みんながあんまりわからないことなのだけど、ヘビメタ騒音空間というのは、ほんとうにひどい空間だ。これ、ほんとうに、きちがい兄貴が、「非常識な音」で鳴らした。きちがい兄貴が「やってはいけない音」で鳴らした。ここのところは、まず第一に認めなければならないのである。しかし、ほかの人にとっては「エイリが言っているだけの話」だから、信じない人もいる。信じない人にとっては、「エイリが嘘つきだ」「エイリが人格障害者だ」ということになってしまうのである。どうしてなら、嘘を言っているつもりがあって、嘘を言っているのなら、嘘つきだし、嘘を言っているつもりがないまま、嘘を言っているのであれば、人格障害者だということになってしまうからだ。理論的にそうなるのである。まあ、「妄想系の精神障害者だ」という考え方も付け加えてもいい。ともかく、ぼくが嘘を言っていると思っている人は、ぼくに対して、あんまり、いいイメージを持たない。
そして、「鳴ってたって、たいしたことじゃないだろう」「鳴ってたって、宿題ぐらいできる」「鳴ってたって、遅刻しないで通勤通学することができる」と思っている人も、ぼくに対して、あんまり、いいイメージを持たない。
そして、さらに「そんなの、お兄さんに、ひとこと、しずかにしてって言えばいいのに、そんなこともできないのか」と思う人も、 ぼくに対して、あんまり、いいイメージを持たない。
きちがい兄貴のきちがい部分を理解していないと、ぼくのことを下に見て、きらいになるのだ。この人たちにとって、「見えにくい」兄貴のきちがい部分を理解することは、いいことではない。今までの考え方を、覆すことになるからだ。きちがい兄貴のような人間がいる……きちがい兄貴のような精神構造をもった人間がいるということを認めることは、安定していた「自我」を、不安定にさせるものなのである。そして、損得ということを考えると、「見えにくい」兄貴のきちがい部分を理解することは、損なことなのである。すくなくても、「この人たち」にとって、自我を不安定にさせるようなことを、あえてする理由は、なにもない。「見えにくい」兄貴のきちがい部分を理解することで、得をしないのである。そんなことを理解したって、よっぽど、心理学に興味がある人以外、得をしない。なので、普通の人は、自我が不安定になることをさけて、理解しないのである。そんなことはしないのである。エイリの言っていることを理解してあげることが、得なことだとは思っていないので、理解しないのである。エイリの話……というのは……自我を不安定にさせるものだから、聞いた時点で、不愉快な話なのである。そりゃ、そうだろ。きちがい兄貴のような人がいないという考え方で作った自我の基準が乱れるのはよくないことなのである。不快を感じることなのである。「きちがい兄貴」というのは、エイリの話に出てきたエイリのお兄さんのことである。
あんまり、わからないことだろうから、ちょっと付け足して書いておく。たとえば、泥棒がいない島にずっと住んでいて、ずっと、「人は、人のものを無断で奪ったりしない」という考え方をもっている人がいたとする。泥棒がいないので泥棒という概念をどうとらえるという問題はある。しかし、とりあえず、泥棒ということがどういう意味を持っているか知っているとする。けど、自分の島には、ひとりも泥棒がいないとする。泥棒がいないので、家を出るときも、別にドアの鍵を閉めなくてもいいのである。島のみんなは、だれも、泥棒をしない。しつこくなるけど、そういう場合は、「人は、人のものを無断で奪ったりしない」という考え方をもっているのである。「人は、人のものを無断で奪ったりしない」という考え方をもっている自我が、安定した「今の時点」の自我なのだ。ところが、島から出て、どこかの都市に行ったとする。そして、その都市で、生活しているとき、実際に、泥棒にはいられたとする。自分が「島にいるつもりで」家の鍵を閉めずに、外出したときに、泥棒にはいられたのだ。その場合、自己責任論者じゃなくても、「家の鍵を閉めずに外出するなんて、どうかしている」と考える人がいるだろう。自己責任論者じゃなくても「家の鍵を閉めずに家を出た人の、責任だ」と考える人もいるだろう。つまり、このひとたちは、「泥棒はいる」「人は人のものを無断で奪う(場合が)ある」という考え方をもっているのである。その場合、島に住んでいた人が、今後、盗まれないで生活するようにするには、「人は、人のものを無断で奪ったりしない」という考え方をすてて、「人は人のものを無断で奪う(場合が)ある」という考え方に切り替えなければならないのである。これは、意識的な認識を切り替える、意識的な作業なのだけど、「いままで信じていたこと」をかえなければならないので、あんまり、いい作業ではないのである。考え方の束が「自我」をつくっているので、「考え方の束」のうちの「ひとつ」をかえるということは、「自我」の一部をかえるということだから、不愉快なことなのである。ようするに、必要性がないとやらないことなのである。今の安定している自我が、いいのである。新しい情報に従って、今までの安定している自我(考え方の束)の一部を書き換えなければならないということは、あんまり、いいことではないのである。今の自我にとっていいことではない。そして、一部を書き換えると、関連分野まで、影響を受けるのである。人にものを貸すとき、人は絶対に(貸したものを)返してくれると思っていたとする。けど、「人は人のものを無断で奪う(場合が)ある」という考え方に書き換えると、「貸したものを返さない人がいるかもしれない」ということになるのである。だから、関連分野まで、考え方の変更を迫られることになるのである。なので、そういうことは、あんまりしたくないことなのである。さらに言えば、関連分野との、矛盾ということについて、考えなければならなくなる場合がある。関連分野に関する「考え方」にも、変更を加える必要性が出てくるかもしれないのである。これは、安定した自我にとって、脅威なのである。まあ、脅威ではなくても、「不愉快に感じること」なのである。
その場合……たとえば、「エイリのお兄さんのような人がいる」という考え方は、自我を脅かすものになるのである。自我というのは、「今の自我」のことだ。変更が必要なほど、切羽詰まった問題ではないので、書き換えないのである。 「エイリのお兄さんが、エイリの言っているようにへんなお兄さんであり、へんなお兄さんのようなタイプの人は、この世に存在する」と新しい考え方を、受け入れて、「今までの常識」を書き換えることは、あんまりいいことではないのである。彼らにとって、新しい考え方を受け入れる必然性があるのかというと、ないのである。なので、余計なことはしたくないので、エイリの「お兄さんの話」は信じないということになる。