2025年10月15日水曜日

●ニコニコしている人を信用するだろうか■ニコニコ※2025/10/13 3:42

たとえば、CさんとDさんがいたとする。Cさんは投資詐欺師で、Dさんは2000万の退職金をもらって退職した定年退職者だ。Cさんが、ニコニコしていたとする。Dさんは、友人の誘いで、Cさんにあったとする。Cさんが、いつもニコニコしてさわやかな人なので、Dさんは、800万円、Cさんがいう金融商品に投資をした。最初のうちは、分配金のようなものが、振り込まれていたのだけど、6カ月目に、振り込まれなくなった。不審に思ったDさんが、連絡をとろうとしたけど、Cさんには連絡をとれなかった。Dさんは警察に被害届を出したけど、警察官は「取り戻すのは非常にむずかしいと思う」と言った。実際に、Cさんのおカネは、かえってくることがなかった……とする。この場合、Cさんはニコニコしていたのである。たしかに、Cさんは「ニコニコしたので、いいことがあった」わけだ。Dさんは、ニコニコしている人は、信頼できると思って投資をしたのだけど、けっきょく、だまされることになった。ニコニコ理論では、ニコニコしている人がいい人だという前提が(なんとなく)成り立っている。しかし、ニコニコしている人が、悪い人だったら、どうか? まあ、悪い人とは言わなくても、悪い意図があってニコニコしていた人だったとしたら、どうなのかという問題がある。Dさんは、いつもニコニコしているCさんを信じて、投資をした。これは、「つくり笑顔でも」「ニコニコしていれば、人に言い印象をあたえることができる確率があがる」ということを支持しているようにも見える。しかし、いつも、かならず、人に言いしんょうをあたえられるかどうかはわからないのである。あくまでも、「おこっているひと」よりも「つくり笑顔でも、ニコニコしていた」ほうが、信用を得やすい傾向にあるのではないかということが言えるだけだ。これも、たぶん調べれば、たしかにそういう傾向があるということがわかると思う。しかし、そこで問題になるのは、「意図」なのである。ニコニコしている側の「意図」だ。どういう「意図」でニコニコしているのかということが、問題になる。けど、ニコニコ教の人は、「ニコニコしているといいことがある」と思ってニコニコしていること以外のことを考えない。人をだますつもりで、ニコニコしている人のことを、無視してしまうのである。現実世界では、悪意があって、ニコニコしている人もいるということを、無視してはいけない。どうしてかというと、「ニコニコしていると、いいことがある」という話自体が、現実世界の話だからだ。現実世界で起こることについて、話をしているからだ。

Dさんは、投資詐欺にひっかかったあと、以前とおなじように、ニコニコしている人を信用するだろうか。ここでは、Dさんは、以前のようには、ニコニコしている人を信用しないようになったということにしておく。その場合、Dさんはニコニコしている人に警戒心を抱くようになる。だから、ニコニコしている人が、つねに、一〇〇%、人から行為を持たられるという前提は成り立たなくなる。ニコニコしている人は、ほかの人に安心感を与えるから、そのあとの交流がスムーズになるということが、語られたはずだ。交流がスムーズになるといいことが起こりやすいのである。ニコニコ理論にしたがえば、一〇〇%の確率でいいことが起こることになのである。一〇〇%の確率でいいことが起こるということの土台として、人(というものは)ニコニコしている人に好感をもつという前提が成り立っていた。けど、いつもその前提が成り立っているとは、限らない。

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投資詐欺師のCさんは、人はニコニコしている人を信頼しやすいという傾向を利用したわけだ。これはあくまでも、傾向だ。100%、つねに、成り立っているわけではないのである。実際、Dさんは、投資詐欺に引っかかったあと、ニコニコしている人を信頼できなくなっている。ようするに、確率の問題だということだ。ところが、「人は、ニコニコしている人を信頼する」と言ってしまった場合には、「人は、ニコニコしている人を100%の確率で信頼する」ということになってしまう。「人は、ニコニコしている人を信頼する」という文は、「人は、ニコニコしている人を100%の確率で信頼する」という文と意味的に等価になってしまうのである。「人は、ニコニコしている人を信頼する」のだから、「ニコニコしている人を信頼しない人」はいないことになっているのである。ニコニコしている人を信頼しない人は、この世に存在しないという前提が、成り立ってしまう。

 

2025年10月13日月曜日

●「ニコニコしていたのに、悪いことが起こった」■ニコニコ※2025/10/13 2:51

もう、一度、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんは、無職に偏見がある人だ。そして、Bさんは無職である人だ。

Bさんがニコニコしていても、Aさんには、無職に対する偏見があるので、「なに、笑ってんだ? 自分の立場がわかっているのかぁ」と毒づくことだってある。

その場合、Bさんは「ニコニコしていたのに、不愉快なことを言われた」ということになる。Bさんは、Bさんで、Aさんにはわからない、理由があって、無職になっているのかもしれないのである。

しかし、Aさんが、その理由を正当な理由だと認めなければ……ようするに、理由として認めなければ、Aさんにとっては、Bさんは、理由がないのに、無職のままの人だということになってしまうのである。

そして、Bさんが言った理由について、納得がいかなければ、Aさんは「そんなのは理由にならない」とか「あまえたことを言うな」と言うのである。

これも、Bさんにとっては、不愉快なことだ。

まさしく、「ニコニコしていたのに、不愉快なことが起こった」のである。それならば、「ニコニコしていれば、いいことがある」とは言えないということになる。

これも、「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」ということを言っているのであり、「ニコニコしていれば、いいことがある場合がある」ということ言っているのではないということに注意しなければならないのである。

ところが、「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っている人は、法則性について述べているときは、「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」という意味で「ニコニコしていれば、いいことがある」と言ってしまうのである。

そして、「ニコニコしていれば、いいことがある」と思いついた根拠のほうは……根拠になる体験のほうは、自分がニコニコしていたから、いいことがあったという体験なのだ。

これは、つまり、「ニコニコしていれば、いいことがある場合がある」という意味で「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っていることになる。

だから、そういうことを、使い分けているのだけど、使い分けているつもりが「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っている人にはないのである。

ようするに、区別なく理解しているので、そのときに応じて、都合がいいほうが選ばれて「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っているだけなのである。

だから、法則性について語るときは、「ニコニコしていれば、いいことがある場合がある」という意味で「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っているわけではなくて、「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」という意味で、「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っているわけなのだけど、「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」という意味で、「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っているということに、本人が気がついていないのだ。

これは、やっかいなことだ。

手短に言うと、ニコニコ教だけではなくて、言霊主義にも、おなじことが成り立っている。言霊主義者に関しては、以前、述べたことがあるので、ここでは、ほとんど省略する。

言霊主義の問題について言っておくと、ともかく、言霊主義者も、自分で言っていて、自分が言っている言葉の意味が、よくわかっていないというところがあるので、問題がしょうじる。その無自覚性は、人を傷つけるのである。

言霊主義から、ニコニコ教に話をもどす。

ニコニコ教徒は、「ニコニコしたのに、悪いことが起こった」ということを、認めない傾向がある。ようするに、「なんかのまちがいで、そうなっただけだ」と軽く流してまうのである。

そして、法則性について語っているときは、たしかに、「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」という意味で「ニコニコしていれば、いいことがある」と言ったのだけど、相手から「ニコニコしたのに、悪いことが起こった」ということ言われたときは、「ニコニコしていれば、いいことがある場合がある」という意味で「ニコニコしていれば、いいことがある」と言ったというような感覚におちいってしまうのだ。

自分の場合は、「ニコニコしていたから、いいことがあった」から、「ニコニコしていれば、いいことがある」ということは正しいと思っているのだ。

ようするに、自分の場合は、「ニコニコしていたから、いいことがあった」から「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」ということは正しいと思ってしまうのだ。ここに、理論的な誤謬があるのだけど、本人が、理論的な誤謬に気がつかない。

ニコニコしていたのに、悪いことが起こったということは、なにかの手違いだから、問題がないと思ってしまうのだ。この場合も、相手がうまくニコニコできなかっただけだというような問題になってしまうのである。

ともかく、ニコニコ教祖は「そんなことはない」と言って「ニコニコしていたのに、悪いことが起こった」ということを認めないのである。

2025年10月12日日曜日

●相手の履歴に関する知識は、相手に対する認識に影響をあたえる■社会※2025/10/11 23:27

「ニコニコしているとしあわせなことが起こる」ということについて考えてみよう。こういうことを言う人は、実際の場面におけるメタ認知を無視してしまっているのである。

だから、ニコニコしているとしあわせなことが起こる場合はあるけど、ニコニコしていたら、ふしあわなことが起こる場合もあるということになる。

そして、ニコニコしていいても、特に何も起こらないバカがある。そして、ニコニコしていても、ニコニコしていたこととは関係がない中立的なことが起こる場合もあるのだ。

「ニコニコしているとしあわせなことが起こる」というのは、「Xをしていると、Yがおこる」と抽象化することができる。

この場合、一〇〇%詐欺をやっており、なおかつ、法則性がないのに、あたかも法則性があるようなことを言ってしまっている。

「Xをしていると、Yがおこる」というようなライフハックをくちにする人は、場面における、メタ認知を無視しているのである。無視しているから、自分にとって都合がいいシーンを思い浮かべて 「Xをしていると、Yがおこる」と言いきることができるのだ。

けど、まちがっている。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、無職に偏見がある人だ。そして、Bさんは無職である人だ。Aさんは、Bさんが無職であるということを知った場合、Bさんに対しても、無職に対する偏見がしょうじる。

Bさんがニコニコしていたって、AさんがもっているBさんに対する偏見が消えないのである。「無職は信用ができない」という偏見をもっていれば、Bさんがニコニコしていても偏見によって、Bさんを信用することができないのである。

実際には、どういう場所で、二人が会って話をしているのかということも、ほんとうは、重要だ。どういう目的で、二人が話をしているのかということも、ほんとうは、重要だ。場所や目的は、メタ認知の中に埋め込まれてしまうのである。

喫茶店で会って話しているのか、職場で話しているのかで、人が人に対して思うことは、ちがうのである。

そして、たとえば、相手に対する知識というのも、影響をあたえる。

「過去は関係がない」と豪語する人だって、相手が、成功した経営者である場合と、無職のニートである場合は、態度がちがうのである。

態度のちがいは、じつは、「知識」によって引き起こされるのだけど、いろいろな知識が「人物に対する認識」「相手に対する認識」に影響をあたえる。成功した経営者のエピソードは、過去のエピソードなのだ。

だから、「過去は関係がない」と言っているのであれば、そういう過去のエピソードも関係がないということになる。

ところが、ぼくの知っている範囲で言うと、「過去は関係がない」と豪語する人たちにかぎって、相手の過去を重視するのである。相手が、成功エピソードをもっていると、尊敬して、相手が失敗エピソードをもっていると、軽蔑するのである。

相手が「いま」もっている肩書だって、過去出来事が関係しているのに、「過去は関係がない」と豪語する人たちは、「過去は関係がない」と豪語するのである。

ところが、「過去は関係がない」と豪語する人たちが、いまの肩書にいたるまでの過去の履歴を重視しているのだ。

まあ、こいつらは、ほんとうに矛盾している。

問題なのは、矛盾していることに気がつかないということだ。本人が気がつかないのである。

言霊主義者が、普段は、言霊理論をガン無視して暮らしているのとおなじだ。言霊主義者というのは、あたりまえのことに関しては、言霊理論をガン無視して暮らしているのだけど、本人には、その自覚がないのだ。まったく、矛盾に気がついていない。

それとおなじで、「過去は関係がない」と言っている人たちは、相手の!履歴を重視しているのに、その自覚がまったくないのだ。

相手の履歴に関する知識は、相手に対する認識に影響をあたえる。相手に対する認識は、いろいろな判断に影響をあたえるのである。

なので、ニコニコしているかどうか、ということよりも、相手に関する知識のほうが、相手に対する認識に影響をあたえる可能性がある。

「ニコニコしていると話しかけやすくなるから、いい交流が生まれやすい」というのは、ニコニコしているということ以外に関しては、無視した言い方なのである。

ようするに、偏見もなく、場面におけるメタ認知が中立的なものである場合は、 「ニコニコしていると話しかけやすくなるから、いい交流が生まれやすい」という傾向があるということ、言っているにすぎない。

ところが、たいていの場合、メタ認知は中立的なものではないのである。職場における人間関係を考えると、初見の人のほうが、少ないので、すでに両者の間で過去の出来事が発生してしまっている。

そうなると、実際に起こった出来事によって、「その人」に対する認識ができあがってしまっている場合がある。

その場合、その人が「ニコニコしている」かどうかよりも、その人に対する(別の人がもっている)認識のほうが、別の人の態度や判断に大きな影響をあたえることがある。

その場合、自然にニコニコしている人なのか、むりにニコニコしている人なのかということは、重要なことだ。無理やりニコニコしていても、自然にニコニコしている場合と「おなじ効果がある」とは言えない。「その人」とか「別の人」という表現だと、混乱が生じるので、とりあえず、CさんとDさんということにしておく。

CさんとDさんが、おなじ会社に勤めていて、おなじ職場にいるのであれば、Cさんが、Dさんをどのように見るかということは、すでに、CさんとDさんのあいだでどのようなことがあったかということで、だいたい決まってくる。

まあ、CさんとDさんのあいだではなくて、他の人がからんでいる場合もあるし、ただ単に、Cさんが、Dさんの行動を見て、Dさんのことをどう思ったかということも、関係している。ともかく、平日はほぼ毎日会っているわけだから、「ニコニコしている」ということに関しても、「自然にニコニコしているのか、無理やりニコニコしているか」ということについて、メタ認知が成立しやすい傾向がある。

たとえば、Dさんが自然にニコニコしているのか、それとも、つくり笑顔を浮かべているだけなのかということについて、Cさんは、識別できる可能性がある。識別できる確率が高い。

「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っている人は、「無理やりつくった笑顔でも、ニコニコしていれば、いいことがある」ということを言う。「自然にニコニコしているのか、無理やりニコニコしているか」ということは、関係がないということを、言うのである。

「無理やりニコニコしている場合でも、運があがるから、いいことがある」というカルト的な考え方が、ニコニコ教祖にはあるのだ。「運があがる」という別の要素を勝手に、取入れで、説明をするのである。これ……やっかいなんだよな。

2025年10月11日土曜日

●「しあわせになる方法」でも、おこなわれているのではないか■社会※2025/10/11 20:49

たとえば、おカネもちが、全人口の一〇%いて、おカネもちではない人が全人口の九〇%といる社会を考えてみよう。おカネもちではない人は、おカネもちになりたいとする。そうすると、おカネもちになるためのライフハックに関する本が売られるようになる。おカネもちではない人にとって、おカネもちになることは、たいへんに関心があることなのである。けど、おカネもちになれるはずのライフハックを、いくら実践しても、おカネもちになれないとする。ライフハックの情報が、ほんとうは、おカネもちになれる効果がない方法なので、おカネもちになれないのだ。おカネもちがおカネもちなのは、他に原因がある。ところが、その原因については、無視されているのである。どのライフハックでも、ほんとうの原因に関しては、無視ししているのである。なので、ほんとうの原因に作用しない、ライフハックは、効果がないものなのである。しかし、ライフハックの文言が、どれだけ社会にはびこっても、全人口の九〇%がおカネもちではないとする。その場合、そのライフハックの文言は、無意味だということになる。しかし、無意味なのに、説得力をもっているものなのである。多くの人にとって、説得力をもっているもなのである。どうして説得力をもってしまうかというと、いろいろなところに、理論的な誤謬があるからなのだ。まあ、「トリック」と言ってもいい。いろいろなトリックを使って、人をだましているので、だまされた人には説得力があるものにうつるということだ。

ぼくが言いたいのは……こういうことが、「しあわせになる方法」でも、おこなわれているのではないかということだ。

●笑顔の人が少数派で、笑顔ではない人が多数派なのである■社会※2025/10/11 10:39

もうひとつ言いたいことは「ほとんどの人が笑顔ではないこと」と「つくり笑顔でも、笑顔をつくれば、しあわせになるというライフハック」はセットなのではないかということだ。ようするに、ふしあわせな人が多いから、しあわせになることを、求めているのである。そして、お手軽な方法でなければならないのである。おカネがかかる方法とか、用意をするのに時間がかかる方法ではダメなのである。

笑顔ではない顔というのは、いろいろとある。たとえば、普通の顔、おこっている顔、不満そうな顔、元気がなさそうな顔と、いろいろだ。いつもニコニコしている人は、少ないのである。いつもニコニコしている人は、レア中のレアなのである。

たとえば、電車の中で、どのくらいの人が笑っているかどうかということを見てみればいい。ほとんどの人が笑っていない。ほとんどの人が笑顔ではない。むっつりした顔や、普通の顔で、電車の中にいる。駅のホームに降りてからはどうか? おなじだ。ほとんどの人が笑顔ではない。むっつりした顔や、普通の顔が多い。ようするに、笑顔の人が少数派で、笑顔ではない人が多数派なのである。

電車から降りて、駅構内を歩いているとする。どれだけの人が、ニコニコしているのか。前にも書いたけど、相手がニコニコしていると認識するか、相手がニタニタしていると認識するかは、認識するほうが、決定していることなのである。駅構内を歩いているとき、9割の人が、ニタニタしているたら、人は、どう感じるだろうか?

普通の人は、普通の顔をしている確率が高い。実際には、たぶん、むっつりとした顔をしていると思う。どうしてかというと、電車通勤自体が、とても負担のかかことだからだ。そして、出社して働くということが、笑いをさそうことではないからだ。もちろん、会社で働くことが楽しくて仕方がないので、思わずニコニコしてしまう人もいるだろう。けど、そういう人は、とてつもなく、少ない。

そして、認識する人が「ニタニタしている人だ」と認識してしまうと、やはり、不信感が芽生えるのである。むっつりとした顔をしているほうが、まだ、不信感がしょうじないのではないか。どうしてかというと、通勤自体が不愉快なものであるという共通認識が成り立っている確率が高いからだ。もちろん、例外はいる。通勤自体が楽しくてしかたがないと思っている人もいるだろう。そういう人は、ニコニコしてしまうだろう。けど、ほかの人は、(その人が)ニタニタしていると認識してしまうかもしれない。ぼくの経験の範囲で言えば、通勤自体が不愉快なものである感じている人のほうが、通勤自体が楽しくてしかたがないと感じている人よりも、高いのではないかと思える。

ようするに、きつい生活をしている人が多いから、なんとか、しあわせになりたいと思う人が多くなるのである。そして、役に立たないライフハックが、しあわせになりたい人に、幻想の方法をあたえる。この方法は、役に立たないことが、あとでわかるのである。読んでいるときは、その気になるけど、実際には、役に立たないことが、あとで、わかるのだ。実際にやってみればわかる。思った通りの効果が得られないのだ。逆に、トラブルがしょうじたりする。ともかく、そのライフハックで、しあわせな人が、増えるということがないので、逆に、いつまでも、ライフハックの方法が、売れるということになる。ライフハックの方法が売れて、いろいろな無料動画で、そのライフハックの方法について知ることができるのだけど、それでも、依然として、多数派は、駅構内で、ニコニコしていないという状態が維持される。会社でも、多数派はニコニコしていないという状態が維持される。もちろん、ニコニコしている人も、ニタニタしている人も、多少はいる。

ニコニコしている人やニタニタしている人が、ほんとうに、しあわせを感じているのかどうかは、わからない。たとえば、当然の前提として、ニコニコしている人には話しやすいということが言われる。普通の顔をしている人は、ニコニコしていないので、話しかけにくいのである。ところが、会社の職場というのは、初見の人ばかりが集まっているところではない。どの人がどういう人なのかということは、そこにいる人は、ほとんどの人が認知している場所なのである。

人というのは、なにを考えているかわからない人には、警戒心があるものだから、ニコニコしたほうがいいということを言う人たちがいる。しかし、ニタニタしている人に対しては、警戒心があがるかもしれないのである。

たとえば、Aさんと、Aさん以外の人がいたとする。駅の構内のように、特に面識がない人たちが集まっている場所だとする。ニコニコしている人に関しては、人は、話しかけやすく、警戒心がないとする。おこっている顔をしている人に関しては、人は、話しかけにくく、警戒心があるとする。だから、おこっているひとも、ニコニコすれば、人の警戒心をさげることができると、彼らは言うのだ。そして、人の警戒心をさげることに成功すると、すばらしい交流が始まるので、ニコニコしている人は、しあわせを感じやすいと(彼らは)言うのだ。しかし、対照として出てくるのが、「おこった表情をしている人」なのである。普通の人ではない。普通の顔をしている人が、大半なのである。ぼくの経験の範囲で言うと、普通の顔をしている人が大半で、ニコニコしている人は、少ない。そして、おこっている人が、むりやりニコニコすることで、ほかの人たちは、その人たちがニコニコしていると認識するかどうかという問題がある。つくり笑顔でも、ニコニコしていれば……人は、警戒心がなくなるということを言っているけど、ほんとうにそうなのか、疑問だ。主観的に、本人が、自分の気持ちをおさえて、「ニコニコしている」と思っていても、まわりの人が、「その人はニコニコしている」と認識するかどうかというのは、別の問題だ。まわりの人は、その人がニタニタしていると認識するかもしれないのだ。実際に、顔の表情と、本人の本当の感情にちがいがあるのだから、本人が「ニコニコした表情をつくったつもり」でも、ほかの人は、その人を「ニコニコしている人だ」と認識しないで、「へんな笑顔を浮かべている人だ」と認識するかもしれない。普通の顔をしている人よりも、へんな笑顔を浮かべている人に対して、警戒心がわく場合もある。本人が、本人の感情をかくして、本人なりに「ニコニコすれば」本人以外の人の、本人に対する警戒心がさがるという理論は、肯定しがたい。

●「しあわせだから、笑顔になる」のではないか■社会※2025/10/11 20:05

「笑顔だとしあわせになる」のではなくて、「しあわせだから、笑顔になる」のではないか。その場合、笑顔であるという条件を抜かした、外部環境や内部環境のなかに、しあわせを感じる要素があり、気持ちよく楽しく暮らすことができるので、自然と笑顔になるのである。かりに、気持ちよく楽しく暮らすことができるので、自然と笑顔になるという場合、つくり笑顔をつくっても、当然、 笑顔であるという条件を抜かした、外部環境や内部環境がかわるわけではないから、気持ちよく楽しく暮らすことができるようにならないのである。笑顔が主人で、しあわせな生活が従者であるのではなくて、しあわせな生活が主人で笑顔が従者なのだとしたら、笑顔をつくっても、しあわせにはならない。だいたい、理由がないのに、「幸せになりたいから」無理やり笑顔をつくっている状態が、しあわせな状態なのか、ふしあわせな状態なのかということを考えると、すくなくても、その状態は、しあわせない状態ではない。 

●「笑顔だと、しあわせになる」と言うことができるか■社会※2025/10/11 3:58

たとえば、卒業写真で素晴らしい笑顔だった人を、追跡調査をしたら、みんな、しあわせになっていたとしよう。

ところで、素晴らしい笑顔だと感じるということは、主観的なことだ。見た人が、「素晴らしい笑顔だ」と感じただけだ。こういうことろで、主観的な考え方が導入されているということにも、気がついたほうがいい。

「素晴らしい笑顔」か「素晴らしい笑顔じゃないか」は客観的には、決めることができないことなのである。せいぜいのところ、アンケートをとって、主観的な決めつけの数を決めることしかできない。
 

卒業写真で素晴らしい笑顔だった人を、追跡調査をしたら、みんな、しあわせになっていたとしよう……。だから、「笑顔だと、しあわせになる」と言うことができるかと言うと、言うことはできないということになる。

まず、卒業写真で笑顔だったということは、どういうことなのかと言うことを考えなければならない。高校の卒業写真だとすると一八年も生きているということになる。

たとえば、親の性格がいい人は、笑顔になって、親の性格が悪い人は笑顔にならないとする……。これも、仮定の話だ。その場合、しあわせになるかどうかの真の要因は、親の性格がいいか、親の性格が悪いかということになる。

親の性格がよかったから、いろいろな楽しい経験を積むことができた。だから、高校の卒業写真で笑顔でいられた。親の性格が悪かったから、楽しい経験などひとつもなく、つらい経験ばかりだった。

だから、笑顔じゃなかったとする。

そして、生まれたときから一八歳まで、楽しい経験を積むことができたかどうか、ということが、その後の人生に影響をあたえる……とする。

その場合、何度も言うけど、真の要因は、親の性格だということになる。親の性格によって、楽しいことを経験できるかどうかということが決まり、楽しいことを経験できるかどうかが、素晴らしい笑顔になるかどうかを決めるということになるから、真の要因は、親の性格だということになるのである。

そこで、たとえば、「作り笑いでも、笑顔をつくれば、しあわせになることができる」ということを言う人がいたとする。上記の文で「素晴らしい笑顔になるか」と書いたけど、ほんとうは「素晴らしい笑顔をつくるか」と書きたかった。笑顔になるのか、笑顔をつくるのかは、重要な問題だ。

ともかく、作り笑いにも、ほんとうの笑いとおなじような効果があると、前提してしまうのは、問題がありすぎる。別のことを突然、言い出したのとおなじだ。

「作り笑いでも、ほんとうの笑顔とおなじような効果がある」ということと「卒業写真で笑顔だった人は、その後の人生でしあわせになる」ということは、ちがうことなんだよ。

「卒業写真で笑顔だった人は、その後の人生でしあわせになる」ということは、「卒業写真で笑顔」だったから、その後の人生でしあわせになるということを、かならずしも、意味しないのである。

笑顔でいることと、しあわせになることの因果関係があるとは言えないのである。卒業写真で笑顔だった『から』その後の人生がしあわせになったどうかは、わからないのである。真の要因ということも、のべた。ようするに、卒業写真で笑顔だったということは、それまでの人生が充実していたということを、意味しているのかもしれない。

ようするに、一八歳までを有利にすごした人は、その後の人生で、しあわせになる確率が高くなるということを言っているにすぎないのかもしれないのだ。わかるかな?

