、きちがい的なやり方になってしまうのである。自動的に、きちがい的なやり方になってしまうんだよ。きちがい的な感覚で、やり続けてしまうんだよ。どれだけなにを言っても、きちがい的な感覚ではねのけて、やり続けてしまうんだよ。それが、俺の責任だと言うの? 「すべては、自己責任」……。こんなのない。ともかく、こいつらは、ヘビメタ騒音の影響を過小評価している。実際に、きちがい家族による騒音を毎日……ほんとうに毎日、ずっと、何時間も何時間も聞かされて、生きてきたわけではない。その結果、睡眠障害になっていないし、生活体力も奪われていない。ようするに、きちがいヘビメタ騒音にやられて……きちがい家族によるきちがい的な騒音にやられて……通勤して働くことができない体になっていない。「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言うけど、それは、通勤して働くことができる状態で言っているのである。「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言うけど、それは、中学、高校と、普通に勉強することができる状態で暮らしてきたという過去がある状態で言っていることなのである。ぜんぜん、ちがうんだよな。おなじ経験をすれば、不可避的に影響を受けるということが、わかるのに、おなじ経験をしていないから、不可避的に影響を受けるということがわかっていない。わかっていないけど、「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言って、無理なことを言ってくる。実際にやられたら、自分だって「影響を受ける」と考えていないのである。うるさく感じることはあるかもしれないけど、通勤ができない体になるとは、思っていないのである。自分だったら、影響をけないのに、エイリが影響を受けて、甘えたことを言っていると思っているのだ。こんなの、ない。けっきょく、空想の中の自分は、強いので、エイリのように影響を受けないで普通に暮らせると思っているのだ。空想の中で、自分のほうが強いと思っているのだから、空想の中で、エイリのほうが弱いと思っているのだ。これは、自動的に、バカにしていることになる。

*     *     *

「全部、自己責任だ」と言えば、「自分に関係がないことなら全部」人のせいにできるのである。こいつらがやっていることは、こういうことだ。 しかし「全部」人のせいにできるのである。「自分の身に起こったこと以外は、全部」人のせいにしている。「自分の身に起こったこと以外は、すべて」を人のせいにしている。

そして、「そんなの関係ない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と言ったことは、自分がやったことなのに、別に責任を感じないのだ。責任を感じないのだから、自己責任だとは思わないだろう。

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他人と他人の間に起こったことなら「すべて、やられた側の責任だ」と言っているのである。「すべては自己責任」だからそうなる。 「すべて、やられた側の責任だ」という意味をことを言った責任というのは、もちろん、あるぞ。責任の所在を問うなら、そいつの責任だ。「すべて、やられた側の責任だ」と言ったやつの責任だ。他人と他人の間に起こったことについていうのであれば「すべて、やられた側の責任だ」ということは、「すべては自己責任だ」ということになる。他人と他人の間に起こったことについて言及するなら「すべては自己責任だ」ということの意味は、「すべて、やられた側の責任だ」ということの意味と等価になるのである。

責任の所在について考えずに、「すべて、やられた側の責任だ」と言うことが、どういうことなのか、わかっているのか?

責任の所在について考えずに、「すべては自己責任だ」と言うことが、どういうことなのか、わかっているのか?

*     *     *

そういえば、「どんな理由があっても、自分の親をきちがいと言うやつは、頭がおかしい」と言ったやつがいたけど、こいつはまったくわかっていない。「どんな理由があっても」……こういう言葉を、軽々しく使うべきではない。ほんとうに、まったく、わかっていないな。自分の想像の範囲で「どんな理由があっても」と言ってしまうのは、よくないぞ。相手は、自分が想像する範囲を超えた経験をしたのかもしれない。「どんな理由があっても」なんてよく言うよ?

2025年11月27日木曜日

●「うちでは、おさえなくてもいい」■騒音※2025/11/27 8:11

 それにしても、このさき、どうするかな?

なんか、動きたくないんだよなぁ。

けど、外壁その他が劣化しつつあるので、問題がある。リフォームは、むりだ。新しい家を買うしかない。新しいと言っても、中古だけど……。しかし、どうする?

なんか、ほんとうに、動きたくない。たとえば、電車に乗って内見に行くことを考えると、なえる。考えただけで、なえる。めちゃくちゃに、憂鬱になる。

ヘビメタ騒音期間中に、入学試験を受けに行ったときの気持ちになる。破滅感があるんだよな。それを、押しのけて、無理をして行動しているのだけど、無理をして行動すると、そのぶん、やはり、「憂鬱のもと」がたまるのである。

その場合「楽しい楽しい」と言ったって、楽しくなるわけではない。実際に、騒音が鳴っていたということと、騒音の影響を受けて眠れない状態で……つまり、一睡もできない状態で……試験を受けに行ったということが重要なんだよ。

出来事と関係なく、どこかに、自分のこころがあって、そのこころが、自分の発言に対応した気持ちをもつわけではないのだ。

どこかに、出来事と関係がない、無傷のこころがあるという考え方は、まちがっている。

出来事の影響を受けた「こころ」しかない。

ところが、ニュートラルな状態を考えて、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と思ってしまう。実験をするときは、ニュートラルな状態なのだ。こころは、比較的にいって、中立的な状態だ。

ものすごくこまっている状態で、ものすごくショックなことがあった状態ではない。

きちがい家族に、こころを、かきむしられたあとではない。

けど、きちがい家族と一緒に住んでいる人は、日常的に、こころを、かきむしられるのである。きちがい家族は、きちがい的な自分勝手さを発揮して、自分の気持ちのまま行動するので、きちがい家族のまわりにいる人は、こまるのである。

どうしたって、きちがい家族の影響を受ける。どうしたって、きちがい家族がやることの影響を受ける。だから、きちがい家族と一緒に住んでいる人は、きちがい家族と一緒に住んでいない人にくらべて、こまっているときが多いのである。時間的にも長い。こまる頻度も、高い。

実際の「こまる回数」も、多いのである。

きちがい家族のタイプによるけど、タイプに関係なく、普通の家族よりは、きちがい家族のほうが、迷惑行為を夢中になってやる傾向がある。

だいたい、俺が兄貴のことを「きちがいだ」と言っているのは、兄貴がやったことで、こまっていたからなのだよ。

そして、兄貴が、注意をすれば、ごく基本的なことを認めて、改めてくれるような正常な人だったら、そもそも、きちがい兄貴などとは、言っていないのだ。

きちがい兄貴は、ヘビメタ騒音で、こっちの気持ちをかきむしるようなことをして、かきむしるような行為をしているということを、絶対に認めなかった。普通の人なら、わかることなのである。

ところが、きちがいだから、うまい具合にわからなくなっている。

そして、これは、「うちだから」起こったことだ。きちがい兄貴のような人間だって「よそ」では、正常な人間として行動しているのである。

だったら、うちにいるときも「自分がおかしい」ということかわるかといえば、わからないのだ。ここら辺も、普通の人が、ごく普通に、誤解するところなのだよな。

よそでも、じつは、よく見れば、自分勝手な行動をする傾向があるのだ。けど、「うちにいる」ときほど、ひどくはない。おさえがきいている状態だ。けど、うちだと、おさえがきかなくなってしまうのである。

しかし、じゃあ、「うちでは、おさえなくてもいい」とはっきり自覚してそうしているのかというと、そうではないのだ。たとえば、きちがい親父は、親戚のうちにいるときは、うちにいるときのように、きちがい的な理由で、子供にいかりをぶつけるということがなかったのである。

けど、きちがい親父が、それを意識して、使い分けていたかというとそうでないのである。けど、注意深い人は「あのひと、へんだよ」と思ったりする。これは、なんらかのトラブルがあったときそう思うわけで、たいていの人は気がつかない。

 説明しにくいことなのだけど、いちおう、短縮形で説明しておく。

ぼくが、おばあちゃんの家で、「親父が家でこういうことをする」と言ったことがある。そうしたら、おばあちゃんは、「親の悪口を言う子供は悪い子供だ」という反応をしたのだ。

「親の悪口を言うなんて、よくない」と言ったのだ。きちがい親父がうちでやっていることが、まるでわかっていないのだ。「子どもは、子どもだから、善悪の区別がつかずに悪いことをすることがある」「だから、親である、親父が、エイリを注意したのだろう」と勝手に解釈してしまう。

そのとき、おかあさんが、「エイリちゃんが言っていることが正しい」「うちでは、夫は、ひどい原理で動いている」「頭がおかしい理由で、ケチをつけて、いつも怒り狂っている」ということを言ってくくればいいのに、だまっているのだ。

あとで、家に帰ったとき、ぼくがおかあさんに「おばあちゃんは、お父さんのことがわかっていない」というようなことをぼくが言ったら、おかあさんは「おばあちゃんは、そうだよ」と言ったのだ。「ぼくが(無根拠に)お父さんの悪口を言っている」と思っている。

実際に、お父さんは、いつもひどいことをする」というようなことを言いたかったわけ。当時、幼稚園生ぐらいのときだから、「無根拠に」というようなことは言わなかったけど、そういうふうに言いた気持ちがあった。

これ、おばあちゃんの解釈だと、ぼくが、親父の行為を誤解しているという解釈なんだよな。どうして、誤解しているかというと、ぼくが(当時)幼稚園生ぐらいの子どもだったから、誤解をしているということなのだ。ようするに、おばあちゃんの解釈だと、親父は、おこるべきことでおこっているという解釈なんだよな。

それが、エイリはおさない子どもだからわからないという解釈なんだよ。

きちがい親父が、きちがい的な理由でおこっていたことは、あきらかなのだ。「うち中にいる人」にとっては、あきらかなことなのだ。

けど、よそのうちの人には、あきらかなことじゃない。小さな子どもが言えば、小さな子どもだからわからないと思ってしまう。小さな子どもだから、親がおこった理由がわからないだけなんだという解釈だ。「小さな子どもだから、親がおこった理由がわからないだけなのに、親がおこったということを悪く言っている」という解釈なのだ。

こんなの、ない。

けど、おかあさんが死んだあと……おばあちゃんとちょっとだけ話をしたのだけど、そういうことがあったということは、何十年もまえのことなので、おばあちゃんは、まったくおぼえていないような様子だった。

たぶん、おぼえていない。

けど、ぼくは、何十年もまえのことだけど、おぼえている。こういうことは、よくあることなんだよな。相手は、忘れちゃってるけど、ぼくはおぼえているということが、よくある。

なんだか知らないけど、記憶に強く残るタイプなのだ。めちゃくちゃにいろいろ、相手が忘れてしまたっことを、おぼえているのである。

エピソード記憶の記憶力が高すぎてこまっているよ。

2025年11月25日火曜日

●日曜日や祝日なら、体を休めることができるという前提■騒音※2025/11/25 6:41

ネットスーパーの注文をしたのだけど、はやくも、後悔している。キャンセルするかどうか迷っている。配達の時間帯としては、昼間の一二時から午後二時までの時間帯を選択した。

