もう、以前、説明したことなのだけど、ちょっとだけ、説明しておく。
たとえば、「一気圧なら、水は摂氏一〇〇度で沸騰する」と言ったとする。これは、正しい言葉だ。命題として「真」なのである。
そして、「一気圧」ということも、一意に決まるし、水も、但し書きが必要こともあるけど、但し書きをすれば、一意にきまる。摂氏一〇〇度という温度も、一意に決まる。「沸騰する」ということも、一意に決まる。まあ、厳密なことを言わないのであれば、沸騰している状態と沸騰していない状態の区別ができるわけだ。
各項目は、一意に決まることなのである。
各項目は、一意に決まらなければらないのである。
そうじゃないと、文の意味が正しいかどうかなんて、決められないのである。
ところが、「努力をすれば、成功する」という言葉の場合は、「努力をする」ということが一意に決まらないのである。絶対に、一意に決めることができない言葉(表現)なのである。
そして、「成功する」という言葉も、一意に決まらないのである。絶対に、一意に決めることができない言葉(表現)なのである。
なので、そもそも、言葉の遊びにしかなっていない。
言葉の遊びなのである。
法則性なんて、成り立っていないのである。
法則性以前の問題があるのである。
言葉の遊びにしかすぎないのに、ほんとうに、物理的な法則性をあらわす文とおなじような文だと思ってしまう人がいるのである。
たしかに、物理的な法則性を表す文を模倣して、遊んでいるのだけど、遊んでいるということを理解せずに、ほんとうに、物理的な法則が成り立っているときとおなじように、法則が成り立っていると思ってしまう人がいるのである。
これは、こまったことだ! これは、こまったことだ!!
各項目の意味が一意に決まらないのに、法則性をあらわす文が成り立つわけがない。