もう、すでに、しあわせだった確率が高いんだよ。一八歳になるまで、しあわせだった確率が高いわけ。一八歳までの人生で、しあわせだだった人が、その後の人生でしあわせになる確率は、一八歳までの人生で、不幸だった人が、その後の人生あわせになる確率よりも、高いと「想像」できる。推測できる。

親の性格という外部環境について述べたけど、それ以外の外部環境も恵まれていたのかもしれないのである。たとえば、親の収入が平均より高いとか、親の資産額(貯蓄額)が平均より高いというような外部環境があったのかもしれない。

そして、そのことが、楽しい経験つむときの、おカネになったのかもしれない。親の性格がよくても、おカネがない場合は、おカネがないということによって、親が子どもにしてやれることに制限ができるのである。金のない親をもった子どもは、おカネがかかることを経験できない確率が高くなるのである。

おカネがかかることのなかに、その子が楽しいと感じることがあったとしよう。その場合、親にカネがあったほうが、親にカネがない場合よりも、子どもが「楽しいこと」を経験できる確率が上がるのである。そりゃ、カネのぶんだけ、制限されるからそういうことになる。

本人の才能という内部環境も、笑顔でいられるかどうかと関係があると思う。この、才能という言葉が、くせ者なのだ。まえに、なんか、それについて書いたことがある。

まあ、ともかく、優れていたほうが、他人から褒められやすい。優れていたほうが、自分に自信を持てる。優れていたほうが自信をもてるような機会がめぐってくる。その結果「笑顔になった」のかもしれないのである。そして、その結果、自然に笑う回数が増えてたかもしれないのである。そして、自然に笑う回数が増えたから、写真を撮るときも、笑っていたのかもしれないのである。

ちなみに、「笑うな」と指導されたら、笑っていない写真になるのだ。「笑うな」と指導されなかったということを意味しているのだ。卒業写真で素晴らしい笑顔をつくっていた人が、そのあと、しあわせになったかどうかを調べたわけだからさ……。

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たとえば、一八歳までしあわせな環境ですごした人は、そのあとも、しあわせな環境ですごす確率が高いとする。あるいは、一八歳までふしあわせな環境ですごした人よりも、一八歳までしあわせな環境ですごした人のほうが、そのあとの人生で、しあわせになる確率が高いとする。その場合、笑顔という言葉は出てこない。つくり笑顔をつくることで、一八歳まで、ふしあわせな環境ですごしていた人が、一八歳以降、しあわせになるということは、「一八歳までしあわせな環境ですごした人は、そのあとも、しあわせな環境ですごす確率が高い」ということからは、言えない。


●おなじ行動原理で、行動してしまうのである■家族※2025/10/11 0:42

親父がこっちの気持ちを気にした場合も、こっちの気持ちを無視することになるのである。親父がこっちの気持ち気にする場合は、人生のなかで、一度しかなかったのだけど、それでも、やっぱり、ダメなのである。きちがい親父と言うのは、きちがいだから、いつも、相手の気持ちについて勘違いをしているのである。しかも、親父の親父たるゆえんは、その「勘違い」を訂正できないということなのである。これが、また、でこぼこなんだよ。トラブルのもとなんだよ。どれだけ言っても、けっきょく、「こっちの気持ち」をガン無視したことをするのである。本人(親父)が、「こっち気持ち」を考えたつもりになっても、「こっちの気持ち」をガン無視することになるのである。頭がおかしいから、相手の気持ちを考える部分がまったくなくて、相手の気持ちを考えるということの「まねごと」をすると、やっぱり、相手の気持ちを、無視することしか考えられないのである。これが、こまるんだよ。言って修正できない。説明して、「こういう気持だから、こういうふうにさせてくれ」と言っても、ダメなのである。かならず、自分が思いついたことを、おしつけてくる。だから、それが問題なんだと言ったって、わからないのである。「それが問題なんだ」ということを親父にどれだけ説明しても、親父は、わからないままなのである。おなじ行動原理で、行動してしまうのである。

ともかく、親父と触れ合ってしまうと、こころをぐちゃぐちゃにされてしまうのである。このしくみがある。言霊主義者は、「言えば、言ったことが現実化する」と言うけど、俺がどれだけ「親父がまともになる」と言ったって、親父はまともになんかならないんだよ。その言霊主義者だって、言霊理論を否定されれば、腹がたつのである。腹がたっているときに、楽しいと言ったって楽しくならないのである。言霊理論を否定されたぐらいで、腹をたてるやつが、きちがい親父のきちがい行為にたえられるわけがないだろ。それ、腹のたちかたが、一〇〇〇兆倍ぐらいちがう。ありえないほど、ちがう。もちろん、親父の行為のほうが、強烈なんだよ。自分が信じている理論を否定されたときに感じる「立腹の度合い」と、きちがい親父の行為によって、こっちが感じる「立腹の度合い」は一〇〇〇兆倍ぐらい、ちがう。実際にやられていることがちがうのである。ともかく、言霊主義者は、『きちがい的な親』について簡単に考えすぎだ。実際に、自分が、子どもの立場で「やられたら」わかると思うよう。やられない限り、わからないんだよな。これも、どれだけ、説明しても、言霊主義者にはわからないと思う。実際に、体験したことじゃないと、言霊主義者は、わからない。想像力の射程が、短すぎる。

*     *     *

ともかく、きちがい親父といっしょにいると、こころをぐちゃぐちゃにされてしまうのである。かならず、普通の人との間には、おこらないトラブルが、発生してしまうのである。おかあさんの葬式のときだって、そうだ。おかあさんの葬式関連のいろいろなことでも、そうだ。そりゃ、おかあさんの葬式関連のことなら、親父といっしょに行動するしかないときがある。「人生のなかで、一度しかなかった」と書いたけど、一度というのは、おかあさんの葬式関連のことで、行動しているときに起こったことだ。けど、きちがい親父が、幼児のころの俺を虐待していたということについて謝罪したあとも、けっきょくは、おなじなのである。行動がかわらない。頭の「つくり」がかわらない。そりゃ、幼児のときのように虐待するわけじゃない。こっちのほうが、からだが大きくなったからな。これ、みんな無視することだけど、自分より体がでかいかどうかが、きちがい親父の行動に影響をあたえているのである。だから、きちがい兄貴の身長が、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らし始めたころには、きちがい親父よりも、ずっと高くなっていたのだ。だから、親父は、きちがい兄貴に注意できなくなってしまったのだ。けど、きちがい親父の中身というのが、かわらないのである。そして、長男が、あんな音で鳴らしているのに、「注意しない」という方向にドライブがかかってしまって、意地でも注意しない状態になってしまったのである。これも、俺にとっては「親父らしいことだ」と思えることだけど、ほかの人は、疑問をもってしまうところなんだよ。「子供を虐待していたような親なのだから、長男がうるさくしたら、ガンガンに怒って注意するだろ」と思ってしまう。普通の人は、そう思ってしまう。ところが、ちがうんだよ。だから、ほかの人には理解不能なことになる。そうなると、「そんなのは、へんだ」と感じるのだ。だから、「そんなのは、へんだから、エイリさんが嘘を言っている」と思ってしまうのだ。こういうところでも、親父のへんな性格と、世間の人の推論のあいだに挟まれて、いらない疑いをかけられてしまうのである。

言っておくけど、親父の頭の構造は兄貴の頭の構造とおなじだ。そして、兄貴は、親父にさんざんやられてきたので、「今度は自分の番だ」という気持があったのである。それが、きちがいヘビメタのやり方にあらわれてしまったのである。いままで、さんざんやられてきたので、ヘビメタは絶対に自分が思った通りにやる」と決めてしまったのである。そうしたら、きちがい親父のように、相手が言った通りには、絶対に動かないと心に決めたような状態になってしまったのである。それがあらわれたのが、「ヘビメタ」だったんだ。きちがい兄貴にとって、ヘビメタのことで譲るのは、絶対にいやことだったんだよ。意地になっていたところだったんだよ。たとえば、「ヘビメタをがまんしろ」「ヘビメタを鳴らすな」と言われても、きちがい的な意地で鳴らし続けたのである。そして、「こういうことをやってはまずい」と思う気持がまったくなかったのである。これ、非常識な音をずっと出すということだから、ほんとうは、悪いことをしているのに、悪いことをしているつもりが、ほんとーーーーーーに、まったーーーーーーく、ないのである。「遠慮して音をさげなければならない」と思う気持が、ないのである。自分が悪いことをしているつもりというのが、ほんとうに、ないのである。これも、言いがたいんだよな。普通の人だったら、あんなでかい音で鳴らしたら、一秒で、「でかい音で鳴らしている」ということがわかるものなのである。ずっと鳴らしていたら、相手が、音のでかさについて文句を言ってきたということが発生したとする。その場合、実際にでかい音で鳴らしている」ということが、どれだけ、腹をたてても、普通の人にはわかるものなんだよ。ところが、きちがい兄貴は、きちがいで、普通の人じゃないから、「実際にでかい音で鳴らしている」ということが、どこまでも、どこまでも、わからないのだ。知っていることだけど、知らないふりをしているということじゃないのだ。普通の人は聴覚が正常なら、どれだけ強がっても、どれだけ自分の気持ちを大切にしたくても……でかい音で鳴らしたいという気持を大切にしたくても……でかい音で鳴らしていたら、でかい音で鳴らしているということがわかる。「鳴らしてはいけないようなでかい音で鳴らしている」という、意識は消えない。ところが、きちがい兄貴は、無意識的に、そういう意識を完全に封じ込めているのである。自分がでかい音で鳴らしたいので、でかい音ではなくなってしまうのである。意識においてはそうなのである。

2025年10月10日金曜日

●そういうことを、相手に突き付けてくる■家族※2025/10/10 18:15

親父がからむと、いちいち、うまくいかないんだよ。「どうして、そういうことを言うのかなぁ」ということを言って、ゆずらない。こまるんだよ。そういうこと、ばかりなんだよ。親父は頭がおかしいから、へんな基準で、動いている。そして、一度スイッチが入ると、絶対の意地でやってしまう。こっちがかかわっていることでも、おかまいなしだ。きちがい兄貴も、ヘビメタを思いっきり鳴らしたいというスイッチが入ってしまったんだよ。自分が鳴らしたいだけ、自由に鳴らす……ようにしようというスイッチが入ってしまった。そうしたら、聞かない。きちがい的な意地でそれをやり続ける。殺さなければ、やめさせることができないのだ。その場で、問答無用で、殺さなければ、相手の行動をとめることができない。相手というのは、この場合、きちがい兄貴ときちがい親父だ。これ、スイッチが入ってしまったら、殺さなければとめることができない。そういうことを、相手に突き付けてくる。この場合の相手というのは、俺だ。主に俺のことだけど、その他の人のことも含んでいる。相手というのは、親父にとって、相手のことだ。そして、相手というのは、兄貴にとって、相手のことだ。とめようとする相手のことなんて、これっちぼっちも考えないのである。自分の気持ちだけで、つっぱしってしまうのである。そして、特集な頭の構造により、相手の気持ちは考えてもいいということになっているし、特殊な頭の構造により、ほんとうに、どれだけ本人が考えようとしても、考えられないのである。本人が相手の気持ちを考えているときは、相手の気持ち考えていないときなのである。ともかく、きちがい兄貴やきちがい親父が、相手の気持ちを考えることができるかというと、できないのである。考えるとすると、特殊な構造をもった頭で考えることになるのだけど、それは、特殊な構造をもった頭で考えることになるので、普通の意味で相手の気持ちを考えるということができないのである。たとえば、だれかが親父や兄貴を説得して、「相手の気持ちを考えるようにしたほうがいい」と言ったとする。けど、考えるとなると、親父は親父の頭を使って考えるわけだし、兄貴は兄貴の頭を使って考えるわけだから、けっきょく、相手の気持ちを考えることができないのである。けど、考えることができなくても、「相手の気持ちを考えるように言われて」本人が、考えたつもりになってしまうことがある。あるけど、そのときも含めて、じつは考えていないのである。ものすごく、自分勝手な方法で、考えているわけだけど……相手の気持ちを考えているのだけど……それは、けっきょく、相手の気持ちを考えていないことになってしまうのである。本人が、「考えるつもりになって」考えた場合の相手の気持ちと、普通の人が……あるいは、説得している人が、思い浮かべるそのような状態とは、ぜんぜんちがうのである。親父の頭の中にある「相手の気持ち」というのは、「相手の気持ち」ではないのである。かすりもしない。兄貴の場合も同様だ。かすりもしない。だから、普通の人は、……あるいは説得している人が……考える「人間のイメージ」とはちがうのだ。根本から、頭の構造がちがう。だから、本人(親父や兄貴)が、どれだけ「考えよう」と思って考えられないのである。特に、スイッチが入って、自分の気持ちでいっぱいのときは、考えられないのである。けど、普段でもそういうところはある。特にスイッチが入っていない場面でも、そういうところは、ある。親父や兄貴には、ある。けど、いっしょに暮らしている人でなければ、特に、こまらないのであ。その都度、ぶつかることはあるかもしれないけど、いっしょに暮らしているのと、いっしょに暮らしていないのとでは、雲泥の差がある。だから、一般の人は、きちがい兄貴の頭の構造や、きちがい親父の頭の構造を無視して、俺に!アドバイスをしてしまうのである。ところが、どれだけアドバイス通りにしても、うまくいかないのである。「言えば言ったことが現実化する」「思えば、思ったことが現実化する」と言うけど、言っても、言ったことが現実化しないし、思っても思ったことが現実化しないのだ。親父や兄貴に関することは、言っても現実化しないし、思っても現実化しない。ところが、そういう精神世界の人は「言い方の問題だ」「思い方の問題だ」と問題をすり替えしまうのである。あるいは、一般の人は、ぼくの説得力のほうに問題があると、問題をすり替えてしまうのである。だから、特殊な構造をもっている頭について考えると次のようなことが言える。特殊な家族と一緒に住んでいる人は、一般人に、不可避的に誤解をされる。一般人は、一般人で、自分が誤解をしたとは思わないということがしょうじる。

2025年10月9日木曜日

●まったく一秒も鳴らしていないときとおなじ、認識をもてるのだ■騒音※2025/10/09 3:58

 ヘビメタ騒音なしで生きたかった。ヘビメタ騒音なしであの子と、つきあいたかった。ヘビメタ騒音で汚染されているダメなのである。あのとき、すでに、ヘビメタ騒音に汚染されていた。ヘビメタ騒音に汚染されて七年がすぎていた。七年……。ながい……。ながい……。七年間毎日続くということが、どういうことなのかわかっていないやつが……『関係ない』と言う。ほんとうに、ぶんなぐってやりたいほど頭にくる。だいたい、「さぼろうとしている」としているという文脈で、理解しようとするやつらは、くそだ。「ヘビメタ騒音なんて、関係がないのに、関係があると言って、さぼろうとしている」と思っているわけだ。だから、『関係ない』と言うわけだ。ほんとうに、ふざけている。どれだけきつい毎日か、まったくわかっていない。どれだけ汚染されないように気をはっても、けっきょく、どろどろに汚染される。これが、わかっていないのである。ヘビメタ騒音が鳴っているときだけくるしいわけじゃないのである。ヘビメタ騒音が鳴っているときもくるしいけど、ヘビメタ騒音が鳴り終わったあとも、ずっと、くるしいのである。そして、不可避的に、睡眠時間と睡眠の質に影響をあたえる。睡眠時間と睡眠の質は、脳みその働きに影響をあたえる。そして、一番深い眠りになったとき……起こされるということが、これまた、つらいのである。そのつらさを、がまんして、無理やり体を動かしているときの切迫感が半端じゃないのである。きちがい兄貴は、全期間じゃないけど、四年間ぐらい、朝も、ヘビメタを鳴らしていたのだ。一五分ぐらいだけど、学校に持って行くものを探しているときに、鳴っていることになるから……昨日の分も含めて、破滅的な気分になるのである。殺したくなるのである。殺して、やめさせたくなるのである。当然、忘れ物が増える。そして、忘れ物のトラブルが増える。エイリというやつは、忘れ物をしやすいダメなやつだというイメージが、ほかの人の頭に残ってしまう。そして、実際に、トラブルもあるわけだ。だって、必要なものがないわけだから……。それをどうにかしようとすると、また、トラブルが発生するのである。そして、家に帰ると、きちがい兄貴のきちがい騒音が、けたたましい音で、鳴っているのである。「いいかげんにろ」「学校でこういうことがあった」「忘れ物が増えるから、鳴らすな」「眠れなくなるから鳴らすな」「勉強をするから鳴らすな」と言っても、きちがい兄貴が、腹をたてて、鳴らしてしまうのである。やめてくれないのである。どれだけ言っても、やめてくれない。きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、否定して、鳴らす。きちがいだから、それだけこだわってこだわってこだわって、きちがい的な意地で鳴らしても、鳴らしたつもりがないのだ。これ、言いにくいことなんだよな。これ、説明しにくいことなんだよな。そして、当のきちがい兄貴が、一番わかっていないのである。こういう、しくみが成り立っている。このしくみは、きちがい兄貴にとってだけ都合がいいしくみなんだよ。こういうしくみが成り立っている……兄貴の側にこういうしくみが成り立っているということを理解しないやつらが……「そんなのは、ちゃんと言えば(お兄さんは)わかってくれる」と言う。「ちゃんと言わないからダメなんだ」と言いやがる。おまえらがわかってないだけだろ。こいつらがわかってないだけなのだ。こいつらのわからない度合いを一〇だとする、きちがい兄貴のわからない度合いが一〇万ぐらいなのだ。本人のことなのに、本人が一番わかっていない。一番わからないしくみと言うのも、同時に成り立っていて、そのしくみのおかけで、なにも、心配しないで鳴らすことができるのだ。どれだけ、やったって、やってないのとおなじなのだ。まったく一秒も鳴らしていないときとおなじ、認識をもてるのだ。頭がおかしいからそうなんだよ。

2025年10月8日水曜日

●だれが言っても、現実化するのである■言霊※2025/10/08 19:46

ここでは何回も書いているけど、言ったことが現実化するなら、別に、こまっている本人が言わなくてもいいんだぞ。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、家族の騒音で睡眠時間が短くなって、元気がない状態でくらしている。Bさんは、言霊主義者で、「言ったことが現実化する」と強く思っている。

なので、BさんがAさんに「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言ったとする。この場合、Bさんが、Aさんに、そのように言うことを、すすめているのである。

けど、「言ったことが現実化するなら」……別に、Bさんが言ったっていいわけだ。ようするに、「三秒以内に、Aさんが元気になる」とBさんが言ってもいいわけだ。

Bさんが言っても、言ったことが現実化するので、Aさんが、三秒以内に、元気になるということになる。そうだろ。それ以外ないよな。

ところが、言霊主義者であるBさんは、言霊の力で、Aさんを元気にしてあげるつもりはないのである。

これは、実際には言霊の力を信じていないから、そうなるのである。

時間制限をつけないで言うのは、時間制限をつけると、「嘘」であることがばれてしまうので、時間制限をつけないのである。

人生のなかで、「いつか」Aさんが元気になれば、「みろ、言った通りだろ」とBさんが言えるようになる。「いつか」Aさんが元気になることは、ある。

リターン可能期間以内に、きちがい家族の騒音がなくなって、普通に暮らせるようになるかもしないのだ。けど、それが、言霊の力でそうなったのかというと、ちがうのである。

けど、「いつか」であれ、元気になったら、「言った通りになった」とBさんは思うのである。

だから、時間制限をつけなければ、「そうなる確率」はあがるのである。

けど、Aさんは、いまこまっているのである。

いますぐ、問題を解決したいのである。いますぐ、問題を解決できるなら、今すぐ問題を解決したほうが、ずっといいのである。「いつか」ではなくて、「三秒以内」のほうがよいのである。

言霊主義者が、無視をしているのは相手の状態なのである。相手の状態を考えるということが、不得意なのだ。それは、幼児的万能感と自己中心性のなせるわざだ。

ともかく、言霊主義者にとっては、「言えば、言ったことが現実化する」というのは、信念として正しいので、言霊主義者のなかでは「元気だと言えば元気になる」ということは、正しいことなのである。

「言えば、言ったことが現実化する」のだからBさんが「Aさんは、三秒以内に、元気になる」と言えば、Aさんは、三秒以内に元気になるのである。

実際には、Bさんは、Aさんの実情を無視して、むりなことしか言っていないのに、Bさんは、Aさんに助言をしてやったと思うのである。「言い解決方法を教えてあげた」と思うのである。

そして、Aさんが「元気だ」と言っても、元気にならなかった」と言った場合は、Aさんの言い方に問題があるとBさんは、言うのである。

言い方の問題ではないのである。

言い方の問題なのであれば、Bさんがその場で「Aさんは、三秒以内に、元気になる」と言ってあげればよいのである。その場合、Bさんは、自分の言い方が悪いということに気がつくことになるだろう。

そういうことも、なんとなくわかっているので、Bさんは、AさんにAさんが言うように助言をするというやり方しか選択しないのである。

言霊主義者というのは、相手に対して言うときは、相手が言って解決するべきだということを言うのである。

しかし、「言えば、言ったことが現実化する」ということが、正しいのであれば、だれが言っても、現実化するのである。

Aさんのかわりに、Bさんが「Aさんは元気になる」と言えば、Aさんは元気になるのである。ところで、Aさんは、「よし、つかれはてるぞ」と思って、「つかれる」と言ったわけではないのだ。

家族の騒音で睡眠不足になって、つかれはてているのだ。

原因は、Aさんがつかれていないときに「つかれた」と言ったことではないのだ。Aさんがつかれていないときに、「つかれた」と言ったから、言霊の力によって、Aさんがつかれたわけではないのだ。

ちゃんと、別の理由があるのだ。

別の理由というのは、言霊以外の理由ということだ。この理由を、原理的に、言霊主義者は、無視してしまうのである。そして、勝手に「つかれた」と言うから、つかれるのだときつめつけてしまう。

「つかれた」と言うから、つかれるのだから、「元気だ」と言えば、元気になるのである。……こまった、考え方だ。

ともかく、「言えば、言ったことが現実化する」という文のなかには、主体に関する制限がないのである。主体に関する制限がないと言っても、主格に関する制限がないと言っても、おなじだ。ちょっと意味はことなるけど、「主語」に関する制限もないのである。

発話する主体が、どういう主語を選ぶかについては、まったく制限がないのである。発話する主体に関する制限もないし、時間に関する制限もない。

ようするに、だれが言ってもかまわないし、制限時間をつけていってもかまわないということだ。

だから、理論通りなら、Bさんが「三秒以内に、Aさんは元気になる」とBさんが言えば、それで、Aさんは元気になることになるのである。正しければ……。正しくないので、元気にならないことのほうが多い。

時間的な近接の問題がある。時間的に近接していると、言霊主義者が「言えば、言霊の力で、言ったことが現実化する」と誤解をしてしまうのだ。なにとなにが時間的に近接しているのかというと、「言ったという出来事」が起こった時間と、「言った通りになったという出来事」が起こった時間が近接しているということだ。

「言えば、言ったことが現実化する」という言葉のなかには、「言霊の力で」という文字列が含まれていない。「言えば、言ったことが」ほかの力によって現実化する場合があるのだ。

これを、言霊主義者は「言霊の力で現実化した」と思ってしまうのだ。

だから、時間的に近接している場合は、言霊主義者が誤解をしてしまうのである。

「言ったという出来事」と「結果の出来事」が時間的に近接している場合は、「言えば、言ったことが現実化した」ということになってしまうのである。「言えば」の「ば」の扱いが問題になるのだけど、それは、むかし書いたからここでは、省略する。

時間的に接近していれば「言えば、言ったことが現実化する」と、言霊主義者が認識してしまうのだ。その場合、言霊の力で現実化したわけではないのだけど、いちおう、文としては意味が通るということになってしまう。

時間的に接近しているだけなのだけど、両者の間に因果関係があると思ってしまうのだ。両者というのは、言ったという出来事と文字列の意味内容をしめす結果になったという出来事のことだ。文字列というのは、そこで発せられた言葉のことだ。

ともかく、言霊主義者は、こまっている相手のかわりに、自分が「言うことで」問題を解決しようとはしないのだ。かわりに、相手が言うことで問題を解決することができるということを言う。

そうすると、相手の言い方が悪かったから、言霊の力が発動しなかっただけだというような言い訳をすることができるからだ。「言霊の力はある」し「言霊理論は正しい」けど、相手の言い方が悪かったから、言った通りにならなかったのだということを言える余地ができる。

自分が、言ってしまった場合は、自分の言い方が悪いということを認めることになるのである。自分の言い方が悪かったから、現実化しなかったということになってしまう。言霊主義者としては、それはさけなければならないことなのだ。

「自分は言霊の力を使える」という前提でものを言っているからだ。「自分は言霊の力を使える」という前提で「言えば、言ったことが現実化する」と言っているからだ。

けど、言えば言ったことが現実化するのだから、言い方がどれだけへたくそでも、言えば、言った内容が現実化するのである。

もう、書いたことだから、詳細に説明するようなことはしない。

しかし、もう、その時点で、だめなのだ。「言い方が悪いのだ」と言った時点で、言霊主義者は、気がつかずに、敗退している。ほんとうは、矛盾しているのだけど、言霊主義者は矛盾に気がつかない。

ともかく、言霊主義者は、「相手にやらせて」相手の言い方が悪かったから、現実化しなかったのだということを言うのである。

時間的に接近しているので「相手」が言霊の力で、問題を解決できたと「誤解をする」場合は、言霊主義者にとってはハッピーなことだから、それでよいのである。

2025年10月7日火曜日

●「(対象者が)さぼろうとしている」という考え方■言霊※2025/10/07 17:03

たとえばの話だけど、名前だけ店長に、「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」というようなことを言うやつらというのは、どういうやつらかということなんだよ。