いまは、まだ、眠たくないけど、午前九時ぐらいか眠たくなる感じがする。昼間の一二時までは、起きていられるけど、午後二時はきついかもしれない。

けど、どのみち、明日もおなじようなことになるので、明日にずらしてもおなじだ。しかも、明日にずらすとなると、睡眠時間が、うしろにずれてしまうのである。大きく大きくずれてしまうのである。八時間ぐらいずれてしまう。

そして、この八時間も、ドロドロで気持ちが悪い時間なのだ。普通の状態でずれるわけではなくて、ものすごく悪い状態でずれることになる。時間を決めるとなると、こうなってしまうのである。

これは、後天的なもので、ヘビメタ騒音生活八年目あたりから、こうなった。ほかの人は、理解してくれないけど、人生のマイナスになっている。まあ、ほかの人が理解しないというのはわかる。けど、ヘビメタ騒音で本当にそうなる。

自分で時間を決められる場合でもこうなってしまう。前投稿で、ヘビメタ騒音と学校にはさまれると書いたけど、ヘビメタ騒音と学校にはさまれた結果が、これだ。

ほんとうに、人は理解しない。「だらしないやつだな」と思うだけなのである。

「面倒なやつだな」と思うだけなのである。必然性なんて、理解しない。

けど、じゃあ、ヘビメタ騒音と学校にはさまれた七年間は、どうなるのだ。

これ、どうしたって、ヘビメタを六時間以上、あびたあとは、眠れなくなる。もちろん、これも、証明ができない。実験ができない。

すべての人で、そうなると言いたいけど、多くの人がそうなるというところまでゆずっても、ぼくが言っているだけのことになってしまう。

人間を主語にして、「人間は、ぼくとおなじ生活をすれば、睡眠回路が壊れてこういう状態になる」と言いたいわけだけど、証明ができない。ほんとうに、……多くの人が、みんな……経験していないことなのだ。

だから、実際に、ヘビメタ騒音にさらされて、一日が眠れなくなるということがわからない。きちがいヘビメタ騒音のことを無視する人は、ぼくが、さぼっていると思ってしまうのだ。ぼくがたるんでいるから、時間に遅れると思ってしまうのだ。

そういうことまで含めて、ヘビメタ騒音を実際にあびてしまうと、どうしても、そうなってしまうのだ。これ、意志の問題じゃないのである。

逆に、「時間を守ろう」「眠れ」と、思えば思うほど、眠れくなってしまうのだ。けど、じゃあ、「時間を守らなくてもいい」「眠れなくてもいい」と思えば、眠れるかというとそうではないのだ。

けっきょく、そういう思いとは関係なく、きちがいヘビメタを浴びてしまったということが影響を与えているのだ。日曜日は一三(じゅうさん)時間以上、ヘビメタ騒音を、至近距離であびせられるのである。だから、休みの日が、休みの日ではなくて、特につかれる日になってしまう。こういうことも、ほかの人にはわからない。まったくわからない。

俺が普通に、日曜日に休んでいると思っているのだ。体を休めていると思っているのだ。「体を休められる日があるのに、それを休むための日として使わないのは、エイリの責任だ」ということになってしまう。けど、日曜日も、祝日も、夏休みも、冬休みも、春休みも、体を休められる日ではないのだ。こういうことだって、「日曜日や祝日に体を休めればいいのに、そういうことをしないで、さぼっている」と思われてしまうのだ。「日曜日や祝日なら、体を休めることができるという前提」が、こういう人たちの「思考の前提」にある。こういう人たちが、気づかずに、そういう前提で話をしてしまうのである。

こういう人たちが、気づかずに、そういう前提で物事を考え、エイリのことについて判断してしまうのである。こういう人たちに、「ヘビメタ騒音が鳴っているから、日曜日も祝日も、体を休めることができない」ということを言ったって、たいていの場合は、むだだ。

ぼくの経験の範囲で言えば、すべての場合において、むだだったのだ。「どんなに騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」と言った人もおなじなのだけど、自分の考えを、かえようとしない。

ぼくが「ヘビメタ騒音中で、宿題をすることができない」ということを言っても、この人たちは、認めない。そんなこと、認めないのだ。「できるはず」なのだから、「エイリがわるい」「エイリが、言い訳をして、さぼっている」ということになってしまう。

これは、「努力をすれば成功する」と同系列の誤解だ。

ほんとうは「、人間は、ぼくとおなじ生活をすれば、睡眠回路が壊れてこういう状態になる」といいたいけど、一〇〇%詐欺にならないように「人間は、ぼくとおなじ生活をすれば、睡眠回路が壊れてこういう状態になると思う」と言っておく。

「できるはずなのだから、エイリがわるい」というような考え方に触れたとき、ものすごく、腹が立つんだよ。やるせない思いがする。むなくそ悪い気分になる。生きている心地がしない。

きちがいヘビメタ騒音が強烈で、ほんとうにそうなるのに、きちがい家族がいない人が、そうなるということを理解しない。その人の常識のなかでは、「そうならない」のである。

じゃあ、どうして、その人たちが「そうならない」と考えてしまうかというと、経験がないからだ。この人たちにとってみれば、人の話を聴いて、頭のなかで考えたことでしかないのだ。

実際に、自分が鳴らされたとしても、自分ならだいじょうぶだ」と考えてしまうのである。「それは、考えただけだから、そうなんだよ」と言いたくなるけど、言ったって、相手が認めることは、たぶんないだろう。

多くの場合で、実際に、相手は認めなかった。ぼくの経験の範囲だと、自分の考えを改めたのは、ゼロ人だ。まったく、いない。

「できるはずなのだから、エイリがわるい」と思った人が、「実際にやられていないから、わからないだけだ」ということを認めたことが、ない。

みんな、ぼくの説明を聴いたあとも、「自分ならだいじょうぶだ」と思ったままなのである。これは、ようするに、「自分よりも、エイリが弱いから、ダメなんだ」ということになる。

きちがい兄貴のような家族が、この人たちにはいないのである。きちがい的にでかい音で鳴らして、でかい音で鳴らしているということを、耳が正常なのに、認めないようなきちがい家族がいないのである。

そして、ほかの家族も、けっきょく、その家族が、よそのひとがやらないようなきちがい行為を毎日やりづけることを黙認してしまう。

きちがい親父なんて、支援している。黙認しているだけではなくて、支援している。お母さんは、「こまった。こまった」と言っているだけなのである。

2025年11月24日月曜日

●「エイリがちゃんと言わなかったからダメなんだ」■騒音※2025/11/24 21:31

いろいろと、動きたくない気持ちがある。この「動きたくない気持ち」の程度というのが、ほかの人にはわからないんだよな。

ヘビメタ騒音で、「動きたくない気持ち」の度合いがたいへん強いのだ。ものすごく、動きたくないのだ。

もう、動くことを、想像しただけで、ヘタってしまうのだ。

これは、きちがいヘビメタ騒音の中で、動いてきたからこそ、しょうじた症状だ。たとえば、引っ越しのために不動産屋に行かなければならないとする。時間の約束をして、約束の時間通りに、物件に到着するということが、めちゃくちゃに困難なことなのだ。

どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音にやられながら、学校に通ったからなのである。じゃあ、通わずに、ヘビメタ騒音にさらされっぱなしだったら、よかったのかというと、そうではないのだ。

そうではないのだけど、ヘビメタ騒音と学校にはさまれた感じになる。これ、ヘビメタ騒音が鳴り終わったら関係がないと考えている人には、まったくわからないことなのだけど、じつは、鳴っているときだけ問題があるというわけではないのだ。

鳴っているときだけつらいわけではないのだ。

けど、実際に、きちがいヘビメタ騒音と学校にはさまれた状態で、暮らしたことがない人には、逆立ちをしてもわからないことなのだろう。その人の人生を考えるなら、わからないほうが幸せだ。けど、わからないからといって、ぼくをバカにしてくるなということは、言っておきたい。こいつらがみんな、「騒音で音(ね)をあげるエイリは自分よりも弱い」と思って、傲慢な発言をしてくるのだ。

「無理解発言」をしてくるのだ。この、ヘビメタ騒音の影響を過小評価する人の発言というのは、ぼくを、いらつかせる。

もう、ほんとうに、ぶんなぐって殺したいぐらいには、腹が立つ。こいつの態度は、きちがい兄貴の態度と似ている。「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と思っている時点で、こいつらは、だめだ。

ヘビメタ騒音の影響を過小評価した時点で、こいつらは、だめだ。

まあ、鳴り終わったら関係がないと言っているのだから鳴っている間は関係があると思っているわけで、その点は、きちがい兄貴とは違う。きちがい兄貴なんて、鳴っている状態でも、関係がないと思っているやつだからな。

