たとえば、イエズス会の教えだけを考えるなら、イエズス会の教えは、道徳的なんだよ。しかし、道徳的な教えが、なぜか、奴隷貿易につながってしまう。単純な人は、教えが道徳的なら、教えを実践すれば、いい世界が広がるはずだと思ってしまう。ところが、教えを実践すると、悪い世界になるのだ。
これとおなじように、「努力をすれば成功する」というような、特に悪いことがないような教えが、悪い世界をつくりだしてしまうようなところがある。「いえば言ったことが現実化する」というような、特に悪いことがないような教えが、悪い世界をつくりだしてしまう。「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思うと、暗いことが起こる」というような、希望がありそうな教えが、じつは、希望がない世界をつくりだしてしまうのだ。
それぞれ、距離があるんだよ。あまりにも離れすぎているから、想像ができない。ようするに、単純な人は、どうしてそうなるのかということについて、無関心だし、そうならないと思っている。道徳的な教えと、その教えがつくりだす、悪い圧力の関係が、どうしても、わからないのだ。単純な人にはどうしてもわからない。わからないと、悪い圧力をかけるということを、実践してしまうことになる。