こいつらが、無視をしているのは、名前だけ店長が、じゅうぶんに「やってきた」ということなんだよ。

名前だけ店長は、むりをして、一五年間、働いてきた。

ところが、「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」というようなことを言うやつらは、それを無視している。一五年間、働いてきたということを無視し、一五年間働いたからこそ、たまっている疲労を無視してしまうのだ。

「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」というようなことを言うやつをAさんだとする。Aさんは、名前だけ店長の状態を無視しているのである。

ようするに、Aさんからすれば、名前だけ店長は、働けるのに「もう、むりだ」と言っているやつなのだ。

ところが、Aさんが歳をとると、「もう、むりだから、引退しよう」などと言いだす。

いやーー。「あまえるな」と言いたくなる。

「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」とAさんに言いたくなる。

Aさんのようなやつは、いっぱい、いる。

他人の身に起こったことは、過小評価したり、無視して、自分の身に起こったことだけ、重視するというやつらが、いっぱーーーい、いる。

そして、こいつらは、みんな、「無視をした」ということがわかっていないのだ。どこまで、自己中。どこまで、都合よくできているのか。一〇〇〇人に九九九人が、こういうレベルの人間なのだ。

Aさんのような人間には、名前だけ店長がやってきたことが見えないのだ。名前だけ店長の疲労が見えない。「俺だってつかれている」とひとこと言えば、名前だけ店長の疲労と自分の疲労が同等だということになってしまう。

名前だけ店長の疲労が見えないので、名前だけ店長が、あまえたことを言っているように見えるのだ。

名前だけ店長の疲労が見えないので、Aさんは、名前だけ店長が、「ちょっと疲れただけで、さぼろうとしている」と判断してしまう。この「名前だけ店長が、ちょっと疲れただけで、さぼろうとしている」という判断が、明言される場合と、明言されない場合がある。

しかし、明言されない場合も、「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」という発言の背後には、この考え方が、かくれている。

「名前だけ店長の疲労なんてたいしたことがない」と、Aさんは判断しているのだ。また、「名前だけ店長がさぼろうとしている」と、Aさんは思っているのだ。

だから、「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」と言って、名前だけ店長を働かせようとする。たいした疲労じゃないのに「できない」と言ってさぼろうとしていると、Aさんは、こころのなかで思っている。

何度も言うけど、Aさんにとっては、名前だけ店長の疲労なんてたいしたことはないのだ。ちょっとやる気を出せは、できるのに、「できない」とあまえたことを言っているだけなんだと、Aさんは、名前だけ店長を見て、思っているのである。 

しかし、自分のことになると、自分の疲労は自分にとって明確なので。「もう、むりだ」とAさんは、自然に考えることができるのである。

自分の場合は、「事実、ある疲労」で、他人の場合は、「事実、ない疲労」なのだ。

Aさんの目から見ると、名前だけ店長の疲労は、見えないので、Aさんは、常識思考をして、名前だけ店長がさぼろうとしている」と思ってしまうのだ。

名前だけ店長は、「さぼろうとしている」と思われたことが、いやなのだ。「さぼっていると思っている」ということが、明言されていない場合にも、「さぼろうとしている」と思っているということは、うすうす、わかる。

「むりだと言うからむりなんだ」「できると言えばできる」という発言の背後にある考え方は「(対象者が)さぼろうとしている」という考え方だ。

日ごろの体感というのがものを言うのだ。

自分の体感だ。自分が日常生活の中で感じることが重要なのである。自分の体感は、いやおうなく、感じてしまう。この体の感覚をもとにして「できる」とか「できない」ということを考えているのだ。

自分が自然に感じる、自分の体感をもとにして……「このまま続けるのはむりだ」とか「まだまだ、いけるだろう」とかということを考えているのだ。

自分のことであれば、「もう、むりだな」とわかることがある。

「ずっと、はりつめてがんばってきたけど、もう、むりだ」と感じる瞬間が、(人には)あるわけだ。この瞬間が増えて、増えて、「ほんとうに、もう、むりだ」と思ったから「もう、むりだ」と(人は)言うのだ。

名前だけ店長の場合も、名前だけ店長は、名前だけ店長の体感をもとに、その言葉を言ったわけだ。

けど、Aさんには、名前だけ店長の「体感」なんてないのである。だから、名前だけ店長の体感を、Aさんは無視できるのである。

Aさんが高齢者になって「もう、むりだ」と感じた場合は、自分の体感なので、Aさんには、わかるのである。

ただ単に、自己中で、他人のことがわからないので、Aさんは、「名前だけ店長がさぼろうとしている」と判断してしまうのだ。 

*     *     * 

名前だけ店長の場合は、残業というわかりやすいことなのだ。しかも、働いている。

仕事で、つかれている。これも、理解しやすいことだ。

ところが、きちがい家族による、よその家ではありえない騒音となると、理解度がさがるのである。きちがい家族による騒音なんて問題をかかえている人は少ない。残業よりもはるかにわかりにくいものになる。

残業ですら、無理解ぶりを発揮するやつらが、きちがい家族による「ありえない騒音」のことなんて、ちゃんと理解できるわけがない。

そうなると、「そんなのは関係がない」と言いやすくなるのである。こいつらの理解度は、非常に低い。自分のことでなければ、深刻さがわからないのである。

自分のことでなければ、どれだけ影響をうけるか、ぜんぜんわからないのである。

だから、「そんなのは関係がない」「影響なんてない」と(人は)考えてしまうのだ。

影響がないなら、ほんとうは、影響がないのに、「エイリさんが、騒音のせいにしている」と(人は)思う。ほんとうは、影響がないのに「エイリさんが、さぼろうとして、騒音のせいにしている」と(人は)思ってしまうのだ。

*     *     *

人がどう思うかなんて、関係がない?

いやーー。「俺が、さぼろうとして、言い訳をしている」と思っているのは、こいつらなんだよ。

きちがい家族が、頭がおかしいから、自分の欲望にしたがって、よその家では絶対に一分だって鳴らせないようなでかい音で、ヘビメタを鳴らす。

そして、ぼくは、ヘビメタの音が大嫌いなのだ。

ものすごく、苦手なのだ。

あんなのが、至近距離でガンガン鳴っていたら、解ける問題も、解けなくなってしまう。

鳴ってなければ……長時間さらされていなければ、普通に眠れるのに、どうしても眠れなくなってしまう。ようするに、勉強においても、睡眠においても、影響をうける。

けど、きちがい家族にやられていない人間が『そんなのは、関係がない』『影響なんてうけない』と信じ込んでいるのだ。

そして、それを前提に「俺がさぼろうとしている」と言うのだ。「あまえたことを言っている」と言うのだ。「言い訳をしている」と言うのだ。屈辱だろ。なんで、これが屈辱じゃないんだ。

しかも、そういう屈辱的なことを言ったやつが、おなじくちで、「人がどう思うかなんて気にしなければいい」と言うのだ。こんなのない。

*     *     * 

ヘビメタ騒音の影響を認めないということは、ヘビメタ騒音の影響で、「できなくなる」ということを認めないということだから、問題が発生する。

こいつらが、こともあろうに、俺のことをバカにしてくるのだ。こいつらだって、自分が苦手な音でおなじことを体験すれば、眠れなくなる。

毎日、続けば、毎日、影響をうける。

不可避的に、長期的な影響が出る。その影響の結果、睡眠障害になり、生活体力障害になり、通勤できなくなる。

けど、ヘビメタ騒音の影響を認めないわけだから、通勤できなくなるということも認めないということになる。

「そんなのは、あまえだ」と言ってくるようになる。「できないなんてことはない」と言ってくるようになる。ただ単に、自分が、きちがい家族といっしょに暮らしていないから、きちがい家族が『やる』騒音にさらされていないだけなのに、それがわかっていないのだ。

自分だって、苦手な音に、さらされ続ければ、通勤できない体(からだ)になる。

通勤できない体(からだ)になり、友達づきあいが減っていけば、ひきこもりということになる。

障害を障害と認めれば、社会的な引きこもりにはならないのだけど、そういう線引きだってあいまいだ。

きちがいヘビメタ騒音の影響を認めなければ、勝手に、引きこもりになったと認識するのだ。彼ら……頭が悪いやつらが、俺のことを、勝手に引きこもりになった人間だと認識する。

そうすると、彼らは頭が特別に悪いので、俺のことを見下してくるのだ。

かくして、きちがいにやられて、バカにバカにされるという状態ができあがる。

頭が悪いから想像力がなく、ヘビメタ騒音の影響を無視してしまうのである。経験がないから、ヘビメタ騒音の影響を無視してしまうのである。

経験がないからわからないというのは、まあ、あたりまえのことだけど、経験がないということを、想像力でおぎなうことができないのだ。

自己中でバカだから、『影響はない』と思ってしまう。ところが、影響はある。

*     *     * 

きちがい兄貴がかわかった人なんだよ。だから、きちがい兄貴のような家族が(家の中に)いる人がすくない。そして、きちがい兄貴のような家族が、囲碁ではなくて、ヘビメタに興味をもってまう家族の人というのは、もっと少ない。レア中のレアなのである。だから、あるていど想像力がある人でないと、「自分だったらどうなるか」ということが、想像でない。あるいは、「自分のきらいな音が、それだけ長く、それだけでかい音で鳴っていたらどうなるか」ということを想像できない。想像力がないから、まったく想像できないのだ。

そして、たとえば、言霊思想のようなものをもっていると、「言えば言ったことが現実化するのだから、できると言えばできる」と考えてしまう。言霊主義者の理論的な誤謬については、ここでずっと語ってきた。けど、ここで語ってきたことを、言霊主義者に理論的に説明しても、たいていの言霊主義者は、わからないのだ。はねのけてしまう。「難しいことはまちがっている。簡単なことが正しい」と言ってくる。ようするに、うけつけない。はねのける。このはねのけた状態というのは、きちがい兄貴が「しずかにしてくれ」と言われて、はねのける状態と、ちょっと似ているのだ。

ともかく、世間の人は、それだけ長い間、きちがい家族に「自分の苦手な音」を爆音で聞かされたという体験がない。なので、わからない。実際にどうなるのかということについては、わからないのだ。だから、そこで、想像力がたいせつになる。たいていの人は、ぼくが経験したレベルの騒音については、あんまり、うまく想像することができないのだ。だから、想像できない人は、『ヘビメタ騒音の影響』を軽く見ることになる。「そんなの、関係、ない」「ヘビメタ騒音なんて、関係がない」と言ってくる。

きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的にでかい音を鳴らして、生活をするということと、世間の人がそんなの、関係、ない」「ヘビメタ騒音なんて、関係がない」と言って、俺を軽蔑してくるのが、セットなんだよ。これ、セットなんだよ。

どうしてかというと、世間の人には「ヘビメタ騒音の影響」が見えないから。「そんなのは、関係がない」と考えるから……。しかし、不可避的に関係がある。 

 

2025年10月6日月曜日

●「でかい音で鳴らしていない」■騒音※2025/10/06 20:33

  親父の考え方というのは、うちにあるものは、うちにあるのだから、買う必要がないという考え方なのだ。その場合、たとえば、「ハンダゴテ」というものがあるすると、うちに「ハンダゴテ」があれば、どんなハンダゴテだって「買う必要はない」と思ってしまうのだ。そして、どれだけ、電子工作では、うちにあるハンダゴテは使えないということを(こっち側が)説明しても、親父は、「ハンダゴテならハンダゴテだ」という考えにこだわって、認めないのである。親父が「はんだ小手ならハンダゴテだ」という考えにこだわるのは、理由がある。「うちにあるハンダゴテは、電子工作には使えないハンダゴテだ」ということを認めてしまうと、電子工作用の(新しい)ハンダゴテを買う必要がるということを認めてしまうことになる。これが、死んでもいやなのである。死んだって、認めたくないことなのである。だから、理解できる知能は関係なく、「使える!!使える!!使える!!使える!!使える!!使える!!」と絶叫して、絶対に使えないということを認めない状態になる。これ、ほかの人には、まったくわかっていないだろうけど、「いのちがかかっている」ことなんだよ。「まけて」……ハンダゴテを買ってやったら、死んでしまうほど、腹がたつんだよ。相手の言っていることを認めて、「たしかに、このはんだごては使えない。荒らしいハンダゴテを買ってやろう」ということにはならないの……。ならないのーー。ちなみに、こういうときの、親父の態度というのは、兄貴の態度とおなじなのである。兄貴は兄貴で、自分が思った通りの音で「がんがん」ヘビメタを鳴らしたいと思っているわけ。だから、どれだけでかい音で鳴らしても、「普通の音で鳴らしている」と思いたいわけだ。もし、「でかい音で鳴らしている」ということを認めてしまったら、しずかにしなければならなくなる。音をさげなければならなくなる。それが、死んでも、いやなのだ。だから、絶対に認めてやらないモードになる。基本的には、聴覚が正常なら、絶対に、でかい音で鳴らしているということがわかるはずなんだよ。けど、自分が、思いっきり鳴らしたい」という気持があると、「でかい音で鳴らしているというとを認めるのは、いやだ」ということになる。だから、実際に、ものすごくでかい音で鳴らしているのだけど、自分の音だけは……聴覚に関係なく……「普通の音だ」ということになってしまうのである。これが、催眠術のように働いてしまうのだ。これが、起きていて、たしかに、自立して動いている状態だから、ほんとうは、「わかるはず」なのだ。でかい音で鳴らしているということが、わかるはずなのだ。けど、命にかけて認めないのである。そして、命にかけて認めないという部分が、無意識的な部分なので、意識のほうは、あずかり知らないことなのである。だから、きちがい兄貴の態度は、特殊なものになってしまう。実際に、きちがい兄貴は、ヘビメタ騒音程度の、別の音が鳴れば「うるさい」「うるさい」と思うのである。けど、自分が「思いっきり鳴らしたい」というドライブがかかっている「ヘビメタ関連の音」だと、無意識的に、「普通の音だ」と感じてしまうのである。だから、つねに、「まるだしで」でかい音で鳴らしているのに、つねに、「すっとぼけて」でかい音で鳴らしていないという意識になる。その意識のまま、暮らしている。実際に、殺されることがないので、そのまま生きているのである。そうなると、絶対にゆずらない状態で、「よその家ではありえないような音で」連続的に鳴らしているのに、本人は、まったく「でかい音で鳴らしていない」という意識的な意識が成り立つことになる。無意識的な意識のほうで、「でかい音で鳴らしている」ということを認識でないようにしてしまっているのだ。実際に、耳が正常なら、「ありえないほど」ででかい音で鳴らしているのに、それがわからない状態なのだ。だから、きちがい兄貴は、弟である俺に迷惑をかけているつもりがないということになる。やっているあいだ、ずっと、迷惑をかけているつもりがないのだ。

●「やってやる・やってやる」攻撃をするのだ■家族※2025/10/06 7:29

きちがい親父の「やってやる、やってやる」攻撃というのは、恩を着せるためではない。親父の場合は、「自分はできるんだぞ」ということを、認めてほしいだけなんだよ。これが、強烈で、「恩着せおばさん」の比じゃない。発狂して、絶対に自分の意地を通してしまう。だから、幼児時代からそうなんだよ。俺が幼児のときから、親父はそういう人間なの。でっ、これがいろいろなところに、影を残しているんだよ。それから、心理的な機制があるわけだから、一回や二回じゃないのだ。そりゃ、きちがい親父のなかで「やってやりたくなったら」絶対にやってやらなければ気がすまない状態になる。ほんとうに、きちがいなんだよ。こういうタイプの、いざこざが、たえない。きちがいが発狂して、きちがいの意地を通す。やられてしまったほうの気持ちというのは、ぐちゃぐちゃだ。これ、殺人事件に発達してもおかしくないテンションなんだよ。子どものからだがじゅうぶんに大きかったら、殺人事件に発達する。きちがい親父の場合、きちがいだから、そういうところですべて、でこぼこなのである。頭がおかしいことを、頭がおかしいレベルの意地でやってしまう。

いちいち、うまくいかないのである。普通だったら、「やらなくていいです」と言えば、それで済むところが、殺人事件に発達するところまで進んでしまう。幼児だと、断りきるとができないので、やられちゃうのである。

子どもが、プラモデルをつくっているとする。そうすると、「自分のほうがうまい」「自分のほうがうまいというところを見せてやる」と親父が思ってしまう。そうすると、「やってやる・やってやる」攻撃が始まる。頭がおかしいから、「やってやると言っているだろ」と何十回も発狂して言う。真っ赤な顔をして、どなりちらす。これ、やらせてあげなかったら、なぐられてしまうような状態なのだ。これ、「やらせろやらせろ」と言って、聞かないんだよ。相手がどう思っているのかということ、まったく問題にならない。これが、工作の宿題で発揮されるとこまるのだ。板に、くぎを打って、糸をかけて、糸で絵をかくというような工作の宿題があった。それで、庭で、ぼくがその宿題をやっていたのだけど、きちがい親父に見つかってしまう。そうしたら、「自分のほうがうまい」「自分のほうがうまいというところを見せてやる」と親父が、強迫的に思って、脅迫をしてくる。「やってやる・やってやる」攻撃をするのだ。やらせてあげないと、殺されるので、しかたがなく、やらせてあげタリス。そうすると、これがまた、「親に宿題をやってもらった」とか言うやつが出てくる。こういうトラブルばかりなんだよ。ちなみに、プラモデルのときは、きちがい親父かうまく、接着剤で、部品をつけらなくて、ひどい状態になってしまったのだ。これ、無理やりとられて、こわされたような状態なんだよ。こころが、めちゃくちゃになるんだよ。けど、きちがい親父は、そういうことがまったくわからなくて、「どうだ、すごいだろ」「うまいだろ」と思っている。これ、「プラモデルの設計図とちがうだろ」ということを、言うと、「ならこうしてやる」と、またへんなふうにされてしまう。まるでわかっていない。けっきょく、つくっている途中のプラモデルをとられて、こわされてしまうのだ。接着剤の部分失敗したら、きたなくなってしまうんだよ。修正液はもってなかった。だいたい、修正液があっても、自分が失敗したわけじゃないのに、修正液で修正しなければならなくなる。で、もちろん、最初から、自分できれいにやったほうが、きれいなんだよ。修正液で修正しても、ちょっと、きたない部分ができてしまう。きちがい親父が、竹を植えたときも、おかあさんが、「竹なんか植えないで」とと必死に鳴っ訴えかけているのに、やってしまう。そうしたら、「うまく、植えられただろ」「ほめてほめて」と言ったりする。相手が、必死になってとめていたというのが、わからない。相手がいやがることをしたのに、相手がほめてくれると思っているのだ。親父が小さいときに、親父の両親が死んで、よその家で、虐待されて育つと、こういうところでおかしくなるのだ。けど、これまた、世間の人が、そういうことをまったく理解しないのだ。「だいの大人がそんなことをするわけがない」「それがほんとうなら、精神病院に連れて行ったほうがいい」……。精神病院に連れていけるわけがないだろ。たよれるのは、当時、大人であるおかあさんだけだけど、竹を植えることさえ、やめさせることができなかったんだぞ。そして、世間の連中はまるでわかっていないけど、おカネの問題だってあるのだ。電球ひとつのことで、発狂してしまうのだ。親父が発狂してしまう。これは、どういうことかというと、おかあさんが、お勝手の電球をかえてしまったんだよ。お勝手の電球が切れたので、手元が暗くなる。それはこまるので、おかあさんが、自分で、電球をかえてしまった。普通なら、それでおしまいだ。ところが、親父がきちがいなので、問題が発生するのである。親父としては、おカネを使われたということが、頭にくることなんだよ。でっ、会社の工場で、もう捨てるつもりの電球があるから、それをもってきてやるというようなことを主張する。これ、全部が全部、訳あり品なのだ。だから、親父が実際に持ってきた電球というのは、なんか、表面に黒い油がついているきったない電球なんだよ。ところが、親父は、それを、自分の手柄のように思っているんだよな。おカネを使って、電球を買わなければならなかったところを、自分が会社から(いらない電球)をもらってきてやったのだから、すごいことなのだ。お手柄なのだ。そういう、発想なんだよ。これも、わからないだろ。世間の人はわからないだろ。親父にとって、自分が(いらない電球を)持ってきてやれるのに、電球を買われたということが、発狂的に腹がたつことなんだよ。すべてのことで、こういうことが成り立っているの……。だれが、精神科のお金払うんだよ!! ハンダゴテ事件のことも説明したけど、ハンダゴテのことも、電球とおなじなんだよ。ちなみに、子どもの靴に関しても、電球とおなじなんだよ。適切な処置というのができないんだよ。使い古して、どうしようもなくなったら、買ってやろうなんて気持ちはないわけ。だから、おかあさんが、親父に言わないで、子どもの靴を買ってやったということが、親父にばれたら、ものすごいことになる。発狂!発狂!発狂!発狂!発狂!発狂!発狂!なんだよ。自分の心臓を黙って売られたというぐらいに、ショックなことなんだよ。親父にとっては、自分が知らないうちに、自分の金(カネ)で、子どものを靴を買われたということが、ショックなんだよ。「そんなの、まだ使える」「なんだ!なんだ!なんだ!なんだ!なんだ!」と発狂してとまらない状態になる。体中、真っ赤になる。いちいち、こういう細かいことで、発狂する。すべてが、トラブルにつながっているんだよ。すべてが、トラブルにつながる、可能性を、もっている。そりゃ、親父がこういう構えなのだから、いたるところで、トラブルが発生するのである。きちがい親父が金をもっていて、きちがい親父のほうが強いときは、もう、やりたいほうだいなんだよ。子どものからだが大きくなると、ちがってくる。ちがってくるけど、親父の中身はかわらないの……。だから、からだが大きくなった兄貴が、ヘビメタをやりだすと、文句を言えなくなってしまう。これ、そういうところもあるんだよ。言いがたいところがある。全部、普通の人が理解できない部分なんだよ。親父において、竹のときの態度と、兄貴において、ヘビメタのときの態度が、おなじなんだよ。親父と兄貴でおなじなの……。親父の竹事件は、兄貴のヘビメタ事件とおなじなの。親父の電球事件は、兄貴のヘビメタ事件とおなじなの。親父のハンダゴテ事件は、兄貴のヘビメタ事件とおなじなの。

それから、親父の場合、「やってやる攻撃」のほかに「やってやらない攻撃」がある。梃子でも動かないぞというような意地を発揮するところがあるのである。たとえば、俺が親父に「兄貴に注意してくれ」と言ったとする。そうすると、梃子でも動かないぞというとになるのである。そういうスイッチが張ってしまう。「ぜったいにやってやらない」というところで、踏ん張るのである。そういうところで、いちいち、でこぼこなんだよ。竹がぴょーんと通り道のところに、のびてきたとする。そうすると邪魔なんだよ。特に雨がふったあとは、竹がぬれているので、自転車をひいて、そこの通り道を通ろうとすると、背中がぬれるわけ。だから、不便を感じるわけ。で、勝手に、親父が植えた竹を切ってしまうと、また、電球事件みたいなことになったり、子どもの靴事件みたいなことになるから、切れないんだよ。おかあさんが勝手に切れないの。だから、「竹がのびてきてじゃまだから、切って」とおかあさんが親父に言ったとする。そうすると、「やってやらない攻撃」がはじまるのだ。やってやらないほうに、スイッチが入って、梃子でも動かないぞということになる。すべてが、こんな調子なんだよ。細かいことで、すべてがこの調子なんだよ。

これ、たとえ、きちがい親父が起こらないところがあったとしても、そんなのはわからないわけ。きちがいだからな。きちがいの基準なんてわかるわけがないだろ。そうなると、いたとるころに、地雷があるような状態になってしまうんだよ。だから、それを「すべてがこの調子だ」という言葉で表現しているんだ。けど、「すべて」というのは、すべてではないから、イ・ラショナルだ(非・理論的だ)ということを言うやつらがいるわけ。けど、実際に、きちがい親父が発狂した場合、それは、地雷を踏んだということになる。どれが地雷かわからないのである。比喩的に言えば、空間地雷みたいなものがあるのである。きちがい親父が、きちがい的な理由で、好きなように爆発できる状態なんだよ。俺が子どものころというのは、そうだったんだよ。きちがい親父の「こころの構え」が、いままで述べてきたとおりのものなのだから、条件が当てはまれば、すべて場合において、爆発するということになるんだよ。親父のなかにしか、条件がないんだよ。親父のきちがい脳みそが、条件を決めているわけ。だから、親父以外の人にはわからないんだよ。実際に、きちがい親父が怒り狂ったことに関しては、すべて、いま述べてきたような心理的なしくみが成り立っている。空間において、どこに地雷(機雷)あるのかということに関しては、そのときのきちがい親父以外は、わからないのである。実際にそのタイプのもめ事が起こった場合、すべての場合において、親父の(今まで述べてきたような)心理的なしくみがかかわっているのである。

「すべて」というのは、すべてではないから、イ・ラショナルだ(非・理論的だ)ということを言うやつらが、言いたいことは、すべての場合において起こるわけではないから、気にする必要はないということなんだよ。けっきょく、そこにつながってしまうわけ。「気にする必要がない」というところにつながってしまうわけ。けど、それはむりなんだよ。きちがい親父のようなしくみをもっているやつが、きちがい的な理由で、ぶつかってくれば、気になるんだよ。そうなる頻度が多いので……気になるんだよ。実際にもめ事が起こったあとになってわかることなのだけど、こういう特殊な、もめ事に関しては、すべての場合において、きちがい親父の側の、きちがい的な脳みそのしくみがかかわっていることなんだよ。親父の側の、普通の人にはない、特殊な心理的なしくみが、かかわっていることなんだよ。