そのきちがい思考が、なおらない。

あんなでかい音で鳴らしたら、こまるにきまっているだろ。きちがい兄貴が、きちがいヘビメタ以外の音を、あの音のでかさで聞かされたら、めちゃくちゃにおこるよ。自分だってこまるのに、それがわからない。普通の人は、相手のことを考えて、そういう音では鳴らさないのだ。自分がやられたらいやなことを、しないようにしている。ところが、きちがい兄貴はきちがいだから、それがまったくわからない。自分がやりたくなったら、やりたいわけで、やりきる。「しずかにしろ」と言われたら、自分が邪魔されたということだけを考えて、きちがい的な意地でやりきろうとする。それだけなのだ。相手がこまっているということは、どれだけ言われたって、まったくわからないままなのだ。まったく、なにも伝わっていない状態なんだよ。そして、自分が相手をはねのけて、自分の意地を落としてやりきることができれば、ほんとうに、相手のことなんて気にならないのだ。頭のなかに、相手のことがまったく入っていないのとおなじだ。これ、「しずかにしろ」と言われたということ自体が、「ないこと」になっている。そういうレベルの無視のしかたなのである。これは、兄貴がそうしようと思ってやっていることではなくて、兄貴の頭だとそうなってしまうということだ。相手がこまっているということが、まったくわからないということは、兄貴が意識してやっていることではないのである。だからこそ、問題なのである。これがわかってないやつが多すぎる。それに、自分がやりきれば、相手が「やめてくれ」「しずかにしてくれ」と言ってきたことが、まったく関係がないことになってしまって、記憶の中から完全に消えてしまうなんてことは、普通は、ありえないんだよ。相手がいやがっているということが、ほんとうにわからないんだよ。きちがい親父が、「ハンダゴテを買ってくれ」と言われて、買ってやりたくないから、親父のハンダゴテを、物置からもってきて「これを使え」と言ったときとおなじなんだよ。相手が、どれだけ「このハンダゴテじゃだめだ」と言ったって、「つかえるつかえる」と言って、使えなということを認めない。どうして認めないかというと、認めてしまったら、自分が新しく買うハンダゴテのカネを出さなければならなくなるからだ。兄貴が、きちがい的にでかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしているということを認めないのも、でかい音で鳴らしているということを認めてしまったら、自分がしずかにしなければならないからなのである。絶対に、でかい音で鳴らしているということを認めずに、やりきるのである。けど、それがまた、普通の人なら、でかい音で鳴らしているということがわかっているけど、芝居をするということになる。ところが、きちがい兄貴は、芝居をしているわけではないのである。都合よく、聴力が落ちるのである。ヘビメタ騒音に関しては、ほんとうに、物理的にどでかい音で鳴らしているのに、しずかな音で鳴らしていると認知しているのである。これが、きちがいでなくてなんだ。おなじなんだよね。認めてしまったら、自分が、ほんとうにゆずらなければならなくなることは、事前に、無意識的に、削除されているのである。だから、意識には登らない。意識的には、ほんとうにしずかな音で鳴らしているつぬなのである。問題がある音で鳴らしているつもりというは、ないのである。これが、十何年も毎日続いた。きちがい兄貴側の「脳みその問題」なのだ。きちがい親父だって、はんだ小手が使えなかったぞ」ということをどれだけ言われたって、「つかえるつかえる」と一回目とおなじ状態で荒れ狂って、おしまいなんだよ。相手が、恥をかいたということなんて、まったくおかまいなしなんだよ。ハンダゴテ事件については、もう書いたことなので、省略する。普通の人の場合、まだ、ハンダゴテ事件のほうがわかるのである。兄貴がそのハンダゴテを、学校に持っていったら「こんなの、使えるわけがないだろ」と先生に言われて恥をかいたということは、普通の人にとって、まだ、わかりやすいことなのである。「おまえ(兄貴)の説明のしかたが悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」と先生に言われて、兄貴がくやしい思をするということは、まだ、普通の人にとっても、わかることなのである。普通の人は、いちおう理解できることだ。けど、きちがいヘビメタ騒音に関しては、おなじことを普通の人がやるのだ。しかも、説明されたって、理解なんてしないのである。

ともかく、よその人は、きちがい兄貴のしくみや、きちがい親父のしくみを理解しないのである。

だから、きちがい家族にやられた側をせめるのである。

きちがい家族にやられた側の能力不足だと思ってしまうのである。「うまく説明することができなかったから、相手がわからなかっただけだ」というのは、間違った解釈なのである。

けど、普通の人が、自分の解釈を「間違った解釈だ」と認めることがないのである。

 けど、まだ、ハンダゴテ事件のほうが、きちがいヘビメタ事件よりも、わかりやすいのである。

普通の人にとってわかりやすい部分があるのである。普通の人は、きちがい兄貴の性格なんてガン無視で、まるで俺の説明力がないようなことを言ってくる。

「おまえ(兄貴)の説明のしかたが悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」というのが「おまえ(エイリ)の説明のしかたが悪かったから、お兄さんがわからなかっただけだろ」ということに、かわるだけなのである。

けど、それでも、一般人にとっては、ヘビメタ騒音のことよりも、ハンダゴテ事件のことのほうが、わかりやすいことなのである。

一般人は、ほんとうに、きちがい兄貴の性格を理解しない。「エイリがちゃんと言わなかったからダメなんだ」と思っているやつ、おおすぎ。

「ちゃんと説明すれば(お兄さんだって)わかってくれるはずだ」と思っているやつ、おおすぎ。

●安定した「自分の解釈世界」「自分の常識世界」をこわしたくない■騒音※2025/11/24 3:27

きちがい兄貴は、きちがいだからまったく気にしなかったけど、本当にすごい騒音だった。

ほんとうに、すごい騒音だった。

これ、ほんとうに常識はずれな音なんだよ。

普通の人は、やろうと思わないことなんだよ。

どれだけ、思いっきり鳴らそうと思っても、ブレーキがかかる。

けど、きちがい兄貴は、きちがいだから、ブレーキなんてかからずに……きちがい親父とおなじ圧力で……きちがい親父とおなじしくみで……きちがい親父とおなじ頑固さで……きちがい親父とおなじしつこさで、やる。

きちがい兄貴が、きらいな音を、あのでかさで、ぼくが鳴らしたら、きちがい兄貴が、一分で血相をかえて怒鳴り込むようなでかい音なんだよ。

けど、自分が鳴らしたいので、きちがい親父とおなじしくみで……でかい音だということを無視するのである。でかい音で鳴らしたいから、でかい音だということを無視する。

でかい音で鳴らしたいから、それを優先して、でかい音で鳴らしているということを、意識的には認めないということになる。

この頑固さがすごいのだ。

でっ、普通の人というのは、そういう頑固な人と……きちがい的な意味で頑固な人と……一緒に暮らしているわけではないから、それがわからない。そういうことをされると、どれだけ、頭にくるか……腹が立つかわからない。

「そんなのはへんだ」と思う人は、俺が嘘を言っていると思うわけ。そうなると、そいつらの頭のなかで、俺(エイリ)嘘を言う悪い人間だということになってしまうわけ。

あるいは、「そんなのはへんだから、エイリが本気で言っているなら、精神病だ」と思ったりするわけ。そうすると、そいつらの頭のなかでは、ぼくが(妄想を言う)精神病者だということになってしまうわけ。

現実と妄想の区別がつかない状態で、妄想を事実だと言っている人だということになってしまうわけ。そいつらの頭のなかではそうなんだよ。

これは、きちがい兄貴が意図したことではない。けど、きちがい兄貴が、よその人の考えをこえて、自分がやっていることを無視してやってしまうと、結果としてそういうことになるのだ。

これは、きちがい親父がやったことでも、成り立っている。

普通の人が、きちがい親父のことを誤解するのである。きちがい親父が、意図してやっているわけではないのだけど、きちがい的な感覚で(相手の言っていることを無視する)となると、そうなるのである。よその人が誤解をするようになるのである。「そんなことが、わからないはずがない」と思うわけ。

「だいの大人が、そんなことを理解できないはずがないから、(お前の)説明のしかたが悪かったんだろ」と思うわけ。世間の人は、きちがい行為をする側の人間をたてて、きちがい行為をされたほうの人間を軽蔑するのだ。

きちがい行為をしているのは、きちがい兄貴やきちがい親父なのに、まるで、俺の説明がへたくそだから、相手がわからないだけだというような解釈をする。「ちゃんと言えば伝わるよ」というのが、普通の人の感覚なのである。

この場合、普通の人は、きちがい兄貴を普通の兄だと勝手に前提しているのだ。この場合、普通の人は、きちがい親父を普通の父だと勝手に誤解しているのだ。

でっ、この誤解は、その人にとって「ここちがいい誤解」なので、なかなか、エイリが言うことを認めないのである。こいつらにしてみれば、エイリが、お父さんや、お兄さんを誤解しているということになってしまうのである。

「ここちがいい誤解」と書いたけど、自我を再編する必要がない誤解なので、ここちがいいのである。

いちいち、ぼくの説明に合わせて、安定した「自分の解釈世界」「自分の常識世界」をこわしたくないのだ。

きちがい兄貴のような兄がいる人やきちがい親父のような父がいる人というのは、絶対的な少数派だ。

少数派すぎて、カウントされないような少数派だ。常識的な人たちからは、無視されている存在なのである。うちのきちがい親父のような父は、いないと考える人にとっては、うちのきちがい親父のような父にこまらされる人もいないということになるのである。

そりゃ、おちのきちがい親父のような父は、いないので、うちのきちがい親父のような父にこまらせられる人もいないということになるのである。そいつらのあたまのなかでは、そうなるのである。

おなじことが、きちがい兄貴にも成り立つ。

そうなると、ぼくが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音について説明しても、「そんな人はいないから、そんことはない」ということになってしまうのである。

●人生……なかったなぁ■騒音※2025/11/24 1:30

 気分も体力も復活することを夢見ていたのだけど、復活しそうもない。あいかわらず、暗いトンネルのなかを、辛抱して進んでいるような状態だ。

ともかく、気楽になって、復活してくれればいいのだどなぁ。

はぁーー。そう思っているけど、なんか、いろいろと、ちがう。

ちがいすぎる。

傷が深いんだなぁ。

ぜんぜん、復活しない。

ほんとう、最後のネズミ事件で、精神エネルギーも肉体エネルギーも吸い取られたわぁ。けっきょく、きちがい的な兄ときちがい的な父にやられて、死ぬのか。人生……なかったなぁ。

2025年11月23日日曜日

●夢がひどい夢ばかり■騒音※2025/11/23 22:55

夢がひどい夢ばかり。いろいろと、無理なんだよな。ぼくは、あがいた。あがいたんだ。精いっぱい、努力をした。努力をしたんだ。あの状況のなかで……。

あの状況がどういう状況かわかっていないやつが、わかったようなことを言うのは、腹が立つ。腹が立つ。 

●ものすごく、くやしい体験■騒音※2025/11/22 23:36

 きちがい兄貴のやり方が、あまりにも異常なので、ほかの人が理解できないのだ。

きちがい兄貴の感覚も、きちがい兄貴の態度も、きちがい兄貴の認識も、まったく、理解できない。「よその人」は理解できない。

そして、実際に、きちがい家族によって、「よその人」が経験することがない騒音を、毎日鳴らされた場合の……しんどさがわからない。「よその人」は、わからない。「よその人」は影響のでかさがわからない。

どれだけ、いろいろなことに影響が出るか、経験的にわかっていない。よその人から、「そんなのは関係がない」と言われることだって、ものすごく、くやしい体験なんだよ。

ものすごく、いやなことなんだよ。へこむことなんだよ。むなしさを感じることなんだよ。

いかりがわいてくることなんだよ。「そんなのは関係がない」と言っているやつらには、まったくわからないことだ。

きちがい兄貴に対するいかりもあるし、「そんなのは関係がない」と言ってくるやつらに対するいかりもある。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがいヘビメタを鳴らしているということは、ぼくに、勉強することができない状態を突きつけてくるということなんだよ。突きつけてくるということを、きちがい兄貴は、きちがい感覚で無視しているわけ。そして、実感のない「よその人」も「きちがい兄貴が突きつけてくる」という部分を無視しているわけ。

きちがいだから、やることを、きちがい的な意地でやってしまうんだよ。そして、きちがいだから、やり方がひどいのだ。夢中になってやる。しつこさや、細かさが半端じゃないのだ。まさしく、狂人でなければできないしつこさで、鳴らし続けるし、狂人でなければできない細かさで、ヘビメタを鳴らすのである。

