たとえばの話なのだけど、「元気だ元気だと言えば、元気になるから、元気だ元気だと言おう」と思っているときの気分が、並じゃないのだ。もう、泣き出しそうな気分なのだ。
もう、たえられなくて、自殺しそうな気分なのだ。この、気分は、並じゃない。
悪い意味で並じゃない。きちがい兄貴のヘビメタが続いている。きちがい兄貴のヘビメタが続いて、めちゃくちゃな日々が続いている。そのなかで、「元気だ元気だ」と言って、自分をはげまそう、と意識的に思って、「元気だ元気だ」と言っているときの気分が、並じゃないのである。
死にたい気分なのである。突発的に、自分を包丁で刺しても、なにもおかしくない気分なのである。きちがいヘビメタ騒音が毎日続くというようなことを経験してない人は、「自分は元気だ元気だと言ったら、元気になった」と言うのである。
「だから、言霊理論は正しい」と言うのである。「言えば言ったことが現実化する」と言うのである。「だから、自分で励まそうとしないことはよくないことだ」と言うのである。
「自分の気分に責任を持つべきだ」と言うのである。「自分の気持ちは、自分で制御できる」と言うのである。
そして、その口で「俺だって、死にたいほど憂鬱なことはあった」と言うのである。「俺だって、ボロボロにつかれているときはある」と言うのである。「俺だって、朝はつらい」と言うのである。
いやーー。
自分で、矛盾に気がついていない。「ボロボロにつかれるまえに、元気だ元気だと言えばいいだろ」「言ったことが、現実化するのだから、ちょっとでもつかれを感じたら、元気だ元気だと言えばいい」「そうしたら、元気になる」「ボロボロになるまで、つかれることはない」「そもそも、自分はつかれない、ひとこと、言えば、つかれないのである」「自分はつかれないと言うことを思いつかなかったから、ボロボロにつかれることがあったのか?」と言いたくなる。
そして、「自分は憂鬱にならないとひとこと言えば、憂鬱にならないのだから、憂鬱になることもない」「言霊主義者なのに、自分は憂鬱にならないということを思いつかなかったのだろうか」「一回目、憂鬱になることがあっても、二回目からは、言霊の力によって憂鬱になることはないのではないか」と言いたくなる。
「俺だって、朝、つらいことはあると言うけど、それも、朝つらくならないと、ひとこと言えば、解決してしまう問題じゃないか」「朝、つらなくならないと言うことを、言霊主義者なのに、思いつかなかったのか」と言いたくなる。
ともかく、「元気だ元気だと言えば元気になる」「言霊(理論)は正しい」と言っている人が「自分だって、ボロボロに疲れることはある」「自分だって、死にたくなるほど憂鬱になることはある」と言うのである。
けっきょく、 「元気だ元気だと言えば元気になる」「言霊(理論)は正しい」と言っている人は、きちがいヘビメタ騒音下で「元気だ元気だ」と言っているときのぼくの気持ちが、まったくわかっていない。
わかっていないなら、ヘビメタ騒音生活がもたらすような「つかれ」を経験したことがないのである。
ヘビメタ騒音生活のある日、ある時間、「元気だ元気だ」と言った時の気分がわからないのであれば、ヘビメタ騒音生活がもたらすような、つかれを、経験したことがないということなのである。
けど、言霊主義者だって、「猛烈な疲れを感じることはある」のである。だから、言霊主義者だって「俺だって猛烈なつかれを感じることはある」と言う。
そして、これは、真実なのである。だったら、ヘビメタ騒音生活がもたらすようなつかれを、人生の中で、その言霊主義者が感じたことがないのである。だから、ちがう話をしているのである。
けど、おなじレベルのつかれだとみなして、言霊的な解決方法について語るのである。
でっ、言霊主義者は、言霊的な解決方法で、エイリの疲れ……ヘビメタ騒音のつかれも消すことができると思っているのである。同レベルのつかれを感じた自分(言霊主義者)が言っているのだから間違いがないと思っているのである。
元気だ元気だと言えば元気になる(誤)
自分は元気だ元気だと言えば元気になると思っている(正)
自分の場合、元気だ元気だと言ったら元気になっことがある(正)
言霊理論は正しい(誤)
言霊理論は正しいと思っている(正)
「元気だ元気だと言えば元気になる」というのは、間違いなのだけど、「自分の場合、元気だ元気だと言ったら元気になっことがある」というのは、嘘ではない。「自分は元気だ元気だと言えば元気になると思っている」というのは、意識的には嘘ではないのだけど、それは、普段、ほんとうにつかれたときは「元気だ元気だと言えば元気になると思っていない」ということに、気がつかないからなのだ。
「言霊理論は正しい」というのは、間違いなのだけど、「言霊理論は正しいと思っている」というのは、嘘ではない。
たとえば、ぼくが言霊理論を否定したときに、言霊主義者が腹を立てたとする。この言霊主義者が「うれしい」と言えば、うれしくなるのかという、問題がある。この言霊主義者が「楽しい」と言えば、本当に楽しくなるのかという問題がある。
言霊主義者は「どんなにつらいことがあったって、楽しいと言えば楽しくなる」と主張している。なら、自分が信じていることを批判されたとき、「楽しいと言えば楽しくなる」のかどうか。批判されるぐらい、なんだよ。
「どんなにつらいことがあったって、楽しいと言えば楽しくなる」のだろ。たいして、つらいことじゃないのに、言霊主義者は、腹を立てたままなのである。
たいていの言霊主義者は、言霊理論を批判されたとき、「楽しい」と言っても、楽しくならないのである。これが、現実だ。「だんなにつらいことがあったって」とか「どんなことがあったって」とか「どんな状態でも」とかというのは、本人が言っているときに、そういう気持ちになっているということを意味しているにすぎない。
実際には、言霊主義者だって、言霊主義者にとって、不愉快なことが発生すると、「楽しいと言っても、楽しくならない」のである。
「うれしい」でもおなじだ。実際に、言霊主義者にとって、腹が立つことがあり、言霊主義者が、腹を立てて当然だと思っているときは、「うれしい」と言っても、うれしくならないのである。
ただ、言霊主義者が鈍感だから、そのことに気がつかないだけなのである。「あたりまえ」だと思っているときは、言霊思考にならないのである。