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「恩着せおばさん」に関しては、ちょっと、ここでは書いていないことなので、わけがわからないと思うけど、「恩を売る」つもりで「やってやる・やってやる」と言ってくるおばさんのことだ。親切にしてやって、あとで、都合よく支配するつもりでいるわけ。「恩着せおばさん」も「きちがい親父」も「やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる・やってやる」と言って聞かない。 強度は、きちがい親父のほうがずっと強い。これ、殺さないと。黙らせることができないのである。殺さないと、きちがい親父がやってやると思っていることをやられてしまうのである。きちがい親父を殺さないと、阻止できないのである。そういう、テンションの高さだ。程度だけを問題にするなら、「恩着せおばさん」のほうがずっとやさしい。語調は強くなるけど、言って排除できる。きちがい親父の場合、どれだけ強く言っても、むだ。殺さなければ、やられてしまう。そういうテンションの高さなんだよ。きちがい親父がきちがい親父でなければ、そんなことにはならないんだよ。「やらないで」とひとこと、言えばそれですむんだよ。いちいち、殺人沙汰の問題にならなくてすむ。どんだけ小さいことだって、殺人沙汰の問題になる。


 

2025年10月5日日曜日

●がんばってきたから、もう働けない状態になっている■社会※2025/10/05 22:22

愚痴を言わずに、どんだけがんばっても、通勤できない体(からだ)になるんだよ。通勤できない体(からだ)になると、上記のようなことを言われるわけ。

どうしてかというと、上記のようなことを言われるようなポジションになるからだ。

たとえば、「愚痴を言わないでかんばればいい」と通勤できない俺に言ったやつがいたとする。こいつは、愚痴を言わないでがんばれば、通勤できるようになると思っているわけ。

けど、愚痴を言わないでがんばってきた結果が、通勤ができない体(からだ)なんだよ。こいつらは、俺がなんの努力もしないで、ぽかーんと、騒音のなかでくらしていたと思っている。

そして、その騒音は、たいした騒音じゃないのである。ぜんぜん、ちがう。こいつらの理解力がたりない。

愚痴を言うことをネガティブなことだとする。「ネガティブなことをしないで、がんばればいいことがある」と頭が悪いやつが言ったとする。

けど、「ネガティブなことをしないで、がんばったから、通勤できない体(からだ)になった」のだ。ぜんぜん、いいことにならなかった。

こいつらは、後出しで、「努力の方向がまちがっている」「努力のしかたがまちがっている」と言う。言い出すんだよ。これも、決まっている。

けど、じゃあ、後出しで言い始めたときに、「最初に言ったこと(もともと言ってたこと)」の「罪」がなくなるかといったら、なくならない。侮辱した上に、さらに侮辱したことを言い始める。わからない人のために言っておくと、「罪」というのは「侮辱の罪」のことだ……。侮辱罪……。

ヘビメタ騒音生活は、ぼくにとって、ギリギリ限界の、努力生活だったんだよ。そこが見えない。そこが、わからない。その部分を認識してないまま、クソバカが発言をする。ほんとうに、バカ。それで「いいことを言ったつもり」なんだよな。

それで「正しいことを言ったつもり」なんだよ。ほんとうに、バカ。頭が悪いから、俺の説明を聴いても、ヘビメタ騒音生活がどういう生活なのかイメージできないのだ。バカだから。バカだから……。

理解の質が低いので、いたるところで、誤解をするのだ。根本的な誤解がある。けど、どれだけ説明しても、誤解をしているということが、こいつらにはわからない。わからないんだよ。バカだから……。 

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きちがいヘビメタ騒音の話だと、わかりにくいので、ブラック社長のもとで働いてきた「名前だけ店長」の話にしよう。名前だけ店長は、一五年間、がんばって仕事をしてきたんだよ。超過した仕事をしてきた。

だから、からだがこわれて、「もうできない」と言ったんだよ。

そうしたら、頭がおかしいバカが「できないと言うからできない」「できると言えばできる」と言ったんだよ。こういうことだ……。頭がおかしいバカは、名前だけ店長の努力を無視しているのである。

しかも、自分が「名前だけ店長」の努力を無視しているということも、無視している。わかっていないのである。このバカは、名前だけ店長の話を聴いたのに、理解力がないから、名前だけ店長がどれだけ努力してきたかということが理解できないのである。

名前だけ店長は、普通に暮らしてきたと思ってしまうのである。超過部分を理解してないのである。

だから、「できないと言うからできない」「できると言えばできる」とアホなことを言ってしまう。アホだから……。ほかの人の状態がわからない、アホだから……。このアホは、名前だけ店長の超過労働を、軽く考えてしまうのである。アホだから……。ほかの人のことになると、理解度がめちゃくちゃにさがるやつだから……。

まるで、名前だけ店長がさぼってきたというような認識になっているのだ。

名前だけ店長がさぼってきたので、もっと、がんばればいいと言っているのだ。いやーー。がんばってきたから、もう働けない状態になっているのだろ。なんでこれがわからないのか?

たとえば、名前だけ店長に、どこかのバカが「がんばれば、いいことがある」と言ったとする。名前だけ店長の話を聴いたあとに、「がんばれば、いいことがある」と言っているのだ。 

こいつが、バカなんだよ。まったく、名前だけ店長の状態がわかっていない。他人の状態に無関心。他人の状態をうまく想像することができない。

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努力の方向について、ちょっとだけ、言っておく。バカは、名前だけ店長が、転職するように努力するべきだったということを言っているのではないのである。

バカは、名前だけ店長が、やってきた努力をすべて否定して、努力がたりないからダメなのだということを言ったわけである。

そして、「努力をすればいいことがある」と言ったわけである。

だから、バカがすすめている努力の方向と、いままで名前だけ店長がやってきた努力の方向が完全に一致しているのである。わかるかな?

バカは、名前だけ店長の超過労働を無視して、いままで通り、超過労働をすればいいと言っているのだ。

「できると言えばできる」のだから、いままで通り、超過労働をすればよいのであるということになる。努力の方向は、ブラック社長のもとで、いままで通りの努力をすることなのである。

まあ、名前だけ店長の話ですら、わからないのだから、ヘビメタ騒音の話なんわかるわけがないよな。名前だけ店長の話は、超過労働というよくある話だからな。

ヘビメタ騒音の話は、よくある話ではない。ぜんぜんちがう。だから、よけいにわからない。

バカはほんとうに、実情を、無視する。実情を無視して、くそおろかなことを言う。しかも、正しいと思っている。ほんとうに、バカ。

●よその家なら、ありえない音で鳴っている■騒音※2025/10/05 15:22

きちがい兄貴が、趣味で始めたヘビメタなのに、どうして、ぼくが、ほかのやつから、悪く言われなければならないのか?

頭が悪いやつがおおすぎ。

いくら、自分に経験がないからといって、低く見積もりすぎ。

きちがいヘビメタ騒音の影響がないわけないだろ。きちがいヘビメタ騒音の影響を、自分で制御できるわけがないだろ。

これ、こっちがヘッドホンをつけていても、がんがん、聞こえてくる音だ。影響をうけないなんてことは、不可能なんだよ。

すぐそこで、鳴っている。

よその家なら、ありえない音で鳴っている。よその家でありえない音なのだから、よその家の人は、経験していないんだよ。

だから、影響のでかさがわからない。

影響のでかさがわからないだけなのに、影響がないと思っているんだよな。

もちろん、「ひとごと」だから、そう思えるわけ。自分が一倍速で経験したことなら、『影響がない』と思えるわけがない。

●誠実な反応をかえしてくれる人と、いっしょにいたいよな■騒音※2025/10/05 12:45

不誠実でいいなら、こいつらと仲良くやるのは、簡単だ。不誠実でいいなら……。

しかし、誠実に接すると、アホな反応をかえしてくるやつらというのは、いったいなんなんだ。

これも、きちがい兄貴が、こだわりの音で、こだわりの騒音を鳴らさなかったら、こんなことになっていない。

きちがい兄貴が、きちがいヘビメタを鳴らしたから、こいつらに効くレッテルがなくなっただけだ。

けど、それは、つくれる。けど、それじゃあなぁ……。やっぱり、誠実に接したら、誠実な反応をかえしてくれる人と、いっしょにいたいよな。

下の立場で、バカな人たちにあわせるというのは、苦痛だ。下の立場でなければ、まあまあ、できないことではない。ヘビメタ騒音にやられて、いろいろな能力をうしなったけど、それでも、まだほかの、いろいろな能力が残っている。

しかし、ヘビメタ騒音でうしなった能力というのが、でかすぎる。

ヘビメタ騒音でうしなった能力というのは、普通の人たちが気にするレッテルをつくりだすものだからなぁ。

いやだよなぁ。前にも書いたけど、ほんとうに、きちがい家族にやられて、バカにバカにされるようになった。

きちがいヘビメタ騒音でうしなった能力は、普通の社会で、有効な関係を築くために必要なの力だ。

ヘビメタ騒音で生活を基礎をうしなったのは、でかいことだ。ぼくからみれば、ヘビメタ騒音でうしなって当然なのだけど、きちがい家族による、騒音という問題をかかえていない人にとっては、当然じゃないんだよな。

ぼくからみれば、うしなって当然だけど、普通の人からみると、うしなわなくて当然なんだよ。だから、「うしなって当然だ」ということを言うと、「さぼっている」とか「言い訳している」とか「人のせいにしている」と思うわけだ。

これ、ギャップがある。

自分でほんとうに、あの音のでかさで、あの時間の長さ、あの期間の長さ、経験すれば、うしなうということが、わかるのに、経験しなかったから、うしなうということがわかっていないんだよな。

だから、うしなって当然だという基準では、ものをみられない。

「自分なら、そういうことがあっても平気だ(うしなわない)」と思っているわけだからなぁ。そりゃ、深い深い、溝ができるでしょう。

2025年10月4日土曜日

●じつは「言ったって、かわらない」と思って、生活しているのである■言霊※2025/10/04 19:14

たとえば、年金の受取額というのは、過去の出来事が影響している。過去の自分の行いが、年金の受給額に影響しているのだ。

言霊主義者は、「言った」ということ以外の、過去の出来事がもつ意味を否定してしまう。

たとえば、ある言霊主義者が「これ以降、年金が月に三〇万円もらえるようになる」と言ったとする。主格が明確ではないけど、主格は、ある言霊主義者だ。まあ、厳密に考えると、問題がある言い方だよな。

じゃあ、別の言い方にしよう。

「これ以降、自分の年金が月に三〇万円になる」と言うことにしよう。ある言霊主義者が「これ以降、自分の年金が月に三〇万円になる」と言った。言ったのだから、言ったことが現実化するのである。

言霊理論が正しければ、ある言霊主義者の年金が、月に三〇万円になるのである。もうちょっと正確に言うことにしよう。

「これ以降、自分の年金が月に三〇万円、自分の○○銀行の口座に振り込まれることになる」と言ったとする。そういうふうに言った場合「自分の年金が月に三〇万円、自分の○○銀行の口座に振り込まれることになる」のである。

言ったことが現実化するのだから、そうなる。

言霊理論が正しければ、言ったのだから、言った通りになるのである。

ところで、ある言霊主義者は、年金が月換算で六万円と少額だったとする。ある言霊主義者は、その年金額に不満をのべているのだ。

言っておくけど、年金が二カ月に一回振り込まれるということは、(ぼくは)知っている。

けど、「自分の年金が月に三〇万円、自分の○○銀行の口座に振り込まれることになる」と言ったとたんに、二カ月に一回ではなくて、月に一回振り込まれるようになるのだ。

言霊の力によって、制度がかわる。

言霊主義者が言った言葉にあわせて、制度がかわるのだ。

どうしてかというと、言ったことが現実化するからだ。

「月に三〇万円、振り込まれるようになる」といったら、「月に三〇万円、振り込まれるようになる」のだ。二カ月に一回六〇万円振り込まれるのではなくて、月に一回三〇万円振り込まれるようになるのだ。

言ったことが現実化するので、そうなる。

自分が言っただけで、社会制度なんて、好きなようにかえられるのだ。

DさんとEさんの会話について、ぼくが語ったことがあるけど、DさんもEさんも、言霊主義者なのだから、DさんもEさんも、自分が思った通りの政治制度にすればいいのだ。社会的な制度なんて、すべて、言っただけで、かえることができる。

どうしてなら、言えば言ったことが現実化するからだ。

ところが、自分の現実的な問題だと「言霊のこと」なんて、すっかり忘れてしまうのである。言霊主義者は、自分が、言霊の力を使えるということを、わすれてしまうのである。

言霊主義者なのだから、年金額の少なさで悩む必要なんてないだろ。

言えば言った通りになるのだから、言えばいい。

「言霊は絶対」ので、言っただけ、言った通りになるのだろう。ちがうというのであれば、もちろん、言霊理論を否定したことになる。

年金額が少ない、ある言霊主義者が、「年金が増えればなぁ」なんてことを言っているのである。

はぁ? 年金額なんて、言えば言った通りになるのだから、言えばいいだけだろ。

「できると言えば、できる」のだろ。「言うことで、年金額をかえることができる」と言えば、言うだけで、年金額をかえることができるんだよ。

どうして、自分のことだと、言って解決しようとしないんだよ。

どうして、ほかの人のことになると、過去を無視してしまうんだよ。いちおう、その個人がもらえる年金額は、その個人の過去の行為と、社会制度によって決まるのだ。社会制度も、それに関連した法律が通ったという過去の出来事が影響しているのだ。

言えば言っただけで、社会制度がわかるわけじゃない。

けど、カルト言霊主義者は「言えば言ったことが現実化する」「これが正しい」と言い張って聞かないのである。

じゃあ、自分が、普段どういうふうに生活しているのかというと、じつは「言ったって、かわらない」と思って、生活しているのである。

過去の出来事は現在の状態に影響をあたえると思って生活しているのである。言っただけで、過去の出来事があたえる影響がわかるとは思っていないのである。

言霊主義者は、「言った」という過去の出来事以外の出来事は、すべて関係がないと思っているのだ。

「言った」という過去の出来事以外のすべての出来事は、現在の状態に影響をあたえないと思っているのだ。

かりに影響をあたえていたとしても、そんなのは、「言ってしまえば」言っただけで、いかようにでも、変換することができるのである。

これは、「過去は関係がない」という考え方だ。ところが、「言った」という過去だけは、現在に影響をあたえるのである。これは、「過去は関係がある」という考え方だ。

言霊主義者は「言った」という過去以外の過去を否定しているのである。もう、過去の出来事が実際に発生したということも、「言えば上書きできる」ので、いかようにでも、かえることができると思っているのだ。

だいたい、時間に関しても、言うことは、可能なのだ。「一〇年間、時間が逆に流れる」と言えば、「一〇年間、時間が逆に流れる」のである。

それがどういう意味なのかは知らないけど、とりあえず、言ったことが現実化するのだから、そうなるのである。「一秒後に、三〇年前にもどる」と言えば、「一秒後に、三〇年前にもどる」のだ。

時間だって、制御できるのである。

タイムマシンなんてなくても、言っただけで、時間旅行ができる。まあ、「一秒後に、タイムマシンがこの部屋にあらわれる」と言えば、言っただけで、タイムマシンをゲットすることができるのだ。

個人が、時間を旅するのではなくて、地球全体、宇宙全体が、タイムリープするということだって、可能だ。言えば言ったことが現実化するので、言えばいいだけだ。簡単。簡単。

言霊主義者は、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言うけど、それは、理由があって、つかれはてている人には、めちゃくちゃにひどい言葉なのである。

どうしてかというと、過去において、出来事が発生して、つかれているのに、過去において出来事が発生したという事実を(言霊主義者が)ガン無視しているからだ。

ほんとうに、つかれている人は、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言われると、不愉快な気持になるのだ。

自分の過去を全部否定されたから、不愉快な気持になる。

過去がもっている意味を全部否定されたので、不愉快になる。

実際の出来事でつかれたのである。「これから俺はつかれるぞ」と思って「つかれた」と言ったから、事実に関係なく、つかれを感じたわけではないのである。

●おなじパターンなんだよな■家族※2025/10/04 6:14

 いろいろなことで、腹がたったあと、破滅的な気分になる。

これ、何個も不愉快な思い出が、おそってくる。腹がたったので、ちょっと片づけをしたのだけど、片づけをしている最中、やっぱり、腹がたって、しかたがない。家族にやられたことが、いろいろなところに影響をあたえている。おなじパターンなんだよな。頭が悪いやつが、俺の気持ちを無視して、迷惑行為をする。どれだけ言っても、頭が悪いからわからない。どれだけ言っても、聞かない。


なんか、ひとつ思い出すと、芋づる式に、何個も、思い出してしまう。

なんか、頭にくると、喉が渇く。昨日から、喉が渇きっぱなしだ。

●俺がどれだけこまっているか、無視するのは、きちがい兄貴と、よその人でおなじ■騒音※2025/10/04 1:58

どれだけ、ヘビメタ騒音でこまっていても、きちがい兄貴が、無慈悲に鳴らし続けた。

これ、ほんとうに、きちがいなのである。きちがいでなければできないことを、毎日やっていた。

だから、影響をうける。

ところが、影響をうけるというとが、「よそ」の人にはわからないのだ。「よそ」の人の態度は、きちがい兄貴の態度と似ているのである。とくに、言霊主義者の態度は、きちがい兄貴の態度と似ている。

まあ、よその人が、ヘビメタ騒音を爆音で鳴らし続けたわけではないということは知っている。

そんなこと……よそのうちでやったら、よその人は、家族からせめられて、鳴らせない状態になる。けど、うちは、きちがい兄貴が、きちがい的な意地を通せば、通る家だった。きちがい親父がつくった家だからだ。

きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音で、きちがい的な行為をする前に……きちがい親父が、ずっとずっとずっとずっと、ほかのことで、きちがい行為をしていたのだ。

親父のきちがい行為は、兄貴のように、ひとつのきちがい行為ではないのだ。その都度ちがう。

けど、「やめてくれ」と言われたときの態度がおなじなのだ。

「やめてくれ」と言われたときの態度が、兄貴と親父で待ったおなじなのだ。こんなのは、ない。普通の人が誤解をするのも、わかる。「そんな音で鳴っていたら、家族がやめさせようとする」と言ったやつがいただけど、その通りだ。

常識的に考えればその通りだ。

けど、ちがうのである。

ともかく、至近距離の、はげしいヘビメタ騒音で、休むことなく、連続的に、こころが破壊されているのだよ。思考力が破壊されているのだよ。

「よそ」の人は、騒音が鳴ってたって勉強ぐらいできるというのだけど、勉強なんて、まったくできない。きちがい家族の騒音のなかで、勉強をすると、覚えたことまで、わすれてしまうのだ。

考えて解く問題も、きちがい兄貴の騒音がない普通の状態なら、考えて、解くことができるのに、ヘビメタ騒音のなかでは、考えて解くことができない。頭がこんがらがってダメなのだ。

そして、きちがい兄貴の騒音が鳴っている場所……つまり、ここで……問題を解こうとしたけど、解けなかったということが、ヘビメタ騒音が鳴っていないところでも、影響をあたえるのである。なんだか、おぼつかない感じになる。

「やめろ」「やめろ」と言っているのに、やめてくれなかった。「勉強をするからやめろ」「明日、テストだからやめろ」とどれだけ言っても、やめてくれなかった。一秒もやめてくれなかった。

激しい音で鳴らしていた。よその家では鳴らすことができない音で、つねに、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らしていた。

こっちの気持ちを無視する力が強いのである。きちがいだからまったくわからない。こっちがどれだけこまっているか、きちがい兄貴は、わかっていないのである。

きちがい兄貴は、自分が一秒でも、ほんとうにやめさせられたら、発狂してしまう。そのときだって、こっちがこまっているということは、わかっていないんだよ。

だから、わかっていないまま、気楽に?やり続ける。思いっきり鳴らせるなら、気楽に、なにも気にしないで、鳴らし続けるとができる。

そりゃ、意地はあるけど、自分の音で、弟がこまっているということは、ほんとうにまったくわからないのだ。

そして、「よその人」だって、わかっていない。自分がやられたわけじゃないかわかっていない。

俺がどれだけこまっているか、無視するのは、きちがい兄貴と、よその人でおなじだ。

●しかし、多数派は気にしない■言霊※2025/10/02 18:46

じつは、自分が一倍速で経験した「ネガティブなこと」に関して、言霊のせいにする言霊主義者がわずかだけどいる。少数派だ。

多数派の言霊主義者は「ネガティブなこと」に関しては、言霊のせいにしない。

自分が、寝言で、ネガティブなことを言ってしまったから、ネガティブなことが起こってしまったのではないかと、考える言霊主義者もわずかにいる。神経質な言霊主義者というか、神経症的な言霊主義者は、気にする。

しかし、多数派は気にしない。

言霊主義者は、まず、夢・希望について言霊的に考えたいのである。これは、本人にとって、ポジティブなものとして認識される。本人にとってネガティブなことは、言霊によって起こったことではなくて、現実的な理由で起こったと考えてしまうのである。

何度も書いているけど、自分が一倍速で経験していることに関しては、「こうだから、こうなった」ということがあきらかなので、言霊のせいにする必要がないのだ。

少数派の言霊主義者も、相手の行動に原因があると考えているときは、言霊のせいにしない。

少数派の言霊主義者が気にするのは、たとえば、本人が病気になってしまったときなのである。

「どこかで、ネガティブなことを言ったから、病気になったのかな」と思ってしまうのである。こういうタイプの言霊主義者は、ものすごく、少ない。

たいていの言霊主義者は、普通に病院に行ってなおそうとする。病院に行ったあと「なおると言えばなおる」と言うタイプだ。「なおると言えばなおる」なら、病院に行く必要なんてない。

自分がひょっとしたら「病気になる」と(寝言で)言ってしまったのかどうかなんて、まったく気にしない。

軽いうちに、免疫でなおりそうなときは「なおると言えばなおる」と言って、病院に行かない場合もある。

すでに、軽くても、本人が症状を気にするレベルのことが起こっているなら「なおる」ことは「夢・願望」に属することになるので、「なおると言えばなおる」と言う場合がある。

けど、たいていの言霊主義者は「なおると言えばなおる」と言っても、なおりそうもない場合は、病院に行く。

その場合、「言ったことが現実化しなかった」ということに気がつくことがない。まあ、「病気にならない」と言えば、言霊の力によって、病気になることはないのだろう。

「死なない」と言えば、言霊の力によって、死ぬこともないのだろう。

2025年10月3日金曜日

●●「そんなの鳴ってたって、たいしたことじゃないだろ」■騒音※2025/10/03 9:50

ヘビメタ騒音のことを話したのに、ヘビメタ騒音の影響を無視して「エイリさんがさぼっている」と思って、頭がおかしいことを言うやつらが、いっぱいいる。

どうして、ヘビメタ騒音のをことを無視するのか。

あるいは、ヘビメタ騒音の影響を、過小評価するのか。「そんなに影響をあたえるはずがない」と思っているのだ。

あるいは、「そんな話は嘘だ」と思っているのだ。

こいつらは、ぼくに対して、非常に失礼なことを言っているのに、その自覚がないやつらだ。こいつらだって、自分がきらいな音を、あの頻度で、あの時間の長さ、あの期間の長さ、あの音のでかさで、聞かされ続けたら、通勤することができなくなるのに、それは、ガン無視だ。

もちろん、実際には、こいつらの家族が、きちがい家族ではないから、あの頻度であの時間の長さ、あの期間の長さ、あの音のでかさで、きちがい的な音を鳴らし続けるということがない。

だから、経験したことがない。あの音のなかで、学校に通って暮らすということが、どういうことなのか、まったくわかっていないのだ。

そりゃ、ほんとうに、やってみればわかるけど、七年で、そこをつきる。どうしても、憂鬱になって動けなくなる。通勤できなくなる。楽しさを感じなくなる。うれしさを感じなくなる。ほんとうに、むりな話なのだ。

ところが、「そんなの鳴ってたって、たいしたことじゃないだろ」ときちがい野郎が思って、俺にむりなことを言ってくるのだ。きちがい野郎。

あんなことをやられて、「通勤できるからだ」を保持できるわけがないだろ。

こいつらは、自分がやられてないから、わかってないだけなのに、きちがい的なことを言いやがって……。

こういう態度のやつらに対する、うらみが、並じゃないのである。

いかりが並じゃないのである。

ゆるせない。ゆるせない。

ただ単に、理解力がないバカが、よく言うよなぁ。

ただ単に、わかっていないだけなのに、むりなことを言いやがって……。一倍速で実際に経験していたら、わかる感情や体のつかれがある。すべてのプロセスを経験していない。騒音生活全体のプロセスがわかっていない。あのプロセスが、わかっていないのである。一倍速で、経験したことがないので、わかっていない。

*     *     * 

今日は、幼稚園で、運動会の練習をしているのだけど、騒音があるときは、上記のようなことを考える。こういう気持になる。あれだけ騒音が鳴っていると、騒音の感覚は、つかれの感覚とおなじになるなぁ……。

*     *     *

ともかく、「そんなの鳴ってたって、たいしたことじゃないだろ」とか「そんなに影響をあたえるはずがない」とかと思っているやつは、想像力が欠如しているやつらなのである。

ほんとうに、きちがいにやられて、経験がないやつらに、バカにされるようになった。どんなことになるか、まったくわかっていないやつらに、バカにされるようになった。

*     *     * 

これ、ほんとうに、きちがい兄貴がやっていることが、普通じゃないから、普通の人は経験したことがないのである。経験がないからわからないだけかもしれないけど、それにしても、想像力がない。

この、想像力のなさは、なんなんだ。

なんで、わからないんだ。

まあ、想像力がないうえに、経験がないからわからないのだろう。

ぼくとおなじことを経験したら、こいつらも、通勤できなくなる。証明することはできないけどね。

*     *     * 

こいつらが突き付けてくることが、無理解から発生することなんだよ。

特に、言霊主義者は、ヘビメタ騒音のことを軽く考えすぎる。

これ、言霊主義者で、ちゃんと、ヘビメタ騒音のことを受け止めてくれた人がいないのである。ぼくの経験の範囲で言うと……みんな、言霊主義者は、理解が浅いのである。 

みんな、言霊主義者は「そんなの鳴ってたって、たいしたことじゃないだろ」と思って、カルト的なことを言ってくる。

サラリーマンをやっているような、普通のやつらの態度というのは、言霊主義者の態度とおなじだ。まったく、おなじ。

こいつらも、理解が浅くて、頭が悪くて、想像力がない。こいつらも、「そんなの鳴ってたって、たいしたことじゃないだろ」と思うやつらが大半だ。

まあ、ぼくの経験の範囲で言うと……ということになる。常日頃から、あんな騒音が鳴っていて、通勤できる体が維持できるわけがないだろ。

なんで、これがわからないのか?