「影響」あるよ。「影響」……ある。みんなわかっていない。

実際に、経験していないから、ほんとうに、あの音のなかにいるときの状態というのがわからない。鳴り終わったあとの状態というのがわからない。実感のない「よその人」にはわからない。実際にやられていない「よその人」にはわからない。

毎日、自殺レベルで落ち込むのである。鳴り終わって、四時間経過したとき、どういう状態になるのか、「よその人」はわかっていない。

「鳴り終わったら関係がない」なんて言うのやつは、死んでしまえばいいと思うほど、あたまにくるよ。ものすごく、くやしい気持ちになる。

鳴り終わっあと、四時間、五時間、ずっと、ずっとずっと、冷え切って、自殺をしたい気持ちになるのである。体を動かそうとしても動かせず、なおかつ、眠ってしまうわけにもいかず、くるしい状態で横と他割っているのである。

どうして、眠ってしまうわけにはいかないのかと言うと、眠れないのだ。

これも、どれだけ、俺の意識的な脳みそが、「眠れ」と言っても、全体的な脳が、拒否して眠れないのである。

どうして、全体的な脳が拒否してしまうかというと、先行してヘビメタ騒音の影響を受けているからだ。脳は、ヘビメタ騒音に包まれているので、ヘビメタ騒音の影響から、自由ではない。

2025年11月18日火曜日

●鳴り終わったあとも、生活体力をむしばむのだ■騒音※2025/11/18 5:35

 たとえば、はんだごて事件は、兄貴と親父間のもめごとだったんだけど、よその人は、最後の最後まで、親父のしくみがわからなかったんだよな。

だから、よその人中では、「ちゃんと言えば伝わるのに、兄貴がうまく説明できなかった」ということになる。

この場合、親父の名誉は、たもたれてしまうのである。よその人は最後まで誤解をしているわけ。お父さんは、ちゃんとした人で、ちゃんと説明されれば、「そのはんだごてが使えない」ということを理解できるはずだということになっているわけ。

「兄貴の説明がへたくそだから、父親(親父)が理解できなかったのだ」と……よその人は、最後まで思っているわけ。この場合、兄貴の名誉回復は、最後までないわけ。

これとおなじことが、ヘビメタ騒音でも起こるのだ。俺(弟)がうまく説明できなかったから、お兄さんが理解しなかったんだということになっているんだよ……。

よその人の頭のなかでは。エイリが、うまく説明できなかったから悪いんだということになっているわけ。

ところが、ちがうんだよね。

けど、「ちがう」ということを、よその人は最後まで認めない。

そして、きちがいヘビメタが毎日連続した結果、通勤通学ができなくなったとする。実際そうなのだけど、これも、よその人は、認めないのである。

自分なら、ヘビメタ騒音級の騒音が、鳴っていても、通勤通学ぐらいできると思っているのだ。

だから、「できない」エイリをなめてくるわけ。自分ならできるのに、エイリだからできないと思って、見下してくるわけ。そういうのがセットなんだよ。

きちがい家族による騒音というのは、非常識な騒音なので、非常識な騒音の効果について、常識的な人は、考えることができないんだよ。

約六割の人は、みんな、「自分なら平気だ」と思っている。約四割の人は、みんな、エイリの話が嘘だと思っている。そういう認識のベースができあがる。

そして、たとえば、「ひきこもりに対する」偏見がある人だと、ひきこもりなら、コミュニケーション障害だと思っているわけ。

だから、順番が逆になるのだけど、コミュニケーション障碍者だから、お兄さんにうまく言えなかったんだということになってしまうわけ。

けど、きちがい兄貴のきちがい構造から出でいることなんだよ。兄貴・親父間のはんだごて事件は、親父側の「脳みその問題」なんだよ。それとおなじように、俺・兄貴間のヘビメタ騒音事件は、兄貴側の「脳みその問題」なんだよ。

問題行動をしているほうの問題なんだよ。

けど、その問題行動が、ほかの人には信じられない問題行動なのである。

だから、ほかの人は「補完」して考えてしまうのだけど……その「補完内容」が間違っているのだ。何度も言うけど、ぼくの説得力の問題ではなくて、兄貴の「脳みその問題」なのだ。ヘビメタ騒音問題が解決しなかったのは、ぼくの側の説得力の問題じゃない。

コミュニケーション能力の問題ではないのだ。けど、ほかの人は、まず、兄貴の「脳みその問題」がわからないので、エイリの側の問題だと思ってしまうのである。

そして、エイリが実際に、ひきこもっていれば……「エイリはひきこもりだから、お兄さんにうまく説明することができなかったのだ」と考えてしまうのだ。ヘビメタ騒音の結果、ひきこもりにならざるを得なかったのだから、エイリがひきこもった原因は、ヘビメタ騒音なのである。

だから、時間的に、さかのぼって考えているわけ。きちがいヘビメタ騒音が七年間つもって……ま、い、に、ち……つもって……ついに、通勤通学ができない体になったんだよ。

そして、日本だと無職でいると、友達関係が崩れる傾向があるのだ。その友達が、働きだすと、友達関係が崩れやすいのである。だから、定義的にひきこもりになりやすいのである。原因は、きちがいヘビメタ騒音なんだよ。

きちがいヘビメタ騒音にさらされて、睡眠不足になり、睡眠回路が破壊されたことが、第一の原因だ。第二の原因は、きちがいヘビメタ騒音にさらされて、生活体力がなくなったことだ。

これ、どうしても、「通勤して」働くことができない体(からだ)になるのである。

けど、これも、どうしても、働けない体になるということが、実際に、きちがい家族による「毎日の」騒音を経験しした人じゃないとわからないことなのだ。

生活体力というのは、不可避的に、削られていくのである。ヘビメタ騒音で、削られていく。意志に関係なく、削られていく。

そして、その過程も、ほかの人にはわからないことなのだ。経験していないからわからない。

どれだけ、強い意志をもって頑張っても、その頑張りが、疲弊につながり、その疲弊が、生活体力の「破壊」につながるのである。

けど、このプロセスも、実際に経験しないと、どういうふうに、生活体力が奪われるのかわからないのだ。これも、説明したって「自分なら平気だ」と思っている人間は認めない。実際に鳴っている間も、生活体力をむしばむし、鳴り終わったあとも、生活体力をむしばむのだ。

けど、鳴り終わったあとも、生活体力をむしばむ」と「経験がない人」に言っても、これまた、わからないのだ。必然性がわからない。そうなる必然性が、わからない。

わからないと、これまた、ぼくのことを、下に見るようになるのだ。「ヘビメタ騒音できなくなっている」ということが、思考力が人並みで、なおかつ、きちがい家族の騒音に毎日さらされるという経験がない人たちにはわからない。

2025年11月16日日曜日

●そんなことは、言えなくなる■騒音※2025/11/16 7:48

寝不足で、起きて、無理やり学校に行っていたのだけど、無理やり起きたときの、切羽詰まった感情が並じゃないのだ。動かない体を無理やり動かしているときの緊張感が並じゃないのだ。

そして、昨日ヘビメタ騒音が残っている。体に残っているんだよね。午前七時三〇分ぐらいというのは、眠ってから、二時間から三時間ぐらいしかたっていない状態で、くるしかった。

このときの体の状態やこのときのこころの状態が、普段動くときにも、影響を与えているのである。いまですら、そうだ。

めちゃくちゃに動きたくない時間というのがあって、このめちゃくちゃに動きたくない時間の状態は、きちがいヘビメタ騒音で学習してしまったものだ。

毎日続くのである。平日は毎日続いた。そして、日曜日も祝日も、けっきょく、朝からヘビメタが鳴っている状態で、くるしいのである。

でっ、ヘビメタ騒音が鳴っている「うち」に滞在している時間が、また、くるしいのである。この部屋にいる間、ずっとやられた。トイレに入っても、風呂に入っても、ずっとやられた。

いまでも、めちゃくちゃに動きたくない状態になるときがあるのだけど、それは、きちがいヘビメタの繰り返しでしょうじた状態だ。これが、経験的にわかっていれば、「言ったことが現実化するから、元気だ元気だと言えば元気になる」なんて、言えない。

そんなことは、言えるわけがないのだ。この状態を経験していたら……この状態を何千日も、何万日も経験していたら、そんなことが言えるわけがない。「言ったことが現実化するから、元気だ元気だと言えば元気になる」などと言えるのは、わかっていないからだ。

経験したことがないからだ。ところが、「言ったことが現実化するから、元気だ元気だと言えば元気になる」などという本人は「俺だって苦労した」「俺だってつかれているときはある」「俺だって憂鬱なときがある」と言う。

これが、やっかいなんだよ。「言ったことが現実化するから、元気だ元気だと言えば元気になる」などと言っている時点で、たいした苦労をしていないし、たいした憂鬱を経験していないし、たいしたつかれを経験していない。

ぜんぜん、ちがう。

けど、「ぜんぜん、ちがう」ということを言ったって、そいつは、認めない。

「なんだこんにゃろう」「自分だけ苦労したと思っているのか?」と言ってくる。

けど、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言っているのだから、大した苦労なんて経験していない。そんなことが言えなくなる苦労がある。

「元気だ元気だと言ったら、俺は元気になった」とも、その人は言ったのだけど、「元気だ元気だと言ったら、俺は元気になった」と言っているのだから、毎日続くヘビメタ騒音のつかれと同等のつかれを経験したわけではないということが、あきらかだ。

そんなことは、言えなくなる。ぜんぜん、わかっていないから、言えるんだよ。

2025年11月14日金曜日

●こまるだけだよ■言霊※2025/11/14 18:55

 「『自分なら平気だ』と思って、エイリのことをバカにしているだけなのだ」と書いたけど、言霊主義者の場合は「できると言えばできる」ということが、つみかさなる。言霊主義者は、普通の人のように、「自分なら平気だ」と思っている。その上に、「できると言えばできる」という考え方がつみかさなる。たとえば、「眠ることができる」と言えば、眠ることができるし、宿題をすることができると言えば、宿題をすることができるし、勉強をすることができると言えば、勉強することができるということになる。「遅刻しないようにすることができる」と言えば、遅刻しないようにすることができるし、決まった時間に起きることができると言えば、決まった時間に起きることができるということになる。やらないのであれば、さぼっているだけだということになる。こういう素晴らしい解決方法があるのだから、こういう素晴らしい解決法を使って、問題を解決するべきだと考えるのだ。もちろん、相手が「できない」と言えば、「そんなのはいいわけだ」と言うことになっている。もちろん、相手が「やってみたけどできない」と言えば「あなたのやり方が悪いんだ」と言うことになっている。相手に助言をした場合は、自分が言っていることは正しいと思っているので、自分が言っていることが間違っているということは、認めない傾向が強い。ぼくの経験の範囲で言うと、すべての言霊主義者が認めなかった。事実、認めなかった。事実、自分の意見が間違っているということを認めなかった。こっちが、言霊理論について説明しても、納得することがなかったのである。もちろん、ぼくの経験の範囲で言えばということだ。

