まあ、納得してくれる人は少ないと思うけど、いちおう、言っておく。
「人に親切にしましょう」というような言葉は、じつは、繊細で親切な人をおいつめるための言葉なのだ。
これ、今の社会だと、そうなってしまう。
まあ、人に親切にするのは、いいことなのだけど、人それぞれの、レベルのちがいがある。人がどういうふうにこまっているかということを、読み取る力が、人によって、ちがいすぎる。
そして、案外、無視されてしまうのだけど、社会のなかで、たとえば、仕事をする場合、立場の弱い人が、いろいろなことを背負い込むことになってしまうのである。「人に親切にしましょう」というような言葉は、生活のなかで、まったくわかっていない人に対する言葉なのだ。
ところが、生活のなかで、まったくわかっていない人は、「人に親切にしましょう」と言われたって、人に親切にしないのである。特に、自分の欲望がかかわる部分に関しては、親切にしない。自分の欲望にあわせて、不親切な行動をする。
それで、別に悪いとは思わない。
あるいは、きちがい兄貴のように、特別に鈍感で、どれだけ言われても、相手が(自分の行為で)こまっているということを、認めない人もいる。
これも、「こうしましょう」と言われたことがあるというレベルのことで、「こうすることが(実際に)できるか」というと、できないのだ。そういう脳みそがないから、できない。
それに対応したシナプスのネットワークがないから、できない。
ともかく、「人に親切にしましょう」というような言葉は、どちらかというと、鈍感な人に対して言うような言葉であり、もともと、親切な人には言うべきではない。
繊細な人が、こういう言葉を真に受けると、ひどいことになってしまう。
「繊細な人」や「もともと親切な人」が、くるしむ状態になっている。
じゅうぶんに親切な人が、じつは、「人に親切にしましょう」というような言葉で、傷つく状態になっている。負担が増え、ボロボロされるような状態になっている。
社会全体がそうなっている。そして、「人に親切にすれば、幸福になる」と言うような言葉は、じつは、すでに不幸な人をより不幸にしている。助言になっていないのである。
すでに不幸なら、その不幸な人は、人に親切にしなかった人だというマイナスの認知が生じるようになっているのである。
しかし、こころがきれいな人だって、不幸な状態で暮らしていることはある。
* * *
それじゃあ、きちがい兄貴が、人に親切することは、まったくないのかというと、そうではないのである。きちがい兄貴だって、時と場合によって、人に親切にすることだってある。
「親切にする」ということの「範囲」がひろいのだ。状態だって、いろいろだ。暗黙知、メタ認知、認知が、それぞれの場面でちがうのである。
だから、たまたま、対応しているような部分がある。だから、たまたま、対応しているような部分がある場合は、(めったにないことだけど)人に親切にすることが……きちがい兄貴のような人間にも……できる。できる場合がある。
けど、うちのきちがい兄貴は、俺には親切にしなかったのである。一日に、一秒も、(ほんとうには)ゆずってくれなかった。これが、事実だ。