*     *     * 

付け足して言うと、「そんなのは、話がおかしいから、嘘だ」と思うやつは、「そんなの鳴ってたって、たいしたことじゃないだろ」と思うやつらよりも、態度が悪い。

こいつらは、想像力が欠如しているのである。そして、へんな考えにとりつかれて、 「そんなのは、話がおかしいから、嘘だ」と思うのだ。

これ、頭が悪いから、きちがい兄貴の特殊事情を、俺の話を聴いたのに、理解できなかっただけなのだ。頭が悪すぎる。けど、こいつらが常識的な人なのだ。こいつらは、常識的な考え方をもっている。

ただ、きちがい兄貴が、こいつらの常識的な思考の範囲外に、いるのである。

だから、ぼくは嘘をついていない。こいつらは、ぼくが嘘を言っていると思って、ことのごとく、俺のことを悪く言うのだ。俺がやっていることを、悪く解釈して、悪く言う。俺が言っていることを、ことのごとく、悪く解釈して、悪く言う。

こいつらも、こいつらで、こういうあやまちを、繰り返す。

何回も何回も繰り返す。

常識という誤解回路があるからそうなる。

問題なのは、きちがい兄貴の行為なんだよ。きちがい兄貴は非常識な行為をしているわけ。

きちがい兄貴側の精神回路が問題なんだよ。

悪いことをやっても、悪いことをやったと思わないきちがい回路が問題なんだよ。兄貴側のきちがい回路が問題なのに、この……「そんなのは、話がおかしいから、嘘だ」と思うやつらは、兄貴側の問題を理解できない。

こいつらの浅はかな、常識にしたがって、俺が嘘を言っていると決めつける。決めつけたあとは、すべて、俺が言っていることは嘘だという解釈をしてしまう。

俺が言っていることは、嘘だと解釈することが、こいつらのなかで常識になってしまうのだ。

常識思考だ。

こいつらは、まちがっているのに、まちがっているということを認めない。こいつらは、俺がなにを言っても、俺が嘘を言っていると解釈してしまう。

騒音のなかでがんばってきたから、働けなくなるということが、めちゃくちゃな効果をうむ。

これが、地獄でなくて、なんだ。

騒音のなかでがんばってきたから、働けなくなった。これが事実なのに、 「そんなの鳴ってたって、たいしたことじゃないだろ」とか「そんなのは、話がおかしいから、嘘だ」とかと思って、こいつらが、頭がおかしいことを(俺に)言ってくるのである。

マトはずれなことを言ってくるのである。

きちがい兄貴が非常識だから、常識的な人たちには、わからない。きちがい兄貴の感覚や行動は、常識的な人たちの考えの「わくがい」なのだ。

そして、もちろん、非常識な行為の結果、こっち側がどうなるのかなんて、こいつらには、まったくわからないのである。想像がつかないのである。

想像することさえ、できないのである。きちがい兄貴の非常識な行為の結果、どういうことになるのか、わかっていないやつらが、むりなことを言ってくる。

こいつらには、とくに悪意がないのだけど、悪意があるのとおなじなんだよ。

*     *     *

「そんなの鳴ってたって、たいしたことじゃないだろ」 「そんなのは、話がおかしいから、嘘だ」と言ってくるやつと、いっしょにいて、おもしろいと思うわけがないだろ。

「そんなの鳴ってたって、たいしたことじゃないだろ」 「そんなのは、話がおかしいから、嘘だ」と、いっしょにいて、楽しいわけがない。

こいつらは、そういうこともわからない。

こいつらが、浅はかだから、誤認しているだけだ。誤認なのである。

2025年10月2日木曜日

●はねのけたら、頭の中には、なにも残らないのである■騒音※2025/09/11 17:18

 きちがい兄貴は、あたりまえのように、鳴らしていたし、きちがい親父は、あたりまえのように、くるっていたのである。頭がおかしいことをして、絶対に、認めない。

ほんとうに、こっちが言っていることがわかってないんだよなぁ。

普通の人だったら、絶対に、そんなことにならないのに、つねに、こっちがこまるようなことをする。それも、きちがい的な意地でするわけで、修正することができない。

殺さなければ、そういう行為や、そういう態度がかわらない。

きちがい親父の場合は、きちがい親父が、その都度、思いつくきちがい的な行為をしていたのだけど、きちがい兄貴は、ヘビメタ、一本だ。ヘビメタしか、きちがい行為をしていないけど、きちがい行為のやり方が、きちがい親父とまったくおなじなのである。

まーーーったく、おなじ。

いま、生きていて、この時間になる、鳴っている感じしかしない。そして、「やりようがあったか」というと、やりようがなかった。俺は、最大限の努力をした。鳴っているなかで、最大限の努力をした。なにもやっていないわけじゃないのである。けど、それをこえて、きちがい兄貴が、きちがい校をしまくった。きちがいだから、まったくわかってない。普通だったら、一秒で伝わることが、まったく、つたわらない。これ、きちがい兄貴ときちがい親父で、おなじなんだ。まーーーったく、おなじ。

部屋中、くっさにおいで充満させて「におわないよぉ!!におわないよぉ!!におわないよぉ!!」と怒鳴るなんて、いかにもきちがい親父がやりそうなことなんだな。その結果、ネズミがきたって、こっちがこまっているということがわからない。

「俺が、つかまえるからいい」「俺が、つかまえるからいい」と怒鳴って、絶叫して、絶対に、ネズミ対策工事をさせようとしない。方向がおかしい。きちがい的な方向に、つっぱしってしまうのである。

それを止めることが、できないのである。

殺さなければ止められないのである。そういうことを、突き付けて、生きているのである。そういうことを、家族に突き付けて生きているのだけど、本人は、ほんとーーーに、しらんぷりなんだよ。

これ、知らないふりをしているのではなくて、絶叫したときに、はねのけている。絶叫して、はねのけると、言われなかったことになってしまう。

まるでなかったことのようにあつかわれるというよりも、実際に、親父の頭のなかでは、なくなってしまうのである。あれは、そういう態度なんだよ。

だから、何回繰り返しても、おなじ反応が返ってくる。

この、「何回繰り返しても、おなじ反応が繰り返される」というのが、兄貴の場合でも、おなじなのである!!

親父の頭の中になにも残らない構造と、兄貴の頭の中になにも残らない構造がおなじなのである。

これ、絶叫バージョンと、寡黙バージョンがあるのだけど、兄貴は、寡黙バージョンだけだ。けど、頭の中でおこっていることがおなじなのである。はねのけたら、頭の中には、なにも残らないのである。兄貴の反応と、親父の反応が、おなじなのである。

自分にとって、不都合なことを言われたときの、親父の反応と兄貴の反応がおなじなのである。

弟が自分(兄)のヘビメタに関して「文句を言ってきた」ということが発生したとたんに、怒り狂って、自分が実際にやってることが、頭のなかから消えてしまうのである。やってないことになってしまうのである。きちがい的な意地でやっているのに、きちがい的な意地でやっているということが、マックスになって、消えてしまうのである。台風の目のごとく、本人にはわからないことになってしまうのである。自分が、こだわってこだわっこだわってやっていることが、どっかに行ってしまうのである。

頭の中に、一切合切残らないのである。言われたら、発狂して、はねのけておしまいなのである。何万回、何十万回、繰り返してもおなじなのである。

だから、ぜんぜん悪いと思っていないのだ。

兄貴は、ヘビメタを鳴らしていた最中、ヘビメタを鳴らしていた期間中、ずっとずっとずっと、何十万回言われても、一回も何も言われなかった気分でくらしているんだよ。これが、ほかの人にはわからない。

そして、実際、ほかの人は、こういう家族と一緒に住んでいるわけではないから、こういう家族がやることを、経験していないのである。

こういう家族に、日常的に、毎日やられたことがないのである。そりゃ、いないのだから、そうなる。そうると、ぼくに対して、誤解をするのである。これも、全自動で誤解をする。これが、不愉快なんだよ。 

普通の意味で、「やっていることを認めない」ということとは、ちがうことをやっているんだよ。普通の意味で「やっていることを認めない状態」ではなくて、普通ではない状態で「やっていることを認めない状態」なのだ。普通の人がわかるわけがない。

そして、おそろししいことなのだけど、当の本人が、普通の人よりもわかっていないんだよ。きちがい兄貴は、きちがい騒音問題を発生させている「張本人」なんだよ。その、張本人が、ほかのまったく関係がない人よりも、まったくなにも、わかっていないのである。

だから、「そんな音でヘビメタを鳴らしたら、うるさくて困るだろ」「そんな音でヘビメタを鳴らしたら、(こっちは)勉強が出なくて困るだろ」ということが、最初の日から、15年目の最後の日まで、まったくわかっていない状態で、鳴らすんだよ。頑固に鳴らす。

これ、言わなくたって、「こんな音で鳴らしたら迷惑だな」ということがわかるものなのだ。普通の人間なら「うるさいからやめてくれ」と言われなくても、「こんなでかい音で鳴らしたら、迷惑だな」ということが、わかる。

きちがい兄貴は、きちがいなので、それが、まったくわからない。

弟が「うるさいからやめてくれ」と言ってきたとする。一度でも、言ってきたら、わかるんだよ。言われたら、普通は、わかるんだよ。ところが、何十万回言われても、まーーーーーったく、わからないのだ。

「まったくなにも、やってない人」として暮らしているのだ。きちがい兄貴は、きちがい的にでかい音で鳴らしているのに、「まったく音を鳴らしていない人」として暮らしているのだ。きちがい感覚だとそうなってしまうのだ。

きちがい的な意地で、絶対にゆずらないで鳴らしているのに「まったく鳴らしていない人」として暮らしている。

このきちがい兄貴の感覚が、普通の人にはわからない。そして、きちがい兄貴自身が、普通の人よりも、自分にそういう感覚があるということがわかっていないのだ。ごく普通に、自分がやっていることを無視してしまう。普通の人なら絶対に、わかることがわからなくなってしまう。

かりに、まったく鳴らしてない人がいたとする。ヘビメタ騒音を一日に、一秒も、でかい音で鳴らさなかった兄貴がいるとする。兄貴のなかの自我像(兄貴像)というのは、これなのである。

あまりにも、きちがい的な感覚だから、ほかの人にはまったくわからないのだけど、「まったく鳴らしていない兄貴」として暮らしているんだよ。

けど、じゃあ、「やめてくれ」と言ったら、「やめてくれる」のかといったら、やめてくれないのだ。弟が「やめてくれ」と言ってきたことは、きちがい的な意地で、ガン無視なんだよ。きちがい兄貴の場合、無視しているということさえ、ガン無視なんだよ。

これ、きちがいだからできることなんだよ。

ほかの人にわかるわけがない。そして、ほかの人以上に、本人がわからないのである。ほかの人以上に、本人は、ひとごとで、関係がない人なのである。

これ、ぼくの説明を聞いたほかの人がしめす関心が、単位なしで一〇〇だとする。きちがい兄貴は、ゼロなんだよ。どれだけぼくが、やめてくれと言って、やめてほしい理由を説明しても、きちがい兄貴は、あかの他人よりも、関心をしめさないのだ。

これも、ほかの人には、わからないことなんだろうな。あかの他人よりも、まったく無関係な人として、やりきるのである。

それで、やりきったことに関しては、なにも感じないのである。

だから、ほんとうに、ぼくの人生を台無しにしたつもりがないのだ。普段、毎日、ぼくの勉強を邪魔していたのだけど、普段毎日、ぼくの勉強を邪魔したつもりがないのだ。

そのつもりがない程度というのが、あかの他人の程度よりも、ひどいのである。あかの他人よりも、わかっていないんだよ。

あかの他人は「騒音でこまっているんだな」ということがわかるわけだけど、きちがい兄貴「騒音でこまっているんだな」ということすら、まったくわからないのだ。

きちがい親父の、ヘビメタ騒音に関する関心のなさもおなじだ。これも、ほかの人に言っても、信じてもらえないのだけど、事実だ。 

 

 

 

●「むりじゃない」と言ってくる■騒音※2025/10/02 10:03

やっぱり、自分がきらいな音をガンガン、聞かされ続けるのは、くるしい。くるしい。毎日何時間も何時間も、自分がきらいな音を、爆音で聞かされるはつらい。自分が生活している空間が……たとえば、この部屋が……自分のきらいな音で、いっぱいになるのはつらい。自分の部屋にいるのに、きちがい的な音ががんがん攻めてきて、強制的に、やってられない気分になるのだ。強制的に、腹がたつのだ。圧迫感を感じる。不愉快な気持が、最大限の大きさで、ずっと続く。強制的に、不可避的にそういう状態になる。耳をふさいでも、爆音だから、たいしてかわらない。耳をふさいでも、上記の状態がまったくかわらない。くるしいに決まっている。

ところが、こういう生活をしていないやつが「楽しいと言えば楽しくなる」と言いやがる。「どんだけくるしくても、楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言いやがる。「過去なんて関係がない」と言いやがる。「騒音なんて関係がない」と言いやがる。「そんなのは、関係がない」と言いやがる。言いやがる。こんなやつら、ほんとうに、害虫でしかない。こいつらは、こいつらで、自分が正しいことを言っていると思っている。「楽しいと言えば楽しくなる。これは正しい」と思っている。こんなやつら……。はっきり言って、きちがい兄貴とたいして、かわらない存在なんだよ。俺にとっては……。

たいせつなことを認めない。あたりまえであることを認めない。こいつらだって、自分がきらいな音に、あれだけ長い時間、毎日毎日さらされ続けたら、憂鬱になる。影響をうける。不可避的に影響をうける。自分が、やられてないから、わかっていないだけ。自分が、経験していないから、わかっていないだけ。「自分なら平気だ」という前提で、むりなことを言ってくる。「むりじゃない」と言ってくる。

●「風が吹くと(自分が)思ったから、風が吹いたのだ」■精神世界※2025/10/02 2:29

 自分が相手をなぐったから、相手がなぐってきたという場合も、もちろんある。

これは、本人の行いに原因がある。しかし、他人が勝手にやることや、自然界に存在する様々な物質の影響をうける。人間は、自分以外の要素から、影響をうける生き物なのである。

そりゃ、そうだろ。外界のなかに生きているのだから、外界の影響をうける。風が吹けば、風が吹いたということの影響をうける。雨がふったら雨がふったということの影響をうける。なにかにぶつかれば、なにかにぶつかったということの影響をうける。蚊に刺されたら、蚊に刺されたということの影響をうける。ダニに刺されたら、ダニにさされたということの影響をうける。

だから、まあ、自分由来の出来事と、他人由来の出来事と、他の生物由来の出来事と、自然物由来の出来事がある。他人由来の出来事と、他の生物由来の出来事と、自然物由来の出来事を外部環境由来の出来事だとすると、自分由来の出来事と、外部環境由来の出来事のふたつにわけられる。

この場合、この二者は、排他的ではないのである。

排他的ではないのに、なぜか、排他的だと思ってしまう人がいるんだよな。

風が吹いたら、「風が吹くと(自分が)思ったから、風が吹いたのだ」と思ってしまう。

自然界において、自然に風が吹くということは、外部環境由来の出来事なのに、自分由来の出来事だと思ってしまうのだ。

すべては、自分由来の出来事だと思ってしまうのだ。

けど、そもそも、自分がこの世に生まれてきたということも、自分由来の出来事ではない。生物として、細胞分裂を繰り返したというのは、自分のことだけど、自分が意識してやったことではない。

抽象的に考えることができるようにならないと、「自分のこころが、外界に影響をあたえる」と考えることができないのだ。

抽象的に考えることができるようになるまでは、「自分のこころが、外界に影響をあたえる」という考え方を、もつことができないのだ。

まあ、「すべては、自分由来の出来事だ」という説はまちがっているんだけどね。

ともかく、自分由来の出来事と外部環境由来の出来事があるのに、外部環境由来も自分由来の出来事だと、誤解してしまう人がいる。

自分の意思的な行動というものは、あるから、意思的な行動をした場合、自分に結果がかえってくることがある。特に、人間を相手にしてやったことには、そういうことが、おこりがちだ。

けど、すべてにおいて、そうなっているわけではないのである。 


2025年10月1日水曜日

●いろいろなところに、誤謬がある■社会※2025/10/01 15:53

不幸なことがあった場合、自分の気持ちが引き起こしたことだと思うような癖がついていると、現実に対処できなくなってしまうのである。

実際に、自分がおろかなことを思いついて、おろかな行為をしたから、結果的に、不幸がおそってきたということ自体は、ある。あるのだけど、すべてがそうではないのだ。

たとえば、物価高になったとする。自分の住んでいる地域にあるスーパーで売っているものが、高くなったとする。ひとつのスーパーだけではなくて、自分が住んでいる地域にあるすべてのスーパーで高くなったとする。

その場合、自分が物価高を引き寄せたわけではない。自分が、物価高になると思ったから、思霊の力で、実際に物価高になったわけではないのだ。

たとえば、自分が住んでいる地域で、地震が起きたとする。その場合、自分のこころが、地震を引き起こしたと考えるのはまちがいだ。

自分のこころの持ち方で、地震が起きないようにすることができるという考えも、まちがいだ。

現実世界に生きているのだから、自分の気持ちとは、関係がないことが発生して、あたりまえなのである。

自分が、相手をぶんなぐったので、相手が自分をぶんなぐってきたということはある。

相手が自分になにも悪いことをしていないのに、勝手に自分が相手をなぐりたくなって、なぐったなら、自分のこころに問題がある。

こういうことを、例に挙げて、「自分の気持ち」と「実際の出来事」は関係があるということを言ったとする。その出来事に関してだけ言えば、たしかに、「自分の気持」と「相手がなぐってきたということ」には関連がある。

ところが、自分の気持ちと物価高は関係がないのだ。

自分の気持ちと地震は関係がないのだ。

そとには、いろいろなものが存在して、物理的な力が働いている。そとには、いろいろな人がいて、そのいろいろな人は(その人たちの意思にしたがって)動いている。人は、自律的に動いている。

なので、「自分のこころ」の動きとは関係なく、相手が、「相手の意思にしたがった行動」をするのである。

さっき、理由がないのに、相手をぶんなぐった人の話をした。

たとえば、Aさんが、妄想的な考えをもっていて、自分の妄想にしたがって、Bさんをなぐったとする。Bさんは、Aさんに、なにか悪いことをしたわけではないとする。

これは、神様的な視点で考えて、BさんはAさんに、なにもしていないということだ。Bさんが、単に、「自分はAさんに、なにも悪いことをしていない」と考えているだけではなくて、神様視点で、BさんはAさんになにも悪いことをしていないということだ。

Aさんが、妄想的な思考をして、Bさんに怒りを感じたとする。

これは、Bさんのせいじゃないのだ。

Bさんは、事実、Aさんになにもしなかったけど、Bさんが、Aさんをなぐったのだ。

精神世界の考え方にしたがうと、Bさんがなぐられたのは、Bさんの「気持の問題」だということになってしまうのである。

たとえば、「思ったことが現実化する」という考えにしたがうと、Bさんの気持ちが、「AさんがBさんをなぐるという現実を発生させた」ということになってしまうのだ。

Bさんは、「Aさんが、自分(Bさん)をなぐる」と思っていなかったのだけど、精神世界の人たちは、Bさんは、「Aさんが、自分(Bさん)をなぐる」と思っていたのだということにしてしまう。精神世界の人たちは、そう考えてしまう。

精神世界の人たちは「Bさんは、Aさんが自分(Bさん)をなぐると思っていた」と決めつけてしまう。

「実際に、AさんがBさんをなぐったのだから、BさんはAさんになぐられると思っていたはずだ」と……精神世界の人たちは、考えてしまうのだ。

結果から、原因への流れがあるのである。

こういう結果……「AさんがBさんをなぐる」といった結果になったのだから、Bさんは「Aさんが自分(Bさん)をなぐる」と思っていたのだ……と精神世界の人は決めつけてしまう。

「Bさんの気持ち」と「AさんがBさんをなぐったこと」には関係があると(精神世界の人は)考えてしまう。けど、まちがいなのだ。

Bさんの「こころの持ちよう」が問題なのではなくて、Aの「妄想」が問題なのだ。

ちなみに、ビジネス世界には、相手の問題と自分の問題を切り分けて考えればいいという考え方がある。この考え方で言われていることは、Aさんにおける「妄想的な思考」の問題は、Bさんにおける「気持の問題」ではないということだ。これだけはあっている。

けど、BさんがAさんに実際になぐられたことは、Bさんには関係があることなのだ。

相手の問題と自分の問題を切り分けて考えれば、なぐられたという問題が、Bさんにとって関係がない問題になるかというと、関係がない問題にはならない。

こっちも、まちがいだ。

いろいろなところに、誤謬がある。

誤謬のタネがひそんでいる。

●努力論と自己責任論は、逆算してつくられたのではないか■社会※2025/09/30 18:06

これは、仮説だけど、「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と一般人に言わせるために、努力論が語られだしたのではないかという、疑いがある。

「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と、一般人に言わせるようにするにはどうしたらよいかと言うことを考えた場合、努力論を正しいこととして流布させておくということが、考えられるのである。

同系列には、自己責任論がある。

努力論と自己責任論は、逆算してつくられたのではないか。

●わかっていないから、言っているだけだ■騒音※2025/09/30 17:41

きちがい家族によるきちがい的な騒音というのが、「普通の人」の「人生のなか」には、ないことなんだよ。ありえないことなんだよ。そんなことは、「普通の人」の「人生のなか」には、おこりえないことなんだよ。

だから、特殊な条件なんだよ。ぼく以外の人は、この特殊な条件をもっていない人たちなんだよ。もちろん、ぼくと似たような条件の人は、わずかだけど、いるかもしれない。

だから、ごく少数派を除いて、ほかの人たちは、この特殊な条件をもっていない人たちだということになる。

この人たちが「そんなのは関係がない」「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と言ってくるわけ。しかも、「絶対に正しい」と思って言ってくるわけ。

そして、「俺だって苦労した」と言うわけ。

けど、ちがうと思うんだよな。

ぜんぜんちがう。

だいたい、その人たちは、ぼくが言っていることを否定している。ごく少数の人たち……ぼくと似たような条件の人たちは、ぼくが言っていることがわかるはずなんだよ。

どれだけ、がんばってもダメだということがわかっているはずなんだよ。これ、ほんとうに生活上の障害が、並じゃないのである。これ、みんな、わかっていない。

過小評価したり、無視するから、「そんなのは関係がない」「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と言うわけ。僕と同等の経験がある人は、絶対にそんなことは、言わない。

どれだけがんばって影響をうけないようにしても、ほんとうに細部にいたるまで、影響をうけるということが、からだで、わかっているから、そんなことは、言わない。

わかっていないから、言っているだけだ。 

2025年9月30日火曜日

●「自分の脳をだませばいい」■騒音※2025/09/30 19:30

「自分の脳をだませばいい」という言い方がある。たとえば、やりたくないことがあったとする。

どうしてやりたくないかというと、たいへんだからだ。

人間の脳は、たいへんだと思うことは、やりたくないと思ってしまう傾向がある。

だから、自分の脳をだまして、「ちょっとだけ」やるということにすればいいというわけだ。

ようするに、全部やろうと思ってしまうから、たいへんだと思ってしまうわけで、ほんのちょっとだけやればいいと思えば、行動することができる。

いったん動けば、なんとか、やっていけるというものだ。自分の脳をだます、自分の脳を想定して言っている。自分の脳を、自分の脳がだますのである。自分の脳をだます脳が、自分の脳の一部たということになっているので、一部の脳が、全体の脳をだますということになる。

まあ、これ、比喩的な表現なんだよね。

まあ、方法としては、「五分だけ動く方法」とか「ここだけやる方法」が推奨されるわけ。けど、長期ヘビメタ騒音で脳が焼かれている場合は、五分だけ動くにしろ、ここだけやるにしろ、ダメなのだ。ダメなものはダメなのだ。

だから、長期騒音を浴びて、それだけで、脳が疲れ切っている場合は、「自分の脳をだます方法」は使えない。

だから、まあ、長期ヘビメタ騒音で脳みそが疲れ切っている状態ではない人向けの「具体的な解決策」ということになる。長期ヘビメタ騒音で脳みそが焼かれている人だけではなくて、普通の状態ではない状態の人は、ダメなのだ。