きちがい兄貴のような、ほかの人にはないハンディが生じている人は、こまるのである。言霊的な解決方法を提案されるとこまる。これ、こまるということも、言霊主義者にはわからないことなのだろう。必然的にこうなるという必然性を無視して、相手の条件を無視して、「言えば言ったとおりになる」ということを言うのだ。「言っても言ったとおりにならなかったぞ」ということを言われたら、「そんなのは、言い方が悪いから・言ったとおりにならないだけだ」ということを言うのだ。しかし、本人が「あたりまえだ」と思っていることに関しては、「言えば、言ったとおりになる」なんてことは、ガン無視して、生活しているのである。

ともかく、普通の人がヘビメタ騒音を理解していないのだけど、たいていの言霊主義者も普通の人が、ヘビメタ騒音のことを理解しないように、ヘビメタ騒音のことを理解しない。そのうえで、カルト的なことを言うのだ。条件が悪い人にとっては、これは、ゆるしがたいことなのである。条件が悪い人は、条件が悪いからこまっている。それを無視されると、それだけで、少しは腹が立つのである。さらに、わけのわからないカルト的な解決策を言われてもなぁ……。こまるだけだよ。 

●「自分なら平気だ」と思って、エイリのことをバカにしているだけなのだ■騒音※2025/11/14 17:34

 きちがいヘビメタにやられて、眠るべき時間に、眠れなくなっているのだけど、明日のことが気になるという状態を経験したことがないやつらに、とやかく言われたくない。ほんとうに、腹が立つ。そして、こういうことが毎日毎日毎日、続くと、ほんとうに、「何時何分に起きなければならない」と思っただけで、ヘビメタ騒音がなくても、眠れなくなってしまうのだ。そして、これは、治らない。この、「なおらない」ということまで、経験したことがない人が、「そんなのは、あまえだ」と言う。「なおらない」ということまで、経験したことがない人が、「そんなのは、関係がない」と言う。これ、ほんとうに、毎日毎日毎日やられると、必然的にそうなるのに、ぜんぜん、わかっていないのだ。たぶん、本人がそういう経験をしたことがないからわかっていないだけだろうと思う。ところが、こいつらがみんな……みんな……みんな……みんな……自分だったら、平気だという前提で、「そんなのは、関係がない」と言うのだ。エイリさんが、騒音に敏感だったから、そうなったという意見とおなじだ。これもちがうのである。ぼくは、普通の人よりも、騒音耐性があった。ぼくは、普通の人よりもずっと、騒音耐性が強かった。そのぼくの、生活を完全に破壊してしまうのが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音だったのだ。これ、きちがいとしか言えないしつこさで、ずっと鳴らす。きちがい的な頑固さで、鳴らす。きちがい的な感覚が成り立っていて、きちがい的な意地で自分がでかい音で鳴らしているということがわからない状態で、ずっと、鳴らしきる。しらばっくれている状態が普通に成り立つのだ。こんな、腹立たしいことはない。これ、やられてみればわかるけど、構造的に腹が立つことなんだよ。まあ、こういう家族と一緒に住んだことがないから、こういうきちがい的なやつらが、どういう意地で、どういう感覚で鳴らすのか、まったくわかっていないだけなのだ。実際に、やられたことがない人は、わかっていないだけなのだ。

ほんとうは、こいつらも、やられたら、そうなると思う。「人間とはそういう生き物だ」と言い切りたい気持ちがある。けど、証明はできない。証明はできないけど、たぶんそうだと思う。これようするに、やられていないだけなのだ。自分がこの世で一番きらいな音を、大音響で鳴らされて、そのあと、眠るべき時間になって、眠れなくなるということを経験したことがない人が、「自分なら平気だ」と思って、エイリのことをバカにしているだけなのだ。こんなの、ない。きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ほかの人とはちがったことをしなければ、こんなことになっていない。

あーー。午後五時四八分か……。鳴っている感じしかしない。この部屋で、爆音で、きちがいヘビメタが鳴っている感じしかしない。こんな状態で落ち着けるわけがない。あんなきちがいの音につつまれて……囲まれて……脳みそを直接攻撃されて、時間通りに眠れるわけがない。時間通りというのは、きちがい兄貴の騒音が鳴っていなければ、だいたい、午後一一時ぐらいには普通に、眠りたくなる状態だったのだ。きちがいヘビメタ騒音が始まる前は……。だから、俺は、きちがいヘビメタ騒音が始まる小学六年生のときまでは、普通に、眠るべき時間に眠って暮らしていたのである。これは、エイリにはそういう能力があるということの証拠だ。別に、こいつらに劣っていたから、きちがいヘビメタ騒音の経験がないにもかかわらず、眠れない状態になったわけではないのだ。こんなの、ほんとう、くやしい。ほんとうに、頭にくる。

 

●持続時間と持続期間がちがう■騒音※2025/11/14 17:14

 きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ヘビメタを思いっきりでかい音で鳴らすと、どうしても、影響を受けるのである。でっ、何回も言っているけど、何時間も何時間も鳴らされたあと、鳴り終わっても、副交感神経も交感神経も、数時間は影響を受けたままになる。これがわかっていないやつが、「鳴り終わったら関係がない」と言う。わかってないから、わかってない発言をするんだよ。こいつらの、ぼんくら発言はほんとうに、腹が立つ。こんなやつらになめられなきゃならなくなる。こいつらは、自分は影響をけないと思っているので、影響を受ける営利より自分のほうが、断然優れていると思っているのだ。ほんとうに、きちがい家族がいないから、きちがい家族の影響を、まのがれているだけなのに、くそふざけたことをいいやがって。本当に腹が立つ。

問題なのは、「決まった時間に起きなければならない」ということなのだ。これが、あせるのだ。いまでも、「決まった時間に起きなければならない」ということになると、眠れなくなり、くるしむことになる。こういうのも、きちがいヘビメタが数千日にわたって毎日続いたから発生したことだ。ところが、これも、『やられていない人』から見ると、俺がさぼっているようにしか見えないのだ。二時間、三時間ぐらいしか眠れない状態で毎日すごしていた。前期の七年間は学校に通っていたのだけど、学校に通うとなると、遅刻をしてはいけないということになる。けど、ほんとうに、午前四時か、午前五時ぐらいからしか、眠れない。「からだがさめるまで」眠れない。毎日、数時間のヘビメタ騒音で、眠れない状態になって、そのあと、午前午前四時か、午前五時ぐらいまで……「猛烈に苦しい体で」起きているということになる。これ、リラックスした、いい時間で、眠れないにしろ、横になっているから、すこしは、休息になって、体が楽なるという感じがするものではないのだ。この時間の苦しさが、わからないやつらが「自分だって騒音ぐらいあった」「自分だって苦労した」「自分だって朝はつらい」と言うのだ。しかし、こいつらには、きちがい家族がいない。きちがい家族が、よその家ではありえない音で、ガンガン騒音を鳴らし続けるということがない。そういうことが毎日続く生活というものを経験したことがない。そういうことが毎日続く生活をしたことがないので、実際に、どういう体の状態になるか、わかっていないのだ。わかっていないから、ヘビメタ騒音の問題を軽く見て……軽く見ているつもりはないのだけど、軽く見て……「自分だって騒音ぐらいあった」「自分だって苦労した」「自分だって朝はつらい」と言いやがるのだ。

「自分だって騒音ぐらいあった」「自分だって苦労した」「自分だって朝はつらい」と言うやつから見れば、俺がさぼっているようにしか見えないのだ。「自分だって騒音ぐらいあった」「自分だって苦労した」「自分だって朝はつらい」と言うやつから見れば、俺が言い訳をしているようにしか見えないのだ。

きちがい兄貴が、よその家では絶対にありえないことを、きちがい感覚でやり通してしまうと、よその人とぼくの間で、ぼくのみに起こったことに関する認知のちがいが発生する。この、認知のちがいも、言ってみれば、自然発生的で、不可避的な認知のちがいだ。ほんとうに、腹が立つ。きちがい兄貴にも、腹が立つし、わかったつもりになって、見下してくるやつにも、ほんとうに腹が立つ。こいつらは、「自分だって騒音ぐらいあった」「自分だって苦労した」「自分だって朝はつらい」と言っているのだから、「騒音で苦しい」ということは、理解しているのだ。「朝、つらいことがある」ということは、理解しているのだ。しかし、程度がちがう。原因がまったく、ちがう。持続時間と持続期間がちがう。毎日……ほんとうに毎日続いたということが、重要なのに、ほんとうに毎日続いたということを無視して、無理解ぶりを発揮した発言を、理解しているつもりで言う。毎日続いたということの重要さがわからないのだ。毎日続いたということは、体に影響を与えるのである。一日だけそうだったこと、一週間だけそうだったこと、一か月間だけそうだったこと、一年間だけそうだったこと、一〇年間だけそうだったことは、それぞれ、ちがった影響を与えるのである。この影響のちがいを無視して、無理解ぶりを発揮した発言をする。しかも、「自分は、ちゃんと理解している」と思っているのだ。ぜんぜんちがう状態のことについて考えているのに、ぜんぜんちがう状態のことについて考えているとは思っていないのだ。「そういうことだろ」と思って、同一視しているのだ。これも、どれだけ、指摘しても……ぼくの経験の範囲だと……こういうやつらは、最後まで分の最初の意見をかえなかった。 

