「努力をすれば成功する」ということについては「カルト的な要素がまったくない」ので、正しいと思っている人がいるかもしれない。
しかし、「努力をすれば成功する」という文における「努力」というというのは、言霊理論における「言霊」のように、カルト的なタームになっているのである。
まず、「努力をすれば成功する」という文は一〇〇%構文の文になっている。
だから、「すべての努力をするということにおいて、努力をすれば、一〇〇%の確率で成功する」という意味になる。これ以外の意味にはならないのである。
「努力をすれば成功する」という文は「努力をすれば成功することもある」という意味にはならないのである。
そして、努力をするということの意味が、一意には決まらないのである。
そして、「努力をしたかどうか」というのは、だれが決めるのだという問題がある。これは、一意には決まらないという問題と直結した問題だ。
ある人がいたとする。Aさんだとする。Aさんが、努力をしたのに成功しなかったとする。その場合、「努力をすれば成功する」という文は間違っているということになる。
だって、努力をしたのに成功しなかったのだから、努力をすれば成功するという文は間違いだということになる。
しかし、この世界のなかでは、Aさんは「努力の方向が間違っていた」とか「努力がたりなかった」と言われることになる。
あくまでも、一〇〇%構文の文である「努力をすれば成功する」という文が正しいと言い張る人たちが出てくる。
この人たちは、一〇〇%構文の文で言っているということと、努力をするということが一意に決まらないということを無視している。
努力をしたのに、努力がたりなかったから、成功しなかった……。正しそうに見えるけど、正しくない。努力不足の努力をするという集合は、努力をするという集合の中に含まれているのである。内包されているのである。
なので、どんな努力であれ、努力をすれば、努力をしたということになる。こっちが、正しい考え方だ。
まあ、努力をするということの内容が、一意には決まらないのでなにを言っても無駄だ。
ともかく、努力論における努力というタームは、なんとでも言える要素を含んでいる。
もう、まえに書いたので、ここでは省略するけど、努力論における努力というタームは、カルト的な意味をもつタームなのである。
ここで言いたいのは、自分は努力をしたら成功したから、努力をすれば成功するという文は正しいと思っている人たちが増えると、言霊理論とおなじように、社会が、より悪くなるということだ。
これ、よくなるのではなくて、悪くなるのだ。しくみは、おなじだ。
* * *
AさんがBさんに「努力をすれば成功する」と助言したとする。この場合、Aさんは、自分の条件を無視している。そして、Bさんの条件も無視している。
「努力をすれば成功する」という言い方自体が、自分の条件も相手の条件も無視する言い方だからだ。
普遍的な法則のように言うけど、ぜんぜん普遍的な法則ではないのである。Aさんの場合は、Aさんの遺伝子的な条件やAさんが生まれた家という条件が、あたえられている。
これをAさんがどの程度理解しているかどうか、わからないけど、重要な条件なのである。たいてい、所与の条件は、本人にとってあたりまえの条件なので、無視されがちなのである。
ところが、人によって所与の条件がちがうのである。
条件が『成功するかどうか』という結果に大きな影響を与えているので、「努力をすれば成功する」と、あたかも普遍的な法則が成り立っているような印象を与える言い方は、よくないと言える。
Aさんがまあまあ、貧乏な家に生まれたとする。Bさんもまあまあ、貧乏な家に生まれたとする。しかし、Bさんの兄が、ヘビメタに凝って、爆音で、鳴らすということをし始めたとする。Bさんの兄が、きちがい的な意地で長時間、毎日、ヘビメタを鳴らすということが続いた結果、Bさんには、睡眠障害が生じたとする。
その場合、Aさんがまあまあ貧乏な家の出身で、Bさんがまあまあ貧乏な家の出身だとしても、ぜんぜんちがう状態で暮らしているというとになる。
Aさんは、勉強をしようと思えば、騒音の影響がない状態で普通に勉強することができたとする。「貧乏でも、努力をすれば成功する」と一般化したとき、騒音という要素(条件)は無視されてしまうのである。
実際に、Aさんが、成功できたとしても、「努力をすれば成功する」と一般化してしまうことには、問題がある。
そして、『成功』の内容も、一意には決まらない。『成功する』ということの内容も一意には決まらないのだ。「普通に働くことに成功した」「まるまるという会社で一〇年間働くことに成功した」ということだって、文脈によっては『成功した』ということになるのである。
Aさんは、Bさんが失った基本的な体力を失っていないので、「社会人として三年間働くことに成功した」とする。条件がちがうのである。
Bさんは、兄のヘビメタ騒音によって、基本的な体力を失ったとする。そうすると、三年間、通勤するということができなくなる。
Aさんが「俺だって苦労した」「俺だって朝はつらい」と言えば、それで、AさんはBさんと同質・同量の苦労をしたというとになってしまう。あくまでも、Aさんのなかではそうなるということだ。
Aさんには、Bさんにはあった、兄の騒音という条件がない。この条件がちがうから、通勤できるかどうかの差ができる。
けど、Aさんは、「努力をすれば社会人として三年間働くことに成功する」と思っている。思っているから、Bさんに「努力すればいい」ということを言う。こういうことが繰り返されてしまう。
Aさんは、Bさんの条件を無視しているということに、気がつかない。そして、一〇〇%構文の文で、言っているということに気がついていない。
いろいろなところに、トラップがあるのである。