この「自分の脳をだます方法」というのは、普通の状態ではない状態の人には、向かない。

そうなると、「専門家に相談しろ」「薬を飲め」ということになるのだけど、これも、実は問題なのだ。「薬漬けグタグタ状態」になりがちだからだ。

けっきょく、きちがい的な意地で、きちがい兄貴が、ヘビメタを「ありえない音で」鳴らし続けた場合は、そういう、方法じゃだめだということになる。

*     *     *

ほんとうは、部分には分けられないのだけど、比喩的な説明をしたいと思う。

基本的には、「全体的な脳」と「全体的な脳をだます脳」という部分に分かれているような感じがするけど、実際には、メタ認知が成り立っている。

ようするに、ある目的を実行するために、自分の脳をだませばいいのだと思って、だまそうとしている自分を俯瞰的に認知している自分がいるということになる。

だから、「だまされる脳」「だます脳」「メタ認知の脳」ということになるのだけど、そもそも、比喩なのである。

わけても、しかたがない。

「メタ認知の脳」まで含めて「自分の脳だ」ということになる。

「自分の脳をだますというのは、比喩的にそういうところを想像してみればいいんじゃないかなぁーー」という話で、脳の実態とはちがうということだ。

「脳科学」というような言葉があると、あたかも、実体としての脳がそのような脳であるかのような誤解をうむわけだけど、ちがう。

*     *     *

というわけで、ほんとうにひどいことをやられて、脳が疲れ切っている人には、そういう方法は役に立たないわけだ。

けど、「だれにでも役に立つ」「どんな状態でも役に立つ」ということになっていると、軋轢が生じるのである。どうしてかというと、ほんとうは「だれにでも役立つわけではない」し、ほんとうは「どんな状態でも役に立つわげはない」からだ。

*     *     *

しかし、役に立つ人もいる。ある程度、普通の状態なのであれば、「まずやってしまう方法」は、有効な方法だといえる。どうしてかというと、ゼロではないからだ。ほんのちょっとでも、やれば、ほんのちょっとだけ、進む。ゼロではない。

普通の状態なのであれば、ちょっとは進んだことに満足して、はずみがつくかもしれない。たとえ、ちょっとでも、「はかどった感じ」がするので、わりと有効な方法なのだ。しかし、「普通の状態なのであれば」という条件が付く。

*     *     *

きちがい兄貴のきちがい騒音が殺人的なのは、「普通の状態」を二四時間、うばってしまうからだ。一年、三六五日中三六五日、つねに鳴らして「普通の状態」を十数年にわたって、うばい続けた。殺人的なことだ。

けど、ほかの人の「身の上」には起こらないことだから、ほかの人にはわからないのである。

だから、「普通の状態」で自分がやって、効果があると思ったことは、効果があると思うわけ。状態に関係なく、効果があると思うわけ。自分に効果があったから、エイリさんにも効果があるだろうと思うわけ。

そこで、ぼくが、「普通の状態じゃないから効果がない」「ヘビメタ騒音にたたられ続けたから、効果がない」ということを言うと……(相手は)へそをまげるわけ。

「エイリはネガティブなことばかり言うからダメなんだ」と思うわけ。けど、まず、その人にはきちがい家族がいないんだよ。そのきちがい家族が、ありえない音で、騒音を鳴らすことにこだわってことだわってこだわって、騒音を鳴らしたということが、その人の身に起こらなかったんだよ。

だから、知らないわけ。

「普通の状態」かどうかということは、その人にとって、関係がないことであるわけ。

「自分だってつかれる」「自分だってつかれているときはある」と思えば、ぼくが言っている「普通ではない状態」について誤解をすることができるわけ。

同程度の「つかれ」だと思うことができるわけ。

けど、実際には、きちがい家族による特殊な騒音というハンディがないわけ。けど、ないことしか経験してないのだから、あることについては、無視しがちになる。

きちがい兄貴がきちがい的な感覚で、よそのうちにおいては、絶対にありえないことをやってしまっているので、ぼくが誤解されるわけ。「普通の状態ではない暮らし」というのが、わかっていない人に、ぼくがそれを説明しても、説明された人は、よく理解しないわけ。

それが、決まっているんだよ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、長期間にわたって鳴っていた騒音なのだけど、この、長期間ということの特異性も、ほかの人は、無視してしまうわけ。

ともかく、ほかの人は 「エイリはネガティブなことばかり言うからダメなんだ」と思って、ぼくのヘビメタ騒音生活について、否定するわけ。

ヘビメタ騒音生活によって、不可避的に生じてしまう状態について、理解をしないまま、「そんなのは関係がない」と否定してしまうわけ。

たとえば、「ちょっとだけやる方法は有効だ」「これは正しい」と言って、ぼくが言っていることを否定してしまうわけ。

つまり、きちがい兄貴が、俺の言っていることを無視して、ぜんぜんでかい音で鳴らしていないつもりで、きちがい的にでかい音で鳴らし続けると、ほかの人の状態と、ぼくの状態のあいだにちがいができるわけ。

この状態の差は、そのまま、認知の差になるわけ。

「状態の認知」の差になるわけ。普通の状態しか経験していない人は、普通の状態について考えてものを言うわけ。普通の状態で「これが有効だ」と思ったから、「これは有効だ」と思っているわけ。

けど、俺は、きちがいヘビメタ騒音によって、「普通の状態で暮らせなかった」のだよ。普通の状態ではないのだよ。

だから、「普通の状態ではない」ことを前提にしてものを言うと、普通の状態でものを考えている人から見ると「(エイリは)ネガティブだ」ということになるわけ。

ネガティブなことを言うやつより、ポジティブなことを言う人が、いい人だと思っている人はネガティブなことを言うエイリは、よくない人だと思うわけ。

あるいは、ポジティブなことを言う人は、いい人で、ネガティブなことを言う人は悪い人だ」と思っている人は、ネガティブなことを言うエイリは悪い人だと思うわけ。

けど、きちがいヘビメタが鳴ってたんだよ。こころも、勉強時間も、睡眠時間も破壊してしまうようなきちがい騒音が鳴ってたんだよ。鳴ってない人にはわからない。どういう状態になるかわかっていないのだ。

けど、だれにでも、つかれた状態はあるし、たいていの人には騒音体験がある。

だから、つかれた状態ぐらい知っているということになるし、騒音体験ぐらい自分だってあるということになる。

その場合、程度を考えなければ、自分だってつかれた状態ぐらい知っているし、騒音体験ぐらいあるということになって、エイリが言っていることがまちがっていると思ってしまうわけ。

ともかく、溝ができるんだよ。

きちがい家族による頑固な頑固な騒音というのは、溝をつくりだすものなのだよ。きちがい家族の騒音にやられた人と、きちがい家族の騒音にやられていない人のあいだに、深い深い溝ができるんだよ。

きちがい兄貴は、そもそもでかい音で鳴らしているつもりがないし、ぼくがどれだけこまっているか(どれだけ言われても)まったくわからないので、「そんなことになっているとは知らない状態」で一生をすごすわけ。やられたこっちとしては、こういうことも腹がたつわけ。 

●「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかという言葉■社会※2025/09/30 1:20

たとえば、外部環境の悪さを、一から一〇までのレベルであらわしたとする。一が一番楽で、一〇が一番苦しいとする。

レベル一の人は、外部環境が一番いいわけだけど、それでも、「苦労」がないわけではない。外部環境が一番いい一段階い人でも、「苦労がある」ということだ。これは、重要だ。

ところで、世の中には便利な言葉がある。「自分だって苦労した」という言葉だ。この言葉を使えば、苦労を、同レベル化できるのである。

その場合、段階一の人がレベル一〇の人に「自分だって苦労した」というと、レベル一の人は、レベル一〇の人とおなじレベルの苦労をしたということになってしまうのである。

そして、いまは、段階を客観的な数値でのべているけど、実際には、レベルを表す客観的な数値なんてない。これは、言ってみれば、神様視点で、レベルを、かりそめに、決定しているだけだ。思考実験だ。

実際には、段階わけなんてない。客観的な指標はない。

そして、個人が自分で「このくらいの苦労をした」と自己申告すると、「このくらいの苦労をした」ということを言っているということになるのである。「このくらいの苦労をした」ということになるわけではなくて、「このくらいの苦労をした」と(その個人が)言っているということになる。

たとえば、ほんとうは神様視点で一レベルの苦労しかしていないのに、本人が「一〇レベルの苦労をした」と言えば、本人が「一〇レベルの苦労をした」と言っているということになる。

で、その個人の発言を、ほかの人がどう受け取るかというのも、あいまいなのである。特に、公式の基準があるわけではないのである。

だから、苦労レベルの自己申告には、つねに、相対評価が成り立っていて、基準もあいまいだということを覚えておこう。

そういう、相対性が成り立っているのだけど、それでも、神様視点で見ると、やはり、苦労の程度に差があるということが成り立っていると、仮に前提して話をすすめる。

問題なのは、「自分だって苦労した」という言葉のあとに、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉が続くことなんだよ。

たしかに、視点のちがいの問題がある。

客観的な指標がないという問題がある。

しかし、この世には、あきらかに、外部環境の差が存在している。

もともと、外部環境がよくて、苦労の度合いがレベル一の人が、苦労の度合いがレベル一〇の人に向かって 「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉を放つのは、傲慢であると(わたしには)思えるのである。

「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかという言葉は、「やり方が悪いんだ」とおなじように、相手のことをせめる言葉なのである。

もし、外部環境が悪くて、レベル一〇の苦労をしたら、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉を、ほかの人に言える立場にならなかったかもしれないのに、「自分だって苦労した」という言葉で、同レベル化して、言ってしまうのである。

「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉は、「やり方が悪い」「努力が足りない」というような攻め言葉とおなじ効果をもっているのである。

一連の流れがあるのである。

(1)「XをすればYになる」という疑似法則の提示(2)うまくいかない個体の発生(3)うまくいかない個体に「やり方が悪い」と言う人の発生(4)うまくいかない個体の反論(5)「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言う人の発生……というような「一連の流れ」がある。

XをすればYになるという疑似法則の提示するほうが、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言うわけだ。何度も言うけど、「XをすればYになる」という言葉のなかには、外部環境の差や内部環境の差が、一切合切存在しないのである。

けど、実際には、外部環境の差と内部環境の差がある。だから、うまくいかない個体が出てくることが決まっているのである。ほんとうは、「そんな法則はない」「そんな法則なんて成り立っていない」のだから、うまくいかない個体が出てくるのは、必然なのである。

しかし、うまくいかない個体が「内部環境」や「外部環境」について、言及すると……「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という反論をすることになっているのである。「XをすればYになる」という疑似法則の提示した側が、そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言うことになっているのである。

●この、ヘビメタ騒音の影響というのが、はかり知れない■騒音※2025/09/30 2:39

人から好かれることがあっても、ヘビメタ騒音で、それを、うまくいかせないというところがあった。

これ、実際に大音響・苦手な騒音生活をした人じゃないとわからないと思う。

ほんとうに、一日のすべてにたたるのである。

でっ、たとえば、ぼくを好いてくれた人に「ヘビメタ騒音のことを話すかどうか」で迷ったりするのである。これも、ヘビメタ騒音が実際に鳴っていなかったら、発生しなかったことなのである。こんな気持ちにならなくてよかったことなのである。

実際に、きちがい兄貴が、きちがい騒音を毎日、遠慮なく鳴らし続けるので、勉強ができなくなったり、遅刻をしてしまったりということが、ぼくの身に生じるわけなんだよ。

「だれだって朝は眠たい」と言う人もいるけど、それがちがうのだ。

ぼくは、きちがい兄貴が、きちがい騒音を鳴らし始める前の、朝のつらさも知っているけど、ほんとうに、朝のつらさのつらさがちがうのだ。

みんな、自分なら影響をうけないで、「今まで通りに」生活できる……という前提でものを言うけど、これもちがうのだ。「今まで通りに」生活できるはずがない。

そして、たとえば……ぼくを好いてくれた人と、いっしょにいても、ヘビメタ騒音の影響があって、うまくいかないのである。

そして、たとえば、ヘビメタ騒音の影響で、大学受験に失敗して、一浪したとすると、その一浪時代は、ぼくを好いてくれた人といっしょにいても、大学受験のことと、ヘビメタ騒音のことを気にした状態で、いっしょにいるということになってしまうのである。

この、ヘビメタ騒音の影響というのが、はかり知れない。

ヘビメタ騒音のせいで、はずかしい思いをしたり、ヘビメタ騒音のせいで「こころがはりさけんばかり」の思いをして暮らしているのだけど、それだって、ほかの人に言えば「騒音のせいにしている」と言われることになる。

もう、そういうことの繰り返しなのである。

そして、このことは、ほんとうにつらいことだから、きちがい兄貴にヘビメタ騒音を鳴らすときはヘッドホンをするように言うのだけど、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、なまの音にこだわって、スピーカーから鳴らすのである。

スピーカーから鳴らすときは、自分が満足できる音で鳴らすのである。

だから、きちがい兄貴が「気分的に」しずかにしてやったと思っているときの音も、めちゃくちゃにでかい音なんだよ。普通の家だったら一分間だって鳴らすことができない音で、きちがい兄貴がずっと、ドカスカ鳴らしているということが、続く。

*     *     * 

たとえば、切迫度というのが、わからないのである。よその人も、きちがい兄貴も、きちがい親父も、ヘビメタ騒音の切迫度というのがわからないのである。

きちがいヘビメタ騒音が鳴っているときの生活というのは、ヘビメタ騒音が鳴っていない時間帯も、切迫度が高い状態でくらしているのである。

自分にとって、「きちがい兄貴のヘビメタ騒音」の問題は、でかいでかい、問題なのである。

ところが、きちがい兄貴は、俺にとって、きちがい兄貴の騒音が、「小さい小さい」問題だと思っているのである。いちおう、文がおかしくならないように、「小さい小さい」問題として思っているようなことを書いたけど、ほんとうは、きちがい兄貴は「小さい小さい」問題だとすら思っていないのである。

ゼロなのである。

きちがい兄貴の感覚というのは、一秒も、でかい音で鳴らしていないときの感覚なのである。

だから、「小さな影響ですら」あたえていないと思っている状態が続くのである。

ここらへんが、きちがい兄貴と、きちがい親父がおなじなのである。

そして、こういう特殊な感覚が、一般の人にはわかないのである。

だから、ぼくは、不可避的に誤解をうけるのである。

 

*     *     * 

さっき、ぼくが、「ヘビメタ騒音のせいで勉強ができなくなる」ということを書いたけど、そういうことだって、「人のせいにしている」「ヘビメタ騒音のせいにしている」と言ってくる人がいるので、言いにくいことになるのである。

「人のせいにしている」「ヘビメタ騒音のせいにしている」と思われること自体が、たいへんに不名誉なことなのである。だったら、言わなければいい」ということになるのだけど、それがちがうのだ。

もう、他の人が、わからないぐらいに、誤解をうけている。

ほかの人というのは、誤解をする立場の人たちなんだよ。

かりに、ぼくが「ヘビメタ騒音のことを言わなかった」としても、ヘビメタ騒音が鳴っているので、ヘビメタ騒音が鳴っていないときのように、行動できないのである。

勉強も睡眠もそうなんだよ。

きちがい的な音のでかさで、自分がこの世で一番嫌いな音が、至近距離で、ドカスカ鳴っている状態というのは、異常な状態なんだよ。

どれだけ、影響をうけないようにしても、不可避的に影響をうけるんだよ。

けど、ほかの人は、実際に自分が経験しているわけではないから、『影響をうけない』という前提でものを言ってくるようになるんだよ。

そういう人たちに……「ヘビメタ騒音のことを言うにしろ、言わないにしろ」……ぼくは、非常にでかい誤解をうけることになるのである。

*     *     * 

つねに、ぼくが、はずかしい思いをしたり、恥をかいたりすることになるんだよ。ほかの人が、ぼくを軽蔑したり、軽く見るようになるんだよ。

どうしてかというと、ヘビメタ騒音が鳴っているからなのだけど、ヘビメタ騒音が鳴っているということを言うと、たいていの人は「エイリが騒音のせいにしている」「エイリがお兄さんのせいにしている」と思うんだよ。

「そんなのは、お兄さんに言えばいいだろ」と思うんだよ。「言えば、ちゃんと静かにしてくれるよ。家族なんだから……」と思うんだよ。

ほんとうに、恥をかいて生きてきた。これ、ほんとうに、ちがうのである。これ、ちがうのである。みんな勘違いしているけど、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったら、ほんとうにちがうんだよ。

全部がちがう。きちがい兄貴が、きちがい的な意地できちがい的な音のでかさで、きちがい音楽を鳴らしていなかったら、ほかのやつから、軽く見られることもなかったし、 「エイリが騒音のせいにしている」「エイリがお兄さんのせいにしている」と思われることもなかったのである。

だから、こういうこと自体が、葛藤状態になることなのである。 

いまですら、「ヘビメタ騒音のせいで勉強ができない」と言うことには、抵抗がある。抵抗があるけど、もう、学生時代ははるか遠くにしりぞいたので、生きているうちに、言っておこうと思って、言った。書いた。

「ヘビメタ騒音のせいで勉強することができない」とか「ヘビメタ騒音のせいで勉強ができなくなる」とかと言うことは、非常に不名誉なことなのである。

けど、この現実がわかるか? わかるわけがないか?

きちがい家族による「普通ではない騒音」が、どれだけ「勉強すること」や「学業成績」に影響をあたえるか、ほかの人にはわからない。

みんな、「そんなの鳴ってたって、自分なら勉強することができる」と思っているんだよな。

まあ、ヘビメタが好きな人だと特にそうだろう。

けど、ヘビメタではなくて、自分にとって一番嫌いな音楽だったらどうなんだという話だ。めちゃくちゃにでかい音で鳴っている。ほんとうに、至近距離で鳴っている。あんな音で、きちがい音楽を鳴らしているうちなんてない。

これも、不思議なことなんだけど、きちがい兄貴が、実際に、あの音のでかさで、ずっと鳴らし続けることができたというのが、奇跡なんだよ。ほかの環境じゃ、ありえないことなんだよ。

絶対に、親がどうにかしようと思うし、近所の人だって、もっとガンガン文句を言ってくるはずなんだよ。これ、たまたま、騒音耐性が強い人たちで、言いにくかったから、言わないですごしてしまった人たちなんだよな。

これ、きちがい親父がある程度影響していると思う。

実際、きちがい親父が、庭で(となりの人から)言われたときは「人の息子が鳴らしているのになんだ」と言って、おこってしまったのである。こんなの、ない。

頭がおかしい。きちがい親父が、隣の家の人に、ヘビメタ騒音のことで文句を言われたときの話だ。

2025年9月29日月曜日

●チャンスをつかむように、アンテナを張り巡らせればいい■精神世界※2025/09/29 17:23

「すべては運次第」と考える人は、チャンスを受け止めるアンテナを張り巡らせればいいというようなことを言う。ようするに、チャンスは平等に降り注いでいるのだから、チャンスをつかむように、アンテナを張り巡らせればいいということになるのだ。

しかし、いまの環境で、こんなことをやったら、すぐに詐欺に引っかかってしまう。運しだいだと思っている人を、だますような「おいしい話」が、そこらへんに、ころがっているのだ。高確率で、詐欺に引っかかってしまう。

運しだい論もそうなんだけど、詐欺的な行為と親和性が高いのである。……精神世界の話と言うのは、詐欺的な行為と親和性が高い。言霊理論にも、思霊理論にも、引き寄せ理論にも、それぞれ、「だまし」の部分がある。それこそ、だまされやすい人を、引き寄せている。

そして、最後には、「自己責任論」でとどめを刺すのである。 

●ところが、みんな、みんな、そんなことは、しない■精神世界※2025/09/28 17:03

 精神世界で言われていることというのは、「弱い立場の人」「こまっている人」を追いつめることなのである。

きちがい的な親に虐待されている子どもがいるとする。きちがい的な親は、きちがい的な親の内部的な環境によって、きちがい的な反応をしているのだ。

だから、子どもの姿が、自分の目の中に入ったら(見える範囲に入ったら)……そのまま、きちがい的な理由をつけて、いかりくるうということをするのである。

子ども側の人が「やめて」と言ったってやめないのである。

しかし、たとえば、言霊主義者は、子ども側の人が「虐待される」と言ったから、虐待されたということを言いだすのである。

思霊主義者は子ども側の人が「虐待される」と思ったから、虐待されたということを言いだすのである。

引き寄せ主義者は、子ども側の人が「虐待される」ことを引き寄せてしまったからダメなんだと言い出すのである。

受け止め方主義者は、子ども側の人が「虐待される現実」を創造していると言い出すのである。

それぞれの、対応策について言っておこう。

言霊主義者の対応策は「きちがい的な親は虐待しない」と言えばいいということになるのである。

思霊主義者の対応策は「きちがい的な親は虐待しない」と思えばいいということになるのである。

引き寄せ主義者の対応策は「虐待されないことを強くイメージすればいい」ということになるのである。

受け止め方主義者の対応策は、「ネガティブなことも、受け止め方をかえれば、ポジティブなことになるから、虐待されたと受け止めずに、いいことが起こったと受け止めればいい」ということになるのである。

全部、使えない対応策なのである。

まったく無意味な対応策なのである。

けど、精神世界の人は、有効な対応策だと思ってうたがわない。

「無意味な対応策だ」と言うと、言われただけで、おこってしまう傾向がある。そして、自説をゆずらずに、繰り返すということになる。

精神世界の人が、ゆずってくれることは、まずないのである。言霊主義者が言っているとが、ほんとうなら、言霊主義者が「その親は、二度と虐待しない」と言えば、それで、解決してしまう問題なのである。

思霊主義者が「その親は、二度と虐待しない」と思えば、それで、解決してしまう問題なのである。引き寄せ主義者は、「いい親を引き寄せてあげればいい」のである。

受け止め方主義者は、「すべては受け止め方の問題だ」という受け止め方を、かえればいいのである。「受け止め方の問題には還元できない部分がある」ということを認めればいいのである。

ようするに、「すべては受け止め方の問題だ」という受け止め方をかえて、「すべてを受け止め方の問題にするのは、よくないことだ」と受け止め方をかえればよいのである。

そして、「虐待されたほうが、虐待されたと認識するから、虐待されたという世界ができあがる」ということを言ったということを、反省するべきなのである。

ところが、ぼくの知る範囲では、みんな、みんな、そんなことは、しない。

そういうレベルだ。

ぼくの知る限りでは、精神世界の人は「教条主義はよくない」ということを、よく言うけど、彼らの多くは教条主義になっている。自分のドグマで縛られている。

*     *     *

人には「受け止め方をかえればいい」と言っている人だって、自分が一倍速で経験していることに関しては、自分が侮辱されたと思ったら、おこるのである。受け止め方をかえれば、おこらなくてもいいわけだから、その考えを実践しているわけではない。

自分が一倍速で経験していることに関しては、自分が、ちょっとでも不利な立場に立てば、不満を感じるのである。人には「受け止め方をかえればいい」と言っている人も、普通に不満を感じるのである。受け止め方をかえて、不満を感じないようにするということは、しないのである。

受け止め方の問題だから、不満を感じたときは「うれしい」と受け止め方をかえればよいのである。ところが、自分が、一倍速で経験していることに関しては、その人たちも、受け止め方をかえないのである。

自分が一倍速で経験にしていることに関しては、受け止め方主義者も、自分の受け止め方に固執するのである。事柄が中立的に発生しているから、自分の受け止め方をかえればいいと思って、受け止め方をかえたりしない。

●毎日、つもっている……「朝の感情」が……からだをおそうのである■騒音※2025/09/29 12:09

ほんとうに、ヘビメタ騒音のつらさが、つもるのである。

毎日鳴っているから、毎日、つもるのである。つもったときのしんどさが並じゃないのだ。

でっ、それは、ほかの人が経験したことがないしんどさだから、ほかの人にはわからない。ほかの人の場合、きちがい家族が、きちがい的な意地で、普通ではない時間の長さ、普通ではない音で、騒音を、毎日、鳴らし続けるということがない。

経験としてないのだ。だから、経験として「つもった」ことがない。

「過去は関係がない」とかいきなり言ってしまう人は、その人がどれだけ「俺だってつらいことはあった」「わたしだってつらいことはあった」と言ったって、「過去は関係がない」と言ってしまうレベルのだから、ぼくと同等のつかれを経験したことがないといえる。

この人たちに、きちがい家族がいるかというと、いないのである。きちがい家族が、きちがい的な意地で毎日、きちがい的な騒音を鳴らし続けたということが、あるかというと、ないのである。

けっきょく、「つもって、しんどい」ということがわからないのだ。つもった場合のしんどさがわからない。

あの経験がないやつが、「過去は関係がない」と言ったあと、「俺だってつらいことはあった」「わたしだってつらいことはあった」と言う。これだって、相当にいやなことだ。

無理解ぶりを発揮しているやつが、勘違い発言をしているのだから、いやになる。

けど、こういう状態は、きちがい兄貴によってつくられたのだ。きちがい兄貴が普通の人じゃないから、ぼくが普通の人が経験しない苦痛を経験した。しんどさを経験した。つかれを経験した。

ヘビメタ騒音で、ほんとうに、夜、眠れないのだ。ヘビメタ騒音が鳴ってなければ、普通に眠れたんだよ。

「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言う、普通の人たちには、わからないことだ。きちがいヘビメタを……長時間浴びせられると、鳴り終わったあと、ずっと眠れなくなる。

けっきょく、入眠するのは、午前4時から5時というとになる。

そういう毎日が続けば、最初はストレス対抗でなんとか、くるしくても、なんとかやり過ごすことができるけど、ストレス対抗でやっていて、なおかつ、そのストレスを引き起こしたストレス刺激が、ずっと毎日続くわけだから、疲弊してしまうのである。

その疲弊は、一日のなかで、眠れば解消できる疲弊とはちがう。ぜんぜん、ちがう。こういうこともわかっていないやつが、「俺だってつらいことはあった」「わたしだってつらいことはあった」と言って、クソを言ってくる。「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってくる。

これ、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言われたとき、俺がどんな気持ちになるか、わかっていないだろ。「元気だ元気だと言えば元気になる」と言うやつは、まったくわかっていない。

で、そういうところの差が、またまた、トラブルを引き起こすのである。つみさかさなった疲労があるので、「元気だ元気だと言えば元気になる」という発言は、こたえるのである。