●見えないことなのだけど、そうなる■社会※2025/11/14 3:13

たとえば、某動画サイトには、ニート系の動画や五〇・八〇問題を扱った動画などがある。ニート系の動画の中で、悪いニートを扱ったとする。「こいつは、どうしょうもないやつだ」と、ほとんどの人が思うようなニートを出しておくのである。まあ、紙芝居系のアニメなんだけどね。そうすると、それを見た人は、例から、抽象的なイメージをもつことになる。そこに出てきた悪いニートのイメージがニートのイメージになるのだ。これは、別に「ニートを差別しろ」という内容の動画ではない。実際に、その動画の中で「ニートを差別しましょう」とは言っていない。しかし、悪いニートのイメージで、ニートが抽象化・一般化されてしまうために、いいニートが、被害を受けるのである。実際には、ニートのなかにもいい人たちがいて、その人たちには、問題がないのである。たとえば、いいニートは、例として出てきた悪いニートとは性格も考え方もちがうのである。しかし、動画を見て、ニートなるものについて、抽象した人は、「ニートなら、性格が悪い」と思ってしまう。例から、抽象化した人は、自分の頭のなかで一〇〇%詐欺を行い、自分の頭のなかで法則性詐欺を行ってしまうのだ。これとおなじことが、「無職」や「ひきこもり」にも成り立っている。悪い例から出発すると、よい人たちが、悪い人たちだと思われる土台ができあがる。しかも、別に「差別しましょう」と呼び掛けているわけではない。しかし、完全差別的なイメージができあがるのである。レッテルと属性の問題があり、その属性をもっている人は、その属性をもっている人だということになる。ようするに、無職の属性をもっている人は、たとえどんな人でも「無職」として認識されることになる。まあ、無職に関しては、いろいろと言いようがあるから、まだ、深刻ではないけど、「ひきこもり」だと、かなり深刻な問題になる。悪い例から出発すると、いい例を含めて、悪いレッテルをはられるのである。そして、差別しているほうは「それであたりまえだ」「そんなやつらいいわけがない」と思っているわけだから、別に、悪いとは思わないのである。たとえば、いい人を、悪い人だと思っても、別に悪いとは思わないということになる。だって、その人のなかでは、「ニートなら性格が悪い」ということになっているわけだから、そうなる。「無職なら性格が悪い」と思って、すべての「無職」に悪いレッテルをはっても、別に、悪いとは思わないのだ。「ひきこもりなら性格が悪い」と思って、すべての「ひきこもり」に悪いレッテルをはっても、別に、悪いとは思わないのだ。「自分は間違っていない」と思っているわけだから、悪いとは思わないわけ。

こういうことが、じつは、「思ったことが現実化する」「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」というような考え方にも、成り立つ。これは、条件が悪い人に対する差別になる。悪いことが起こっている人は、悪いことを考えたから、悪いことが起こっているということになってしまうのだ。不幸な人は、不幸になることを考えたから、実際に不幸になっているということになってしまうのだ。これと、レッテルはりは、ほとんどおなじプロセスなのである。 「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」というような、一見、差別的な考え方を助長するような言葉には見えない言葉にも、差別形成の役割がある。しかも、たとえば、「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」のだから、自分は明るいことを考えようと思うこと自体には、悪いことが含まれていないので、やっかいなのだ。いいこととして、自分の中に取り入れて、いいことに使おうとする。けど、取り入れた瞬間に、不幸な人に対する差別心も取り入れてしまうのだ。これは、見えないことなのだけど、そうなる。

 

2025年11月13日木曜日

●悪い例からの抽象化という流れがある■社会※2025/11/13 23:15

基本的には、悪い例からの抽象化という流れがある。抽象化すると、今度は、すべての例において、抽象化したイメージ成り立ってしまうのである。たとえば、自業自得と思えるような例を挙げて、「すべては自己責任だ」と抽象化してしまう。そうすると、ほんとうは、その人には、責任がない場合も「その人の自己責任だ」と判断するようになってしまうのである。例(1)からはじめて、抽象化されたそれ(すべて)に進み、抽象化された(すべて)から、別の例(2)について考えるということになるのである。そうすると、ほんとうは、あてはまらない人まで、あてはまるように処理されてしまう。

たとえば、AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんが、ほんとうに自業自得であるようなBさんのケースを聞いて「すべては自己責任だ」と思ってしまう。ここには、飛躍がある。Bさんは、「自己責任」の対象になるかもしれないけど、Cさんは、自己責任の対象にならないかもしれないのだ。けど、Aさんは、一度抽象化しているので、「すべての例において、自己責任だ」と思ってしまう。そうすると、ほんとうは、Cさんには落ち度がない場合も、Cさんの責任だということになってしまうのである。Aさんにとっては、Cさんのケースも「自己責任だ」ということになってしまう。

Aさんは、抽象化によって、こまっている人がいたら、その人の自己責任だと思うようにしつけられてしまうのである。「すべては自己責任だ」という考えたを受け入れることによって、そういう状態になってしまう。「なんであれ」「自己責任」なのだから、無差別なのだ。個々の具体例について、考える前に、こまっている人の自己責任だと切り捨ててしまうのだ。切り捨ててしまう主体は、「すべては自己責任だ」という考えたを受け入れ人だ。一度、自己責任論を受け入れてしまうと、次からは、すべての人に対して、どんな場合でも、自己責任なのだと切り捨てる態度が発生するのである。

自己責任論は、このような人を量産してしまう。自己責任論を「はやらせた」側の根本的な目的は、これだ。一見正しそうな考え方が、無差別攻撃をする洗脳戦士を量産してしまうのである。その分だけ、社会が悪くなるのである。自己責任論を信じている人たちが、増えると、その分だけ、社会が悪くなるのである。多くの人たちにとって、済みにくい社会になるのである。自己責任論を信じている人たちは、じつは、自分自身の身に起きたことは、起きた理由をリアルタイムで知っているために、自己責任だとは思わない傾向が強い。自己責任論論者が、「たしかに、自分の自己責任だ」と思えることは、「特別に意識に上がったもの」だけなのだ。ようするに、「自己責任だ」と思いやすいことだけ、自己責任だと思っている状態で生活しているのだ。そもそも、意識に上がらないことは、自己責任がしょうじていても、自己責任だと思わなくて済むのである。そして、意識に上がることでも、自分が一倍速で経験したことだと、自分が一倍速で経験したことだから、認知もメタ認知も成り立っているのだ。認知もメタ認知も成り立っていることに関しては、時間の流れに応じた自分の側の気持ちというのがあるから、「これはこういう理由だから、自己責任ではない」という考え方が支配的になるのである。あるいは、そもそも、「自己責任だ」とか「自己責任ではない」とかということを考えずに、処理してしまう傾向がある。ようするに、当たり前のように「他人の責任」を追及するのである。このとき、たいていの場合は……「自分の自己責任論」と「自分がやっていること」の矛盾に、気がつくことがない。

●メタ認知が関係している■騒音※2025/11/13 11:59

 ぼくにとって、あのレベルのヘビメタ騒音というのは、めちゃくちゃな騒音なんだよ。騒音という文字では、あらわしきれないほど、不愉快な音なんだ。きちがい兄貴が、ヘビメタを思いっきり鳴らしたくなった。だから、思いっきり鳴らしても、良心の呵責?を感じないように、思いっきり鳴らしても、でかい音で鳴らしていないということにてしまったのだ。きちがい兄貴の脳みその問題だ。これ、きちがい兄貴の脳みその問題なのである。よその人には「なかなか」おこりえないことなのである。よその人の家族は、そういう脳みそを搭載している家族ではないのである。だから、よその人は、まずこういう状態がずっと続くということを経験していないのだ。けど、騒音自体は、経験したことがあるので、自分の騒音体験を思い浮かべて、騒音全体を考えてしまう。きちがい兄貴の騒音は特殊な騒音なんだよ。そして、そのきちがい兄貴の騒音が「ずっとずっと」毎日続く状態というのは、きわめて特殊な状態なんだよ。それが、ほかの人にはわかっていない。きちがい的な家族と一緒に暮らしたことがない人にはわからない。根本からわからない。

けど、家族とは暮らしているので、これまた、抽象的な意味で「家族」を想像してものを言ったり、自分の家族を想像してものを言ってしまうのである。でっ、これは悪意がないことなのだけど、こっちはこまることなのだ。たとえば、「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんは、しずかにしてくれる」という考え方をもっている人は、ぼくが言っていることを、否定するのである。現実は、どれだけ、ちゃんと言っても、きちがい兄貴はしずかにしてくれないのである。現実は、こうなのである。だから、 「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんは、しずかにしてくれる」という考え方をもっている人は、ぼくが抱えている現実について、「勘違い」をしているのである。けど、「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんは、しずかにしてくれる」という考え方をもっている人は、自分の勘違いであるということを、認めないのである。ぼくが、それこそ……ちゃんと説明したあとも、自分の勘違いであるということを認めない。この人らの頭のなかでは、「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんは、しずかにしてくれる」という考え方が生き残っている。「家族とはそういうものだ」という考え方が生き残っている。あるいは、「人間とは、そういうものだ」という考え方が生き残っている。だから、「ちゃんと言わないのが悪い」という考え方も生き残っているのである。ぼくが、「うちの兄貴はちがうんだ」ということを、説明したあとも、「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんは、しずかにしてくれる」という考え方をもっている人は、「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんは、しずかにしてくれる」という考え方をもったままなのである。そして、もったままでも、まるでこまらないのだ。けど、こっちは、きちがい兄貴に、常にやられている状態なので、こまっている状態が続くのである。そして、こういう人たちに「エイリはちゃんと説明できないおとったやつだ」と思われたままになるのである。

でっ、「鳴り終わったら関係がない」という人たちにも、おなじことが成り立っている。基本的に言って、この人たちは、考えちがいをしているのだけど、考えちがいをしているということに気がつかない。そして、「鳴り終わったら関係がないのに、関係があると言っているエイリはバカだ」と思ったままなのである。影響があるということを、認めないままなのである。影響があるのに、影響がないという意味のことを言われて、不愉快な気持ちになるのである。この人たちは、自動的に「エイリは言い訳をするダメなやつだ」と思うわけだよ。そりゃ、関係がないことなのに、関係があると言って、ちゃんとやろうとしないやつだから、ダメなやつだと思うわけだよ。「ちゃんとやろうとしない」というのも、「ちゃんとやろうとすれば」できるという前提があるのだけど、ヘビメタ騒音でできないんだよ。どれだけちゃんとやろうと思っても、ヘビメタ騒音でできない状態なんだよ。これも、わかっていないわけ。こういうことに関する無理解ぶりを発揮した発言なんだよ。こいつらの発言は……。

たとえば、「鳴り終わったら関係がない」という人たちが「鳴り終わったら関係がない」という発言だけをしたとする。「ちゃんとやろうとすればできるのに、ちゃんとやろうとしない」というような発言はしていない。けど、前提として、あるんだよ。「鳴り終わったら関係がない」という人たちが「鳴り終わったら関係がない」と言わなくても、暗黙知的な推論が成り立っているということが、(こっちには)わかる。暗黙知的な推論と言ったけど、これは、メタ認知といってもいい。メタ認知が関係している。

この、発言の中には含まれていないけど、発言を構成する前提になっている考え方というのが、やっかいなんだよ。言ってはいないからね。けど、言う場合もあるわけ。けど、はっきりそう言った場合と、前提として成り立っているようだけどはっきりとは言わなかった場合は、ちがうんだよ。ちがうのだけど、こいつらの発言の前提は、ぼくがいま、のべたとおりの前提だ。こいつらは、まるでわかっていない。肝心なことがまるでわかっていない。けど、まるでわかっていないということが、わかっていないし、たぶん、生きているあいだ、そのままだ。

