たとえば、言霊主義者が「すべての争いが、なくなる」と言ったとする。「一秒以内に」という言葉をつけたすと「一秒以内に、すべての争いが、なくなる」ということになる。
じゃあ、「一秒以内に、すべての争いが、なくなる」と言えば、ほんとうに、一秒以内にすべての争いがなくなるのか?
答えは、なくならない。
言霊の力がないので、言霊の力によって、言われた内容が現実化することがないからだ。これは、一〇〇%、ない。
むしろ、言霊主義者が、やられたほうに「やられると言ったからやられたんだ」と言っているときに、争いの種がまかれるのである。もう、まかれた。
やられてこまっているほうに「こまった」というから「こまることが、発生した」と言うときに、争いの種がまかれるのである。もう、まかれた。
そして、はっきり言ってしまうと、命題として考えた場合「言えば、すべての言ったことが、言霊の力によって、一〇〇%の確率で、現実化する」 という命題は『偽』なのだけど、たいていの言霊主義者は、おこって、認めない。
その場合、やはり、悪の種がまかれたということになる。
争いの種が、まかれたわけだ。もう、まかれた。
* * *
「すべての争いがなくなればいい」という願望はいい願望なのだけど、運用のしかたに問題がある。言霊主義といっしょに語られると、かならず、問題がしょうじる。
だって、「言ったことが、現実化する」というのは、嘘だからだ。
ぜんぜん、そんなことになっていないのである。
この世では、「言ったことが現実化する」と思えることがあったとしても、言霊の力で、言ったことが現実化することは、ないからだ。
その人の頭の中で「言霊の力」と「言葉の力」の区別がついていないから、誤解がしょうじるのである。あるいは、その人の頭の中で「言ったから」と「言ったあと」の区別がついていないから、誤解がしょうじるのである。さらに、あるいは、「言ったことが現実化する」という言葉は「すべての言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という言葉と意味的に等価であるということがわかってないから、誤解がしょうじるのである。
まちがったことを信じている人がいるということが、そもそも、争いの種なのだ。理論的にまちがっていることは、理論的にまちがっていることなんだよ。
ところが、「理屈じゃーーねぇーんだよ」とすごむ。あきらかに、おこっている。
「むずかしそうなことを言ってたけど、複雑なことはまちがっている。単純なのが正しい」と言って、ゆずらないのである。「複雑なことはまちがっている。単純なのが正しい」というのも、まちがった考え方だ。
決めつけられても、こまる。
こういうところに、争いの種がひそんでいるのである。もう、争いの種は、まかれたんだよ。