実際にやられているときの感覚がわからないのだと思う。あれが、一秒間続くだけで、どれだけ、つかれるかわかっていない。あれが、一秒間続くだけで、どれだけ、心理的に消耗するかわかっていない。いかりつかれてしまう。ほんとうに、ピークなんだよ。いかりのピークがずっと続いている状態で、おこっている以外、なにもできない。休むことも、できないのだ。だから、きちがい兄貴が鳴らしている地獄の時間というのは、必然的に休むこともできない時間なのだ。そして、当然、勉強もできない。勉強しようとすると、おぼえたところまで、わすれる。これ、魔の時間で、マイナスの時間なのだ。
きちがい兄貴は、きちがい感覚で押し通したけど、普通の人は、そもそも、押し通さない。押し通すような感覚を持っていない。自分が、きちがい的でかい音で鳴らさなければ気が済まない状態だと、きちがい的でかい音が、小さい音になってしまうのだ。そして、この無意識的な過程に、きちがい兄貴自体が気がつかない。きちがい兄貴本体は、どれだけなにを言われても、小さな音で鳴らしているつもりなのだ。そして、これが、きちがい親父とおなじなのだけど、「ゆずる」ということができない。これ、一秒だって、ゆずらないことに命がかかっているんだよ。だから、ゆずるとなったら、本人の気持ちをまったく傷つけない程度譲るということになってしまう。結果、ゆずらないということになってしまう。けど、これも、本人は「ゆずってやった」と思っているわけで、「ゆずってやらなかった」とは思っていないのだ。こういうことが、普通に毎日成り立っている。
これも、きちがい親父と同じなんだけど、きちがい兄貴は、「いわれたとき」だけ、発狂してはねのけたら、なにも残らない人間なのだ。これも、こういう人間が、近くにいない人には、まったく、わからないことなのだ。こういう人間が近くにいない人にとっては、ぼくの話が、ばかばかしい話に聞こえるのである。「そんなことはない」と思っているのである。これも、ぼくの話を聞いたあと「そういうひともいる」ということにはならずに、ぼくの話を聞いた後も「そんなひとはいない」という気持ちのままなのだ。考えのままなのだ。だから、現実と普通の人認知の間に溝ができる。ここにも、溝がある。
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思いっきりでかい音で鳴らしたいと思うと、小さな音で鳴らしていると思う魔法がかかってしまうのだ。きちがい兄貴が、きちがい兄貴に、魔法をかけている。そうすると、なにを言っても聞かない。いっておくけど、きちがい親父もまったくおなじだ。こういう人間と、一緒の家に住んでいたら、どれだけこまるか、ほかの人にはわからないのである。だから、溝ができる。認知の溝だ。
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小さな音だと思う理由(感覚する理由)が、大きな音で鳴らしたいという理由なのだ。こんなに、自分にとってだけ都合がいい魔法を、自分にかけてしまう。そうしたら、もう、絶対に譲らない。一秒間だってゆずらないことに、命がかかっている。全生命をかけて、全存在をかけて、ゆずらない。 ところが、「ゆずってやらなかった」ということにならないのだ。こんな、矛盾した状態がずっと続く。
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やられたら、影響を受ける。ところが、ほとんどの人が、影響を認めないのである。どうしたって、これこれこういう症状が出る……ということを言ったって、やられていない人たちにとっては、そんなことはないので、「そんなのは関係がない」と言いやがる。まあ、これ、今までさんざん書いてきたことだから、あんまり詳しく説明しないけど、一般人が、ヘビメタ騒音の影響を認めないで、ぼくに、説教をしてくるということだ。説教の前提が「そんなのは関係がない」なのだ。これは、ぼくにとって、非常に腹が立つことだ。