ぼくの経験の範囲だと、こういうことだったということだ。 

2025年11月12日水曜日

●自分が、普段、どういう思考をしているのか気がついていない■社会※2025/11/12 23:09

思い出の場所をめぐったって、ヘビメタ騒音でつらい思い出ばかりなのだから、意味がない。

破滅破綻の気持ちしかない。

当時もそうだったし、いまもそうだ。「いまもそうだ」というのが、問題だ。きちがいヘビメタが鳴っていて、普通の毎日がないと、破滅破綻するのである。

きちがいヘビメタ騒音で、自動的に、必然的に、破滅破綻するのである。どれだけ、修復しようとしても、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音の持続で、こころに、ぽっかり、穴があいている。

だいたい、「鳴り終わったら関係がない」と言っているやつらは、想像力が、なさすぎる。ほんとうに、夜郎自大で、自分のことしか考えられないんだよな。

そのわりには、普段、自分が自分の気持ちを制御しているわけではないということに気がつかない。言霊主義者が、普段は、言霊理論に従って思考しているわけではないのとおなじだ。

こいつら、自分が、普段、どういう思考をしているのか気がついていない。

自分の感情が、出来事によって、どういうふうに生成されるのかぜんぜんわかっていない。

つまり、実際の出来事によって、自分のこころがどういう影響を受けるのかぜんぜんわかっていないのだ。わかっていないから、あたかも、自分が、自分のこころを制御できるようなことを言う。

壮大な、勘違いなんだけど、夜郎自大な性格だから、わからない。

あるいは、幼児的万能感に支配されているから、わからない。

これ、場面場面がつながっていないのである。そのときの思考しかないのである。その場面の思考と、別の場面の思考が、食い違っている……あるいは、矛盾しているということに気がつかないのである。

自分が正しいと思っていることを否定されたぐらいで、「おこる」のに、自分は、自分の制御できると思っている。自分の感じ方を、自分で「意識的に」決定できると思っている。

そーーーだいな、勘違い。

「もう、いいかげんにしろ」と言いたくなる。

●ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、あんなことになっていないのだ■騒音※2025/11/12 20:36

 ともかく、さかまさんに言いたいのは、ヘビメタ騒音が鳴っていたということだ。ぼくが、小学六年生のときから、ヘビメタが鳴っていた。それは、さかまさんには関係がないことなのだけど、関係があることなのだ。きちがいヘビメタ騒音がつもっていなければ、あんなことになっていない。ほんとう、あんなことなっていないのだ。ぼくは、あの場所にいなかったし、家が建つぐらいの騒音は、平気だったはずだ。そして、家を建てるときの騒音は、一度、水に流して忘れてやったのだ。そのあと、きちがいヘビメタ騒音と、さかまさんの騒音がかさなった。あわさった。ともかく、きちがいヘビメタが鳴っていなかったら、あんなことになっていない。そして、「そっちだって、うるさい音で鳴らしていただろ。あれがうるさくないのか」と(さかまさんが)思っていると思うけど、きちがい兄貴が、きちがいだから、俺の言うことを無視して、鳴らしていた。もちろん、うるさいと思っているよ。これも、家族は、承認していると思われてしまうんだよな。きちがいが意地を通すと、いろいろなところで、問題が発生するのである。ともかく、さかまさんは、もうちょっとしずかにするべきだった。ともかく、きちがい兄貴が、すべての問題の根源だ。この問題に限って言えばということなのだけど……。きちがいヘビメタにやられていなかったら、きちがいヘビメタにやられて七年間、経過していなかったらあんなことにはなっていないのだ。親友との関係だって、ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、あんなことになっていないのだ。言霊主義者との関係だって、ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、あんなことになっていないのだ。一般人との関係だって、ヘビメタ騒音が鳴っていなければあんなことになっていないのだ。出版社の社長との関係だって、ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、あんなことになっていないのだ。

もう、ほんとうに、七年間毎日鳴らされて、つもっているときは、七年間毎日鳴らされて、つもっているわけだから、七年間毎日鳴らされなかった場合の状態とは、まるでちがう。

さかまさん、ここを読まないかな? 言いたいことは、きちがい兄貴が、悪いということだ。きちがい兄貴の騒音というものが、背後にあるんだよということは、さかまさんに、伝えておきたい。「おまえの家のことだろ」「おまえの家族のことだろ」と思うかもしれないけど、たしかに、俺の家族の問題なのだ。けど、つもっていた。きちがい兄貴の騒音がつもっていた。

あれは、限界だったぞ。

●だから、ぼくが誤解をされる■騒音※2025/11/12 13:56

 こいつらが考えている「ヘビメタ騒音の害」と、ぼくが日常的に感じている「ヘビメタ騒音の害」がちがいすぎるのである。けど、誤解をしているやつらは、誤解をすることで、ぜんぜん、問題がしょうじないわけ。こっちは、誤解されることによって、問題がしょうじる。ぜんぜん、ちがうのに、こいつらが実際には、「ヘビメタ騒音級の家族による騒音」を経験していないから、こいつらが、「日常生活の中で実際に経験した騒音」と、「ヘビメタ騒音級の家族による騒音」のちがいが、わからない。わからないから、「そんなことはない」と的場須麗奈ことを言ってくるようになるのである。じゃあ、どうして、こういう状態がしょうじたのかと言うと、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、すべてのことを無視して鳴らすからだ。本当は、でかい音で鳴らしているということを無視して鳴らしてしまう。聴覚が正常なら、いくら鳴らしたくても、感覚器をだますようなことはしないのである。普通の人は、やろうとしてもそんなことが出ない。ところが、きちがい兄貴は、ごく普通、その部分が、狂っている。だから、ぼくが誤解をされる。

こいつらのなかでは「そんな人はいない」ということになってしまう。家族が、そんなことを許すはずがない」ということになってしまう。けど、そうなんだよ。うちは、きちがい兄貴が、でかい音で鳴らすことができる環境だったんだよ。

そして、実際に経験してみれば、最低でも二か月ぐらい経験すれば、ぼくが言っていることが正しいということが、どんな、ぼんくら野郎にもわかるのである。ところが、ぼんくら野郎は、経験していないから、つたない想像力で、ヘビメタ騒音やヘビメタ騒音の影響を考えるしかないのである。つたない想像力しかもっていないので、「はずす」のである。けど、こいつらにとっては、それは、絶対に正しいことなので、エイリの言っていることが間違っているということになってしまうのである。特に、ヘビメタ騒音の影響については、こいつらは、みんな……本当にみんな……勘違いをしているのである。 「ヘビメタ騒音級の家族による騒音」について、間違った考え方をもっている。こいつらに、俺がどれだけ説明しても、こいつらはこいつらで、自分の考えを捨てない。

●こころがこわれないわけがないだろ■騒音※2025/11/12 4:45

 いま、とてつもなく、憂鬱だ。きゅーーっとした憂鬱を感じる。むかし、きちがい兄貴のヘビメタにやられていたころ、午前4時45分に、きゅーーっとした憂鬱を感じていた。感じないわけがない。どれだけ、ボロボロかわかっていないのである。きちがい兄貴も、普通の人も……つまり、よその人もぜんぜん、わかっていない。たとえば、この状態で、宿題ができあがっていなくて、学校に行くということが、憂鬱で、ない、わけが、ない。こういうことが、「ヘビメタ騒音のことを過小評価する人たち」はまったくわかっていない。こういう日が、何千日も続いていいわけがない。こういう日々の連続で、こころがこわれないわけがないだろ。それは、何千日も続いたから、こころが影響を受けて、こころが正常ではない状態になったということだ。どうして、実際に発生した出来事を無視するんだ? 「自分ならそんなのは平気だ」「自分なら大丈夫だ」「自分ならそんなことにならない」と思っている、やつらは、バカだ。こいつらには、きちがい兄貴がいなかっただけだ。きちがい兄貴が異常なのである。けど、「宿題もしてこないでさぼっている」「宿題をしないのに、いばっている」と言うのが、こいつらなのだ。そして、「俺だってつらいことはある」「俺だって憂鬱なことはある」と言う。そりゃ、あるのでしょう。けど、家族によるきちがい的な騒音経験はないんだよ。だから、それがどういうことをもたらすか、ぜんぜんわかっていない。「鳴り終わったら関係がない」「鳴り終わったら、眠れる」というのは、きちがい兄貴のような、頭がおかしい家族が鳴らす騒音を、毎日経験していないから、言えることなんだよ。こいつらも、ゆるしがたいやつらだ。ゆるがたい。ゆるがたい。ゆるしがたい。

●普通のやつらが、ヘビメタ騒音の影響を過小評価する■騒音※2025/11/12 1:12

ともかく、普通のやつらが、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するのである。しかも、ぼくの説明を聞いたあとも、自分の意見をかえない。ようするに、過小評価したままなのである。約六割は、こんなやつらばかりだ。

この人たちの意見とはちがって、ほんとうに、影響を与える。不可避的に影響を与える。こいつらは、ほんとうは、なにもわかっていない。ところが、わかったつもりになって「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だって、苦労した」と言うのだ。ほんとうに、腹が立つ。こいつらは、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するので、ぼくが、さぼっているだけなのだと思うのだ。『ちょっとやる気を出してやればできるのに、やる気を出さないでさぼっている』と思っているのだ。こんなやつら……。

 

●影響を受けるに、決まっているだろ■騒音※2025/11/11 5:56

 たとえば、「出来事に関係なく、自分の感情を操作できる」というような考え方をもっている人がいるとする。そうなると、きちがいヘビメタ騒音にやられて、身もこころも、めちゃくちゃになっている俺と、その人の関係が悪くなるのである。

ほぼ、自動的に悪くなる。

悪くなったということが、明示されていない場合も、明示されていないだけで、悪くなっているのである。関係が悪くなる。

ぼくにとって、「兄貴のヘビメタの音」というのは、たえがたいものなのである。鳴っているあいだ、強制的に、勉強ができなくなるし、強制的にこころがぐちゃぐちゃになるし、強制的に体(からだ)がつかれるのである。

この「いかりつかれ」というべきものは、鳴り終わった後の体の状態に影響を与える。眠れなくなってしまうのである。

感情がめちゃくちゃになる。

鳴っているあいだは、火のように燃えさかって、いかりに包まれるのだけど、鳴り終わった後は、今度は逆に、氷のように冷たくなって、動けなくなってしまうのである。

何時間も何時間も鳴らされているとそうなる。

日曜日なんて、一三時間以上、鳴らされるわけだから、月曜日がきらいなサラリーマンよりも、もっと、月曜日がきらいになってしまうのである。

でっ、「出来事に関係なく、自分の感情を操作できる」と思っている人は、ほんとうは、日常生活の中で、そんなことはしていないのである。これ、ようするに、「できる」と思っているだけなのだ。