「うっ」と思うのである。「そんなんじゃない」と思うのである。「やっかいだな」と思うのである。

毎日、つもっている……「朝の感情」が……からだをおそうのである。リコールしてしまうのである。どうしても、感覚ごと思い出してまうのである。

その感覚と「元気だ元気だと言えば元気になる」と言っているやつの感覚には差がある。「元気だ元気だと言えば元気になる」と言っているやつは、まるでわかっていない。

けど、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言っているやつが「俺だってつらいことはあった」「俺だって、つかれることはある」と言うのである。

もう、はっきり言ってしまうと、こういうやつは、俺にとって害虫なんだよ。けど、害虫だという感じ方は、これまた、問題がある。

けど、きちがいヘビメタ騒音が積み重なると、そうなってしまう。言うに言えない感情もつもりまくる。感覚は、自然に、ウツ側に傾くのである。そして、「元気だ元気だ」と言ったって、まったく元気にならないのである。

2025年9月28日日曜日

●スイッチが入っちゃうと、どれだけ言っても、むだなんだよな■家族※2025/09/28 23:27

自分のブログだから書いちゃうけど、つまんない。粗大ごみを運んでくれた人たちが、ダニにさされたわけだけど、それが気になる。

もうそれは、五年前だけど、気になる。メインの人は納得していたみたいけど、サブの人は納得してなかったからなぁ。

たぶん、刺されたと思う。

それについて考えていたら、きちがい親父が、きちがい的な顔で「ネズミシートで捕まえるからいい」と絶叫していたのを思い出した。親父がネズミシートでネズミを捕まえるから、工事をしなくてもいいという意味だ。俺が、「工事をしよう」と言えば、「ネズミシートで捕まえるからいい」と親父が絶叫していたのだ。

これ、スイッチが入っちゃうと、どれだけ言っても、むだなんだよな。ネズミがはいってきてから、ネズミを捕まえても、ネズミの糞が増えるんだよ。ダニが増えるんだよ。ネズミの小便が壁や床につくので、部屋がくさくなるんだよ。

「ネズミがはいってきてから、捕まえる方法だと、ネズミの糞が増えるから、工事をしよう」と言っていたのだ。その答えが「ネズミシートで捕まえるからいい」「ネズミシートで捕まえるからいい」「ネズミシートで捕まえるからいい」なのだ。

ほんとうに、こまる。

きちがい兄貴が鳴らしていなかったら、俺は、こんな家に住んでいなかった。

きちがい親父は、魚をだしっばなしにして、ネズミのばい菌で死んでいた。それで、あとになって発見されても、ぼくは、関係がない状態だった。

ぼくが、きちがいヘビメタ騒音にやられないで、別の家に住んでいたら、きちがい親父のきちがい行為に、巻き込まれることはなかった。

粗大ごみを運んでくれた人のことを考えると、めちゃくちゃに、重たい気分になるのである。

ダニにされた人の気持ちがわかるからだ。「こんなこと、やってやれるか」という気持になるだろ。「どうして、俺がダニにさされなきゃいけないんだ」という気持になるだろ。

わかるんだよ。

だから、「もうしわけない」と思うんだよ。メインの人は、バルサンをたいても、布団などをいじれば、ダニにさされることもあるということを知っていたみたいだけど、サブの人は知らなかったみたいなんだよな。

ぼくは、全部の部屋で、バルサンをたけば、だいじょうぶだと思っていたんだよ。だから、サブの人がメインの人に「かゆい」と言ったときに、気がついた。メインの人も、サブの人も、俺には、文句を言わなかった。

けど、呼んだのは俺だから、気になるのである。

●おなじ文字列に込められた言霊の量と質はおなじなのかという問題がある■言霊※2025/09/24 0:42

とりあえず、長期・慢性疲労と短期・非慢性疲労をわけることにする。

長期慢性疲労は、何十年間も積み重なった疲労のことだとする。ようするに、眠ったあとも、続く疲労だ。短期・非慢性疲労は、一回眠れば、とれるタイプの疲労だ。一度、夜、ちゃんと眠れば、それでリセットされてしまうような疲労だ。

どっちも、「つかれ」だ。

ところで、四〇年間、長期通勤をしてつかれはてている人がいたとする。この人をAさんだとする。Aさんは、一日のなかで、短期の疲労も、もちろん感じる。

けど、子どもや、わかい人のように、眠ってしまえば疲れがとれるわけではない。長期疲労がたまっているからだ。

まだ、サラリーマン生活をはじめたばかりのわかい人がいたとする。この人をBさんだとする。

ところで、言霊主義者というのは、「言ったこと」に注目しがちだ。「つかれた」と言ったら、「つかれた」という言葉はわからないので、「つかれた」と言った人を、平等に扱うのである。ようするに、区別なく扱う。

「つかれた」という言葉を発した人は、おなじように「つかれた」という言葉を発した人なのだ。だから、長期・慢性疲労と、短期・非慢性疲労の区別をしない。

Aさんが「つかれた」と言っても、Bさんが「つかれた」と言っても、「つかれた」という言葉から発生する?つかれの量は同じなのだ。あるいは、「つかれた」という言葉に宿っている言霊がもたらす「つかれ」の量は同じだと推測できる。

言霊主義者というのは、相手の過去の出来事を無視する傾向がある。言霊主義者が、唯一、重視する「相手の出来事」がある。それは、「言った」という出来事だ。

しかも、言霊主義者は「言ったから、そうなる」と思っているのである。

Aさんが「つかれた」と言ったとする。言霊主義者から見るとAさんがつかれたと言ったから、Aさんはつかれたのだということになる。おなじように、Bさんが「つかれた」と言ったとする。言霊主義者から見るとBさんがつかれたと言ったから、Bさんはつかれたのだということになる。

Aさんにはある四〇年の長距離通勤のつかれが、無視されてしまうのである。

だいたい、Aさんは、「つかれた」と言ったからつかれたのではない。四〇年間の長距離通勤にプラスして、今日のそれまでの時間内に、いろいろな出来事が発生したから、つかれたのだ。

四〇年間の長距離通勤にプラスして、今日のそれまでの時間内に、いろいろな出来事が発生したから「つかれた」と言ったのである。

どうして、四〇年間の疲れを無視してしまうのか?

言霊主義者は、過去否定論者じゃなくても、過去を否定する人間なのだ。この場合、条件がつく。相手の過去は無視するけど、自分の過去は無視しないのだ。

自分が一倍速で四〇年年間の長距離通勤を経験した場合、自分にはそれがわかるので、無視しないのだ。こういう幼稚で単純なところがある。

もう一つ、言霊主義者が無視しない過去の出来事がある。それは、「言った」という過去の出来事だ。「言った」という過去の出来事だけは、例外なのだ。

言霊主義者も、人間なので、「つかれ」という感覚は知っている。なので、「自分だってつかれたことがある」と言えば、それで、相手と同程度の疲れを感じたことがあるということに、なってしまうのだ。

言霊主義者の頭のなかでは、自分も相手と同程度の疲れを感じたことがあるということになってしまう。

これと、「つかれた」と言ったということ以外の過去の出来事を無視してしまう思考が合わさると、自分も相手と同程度の疲れを感じたことがあるという立場で、相手の数十年にわたるつかれを否定することができるのだ。

だって、自分だってつかれたことはあるわけだし、言霊主義者にとって大切なのは、発言だけだから、相手が「つかれた」と言ったら、どういうつかれなのかということは、無視して、「相手がつかれたと言った」ということだけを重視するからだ。

*     *     * 

問題なのは、「つかれた」という言葉に宿っている「つかれ」の量は、「つかれた」という言葉に宿っている「つかれ」の量によって決まると、言霊主義者が考えているかどうかということだ。言葉がおなじなら、おなじ量の「言霊」が宿っていると思うのかどうかということが問題になる。

断言することはできないけど、文字列がおなじなのだから、おなじ文字列から出てくる言霊の量は、おなじだと、言霊主義者が考えているかもしれないという疑いがある。

言霊主義者は、ものすごく、単純な理解しかしないんだよなぁ。

相手が「つかれた」と言ったら、「つかれたんだな」としか理解しない。どういう質のつかれが、どのくらいの量あるのかということは、気にしないところがある。気にしないので「どんなにつかれていても、元気だ元気だと言えば元気になる」と他人に言えるところがあるのではないか。

相手のつかれの質というのは、相手の経験に関係なく、平均化されてしまうのではないか。

相手が「つかれた」という文字列を使うなら、その文字列に対応した「つかれ」しか、言霊主義者は感知しないのではないか。「つかれた」という言葉に宿っている言霊があるとする。

Aさんが「つかれた」と言っても、Bさんが「つかれた」と言っても、「つかれた」という言葉に宿っている言霊のもたらす「つかれの量」は、かわらないのではないかということだ。

そういう理解を言霊主義者がしているのではないかということだ。

言霊主義者は、相手の過去を無視する傾向がある。「つかれた」という言葉が発せられた背景というものについて、深く洞察しないのだ。

相手が「つかれた」と言ったら「つかれたんだな」と思うだけでどういうことが起こって、つかれたのかということは、深く考えないのである。ようするに、相手の言葉以外の、相手の背景を無視する傾向が(言霊主義者には)ある……ように、わたしには、思える。

まあ、ともかく、それとは別に、おなじ文字列に込められた言霊の量と質はおなじなのかという問題がある。もちろん、言霊はないし、言霊の力もないので、言霊主義者がどう考えているのかということが問題なのである。

「つかれたと言うからつかれる」と言霊主義者が言ったとする。「つかれた」という言葉に宿っている言霊の量は、だれが言ってもおなじなのだろうか。「つかれた」という言葉がもたらす、「つかれ」の量がおなじなら、おなじだということになる。

もちろん、質は、無視されている。だってそうだろ。言霊主義者は、相手の背景を無視している。過去の出来事によって、相手の背景が決まるのである。

もちろん、相手が言葉にして表現したぶんしか、他人である言霊主義者は理解しない。相手が表現していない部分が、相手の経験のなかにはあるのではないかということは、可能性としても考えられることがないのだ。言霊主義者によって考えられることがない。

文字列がおなじ言葉なら、おなじ量の言霊、おなじ質の言霊が宿っていると言霊主義者が考えるかどうかということについて、ぼくは、考えているのである。 

*     *     *

ともかく、言霊主義者の理解というのは単純で、相手が「つかれた」と言ったら「つかれたんだな」ぐらいしか感じないのである。

そこには、「平準化された」つかれしかないのである。「つかれた」という言葉がおなじなら、だれが言っても、「つかれた」という記号しか、言霊主義者にはつたわらないのかもしれない。

言葉は、平準化されるなら、記号でしかないんだよ。 

*     *     *

ところで、言霊主義者は、おなじ文字列に宿っている言霊は、おなじ言霊だと思っているのだろうか。「思いが強いほうが勝つ」というような考え方があるのである。もし、思い別良いほうが勝つ」と言霊主義者が思っているなら、おなじ文字列に宿っている言霊は・おなじではないと考えているということになるのである。

『思いが強いほうが勝つ』という言霊主義者の発言について、説明しておこう。
たとえば、AさんとBさんが試合をするとする。Aさんが「勝つ」と言ったとする。言霊的な理解をするなら、「勝つと言ったのだから」Aさんが勝つのだ。

そして、Bさんも「勝つ」と言ったとする。言霊的な理解をするなら、「勝つと言ったのだから」Bさんが勝つのだ。

AさんもBさんも「勝つ」という言葉を使っている。「勝つ」という文字列に込められた「言霊の量」はおなじなのだろうか?

ちがうのだろうか?

すべての言霊主義者が『思いが強いほうが勝つ』と言うかどうかは、わからない。

けど、多くの言霊主義者は単純なので、AさんもBさんも「勝つ」といった場合には、「勝つという思いが強いほうが勝つ」などと言ってしまうのだ。

Aさんの実力やBさんの実力は関係がないのである。言霊主義者は言ったかどうかを問題にする。外部環境も内部環境も、すべて、無視して、「言ったかどうか」ということしか、問題にしない。

「言えば言ったことが現実化する」のだから、そうなる。

言ったかどうかだけが問題になるのである。

その人の実力も、その人のコンディションも、関係がないのである。ところが「勝つ」と言ったほうが、勝つのだ。

両方とも「勝つ」と言った場合は、「思いが強いほうが勝つ」などと、多くの言霊主義者が言ってしまう。

しかし、それは、言霊ではなくて、思いが強いかどうか問題であるということを言っているのである。

言霊は関係がないということになってしまう。

こういうところでも、言霊主義者の考え方というのは、幼稚で支離滅裂なのだ。矛盾ばかりなのだ。

「言い方が悪いから、現実化しなかった」と言霊主義者が言う場合もある。

これは、あとだしで言うことだ。

最初は、どんな言霊主義者も「言えば、言ったことが、現実化する」というのだ。現実化するのだから、現実化しないということはないのである。

ところが、現実化しないということが起こった。それに対する、くるしまぎれの言い訳なのだ。

もうすでに指摘したことだけど、「言い方が悪いから、現実化しなかった」ということは、「言っても言い方が悪いと現実化しない(こともある)」と言っていることになる。

「言えば、言ったことが現実化する」というのは、「言えば、一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ということと意味的に等価なので……もう、この時点で、理論的に破綻している。

けど、今回、言いたいのはそのことじゃない。たとえば、言い方によって、こめられる言霊の量を調整できると思っているのかどうかということだ。

もちろん、言霊主義者がどう思っているかということが問題なのである。基本的に、言霊理論はまちがっているので、そんなことを考えてもしたがないと思う人がいるかもしれないけど、ぼくの研究対象は、言霊を信じている人たちなのだ。

言霊自体ではない。

どうも、言霊主義者は、ほぼ全員が「思いを込めて言えば、言霊の量を調整できる」と思っているみたいなのだ。

言霊に込められる思いの量がちがうと思っているみたいなのだ。

そして、思いの量がそのまま、言霊の量になると思っているみたいなのだ。「みたい」という話なるけど、しかたがない。

*     *     *

「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という理論の場合、言霊の力というのは、言葉に(最初から)宿っているので、自分が「宿らせる」力じゃないんだよなぁ。

ここも、なんか、自分が宿らせる力があると思っているみたいなんだよな。

言い方によって、自分が(言葉に)宿らせる言霊の量がちがうと思っているみたいなんだよな。

けど、「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という理論の場合、自分の言い方は、関係がない。

自分が宿らせる力はない。自分が宿らせるのではなくて、言葉に宿っている力なのである。こういうところも、なんか、幼稚なんだよな。

自分が強く言えば、言霊の量も増えて、言霊の力が強くなると思っている部分がある。

だから、「言い方」が問題になる。

けど、「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という理論の場合、言い方に関係なく、言葉に宿っている言霊の力によって、一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化するということになるわけだから、言い方は問題にならない。

●例からの「飛躍」があるのである■精神世界※2025/09/28 11:45

 精神世界の教祖は、単純な例をあげて、法則性について説明をするけど、法則性なんて成り立っていないことのほうが多い。いつも、そうなることではないのだ。しかも、例が架空世界の例になったりする場合もある。ここらへん、注意して考えないとだめだよ。

一例をあげて、法則性について説明したとする。そうすると、すべての場合において、その法則が成り立つような印象をあたえるけど、ちがう。

Aという事柄の集合と、非Aという事柄の集合があったとする。Aという事柄の集合の場合は、ある法則(アルファ)が成り立つとする。

けど、非Aという事柄の集合の場合は、その法則(アルファ)は成り立たないとする。

けど、アルファという法則が、非Aいう事柄の集合にも成り立つような印象を与えてしまうのだ。

たとえば、アルファという法則が「XをすればYになる」というような言葉で表現される場合、Xのなかに、Aという集合しか入らないのであれば、非・Aの集合においては、当然、「XをすればYになる」というようなことは言えないということになる。

*     *     * 

人間に関することを、あたかも、物理法則のように言ってしまうことが、はやっているのだけど、これは、よくない。

例からの「飛躍」があるのである。すべての例について言及することができないので、例というのは、通常、いくつか挙げるだけになる。

その場合、物理法則なら、例として挙がった例、以外の例にも、物理法則が成り立っているのである。

しかし、人間に関することだと、そもそも、例ですら、不適切な例である場合がある。

そして、例として挙がった例、以外の例については、まったく成り立たない場合がある。

そして、これを言っちゃーーおしまいなのだけど、ともかく、言葉のなかに出てくる項目の意味を一意に決められないのである。

人間に関する法則性があるような文のなかに出てくる「項目」は、物理法則のなかに出てくる「項目」とは、本質的にちがうのである。

しかし、人間に関する法則について述べられる文も、物理法則について述べられる文も、区別されないのである。

信者の頭のなかでも、教祖の頭のなかでも、両者の区別ができていない。

抽象的に真似した言い方になっているので、区別がついていない。

物理的な法則について述べる文と人間に関する法則について述べる文が似ているので、「おなじようなものだ」と理解してしまっているのである。

しかし、ぜんぜんちがうものなのだ。

●これ、いま考えてみると、トラブル発生装置なんだよ■騒音※2025/09/27 23:55

「なるべく明るく振舞えばいい」と思うかもしれない。

なるべく明るく振舞うと、悪いことが起こるのである。ぼんくらな、精神世界の人たちが言うことは、全部試してみたけど、全部、マイナスのことしか起こらないのである。

明るく振舞うと……いやなことが発生してしまうのである。明るく振舞うと……失敗してしまうのである。

なんていうかな……。ほんとうは、くるしいわけだから、失敗する。

わからないかな?

これ、ほんとうに、いいことにならないんだよ。精神世界の人たちは苦労した言っても、きちがい家族に、きちがい的なことをされたわけではないのだ。毎日毎日、きちがい家族が、きちがい的な妨害行為をしてくるわけではない。

みんな「苦労した」と言っているけど「精神世界で言われていることを信じるぐらいには」……余裕があるのだ。

たとえば、「明るいことを思うと明るいことが起こる」「どれだけつらいことがあっても、明るく振舞う」……こういうことを信じて行動すると、不愉快なことが起こるのである。

「ニコニコしていればいいことがある」……こういうことを信じて行動すると、とてつもなく不愉快なことが起こるのである。これ、あたりまえなんだよ。

むしろ、あたりまえなんだよ。

不愉快な出来事が発生して、あたりまえなんだよ。そういう、プロセスが、わかっていないということは、自分でやってみたことがないということなんだよ。

きちがいヘビメタ騒音生活をしている状態で、上記のことをこころみたことがないんだよ。きちがいヘビメタ騒音生活と同レベルのことが発生している場合、上記のことをこころみても、よくないことが発生するのである。

これがあたりまえなのである。

よくないことが発生するということが、からだでわかっていないということは、きちがいヘビメタ騒音生活レベルの……つらい生活をしたことがないということなのである。

やってみればわかる。

けど、生活のほうが、ほぼ同じ状態じゃないとわからないわけだ。

「元気だ元気だと言えば元気になる」「俺は、元気だ元気だと言ったら、実際に元気になった」「俺は、楽しい楽しいと言ったら、実際に楽しくなった」……こんなことを言うやつが、同レベルの生活を経験しているわけがない。

同レベルの生活を経験していたら、絶対に、こんなことは言えない。

自分のからだで、「マイナスのことが発生する」ということが、わかる。

ほんとうに、これ、いま考えてみると、トラブル発生装置なんだよ。

もうひとつの、トラブル発生装置なんだよ。いま考えてみると、寝不足状態で、めちゃくちゃにくるしい状態なのに、明るく振舞おうとすると、いろいろなトラブルを引き起こすということが、わかる。

これ、じつは、トラブルを増やす方法なんだよ。言霊的な解決方法にかぎらず、精神世界で推奨されているような方法は、じつは、トラブルを増やす方法だ。

もちろん、こいつらは、「やり方が悪かったんだ」と俺のせいにするだろう。

しかし、酩酊状態で失敗が多くなるように、普段だったら絶対にやらないような失敗が増えるのである。どれだけ、つらい状態でくらしているか、ほんとうにまったくわかっていないなぁ。

これ、わかっていないやつらが、クソを言ってくる。

トラブルが増えるようなことを言ってくる。失敗が増えるようなことを言ってくる。

寝不足で、ハイになっている状態というのは、ちょっとだけ酒を飲んで、ちょっとだけ酔っ払っている状態に似ている。

意識水準が下がるので、普段なら、やらないようなことをやってしまったり、普段なら言わないことを言ってしまったりする。トラブルのもとだ。


2025年9月27日土曜日

●脳も内臓も影響をうける■騒音※2025/09/27 23:45

 ほんとうに、みんな、どういう影響が出るかわかってないんだよなぁ。

ぜんぜん、わかってない。

わかってないやつが、自分なら平気だという前提で、クソを言ってくる。こっちのからだは、もう、ダメな状態なんだよ。なにが「元気だ元気だと言えば元気になる」だ!!

ふざけんな。「そういうレベルじゃないんだ」と言っているのに、こいつらは、こいつらで、まったく理解しない。

こんなアホな連中に、えらそうなことを言われる。帰れば……家に帰れば、きちがいの音ががんがん鳴っている。あの中にいて……あの音のなかにいて、ダメージをうけないということができないのである。

そりゃ、たしかに、勉強ができない時間ではあるけど、勉強ができないということだけでこまっていたわけではないのだ。脳みそを含んだ身体が、影響をうける。脳も内臓も影響をうける。実際に、あの音をあびている……からだ。

これ、きちがいの音を、放射線のようにあびている。

だから、鳴り終わったあとも、不可避的に影響をうける。特に脳のダメージが並じゃない。勉強、意欲、睡眠リズム、すべてに影響がある。どうしても、影響が出る。

けど、ほかのやつらは、やられてないからわからない。これ、ほんとうに、この至近距離で『きちがい家族に』ずっと、何時間もやられるということが……。きちがい家族にやられるということの意味が……。何時間もやられるということの意味がわかっていない。

きちがい家族にやられるということの意味がわかっていない。

みんな、それを軽く見る。それを、無視する。その影響なんてないと考える。

「そんなの関係ない」という言葉がどういうふうに、俺に響くのか、まったくわかっていないやつばかりだ。

「そんなのは、関係、ない」「騒音なんて、関係ない」「鳴り終わったら関係ない」……そんなことを言われて、腹がたたないわけがない。

これ、普通の人は、「正しい」と思って言っていることなんだよな。

そして、きちがい兄貴のように、俺が言っていることを認めない。そういう態度をとっておいて、自分が俺(エイリ)に、いいことをしてやったと思っている。

「エイリがわかっていないから、教えてやった」と思っている。

「社会のルールを教えてやった」……と思っている。「言霊的な解決方法を教えてやった」……と思っている。

クソ野郎だよな。

頭にくる。

●暴力並みの力をもつものなのである■騒音※2025/09/26 14:26

 ほんとうに、ぼくにとって、ヘビメタという音楽は、普通の騒音じゃないのである。何も考えられなくなるものすごく不愉快な音なのである。激しく頭にくる音なのである。

頭にくる状態で、なにもできなくなってしまうのである。

ほんとうに、おなじ音量で鳴らしていても、別の曲だったらどうにかなったかもしれないけど、ともかく、ヘビメタはダメなのである。それから、誤解をしている人がいるけど、きちがい兄貴は、自分の耳が悪くなるような爆音で聞いていたんだよ。

きちがい兄貴が、「最大限ゆずったときの音」も、おなじ程度の爆音なんだよ。ぼくが、三味線や、フォークギターぐらいの音で、「勉強ができない」と愚痴を言っていると思っているやつがいるけど、それはちがうんだよ。

けど、そいつに、どれだけ……「爆音のヘビメタと、三味線やフォークギターはちがう」と言ったって、そいつは、認めない。ちがいを認めない。

三味線は、弦をはじく音だ。物理的に、音のでかさがだいたい決まってしまう。フォークギターもそうだ。どれだけ爆音で、フォークギターを弾こうと思っていても、爆音で弾くことはできないのである。耳障りな音を出し続けることもできるけど、それは、フォークギターがもっている本来の音以上の「音のでかさ」で鳴っているわけではない。

けど、エレキギターだと、アンプがあり、巨大スピーカーがあるのだから、音としては、イクラでも大きくすることができるのである。エレキギターのアンプつきスピーカーのでかさというのは、ラジオやテレビについているスピーカーのでかさとはちがう。

ラジオやテレビについているスピーカーよりも、物理的にでかい音が出せるようになっているのである。

もちろん、ボリュームを調節できる部分があるので、ラジオぐらいの音で鳴らすこともできるけど、爆音で鳴らすこともできるのだ。

たとえば、普通のラジオについているスピーカーの口径が八センチだとする。きちがい兄貴のアンプ付き、スピーカーは口径が三〇センチぐらいあるものだった。そして、六畳間に入れた、スピーカーの口径も、三〇センチぐらいあるものだった。

六畳間に、三つも三〇センチぐらいの光景をもつスピーカーがある。こんなの、きちがい。この三つのスピーカーを音が割れないという意味で余力はあるけど、でかい音で鳴らすなんて、きちがい沙汰。

普通は、考えないことなんだよ。

どれだけヘビメタが好きでも、エレキギターを弾くときは、ヘッドホンをして、弾くんだよ。

*     *     *

きちがい兄貴は、きちがい親父の影響をうけて育った。

きちがい親父は、きちがい親父がやりたくなったことは、きちがい的な意地でやってしまう人なんだよ。

きちがい親父の脳みそと、きちがい兄貴の脳みそは、同型なので、きちがい兄貴も、やりたいことをやってしまうんだよ。

相手が、「やめろ」と何十回も叫んでいても、ちがい的な意地で無視してやってしまうんだよ。そして、無視してやったということを、きちがい的な感覚で無視してしまう人なんだよ。

だから、毎日が、シュラバなんだよ。まるで、みんな、わかっていない。

きちがいがどれだけの意地でやるかわかっていない。そして、きちがい的な意地でやったことなのに、きちがい的な意地でやれるうちは、一切合切、感心がないような態度になってしまうのである。