実際には、この人たちは、自分が正しいと思っている考え方を、否定されただけで、おこってしまう。そうしたら、「楽しい」と言ったって楽しくならないし、「うれしい」と言ったってうれしくならないのである。

ようするに、操作できるわけではないのである。

出来事に対応した感情が発生している……。

この人たちにおいても、普通に、出来事に対応した感情が発生しているのである。そして、この人たちも、操作できるわけではないのである。

たとえば、言霊主義者が「出来事に関係なく、自分の感情を操作できる」と思っていたとすると、言霊理論を否定されても、おこらずに、楽しくなるということが可能なはずなのである。

ところが、否定した俺(エイリ)に対して、『負の感情』がしょうじるのである。そして、この負の感情は、けっこう長い期間、続くのである。「不愉快だ」という感情が続くのである。

自分の考え方を否定されたことが不愉快だし、そういうことを言ってきた、ぼくに対して、負の感情がしょうじるのである。これは、人間としてしかたがないことだ。

けど、あきらかに矛盾しているのだ。

普段、ほんとうは、自分の感情を制御できているわけではないのに、「自分の感情を制御できる」と思い込んでいる。「出来事に関係なく、自分の感情を操作できる」と言っているときは、そういう気持ちなのである。

ここらへん、夜郎自大な性格と表現してしまうと、問題があるかもしれないけど、夜郎自大な性格にはかわりがないのである。

この人たちは、ヘビメタ騒音は経験していないので、そう思っているだけなのである。

「ヘビメタ騒音に関係なく、自分の感情を操作できる」と思っているだけなのである。特に、その人が、ヘビメタという音楽分野が好きな場合は、そう思ってしまうのである。自分だって鳴らしているからさぁ。

けど、問題なのは、兄貴の鳴らし方なのである。

あれは、きちがいだ。あれは、おかしい。兄貴の友達のように、節度を守って、ちゃんと聴いているぶんには、いいのだ。けど、ちがう。

しかも、実際にぼくの部屋で暮らしているわけではない人は、どのくらいの音で鳴っているかわかっていないのである。兄貴が、非常識な人で、非常識な音を鳴らしてもなんとも思わない人だと、もう、その時点で、ぼくが、疑いをもたれるのである。

兄貴が、きちがい的にでかい音で鳴らすことにこだわって、なおかつ、きちがい的にでかい音で鳴らしていることを、無視していると、こういうことになってしまう。

自動的にこういうことになってしまう。

ものすごくでかい音で鳴らしたいから、感覚器的なレベルで、ものすごくでかい音で鳴らしていないということにしてしまうのである。

こういう強制書き換えがあるのである。

こういう強制書き換えで、得をするのは、きちがい兄貴なのである。

普通の音で鳴らしていると思ったまま、ほんとうは鳴らしてはいけないレベルのでかい音で鳴らし続けることができる体。良心の呵責なんて感じなくていいのだ。

ものすごくでかい音で鳴らしていたって、ものすごくでかい音で鳴らしていることになっていないので……本人は、ほんとうに、気にしないで鳴らせる。思いっきり鳴らせるのだ。自分が鳴らしている音のでかさを、気にしないで、鳴らせるのだ。思いっきり鳴らしたいから、感覚器は正常なのに、思いっきりでかい音で鳴らしているのに、普通の音で鳴らしているつもりになる。意識レベルの認知・認識は、普通の音なのだから、「問題はない」と考えてしまうのである。ところが、実際には、きちがい兄貴は、思いっきり、でかい音で鳴らしているのである。

だから、こういうことが、信じられない人は、ぼくがたとえ説明したとしても、信じない。そして、ぼくがこれを、冷静に説明できるようになったのは、一九歳ぐらいのときなのである。それまでは、「なんだか知らないけど、あにきはそうだ」「兄貴はものすごくでかい音で鳴らしている」ということしか、説明できなかった。心理的な機制なんて、説明できるわけがないのだ。きちがい兄貴の態度は、おかしなものだけど、おかしいとしか、言えないものなのであった。だから、ほかの人は、余計に信じない。

信じる約六割は「そんなの関係がない」と思って、信じない約四割は、「そんなのは、嘘だ」と思うのだ。こんなの、ない。こういう世間の常識的な意見とは、まったく関係なく、きちがい的な感覚をもっているきちがい兄貴が、自分のやりたい音で、常にガンガン、非常識な音で鳴らすというのが、あたりまえのことだった。

毎日、ずっとあたりまえのことなのだよ。影響を受けるに、決まっているだろ。

2025年11月11日火曜日

●少数だけど、いた■騒音※2025/11/11 21:41

そういえば、ヘビメタ騒音の経験がないのに、俺が言っていることを理解してくれた人たちがいた。少数だけど、いた。いたんだよなぁ。少数なんだけど……。

多くの人は、まったく理解してくれなかったな。無理解ぶりを発揮して、無理なことを言ってきた。

いま、午後九時四二分なのだけど、今の時間帯も、毎日、ヘビメタ騒音が鳴っていた。本当に、毎日だ。土日を含んで、毎日だ。祝日を含んで毎日だ。どんだけおいつめられるか、多くの人は、わかっていない。まーーったく、わかっていない。 

●こいつらの世界では「鳴っていない」ということになっている■騒音※2025/11/10 23:13

 ほんとうに、ひどいことなんだよ。きちがいヘビメタが鳴っている間だけではなくて、きちがいヘビメタ騒音が鳴り終わった後も、体がどろどろで、勉強することができない。

ほんとうに、ヘビメタ騒音が鳴っている時間、以外の時間も、ヘビメタ騒音で!!!ぼろぼろになる。

これ、ほんとうに、不可避的なことなのに、「自分なら平気だ」「自分なら影響を受けない」「そんなの関係がない」と思っているやつらが、無理なことを言ってくる。

そいつらだって、おなじ状況で、ヘビメタ騒音ではなくて、そいつがきらいな音を聞かされ続けたら、鳴っているあいだも、鳴り終わったあとも勉強することができなくなるのに、それがわかっていない。

きちがい兄貴が、特殊な兄貴で、きちがい的な気持ちをもっている。

きちがい兄貴が、特殊な家族で、きちがい的な感覚をもっている。だから、ほかの人は、きちがい兄貴のような家族にやられることがない。

ほかの人の家族は、きちがい兄貴が持っている特殊な感覚をもっていないので、ヘビメタを鳴らすにしろ、きちがい兄貴のようには鳴らさないからだ。

ともかく、経験したことがないんだよ。

きちがい兄貴のような感覚の持ち主が鳴らし続けるような騒音を経験したことがない人たちなんだよ。

普通の人たちは、きちがい兄貴のような感覚をもっている家族にたたられたことがないやつらなんだよ。

だから、ほんとうは、わかっていない。

わかっていないから、「自分なら平気だ」「自分なら影響を受けない」「そんなの関係がない」と思えるだけだ。

そして、これは、ほんとうに、勉強だけではないのである。遅刻や、体力に影響を与える。精神状態に影響を与える。不可避的な影響を与える。これも、勉強と同じように、まったくわかっていないやつらが、クソを言ってくる。

無理なことを言ってくる。

「自分なら平気だ」「自分なら影響を受けない」「そんなの関係がない」という前提で、無理なことを言ってくる。

どうしてそういうことになってしまうかというと、きちがい兄貴がきちがい感覚の持ち主で、きちがい的な感覚で、きちがい的に、鳴らしたいと思っている騒音を常に鳴らしまくるからだ。

これ、きちがい兄貴がゆずってやったつもりの時間も含めて、ものすごい音で鳴っている。これも、信じないやつらがいる。

信じないやつらは、俺が嘘を言っていると思っているわけだ。

だから、「自分なら平気だ」「自分なら影響を受けない」「そんなの関係がない」と考えているやつとおなじように、無理なことを言ってくる。

だって、「ほんとうは鳴っていない」と思っているわけだから、「できてあたりまえ」なのだ。

「ヘビメタ騒音でできない」ということを、認めない。こいつらは、認めない。こいつらの態度といったらない。

ほんとうに、非・道徳的な態度だ。こういうやつらが、一丁前に、道徳について語るのである。

けど、自分が、エイリたいして、非・道徳的なことをしているということがわからない。どうしてなら、こいつらの世界では「鳴っていない」ということになっているからだ。

「お兄さんのヘビメタ騒音とやらは、エイリが言うようには鳴っていない」という前提が……こいつらが生きているあいだ……くずれないからだ。

きちがい兄貴の騒音という話が嘘だと思っているので、いろいろとよこしまなことをしても、悪いことをしたとは思わないのだ。

「エイリが嘘を言っている」という前提で考えて、次々にあらぬ疑いをかけてくる。俺の行動や発言を、悪く解釈して、意地悪なことをしてくる。非・道徳的なことをしている。まあ、気づくことはないのだけど……。

ほんとうに、こいつらが考えているような世界ではないのだ。こいつらが、みんな、そろいもそろって、バカなんだよ。想像力がない。

俺が言っているレベルの騒音がずっと鳴っていたら、眠れなくなるということがわからない。眠れなくなったらどういうことになるのかわかっていない。

想像力がないから、ヘビメタ騒音中も、ヘビメタ騒音後も、勉強ができなくなるということを認めない。そして、鳴り終わった後、眠れなくなるということも認めない。

きちがい騒音が、ヘビメタ騒音中に与える『心的な影響』も、きちがいヘビメタ騒音が、ヘビメタ騒音後に与える『心的な影響』も認めない。

わかっていない。

そんなのは、簡単に制御できるものなのだ。実際には、制御できるものじゃない。どうしたって、いかり、不安、憂鬱が湧き上がってくる。

どれだけ、いろいろと気を張っていても、注意不足になる。 どうしたって、元気がなくなる。それを、どうにか元気づけようとすると寝不足状態で「ハイ」になったような感じになり、意識水準がさがっている状態で行動するから、いろいろと失敗する。

2025年11月10日月曜日

●身体もこころも、めちゃくちゃになる■家族※2025/11/10 18:01

どうするかな? どうするかな? ほんとう、こまったなぁ。ネズミ事件が、尾を引いている。ネズミ事件で、ぼくは、疲労した。そかして、このネズミ事件を引き起こした親父の態度が、ひどいのだ。ひどすぎる。これ、じつは、いかりと憂鬱に関係がある。なぐるのを我慢すると、こっちに、攻撃が向かって、体調が悪くなるのだ。身体もこころも、めちゃくちゃになる。身体もこころも、めちゃくちゃにする親というのはいる。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。