「感心がない態度」……というは、言いにくいけど、あたかも、自分が一分間もその行為をやっていないときに、しょうじる認知のまま生きているような態度なんだよ。

これが、わかるか。

きちがい的な意地でやったことは、全部、まったくやっていないことと、おなじことなのである。この感覚……。この感覚から出てくる態度……全体。これが、ほかの人にはわからないんだ。

「そんなのおかしい。言えばちゃんと静かにしてくれる」と思って、俺が「嘘を言っている」と思うやつもいる。そういうやつは、まったくわかっていない。「家族なんだから、言えばわかってくれるよ」と思うやつもいる。そういうやつは、まったくわかっていない。「そんなの、ちゃんと言えば、しずかにしてくれる。ちゃんと言わないからダメなんだ」と思うやつもいる。そういうやつは、まったくわかっていない。

こういうところに、実際のきちがい兄貴の態度と、普通の人が思い浮かべる兄貴の態度に、差があるのである。

うちのなかにいない人は、わからないのである。

だから、うちのなかにいない人が、自分の考えをあらためるということは、並じゃないことなのである。自分の考えが、普通に「正しい」と思って生きているわけで、ぼくが「それはちがうんだ」と言っても、なかなか理解してくれない。

エイリが「それはちがうんだ」と、へんなことを言っているという認識になってしまう。そういう理解になってしまう。

そして、きちがい兄貴がやってることが、常識はずれで、ほかの人がやらないことだから、ほかの人は、わからないのである。ほかの人の家族も、きちがい兄貴が、普通にやることを、やらないで生活している。

だから、普通の人は、別に、成人君主じゃなくても、説得力がない人でも、性格が悪い人でも、きちがい兄貴のような家族に「やられる」ということを経験していないのである。

「騒音」という、中間地帯だ。暴力じゃない。けど、暴力並みの力をもつものなのである。

きちがい兄貴のような家族が、家族のなかに一人もいないので、普通の人は、きちがい兄貴のような家族が鳴らす騒音に、毎日さらされ続けたことがないのだ。

だから、毎日毎日、さらされ続けると、どういう状態になるのかということが、まったくわかっていない。自分の経験を通してわかっていないことなのだ。

それでも、騒音体験はあるので、その騒音体験を通して、きちがい兄貴のヘビメタ騒音についてりかいしてしまうのである。

けど、その人の騒音体験と、きちがい家族によって、毎日もたらされる騒音体験は、ちがうんだよ。ぜんぜん、ちがうの。

けど、「ちがうんだ」とちがいがわかっていない人に、どれだけ言ったって、わからないのである。通じない。わからないまま、ものを言うことになる。

●うまく、できている■社会※2025/09/27 11:50

ごくごく、簡単に言っておくと、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言うことが、決まっているんだよ。

最初に、妄想的な前提を持ち出したときから、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言うことが、決まっている。

抽象世界で、法則化してしまうのだけど、その法則は、すべての条件において成り立つということになっている。

けど、ほんとうは、すべての条件において成り立つわけではない。

けど、妄想的な前提を信じている人は、「条件」を無視してしまう。

「条件を考慮すること」を、放棄してしまう。完全に放棄してしまう。だから、「べき論」になるし「こうなるはずだ」という話になってしまう。

その場合、一〇〇%詐欺は常に成り立っているので、言っている本人が、言っていることについてよく理解していないということになる。これが問題なんだけど、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言い放つほうは、一〇〇%詐欺のことなんて気にしない。

「Xをすれば、Yになる場合がある」ということと「Xをすれば、一〇〇%の確率で、Yになる」ということは、意味的に等価ではない。

しかし、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言い放つほうの頭のなかでは、両者の区別がなされていない。

ようするに、「おなじこと」として認識されているのである。だから、ときには「Xをすれば、Yになる場合がある」という意味で「XをすればYになる」と言ったり、ときには、「Xをすれば、Yになる場合がある」という意味で「XをすればYになる」と言ったりすることになる。

両方とも、「XをすればYになる」と言うことになるので、本人は、自分がいま、どっちの意味で「XをすればYになる」と言っているかどうか、わからないまま、話をすすめてしまう。洗脳された人にとってみれば「XをすればYになる」ということは、どんな場合でも、正しいことなので、「これが正しい」と言いはる。

基本的に言って、こういうところで、まちがっているのだけど、洗脳された本人が、まちがいに気がつくことはない。

彼ら、彼女らの頭のなかでは……「XをすればYになる」ということは、絶対に正しいことだ……ということに、なっている。洗脳された人の頭のなかではそうなっている。

そうなると、例外を認めないということになる。こういう条件だと、Xをしても、Yにならないということを、認めないという態度になる。

けど、これも、本人がわかっていないのだ。

本人は……「Xをすれば、Yになる場合がある」ということと「Xをすれば、一〇〇%の確率で、Yになる」ということの、区別ができない。区別をしていない。教祖側の人も、区別ができない人で、区別をしない人だ。

だから、まちがいが伝染していくのである。

どうして、「XをすればYになる」という単純な言い方が好まれるかというと、願いが叶いそうな気がするからだ。

ところが、「XをすればYになる」というのは、環境を無視した話だから、基本的には、願いがかなわないのだ。願いがかなわない場合も、やった人のやり方が悪いということになるので、「XをすればYになる」と言っているほうは、ダメージをうけない。

洗脳された人は、「やり方が悪い」と言うとき、正しいことを言っているつもりしかない。やった人のやり方が悪いと言うことで、相手に負のストロークをあたえているつもりは、まったくない。

そして、「やり方が悪い」ということになると、「いいやり方を教えてやる」ということになって、商売がはかどるのである。おカネのやり取りがない場合も、「XをすればYになる」と言ったほうの優位性は、かわらず、いい気持ちで、相手をディスり、自分はすごいのだという優越感を感じるようになる。

実際に、「いいやり方だ」と思っているので、むしろ、「いいことをしている」という、実感がある場合が、ほとんどなのだ。

けど、悪いことをしている。

まあ、「悪いことをしている」と言ってくる相手には……人間というものは……敵意がしょうじる。

だから、洗脳された人は、どこまでも、この道を突き進むことになる。

うまく、できている。

2025年9月26日金曜日

● まず、夢を見せてあげるんだよ■社会※2025/09/24 22:51

 まず、夢を見せてあげるんだよ。

「夢がかなう方法」というのをおしえてあげる。

そうすると、夢をかなえたい人は、この方法に注意をむけることになる。基本的に、夢をかなえたい人というのは、いまの状態に不満を持ってる人なんだよ。

社会の状態が、過酷であれば、過酷であるほど、欠乏状態になる。不満をもちやすくなる。だから、基本的に、社会は過酷でなければならないんだよ。

そうじゃないと、夢をかなえたい人が、モチベーションをもたない。

ようするに、社会の環境というのが、悪ければ悪いほど、「こまった人」や「くるしい人」がいるわけだから「夢をかなえる方法」には、人が集まることになる。

「夢をかなえる方法」は多くの人の「注目」をあびることになる。

けど、どうして、多くの人が、くるしい状態でくらしているのかというと、それは、くるしい状態でくらしているからなんだよ。

まあ、ともかく、ここでは、「社会において夢をかなえるのがむずかしい」ほど、「夢をかなえる方法」に対する需要が増えるということを覚えておこう。

そして、そのような社会は、ほんとうに、くるしくて、生きにくい社会なのである。夢がかないにくい社会なのである。難易度が高い社会なのである。

夢を見せてあげるとする……。その場合、人間の性格を考えるのである。多くの人は、ジャンプして、法則のようなものに飛びつくのだけど、法則は、法則ではないのである。

多くの人が、法則だと勘違いしているものは、法則ではないのである。

けど、一度、頭の中に「法則」ができあがってしまうと、夢に関することは、「法則にあわせて考える」ことになる。他人の現実はよくわからないので、他人の現実を無視して、「法則にあわせて考える」ようになるのである。

つまり、他人のことも、法則にあわせて考えるようになるのである。

このとき、他人の現実を無視してしまうのである。

「法則に目覚めた人」は他人の現実を無視するようになるのである。「あなたにもできる」と、他人の現実を無視して言ってしまう。

人間にはそういう性質があるのだけど、悪魔のやり方というのは、そういう人間の性質を利用したものなのだよ。

ごく自然に、「自分の現実」は見えるので、「法則性」は、無視することになるのである。

たとえば、言霊主義者は、自分が一倍速で経験していることに関しては、『言霊の法則』を無視して考えるということを、普段から、している。

言霊の法則なんて、無視して、普通に考えているのだ。

自分が一倍速で経験していることに関しては、だまされないのである。

自分が一倍速で経験していることに関しては、自分が一倍速で経験していることだから、勘違いをしないのである。

「夢をかなえる方法」は現実的な方法ではないので、現実的なことに関しては、「夢をかなえる方法」では対処できないということが、わかるのである。

だから、いちおう、ポジティブな方法として、「夢をかなえる方法」が語られるわけだけど、基本的には、この「夢をかなえる方法」というのは、トラブルをうみだすものなんだよ。

どうしてかというと、他人のことは、一倍速で「自分が」経験していることではないので、現実的ではない「夢をかなえる方法」で、夢をかなえられると言ってしまうからなのである。

けど、自分が一倍速で経験していることに関しては、「夢をかなえる方法」は無力であるということが「法則性を信じている人にも」わかるのである。

*     *     *

夢に関しては、法則性を信じているのだけど、実際に自分が一倍速で経験していることに関しては、法則性なんてまったく信じていない状態でくらしているのだ。夢を信じている人たちは……。あるいは、「夢をかなえる方法」の背後にある「法則性」を信じている人たちは……。

*     *     *

これは、自己責任論のことを考えれば、よくわかることだ。自己責任論というのは、アンガーコントロールとして語られたものだ。けど、普通に、他人を対象とした自己責任論になってしまう。

本人は、「自分は自己責任論」で生きていくつもりだけど、自分が、一倍速で経験していることに関しては、自己責任なんて感じないのである。人間というのは、感じないようにできている。

それは、「あたりまえ」意識のほうが、あとから「ふきこまれた」自己責任論よりも、強い意識だからだ。

また、DさんとEさんに登場してもらおう。

DさんがEさんの話を聴いて、不満になったとする。「Eさんが、愚痴を言っている」とDさんが認識したので、Dさんにとっては、Eさんの話は、腹立たしいものになるのである。聴いているのがいやなことになるのである。

「すべては自己責任」なのであれば、もちろん、「腹立たしい」と感じたことも自己責任なのである。

いちおう、関係がないけど、「すべては受け止め方の問題だ」という言い方が、精神世界にははびこっている。これも、自分が一倍速で経験しているときは、「すべては受け止め方の問題だ」とは思っていない状態になってしまう。

「あたりまえ」だからだ。

「そう感じてあたりまえだ」と思っているのである。

DさんにとってEさんの話を聴いていることは、不愉快なことなのである。腹立たしいことなのである。「腹立たしさ」に疑いをもてないのである。

「受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということになっているのだけど、自分が一倍速で経験していることに関しては「あたりまえ感覚」のほうが優勢なので、「受け止め方の問題だから、受け止め方をかえよう」とは思えないのである。

普通に、「Eさんの話は愚痴が多い」と感じたままになってしまうのである。

ここで、受け止め方をかえて、「Eさんの話は、有意義でおもしろい」と思い込むことができるかというと、できないのだ。

ここで、精神世界の人たちは「修行がたりない」などと言って、お茶を濁してしまうのだけど、ぜんぜんちがうのだ。そういうことではない。「修行がたりないから、実践できない」ということではないのだ。

その「修行」とやらを、どれだけ意識的に実行しても、理想の状態になれないのである。

むしろ、理想の状態からは、遠ざかることが決定している。どれだけ実行しようとしても、実際には、きれいごとが積み重なるばかりで、負担が増え、ストレスが増えるようになる。

そして、それを解消するために、今度は、やたらと、つめたい考え方に到達してしまうのである。

ともかく、Dさんが「受け止め方をかえよう」として「Eさんの話を、有意義でおもしろい話だ」と思おうとしても、むだなのだ。Dさんが「不愉快だ」と受け止めてしまったのだから、むだなのだ。

こういうことに関しては、意識的に書き換えることができないのだ。

けど、これまた、「法則」について語っているときは、普遍的な抽象世界において、出来事が中立的に生起しているという話をしているのである。わかるかな?

*     *     *

だいたい、人によって反応がちがうというのは、ちがう人の反応を自分が再現できるということではないのである。

たとえば、DさんとEさんとFさんがいたとする。Fさんは、ほんとうにEさんの話を、有意義でおもしろい話だと思ったとする。Dさんにとっては、Eさんの話は、愚痴でしかなく、不愉快な話なのだ。人によって、Eさんの話に対する反応がちがう。

反応がちがう。

だから、DさんもFさんのように感じることができるかとというと、それは、また別の話なのだ。精神世界の話だと、「人によって、ひとつのことに対する反応がちがう」という話をしたとき、「だから、反応をかえることができる」という話になってしまうのだ。

話の流れはこんな感じだ。

(1)「いい反応」と「悪い反応」がある。(2)悪い反応をする人も、いい反応をすることができるようになる。(3)どうしてなら、そもそも、価値観中立的だからだ。(4)出来事は価値観中立的に生起している。(5)本人が、出来事に意味を付与しているだけだ。(6)だから、受け止め方をかえられる。

このような話の流れになってしまう。

そして、たとえば、トクかどうかということを話すのである。ソンな感じ方をするよりも、トクをする感じ方をしたほうがいいという話をするのである。そういう話を聴くと、単純な人は「その通りだ」と思ってしまう。

*     *     *

まあ、ともかく、たしかに、人によって反応の差はあるけど、それは、だれかの反応を、別のだれかがまねできるということを意味していない。

反応の差があるということが、受け止め方をかえることができるという話になってしまうのだけど、反応の差があるということは、反応の差があるということをしめしていて、だれかの受け止め方を、別のだれかが、マネできるという話ではないのだ。

けど、マネできるということにしてしまう。

ここでも、じつは、過去の出来事を無視しているのだ。そのときに(だれかが)もっている「受け止め方」というのは、過去において経験してきたことや、過去において経験してきたことを通して感じたことの総体なのだ。

過去と書いたけど、環境と書いてもいいのだ。

時系列的な環境というのがある。そのときもっている感じ方というのは……時系列的な環境のなかで、本人が一倍速で経験してきたことの総体なのだ。

言っておくけど、遺伝子的な性格というのも、内部環境のひとつだ。

ともかく、反応の差があるということと、だれかが、別の人の反応をトレースできるかどうかは別の問題なのだ。

だれかが、だれかの反応を手本にして、自分もその反応をすることができるようになるかどうかは、別の問題なのだ。

ところが、「反応に差がある」ということが「だれかが、べつのだれかの反応をマネすることができる」ということの根拠になってしまうのだ。

*     *     * 

「トク」というのは、意識的な思考をすると「トク」であると判断できるようなことなのだけど、それが、ほんとうに「トク」なのかどうかは、わからない。 

*     *     *

「ソンな感じ方より、トクな感じ方のほうがいでしょ」と言って、「トク」な感じ方に切り替えればいいというようなことを言うわけだけど、ちがうのだ。

ちょっと、努力すれば切り替えられるような話になっているのだけど、意識的には切り替えられない部分があるのである。

そして、たとえば、「トク」な感じ方をしているポジティブな教祖だって、じつは、頑固に、自分の感じ方にこだわって生活をしているのである。

はっきり言えば、「トク」な感じ方をしている教祖だって、自説を批判されたら、おこるのである。自分の考えのなかで、腹がたつポイントというのがあるのである。

これ、まるで「トク」な感じ方をする教祖が、いい人のように語られてしまうのだけど、いい人かどうかわからない。

ともかく、ソントク論になってしまう部分があるのだけど、それがちがうのだ。じつは、これは、ソントク論じゃない部分が、たくさん、ある。

●「予言成就型」■言霊※2025/09/24 0:12

 夢や希望に関しては「予言成就型」なのである。

「言った」から「現実化する(だろう)」ということなのだ。他人のことだと、自分のことではないので、「予言成就型」になってしまうのである。

相手が、くるしい経験をしたのは「くるしい」と言ったからなのだ。言霊主義者の頭のなかでは、そうなってしまう。

相手には、相手の一倍速の経験がある。

その一倍速の経験のなかで、感じたことがあるのである。それを、言霊主義者は、相手のことだからと、無視してしまう。相手が一倍速で経験して、その結果、そうなったということもある。ところが、言霊主義者は、相手のことだからと、「経験の結果」を否定してしまう。言霊主義者にとっては「そんなことはない」のだ。

一倍速のプロセスのなかでつかれたって、相手がつかれたのであれば、そんなことはないので、「元気だ元気だ」と言えば、すぐに、元気になると思っているのである。

言霊主義者は、思っているのである。何度も言うけど、相手が経験した「つかれるプロセス」を言霊主義者は、経験していない。どうしてかというと、相手の経験であって、自分の経験ではないからだ。

自分の経験でないことは、平坦な言葉で表現した部分しか受け取らないのである。背後にあるほんとうの経験について(言霊主義者は)考えることができないのである。

どうしてかというと、相手の経験だからだ。

平坦な言葉で表現した部分が、言霊主義者にとっては、「すべて」なのである。そのことに関係する、「相手の経験」の「すべて」なのだ。

夢や希望に関しては、基本的に、かなってほしいことだから、「予言成就型」になるのだけど、相手のことだと、過去にもどって、そういう言ったから、そうなったというかたちの「予言成就型」になるのである。

とりえず、「他人・ネガティブ予言成就型」と言っておこう。

神経質な人だと「自分・ネガティブ成就型」になってしまう場合もある。「なにか(自分が)ネガティブなことを(気がつかずに)言ってしまったのではないか」ということが、気になるタイプの人がいる。

しかし、たいていの言霊主義者は「自分・ネガティブ成就型」の思考をしない。

多数派の言霊主義者は、自分の身に、一倍速で起こったことは、言霊的な思考を一切合切しないのである。

「相手がこういうことを言ったから、腹がたった」と思うだけなのである。自分がさきに「相手がこういうことを言う」ということを言って、その「予言」が成就されたとは、夢にも思わないのである。

*     *     *

神経質な言霊主義者の場合「自分・ネガティブ成就型」になってしまう場合もあるのだけど、神経質な言霊主義者がいつも「自分・ネガティブ成就型」の思考になってしまうのかというと、そうではない。

神経質な言霊主義者も、相手の対応におこっているときは、「予言成就」型の思考をしないのである。

この場合の予言成就というのは、自分が言ったので、言ったことが現実化したというような考え方のことである。

ごく自然にはじまる、相手とのトラブルは、別に、予言したことではないのだ。

ごく自然に、トラブルが発生するわけである。

その場合、「自分が言ったかそうなった」「自分が言ったから、そういうトラブルが発生した」とは考えないのだ。

神経質な言霊主義者が「自分・ネガティブ成就型」の思考になってしまうときは、神経質な言霊主義者が不幸を感じているときなのである。人生のなかでの「不幸」というものに思いを巡らしているときに、「自分・ネガティブ成就型」の思考になってしまうことがあるのだ。

しかし、普段は、ほかの言霊主義者とおなじように、神経質な言霊主義者も、本人が「あたりまえだ」と思うことに関しては、「言霊の力」をまったく感じないのである。

2025年9月25日木曜日

●「うれしいうれしい」と言っても、うれしく感じない■言霊※2025/09/24 6:05

自己責任論者であって、なおかつ、言霊主義者である人は、言霊理論を批判されると、腹をたててしまうのである。

ようするに、言霊理論を批判したやつが悪いと思っているのである。

自分が立腹した原因は、言霊理論を批判したやつが言霊理論を批判したからだと思っているのである。自分のことなら、この様(ざま)だ。

自己責任論じゃなら、すべては自己責任と考えるので、「言霊理論を批判された」ということも自己責任だと考えるはずだ。自分の身の上に起きたことは、すべて、自分の責任なのだから、当然、そうなる。

なんで、言霊理論を批判されたときは、エイリのせいで腹がたったと思うのだ?

エイリの発言は、腹がたつと思うのだ?

腹をたてる必要なんてないんだよ。

すべてが、自己責任だから、「エイリのせいだ」と思わなくていいんだよ。

*     *     *

たとえば、自分が信じていることを否定されて腹がたったとする。事前に「自分が信じていることを否定されて腹がたつ」と事前に言わなかったとする。

言霊は、関係がないのである。

「自分が信じていることを否定されたら腹がたつだろ」と思うかもしれないけど、言霊の力によって「腹がたったわけではない」ということは、認識しておいたほうがいい。

うれしいことが起こったときもおなじだ。「これこれこういうことで、自分はうれしいと感じる」と、事前に言わなかったとする。

けど、一倍速で体験しているプロセスのなかで、自然に「うれしい」と感じることがあったのだ。これは、言霊の力によって、引き起こされた感情ではないのである。

「うれしいうれしい」と事前に言ったから、うれしいと感じたわけではない。プロセスのなかで、うれしいと感じたのである。

「あのときは、うれしかったなぁ」と思ったとする。思ったときに、ちょっとだけ「うれしくなった」とする。このうれしさは、うれしかったことを思い出してうれしく感じただけだ。

事前に、うれしいと感じた出来事がほんとうに、あったのだ。

言霊理論が否定されたあと、「じつは、それは、うれしいことなのだ」と受け止め方をかえて、「自分が信じていたことを否定されたときのこと」を思い出して、「うれしいうれしい」と言っても、うれしくならないだろう。

「うれしいうれしい」と言って、うれしくなる場合は、実際にうれしいことを経験したということが、「さき」なのである。

うれしいことを、実際に(過去において)経験したので、そのときのことを思い出してうれしく感じただけなのである。なにも経験がなかった場合、なにがうれしいことなのかわからないから、どれだけ、「うれしいうれしい」と言っても、うれしくならないのである。

何度も言うけど、「経験」のほうがさきだ。

経験がさきにあって、そのあと、「うれしい」という言葉と、その感情が、むすびつくということが起こり、その、さらにあとに「うれしかったこと」を思い出すと、ちょっとは「うれしい気分になる」ということが発生するのである。

思い出したときのうれしさというのは、体験しているときのうれしさとはちがうのである。体験しているときのうれしさのほうが、たぶん、うれしさの程度において高いのである。

思い出しているときに感じるうれしさは、ほんとうに体験しているときのうれしさよりも、たぶん、うれしさの程度において、低いのである。

「うれしい」と言って呼び起こされる「うれしさ」が、ほんとうに「うれしさ」を感じているときのうれしさとおなじであるはずがないのである。体験しているときのうれしさのほうが、「うえ」なのである。

平和な状態で「あのときはうれしかったなぁ」と思い出しているときは、うれしさのほかに安心感を感じるかもしれない。

もし、かりに、その記憶に関係があるだれかが、死んだ状態で「あのときはうれしかったなぁ」と思い出しているときは、うれしさのほかに、さみしさを感じるかもしれない。

たとえば、だれかとの、うれしい体験があったとする。けど、そのだれかが、死んでしまったとする。そういう場合は、うれしいことを思い出しても、さみしさを感じるかもしれないのである。

これは、認知とメタ認知が関係している。

文脈は大切なのである。

文脈を考えずにただ単に、言ったことに反応すると考えているようではだめだ。

特に悲しいこともなく、特にうれしいこともない、中立的な状態を考えて、その中立的な状態のときは、「うれしいうれしい」と言えば、うれしくなったような気分がするということは、あるかもしれないけど、つねに、うれしくなったような気分がするかどうかはわからない。

ようするに、「うれしいうれしい」と、中立的な状態で言ったにもかかわらず、ぜんぜん、うれしくならず、むしろ、さめた気分になってしまう場合だってあるのだ。

ともかく、直前の出来事を無視して、「うれしいうれしい」と言えば、直前の出来事に関係なく、うれしくなるというのは、どう考えてもおかしいのである。

ぼくに、言霊理論を否定された言霊主義者たちは、ぼくに、言霊理論を否定された直後に、「うれしい、うれしい」と言っても、うれしく感じないと思う。

ぼくの経験の範囲で言うと、みんな腹をたてていたのである。

腹をたてているときに「うれしいうれしい」と言うと「ほんとうにうれしくなる」のかどうか、言霊主義者は自分で、実験してみればいいよ。

それから、言霊主義者は「過去は関係がない」と思っているけど、「うれしかったこと」を思い出すというのは、過去が関係している行為だということに、注意を向けるべきだ。

言霊主義者は、相手の過去を、ごく自然に、否定してしまう。

相手には「理由」があるのに、相手の理由は無視してしまうのである。

「言霊理論を否定されたから」腹がたったとする。

これだって、過去の話なんだよ。過去の出来事なんだよ。

言霊理論を否定されたあと、腹がたっているんだよ。

腹がたった理由は、言霊理論を否定されたからなんだよ。

言霊理論を否定される前に、腹がたっていない状態で「腹がたつ」と言ったから、腹がたつという言葉に宿っている、言霊の力によって、腹がたったわけじゃないんだ。

あるいは、言霊理論を否定される前に、腹がたっていない状態で「腹がたつ」と言ったから、言霊の力が、ぼくに働きかけて……その人の前で……言霊理論を否定するということを、ぼくにさせたのではないのだよ。

ぼくにはぼくなりの、理屈と理論があるんだよ。言霊理論はまちがっていると感じる出来事があったんだよ。

ぼくに言われて、腹をたてた言霊主義者が、ぼくに言われる前に、「エイリに言霊理論を否定されて腹をたてる」と言ったから、「エイリに言霊理論を否定されて腹をたてる」という言葉に宿っている言霊の力によって、「エイリに言霊理論を否定されて腹をたてる」ということが、現実化したわけじゃないんだよ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。